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ロォヌ−アルプ 図版博物館 vol.130 XIII 人の記憶 62 Musée imaginaire philatélique Région Rhône-Alpes au travers des timbres français 4e éd. 2013 【18-13-1 マルク・スガン】 Marc Seguin 1786-1875 YT-2399 アルデシュ県アノネィ Annonay で生まれる。母親の名は Thérèse-Augustine de Montgolfier 気球を挙げて有名になった Joseph と Étienne 兄弟の姪 にあたる。27 歳で結婚し 13 人の子に恵まれたが、その妻 を亡くして再婚し、6 人の子 を追加した。先に切手を見よ う。肖像の左にあるのは吊橋 で、画面の下は蒸気機関であ る。スガンは発明家であり事業 者であるが発明品はこの 2 点なのである。 まず、吊橋について。最初 の作品は故郷アノネィのカンス Cance 川にかけた 18m の歩道橋であったようだが、詳しくは分から ない。彼自身によるさまざまな工夫が施された吊橋は 1823 年に竣工したジュネヴの「サンタントワ ヌ通行橋」である。1 つの主塔とその両サイドの 2 つの支塔によって鉄鋼ケーブルで吊りあげ上げ られる幅員 2m の橋だが、橋自体の重量 8t に対して 10.5tまでの荷重に耐えられるという。ついで 25 年に は ア ル テ ゙ シ ュ 県 の Tournon-sur-Rhône と ト ゙ ロ ム 県 の Tain-l'Hermitage を結ぶ通行橋を建設した。この橋は 設計者の名を取って「スガン通行橋」と呼ばれている (右)。このよう な吊橋はフランス、 イタリア、スペインで 65 橋が確認されている。 パリでは、グレヴ通行橋が彼の作品であったが、取り 壊されて今はその個所にアルコル橋が架けられている。絵 画でそれを偲ぶことが出来る(左)。 次に蒸気機関について。スガンはフランスで 2 番目のに古 ©bibliotheca philatelica inamoto 1 いリヨン― サンテチエンヌ鉄道にかかわっていたので、イギリスのスティブンソンが開発した蒸気機関車を改良 した国産 1 号機を走らせることに情熱を抱いていた。彼の寄与は水管式蒸気機関を発明し たことであって、それによりスティブンソン型機関車の出力を 6 倍に高め、1829 年のレインヒル・トライア ルで「ロケット号」を 優勝させた。 企業家として も、父親や兄弟 が展開した繊維、 製紙、ガス灯、石 炭鉱山、鉄道、 橋梁の建設の諸 部門の事業で成 功した。スガンは、1845 年に科学 アカデミーの会員に選ばれている。18-13-1 【18-13-2 ルイ・アルマン】 Louis Armand 1905-71 YT-2148 ルイ・アルマンは、フランス国有鉄道 Société 2148nationale du Chemin de Fer S.N.C.F.きっての技術者で戦前から戦後 50 年代まで 同国鉄を文字通り牽引した伝説的存在でもある。アルマンについては、ウイキペディア日本語版の記 述が英語、フランス語、ドイツ語の各版に比して遜色がなく、的確な表現で分かりやすくまとめ られているので、ここではその本文部分を転載することとする(フォントについてのみ他の項 目と共通の様式に統一した。写真はアカデミー・フランセーズ系のサイトから採用した)。 ルイ・アルマンはオート=サヴォワ県クリュセイユ Cruseilles で教師の子として生まれた。エコール・ポリテクニークを経て パリ国立高等鉱業学校へ進学した。1929 年には 鉱山技師としてクレルモン=フェランに赴任した。この とき、ヴィシー盆地におけるミネラルウオーターの水源調 査で業績を挙げた。1934 年にはパリ・リヨン・地 中海鉄道の技術者となった。同鉄道は 1938 年 に国有化されてフランス国鉄の一部となる。この 時期アルマンは蒸気機関車のボイラー内の配管に石 灰が付着するのを防ぐ技術を開発した。これ は機関車に給水する水に炭酸ナトリウム、水酸化ナト リウム、タンニンを加える処置をするもので、ボイラー の保守の負担を大きく軽減したのみならず、 機関車の燃費向上にも効果があった。