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イ-ルドフランス 図版博物館 vol.176 パリ市外 2 土地の記憶 100 Musée imaginaire philatélique Région Île de France au travers des timbres français Paris extra-muros 4e éd. 2013 【222-2-1 セ-ヴル】セーヌ河の流れからいえばサン・クルーの上手に、磁器の生産で歴史的に有名な セーヴルの町がある。まず、1976 年のヨーロッパ切手としてストラスブールの器(アルザス 1)と並べてセーヴ ルの皿が取り上げられた。私の推測だから危ないものだが、皿の表ではなく裏を見せたのは、 陶磁器に付すセーヴルの商標 marque figurative が CEPT つ ま り ヨ ー ロ ッ ハ ゚ 郵 便 電 気 通 信 主 管 庁 会 議 Conférence européenne des administrations des postes et télécommunications のマークに酷似しているからだ。遊び 心として許すことはよいが、芸術家としての切手デザ イナーには頼みにくいことだから、凹版ではなくグラヴィア 版とし、かつ、切手印刷所の職員に仕事をさせた。フラ ンス郵政としてはめずらしいことで製作者の名を一切 公表していない YT-1878。 さて、セーヴルの磁器は王立のマニュファクチュールが独占的に 製作をしてきたもので,タピスリのゴブランと似る。もう 1 枚の切手は、セーヴル国立製作所の前身王立製作所の創 立 200 年を記念して発行された,とても真面目な図 柄の切手で、Falconnet の「浴女」の彫像を磁器に写 したセーヴルの秀作などを展示して いる YT-1094。 では、セーヴル製作所とはどのよう なところか。国立図書館の「ガリカ」 から取り出したものだが、セーヴルの 全景図のような絵がある。堂々た る建物だ。 王立の磁器製作所がで きたのは 1740 年のことで、ルイ 15 世とポンパドゥル夫人の勧奨によっ ©bibliotheca philatelica inamoto 1 てヴァンセンヌに窯を開いたが、1756 年にはポンパドゥル夫人の居城の近くに移転した。それがセー ヴルである。以来、今日まで、上の絵のような幅 130m に及ぶ 5 階建ての建物を中心に 200 年来の伝統技法で磁器の製造が続けられている(リモージュ地方で産出するカオリンの白土を主体 に成形された素材を樺材の薪のみを燃料とした 2 段構造の炉で 800 度(弱火)と 1300 度(強 火)でおおよそ 48 時間をかけて焼成する)。現在、製作所では大規模な補修事業が行われて いるので、最近の写真がない。それに代えて、セーヴル市内にある国立セーヴル陶磁器博物館の 所蔵品の写真を掲げる。222-2-1 ©bibliotheca philatelica inamoto 2 【222-2-2 パリ中央工芸学校】パリ 中央工芸学校は、理工学系のグランゼコールの中で、ジェネラリスト ホ ゚ リ テ ク ニ ク の養成を目的とするという意味で中枢に位置する高等教育機関である。卒業生は理工学校 エ コ ル デミーヌ や鉱業学校と並んで高い評価を受ける。正式の名は École Centrale des Arts et Manufactures 技芸・製作中央学校であり、その語から Arts et Métiers, Manufactures などの伝統的技芸・技 術の世界とのつながりを想起させる。その通り、国王・国家の保護のもとに特権的に育成 されてきた諸産業部門が、今日高度に発達したグローバルな理工学技術環境のもとであらため て要求する人材を全企業分野に供給する「伝統と革新の最高学府」と、同校関係のある HP は誇らしげである。校名に「パリ」とあるのは、当初パリ 3 区にあった同校が現在はリヨン、リール、 ナント、マルセイユにもキャンパスを有するので、それらのセンターの位置にあるパリ校を指す場合にこのよ うに言う。そのパリ校も 1829 年に私学として設立されたときから 3 区(当初は現ピカソ美術 館・左、のちにモンゴルフィエ街の新築校舎・中)にあり、1857 年に国に遺贈されて国立学校と なった。