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5 - フランスの切手

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5 - フランスの切手
アキテーヌ
図版博物館 vol.93
V
土地の記憶 46
Musée imaginaire philatélique
Région Aquitaine au travers des timbres français
4e éd. 2013
【15-5-1 ポォ】 アキテーヌ地域圏の南端でスペインと接するピレネザトランチク県の主邑ポォは、後に取り上
げるアンリ 4 世ゆかりの町である。ナヴァル公アンリ 3 世はポォ城 château de Pau で生まれ、のちに国
王アンリ 4 世となるまでここで過ごした。この城は、建築様式にも特徴がある見事な歴史遺産
である。フランス郵
政はこれまで、
この城を 2 度と
りあげた。
YT-449, 2195
左は、1939 年
に、ラングドク地方
の女性とベジエの大聖堂、リヨンのロォヌ河に架かるギヨチエール橋と組みあわせて発行されたポォ城の
切手で、フランスではきわめて例外的なことだが、青地の料紙に印刷された。下を流れるのは
ガヴ川で、城は川筋を見下ろす高台にある。ナヴァルがフランスと合体する以前からの中世の城で、
もともとは軍事城砦として建造された。杭を打ち込んだ防御柵 palissade de pieux をめぐらし
ていたことから、Béarn 語でポォを Pieux ということにかけてポォ城と呼ばれたという。12 世
紀にガストン・ド・ベアルン Gaston IV de Béarn がこの城砦に 3 本の塔を建て、14 世紀にはガストン・フ
ェビウス Gaston Phébus が煉瓦造のドンジョンを建造した。ところで、この地域を含めてナヴァル地
方といえばスペインに属する上ナヴァルとフランスに属する下ナヴァルに早くから分かれていたが、その
上で両地域間には対立・紛争が絶えず、フランスサイドでは王国に属するか、独立を保持するかは
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ヨーロッパ諸国とくにフランス、スペイン、オーストリア(神聖ローマ帝国)の関係如何によるところが大きかった。
多くの場合王家間の国際的な「結婚」を他の諸国が承認することによって当面の決着が図
られる。ポォは下ナヴァルの首府であったが、この場合も例外ではなかった。そして、「結婚」
が安定をもたらしたという点では例外的な成功であった。すでに、
「アキテーヌと切手 1」で触れ
たが、のちにアンリ4世についてまた述べるので、ここでは「結婚によってフランスの王位に就き
そのことの結果としてフランスとナヴァル公国が合一し、ナヴァル住民はこれを歓迎した」といって
おこう。
「結婚」によってナヴァルは幸せになったが、ナヴァルの王とその相手方にとって結婚は
幸せでなかった(後述)。はじめから別問題なのだからだ。
ポォ城は、以後フランス国王(正式名称はフランスおよびナヴァルの王)の別荘となり、大革命後,7
月王政下で再び国王の別荘に、また第 3 共和制下では大統領居館となったが利用されるこ
とは少なく、現在は国立美術館としてその膨大な財宝とともに一般に公開されている。
15-5-1
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【15-5-2 ビアリツの海】 ピレネゾリアンタル県は、海と山いずれも自然の資源が豊かである。切手に取
り上げられたのは少ないが、その中から海と山それぞれ 1 つを紹介しよう。
スペインとの国境にかけてバスク地方がひろがる。バス
ク人にとってフランス・スペインの国境は便宜的なものだが、
スペイン側の一部地域においてはバスクの独立を要求す
るアクティヴなグループがあって政治・治安上の問題とな
るが、フランス側では文化・民俗の面でのアイデンティティは主
張してもそれ以上の要求はない。バスク地方の中心都
市は人口 2 万 6 千人余のビアリツ Biarritz である。海岸
は自然の景勝にも恵まれているが、ここならではの目的は海水浴だ。語弊を恐れずに言え
ば比較的長期に海のバカンスを楽しめる時間的余裕はあるが、南フランスでゆっくりできるほどの
経済的余裕がない人たち向きだが、休養地として長い歴史があるため各種の観光インフラはよ
く整備されている。半分をスペインで半分をここでという楽しみ方もできる。YT-1903 15-5-2
長い海浜
カジノ「ベルヴュー」
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漁港
ロシア正教教会(ロシア人観光客のため)
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【15-5-3 アルトゥストのプチトラン】 ポォから南へ、すなわちピレネ山脈に向かって国道 134 号の 2 を
70km ほど走るとガバ Gabas 村に着く。そこから 2km 足
らずでアルトゥスト Artouste へ。ケーブルカーでサジェトのコル Col de la
Sagette まで登り、そこから登山鉄道プチトラン Petit Train
d’Artouste で終点アルトウスト湖 Lac d’Artouste まで 10km ほど
の行程である。1924 年に建設された工事用鉄道で水力発