第二次 世界大戦下の 1943 年には、鉄道職員からなるレジスタンス組織「レジスタンス・フェール Résistance-fer」 の結成に加わり、ドイツ軍の鉄道輸送を妨害する工作に従事した。1944 年 6 月 25 日にはドイ ©bibliotheca philatelica inamoto 2 ツに逮捕されるが、パリ解放時に解放された。同年 11 月 18 日には解放勲章を受章している。 1945 年にはフランス国鉄の車両局長に抜擢され、1951 年からは副総裁 directeur général、1955 年 から 1958 年までは総裁(président)を務めた。フランス国鉄のトップとし て、アルマンは鉄道の近代化、特に高速化と電化を推進した。1955 年 3 月 28 日と 29 日には ボルドー近くで電気機関車による 331km/h という当時としては画期的な速度記録を達成した。また ドイツから吸収した商用周波数(50Hz)による交流電化技術を実用 化し、アルプス地域のアヌシー線での試験の後、1955 年 5 月にはフランス北 部のヴァランシエンヌ Valenciennes –ティオンヴィル Thionville 間 271km で本格 採用した。それまでフランス国鉄の電化方式は直流 1500V が主であ ったが、これ以降は交流 25kV, 50Hz が主流となった。また 1957 年には英仏海峡トンネル協会を設立し、トンネル実現に向けた研究を開始 した。1958 年から 1959 年までは欧州原子力共同体初代委員長を務めた。シャルル・ドゴール政権 下の 1960 年には、経済学者ジャック・リュエフとともにヨーロッパ共同市場を提言するリュフ・アルマン計画を 起草した。1961 年には国際鉄道連合(UIC)事務局長に就任し、1971 年の死去までその地位に あった。アルマンは世界各国から幹部職員を登用し、それまでフランス中心の組織だった UIC を国 際的な組織に脱皮させた。1963 年にはアカデミー・フランセース会員に列せられている。18-13-2 【18-13-3 バンジャマン・ドレセール】 Jules Paul Benjamin Delessert 1773-1847 YT-303 リヨン生まれの実業家で博物学者として知られた人である。家系はプロテスタントでスイスのヴォー 州から 1735 年にフランスへ来た。父親エチエンヌの代からの実業家でいくつもの 保険会社を作り、割引銀行を創立した。母親もサロンというほどではない が、少年向き作家のアルノォ・ベルカン、学者ベンジャマン・フランクリン、地質学者アンド レ・ドリュク、それにジャンージャク・ルソォなどと親交があり、ルソォは、彼女と娘に と言って「植物についてのやさしい話」Lettres élémentaires sur la botanique を献呈している。 バンジャマンは、父親の考えにし たがって、少年時代にイギリスを旅行し、各地でかなり の大物に会っている。エジンバラでダグラス・スチュアート、ジ ョン・プレイフェ、アダム・スミス、バーミンガムではジェームス・ワット、 ウインザーではジャン・アンドレ・ドリュクと、とこういう具合で ある。フランスに帰ってムランの砲兵学校に入学し、抜群の 出来で卒業時には大尉に昇進、国民衛兵に入り、ベルギー戦線で実戦を経験した。 父親は彼を信頼し大きな期待を持っていたようである。22 歳のバンジャマンを呼び戻し、資 産の管理を委ね、銀行の経営を任せた。事柄は順調に運び、すでに知己の関係にあったワット の蒸気機関を工場の動力体系の基幹とする構想も描かれた。1801 年にパシィに設けた工場で ©bibliotheca philatelica inamoto 3 は新しい手法による甜菜糖の製造が始まっており、それは程なく全国的に拡大された。連 合軍によるフランス封鎖の最中にバンジャマンが新しい精糖手法を開発し得たことは国民にとって も彼にとっても幸運であったようだ。ナポレオンは彼にその功を賞してレジョンドヌールシュヴァリエ章を 与え、1812 年には帝国男爵の爵位も与えた。 1818 年に彼はロシュフコォ François Alexandre Frédéric de La Rochefoucauld, duc de Liancourt と ともに貯蓄金庫 Caisse d’Epargne を創設した。国民大衆から貯金を集め、利息付で払い戻し に応ずる相互金庫で、国がその支払いに保証を与えるか否かが重要なポイントとなるが、フランス では通帳に金額の限度を設けて国が払い戻しを保証する制度が出来るのは 1835 年であった。 