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ÿþM icrosoft W ord - 0 8 0 2 lorraine
ロレーヌ
図版博物館 vol.46
II
土地の記憶 21
Musée imaginaire philatélique
Région Lorraine au travers des timbres français
4e éd. 2013
【8-2-1 ムーズ河】 YT-842A ロレーヌ地域圏のうち西端つまりパリに近いところがムーズ県である。
ムーズとはもともと河の名前でその川辺の景色はフランス
人のお気に入りである。フランス郵政は戦後すぐの 1946
年から《Monuments et sites》(記念物と景勝地)と銘
打ったシリーズ切手を毎年発行して好評を得たが、1949
年には 4 点のうちの 1 つにムーズ河を取り上げた
YT-842A。 ただし、景勝地として描かれたのはムーズ
県下ではなく下流のシャンパーニュ地方アルデンヌ県下の景観
であったが、
アルデンヌ県の切
手としては紹
介せず、ここ
で近年の超横
長観光切手
YT-2466 と合
せて取りあげることとした。ムーズ河はオォト・
マルヌ県ラングル高原に発してムーズ県を南から
北へ縦断しアルデンヌ県北部からベルギーに入
り、さらにオランダを北上してライン河川系と合
体し北海へ注ぐ。景観としての特徴は主と
してムーズ県下における河岸丘陵 côtes とアル
デンヌ県下における湾曲蛇行 boucle である。
上掲切手の蛇行地点は明らかでないが、最
も典型的な湾曲蛇行は左の写真のモンテルメ
Montermé であろう。8-2-1
【8-2-2 ヴェルダン条約】
ムーズ県は歴史的にみても重要な事件があったところである。はじ
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1
めに 843 年のヴェルダン条約について。シャルルマーニュ大帝
が死去したのち、王
位を継いだルイ敬虔王
は、その 3 人の子の
間の領土分割に関す
る争いを解決するこ
となく死亡した。こ
の領土の承継問題について、ヴェルダン条約は領土を 3 分して
シャルル・ド・ショーヴ Charles le Chauve に西部(フランス)を、ルイ・ル・ジ
シャルルマーニュとその子ルイ
ェルマニク Louis le Germanique に東部(ドイツ)を、単独相続を主張して
全土を独り占めした長子ロテール 1 世 Lothaire には中間部
(緑色)を承継させるものとした YT-2208。 841 年
の Fontenoy-en-Puisaye の戦い(死者 4 万人とされる)
で弟 2 人が連合してロテールを破った上、842 年の「ストラ
スブールの誓約」で団結を強化することを誓ったことな
どからその後の戦況は全面的に後者に有利となった。
ヴェルダン条約はロテールがその結果を認め、東西両部分の
割譲に応じて和平を実現した歴史的な出来事であっ
た。なぜ歴史的か。その後の
3 分割後のヨーロッパ
ヨーロッパの東西(独仏)区分がこれによって基本的に決定されたからである。神聖ローマ帝国と
して強大化した東部はやがて中間部を支配下に収めたが、イタリアを含めてその支配地の細分
(承継)と再編(戦争)は 18 世紀まで続くこととなるのである。余談だが、今日のベルギにおけるワロンとフラマンの言語問題はヴェルダン条約による分割の結果である。このような南北に
長い(とくに中間部は現アーヘンからローマまで。当時はこの間の移動に 3 週間を要した)縦割り
分割は、食料・農業問題を最優先に考慮した結果であった。8-2-2
【8-2-3 第 1 次大戦】
ムーズ県にかかわる第 2 の歴史的重要事件はほかでもなく第 1 次大戦で
ある。仏独間における大戦の主戦場はヴェルダンであった。1916 年 2 月 21 日から 12 月 16 日ま
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2
での 10 ヶ月間にヴェルダンの要塞および諸陣地の攻防だけで仏軍 16 万 3 千、独軍 14 万 3 千人
の死者を出した。
独軍参謀総長フォ
ン・ファルケンハイン von
Falkenhayn は、彼
我の犠牲を 2:1
と想定してヴェル
ダンに砲火を集中
し、この彼我の差
から仏軍を消耗
させ、「失血させて」降伏を強いるという作戦を
現在でも残る砲撃跡
