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ÿþM icrosoft W ord - 2 7 0 6 iledefrance
芸術 6
イールドフランス
図版博物館 vol.211
人の記憶 106
Musée imaginaire philatélique
Région Île de France au travers des timbres français
Artistes
4e éd. 2013
【227-6-1 映画・シャンソン・ジャズ】 パリで生まれた絵画、音楽、演劇の諸分野の著名人をこれまで
に 17 人登場させた。次は、芸術の中でも今や重要な部門となっている芸能の分野である。
この世界の著名人をフランス郵政はどう取り上げてきたか。他とは異なる手法がとられること
が多い。それは、ブロックといって 1 枚の用紙に同一領域の人物を数人(具体的には 6-10 人)
を刷り込み、目打ちを入れて販売するが、切手として 1 枚ごとのばら売りはしないという
ものである。切手を郵便料金の前払いとして購入するユーザーにとっては大きな負担を伴う発
行方法であり、これに付いての批判は既に何度も述べた(最近ではイルドフランス 3-4 で)。知
人に、フランス生まれだが父親は外国出身の著名人という限定のもとに切手(外国発行切手を
含む)の収集をしている風変りなフランス人がいる(本人はフランス社会における移民の寄与に
関する研究だと言っている)が、とくに芸能関係はブロック発行が主であるため無駄な金がか
かって困るとこぼしていた。
さて、パリないしイルドフランス出身の芸能有名人で切手に現れるのは 6 人、これが 4 種のブロ
ックで登場する。「舞台→映画俳優」(1994 年)のコリュシュ、「映画俳優」(1998 年)のギャバン、
ドフュネス、「シャンソン歌手」(2001 年)のゲンスブールとべルジェ、「ジャズスター」(2002 年)のグラ
ペリである。これまでの著名人に比して、いわゆる「芸能情報」に依拠せざるを得ないこと
がらが多く、資料の吟味がそれだけ困難である。そのため、場合によっては、あらかじめ
お断りしたうえで、出所を示して記述の引用をもって代えることとする。227-6-1
【227-6-2 コリュシュ】 Coluche (Michel Colucci)
1944-86
YT-2902
この切手は、
上掲「舞台→映画俳優」
(1994 年)の 1 点で、コリュシュは、既に見たイヴ
ォンヌ・プランタン(イルドフランス 3-4)、フェルナンデル(プロヴァンス・アルプ 10)ブルヴ
ィル(ノルマンディ 11)とともに取り上げられた。ブロック全体の映像は、
「イルド
フランス 3-4.11」に掲載した。以下は、
『フランス映画名鑑』
French Mania からの引用である。
http://french.rose.ne.jp/index.html
1944 年 10 月 28 日、フランスのモントルージュ生まれ。本
名は Michel Colucci。子供の頃から、勉強よりも
©bibliotheca philatelika inamoto
1
演劇に興味があった。やがて舞台に出るようになり、コリューシュの名で知られるようになる。
パトリック・ドヴェール、ミュウ=ミュウ、ジェラール・ドパルデュー、ティエリー・レルミット、ジョジアーヌ・バラスコらと共に、舞台
で活躍した。その後、テレビに進出し、国民的な人気を集めるようになる。映画では、クロード・
ジディ監督のコメディ「クレージー 4 人組/スーパーマーケット珍作戦」(1973 年)
、パトリス・ルコント監督のコメディ
「Les Vécés étaient fermés de l'intérieur」
(1975 年)、ルイ・ド・フュネスと共演したコメディ「L'aile ou la
cuisse」
(1976 年)など、数々の作品に出演。1977 年には、初の監督作品「Vous n'aurez pas l'Alsace
et la Lorraine」を発表した。1981 年には、フランスの大統領選に出馬を表明する。大変な人気を
獲得していたが、さまざまな圧力があり、出馬はとりやめている。この頃、離婚を経験し、
親友で俳優のパトリック・ドヴェールが自殺したこともあり、一時は意気消沈していたという。1983
年、クロード・ベリ監督の「チャオ・パンタン」に出演。カソリンスタンドで働く中年男の悲哀を演じ、セザール
賞の主演男優賞を受賞する。1985 年には、自ら呼びかけて、貧しい人々に食事を無料で提
供するボランティア活動「Restos du Coeur」を始めた。その活動はヨーロッパ各地に広がり、現在も