イギリスから貯蓄金庫の構想を導入して開設したのち公益的施設として承認されるまでの 20 年近い年月を社会福祉・慈善的観点から支えた創始者 は功績大なるものがあった。ドレセールが貯蓄金庫に係わ る姿勢には、貧困者への 400 万食にのぼる給食活動 ( soupe populaire)など慈善事業と共通するものがあ った。16 万フランを負担付遺贈として貯蓄金庫に送った が、その負担とは毎年 3000 人の労働者を選んで残高 50 フランの貯金通帳を与えること、であった。この実業 家が「労働者の父」と評される所以である。 ドレセールはこのような実業家としての活動つづけな がら、植物学者としてスケールの大きな仕事を残した。植 物および貝類の標本収集と植物園の造営である。いず れにせよ資力があったから可能であったことだが、8 万 7 千種 25 万点を集めた植物標本と 2 万 3 千種 10-15 万点を収めた貝類コレクションは世界最大 規模のものの 1 つである。収集の特徴は個別の標本の収集と同時にコレクション自体の収集でも あったことである。それらの収集品と収集品の図版はジュネヴ市の植物園保存館で見ること が出来る。コレクションのコレクションによって形成された巨大なデポジトはしばし圧巻と言うべきもの である。 ドレセールは 1815 年から都合 25 年間ソォミュール選出の下院議員として政治にかかわった。所属 は中道左派で、入院患者の待遇改善や死刑廃止にことさら熱心であった。18-13-3 【18-13-4 アントワーヌ・バルナーヴ】 Antoine Pierre Joseph Marie Barnave 1751-93 YT-2568 グルノーブルの裕福なプロテスタントの家系に生まれた。父親 はグルノーブルのパルルマンつき弁護士でその影響で、グルノー ブル大学とオランジュ大学で法学を学び、弁護士となった。 [YT-2568] 切手は 1989 年に発行された数種のフランス革 命 200 年記念シリーズのうちの 1 つでラファイエット、シイエス、 ミ ラボォ、ノアユ子爵、ドルエとともにバルナヴを取り上げた。 ©bibliotheca philatelica inamoto 4 このシリーズは「革命の著名人」と題しているが、肖像画では なくそれぞれのイメージにあうポーズをデザインしたもので、や や異色である。 バルナヴは革命前半期に重要な役割を果た し、中・後半期には国王側と通じた政治家として議会で追 及され、最後は処刑されると 言う宿命に終わった。切手の 図案はもちろん前期におけ る彼の華麗な働きぶりすな わち「演説するバルナーヴ」を描 いたものである。 すでに「ロォヌーアルプ 3」で瓦の 日やヴィジルでの三部会につ いて述べたように、王権に対 する地方パルルマンの復権や地 方三部会の開催要求においてドォフィネのブルジョワたちは貴族 の主張を支持していたが、バルナヴはムニエ Jean-Joseph Mounier と同様にその中心的な論者で あった。バルナヴとムニエはともに第 3 身分の議員としてパリへ向かい、憲法制定論議をリードす る役割をはたした。 雄弁について。バルナヴは、同時期ではミラボォとならぶ屈指の雄弁家であった。どちらかと 言えばクールだが自由への情熱を訴える演説は人気があった。議会の議決に対する国王の拒否 権を否決的なものとするムニエに対して停止的なものにとどめるバルナヴの案が通ったのはそ の雄弁によるところ大であったようだが、バルナヴの狙いは国王権限如何よりも同志ムニエを叩 き落とすことであったから、雄弁とはまさに力であった。しかし、雄弁は所詮方便で最終 的には思わぬ結果をもたらす。バルナヴは、1791 年 6 月に国 外へ逃亡しようとしてヴァレンヌで捕まった国王一行をパリへ 同行する 3 人の委員の 1 人として赴いたが、その際マリーアントワ ネトの心境を伝え聞いたことから王妃と秘密裏のやり取りを はじめた。その後バルナヴは立憲王政の形で国王を擁護する 意思を明確にするとともに、国王に対して憲法を承認し、 亡命貴族との関係を絶ち、王妃の家元である神聖ローマ帝国が フランスに承認を与えるよう説得をした。ミラボォが 91 年 4 月に 謎の死を遂げた(【サントル 8】)のち、バルナヴの雄弁に比肩する 者はなく、その力をもって「国王の不可侵性、権力の分立、 フランス革命の終結」を議会に認めさせて憲法制定国民議会を 閉了させたのであった。