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ラングドク−ルシヨン VIII
図版博物館 vol.115
人の記憶 58
Musée imaginaire philatélique
Région Languedoc-Roussillon au travers des timbres français
4e éd. 2013
【17-8-1 アンドレ・シャンソン】 André Chamson
YT-2803
1900-83
ガール県ニームに生まれ、アルルとモンプリエのリセで
学んだのち、パリの古文書学校 Ecole des Chartes を卒
業して博物館の職員になった。古文書学校は、いわ
ゆるグランゼコールの 1 つで、職業分野別に最高のレベル
の専門家を養成するエリート養成機関である。競争試験
でこの学校に入り、専門教育を受けて卒業すると、
archiviste paléographe(古文書士とでも言うべき特権的な名称)と呼ばれるようになる。他
方、フランスの博物館、美術館、古文書館、公文書館等で国に属するものは Musées de France
と呼ばれるシステムに統括され、主要な施設には美術品や歴史的記念物を管理・保存する国家公
務員としての保存官 conservateur が配置される。上記の archiviste paléographe は多くの場合
このシステムに従って保存官の職能集団に入り、実績を積んで昇進をしていく。
シャンソンもまたこの道を進んだが、1930 年代に入ってファシスト勢力が台頭するや、反ファシストの社
会運動に進んで身を投じた。国内では週刊新聞『金曜日』を発行して人民戦線運動を支援
したが、それにとどまらずスペイン戦争では共和主義軍を助けるべく現地に赴いている。帰国
して美術館の保存官となり、ルーヴル美術館の最重要美術品をドイツ軍の侵入前にシャンボール城に
疎開させるオペレーションを担当した(シャンボール城への疎開については【サントル 2】)。大戦中はロト
県で武装抵抗運動マキに入って戦った。解放後、パリに戻って美術館つきの保存官となった。
国の美術館の 1 つであるプチパレの館長を経て 1959 年には国の公
文書を保存するアルシーヴ・ドフランスの館長に就任した。シャンソンはこの
ポストに 12 年にわたって在任した。留学時代、フランス革命期の手書
き文書を閲覧するためパリのアルシーヴ・ナシオナルに何ヶ月も通ったが、
そのときの館長がシャンソンであったことも 50 年ぶりに思い出した。
ところで、シャンソンは、公文書館長になるはるか以前に、およそ
予期しない大変な栄誉に与ることとなった。1956 年 5 月のアカデ
ミー・フランセーズ会員への選出である。推薦者は、ジュール・ロマン、アンドレ・
モロワ、ジョルジュ・デュアメルなど、フランスを代表する作家会員であった。
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このことから直ちに判るように、アカデミー入りは、アルシヴィストとしての業績ではなく、シャンソンが
職務の傍ら書き続けてきた小説を評価してのことであった。国民もこの選出のニュースに驚き、
またそれを大いに喜んだ。シャンソンのふるさとラングドクや西隣のミディピレネでは、シャンソン自身が会
員でもある 2 つの文学結社がシャンソンを代表役に選出した。すなわち、1957 年にはラングドクの
文学サロン「フェリブリージュ」Felibrige が代表役員 Majoral にシャンソンを選出し、1958 年にはトゥルーズ
の文学サロン「ジュー・フロロゥ」Académie des Jeux floraux がシャンソンを代表維持員 Mainteneur に選任し
た。会員の 1 人がアカデミー入りをしたからといってすぐに代表者に奉るのであれば、あまり
おもね
芸のない話だが、今回の地方文学結社のトップ人事は 阿 りでも御祝儀でもない実のある意思
表示であったのではないか。とくにフェリブリージュの場合は、シャンソンの立場がわが立場であり、
彼の選択がわが選択であることを喜ぶ 2 つの理由があった。1/
シャンソンがプロテスタントであり、
その中でもカトリクに対して寛容であろうとする穏健派であること、 2/ シャンソンはその小説や
エッセイの多くの場面をセヴェンヌに求めてきたこと。つまり、ラングドクから見れば、プロテスタントの厳
然たる存在を証明しうる優れた同郷人がセヴェンヌに特化して小説を書いたところ、アカデミー入
りにふさわしい佳作となった、ということが論証された。喜ばしい限り、ということであ
る。プロテスタント+セヴェンヌ=アカデミーと短絡しても許されそうな気分。シャンソンの代表作(セヴェンヌもの)
は、Roux le bandit, 1925 ; Les Hommes de la route, 1927 ; Le Crime des justes, 1928 ; La Neige et