続いているという。1986 年 6 月 19 日、バイクに乗っていてトラックに衝突し、亡くなった。享年
41 歳。227-6-2
【227-6-3 ジャン・ギャバン】 Jean-Alexis Moncorgé, dit Jean Gabin
YT-3189
右は、見開きになるブロック全体のコピーである。
実はこのブロックは【ブルターニュ 8】で掲載済みのもの
であるので、ご覧になった方には記憶にあるだ
ろう。6 人のうちジャン・ギャバンとルイ・ドフュネスはイルド
フランス生まれであるため、2
人についての記事を「ブルタ
ーニュ編」ではなくここに掲げ
た。とはいっても、上にお
断りしたように、記
事自体は『フランス映画
名鑑』French Mania
からの引用である。
1904 年 5 月 17 日、
フランス・パリ生まれ。父はミュージック・ホールの俳優で、母は歌手という芸
能一家で育つ。19 歳の頃より、父の紹介で舞
台に立つようになる。1930 年、
「Mephisto」で
映画デビュー。1935 年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「地の果てを行く」に出
演し、人気を得る。その後、
「ゴルゴダの丘」
「我等の仲間」
「望郷」など、
©bibliotheca philatelika inamoto
2
デュヴィヴィエ作品にたて続けに出演している。1937 年には、ジャン・ルノワール監督の名作「大いな
る幻影」に出演。同じくルノワール監督の「獣人」、マルセル・カルネ監督の「霧の波止場」に出演した
後、第二次大戦の戦火を逃れて、アメリカへ移住した。その間に「夜霧の港」などのアメリカ映画
にも出演している。戦後、フランスへ戻り、1954 年にはジャック・ベッケル監督の「現金に手を出すな」
に出演。この作品
での熱演が認め
られ、ヴェネチア国際
映画祭の男優賞
を獲得した。同年、
マルセル・カルネ監督の「われら巴里ッ子」やジャン・ルノワール監督の「フレンチ・カンカン」にも出演している。
1960 年代以降は、
「地下室のメロディー」や「暗黒街のふたり」など、重厚かつ渋い演技で主役
をサポートした。フランス映画界が誇る名優だった。私生活では、1925 年に女優の Gaby Basset と
結婚したが、1930 年に離婚。1933 年に再婚し、ふたりの子供をもうけたが、1939 年に離婚。
1949 年に、再び結婚し 3 人の子供をもうけた。ドイツの女優マレーネ・ディートリッヒとのロマンスも有名。
1976 年 11 月 15 日、心臓発作のため死去。享年 72 歳。227-6-3
【227-6-4 ルイ・ド・フュネス】Louis de Funès
YT-3190
この項も『フランス映画名鑑』French
Mania からの引用である。1914 年 7 月 31 日、フランス・パリ近郊クールブヴォワ生まれ。自動車のデザ
イナー、毛皮商、露店商、製紙工場の会計係、バーのピアニストなど、さまざまな職業を渡り歩い
たあと、舞台に立つように
なり、1945 年に映画界入り。
ジャック・ベッケルの「幸福の設
計」
(1946 年)に出演後、ルイ・ド・フュネスは、バイプレーヤーとして「七つ
の大罪」
(1952 年)、
「裸の女神」
(1954 年)など数多くの作品に出
演した。探偵コメディ「上級生の寝室」
(1953 年)では、ジャン・マレーや
フランソワーズ・アルヌールと共演している。「青い麦」(1953 年)、「バルテルミー
の大虐殺」
(1954 年)、
「ナポレオン」
(1954 年)、
「街の仁義」
(1956 年)
など、シリアスな作品にも出演しているが、徐々に喜劇俳優として欠
かせない存在となる。「ミス・アメリカ パリを駆ける」(1961 年)では、
警察署長と工場の主任の二役を演じ、
「大混戦」
(1964 年)では、サントロペ警察の巡査部長ルド
ヴィク役が大当たりし、一躍トップスターとなった。同シリーズは、「ニューヨーク大混戦」(1965 年)、「パ
リ大混戦」(1968 年)「ルイ・ド・フュネスのサントロペ大混戦」(1979 年)などが公開された。小柄でハ
ゲあがった頭がトレードマークの、最も観客を呼べる喜劇俳優として、フランスでは長年にわたり人々
から愛された。1970 年代には、心臓病のため出演作は減ったが、1979 年 にはセザール賞名誉
©bibliotheca philatelika inamoto
3
賞を受賞している。1982 年に映画界を引退。私生活では、1936 年に結婚したが、1942 年に
離婚。翌年、再婚し、ふたりの子供をもうけた。息子のオリヴィエは、後に俳優になった。1983
年 1 月 27 日、心臓発作のため死去。享年 68 歳。227-6-4
