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ノルマンディ VII
図版博物館 vol.16
人の記憶 6
Musée imaginaire philatélique
Régions Normandie au travers des timbres français
4e éd. 2013
【2-7-1 アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン】
Anne Hilarion de Cotentin, maréchal
de Tourville
1642 - 1701
YT-600
de Cotentin, comte
ルイ 14 世治下の海軍副
提督、元帥。カルヴァドス県トゥルヴィル・シュル・シエンヌ Tourville sur Sienne の城
館(またはパリ)で生まれる。24 歳で大尉・艦長として海軍に加
わり、1670 年代の対オランダ・スペイン戦争では、既に見たアブラム・デュケヌ
とともに数次にわたり勝利を収めた。Ruyter が率いるオランダ海軍を
制圧して以来昇進をつづけ、1682 年には海軍中将、89 年には副提
督となるが、提督デストレはすでに一線から退いていたのでそれに代
って全海軍を指揮する地位にあった。コタンタンは海戦の指揮だけでな
く海軍の組織全般についてすぐれた経営能力を具えていたといわ
れる。のちにサンシモン Saint Simon が「トゥルヴィルは、船大工の仕事から
提督のそれまで、海軍に関するすべての分野を完璧に掌握していた」と称賛して述べてい
る所以である。1690 年には、イギリスに対
するフランス海軍史上のすべての海戦の中で
最も輝かしいものといわれるビーチーヘッド
Beachy Head の
戦いで勝利した。
これに対して
1692 年のラウーグ
の海戦 Bataille
de La Hougue ではイギリス・オランダ連合艦隊に敗北し
La Hougue の海戦
たが、海戦の地点がコタンタン沖であったために多くの人命が救助され
た。この敗北に対する報復は、翌 93 年のラゴス海戦で 80 余隻の敵
商船を破壊・略取し、3000 万リーヴルの損失を与えたことによって
果たされた、と戦史家はいう。その功によって全 93 艘のフランス艦隊
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1
総指令官トゥルヴィルは元帥に叙せられた。彼は「フランス海軍がイギリス海軍を制圧した限られた時
代」の幸運なる武将であった。2-7-1
【2-7-2 カヴァリエ・ド・ラサル】 René Robert Cavelier, sieur de la Salle
1643-87
YT-2250
アメリカ五大湖地方、カナダ、ミシシッピー流域、メキシコ湾を調査した探検家。ルイジアナの発見者とさ
れる。ルーアンの富裕な商家に生まれ、神学校で教育を受けたのち、1663 年にカナダモントリオール地方
(Nouvelle France)に渡る。総督 Louis de Buade de
Frontenac の支援のもとにオンタリオ、エリー湖地域を調査、
フランスに一旦帰国して爵位と毛皮商特許を得る。1678
年からの第 2 次遠征ではミシガン、ヒューロン湖地域を調査、
1680 年からはミシシッピー河を下ってメキシコ湾に至り流域
一帯の取得を宣言し、その地をルイ 14 世に因んでルイジ
アナと命名した。国王は入植を命じながらもはじめは
これを高く評価しなかったが、1683 年にスペインがフランスに宣戦してからは状況が変わった。ラ
サルは国王の命を受けその財政的支援のもとにメキシコの銀山を含めて北米での利権確保に乗り
出す。彼は 1684 年、ルイジアナ総督の肩書のもとに 300 人の入植
者を伴い軍艦数隻を含む大編成でラロシェルを出港した。しかし、
針路の誤りや海難事故、さらには海賊による被害などで目的
を達せず、ラサルに同行した海軍派遣の司令官タンギィ・ル・ガロア
Tanguy Le Gallois de Beaujeu は不和を理由にフランスに帰国した。
ラサルのもとに残ったのは小型のフリゲート艦 La Belle 号 1 隻と入植
者 180 人のみであった。現在のテキサス州ヴィクトリアの近くに
