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ノルマンディ XI
図版博物館 vol.20
人の記憶 10
Musée imaginaire philatélique
Régions Normandie au travers des timbres français
4e éd. 2013
【2-11-1 アルチュール・オネゲル】
Althur Honegger
1892-1955
YT-2750
スイス人を両親とし
てルアーヴルに生まれる。生涯のほとんどをフランスで過ごしたという意
味でフランス人であるが、スイス政府は、彼がスイス国籍を有することから
当然にスイス人だとして、最も通用力のあるパスポートつまりスイス国立
銀行 20 フラン紙幣を発行した。ドイツ郵政はうっかりして間違えた
のではないだろうが、100 ペニヒ切手を発行している。そこでこれ
までとは趣向を変えて、フランスの 2.50+0.50 フラン切手にこの 2 点を
加えた 3 点をイラストとして使うこととした。
オネゲルの音楽教育は、母親からの手ほ
どきに始まる。その薦めでチューリヒ音楽院
に入るが、2 年後にパリのコンセルヴァトワール
に転じた。同窓のミヨ Darius Milhaud と
は生涯の友となる。ヴァイオリンを専攻した
が作曲に関心を抱いて同校も辞め、ストラヴィンスキに強く魅かれなが
らおよそあらゆるジャンルの曲作
りを手掛けたようである。技術
の進歩やスポーツの増進と結びつ
いた楽想の展開など新奇な試
みが少なくない(たとえば、交響的三楽章の 1 は蒸気機
関車 « Pacific 231 »に、2 はラグビーに捧げられた)。彼の
最初の成功作は「ダヴィデ王」(1921)で,のちにオラトリオに
編曲されたこの作品にはプロテスタントとしてのオネゲル独自の
宗教性が指摘されている。また、代表作として「アンチゴヌ」
(1926)を挙げることに異論は少
ないであろう。ただ、個人的で恐縮だが、私はポォル・クロデルの台本によった「火刑台上のジャ
ンヌダルク」
(1938)のほうが感動的である。小沢征爾がサイトウ記念で手掛けたときの演奏もよか
った。ドイツ支配下でもスイスには行かず、パリで作曲に没入していたらしい。戦後はアカデミー会
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1
員、レジョン・ドヌール(Grand Officier)
、パリ音楽師範学校教授など、名誉ある処遇を受けた。交
流のあった芸術家には、いわゆる「6 人組」(Auric, Durey, Milhaud, Poulenc, Tailleferre)は
もちろんとして、Paul Claudel, Jean Cocteau, Max Jacob, Pierre Louÿs, Pablo Picasso, Erik Satie,
Paul Valéry などがいる。2-11-1
【2-11-2 パイプ愛煙家】
つまらぬエピソードを一つ。オネゲルは大のパイプ愛用家で、物の言い方
に「……は彼のトレードマークであった」というのがあるとすれば「……」はパイプである。しか
し、死後 37 年の切手では制作の最終段階で「……」の部分が版面からカットされた(グラヴィア
原版にはあった)。4 年後の 1996 年、アンドレ・マルロォ(左)も同じ憂き目にあって愛用の品を取り
上げられ、見るからに寂しそうで
ある YT-3038。ところが同年の
メグレ警部の切手(中)YT-3029 では
堂々と手にしているではない
か。これはどういうわけだという
ことになるが、そこは推理してメグレ警部は架空の人物だから構わないのだと解釈した。そ
の上で、念のためレンヌの知人で「善意で暇なフィラテリスト」
(【ブルターニュ 5】参照)にメールを送ったと
ころ、事態はより深刻らしいことがわかった。回答[要約]にいわく:架空のメグレ警部を創
造した推理小説の大家ジョルジュ・シムノン Georges Simenon はその切手(上右) YT-2911 で大っぴ
