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245 - フランスの切手

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245 - フランスの切手
イ-ルドフランス 自然科学 5
図版博物館 vol.191
人の記憶 86
Musée imaginaire philatélique
Région Île de France au travers des timbres français
Scientistes
【 224-5-1 ルイ ・ ダ ケ ゙ール 】
1787-1851 【 224-5-2 ニ セ フ ォール ・ニエ フ ゚ス 】 Joseph
Louis Daguerre
Nicéphore Niépce 1765-1833
YT-427
4e éd. 2013
フランスは 19 世紀中葉に写真技術の発明によって世界
の先進諸国を驚嘆させ、世紀末から 20 世紀前半にかけては映画技術の発明によって再び文
化の最先端を走る国として注目された。写真と映画にはおそらく共通のファクターがあろう。コミ
ュニケーションの新しい仕組みを創造する精密機械産業に歴史・経済的なバックグランドがあり、新し
い発明品によって伝達されるべき情報のコンテンツには文化・芸術面の活力と蓄積があり、加え
てそれらを消費し、さらには商品化して他国に供給する市
場が前後 1 世紀にわたってこの国には存在した。列強との
軍事的摩擦においては国民の期待にこたえうる軍備・軍隊
がなく、平時の国際関係において諸国をリードする経済的な
力量はないものの、普仏戦争敗北後の 40 年間、フランスはそ
れまでにはなかった新たな仕掛けや魅力ある都市の営み
を生み出してきた
のではないか。万国
博覧会しかり、横溢
するアールヌヴォーしか
り。
切手の発行においても、写真と映画の発明はとびき
りのテーマであって、郵政が力を入れるのも当然であろ
う。だが、ここで世紀末の話をしたのは余計なことで、映画についてはすでに「フランシュ・コン
テ 5」でリュミエール兄弟を取り上げた。ここにある 1
枚の凹版の切手はもっぱら写真に関するもので
映画とは関係がない。だがそれでも、1939 年 3
月にドイツ軍がチェコスロヴァキアを制圧し、ヨーロッパで戦争
の気配が感じられるころに発行されたこの切手
は非常に美しい。発行の趣旨は 1839 年に写真技
術が発明されて 100 年というものであるが、デザ
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1
インを見ると、著名な物理学者フランソワ・アラゴ(【ラングドク 6】)が科学アカデミーと美術アカデミーを一堂
に招集した会合で「ダゲレオタイプの写真術がついに完成を見た」と演説したその瞬間を描い
た図である。画面には、《1822 1839》という 2 つの数字が記され、ニセフォル・ニエプスとルイ・ダゲ
ールの横顔を彫塑した 2 枚のメダルが描かれ、下段には「アラゴ、写真の発明を宣言
1839 年 1
月 7 日」と記述されている。
では、《1822》年とは何か。2 人のうち年長のニエプスが光が当たると堅くなる瀝青の性質
を利用して映像を固定させるヘリオグラフィの方法を考え出した年である。それから 17 年、ニエプ
スはすでに他界していたが、ダゲールが感光・定着・保存のための薬剤を改良し、あらたな撮
影機材も開発して「写真第 1 号」を世に出した。「アトリエ」と題する静物写真(前頁)がそれであ
る。屋外の写真(上)も掲げよう。タンプル大通りだが、長時間の露出のため通行した車や人は
残っていない。泉水を汲む人と靴磨きとベンチに座る人だけが辛うじて影をとどめている。
ダゲールは特許を申請して認められたが、ダゲールに研究費として年金を給付していた政府は、
1851 年 7 月 28 日の日蝕
ニセフォル・ニエプス
アメリカ リンカーン大統領
イギリスでの特許の代理申請の直前にフランス政府から全世界への贈り物として特許使用を無償
と宣言してしまった。ダゲールは諦め、人々は喜び、ダゲレオタイプは短時日のうちに普及し、
