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1608 - フランスの切手

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1608 - フランスの切手
ミディ-ピレネ
図版博物館 vol.105
VIII
人の記憶 54
Musée imaginaire philatélique
Région Midi-Pyrénées au travers des timbres français
4e éd. 2013
【16-8-1 ジャン・フランソワ・シャンポリオン】 Jean-François Champollion
1790-1832
先に碑文学者ジュリアン・サカズについて注記したが、1 世紀以上も前の碑文学の神様シャンポリオ
ンについて書くのが後になってしまった。ロゼッタ石に刻まれたエジプト文字ヒエログリフを解読した
シャンポリオンは、ミディピレネ地方に属するロト県フィジャク Figeac の出身である。
先に切手を見よう。横型大版のこの切手は, 1972 年にヒエログリ
フ解読 150 年
を記念して発
行された。
YT-1734 も う
1 つの切手
YT-3256 は, フ
ィジャクの観光
切 手 で 1999
年に発行されたものだが、よく調べてみると、解読 150 年を
過ぎて生誕 200 年を 1990 年に迎えるにあたり、これを目に見える観光資源としようとい
うことになった。諸案あった中で、中世からのイメージのある街中にロゼッタ石を拡大して据え
置き、それを一段高い庭園から見
ようというものが採用された。ア
ーチストはいわゆるコンセプチュアルアートで
売り出したアメリカのジョセフ・コスース
Joseph Kosuth で、もともと高さ
112cm 幅 76cm しかないロゼッタ石
を百倍以上の 14mx7m に拡大し
ようという。そのような石自体滅
多にあるものではなく、やむなく
ジンバブエに発注して巨大な御影
石を入手したらしい。なお、この
©bibliotheca philatelica inamoto
1
モニュメントとは別に、フィジャクには充実したシャンポリオン博物館がある。1986 年の開館記念式典には
ミテラン大統領も来て演説をした。その後拡張されて 2007 年にリニューアル・オープンしたとのこと。
さて、肝心のロゼッタ石であるが、3 段になっていて上段がヒエログ
リフ、中段が紀元前 7 世紀ご
ろからのデモティク文字、下段
がギリシャ文字である。内容
は、プトレマイオス 5 世を讃え、
皇帝に礼拝する儀法など
を記したもの。現物は大英
博物館にある。
順序が逆になったが、シャ
ンポリオンはフィジャクに生まれた。父親まではイゼール県の生まれだが、政治的理由でいられなくな
り、いとこの縁でフィジャクに住みついたようだ。職業も正確には判らない。リュウマチの母親を治
療したある農民があなたは 48 歳で子供を産むと予言したところ予言通り生まれたのがジャ
ン・フランソワだというだけのことだが、生まれについて特に知ることがないので書きとめておく。
彼の生活を支えたのは長兄で算数と書取りが不得意のジャン・フランソワに手をとって教えたのも
彼であった。その兄がグルノーブルに移ったので、シャンポリオンも後を追って 1802 年にグルノーブル
へ行った。ただ、その教育には兄の手に余るところがあったのであろう、教育熱心なデュセー
ル司祭に引き受けてもらったのが幸運で、いやいやながらもラテン語、ギリシャ語からヘブライ語、
加えてアラブ語、シリア語の初歩まで教え込まれるうちに、学問に目覚めてきたようだ。
彼は、奨学金を得てグルノーブルの帝立リセで学び、エジプトに強い興味をもってさらに勉強す
るため 1807 年にパリに出かけた。彼はそこで、碑文などの蒐集家でもあったドテルサン司祭か
ら、ロゼッタ石の拓本を見せられたのであった。1809 年 7 月、18 歳でグルノーブル大学の歴史学
の助教授に任じられ、以
後、そこでの職責を果たし
ながらパピルス文書など
膨 大な 資料 の解読 を続け
た。数年後、王政の復活
で すべ てが 閉塞状 態に落
ち込もうとしていたと
き、ナポレオンがエルバ島から戻
ってきた。そのときは、
本当に嬉しかったようだ。
自ら編集に加わってい
た「イゼール年報」に「ナポレオン
はわれわれの唯一の正
当な君主だ」と書いた。こ
のことを 100 日天下後の
官憲は見逃さなかった。彼