らに特大のパイプを咥えている。したがって、(1)フランス郵政にはいつもなにか足りないところ
があってそのため混乱が生じ取り扱いに齟齬が生じた
(2)フランス郵政にはいつもなにか公
にできないところがあってそのために置かれている肝心の「取繕い掛」が今回はそっぽを
向いた、のいずれかの可能性があるが、忙しいので(これは嘘)年明けまで待って呉れ、
とのことであった。2-11-2
【2-11-3 アルベール・デュカリス】 Albert Ducaris
1901-88
セーヌ・マリチム県ソトヴィル・レ・ルゥアン
Sotteville-lès-Rouen に生まれ、パリのグラフィク高等学院であ
る Ecole Etienne と美術学校で学び、19 歳でロ-マ大賞を受
賞した。書籍の装丁、フレスコ壁画、大規模の銅版画、水彩
画などで知られるようになったが、1935 年から 50 年間
フランス郵政の凹版切手のデザインおよび彫版に従事し、フランス
本国切手 174 点のほか植民地切手を含めて 5∼600 点を作
成した。処女作は 1935 年のサン・トロフィム修道院(アルル)の中
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2
庭を描いた 2 フラン切手 YT-302 で、芸術性の高い作品である。デュカリスは、1943 年に美術アカデ
ミー会員に選出され、1960 にはその会長も務めた。「フランス海軍御用達画家」peintre officiel
de la Marine française の肩書もある。
デュカリスの最終作品は 1985 年の「凱旋
門 無名 戦士 埋葬 65 年記 念切 手 」
YT-2389 であった。古典調のよいデザ
インであるが、古臭いという評もあっ
た。2001 年にデュカリス生誕 100 年を記
念して下左の美術切手 YT-3435 が発
行された。制作にあたったのは中堅
彫 版 作 家 ク ロ ー ト ゙ ・ シ ゙ ュ ム レ Claude
自画像
YT-3435
記念美術切手
Jemelet である。
仕事中のドカリス
↓
最終作品
YT-2389
2-11-3
【2-11-4 ジャン・エリオン】 Jean Hélion
1904-87 YT-2343
オルヌ県クゥテルヌ出身の画家。青年期には工業デザインを志したが、やがて絵画へ。ピエ・モンドリアンの
影響を受けてこの道に入ったこともあって、1920 年代の作
品には幾何学的構成が多く、一般には抽象絵画で知られて
きたが、1930 年代以降は具象的な絵画が中心となる。輪郭
を強調した作品には、たとえば Jean
Arp と共通するような新しいものがあ
った。共産主義に傾倒してソヴィエトに行
き、幻滅して戻りアメリカへ。日常生活上
の事象を画題とした具象絵画を多く
描いたが、1940 年フランスに戻ったのち
官憲に拘束されてポーランドのシレジアに
送られ、42 年まで監獄船に投獄された。しかし、脱出に成功してフラン
スに辿りつき、その年の 10 月にはふたたびアメリカに渡った。2 度目のアメ
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3
リカでは 3 度目の妻として、大コレクターでやがてニューヨーク有数の美術館を実現するグッゲンハイム Peggy
Guggenheim の娘と結婚する「幸運」に浴し、経済的苦境から一気に脱した。1950 年代以
降の画風を見ると、具象の静物画の中に南瓜だとか、茶色の帽子であるとか、雨傘である
とか、どこにでもあるものを持ち込んでそれらに絵画としての主張を象徴するような役割
を課したり、さらにのちには、「モデルに踏みつけられる画家」と題した上の切手のように、
見る人の評価が大きく分かれるような、画家の心情の非常識な吐露とも見られる作品をあ
えて打ち出したりしたが、かつて 1930 年代に博した評価は過去のものでしかなかった。グ
ッゲンハイム令嬢とは 2 人の子をもうけて離婚、4 度目の妻を迎えたがやがて視力をなくし、画
