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4 - フランスの切手

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4 - フランスの切手
アキテーヌ
図版博物館 vol.92
IV
土地の記憶 45
Musée imaginaire philatélique
Région Aquitaine au travers des timbres français
4e éd. 2013
【15-4-1 サンテミリオン】 ボルドォからあらためて東に、ドルドォニュ河に沿って国道 89 号線を行く。
30km ほどで交通(鉄道)の要所リブルヌ、そこから国道ではないがよく整備された道を 15 分
も走ればサンテミリオン Saint-Emilion の町である。日本ではこの 20 年、この地域のワインがボルドォワ
インの一銘柄としてメドク地方に準じて輸入されるようになったため、サンテミリオンの町の名も知ら
れるようになった。私はそこからさらに 10km 東の Castillon la Batille に《Saint-Emilion》呼
称の葡萄畑をもつ醸造農家 B 兄弟と連れだって何回もサンテミリオンの町に行き、聖エミリオの遺跡が
あるこの町に言い知れぬ畏敬の念を抱くようになっていたので、日本の状況には違和感が
あったが、そのようなことはどうでもよい。8 世紀にのちに聖エミリオと言われた隠遁者がこの
町に来て洞窟に住みキリストの教えを説いて人々の尊敬を集めたこと、その弟子たちが生業と
して葡萄酒をつくり販売したこと、1199 年に英国王 John からサンテミリオンの町民に自治権が与
えられ(この自治権は 1289 年にエドワード 1 世によってサンテミリオン聖堂区全体に拡大された)、
シ ゙ ュ ラー ト ゙
その自治組織として参事会jurade の支配が確立したこと、参事会はとりわけ葡萄酒(赤ワイン)
の生産について品質を保証する焼印を酒樽に押すなど厳格なルールを定めたこと、その結果英
国では《King of wine》、フランスでは《Nectar des Dieux》(神々の美酒:ルイ 14 世)と評されたこ
と、などの方が重要だ。このよき伝統は、フランス革命によって断絶する。職業独占のための
同業組合が市民と国家の間に中間団体を置くものとして廃止され、そのうちの宣誓同業組
合 jurande(サンテミリオンの jurade と語源は共通だが綴りが違う)も否定されたことの結果である。
第 2 次大戦後 1948 年に、サンテミリオンのジュラードは葡萄酒の生産・販売に関して権限を持つ組
織として生産者・商人・市民の手によって再建された。再建されたジュラードは 52 人の jurats(参
事)からなる参事会 Jurade とそのうちから役職に当たるため選ばれた 12 人からなる評議会
Conseil de la Jurade によって運営される。良質の葡萄酒の生産・販売を
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1
全国・全世界のマーケットに対して保証することがジュラードの任務であるが、農民・商人の「営
業の自由」を奪うような統制を課すことはできない。ジュラードが長い歴史のなかで生み出し
た品質保証の仕組みは後で述べる格付けであった。ボルドォ諸地方のなかで最も厳しい格付
けの仕組みをもっているのは、サンテミリオンである。
フランス郵政は、サンテミリオンについて、2 度切手を発行している。第 1 は、1981 年に 4 種の観光
切手を発行した中の 1 つとして、やや遠くから教会の鐘楼を中心にデザインしたものを採用
した YT-2162。この図柄は下に掲げる写真とほぼ同じ角度から町を見ているので比較してほ
しい。中央の尖塔は、
聖エミリオの棲み家であっ
た洞窟の上に一枚岩を彫りこんで作った教会(そのため一枚岩教会 Eglise monolitique と呼
ばれる)の鐘楼で、サンテミリオンのシンボルのような存在だ。
第 2 の切手は 1999 年に発行されたもので、イギリス王ジョンによって町の自治権が認められ、
ジュラードの歴史がはじまってから 800 年を迎えたことを記念する趣旨である。前景には葡
萄畑とジュラードの印章の図案を配し、後景には聖エミリオにかかわる遺跡を描
いた YT-3251。
最後に、サンテミリオンのワインについて。最上級のワインは Premiers Grands Crus
に格付けされる。1955 年の格付けによってこの最高のクラスに仕分けられた
のは 13 のシャトォ(蔵