爾後、隣接の Conservatoire des Arts et Métiers とともに理工系高等教育機関の役割 を果たしてきたが、1969 年、パリの南でソォ公園に近いシャトネイ・マラブリィ Chatenay-Malabry の新 キャンパス・ 右に移転した。オォド.セーヌ県の東端でシャトォブリアンの旧住家にも近い。 フランス 郵政はこの学校について、戦後 2 度切手を発行している。はじめは 1969 年で、キャンパ スの全体を図案化したものである YT-1614。これは、パリ ブリ の中心地からオォド・セーヌ 県のシャトネイ・マラ Chatenay-Malabry に移転したのを記念して発行されたものでる。次は、1979 年で、同 校の創立 150 年を記念したものである YT-2066。 移転と「150 年」とは同一でないが、グラ ンゼコール が多数 あるのにその 1 つについて 10 年間に 2 度 記念切手を発 行するのは異 例である。こ れについてはごく一般的に同校およびリヨン が今日のフランス をはじめ全国 7 箇所に設置された姉妹校の卒業生 産業経済界で指導的な地位を占めていることの結果とみるにとどめたい。 さて、この 2 枚に共通しているのは、色彩である。「緑」が同校のシンボル ©bibliotheca philatelica inamoto ・カ ラー であるため、 3 それにこだわった作品である。なお、左の切手の左下にある赤いマーク これまた同校のシンボル は「蜂」のデサイン で、 であるそうな。222-2-2 【222-2-3 ソォの公園】パリの近くにパリの公園に劣らず美形の公園はないかと探して見ると、 リュクサンブール公園もビュット・ショウモン公園もチュイユリィ公園も足下に及ばない、おそらくヴェルサイユの公 園に次ぐのではないかと思われる公園が、オォド・セーヌ県にあることに気づいた。後に紹介し たいと考えているフォンテーヌブロォも公園としての完成度においてはこれに及ばない。それは、 パルク・ド・ソォ Parc de Seaux の庭園である YT-3109。 15 世紀後半について記述する史料に よると、1470 年にソォの領主で宮廷に官 職を得ていた Jean II Baillet がルイ 11 世と王妃シャルロトを宮廷勤めの貴族全員とともにソォの館に招 いたとある。以後、17 世紀後半まで Baillet 家の後裔 が周辺の土地を買い取り、城館を建造して所領を拡大 し整備してきたようだ。ルイ 14 世の時 代になると王権も強大となり、宰相 コルベールもパリ近郊でヴェルサイユに近いあ たりに壮大な城館と庭園を欲しくな った。目を付けたのがソォのこの所領 で、領主ルネ・ポチエが死亡したのちその 3 人の相続人から買収し、既存の城 ©bibliotheca philatelica inamoto 4 館に増改築を重ねて目を見張らせるばかりにした。庭の方も、ヴェルサイユの庭園を造ったアンド レ・ルノートル André Le Nôtre に造園を命じ、建築の方はコルベールの慧眼によって見出されたアントワヌ・ ルポートル Atoine Le Pautre(のちにサン・クルー庭園の大滝を設計)に委ね、コルベール自身とその息子セニ ュレイ侯爵は土地の買増しに専念をした。その結果、面積は 225ha に達し、コルベールの野望は実 現された。これがソォの公園の由来である。しかし、宰相コルベールの孫の代になると「売り家 と唐様で書く三代目」でメーヌ公爵に売却され(1700 年)、メーヌ公の家系でも三代目で異変が起 き、革命の名で没収された。その後、葡萄酒で財をなしたルコント Jean François Hippolyte Lecomte が国から購入し、 その娘の嫁ぎ先のトレヴィズ公爵家 duc de Trévise に渡り、1835 年にはコルベールの建物を壊して煉瓦造りの現 在の城館(左)に建て替えた。その後 20 世紀初めまで持ち堪え、 トレヴィズの末裔が住んでいたが、第 1 次大戦後の経済変動でお手 上げとなり、市長の仲介でセーヌ県が買い取った。現にオォド・セーヌ 県の看板が建てられている所以である。よく整備されているので、訪ねられたし。