【227-6-5 セルジュ・ゲンスブール】
エ
タ
Serge(Lucien) Gainsbourg
1928-91
YT-3393
シ ウ ゙ ィ ル
市町村役場の身分登録簿では Lucien Ginsburg、フランス人に「ジャンスブール」と読まれるのを避
けて、スラヴ語系の読み方にやや近
い Gainsbourg を芸名とした。カ
ナ表記では「ゲンスブール」でよい。
名を Serge としたのはスラヴ風の語
感を与えるためのようだ。一口で
いえばスラヴ系外人の印象を残す
ための工夫である。
切手については、6 人の歌手を CD
のレーベルの周りに放射状に並べた
派手なブロックとして発行されたことを既に紹介済み(イルドフランス
3-4.13)である。ここでは以下、〈weblio〉の『人名簿』に掲載された記事からその一部を
引用する。http://www.weblio.jp/cat/
セルジュ・ゲンスブール
1928 年 4 月 2 日 - 1991 年 3 月 2 日)はフランスの作曲家、作詞家、歌手、
映画監督、俳優である。両親は帝政ロシア(現在のウクライナのハリコフ)出身のユダヤ人で、パリ生まれ。
幼名はリュシアン・ギンスブルク(Lucien Ginsburg)といった。1958 年に Le Poinçonneur des Lilas(『リ
ラの門の切符切り』
)でデビューして以来、反体制的な作風で人気を博し 1960 年代の特に後半
から 1970 年代にかけてフランスのポピュラー音楽において中心的な役割を果たした。作詞に特徴
が強く、ダブル・ミーニングなどの言葉遊びを多用する。また、ときにはメタファーを使って、ときに
は露骨に性的な内容を語った歌詞が多い。俳優・歌手のジェーン・バーキンは 3 人目の妻であり、
俳優のシャルロット・ゲンスブールはバーキンとの間に儲けた娘である。死後はその栄光をたたえて、ジャ
ン=ポール・サルトル、シャルル・ボードレールなどの著名人が数多く眠るモンパルナス墓地に葬られた。
若干の注記
1/ ロシア革命家の移民でパリのキャバレのピアニストとなった父親ジョゼフと同様、生
計のためパリ 1 区ボォジョレ街のキャバレ《ミロル・ラルスィユ》Milord l'Arsouille でピアノを弾いた(1954 年)。
そこで、グランゼコール出身の異色のジャズ・トランペッター
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ボリス・ヴィアン Boris Vian を知り、その歌を
4
聴いて歌手を志す。ヴィアンも彼の歌を認めた。 2/ 歌手としてのデビュー作を生涯最大の成
功と考えるフランス人が多い。地下鉄 11 号線ポルト・デ・リラ Porte des Lilas 駅の地下改札の切符切り
が「空を見たい」と歌う《Poinçonneur des Lilas》に惹かれて 19 区のはずれまで行った人は
いないか。この駅から乗ってシャトレで乗り換え、ラスパーユで降りてモンパルナスの墓地に行き、その
切符を墓前に置くという、変なことをした人はいないか。3/ フランス・ギャルという 18 歳の「お
人形ギャル」に『夢見るシャンソン人形』Poupée de cire, poupée de son を提供して一世を風靡した
(65 年)。ブリジド・バルドゥにも《…..》Je t'aime... moi non plus などの曲を提供し、曲以外も
提供したものがあってスキャンダルとなる(67 年)。
4/ 映画『スローガン』で共演したジェーン・バ
ーキンと結婚し(68 年)、娘シャルロト・ゲンスブールが生まれた。幸福だった家庭もやがて暴力の場と変
じて離婚(77 年)
。 5/ (その後の数々は省略して)死因は心筋梗塞。死後数時間たって
発見された(91 年)。
227-6-5
【227-6-6 ミシェル・ベルジェ】 Michel Michel-Jean Hamburger , dit Berger
1947-1992
YT-3395
パリの西端ヌイイ・シュル・セーヌで生まれた。ピアニストであって《auteurcompositeur-interprète》つまり作詞も行うシンガーソングライター
(この
語については、「ラングドク 9」ジョルジュ・ブラサンスの項で注記した)の
さきがけのような歌手でもあり、すぐれた編曲者でもあった。
父親は有名な腎臓病学者でアカデミー・フランセーズ会員のジャン・アンビュル
ジェ Jean Hamburger、母親はコンサート・ピアニストのアネト・アース Annette Haas
である。1960 年代はジョニィ・アリディのアルバム《Salut les copains》の時