家としての仕事ができないまま最晩年を過ごした。したい放題の芸術家人生であったが、
常に自分ではどうしようもない運命に先達されて、それを終えた。2-11-4
【2-11-5 クリスチァン・ディオール】 Christian Dior
1905-57 YT-941
マンシュ県グランヴィルの出身の世
界的なファションデザイナー。まず左の 30 フランの切手を見てほしい。パリ
のヴァンドーム広場の塔を背景に立つモデルの息を呑むような美しさ
である。1953 年に「オォト・クチュール」とのみ印刷され「夜会服のマヌカン
とヴァンドーム広場」というコピーを付して発売されたこの切手は、フラ
ンス人を魅了し 1953 年の切手芸術大賞に輝いた。
戦後最高の彫版家
というべきピエール・ガンドンの作品であることや、さらにこれがクリスチ
ァン・ディオールのコレクションであることを知る人はごく僅かであっただろ
う。モデルは誰であってもよく(つま
りミシェル・モルガンなどではなく)本当
の美人かどうかを詮索することも
なく、パリジャンを魅了したあの時代の傑作切手であった。も
とより人国記であるから、この架空の美女ではなくディオール自
身を正面に据えなければならないのだが、切手にはない。写
真はいくらでもありモデルに囲まれているのも悪くないが、結
局は Flamamarion から出版された『ディオール伝』の表紙を借り
ることとした。
生い立ちはベル・エポックそのもの。華やかなグランヴィルの町の
人気の石鹸「サンマルコ」印の旗がなびくそのオーナーの邸宅で生ま
れた。年に 1 度のケルメス(大定期市)で手相見の婆さんに「坊
ちゃんはご婦人の運勢がおよろしい。ご婦人のおかげで坊ち
ゃんは成功されるでしょう」« les femmes vous seront bénéfiques, et c’est par elles que vous
réussirez »といわれたその坊ちゃんがのちのファッションと香水の帝王である。坊ちゃんはパリへ
出て詩人のマクス・ジャコブやジャン・コクトォと楽しく Années follies を過ごしながらも、政治学院
(Ecole des Sciences politiques 現在のシアンスポ)に入学(どの入口からかは伝記にはない)し、
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1926 年に免状の 1 つも貰うことなく退学した。そして画廊を開き、ピカソ、マチス、ダリの作品
を売った。だが、大恐慌ですべては暗転する。母が死に、父親の石鹸会社は倒産し、坊ち
ゃんは結核になって画廊を継続できず、...。兵役から戻った彼は友人の援助を受けながら帽
子と夜会服のクロキーを描き、大新聞フィガロのイラスト版に口を見つけた。それがきっかけでクロキーを
ニナ・リチ Nina Ricci, バランシアガ Balenciaga, クロォド・サンシル Claude Saint-Cyr など先発デザイナーに買っ
てもらうようにもなったが、時局は次第に厳しくなり、再度の兵役から戻ったディオールは
Lucien Lelong の店に雇われる身となった。戦争が終わった 4 年後、
木綿王ブサク Marcel Boussac
に出会う。ディオールの才能を認めた彼は援助を申し出た。迷ったディオールはまたしても手相見
の婆さん(前とは違う婆さん)に相談したところ「お受けなさい、お受けなさい。クリスチァン・
ディオールの店を創らなければだめよ。はじめの条件が何であれですよ。
」ブサクは 6,000 万フラン
を投じ、モンテーニュ大通り 30 番に店をもたせた。かつては 1 着につき 3 メーター巾しか必要がなか
った夜会服は, ディオールとなると最高級生地で 20 メーターは要るのである。ブサクは成功した....。
さてと、手相見や伝記作家などは調子のよいものである。どう見ても「切手で見るノルマンディ」
とは遠くなったようで、よって今夜はこれまで、とする。2-11-5
【2-11-6 マクス・ポル・フゥシェ】