フランスは文化国家としてまたもや点数を稼いだ。ダゲールの出自については、パリの北方ヴァル・エ・
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2
オワズ県コルメイユ・ザンパリジ Cormeilles-en-Parisis の生まれであることだけを記し、その余は省
略する。相方のニプエスはブルゴオーニュのソォヌ・エ・ロワール県シャロン・シュル・ソォヌ Chalon-sur-Saône の出身だ
が、ブルゴーニュ編では触れず、ここでダゲールに添えて略記するに留めた。
ダゲールといえば、パリ 14 区に,その名を冠した街 rue Daguerre がある。フランシュ・コンテの首都ブ
ザンソンの件でダンフェール・ロシュロォ中佐とライオン像について述べた(フランシュ・コンテ 1)が、その中佐の名を
採りライオンのレプリカをおいたダンフェール・ロシュロォ広場のすぐ南から西へ延びる賑やかな通りである。
留学生として到着してはじめて出かけたパリの下町でもあって今でも強く印象に残る。この
大変な街の思いもつかぬところに 1 年先輩の憲法学者樋口陽一さん夫妻が住んでおられて
ミ
ロ
ワ
チ
エ
お訪ねした。その住まいの家主が鏡製造商人であったので銀板写真術のダゲールの名と結び
ついて離れず、50 年はかくのごとく過ぎ去りしかと感慨一入である。224-5-1/2
【224-5-3 ジョルジュ・メリエス】Maries-Georges-Jean Méliès
1861-1938
YT-1284
先に、「フランス
は 19 世紀中葉に写真技術の発明によって、(ま
た)世紀末から 20 世紀前半にかけては映画技術
の発明によって」世界の先端にあったと言った。
ダゲールによる写真とリュミエール兄弟による映画だが、
後者はすでに取り上げたので、前者についてだけ
述べた。
だが戦後の切手にジョルジュ・メリエスの肖像がある
ことがわかった。これにも紙面を割くことにしよう。彼は、
パリ 3 区サンマルタン大通りの靴職人の子だった。父親を手伝いなが
ら、ある日決心して英語をマスターするためイギリスにわたった。本
来が器用な男で、イギリスでは英語だけでなく奇術を学び、帰国
して演芸場や芝居小屋に出演し、イギリス風の[一瞬にモノが消え
る][モノの大きさや形がわけもなく変わる]ような奇術で人気
を博した。1891 年に奇術アカデミーをつくり、1904 年には奇術師
組合を作って以後 30 年会長をつとめることとなる。丁度その
頃、リュミエール兄弟が始めた映画が人気を博し、メリエスもこれに熱
中した。おそらく、私の推測だが、舞台上の奇術よりも奇想
天外なことができる映画に惹かれたのであろう。パリの片隅モン
トルーユの屋根裏部屋を根城にして映画製作に乗りだした。上記の
ような経緯から、彼の映画は、背景が書割りで、その前に何人かの役者が登場し、芝居さ
ながらにドタバタと騒ぎたてた挙句に予想もしなかった結末へと観客を誘う。メリエスが筋書き
を作り、役者を集めて配役をし稽古を付けて 10 分から精々が 30 分の 1 編にまとめる。無
声だが語りが入り、華やかに音楽が流れると映像が活発に動き、観客の心もわき立つ。
既に 1860 年代から人気を集めていたジュール・ヴェルヌの一連の冒険小説とりわけ未知の世界
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への旅シリーズ(ロワール 4)がメリエスに絶好のテーマを与えた。1902 年の《月への旅行》はその映画化
というよりは自由勝手な翻案である。6 人の天文学者が直径 2m, 長さが 5m 程のカプセルに乗
り込み、それを砲弾に詰めて巨大砲で月へ向けて打ちだす。その巨大砲を描いたのが切手
の絵である。燕尾服や手品師同然の衣装で乗り込み、月面を闊歩し、遭遇した月人 Selenite
と戦い、最後は形勢不利となってカプセルが月の海に放り込まれるが、浮力を利用し加速度を
付けて脱出に成功し地球に戻る。このような荒唐無稽のストーリーであるから、ある程度の力学
的計算に基づいたヴェルヌの小説とはおよそ違うが、そこは手品師、さまざまなファンタジーやトリッ
クによって次々に不可能を可能としてしまう。右のポスターもおかしい。月が彼らの到来を望