Saint-Louis の砦をつくり、そこからミシシッピーを目指して東へ進
んだが, 600km 以上を残してインディアンの攻撃、La Belle 号の座
礁、糧秣の不足、脱走、事故などによって力尽き、残るところ子供7人を含む 40 人のみと
なった。ラサルは決意してうち 16 人を伴いキャンプを去ったが、仲間割れののち 1687 年 3 月に暗
殺されて生涯を終えた。その間、ラサルがフランス領と宣言したカナダとミシシッピー左岸は 7 年戦争の
結果 1673 年にイギリスにとられ、右岸とニューオーリンズは 1762 年のフォンテヌブロォ条約でスペインに割譲
された。その後 1800 年にはルイジアナをスペインから取り戻すが、1803 年にはナポレオンによってアメ
リカに委譲された。ラサルは歴史に名を残したが、母国のためには何らの領土も残さなかった。
しかし、幸いなるかなフランス人は、アメリカ合衆国のど真ん中がかつてフランス領であったことを忘
れず、「アメリカはフランスから贈り物によって現在の国土を保持している」と言いたいのである。
そのような同胞の心の中にラサルはなお生き続けている。2-7-2
【2-7-3 ベルナ-ル・ルボヴィエ・ド・フォントネル】 Bernard le Bovier de Fontenelle 1657-1757
YT-1487
科学アカデミー創立 300 年を記念してフォントネルの肖像を大きく掲げたこの切手が発行された。ル
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2
ーアンに生まれ、その地のジェジュイト派の神学校で学び「あらゆる面で完璧な青年」と評された
フォントネルは、弁護士であった父に従って法曹の道に入ったが最初の事件で敗訴、劇作家コルネイユ
を母方の伯父にもつ影響からか、パリに出て文学の道に転じた。しかし、そこで志した劇作
の仕事ではほとんど評価されず、26 歳を過ぎて哲学や科学の普及啓蒙を目的とした執筆を
始めてから文筆家として成功を収めるようになった。中でも『新・死者との対話』(1683)
や(方法的にはデカルトの宇宙論を踏まえながら)公爵夫人に宇宙について教える形式をとっ
た『世界の多様性についての対話』
(1686)は大きな
反響を得た。フルゥラン Flourens は彼を評して「フォントネル
は、引用元ではあいまいでありがちなところを明確
にし、技術的にとらえている事柄を一般化する二重
の才能を具えている」という。いいかえれば、
「科学
についてやさしく正確に話すために十分な知識を有
しながら、他
方で抽象的で
分かりにくく
なる危険を冒すほどには深入りしない、そのような精
神の持ち主」だと、wikipedia(仏語版)の評者は言う。
1691 年アカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、歓迎の挨拶を
受けて「世界には私より優れている人間は 39 人しか
いない(定員 40 人)」と述べた。1699-1737 年まで科学アカデミーの終身事務局長、さらに長生
きをして 99 歳 11 カ月の天寿を全うした。食通でも知られ、長生きの秘訣は苺だと言った。
「知性というよりは聡明さが特徴であり、多くのことを言うよりは少しのことを上手に言
うことに長けていた」(同日本語版)。2-7-3
【2-7-4 ジャク・ダヴィエル】
Jacques Daviel
1693-1762
YT-1374
ウル県ラバル La Barre に生
まれた眼科医・外科医で、白内障の手術に初めて成
功したことで知られる。リヨンの Hôtel-Dieu 病院で解剖
学を学び、ペストが流行したマルセイユに赴いて研修する。
1722 年に外科医資格を取得、1734 年に眼科医になり
1745 年には眼球から水晶体を取り出すことに成功し
て白内障治療に道を開いた。パリのレザンヴァリド Hôtel
des Invalides で医師を務め、のちにルイ 15 世付きの眼
科医となる。1759 年王立スエーデン科学アカデミーの外国人会員、1762 年にスイス旅行中脳卒中で死
亡。2-7-4
【2-7-5 ピエール・シモン・ド・ラプラス】
Pierre Simon de Laplace