電ダムをアルトウストに作るために敷設された。標高 1964m の湖
からの眺望は抜群で 3000m 級のピレネ連山は目の前である。下にはスゥスゥエウゥと読むのか変わ
った名 Sousouéou の川が遠く谷底を流れている。観光案内によれ
ば、6 月から 9 月まで運行している。運賃:7-8 月は 20 ユーロとのこ
と。なお、下のアルトゥストの町はスキ
場 と し て 知 ら れ た リ ソ ゙ ー ト 基 地 で あ る 。 YT-2816
ー
15-5-3
【15-5-4 ボナギルの山城】 アキテーヌ地域圏 5 県のうち残る 2 つは、ロテガロンヌ県とランド県であるが、
切手の発行という点では前者で 2 件、後者で 1 件のみ。ロテガロンヌ県のボナギル城の切手のみこ
こで取り上げ、それ以外は人国記編に譲る。
この城の所在地は、ロテガロンヌ
県でも東の端で隣のロト県との
境(従って旧州としてはペリゴー
ルとケルシィの境)にある。緯度と
しては大西洋岸のアルカションより
わずかに南であるが、その大西
洋から直線距離で 180km 以上
も隔てられた山の中で、コミュヌは
サンフロン・シュル・レマンス Saint Front sur
Lémence という人口 500 人弱
の村である。
この城について調べて行く
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と、どうも一筋縄ではいかないことがらがいくつもでてきた。凡庸な目でみると「ミスマッチ」
との第 1 は、サンフロン・シュル・レマンス村にありながら、この城の所有者は隣のフュメル市だ。同市の
公有財産なのである。最初の部分(ド
ンジョン)が造られたのは 13 世紀で初代
の城主はラ・トゥル・ド・フュメル Arnaud La
Tour de Fumel だという。城と言うよ
りも砦と言うべきか、ドンジョンの唯一
の入り口には 6m の梯子をかけて登
らなければならない、といった形状だ
った。100 年戦争の過程では英軍の陣
営に属し、戦火によって何度も大きな
被害を受けた。15 世紀末フュメル家の女
系 承 継 者 ヘ ゙ ラ ン シ ゙ ェ ・ ト ゙ ・ ロ ク フ ー ユ 男 爵 Béranger de
Roquefeuil が決意して全面的な増改築を断行した。し
かし、3 代目の代ともなると、経済的に困窮し、財物
は売却され、空き家で放置されるようになり、その後
代などもなすすべがなく、城は人手に渡り、転々とし
た。のちに、フュメル家の血筋を引くマルグリト・ド・フュメルに
よって買い取られたが、後継ぎの甥が革命によって亡
命し、城は没収され国有財産として売却された。フュメルの末裔はその後もう一度買い戻した
ものの、住まなければ愛着もなし、手放すことになった。いかにすべきか、隣の Fumel 市
では、フュメルに地縁をもつ一族が隣村に城を築いて 600 年、見捨てることはできない。され
ば買いとろうと言うことになった。サンフロン・シュル・レマンス村は人口で 10 倍以上(5400 人)の同
市に対抗すべき術なく、これを了とした。かくして、1860 年サンフロン村在・フュメル市有で土地所
有権の帰属が決まり、国は、フュメル市の異例の対応を評価したようで、1862 年にフランス歴史遺
産に登録した(この登録は一定の制限と援助
を伴うため所有権の行方が定まらぬうちは
先送りとなるようだ)
。YT-1871
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ミスマッチのその 2。この城はフランス最後の城塞
だと言われる。それは、軍事戦略ないし技
術の進歩によって城塞なるものが時代遅れ
になった時代に、それまでにない完璧・十
全な山城を建造したというアナクロニスムを別の
ことばで表現したものであるが、疑問はそ
れだけでない。仮に建造に着手した 13 世紀
に戻ってもこの場所に立地する理由が見当
上掲左の概略図では、下の方角から見たところ
たらないのである。まず築城して守るべき
町が存在しない。川の合流点にあるがいず
れの川も水運には全く適しない渓流だ。道
路はあるが商業的観点からは意味をもたず、
軍事的にも、城を攻めに来る場合は別とし
て、城下を通る軍隊は考えにくい。つまり、
始めから不要だったのである。とはいえ、
城には威勢を示す役割もあるのではないか。
この点も疑問で、すでに 16 世紀はロワールの城
のように平地で河沿いの地に華美を競う貴
族の館を作ることが威勢の発現であった時代で、ボナギル城はなんらそのような要素をもっ
ていない。となれば、残るのは殿様の好みか趣味の話で、それならば 6m の梯子をかけな
ければ城主も出入りできないドンジョンとか、16 世紀にして中世の完璧な城塞とかも理解でき
るのではないか。ここでは完璧=時代遅れということに他ならないが、その一例を示して
終わることにしよう。城攻めで城壁を打ち破るための大砲は 15 世紀までは城壁から
50-100m の範囲に据えられた。100m より遠いと弾が届かず、50m より近いと城内からの
攻撃で砲兵も動けない。そこでボナギル城の仕上げとして城壁外に 350m にわたる幕壁
courtine 付きの塁道 braie(写真)を設けた。しかし、完成時には大砲の性能が飛躍的に向上
してこのような防御策はすでに役立たずとなっていた。15-5-4
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