Max-Pol Fouchet
1913-1980 YT-2282
マンシュ県サン・ヴァースト・ラ・ウ
グ Saint Vaast la Hougue に生まれたが、父親が第 1 次大戦で毒ガ
スの被害を受け、その関係で転地した先のアルジェで青春時代をす
ごした。文学部の学生でアルベール・カミュと社会党青年部で一緒だった。
1939 年に月刊の文芸誌「フォンテーヌ」を創刊、アルジェの抵抗運動派の作
家がこれに集まった。占領下における知識人の抵抗運動の論壇の
1 つである。1942 年にはポォル・エリュアールの『自由』を刊行している。
解放後、諸国を巡り歩いたフゥシェは 1950 年代の初期のテレビ放送で
フランス人のための教養番組「みんなの読書」を制作、1964 年からの
10 年間はドキュメンタリー「芸術の地平」をフランス国営放送 ORTF に提供
した。他方、熱心な死刑廃止、拷問禁止論者であったためであろ
う、政治的圧力に屈した国営放送から締め出されてしまった、といわれる。小説,詩集、
旅行記などを続けるかたわら、1970 年代には書籍の通信販売会社「今月の良書」Le Grand
Livre du Mois の選書委員を務め、テレビの文化番組〈Apostorophes〉でソルジェニチンの『収容所列
島』Archipel du Goulag を取り上げたときは、著者に対して批判をぶつけるなど元気なとこ
ろを見せたが、1980 年死去。かつて「芸術の地平」での美術協力者 Edmond A. Lévy が 1990
年に『Max-Pol Fouchet
ある仕事の横顔』 (Ed Adès)を出して以来、日刊紙「リベラシオン」の
ジャーナリスト、美術史教授、考古学者、テレビ言論人...など多面にわたる彼の業績が再評価されて
いる。2-11-6
【2-11-7 ブゥルヴィル
こと
アンドレ・ランブゥル】
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André Raimbourg、dit Bourvil
1917-70
YT-2900
5
セーヌマリチムのプレト・ヴィクマール Prétot-Vicquemare に生まれる。以下、私の最も不得手とする世界なので、
どれほど正確かも棚上げにして《Wikipedia 日本語版》の記事をそのまま引用させていだだく。出生地に関
する部分は間違っているのでカットし、以下に転載し、併せて謝意を表する。
「芸名のブールヴィルは、少年時代をセーヌのブールヴィルで過ごしたところからとっ
ている。はじめは農業で生計を立てるが、その後パン屋を振り出しに様々な
職に就き、1937 年にパリで軍隊に入隊する。除隊後は芸能の世界に入り、ミュ
ージック・ホール、オペレッタ、ラジオなどでヴォードヴィリアンとして活躍、1945 年に映画デ
ビューした以後、フランスで最も人気のあるコメディアンのひとりとなった。1956 年の
"La ferme du pendu"でヴェネチア映画祭男優賞を受賞。1962 年の『史上最大の作
戦』の連合軍の侵攻に大喜びする市長役、1964 年の『大追跡』をはじめと
する一連のルイ・ド・フュネスとのコンビぶりや、シリアスな演技を見せた 1970 年の『仁
義』の刑事役が印象深い。しかしフランスの喜劇が日本人にあまりウケないという事もあり、出演作品の多い
わりには、その多くが日本では未公開のままである。1970 年にパリ郊外の病院で死去した。」2-11-7
【2-11-8 ロベール・ケレル】 Robert Keller
1889-1945
YT-1102
次の 2 人は抵抗運動の英雄である。ロベール・ケレルは、 セェヌ・マリチム県プ
チ・クヴィリ Petit-Quevilly 出身の郵政省技師で、1942 年から 5 カ月に
わたってノワジー・ル・グランの建物でパリ∼メス間のケーブルからパリとドイツ
間の電話を傍受する組織を作り、指導した。ケレルの頭文字をとっ
て<Source K>と呼ばれる。同志 Laurent Matheron や Pierre Guillou