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1749-1827
YT-1031
ラプラスと、次
3
に取り上げるルヴェリエは、18-19 世紀にノルマンディが生んだ卓越した数学者である。2 人は、数学を最
大限に駆使して天体論ないし天体力学の最新の発見をし、最新の理論仮設を提示したこと、つ
まり天文学者であった点でも共通している。
ラプラスは、カルヴァドス県ボォモンタノジユ Beaumont en Auge の出身だが、生家は僅かの土地しかも
たない農業労働者であったようで、青少年時代の生活や教育につい
ては知られていない。カァン大学に進み Christophe Gadbled に数学を
学んだということだが、この「師」については、ラプラスを教えた
らしいという以外は判っていない。他方、当時教員として在籍し
たダランベール d’Alembert がラプラスの才能を評価して陸軍士官学校
Ecole militaire への推薦状を書き、それによってラプラスが恵まれた
(忙しくない)研究環境を与えら
れることになったことは確かであ
るようだ。ラプラスは、衆目の一致す
るところナポレオン時代のフランス最高の
科学者であり、主著『確率論の解析理論』Théorie analytique des
probabilité は今日でもこの分野
での必読の文献であるという。
また、もうひとつの主著『天体
力学』Traité de
mécanique
céleste は,「確率論」を受けて、
「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知
ブラックホール模式図
ることができ、かつ、もしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性
intellect が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その
目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。」という。このような「決定論」を
前提としている点で量子力学以降の「天体物理学」や今日の「宇宙起源論」とは相いれな
いが,
だからといってその科学史上の意義はなんら減ずるところがない。現に、いまだ実
体として解明されていない「ブラックホール」の存在を主張したのも
300 年前のラプラスであった。 ラプラスにはもう一つの政治家とし
La Place の方程式
ての面がある。ナポレオンのもとで 1 カ月ほど内務大臣に任じられ
たことがあり、ルイ 18 世(王政復古)の時代には元老院議員であった。だが、
「決定論」か
らは最も遠い「一寸先は闇」の世界にはおそらく馴染めなかったのではないか。2-7-5
【2-7-6 ユルバン・ジャン・ジョゼフ・ルヴェリエ】
Urbain Jean Joseph Le Verrier
1811-77
YT-1147
もうひとりの数学者=天文学者ユルバン・ルヴェリエは、マンシュ県のサンロー Saint Lô で 1811 年に生まれ、
カァンの Collège royal(王立中学)で数学を学び、パリのルイ・ルグラン中学を経て理工学校(Ecole
polytechnique)に進んだ。しかし、卒業後はタバコ工場の技師になったり、ゲイリュサクの化学工
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場に勤めたりしていたこともあって、はじめから天文学の道を目指したのではない。いや、
天文学は偶然の機会にやってきた。
1837 年、母校の理工学校の化学の
自習監督 répétiteur に志願したが、
のちに写真術とガス分析の大家と
なる ルニョォ Henri Victor Regnaud と
競争して敗れ、代りのポストとして
提示された「測地学、天文学およ
び機械学」の助教となった(1837)。
彼がこのポストを得たことは天文学
にとって僥倖であった。2 年後に
「天体軌道の 100 年周期変動」に関する論文をアカデミーに提出して注目された。その後、パ
リ天文台に職を得て天体力学の研究に専念、1846 年に海王星 Neptune の存在とその位置を
計算によって予言した。この発見については Wikipedia(日本語版)に信頼できる記述があ