la Fleur, 1951 ; La Tour de Constance, 1970 とされているが、後 2 点については未見。17-8-1
【17-8-2 ジョフル元帥】 Joseph Jacques Césaire Joffre
1852-1931
YT-454
ピレネゾリアンタ
ル県リヴサルト Rivesaltes で裕かな製樽業の家に生まれた。
リセ・ド・ペルピニャンからグランゼコルを目指してパリのリセ・シャル
ルマーニュに学び、17 歳で理工科学校に入学した(1869 年)。
在校中に普仏
戦争となり、パ
リの砲兵連隊に
少尉として配
属されたが、フランス軍の防御態勢がおざなりであるこ
とを痛感したという。パリコミュヌについては、パリに無
政府状態をもたらしたとして批判的であった。
71 年に復学して軍事工学を学び、卒業と同時にモン
プリエ第 2 連隊に配属された。翌年中尉に昇進し、フォ
ンテーヌブロォの砲兵・工兵学校付となる。74-84 年はパ
リ、ジュラ、ピレネゾリアンタルなどで築城工事を担当したあ
と、極東勤務を申し出て認められ、85-92 年台湾、
トンキンに駐在した。清仏戦争の時期である。少佐に昇
進して仏領スゥダンに転じ、95 年からはマダガスカルで要塞建設に当たった。1906 年以降本土に
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戻り、軍司令官の中枢を歩む。パリ第 6 歩兵師団長
(1906 年)、アミアン第 2 軍団長(1908 年)、陸軍省最高顧
問(1910 年)、陸軍最高司令官(1911 年)という経歴で
ある。
大戦はジョフルのすべてが試される場となった。1913
年に策定した対独戦争プラン 17 に基づいた作戦は、開
戦後のドイツ側の作戦計画に対して後手に回り、緒戦か
らその目的を達することができなかった。つまり、フ
ランスは 1914 年の当初から大局的に戦力を配置し、連合
国軍の支援を勘案して総合的な戦局づくりをすべき
ところそれをなしえないまま特定の戦場での勝敗に
賭ける一局決戦型の作戦計画に陥りがちであった。14
年夏∼秋のマルヌの戦いはフランス側の最初にして最後の勝
利と見るべきだろう。
ベルギー国王と戦場で
ジョフルが輝いて見えたのはここまでであった。
1916 年のヴェルダンの戦い(2-11 月)とソンムの戦い
(7-11 月)は、それぞれ一局の戦いとして敗北で
あるが、かりに勝敗の別は留保するとしても甚
大な人的損害を伴うものであったことは明らか
だ。(敵に負け
たかは別にし
ても、戦争に負
けた以上)
ジ
ョフルは終わった、
という空気が
軍の内外で濃
厚となった。
1916 年 12 月 26
日最高司令官
ジョフルは 1870
年以来 46 年ぶりのフランス陸軍元帥の称号付与と
引換えに解任され、ニヴェル Robert Nivelle にその
地位を譲ることとなった。元帥の称号付与は国民の目には唐突でありながら、軍および政
府部内では戦争続行下においてすべてのスキャンダルを回避する唯一の選択であったようだ。
ジョフルを傷つけるなという見え見えの配慮の下に 19 年に退役し、アカデミー・フランセーズの会員
にもなった。前号でアルシヴィストのシャンソンがアカデミー会員になりトゥルーズの文学結社 Académie des
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Jeux floraux の代表維持員に選任されたことを書いた
が、その 36 年前の 1920 年にバルセロナの同類結社 Jocs de
la Gaia Ciència(Jocs florals)が前年にアカデミー・フランセーズ
会員となったフランス陸軍元帥を招いてカタロニア文化護持の
大会を開いたという記述に出会い、因縁めいたものを
感じた。ジョフルは熱心なフリーメーソンであるが、それとはま
た別の由来の「花の供宴」Jeux Floraux ともどこかで
結びついていたのか、それともジョフルを傷つけるなと
いうフランス政府の差し金によるものなのか、さっぱりわ
からなくなった。17-8-2
【17-8-3 ピエール・ド・リケ】 Pierre Paul de Riquet
1609-80
YT-2100
【ミディピレネ 2】で取
り上げたガロンヌ河と地中海を繋ぐミディ運河の開削
者である。ベジエの貴族出身の商人の家に生まれる。
貴族としての称号は、ボンルポ男爵 baron de
Bonrepos、カラマン伯爵 comte de Caraman である。父
親は実業家で巨富を築き、トゥルーズの北西に位置す
るヴェルフェイユに 150ha の庭地とルネサンス式城館とから
なるボンルポの領地を購入してピエールに遺贈した。ピ
エール自身も塩税徴収請負人として裕福な暮らしを
していた。
大西洋と地中海を運河で繋ぐことは数世紀にわ
たる夢であったが、彼の父もピエールがこの夢に取り
付かれたとき、反対したという。基本問題はただ
ひとつ、山
を越える
運河の両サ
イドに閘門
用の水を
供給する
ことがで
きるかで