はやむなく大学を去っ
てフィジャクに帰ったが、復帰
を望む同僚に支えられ
て 1 年半後再びグルノーブルに
戻ることができた。そし
て、結婚した。
ロゼッタ石のヒエログリフの
解読は既に 10 年も前から
手掛けていたが、本格的に取り組んだのは大学に助教授として復帰してからであった。古
©bibliotheca philatelica inamoto
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文字学において重要なのはリガチュルつまり文字の連結の仕方から手掛かりをつかむことだが、
彼は、すでにその方法でヒエログリフは象形的で象徴的で音声的な言語であること、母音を欠く
こと、そしてミイラとともに発見されるパピルス(「死者の書」と後に呼ばれる)の分析から
《hiératique》
《démotique》と呼ばれる(先掲 2 段目の)文字がヒエログリフの簡略体であることに
気づいていた。1821 年以降、ロゼッタ石に刻まれたプトレマイオス 5 世の、またオベリスクやパピルスに記
されたクレオパトラのカルトゥシュ(ヒエログリフのうち王名などを記した部分の囲み枠)を解読し、それ
らの成果を 1824 年に『古代エジプトの象形文字体系』Précis du système hiéroglyphique des
anciens Egyptiens まとめた。賛否両論があったが、当時の学界はかなり批判的であったよう
だ。恩師シルヴェストル・ド・サシィ Sylvestre de Sacy をはじめ、15 世紀に発見されたホラポロの『ヒュエログ
リュピカ』(ヒエログリフの注釈書のギリシャ語訳の写本)を金科玉
条としていた学者たちにはシャンポリオンの方法や理論は理
解できなかったようだ。シャンポリオンはこの業績によって
1826 年にルーヴル美術館エジプト関係収蔵品保存官に任命
された。その精力的な説得によって動かされた国王シャル
ル 10 世とその政府は野晒しになっていたルクソールのオベリス
クをパリのど真ん中に据えた。コンコルド広場である。この
偉大な戦利品の傍を通るたびに、エジプトに返還される
日はいつ来るのだろうと考えるのだが。
エジプトに行ったことがなかったシャンポリオンは、1828-30
年に科学調査団の一員として出かけた。その成果は大
ペールラシェーズのシャンポリオンの墓石
したものであったようだ。彼
自身も文学・碑文学アカデミーの会員に選出され、1831 年にはコレージュ・ド・フランスのエジプト学講座
に任じられた。しかし、極度の集中に疲れたのであろう、翌年 3 月その生涯を閉じること
となる。まだ、41 歳の若さであった。16-8-1
次は、医者である。ミデイピレネの切手には医者が 3 人も登場する。それも、1740-60 年代に
生まれた人ばかりだ。それぞれ、要記するに止める。
【16-8-2 アントワヌ・ポルテル】
Antoine Portel
1742-1832 YT-1699
タルン県ガイヤク Gaillac で薬剤
師の家に生まれ、アルビとトゥルーズで医学を修めた。1765 年にモンプリエ大学で博士号をとり、同大学
で解剖学を講じた。24 歳でパリに移り、ベルニ枢機卿
から国王侍医団に紹介されて皇太子に解剖学を進
講する個人教師となった。旧制下ではこのようなコ
ネクションが力を持つ。1969 年には若くして科学アカデミー
の会員となり、コレージュ・ド・フランスの前身である
Collège royal で解剖学の講座に任用された。『解剖
学および外科学の歴史』を出版したのもこのころで
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3
あった。ビュフォン(【ブルゴーニュ 5】)の引きで王立庭園の解剖学教授となったことが機縁になって侍
医としても王家に出入りしていたが、革命期においても、国立自然史博物館の人体解剖学講座
に充てられるなど要職に就いた。さらに王政復古下では、ルイ 18 世、シャルル 10 世の愛顧をうけ、1820
年にはフランスの医師・解剖医のエリートを総結集させるという名目で医学アカデミ-の創設に尽くしてい
る。フランス郵政が切手を発行したのは、この医学アカデミー創立 150 年を記念してであってポルタル個人
のためではないが、創立の功績者として名誉会長となったポルタルが切手を飾る人物となったこと
は順当であろう。
彼は、旧制、革命期、帝政期、王政復古期、7 月王政のすべてにおいて勲