るので、以下それに譲る。
「ルヴェリエの最も有名な業績は、天文計算と観測のみによる海王星の発見である。数学者フラン
ソワ・アラゴの勧めによって、ルヴェリエは天王星の軌道運動の観測結果とケプラーの法則やケプラー力学
から予言される運動との間の矛盾を説明するための計算を行った。彼と同時期にイギリスのア
ダムズも同じ計算を行っていたが、互いに相手の研究については知らなかった。ルヴェリエは計
算結果をドイツのガレに報告し、1846 年 9 月にガレは新しい惑星を発見した。発見位置はみず
がめ座にあり、ルヴェリエの予言から 1 度以内の位置で見つかった(今日では海王星の発見者
はこの三者であるとされているが、海王星発見の業績に関して三者の貢献をどう評価する
かについてはかつて議論があった)。」
ところで、このルヴェリエ氏もまたラプラス氏と同じ道(ノルマンディ∼数学者∼天文学者∼政治家)
をたどったことを付記しておこう。1849 年マンシュ県選出国民議会議員、1852 年高等教育総監、
同年マンシュ県会議員(1858−70 年同議長)
。引退して再び天文学に。地球と太陽の距離を下
方修正する仮設を発表するなど、恐れ入るばかりである。1877 年死去。2-7-6
【2-7-7 ニコラ・デジュネット】
Nicolas-René Dufriche Desgenettes
1762-1837
YT-1735
ルーアン高等法院の司法官を父としてアランソンで生まれた。パリに出て Collège du Plessis などで学ん
だ後 Collège de France で医学の道に進む。さらにイタリア、イギリスで修業を積んだのち、1789 年、
フランス革命勃発の年に帰国。ジロンド派に与するが、山岳派による恐怖政治を恐れてルーアンに避
難し、軍医を志願した。諸国からの軍事圧力が強まるなかで、祖国防衛のためイタリア国境に
集結した部隊に合流。軍医として人命の救助に尽くした。1793-95 年のイタリア戦線ではナポレオ
ンの知るところとなり、その信頼を得てエジプト遠征をはじめ種々の軍事作戦に招集された。
イタリアの事情と言語に通暁した医師が前線において果たす役割は大きく、軍に置ける非戦闘
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要員としての医師の存在の重要性を知らしめたという。とはいえ、
ナポレオンの統治下においても戦争は止むことなくつづき、戦場と戦
況は刻々と変わるのが常であった。デジュネットは、フランス軍が勝者で
あれ敗者であれ軍医としてなすべきことに限度がなく、休息がな
いことを熟知しながら、ナポレオンの要請に応えてきたといってよい。
軍医としての昇進がこれに伴った。その膨大な資料から、いくつ
かの場面を拾ってみよう。1807 年、皇帝直属の総司令部への 24
時間内の着任命令。死の間際にある息子の介抱をやめて出仕し、
プロイセン諸地方で戦闘を続けるフランス帝国の軍隊と行動を共にした。
ティルジトの和平協定で休戦となった機会に退役して家族のもとへ戻
ることを申し出たが、皇帝はこれを退けた。デジュネットは一旦パリへ戻り、1808 年 10 月には
皇帝に付き添ってスペインに参戦した。1810 年男爵位を授与され、1812 年のロシヤ遠征に参加。
敗退して帰る途中の 12 月 Vilna で捕虜となるが、氏名を告げる
と直ちに釈放され、コサック兵が仏軍の前哨基地まで送り届けたと
いう。かつてロシア軍捕虜に治療を施したことの返礼と考えられ
ている。1813 年、ライプチヒの戦いで敗北を喫した後トルゴォの城塞
に立て籠っているときに、帝国軍医総監に任じられたが身動き
ができない。1814 年 1 月に投降しフランスに戻る途中ドレスデンで再
び捕虜となったため帰国は 5 月末となったが、すでにその時に
は帝国軍医総監のポストを解任されていた。パリ大学衛生学教授
の職も同様であった。失意のデジュネットに対して、のちに陸軍大
臣に就任したダルマシィ公爵は復職を認めた。軍医のトップとしてのその地位は「ナポレオンの百日
天下」の間も、また王政復古から 7 月王政にかけても基本的に維持された。軍医が単に軍
人であるだけならば、勝敗によって、また政変のたびに去就が問われる。デジュネットがこの