立てた。しかし、この作戦計画自体、攻撃側にも同程度の損耗をもたらし、当初は相次い
で陥落させたフランス軍要塞も再び奪還され、軍事的成果の一切を失ってしまった。7 月から 9
月にかけてドイツ軍はソム県におけるイギリス軍の攻勢に同一軍団で対応せざるを得なかったこ
と、一方フランス軍はローテーションで 7 割程度の兵員をヴェルダンに送ったにとどまったことが、ドイツ
軍の敗因であったと言われる。ヴェルダンの勝利は、開戦初期にフランス軍総司令官であったペタン
の偉業とされるが、事実としては中盤における反撃やドゥオゥモン要塞の奪還などは後任のニヴェ
ル将軍 Robert Georges Nivelle の戦功であった。しかし、すでに[ノォル・パドカレ 6]で見たように、
1917 年以降の膠着状態によって厭戦気分が蔓延しニヴェル将軍への怨嗟の声が高まったこと
から、ヴェルダンの英雄はペタン元帥ただ 1 人となったのである。ドイツはなせ負けたか。ドイツ側
の総括は、明快であった。自動車隊の軽視・不備である。教訓か、夢の続きか。20 年後、
ドイツは世界最強の機甲化部隊を備えたのに対して、フランスは 1916 年の勝利を忘れずペタン信奉
を強めてマジノ線に固執した(とくにペタンの連続要塞線論)。発想の原点は、それぞれのヴェル
ダンにあったのである。1917 年のヴェルダン
さて、ヴェルダン戦勝記念切手であるが、
23 年目、40 年目、50 年目、60 年目、
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3
90 年目と 5 次にわたって発行された。
まず、1939 年の切手 YT-445 は、ヴェルダン勝利 23
年として発行されたものであるが、記念年は 20 年か 25 年であるのが通常であるから 23
年目にこの切手が発行された背景には特別の事情があるものとみられる。当面は推測の域
としておきたいが、対独開戦のこの年がヴェルダンの勝利
23 年であることを喚起したものと考えられる。戦勝の英
雄ペタンが議会諸勢力や世論との関係であらためて注目
を集めだした年に他ならない。図柄は戦場ではなく、ヴ
ェルダン市の正門にあたる車馬門 Porte Chaussée である。左
の写真は橋の向かい側からみた同門である。
40 年記念切手の
図柄は塹壕のフランス軍
兵士 YT-1053 で、前
頁上左の塹壕の写真
と比べてほしい。50
年記念切手には、行
進する兵士の後ろに
車馬門が描かれてい
る YT-1484。60 年記
念切手 YT-1883 は、
ムーズ県の主邑バル・ル・デュクからヴェルダンへの道で「聖なる道」Voie sacrée という。ヴェルダンへ
の兵士、糧食、武器を運送した自動車隊(先述)の映像があるので添えておこう。8-2-3
【8-2-4 ドゥオゥモン】
YT-3881
90 年記念切手は、1932 年 8 月に完成したドゥオゥモンの納骨堂と共
同墓地を改めて切手にしたというべきもので、単なる周年切手とは趣を異にする。ドゥオゥモン
の納骨堂は全長 137m の横長の建築物で、その内部には 46 の墓と 14m 3 の巨大な納骨棺(ヴ
ェルダンの攻防で死んだフランスとドイツの無名兵士 13 万人の遺骨を収納)と博物館(ドイツ軍の 77 ミ
リ砲など)が置かれている。共同墓地は納骨堂を取り囲む形で野外に設けられ、14 万 4 千 m2
の敷地に 1 万 5 千の墓標が(勝者フランス兵は白、
敗者ドイ
ツ兵は黒
という
色分け
で)建立
された。
ところ
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4
で、この切手が 2006 年に発行されたのはやや政治がらみであった。時の大統領ジャク・シラク
がイスラム系兵士の記念碑を建てるというパフォーマンスを行ったことと関係があるからだ。しかし、
その後任として大統領に当選したサルコジのほうが 1 枚上であった。フランス大統領としてはじめ
て、ヴェルダン戦勝記念日の行事をこの地で自らの
出席のもとに挙行したからである。
納骨堂の形にはいろいろな見方があるようだ。
多数説は十字の柄をもった刀をその柄まで大地
に深く刺した姿だという。異説は大砲の砲弾だ、
という。この塔は実際には戦場を照らす灯台と
して、また勝利の鐘楼として設計されている。
ヴェルダンについて発行された切手はすべて第
1 次大戦の戦勝に因んだもので、現在のヴェルダン市を紹介するものはない。写真をもって代
えよう。車馬門が中央に見える。ムーズ河が市内を静かに流れている。8-2-4
