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イ-ルドフランス パリ市内 4 図版博物館 vol.163 土地の記憶 87 Musée imaginaire philatélique Région Île de France au travers des timbres français Paris intra-muros 4e éd. 2013 【221-4-1 パリ 4 区 ノートルダム大聖堂】シテ島で最も多くの人が訪れるのは同島東側にあるノートルダ ム大聖堂 Cathédrale de Notre-Dame de Paris である。これまでに発行された切手のうち、ここ では 4 点を紹介する。凹版切手で落ちついた雰囲気を感じさせる のは次の付加金つきの切手である。YT-776 以前にも述べたが、 1947 年当時、フランスの代表的な大聖堂を選んで 5 点の切手を発行し たとき、それが人々にどれほどの安らぎを与えたことか。今は故 人となったある裁判官が私に直接に語ったことであるから、私は それを人に伝えることができる。いや、伝えた方がよい。 パリのノートルダム大聖堂は、 1163 年に着工され、1345 年 に完成を見たヨーロッパで最 も優れたゴシク様式の聖堂 建築物である。パリ大司教座教会。1862 年歴史的記念物指定、1991 年世界遺産登録。 大聖堂前の広場(ジャン・ポール 2 世広場)にフランス全土の測量の原標となる基点が埋設されている。 ©bibliotheca philatelica inamoto 1 その意味でパリの中心でありフランスの中心である。他所の大聖堂について記載した建築物の諸 元について。[外部] 奥行き 130m, 間口 48m, 塔の高さ 69m(尖塔は 96m)、ファサドの幅 43.5m、 同高さ 45m、[内部] 内陣の奥行き 38m、同幅 12m、身廊の奥行き 60m、同(屋根下の) 高さ 43m、身廊・内陣のヴォールトの高さ 33m、トランセプトの長さ 48m、同幅 14m。 ©bibliotheca philatelica inamoto 2 上は、ファサドの中央にある「最期の審判」を現わしたタンパンである。これを左右から 6 人づつ 聖人が囲むといういわば「定番」の構成であるが、いずれも彫像自体が一級品で、大聖堂の 目玉の 1 つとなっている。保存の状態は極めてよい。 すでにサント・シャペルの項で触れたように、郵政は 1964 年にノートルダム大聖堂 800 年記念と題した美術切手の 別枠で大聖堂の西側のロザスの聖母子像を取り上げた。 深い紺色とステンドグラス特有の赤がよく効いた素材でこ の選択は素晴らしかったと思う。大聖堂では北と南の ロザスが有名で写真集にもよく出ているが、西側は撮り にくいのか、私の手許にあるのはこのようなものだ。 聖母子像は物陰にいるらしく見つからない。外側から 見るとこれは凛々しいロザスだが、色なしであることは やむをえない。YT-1419 西側のファサドは小ぶりで、じ つにきめ細かく彫り込まれているようだ。 ©bibliotheca philatelica inamoto 3 残る 2 点はいずれも当世風の切手で、「ノートルダムを入れようか」という程度の選択で切手 にな った よう だ。1 つは、 1989 年の革命 200 年祭に便乗してパリ市も売り出そうというキャンペーン 切手「パリのプロムナード」の一齣で、デファン スの凱旋門から東に向かいエフェル塔、ルーヴル 美術館、ノートルダムをへてバスチーユの新オペラ 座まで行くというものだ。凹版で印刷をしたが特に味わいのある ものではない。YT-2582 もう 1 つは、「行って見たいフランス」第 2 シリーズに「ノートルダムも入れ ようか」という抱合わせ 販売の悪い 1 例である(参 照 ミディピレネ 5)。YT-3705 221-4-1 【221-4-2 ル・マレ地区】 パリ 3 区と 4 区にまたがるように、歴史的市街地として重要な地区が ある。伝統的に「ル・マレ」Le Marais と呼ばれてきた。街区で区切るなら、南はセーヌ河、北はブル ターニュ街、東はボォマルシェ大通り、西はボォブール街というこ とになるだろうか。もともとは沼沢地で 12 世紀ごろ からはタンプル騎士団などが入っていたようだが、17 世 紀にヴォジュ広場 place de Vosges を造成した際に一帯 の干拓で住宅地が開発され、貴族の館が立ち並ぶこと となる。しかし、1 世紀後にはフォブー ル・サントノレやフォブール・サンジェルマンなど新開 地への移動もあって、建物を残しな がら住人が変動するという結果が生 じた。新住民の中心は資金と技術を そなえた手工業者で、その下で働く 仲間職人や労働者がこの地区に流入 し、活況を呈するに至る。