遠鏡で観察しているのでなく、月面に砲弾を撃ち込まれて涙を流している図なのだ。アールヌヴ
ォーの最盛期ですべてが夢幻なのである。224-5-3
発明家というよりは製造者 3 人を挙げる。3 人とも製造物は航空機だ。フランスは、今日でも
航空機製造部門でヨーロッパ随一の地位にあるが、その前史にはこの 3 人がいる。
【224-5-4 アンリ・ファルマン】 Henri Farman
1874-1958
YT-1670
ファルマンの父親はイギリス人
だが、アンリ・ファルマンはフランス人としてパリに生まれた。フランスで初めて 1km 以上を飛んだパイロトで、
後に 2 人の弟とともに航空機産業を興し、業界の重
鎮となった。兄弟はイギリスの新聞社パリ特派員の子でい
ずれもパリで生ま
れ、育ち、帰化し
てフランス国籍となっ
た。彼らは傑出し
たスポーツマンで、自転
車と自動車競技で名を挙げたことから、つぎは飛行機と
いうことになったようだ。
20 世紀初頭のことであるから、そもそも飛行機で 1km
飛べるかが問題であった。初めて 1km を越えるのはだれ
か。1908 年 1 月 13 日にパリ南西のイシィ・レ・ムリノォ飛行場で行
われた試技で、あらかじめ設定された 1km のコースを 1 分
28 秒で飛行し「初の」飛行士となった。
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上の切手は、そのときの光景を描いたもので、機種は《F60
Goliath》であった。Voisin 社製造で Gnome のエンジンを搭載した
複葉機である。 フランス人はこの飛行士に称賛をおくったが、それ
以上に航空機に魅了さ
れたようだ。現在はパ
リ郊外のブルジェ航空博
物館にそのレプリカがあ
る(右)。よくこれで
飛べたものだと思うが、
ファルマンは 1km 競技でドイ
ツドラムルト助任司祭賞(おかしな名前だ。ドイツドラムル
トはメーカーの 1 つでさまざま賞を提供していた)を取ったのち、同機を携えてアメリカへわたり、
各地で飛行ショーを行ったという。レプリカを見て最も奇妙なのは、操縦席の前方に補助翼がつ
いていることである。つまり、「飛ぶとは落ちないこと」というわかり易い原理をこの「アユ
ロン」と名付けた前翼で示し、成功したのだ。1908 年という年は、初の「大空飛行」という点
でも画期となった。同年 11 月、マルヌ地方の小村ブイ Bouy から 27km はなれたランス Reims まで
飛んだ。それを報道した《Scientific American》の特集号の表紙を掲げよう。操縦席のファルマン
の気持ちも、見上げる人たちの気持ちもわかる。今であれば、教会の尖塔の近くを飛ぶな
ど、といって顰蹙を買うが、当時はおおらかなものだ。
1919 年、アンリ・ファルマンは 2 人の弟ディクとモォリスとともに製造会社を設立。1924 年には「航空
運送総合株式会社」Société générale des trasports aériens を創設して商業飛行に進出した。1933
年に他社と統合されて「エール・フランス」となる。
一見して心配が先立つ複葉機だが、非常に安全
なのだそうだ。ギリシャ政府は、ファルマンから購入した
複葉機で空軍を作った。そのうち 1 機が現存して
いるようで、アテネ軍事博物館の軒先に吊るされて
いるのがそうだという。フランス政府も航空機産業を
有望とみて助成し、郵政までもが応援をした。1984
年に発行された 15 フランの航空切手はなんと
《Farman 60 Goliath》である。YT-A57 同
種機では最後に近いヴァージョンで、ドーヴァー
海峡をわたる旅客機のようであるが、ずい
ぶん形も変わった。バスをその数倍の大きさ
の翼 2 枚で上下に挟み、2 脚の車輪、2 基
の発動機で大空に舞い立たせるような姿は
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5
悪くない。飛行機には、何か得意げで滑稽なところが付きまとう。最近の 700 人乗り総 2
階のエアバスも、この点では変わりがない。人は、飛行機には「夢がある」という。224-5-4