【8-2-5 ヴォクルールとジャンヌダルク】
YT-921
ムーズ県の地方都市に係わる切手が 4 点ある。紹介し
よう。まずヴォクルールの
町の「フランス門」Porte de
France が 1952 年に切
手になった。城の門と
町の門の双方を兼ね
たもので、13 世紀に建
造された。この町を一
躍有名にしたのは[ノル
マンディ 2]で述べたよ
うに、ジャンヌダルクがそ
の一隊を率いてこの門から出陣したという史実
である。出発の日である 2 月 23 日には毎年ジャン
ヌダルクを讃えて中世風の祭りが行われている。上
の写真は、「フランス門」の現況である。背後の「城の
礼拝堂」Chapelle castrale は 1923 年建立。右は、
この「フランス門」からジャンヌダルクが出陣して 500 年
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5
を迎えたことを記念した設けられた碑文である。8-2-5
【8-2-6 サン・ミエル】 YT-2553 第 2 は、ルネッサンス期の彫刻家リジエ・リシエ Ligier Richier が出身地のサン・
ミエル Saint Mihiel の町に遺した墓所群像の作品である。サン・ミエルはバル・ル・デュクとヴェルダンの間に
ある小都市だが、第 2 次大戦ではアメリカ軍が
最初に戦った町として知られている。町の教会の 1 つサンテチエンヌにこの大理石塑像群がある。
8-2-6
【8-2-7 ストネィ】 YT-2954 第 3 は、モルトの倉庫を画材とした 1995
年の切手である。ムーズ県
は葡萄酒よりもビールの生
産地でとくにスト ネィの町
(【ロレーヌ 1】で取り上げ
た)のあたりはビール用の
大麦畑が延々と広がり、
その貯蔵庫はこの地域の
風物詩である。なお、ドイツビールともベルギービールとも違うフランスビ
ールの 2 大産地はムーズとアルザスであり、互いに対抗意識があるよ
うだ。この小さい町に「ヨーロッパ・ビール博物館」を建てたのもそ
のような誇りの表れか。 右はストネィ町役場の写真である。8-2-7
【8-2-8 リュトォノナン】
YT-2892 最後は、リュトォノナン Rupt-aux-Nonains という名の町で、ムーズ河に
かかるリュトォノナン橋を描いた観光切手である。ここでは少し趣向を変えて、地理・地名論を少々。
まず地名の Rupt-aux-Nonains であるが、原義は「尼の橋」だ。女子修道院のために認めら
れた封建時代の特権で、尼さんには橋を架けて通行税を取ることが許されたことによる。
その橋の名をコミューヌの名としただけのことだ。しかし、切手の券面には Meuse. Pays de la Saulx
とのみあって町の名はない。地理の勉強と考えてインターネットで《Pays de Saulx》を検索したと
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こ ろ 、 17 の コ ミ ュ ー ヌ が 結 成 し た 《 Communauté de
Communes du Pays de Saulx》(ソォ地方市町村共同体
オォト・ソーヌ県)が出たが、これは別の地域だ。そこで今
度は券面通り《Pays de la Saulx》と《la》を入れて検
索した結果、18 のコミューヌが結成した《Communauté de
communes des Pays de la Saulx et du Perthois》
(ソォ河お
よびペルトワ地方市町村共同体 ムーズ県)のホームページが
出て、これが正解のようだ。いずれも小さいコミューヌが多いフランスで行政効率を上げるために作
らせた「事務組合」=共同体である。おそらくフランス人にとっても《la》のあるなしで全く別
の地域となることに戸惑いを感じるだろう。なお、共通する《Saulx》という地名は何か。
じつは、
《Saulx》という地名はフランス全国に何十か所もあって地域を限定する意味を現実には
殆どもたないことも分かったのである。ムーズ県の共同体が発足したのは 1999 年、この切手
が発行されたのはそれより 5 年早い 1994 年であるが、すでにリュトォノナンとせずペイドラ・ソォとし
て「尼の橋」を掲げたのは、単なる観光切手ではなく市町村共同体推進という「政策切手」
のニュアンスもあってのことのようだ。8-2-8
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