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503 - フランスの切手
ノォル-パドカレ 図版博物館 vol.30 III 土地の記憶 16 Musée imaginaire philatélique Région Nord-Pas de Calais au travers des timbres français 4e éd. 2013 【5-3-1 カレ】 パドカレ県の海の玄関はカレである。海峡トンネルができる前はイギリスへの玄関で、フェリ ーによる連絡が主要な手段であった。2 枚の切手を見よう。左は 1961 に発行された 85 サンチー ム切手で、鐘楼を有する市役所が描かれている YT-1316。右は、ユーロ移行期の 2001 年に発行 された 3 フラン切 手であり、これ にも市庁舎と鐘 楼が描かれてい るが、同時に灯 台と岸壁とフェリー ボートもこの町の シンボルのようだ YT-3401。フェリーといえば海峡トンネルの開通でどのような影響があったか。おお よそ 1990 年比の 1998 年実績はフェリー横這いから漸増、旅行者 5 割増し、船荷扱いトン数倍増とのことで、高額の英仏新幹線 よりも列車ごと運ばれるフェリーのほうが人気がある、というこ ともわかる。トンネルでは何も見えないので日帰りのビジネスマンと 日本からの観光客ばかりだ、とは、私も体験したところだ。 鐘楼のある市庁舎は本当に美しい。夜景がよい。鐘楼はこ の地方の人々の郷愁を無性に駆りたてるようで、鐘楼のない 市役所は舳先のない船のようなものだ(どこへ行くかわから ぬ)と何かに書いてあった。5-3-1 【5-3-2 ブゥローニ ュ・シュル・メール】 フ ランスには(パリを 含めて)ブゥローニ ュという地名が 非常に多いら ©bibliotheca philatelica inamoto 1 しく、ここでは〈B…..sur Mer〉 (海に臨む B….)と付けている。人口 4 万5千でかなり大き い町だが、港は典型的な漁港で、北海の魚(たら、にしん、ひらめ[ドーバー・ソールはブゥローニュ 港水揚げのものがよい。ロンドンの良心的な(稀)レストランではそのように水揚げ港を表記して いる]など)をフランス全土に供給 している YT-1503 。パリまで 300km ほどの道のりを疾走 する 4 頭立て荷馬車を見つけ たら鮮魚エクスプレスだと思えば よい(昔の話だが、なぜか切 手になっている)YT-3106 。 この町でも鐘楼は重要なシン ボルだが、他所よりどっしりと 頑丈な印象を与える。この町 の建造物には、右のブゥローニュ 城もそうだが、石を組み上げ た作りが多い。なお、この鐘楼も非常に重要なものと見え、ユネスコの世界遺産に指定されて いる。5-3-2 【5-3-3 海難者の慰霊碑】 YT-447 次は、やや古い 1939 年の切手であるが、ブゥローニュ・シュル・ メールにある海難者の慰霊碑である。すでに述べたがカレ海峡は気 象・海流・干満等の自然条件に加えて通行する船舶、艦船が過 密であるところから海難事故が多い。このあたり一帯にかけて 慰霊碑と思われる石碑が多いということを聞いたが、とすれば、 北海を主要な漁場とするブゥ ローニュの漁民にとって、石碑に 込められた祈りは宿命的な ものかもしれない。モニュメントの 作者はデリュエル Félix-Alexandre Desruelles で美術アカデミー会員である。彼が 1929 年に制作した 「リールの銃殺」は夜撮影された写真であるためか凄味がある。1940 年にドイツ軍が怒って爆 破してしまった。デリュエルの未亡人 ©bibliotheca philatelica inamoto Germaine Oury- Desruelles はもっと怒って 1960 年に自 2 分で彫りなおしてしまった。彼女もまた、この地方では知られた彫刻家であったのである。 5-3-3 【5-3-4 ランス】 パドカレ県の中央に位置するランス Lens はフランスで有数の炭鉱・工業都市である。 この地でもフランス郵趣団体連合の全国大会が 1970 年(43 回)と 1987 年(60 回)と、ダンケル ク同様にあまり間 を おかず に開か れている。2 枚の 開 催 地 切 手 YT-1642, YT-2476 を みると 環境問 題 が議論 される 前と後での違いがはっきりわかるようだ。右の切手のイメージは炭鉱のほとんどが閉鎖された 現在の下の写真に近い。この町は、30 年戦争で 天下分け目の戦いとなった「ランスの戦い」の地で あって、歴史的によく知られているところだ。文 化都市を目指すと市の基本計画に書かれている が、来年か再来年ここにパリのルーヴル美術館の分室 ができると訪れる人もまた多くなるだろう。 5-3-4 【5-3-5 ル・トウケ・パリ・プラージュ】 YT-1355 右の写真は作家のプロスペール・ メリメ Prosper Mérimé(1803-70)でいずれ出身地のパリ(【イ-ルドフランス 6-3】) で取り上げることになろうが、パドカレ県には彼の名から辿って行って 行き着く町がある。それはル・トウケ・パリ・プラージュ Le-Touquet-Paris-Plage である。もともとはル・トゥケといったようだが、あるときからパリ・プラ ージュがついて現在の市町村名 になり、ふたたび略称でル・トゥケ と呼ばれている。法学部出身のメリメは 7 月王政発足時 に海軍・植民地省に入り 1834 年には(彼の父がかつ てその秘書官をした)歴史 的 記 念 物 総 監 督 官 inspecteur général des Monuments historiques に補せられた。