【224-5-5 マルセル・ダソォ】
Marcel D'Assault
1892-1996
YT-2502 はじめに切手を見よう。
人物は、マルセル・ダソォであるが、描かれている航空機 4 機に注目したい。赤色で右端に小さく
描かれているのは、戦前のフランス空軍の主力戦闘機ブロク 150 シリーズ Bloch 150 である。1934 年
から供用された低
翼単座機で、最高
速度 590km/h、上
昇性能 590m/m の
プロペラ機としては
高性能のものであ
ったが、対独戦ではさほど役に立たなかった。早くに占
領され、降参してしまったからだ。次に大きく赤色で、
また遠くに濃紺で書かれているのはミラージュ 2000 系であ
る。これは 2 次大戦後のジェト機時代の主力機であるが、こ
1914 年 Bloch 時代
のシリーズについては女性飛行士の速度記録について述べたことがある(ロワール 4)。後部にエンジ
ン 3 基を置いた白い航空機は民用機で、この「ファルコン 50」タイプのジェト機は世界中で旅客機と
して使用されている。
マルセル・ダソォは、死後のことから先にいえば、政治家、軍人、文化人のいずれでもなくし
て(ただし国会議員であったことはあるが政治家ではない)、パンテオンに葬られた最初の実業
人である。レジョンドヌールの最高位大十字賞佩帯者でもあった。ユダヤ人医師ブロク Bloch の子と
して生まれ、リセ・コンドルセから電子電気技師高等学院の前身であるブルゲ学院 Ecole Breguet と
国立航空宇宙高等学院 SUPAERO で学び、航空機技師となった。1930 年にマルセル・ブロク航空
機会社を設立し、切手にあったブロク 150 シリーズなど軍用機を多く製造した。同社が国有化さ
れたのち、
SAAMB[マルセル・ブ
ロク航空機株式会
社]を起こして、
今日のダソォ・アヴ
ィアシオン社 Dassault
Aviation の 原 型
を構築した。大
戦中はほとんど
が収容所生活で
最後にブヘンヴァル
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6
ト強制収容所で解放された。戦後、ブロク姓からブロク・ダソォへ改姓し、さらにダソォだけの姓に
改めている。レジスタンスの指導者ダリウス将軍(実兄)が偽名としてダソオを用いていたことに因
んだという。国民生活のあらゆる部門で事業に手を染めて成功し、巨額の資産を築いた。
国民からは「まだ生きているのか」といわれながら、100 歳を越えて元気であった。ユダヤ
教からカトリクに改宗した。国民からは「まだユダヤ人だったのか」といわれたが、
「死ぬまでそ
うだ。カトリクがユダヤ人であってなぜ悪い」といって動じることなく、ユダヤ人として 104 歳で
昇天し、臨終のミサにはカトリクの司祭を呼んだ。224-5-5
【224-5-6 ロベール・エスノォ・ペルトリ】
Robert Esnault Pelterie
1881-1957
YT-1526
エスノォ・ペルトリは、フランスの航空機技師であるが、宇宙
航空開発にも大きな足跡をのこした。巨匠ガンドンが
原画と彫版の双方を担当した骨太の切手である。
銀河系宇宙を背景に星型の星をちりばめた発想が
よい。
技師として
の本領は航空
機の設計であ
る。パリで繊維
産業にたずさ
わる生家は裕
星型 5 シリンダモーター
福であった。パり大
学理学部に進んで 1902 年に卒業し、パリ
の西隣ブゥローニュ・シュル・セーヌの別荘に庭に工
現在の操縦桿 Boeing737 タイプ
房を設けて、原動機や旋盤、さらに航空機器の設計に没頭した。1906 年には資本金 80 万
フランの「エスノォ・ペルトリ製作所」を母方の祖母や父親に出資を仰いで設立し、星型発動機を発
明、さらに操縦桿の特許を取った。後者は現在でもその原型をとどめている天才的な発明
品であった。かくして、翌 1907 年、初の 5 シリンダモーター装着全面メタル製で操縦席覆い付きの単
葉機が空に舞い上がった。エスノォは、メタル製で増大した重量も翼を 1 枚にしたらお釣りがきた
と述べている。1908 年に事故があって操縦は他人に譲り、ヴォワザン兄弟 Voisin の工場に続