彼とその雄弁の絶頂期であった。 風刺画に描かれたバルナヴ。右には「人民の人 1789」 左には「宮中の人 1791」 ©bibliotheca philatelica inamoto 5 次の立法議会に議席を有しないバルナヴは 92 年 1 月まで パリにとどまり国王側への秘密の顧問格で交信を続けたの ち、グルノーブルへ戻った。ここで隠棲するとまで言ったが、 本心はその後の政局に向けられ、やがて形成されるであろ う新政府でロベスピエールらとるあいみまえることを考えてい たに違いない。その矢先、92 年 8 月 10 日のチュイルリィ襲撃事 件が発生し、宮殿の一室の「鉄の戸棚」から発見された文書 のなかからバルナヴと国王との交信に関係する書類が多数 発見された。バルナヴは逮捕され、93 年 11 月末の裁判にお いて最後の雄弁を演じたのち死刑判決を受け、翌日元国璽 尚書デュポール・デュテルトル Duport-Dutertre とともに処刑され た。18-13-4 【18-13-5 フィリベール・ド・ロルム】 Philibert de l'Orme 1515-70 YT-1625 フランス・ルネサンス期と現 代の都市建築家を 2 人紹介しよう。フィリベール・ド・ロルムは、16 世紀の人でリヨンに生まれ、石工の 棟梁とも言うべき仕事をしていたが、機会を得てローマに 3 年ほど遊び、古代のモニュメントを研究した。フランスのローマ大使で あった Jean de Bellay 枢機卿に見出 だされてパリに呼ば れ、フランソワ 1 世、アンリ 2 世の宮中と接した。 ドロルムはアンリ 2 世の ためにサン・モール城 château de Saint Maur(ヴァル・ド・マルヌ県 この城は現存して いない)を設計した。同城は下の図面のような建物を 4 面 にもつイタリア風建築でたちどころに国王の関心を引き付け、以後 12 年に亘って宮中御用建築 家として多くの建物を築 造した。王室ばかりか、 数多くの修道院からも注 文が寄せられ繁忙を極め たようだ。その中でも、 カトリヌ・ド・メヂチによるチュイ ユリィ宮(現在は広場やサンジ ェルマン・アンレイ宮殿(一部)は 重要な作品であった。 ©bibliotheca philatelica inamoto 6 1557 年,公金横領の嫌疑で宮中から遠ざけられ、以後、1570 年に没するまで、建築学に関 する書物の執筆に余生を捧げた。彼はまさに「建築を職人の仕事か ら芸術家のそれに引き上げた」1 人であった。 下左はルーヴル宮殿の見取り図でるが、左側の庭園にまたがっているグレィの部分がチュイユリィ宮殿で右の図のようであった。 下は、サンジェルマン・アンレイの全体図でその一部をド・ロルヌが設計したと言われる。 【18-13-6 トニィ・ガルニエ】 Tony Garnier 1869-1948 YT-1769 18-13-5 リヨンに生まれ、リヨンで学ん だ。マルチニエール工芸学校から美術学校へと進んで、ブロンデル Paul Blondel と セリエ・ド・ジゾル Louis-Henri-Georges Scellier de Gisors に師事した。フランスの美術・工芸の若手登竜門であるローマ 賞はなかなか取れなかったが 1899 年に入賞した。作品は「国立銀行の本店」であった。こ の賞によってローマに 4 年間留学し、その間に工業都市設計という終生の課題に取り組み始め た。設計図をパリに送ったが、アカデミーは資金の申請を却下した。この設計図は、のちに彼が 実現したリヨン 8 区の「合衆国街」quartier des Etats-Unis に作られた「トニィ・ガルニエ博物館」に展示 ©bibliotheca philatelica inamoto 7 されている。のちに首相となるエドゥアル・エリオ Edouart Herriot が 1905 年にリヨン市長 になったとき、彼 は、がルニエにリヨン東 部の新都市開発の 構想の提示を求め、 その一部が「合衆 国街」として現に 残されている。 リヨンの 7 区にあ るジェルラン競技場(下)やトニィ・ガルニエ・ホール(下右) など市民に親しまれている公共施設も少な くない。後者は歴史的記念物に指定されてい る。上右は、「合衆国街」の壁画の 1 つである。 18-13-6 ©bibliotheca philatelica inamoto 8