この職に在任中フランス全土の 文化財を調査し、その成果の一つとして全国の秀抜な建造物を登 録した目録を残した。この功労を記念するため文化省は、 《Base de ©bibliotheca philatelica inamoto 3 Mérimé》と命名したデータベースを開設し、それに歴史的記念物の全体を登録し、さらに「顕 著な建築記念物」の目録を設けて、ウェブ上で公開している。この目録に最も濃密に建造物 が登場する地域、それがル・トゥケなのである。個人の邸宅、ホテルからカジノなどの遊興施設まで、 パリの富豪や数寄者がここで繰り広げる世界があるようだが、ともかくも別天地のようでそ れ自体が観光資源となった。昨今ではかつての華かさはないものの、 「歴史的記念物」とし ては一見に値するようだ。とくに海峡を越えて初めてフランスにきた Ladies & gentlemen にとっ てカルチャー・ショックとなることは計算済みのようである。パリ・プラージュという観光地的名称もそ のためのものだろう。5-3-5 【5-3-6 アラス】 最後は、パドカレ県の主邑アラス Arras、北仏を旅するときは必ず立ち寄りたい歴 史の町である。写真は少し暗い(早朝の映像)が、左に市庁舎と鐘楼のある英雄広場 Place des Héros が、右にグランプラス Grand’Place が見える。2 つの壮大な広場をこのように近接させて 築造した例は 他にないだろ う。この 2 つの 広場を含めて、 辺り一帯は第 1 次大戦で破壊 された。ドイツの最前線から数キロしか離れて隔たっ ていないため、ドイツ陣地への砲撃の返礼はこのアラ スの町に集中したという。上はグランプラス(1919 年)、 左は近くの rue des Grands Viéziers の 荒廃を絵葉書にした ものである。今日の 街並みはすべて在り し日のそれを忠実に 復元したもので、上 の 2 点は復興を終え た英雄広場(昔のマルシェ広場)である。この広場は今日でも、市の日には多数の市民が食料 品や衣類などを求めて集まる place des Marchés となる。右はその遠望である。 ©bibliotheca philatelica inamoto 4 アラスに関する切手はのちに取り上げる肖像切手を別にして 3 点 ある。ひとつはその幻想的は雰囲気がとてもよい 1942 年の 10 フラ ン切手でドイツ軍の直接支配下にあったこの町をテーマにヴィシィ政府に よって発行された YT-567。淋しすぎると言う人がいるが、わかる ような気もする。これとは対照的に、しかし、別の意味で淋しい のは 2003 年に観光切手として発行された横長大版の切手である YT-3605。なぜそのようなことをいうかといえば、同じ広場を描い いち たにかかわらず、市の立つ場所という雰囲気がないからである。 これにはだれも口をつぐんで正面からは言わないのだが、それぞ れの建物の所有者、 区分所有者、賃借 人等建物に権利を 持つ人たちの同意 が得られない限り、 建物の外観であっ ても個々の部分が 特定されるような絵図は切手として制作できないからだ。私はフランス革命の頃にロベスピエールが どこに住みどの場所で誰と会ったかまでが判っている歴史そのものの街並みはやはりそれ らしく切手にして欲しいと願うのだが、世論と郵政と土地建物 の権利者が折り合うとこのようになるのだろう。それはそれと して、鐘楼はどの切手にも出てくることを見てほしい。アラスのそ れが他所に比して素晴らしいものであることは異論のないとこ ろである。 アラスの切手としてもう 1 つここで挙げておきたいのは 667 年に 定礎されたサン・ヴァースト大修道院 Abbaye de Saint Vaast のタピスリで ある YT-2915。アラスの郊外の丘にあり、市内にある同名のカテドラル Cathédrale Notre-Dame-et-Saint-Vaast が比較的新しく(1778 年)、また第 1 次大戦で破壊され ©bibliotheca philatelica inamoto 5 た後の復元であるため、市民は信仰の対象としての大修道院と利便性のよい新しいカテドラル の双方をそれぞれ利用しているように思われる。その大修道院のタピスリについては全容は明 らかでないが、1994 年の赤十字付加金つきのこの切手で広く知られるようになったことは 幸いであった。5-3-6 【5-3-7 ノォル・パドカレの植物・味覚】 2009 年にノォル・パドカレを代表する植物として選ばれたのは:ジャガイモ 2010 年にノォル・パドカレを代表する食品として選ばれたのは:マロワル・チーズ ← Pomme de terre YT-AA302 → Maroilles YT-AA433 ↓ 昔、チーズについて何も知らなかったころ、パリのクレムリー(チーズ 屋)で、産地をマロワーユと言って直された。アヴェヌ・シュル・エルプの 近くの村である。北フランスのこの地方では-oille は [-wal]と発 音するとフランスの友人からも教えられた。今では、日本のビス トロのおやじもよく知っているフランス「食の常識」であるが。 ノォル県はジャガイモの主産地。作付は 45,000ha(フランス全体で 110,000ha)にのぼる。メークイン系でフリットに好適。ジャガイモをフラン スに定着させたパルマンチエについては【ピカルディ 3】で述べる。 5-3-7 ©bibliotheca philatelica inamoto 6