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7
いて世界で 2 番目となる航空機工場を建造した。同年、同い年のヒコーキ野郎アンドレ・グラネ André
Granet とはからって「航空産業家協会」Association des Industriels de la Locomotion aérienne
を設立し、1909 年にはパリのグランパレで航空博覧会を
開催した。これが今日ブルジェ空港で毎年行われる「国
際航空・宇宙サロン」の嚆矢となった催しである。
さて、その後の航空・宇宙開発における彼の貢献は
一貫して変わらないが、ここでは生涯の後半を語るの
に代えて、時代の変化という枠組みで書き留めておき
たいことがある。
前半期
第 1 次大戦終了まで
エスノォ・ペルトリは航空機の設計・製造に従事し、操縦桿など
重要な特許をいくつも得たが、それらは戦時下で、とくにアメリカでの軍用機生産に多用され
た。これについてアメリカ
政府は特許料の支払いを
難渋したが、最終的に
は製造会社等使用者が支
払いに応じ、彼と出資
者(主として家族)は投
資を回収して富裕とな
った。
後半期
大戦後、彼
は航空機からロケットによる
宇宙開発事業へと進路
を転換し、そこでも多く
の特許をとった。この
分野での彼の寄与は科学
アカデミー会員への選出
(1936 年)によって報いら
れたものの、アメリカ政府
によるまたしてもの特許
料支払い拒否で裏切ら
れた。連邦裁判所等の司
法判断や連邦議会の議決も同様であった。エスノォ・ペルトリの窮状を知ったフランス政府は独自の補
助金を供したが、研究費を賄うに足りず、第2次大戦前のロケット開発は不意の結果となった。
アメリカでは、兵器の開発は民間の軍需産業の仕事で、政府は製品を買い上げるが、それだけ
でない。競争する外国の開発者への特許料の支払いを政府が抑えれば、国内企業はその「保
護」を享受できる。このような国際障壁を背景に開発面で決定的に立ち遅れ、さらにヴィシィ
政権に追われたエスノォ・ペルトリは、スイスに亡命した。他方、アメリカは Peenemünde で V2 ロケットを開
発したウエルナー・フォン・ブラウン博士らを 1945 年 5 月にナチスドイツの手から保護して緊急入国させ宇宙
ロケット開発のスタッフに加えるという僥倖に出会った。エスノォ・ペルトリはスイスにとどまり病苦の末そこ
で生涯を終えたが、死の 2 ヶ月前ソ連の「スプートニク」が最初の宇宙飛行に成功した。ソ連政府
はこの成功の蔭にエスノォ・ペルトリの貢献があったことを公にした。
追補 1/ ソ連が彼に特許料相当を支払ったかは確認できない。2/ 戦後のアメリカが彼へ
の滞納特許料を(第 1 次大戦後のように)精算していたら、彼は、同国に協力しただろう。3/
アメリカ政府の特許料債務否認と宇宙開発競争でのソ連の勝利の 2 点だけは確定された事実だ
が、それ以外のことは、研究半ばでまだわからない。22-5-6
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8
【224-5-7 ウジェヌ・デュクレテ】 Eugène Ducretet
1844-1915
YT-1770
電気物理学の分
野で実用上の大きな貢献をした実業家である。最大の功績は無線通信に関するもので、フラン
スで初めてラジオに送受信の実用実験に成功した。1898 年の
ことである。完成したエフェル塔からパンテオンまで、直線距離で
4km 程の 2 地点間での送信に成功した。デクレテは単なる研
究者でなく製品化、商品化のシステムにつなげて開発を進める
ことができたため、無線通信の成功後の進捗は素晴らしい
ものがあった。1864 年に創設された「デュクレテ」は「デュクレ
テーロジェ」となったあと、1931 年に「トムソン」に買収されて「デ
ュクレテ=トムソン」となった。レ
コード
しいレーベル
・ファン
にとってこれほど懐か
はないであろう。224-5-7
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9
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