変動の時代にあって高い評価を受け続けたのは、その医師としての信頼によるものであろ
う。上の切手は 1972 年に赤十字付加金つきで発行されたものであるが、軍医が赤十字のマー
クのもとに切手になるのは稀なことである。なお、1792 年の相方[YT-1736]は、[ブルターニュ 5]
で取り上げた食養生論者のブルゥセ Broussais であった。2-7-7
次は、ノルマンディ出身の作曲家オォベールとサティの 2 人である。2 人には時代として 1 世紀の隔たりがあ
るが、同じカルヴァドス県の生れである誼で続けて取り上
げたい。およそ、性格が異なる 2 人だが。
【2-7-8 ダニエル・フランソワ・エスプリ・オォベール】
Esprit Auber
1782-1871
YT-1667
Daniel François
オォベールはカァン出
身のオペラ作曲家で、生涯にオペラ 7 本、オペラコミク 36 本を
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書いた。パリの地下鉄で「OPERA」の隣りの駅にその名を残す「AUBER」とはこの人である。1789
年の革命で一家そろってパリに移り、この街を愛して一生を過ごした。パリの外に散歩に出る時
間などおよそなかった、と述懐している。しかし、青年時代に、版画商であった父の仕事を習
得するためロンドンに送られるが英仏関係の悪化で 1 年で帰国(1803)、その間に身に付けたジェン
トルマンの身のこなしと内に秘めたフランス人のエスプリ(その名のごとく)の両面は一生かわらなかった。
卓越した知識と洗練された話題の持ち主、洒脱で食通のパリジアンとして自他ともに認める存在で
あったようだ。
彼のオペラは今日上演の機会が少なくなっているが、当時はオペラ座
で 500 回以上の公演記録をもつ《La
Muette
de Portici》(ポルチチの唖娘)
など、大いに受けた作品が少なくな
い。オォベールはロッシーニを敬愛してやまな
かったが、1823 年に直接に知遇を得
たのちのロッシーニの影響は絶大であっ
た。他方で、オォベールは、ほぼ同じ時期にオペラの台本作者ウジェヌ・スクリブ Eugène Scribe と相知る
ようになり、そこから多くの共同の作品(オペラコミクが多い)が生まれた。二人の親密な関係
は Scribe の死まで続いた。前頁の切手はオペラコミク「Fra Diavolo」(1830)の楽譜とオォベールで
あり、左上は 2008-09 年のシーズンにオペラコミク座で公演された時のポスターからの切り抜きであ
る。この作品もスクリブとの共同の企画で生まれたものである。2-7-8
【2-7-9 アルフレド・エリク・サティ 】
Leslie Satie
1866-1925
Alfred Erik
YT-2748
サティは、ルアーヴルとセェヌ河口を挟んで向かい
合う港町オンフルールの出身の作曲家で、ピアニ
ストとしても知られている。パリに出てモンマ
ルトルに住み、マラルメ、ヴェルレーヌ、コンタミーヌなど
傑出した詩人たちと知り合うが、サティ自身
は独特のユーモアをもった作品を作りながら
売れず、一時期を除いて貧困のうちに生涯を過した。ピアノ曲を中
心とするその作品は、死後現在に至るまで時代を超えて人々を魅了し、熱烈な愛好者が絶
えない。ここでは作品そのものには触れず、交友関係を通じて影響を与えあった芸術家を
列挙し、その人と時代を感じ取ってもらいたい、と思う。 V.d’Indy, A.Roussel, J.Cocteau,
G.Auric, L.Durey, A.Honegger, D.Milhaud, F.Poulenc, G.Tailleferre,Picasso,G.Braque, T.Tzara,
F.Picabia,A.Derain,M.Duchamp,M.Ray, イ タ リ ア の 事 情 と 言 語 に 通 暁 し た H.Cliquet-Pleyel,
R.Désormière, M.Jacob, H. Sauguet, J.Cage, C.Debussy, M.Ravel など。 上の切手は 1992 年発行
の著名人シリーズの 1 点で、サティの戯画(影絵)にその肖像を重ねている。2-7-9
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