222-2-3 【222-2-4 国立産業技術センター】1956 年と 59 年の 2 回にわけて、フランス郵政は「技術の成果」 と銘打ったシリーズを企画し、戦後ようやく実現をみる に至った新たな技術開発の成果を国民にアッピールした。 そのほとんどはこれまでに取り上げてきたが、それら はどちらかと言えば地方さらにはサハラ砂漠など海外領 土(当時)における大規模事業が中心であった。この 「技術の成果」Réalisations techniques シリーズの最後に あげたのは、パリ郊外のデファンスに建設されたエキスポ会場 であった。日本でいえば、東京晴海の見本市 会場のような位置・時期の開発事業であった。 Centre national des industries et des techniques CNIT という。旧市内では実現できない立地条 件(土地と交通などのインフラ)を近郊(ないし 造成地)において満たし、そこに大都市住民 の期待を集めるというこの時期を代表する事 業であった。 地図をよく見てほしい。左上に 3 つ赤丸が あって、右からデファンス都心、CNIT デファンス、 Grande Arche スペースとある。この部分が目当ての地で、あとは南北の両国際空港からのアクセ ス図と、ルーヴルのカルーゼル小凱旋門、エトワールの大凱旋門、デファンスのグランダルシュ凱旋門と 3 凱旋門 が一直線に並ぶのだという見通し図を 1 枚の地図に入れた。このようにした結果、なんだ かよく判らなくなった代物である。ここでは、デファンスのあたりに 1950 年代の終わりごろ ©bibliotheca philatelica inamoto 5 CNIT 見本市会場ができたということが判ればよい。 その見本市を描いた上の切手 YT-1206 を見たとき凄いなという印象をうけたことを覚え ているが、下の写真は最近の CNIT で、50 年もたてばこのようにもなるのかと感慨を覚え る。建物の老化・陳腐化にではなく、背後に建ったデファンス高層ビジネス街との対比において である。再三の 雨漏りに手を 焼いているパリ 市は移転や全 面建て替えを 検討している ようだがどの ようになった であろう。ここ では国民の期 待を担って登 場した「技術の 成果」もやがて こうなるという話になってしまった。222-2-4 【222-2-5 モンヴァレリアン】デファンスとサンクルーの間にある町シュレーヌ Suresnes も河岸段丘の続きにあるが、 ここにはさらに高い丘があって古くからヴァレリアン山 mont Valérien と呼ばれた。162m の高さ からセーヌ河を望む眺望は素晴らしい。フランスがローマ人によってガリアと呼ばれていた時代からこ の地はキリスト教の聖地 であり巡礼の山であ った。ゴルゴタの丘に擬 せられキリスト磔刑の十 字架が建てられた(15 世紀)。17 世紀からは 《Prêtres du Calvaire》 を称する修道会がこ こを本拠として巡礼 を受け入れたが、様々 な事件があって巡礼 は禁止され、修道会も 革命によって解散さ れた。ナポレオン帝政、王 ©bibliotheca philatelica inamoto 6 政復古、7 月王政期と聖俗のそれぞれの目的でこの地を活用しよ うという動きがありまた実態があったが、1841 年ルイ・フィリプはこ こにパリ防衛のための要塞を建造させた。450 万フランをかけたこの 要塞は、その後のパリ攻囲(1870)や反パリコミュヌ戦争に際して重要 な役割を演じたという。 この山が再び血にまみれる事態となったのは、ナチスによる占領下 であった。レジスタンス参加者でその運動に生命を捧げた者は数千に達 するが、このゴルゴタの丘は、それらのうち千人を越える男女フランス 市民が銃殺された場所となった。 1958 年、ドゴール大統領は、あらため てモンヴァレリアンを銃殺された同志を悼む 聖 地と する こ とを 決定 し 、長 大な 追 悼記 念碑 を 城塞 の傍 に 建設 させ た。ドカリスが 特 に選 ばれ て この 事業 を 記念 する 切 手の 原画 と 彫版 を担 当している。 荘 厳な 雰囲 気 を持 った 重 厚な 作品 となった YT-1335。最後の写真は、現在のモンヴァレリアンから北のデファンスの高層建築群を眺めた ものである。222-2-5 ©bibliotheca philatelica inamoto 7