とともに強制収容所で死亡。ケレルが勤めていたパリ 15 区の郵便局
がある通りは、rue de l’Ingénieur Robert Keller と彼の名を冠して
いる。右の切手は、レジスタンスの英雄第 1 シリーズの 1 点として 1957
年に発行された。2-11-8
【2-11-9 ジルベール・ヴェディ・メデリク】
1902-44
YT-1200
Gilbert Védy-Médéric
ジルベール・ヴェディはマンシュ県シェルブゥル出身の土
木技師。活動家としての通称はメデリクである。彼について述べる
十分な資料が手許にないので、<Revue des PTT de France, 1959,
N°2>のメデリクに関する記事からその要旨を転記する。
「対独休戦後(シェルブ-ルで)直ちに連絡網を作り数千の愛国者を脱
出させることに成功した。追われてパリに移り、フランス諸地方に多
くの組織を作った。メデリクに接した人はみな、彼の静かな迫力に
印象付けられた。その冷静さは、このようだ。家宅捜査を受けた
ときに、彼はピストルを取り出して新聞紙にくるみそれを家探しが
終わるまで片手に持って立っていた。何も見つからずに終わった。フランス本土の(抵抗運動の
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代表として)何度もロンドンにわたり、アルジェでは諮問議会のメンバーに選ばれた。1944 年にフランス
に戻った。3 月 21 日に印刷費と武器調達費のための大金が入った鞄を取りに行った際に、
金の密輸業者の一味と間違われて警察につかまり、拘束された。その身元を隠すことがで
きず、脱出もかなわないとみたメデリクは保持している重大な秘密を渡さないために自殺した。
(服毒の)直前、彼は監視人に « Vous allez voir comment un Français sait mourir. » (一人
のフランス人が死ぬことをいかに覚悟しているかわかるだろう)と言い放った。フランスはその最
も輝かしい戦士を失った。その想い出はすべての自由な人々の記憶に残るだろう。」
メデリクはパリのバチニョル Batignoles 墓地に埋葬されている。右の切手は、レジスタンスの英雄第 3 シ
リーズの 1 点として 1959 年に発行された。 2-11-9
【 2-11-10 ア ン リ ・ ヘ ゚ ケ 】 Henri Péquet
1888-1974
この人物は、セーヌ・マリチム県のブラクモン
Bracquemont の出身であるためノルマンディの部で取り上げる。先の 2 人と同様に抵抗運動に身
を呈し、妻と共に逮捕されてドイツの強制収容所に送られた。ケレルの知己ではないが年は僅か
に 1 年上であった。だが、彼は生還した。したがって、フランス郵政はペケを抵抗運動の英雄と
して取り上げたのではない。このことを断ったうえで、むしろ五十路を越えて対独抵抗運
動に参加した多数の市民を想起しながら、ペケとメデリクのあとに彼を並べることとした。
フランス郵政がペケを取り上げたのはいくつかの点で内部事情によるところがあったようだ。
1 つには、世界中で、航空郵便なるものを正式に搬送
したのはだれかと言うことを調べたところこの男で
あることがわかったため業界としての顕彰に値する
と考えたことである。もう 1 つは、今日国際便はもと
より国内便でも航空機で輸送するのが当たり前とな
り、かつてのようにその希少性と超速性を理由に特
別の料金を取りにくくなった。そのため、かつて特別視され使用後も珍重された「航空切
手」poste aérienne なるものの存在理由も薄れてしまった。だが、切手の種別として普通切
手、記念切手とははっきりと分けられてきたこの部門を廃止する
こともできず、今世紀に入ってからは年 1 点を発行するだけの遺
制的な扱いとなり、取り上げるテーマもこれまで通常の記念切手と
して数多く発行してきた飛行機乗りたちである。しかし、2011 年
はそれまでと異なった。アンリ・ペケが航空郵便を最初に運んだとい