YT-4166 ©bibliotheca philatelica inamoto ヴォジュ広場に面するカルナヴァレ美術館(切手と同じ) 4 他方では、新たな都市計画事業からは取り残され、旧態のままで建造物の朽廃が進むと いう問題があり、戦後のパリ市街の modernisation の動きの中でル・マレ地区対策は緊急を要す る課題となった。1969 年にアンドレ・マルロォのイニシアチブのもとに「保全・再生」方針が決定され、 強力な宣伝活動によって観光客の呼び込みに成功した。また、国立ピカソ美術館の開設やポン ピドゥ・センター(次項)などの創造・発信型の諸活動とあいまって今日新しい町としてのイメージ が定着しつつある。221-4-2 ©bibliotheca philatelica inamoto 5 【221-4-3 ポンピドゥ・センター】 フランス郵政は 1977 年と 1997 年の 2 度に亘って「ジョルジュ・ポンピド ゥ国立美術文化センター」Le centre national d’art et de culture Georges-Pompidou に関する切手を 発行した。1977 年に同センターが発足したことを記念したもの YT-1922 と、その後 20 年間の 活動を顕彰するもの YT-3044 であった。国立の組織であるとはいえ、発足後 20 年で再度 記念切手を発行する例は少なく、このことは逆に同センターが果たしてきた役割に対する世論 の評価が極めて高いことを示すものであっ た。センター創設の具体的な動きは、ドゴールを 継いで 1969 年に大統領となったジョルジュ・ ポンピドゥが言い出した新美術館建設構想に 始まる。ボォブール街辺りに建てられないかと いうものであったが、同地区にはすでに大 型の図書館の建設案があった。ポンピドゥは 学者上がりだが調整術によって既往の政治 家を制御してきた人だけあって、両案の併合をきめた。1977 年に発足するまでの構想の展 開は興味深いがここでは省略する。結果として何ができたか。7500 ㎡ X8 層からなる、さ ながら装置産業の工場のような建物でおよそ美術館や図書館の静かで知的な雰囲気とは異 なった活動体であった。現代美術館のほか、公開の情報図書館(BPI),音響・音楽研究・協 働研究所(IRCAM)をはじめさまざまな創作活動団体 が公法人のセンターのもとで支援と調整を受けるという 具合である。センターの名称はポンピドゥの死後正式に決定 され、ジスカール・デスタン大統領が出席して開設のセレモニーが 行われた。221-4-3 【221-4-4 ヴェニスのカーニヴァル】 パリの街には毎年 4、5 月ごろヴェニスから来るカーニヴァルの一行を待 っている人たちがいる。ヴェニスのカーニヴァルといえば、11 世紀に起源を有するという大変古い 行事だ。毎年 12 月 26 日に始まり、「謝肉の火曜日」(マルディ・グラ)まで続く。いつごろ からか初夏になるとゴンドラ乗りや芸人たちがパリにやってきて、ヴェニスのカーニヴァルを披露する ©bibliotheca philatelica inamoto 6 ようになった。それは、もっぱら民間の、おそらくは同好の士の寄り集まりから始まった イニシアチブによるもので、パリでもヴェニスのカーニヴァルを楽し もうと言うことになった。ヴェニスのカーニヴァルは大変有名 だから御存知の方も多い。要は仮面を被った市民たち が、仮面を被ることによって匿名を維持し、仮面を被 ることによって名声を博するために、仮面の美や豪奢 さを競い合う伝統行事である。これが何時の間にか、 パリジャン、パリジエンヌの楽しみになった。徳島から高円 寺に阿波踊りの連がやってくるような生易しいこと ではない。フランス郵政は、1986 年にこの『パリ版ヴェニス のカーニヴァル』を全国版で ある切手で取り上げた が、それは、パリの楽し い行事を全国に紹介す るというよりもパリ、ヴ ェニス両都市の友好・平和・互恵の関係に寄与するものと考えた からだと思われる。YT-2395 さて、それがなぜ 4 区かといえば、この行事には仮面と衣 裳のほかに水面が要る。水のないヴェニスはありえないし、ゴン ドラが行き来しないカーニヴァルはない。しかし、セーヌ河は大きすぎ る。そこで行き交う船舶がそれほどない運河として選ばれたのがバスチーユ広場真下のアルスナル運 ©bibliotheca philatelica inamoto 7 河であった。この運河を境に 4 区と 12 区が接するのであって、4 区側はブルドン大通り bd. de Bourdon という。1968 年の切手を見ると仮装の男女がエフェル塔を埋め尽くさんばかりの勢い であるが、これはイメージであって、会場を描いたものではない。このようなお祭り騒ぎも時 代と共に廃れるのは世の常だが、受け入れ側の勝手連(たとえば ABM[Aventures au Bout du Monde](地球の果てでアヴァンチュール)は意気盛んで、2010 年も 4 月 10−11 日に開催され、250 人以上の「ヴェネチア奇族」たちが集まったようだ。極東発の「コスプレ」も顔色なし。221-4-4 ©bibliotheca philatelica inamoto 8