元)である。そのう
ち Château Ausone
と Château Cheval
初夏のサンテミリオン
Blanc の 2 つのシャトォは別格としてさ
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2
らに一段と高いランクにおかれた。
ところで、葡萄酒の品質は、毎年の気象条件によってかなり大きく左右される。天候に
恵まれれば収量も多くなるが、それぞれ
の格付けで出荷できる量はあらかじめ限
られているので、より上質の部分の葡萄
をその生産出荷枠に用いることができる。
したがって、その年の葡萄酒は例年より
よくなるのが当然の理だ(逆も同じこと
が言える)。
次に、一定の地域的範囲で特定の年の
葡萄酒の出来の良し悪しにかかわる決定
収穫期のサンテミリオン
的な要素は土壌である。その土壌は長年をかけて形成されるため、畑(し
たがって蔵元)の格付けは、新規開発地を除いて年ごとに決めていく必要がないばかりか、
むしろ長期にわたって維持する方がよい。格付けが安定していることは、その地域全体の
葡萄酒の評価を上げる方向に働く。このような産地形成は必ずしも自由参入・相対直販に
よってできるものでないことを葡萄酒は一番よく教えてくれる。15-4-1
で行われる国際的催事は少なくないが、記念切手が発行されたことはこれまで 2
ボルトォ
回にとどまる。海洋博と関税協力評議会である。
【15-4-2 ボルドォ海洋博覧会】1971 年 3 月 6 日に OCEANEXPO’71 が開催された。図案は、潜水
艇とダイハー
を取り合わせたもので、フランス
は珍しいデサイン
である。YT-1666
の切手として
海洋博の開催規模、
日程等については調査未了
だが、1975 年に沖縄で行わ
れた海博と異なり、4-5 日ほ
どの国際会議に一般公開の
展示がなされるにとどまる
ようだ。ボルドォ
では名称は
様々だが、海洋・港湾に関
する技術系の国際会議はか
なり多く開かれている。
1980 年3月にも、同じくボ
ルドォ
で OCEANEXPO '80 が 開催され、48 カ国が参加
している。このように見ると、その後のことは確認し
ていないが、ボルトォ
ード
はモンテカルロ
と並んで海洋科学関係の催しに熱心な町であるようだ。マキシムカ
も掲げておこう。15-4-2
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3
[15-4-3 証券取引所広場] 横長の切手は証券取引所広場である。ここは、ホ
゙ルトォ
きっての
名所だ。YT-4370 まず、左手の建物は関税協力評議会 Conseil de la coopération douanière
で、1952 年 12 月 15 日の国際条約で定められ、条約の発効を待って 1952 年 11 月 4 日に設置
された。関税制度に関する常設の国際機関で、本
部をブリュクセルに置く YT-2289。関税は一面では国
家主権の発露であり、多面では国際的な流通の自
由の障害として諸国間で多くの問題を生みだし
てきたが、この国際機関ができたのちに EU が誕
生して、加盟ヨーロッパ諸国だけでなく世界各国にと
って関税制度の再検討を促す契機となった。した
がって、この国際機関が 1983 年
に設立 30 年を記念する会議をボ
ルドォの《Hotel des douanes》(関
税賓館)で開催したことに歴史的
な感慨を抱いた参加者は多かっ
たものと思われる。
中央奥の建物の手前に噴水があるのが見えるだろうか。夜
景の写真で見るとなかなか大きい。これを次の写真でみる
と、なんと古代ローマ
の三美神グラチアエ
である。ボルトォ
の住民
の多くはこの像が好きだが、必ずいるのが反体制派で女神
を撤去して昔の状態に戻せという。調べてみたら昔そこに
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はルイ 15 世の騎馬像があって、革命期
にうまく隠したので難を逃れたのが
あるはずだ、と最近言い出した。市
民は相手にしないが、ボルトォ
には反
体制的王党派もいるのかと首をかし
げて先の大きな切手を見たら、広場
にないものが手前に大きく描かれて
いる。これは、少し先のカ
コンス
ある「ジロンタ
のコロンヌ
広場に
Collonne des
girondins」だ。国王の像を撤去して
女神に変え、切手には革命期の領袖
たちの記念碑を配した。なんとなくほほえましく思った。もう 1 つ、2 つ。女神の像の手前
に池が広がっているように見えるが池ではなく「水しぶきの水かがみ」les embruns du