章を貰った稀有の人である。1803 年に刊行した『解剖医学』全 5 巻のほか
多数の著作があるが、重要な発見は何もしなかったと評されている。
《maladie de l’homme de pierre》邦語では常染色体第二染色体優性対立
遺伝子に起因する進行性骨化性線維異形成症で死亡した。享年 90 歳。
16-8-2
【16-8-3 ジャン・ドミニク・ド・ラレイ】 Le baron Jean-Dominique Larrey 1766-1842 YT-1434
オォト・ピレネ県ボーデアン Beaudéan 出身の軍医で、「緊急医学
の父」といわれる。ナポレオンの大帝国陸軍 Grande Armée
(1805-1815)の軍医総監としてそのすべての戦場に随伴した。負傷兵に対する野戦外科手
術の方法を確立したすぐれた外科医であった。原則
負傷の現場に一刻も早く移動外科手
術班が赴き執刀すること。しかし、この当然のことを徹底させることはいつの世において
も至難事であるようだ。13 歳で孤児となり、育ててくれた伯父がトゥルーズ病院の外科部長で
陸軍病院の創設者であった。伯父のもとで 6 年の見習医をしたのちパリへ移ってヴァルドグラス
病院外科部長について学んだ。野戦では麻酔なしで手足の切断をせざるを得ない。彼はこ
の面でも「名医」であって、1 日に 700 回の切断手術をした記録がある。現場手術は安全
か?彼はなぜ「名医」か?なぜ軍医が赤十字の付加金付き切手に登場するのか?考えてほし
い。野戦での患者は彼我双方の負傷兵であることがすべてを説明する。敵は自軍の将兵が
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手術を受けている場所を絶対に襲わないので安全である。ラレイは敵味方だけでなく、人種や
軍の階級を一切考慮せずに必要な処置を行う。だから名医である。まさに赤十字の精神そ
のものだ。
彼は外科医として、蛆虫療法を重用し大きな成果を挙げたことでも知られる。傷口に蛆
が湧いてはお終いだと言ってはいけない。これは古来知られた療法で、傷口で次々と死ん
でいく肉(壊疽という)のみを蛆は選んで食べ、他方、明日の食料となる「生きている肉」
は抗菌作用を施して保存する。ただし、2 つ条件が
ある。1 つは無菌培養された蛆であること、もう 1
つはできたらヒロズキンバエの蛆を使う(効率がよい)
こ と 。 フ ラ ン ス の 医 学 用 語 で asticothérapie ま たは
larvothérapie というが、流石のロベール大辞典にも出
ていない。英語では端的に「マゴットセラピー」という。
マゴットが蛆虫だということは子供でも知っている。
アメリカでは 2004 年に食品医薬品局 FDA が医療用蛆
壊疽を食べて患部をキレイにしている元気な蛆虫
を医療用機器として認可していることが判った。
16-8-3
【16-8-4 フィリプ・ピネル】 Philippe Pinel 1745-1826
YT-1142 タルン県ジョンキエール出身の精神科
医。パリのビセートル病院 Bicêtre*1 を中心に精神病者の人
道的な治療つまり心理学を基礎にした精神理学的療
法 traitement moral を確立してそれまでの精神病医
学を根底から覆した医学者として世界中に名を知ら
れている。
*1 1633 年にルイ 13 世の命によってパリの南端の城塞跡に建てられた
病院。当時その城塞の所有者がイギリスのウィンチェスター大司教であって、
Winchester の発音ができないパリ人が訛って Bicêtre と呼んだのが地名
の始まりである。同病院はその後牢獄と精神病者の強制収容施設とな
り、ギロチンの試験施設にもなった。ピネルの時代には精神病院に戻って
いたが、処置方法は旧態依然であったようだ。現在ではパリ 13 大学(南
大学)の病院センターとなっている。メトロ 7 号線で Porte d’Italie から 3 つ目。
象徴的な
絵があるので掲げよう。ビセートル病院
からサルペトリ
エール病院 Salpêtrière に移った後のこ
とだが、精
神異常の女性患者を拘束する鎖を
外させてい
るピネルを描いたものである(R.フルリ
画)。
トゥルーズ大学で神学を学んだ後医
学部に入り
なおして学位をとり、モンプリエ大学で
臨床医とな
る。専門は骨格・関節に関する形成
外科学であ
ったが、偶然の機会(知人の急性精神病)から精神病理学に転向し、精神病者の強制措置