うギネスブックなみの事実が確認された。これこそまさに「航空切手」
に打ってつけの題材である。アンリ・ペケは最初は気球操縦士であったが航空機製造会社モンヴォワ
ザン社に入社し、やがて操縦士となったところ、インドでの航空産業ショーに派遣され、そのショー
の期間中アラハバド∼ナイミ間 10km を 30 分で飛ぶデモンストレーションパイロットを務めることとなった。
会社の狙いは郵便物輸送と言う新しい部門の宣伝・開拓にあったようだ。その際、載せる
ものは本物の郵便物でなければならない。事実 6100 通の封書や葉書 15kg を積んで所定の
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コースを飛んだと言うだけのことであったが、それでも史上初となれば理屈となる。この飛行
から 100 年目の 2011 年、ペケの雄姿が切手を飾った。それも「航空切手」として。私にと
っては、第 1 次大戦、第 2 次大戦にともに参戦し、退役後抵抗運動に入ったこの男の勇気
の方を買いたい。それにふさわしい当時 23 歳の青年飛行士姿の写真が手に入ったので、こ
れは見てもらいたいものだと考えた。YT-A74
2-11-10
【2-11-11 ダニエル・バラヴォワヌ】 Daniel Balavoine 1952-1986
YT-4609 国家元首クラスの為政者を
除いて、生前はもとより本人の死後 50 年は切手にしないという不文律は今日ではかなり崩
れてきたことを認めなければならない。もっとも崩れ方にもルール
のようなものがあって、国民英雄的なスポーツ選手(スキーのキリーなど)
は生存中でも可とされ、芸能人は没後 10 年未満でも良しとされ
るようになった(それ以上経つと大半は忘れられてしまうからだ
ろう)。中でも早かったのがコレット・ルナールの没後翌年のケース(【イールド
フランス 3】 ただし享年 86 歳)だが、ここで取り上げるダニエル・バラヴ
ォワヌは、25 年での登場である。ノルマンディ地方南部のオルヌ県アランソンの
出身だが、少年期はポォで過ごし、そこのリセに馴染めず、バンド
を作ってヴォーカルを担当した。さまざまな機会を得ながらもレコード
は売れず、ポォ∼パリを行ったり来たり。ただ、後に「クリスタル」と
評された高音で精密な美声が知られるようになって人気を呼び、1978-79 年にかけてロック・オ
ペラ「スターマニア」のジョニィ・ロックフォール役で大当たりをとった。1980 年に初めてオランピア劇場で公演
し、やがてその地位を不動のものとした。私にとって懐かしいのは、当時南西部のドルドォニ
ュ県にあって調査のために農家を訪ねる車のラジオから彼の歌声を聞いたことだ。これは奇跡
だとすら感じられたが、マスコミではすでにクリスタルと言われていたらしい。持ち歌の過半は自ら
書いたもので、レコードの売り上げを伸ばし満を持してリサイタルを行うという当時のパターンがその
成功を支えた。しかし、いよいよこれからという時期に、彼はアフリカのマリ共和国で搭乗した
ヘリコプタが墜落し、同乗者全員と共に死亡した(享年 33 歳)。かれは、数年前からパリ―ダカー
ル自動車レースに参加していたが、単なるスポーツとしてで
はなく、アフリカの諸地域で灌漑用のポンプを寄贈し、技
術を普及させ、農業の振興を通じて社会の安定を図る
運動を率先して行うことと密接に結びついた「パリ―
ダカール」であった。1986 年 1 月の事故はレーサーとしてで
はなくアフリカ救援活動の親善大使として参加した際の
出来事であった。既に国民的なヒーローであったバルヴォワヌ
の死を惜しまぬ者はいなかったであろう。同年 4 月に
パリの OECD 本部を訪ねてたまたま話題が彼の死に及んだとき、応対をした女性職員は涙を
隠さなかった。彼の墓は、パリではなくポォに近いビアリツの墓地にある。2-11-11
©bibliotheca philatelica inamoto
8
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