あった。ピエールは周辺山地の形状をよく知っていた
の っ こ
のでそのような分水点を発見することができた。「ノォルーズの乗越し」sueil de Naurouze であ
る。土木関係でクラポンヌの法則*1 というのがあるようだが、それを応用すると、ガロンヌ河の水
位より 48m 高いところを運河の最高点とすればよいということが判った。17-8-3
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*1 Adam de Craponne 16 世紀のアル 近在の貴族で土木技師。ロ
ーヌ 河口左岸で ルア の東南に広がるコォ 平地にデラスュン
河から
灌漑用水を引いた。自己資金を投じたが不足したのでノトタスラ゙ム
から借入をして完成させたのが話題。そこで、1662 年に
のっこ
宰相コル゙ヘー
に提案。調査委が設けられて検討した結果サフレンェオル
湖からノ
ォールズ
の乗越しまで引水すれば両サトイ゙ への給水が
可能であることが判った。着工となり、最初の工区をリケ が受注した。工事費の不足 200 万リ
イ゙ウル
は塩税徴収収入でまか
なって完成させ、その見返りに運河通行料の徴収特権を認められた。
【17-8-4 ポール・サバチエ】 Paul Sabatier
1854-1941
YT-1058
高温高圧状態でニッケル
を触媒として水素と炭酸ガスを反応させると、水とメタンが生成す
る。これを発見した化学
者の名をとって「サバチエ
反応」réaction de Sabatier
という。この方法で宇宙
ステーションの乗員の呼気中の
炭酸ガスから水を生成す
ることを NASA が考えて
いるらしく、サバチエの名が新聞に出ていたことを覚えている。
Marcellin Berthelot の助手となり、博士号を取得した(1880 年)
のち、ボルドォ大学とトゥルーズ大学で化学の専任講師を務め、1884 年にトゥルーズ大学の総合化学
講座教授となった。以後、1930 年の定年まで同職にあり、定年後も死亡まで終生講義を担
当した。微細な金属粒子を用いた有機化合物の水素化法(サバチエ反応)の開発の功績によっ
て、1912 年にヴィクトル・グルニャール(ノルマンディ 7)とともに ノーベル化学賞を授与された。17-8-4
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【17-8-5 アリスチド・マイヨール】 Aristide Maillol
1861-1944
YT-1281
ピレネゾリアンタル県バニ
ュルス・シュル・メール Banyuls-sur-Mer に生まれ、ペルピニャンのリセ・フランシス・アラゴで学んだのち、パリに出
て美術学校(国立高等美術学校)に入った。彫刻はアントワーヌ・ブルデル、絵画はアレクサンドル・カバネルと
いう豪華版の教授陣であった。のちにイキリスのヘンリー・ムアやスイスのアルベルト・ジャコメティが登場して 2
0 世紀彫刻の黄金期を迎えるが、マイヨールはその先駆けであるとともに古典主義へ回帰する夢
幻的な様式によって指導的な影響力を行使した。ブロン
ズ像は鋳造家の力量によって決まることが少なくない。
マイヨールにとって幸いであったのは、ロダンの塑像を手がけ、
のちにはブルデルを仕上げた著名な鋳造家ウジェヌ・リュディエ
と協働することが
できたことだ。優
れた鋳造家は作品
にその名を刻むこ
とができるが、リュ
ディエはその名によ
ってマイヨールの名を
後世に残したとい
ってよいほどの貢
3 人のニンフ
YT-4626
献をしたと私は考える。
マイヨールはまた画家でもあったが、彫刻ほど知られては
いない。ゴーギャンやシャヴァンヌなどを手本にした絵画など
が残されている。マイヨールの墓は今や高級リゾート地となっ
た生地バニュルスーシュル・メールの住居=美術館の敷地にある。
マイヨールのモデルでありミューズであったディナ・ヴィエルニ Dina Vierny について。ウクライナのルーマニア国境地
帯ベッサラビア出身で 15 歳でマイヨールと知り合い、強制収容所送りになるところをマイヨールによって
救われ、アトリエのモデルとなり、「マイヨールのミューズ」として知らぬものはなく、マイヨールの死後パリ
に「マイヨール美術館」を開設し、マイヨール作品の普及に努め、2009 年に 90 歳で死亡した。その死
を追悼するかのように投稿サイト“What about Paris”にマイヨールとの写真が投稿された[2010.6.24]。
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次頁の図版の説明
上段左 シャ゙ンウァヌ
風 右 コー゙キャン
風
中段左 Josef Rippi-Rònai 描くマヨイール
右 「夜」 Stuttgart
下段左 マイーヨル
美術館 ハリ゚
右「サル゙ターヌ
」Banyuls-sur-Mer
17-8-5
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