施設ないし閉鎖病棟であったビセートルに移って 30 年近くを入院患者と向き合って過ごした。
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革命下の 1792 年に閉鎖病棟の開放を主張して実現させ、移籍先のサルペトリエール病院でも翌年
に開放をさせている。旧制下において反体制派を精神病棟に隔離することは日常のことで
あったから、革命下での開放は当然のことであったかもしれ
ビセートルの病棟から精神病者を開放す
るピネル (パリのボナパルト通りにある医学アカデミー正面ホールの絵画から)
ない。ピネルはこの待遇改善をきっかけとして人道的治療のための数々の改革を行い、そ
れを精神病理学の基礎
理論にまで高めた。そ
の意味で「近代精神医
学の父」たることを誰
もが認めるに至った。
ただ、その精神と方法
が徹底するまでに多く
の障害や抵抗があり、
現在でも入院患者の人
権問題が問われること
無しとしないことは確かだがここでは省略する。
1795 年には新しくできたパリ大学医学部の教授、
1804 年には科学アカデミー会員となる。
閑話休題。世界でもっとも有名な《コキーユ》(貝
殻、転じて誤植)の話。ピネルは自著の校正刷りに手を入れていた。欄外に《Il faut guillemeter tous
les alinéas 》
(これらの項 alinéas すべてを “”で囲め guillemeter)と記入した。植字工は組直し
の際にうっかりして《Il faut guillotiner tous les aliénés 》(すべての精神病者 aliénés をギロチンにか
けよ guillotiner)としてしまった。植字工は勉強家で組原稿を読んで知識を得ようとしてい
たらしいが、その心掛けが裏目に出たらしい。上記のようにビセートルの牢獄では(生きた羊
や行き倒れの屍体を使って)ギロチンのテストが繰り返されていたことや、1815-1818 の 3 年間の
年平均執行件数が囚人 100 人に対して 5.33 人であったことが知られていたため、この精神
病者の守護神にとっては最悪の誤植であったようだ。16-8-4
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【16-8-5 アリスチド・ベルジェス】 Aristide Bergès
1833-1904
YT-1707
アリエージュ県ロル・サンタラーユ
Lorp-Sentaraille で生まれる。
「アルプス全体で五百万馬力」というベルジェスの言葉は有名だ。1889
年のパリ万博での彼の演説が人々を魅了した。
「山の氷河は動力にして用いると地域や国にとって地底の石炭と同様に貴重な富となる。
氷河をこのようにして取り出せる数千馬力の源だと考え、その重要な働きに思いを致せば、
氷河はもはや単なる氷河ではない。それ
はそこで汲み上げる白い石炭の鉱脈だ。
黒い石炭よりもどんなに具合がよいこと
か。」
ベルジェスは製紙業者の息子であり、彼自
身もルイ・ニコル・ロベールの製紙機をフランスに導
入した製紙業者であった。パリの中央技芸
学校を卒業した年にオォト・ガロンヌ県マゼール
Mazères で水力による材木の削り機の原
型をこしらえている。その後、鋼材など
原料の改良によって様々な用途の水力ター
ビン(伝動機)を製造することに成功し、
強力な水力を利用したパルプ製造用の砕
木機を開発
した。
このような水力利用に新天地を開いたベルジェスは、砕木機の
特許をとってイゼール県に移り、大規模なパルプ製造工場を建設し
た。選んだ場所は瀞をなす景勝の地で強力な水力を得られない
ところであったが、逆にそのハンディキャプを克服するための導水
方式を生み出し、200m の落差で 500 馬力の出力に成功した。
1882 年には 480m の落差で 1200 馬力を取り出すまでに至った。
天然のエネルギーから有用な社会的な富を生み出そうという彼の
思想は、後の時代に水力を発電用に利用するより大きなシステムと
して人々に共有され、まさに白い石炭として定着したのであった。
しかし、晩年のベルジェスは、不幸であったようだ。河川の沿岸の所有者から提起された様々
な訴訟が彼を苦しめたからである。1904 年、その疲れから病を得て死去、トゥルーズのテル・カバ
ード墓地に埋葬された。16-8-5
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