代で、ベルジェはその頃既に歌手であったが、やがてレコード会社 EMI
に移って歌を書いた(ブルヴィルへの「ジラフ」など)。プロデュサーとし
てフランソワ・アルディを世に出し、曲を提供して成功させたフランス・ギャル
とは結婚をした(76 年)。80 年にはレコード会社 Apache を起こし後にワーナーと提携して、ジョニィ・
アリディのアルバム「ロックン・ロール・アチチュド」を制作した(85 年)。その間、ロック・オペラ《スターマニア》を作
曲、リュク・プラモンドン Luc Plamondon が作詞を担当した。1990 年には、ジェームス・ディーンの生きざ
まをうつした「ジミー伝説」をスペクタクルとして制作している。
社会的な活動も、フランスのアーティストとしては「めずらしく熱心」といわれ、フランス・ギャルやリシャー
ル・ベリィと 85 年に行った「学校活動」Action Ecoles、セシャン・ルノォとエチオピアで行った「国境なき
歌手団」Chanteurs sans frontières, コリューシュと一緒の「心の食堂」
〈炊き出し〉など、人びとに
感動を与えた。
1992 年に初めて妻フランス・ギャルとデュエトで《Double jeu》をリリースしたが、50 日後、自分の別
荘でテニスをしている最中に、おそらく過労が原因の心臓発作で死亡した。44 歳であった。
遺体は、モンマルトル墓地に埋葬されている。227-6-6
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【227-6-7 ステファヌ・グラペリ】 Stéphane Grappelli 1908-97
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フランスはヨーロッパ諸国の中で
は、意外に思え
るが、ジャズ音楽
が盛んな国であ
る。すぐれた演
奏家を輩出して
演奏の水準を維
持していること
は調べればすぐ
わかるが、ジャズ
はアメリカ、ニューオーリ
ンズ、黒人演奏家の迫力あるパフォーマンスと脳
髄を洗われるようなジャズフェスチバルの爽涼
感、そのようなことを先に考えてしまいが
ちな我が国では、シャンソンとクラシク音楽のフランス
というイメージが少し邪魔をして直ちには彼の地の
ジャズ文化に想いが至らない。このように判った
ようなことを言う私も十分な認識に到達するに
は程遠いが、主観的に、フランスのジャズは少し違う
のではないかと思ったことがいくつかある。1 つ
だけ言えば、5 重奏、7 重奏というようにきちん
と決まった約束があるような演奏会形式のジャズ
が根強い支持を得ていることだ。勿論ジャズなら
ではの自由演奏やアドリブが織り込まれるのは当
然であるが、ジャズバンドというよりは合奏団とい
う名の方が相応しい演奏ぶりだ。扇風機がゆるゆ
ると回る
下でビール
の小瓶を
前に深更
まで身を委ねるような演奏はフランスではあまりない。
ここで取り上げるグラペリはジャズヴァイオリンの名手で
あるが、クラシク曲のヴァイオリン演奏でも定評のある共演者
だ。フランス郵政が 2002 年にジャズスター Etoiles du Jazz
のブロックを発行するというのでその顔触れに関心を
©bibliotheca philatelika inamoto
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もったが、人選は慎重であった。6 人中 4 人がアメリカ人(ルイ・アームストロング:トランペット、シドニィ・ベチ
ェト:サックス、デュク・エリントン:ピアノ、エラ・フィッツジェラルド:ヴォーカル)で、フランス人はすでに取り上げたミシ
ェル・ペトルチアニ(ピアノ「ラングトドク 15」)とステファヌ・グラペリ(ヴァイオリン)の 2 人である。欲を言えば、仏米
3 人づつにして、ギターのジャンゴ・レナール Django Reinhardt を入れてほしかった。
ステファヌ・グラペリは、そのジャンゴ・レナールと「フランスホットクラブ 5 重奏団」Quintette du Hot Club de
France を結成し、戦前から晩年に 至るまでジャズヴァイオリニストとして精力的 に活動を続けた。
さきにもふれたが、クラシク演奏家としてユーディ・メニューインと数枚のアルバムを出すなど多面的な仕
事をこなしていた。映画音楽の分野でも、《Les valseuses》などいくつかの作品がある。多
数の録音と共に、彼の人生を DVD にまとめたドキュメンタリー《Life In the Jazz Century》があると
いう 。227-6-7
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