mirroir d’eau, つまり石畳の随所から噴水のように散水して、びしょぬれになるという趣向。
写真を見られたし。最後は、この広場が面している川岸で、千年以上も前からイギリス
に向け
てあらゆる物を積み出していた埠頭跡である。15-4-3
【15-4-4 ボルドォ切手 100 年】
Emission de Bordeaux という言葉を知っているのは、いまでは
切手収集家の中でも一部の人たちである。要約して言うとこうだ。1870 年、第 2 帝政は皇
帝ナポレオン 3 世が捕虜になって終わった。この年に
何が起き、どのような結末となったか、以下は(私
自身も疑問に思っている)切手趣味の世界でしか
通用しにくい話だが、「ボルドォ」と銘打っている
だ け に こ こ で 取 り 上 げ ざ る を 得 な い 。 Alain
Legrand が 国 際 郵 趣 連 合 Union philatélique
internationale の機関誌に書いているところによ
れば、
「1870 年の戦争と、プロイセン軍の急激な進軍によってフランスの国家は、混乱に陥った。トゥル、
ついでボルドォに逃げていた財務大臣ド・ルシィは、1870 年 9 月 30 日にボルドォ造幣局に郵便切
手の印刷はできるかと尋ねた。10 月 22 日、新郵便電信局長ステーナッカーはパリの造幣局で印刷
した目打ちつきの青色の 20 サンチム切手の見本をジロンド県郵政局長に渡し、最初の試し刷りが
ボルドォ造幣局長の指図でオォジェ・ドリル社によって行われた。結果は満足すべきものであった。
モデル
原版に多少の修正を加えた上で 10 月 31 日にジロンド県郵政局とボルドォ造幣局の間で契約書
が交わされた。」(L’émission de Bordeaux de 1870-71 ,Philatélie populaire, n°518, juin 2007:www.
philatélie-populaire.com) .
©bibliotheca philatelica inamoto
5
左の切手は 1970 年に発
行された「ボルドォ切手 100
年」の記念切手である。
YT-1659 この切手を使う市
民の理解では<普仏戦争
から 100 年になるが、あ
の混乱(パリが完全に攻囲
1870-71 年の 20 サンチム 3 種(未使用市価 25,000, 13,000, 13000 ユーロ)[YT-46.I,II,III]
され市外との往来・流通
がすべて遮断された)の最中で切手の供給にも大変な苦労があったのだな>という域にと
どまろう。郵政当局としては切手発行という所管の仕事の範囲で先人の苦労を偲ぶのであ
ればよいだろう、ということになる(やや手前味噌だが)。しかし、それだけでこの切手
が発行されたのではない。市民のためではなく、当局内部の理由からでもなく、もっぱら
といってよいほど「郵趣家」のための(郵趣家にしか分からない)サービスとして発行された
のである。一般の人には理解しがたいことを書くのは気がかりであるが、「理解しがたい」
ことが当世にもあるということは知られてよい。要約して言えば、もともと切手の印刷な
どしたことがないボルドォ造幣局には精密な凸版の技術がなく、本省筋の要請を受けるとす
ればリトグラフしかない。それも木版したがって版画方式となる。しかしそれでは数十枚単位
のシートで大量に印刷することができないので、本来のリトグラフつまり石版で、
それも転写 report
の技術を多用して印刷することとした。先のルグランの論文で「満足すべきもの」とあったが、
それは郵政にとって使えるものが間に合ったということである。問題はこのような非常事
態下での技術開発では版面に多くのズレやキズ,それらに対するリタッチで異種・変種がでてしま
う。たとえば 5x10 のシートでも a 段 b 行の一枚は c 段 d 行のそれより女神セレスの髪の毛が 1 本
少ないということになる。それもすぐ分かるのではない。何十年もの間に「郵趣家」が発
見しそれを競い合った結果分かるのである。結論はこうだ。「ボルドォ切手」の価値は不揃
いから生じ、閉ざされた世界で珍重され、オークションなどを通じて途轍もない値がつき、そのよ
うな話が郵趣家を喜ばせるのである(不幸にも私にはこの「郵趣家」の DNA が欠けている。切手は地方を
訪ねるときの案内人、またはつまらぬ話の枕にとどまる)。フランスでも切手の印刷に起因するこのような
椿事は他に類がないので、100 年を期に記念切手の発行となった。15-4-4
©bibliotheca philatelica inamoto
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