Comments
Description
Transcript
ÿþM icrosoft W ord - 0 2 0 4 normandie
ノルマンディ IV 図版博物館 vol.13 土地の記憶 9 Musée imaginaire philatélique Régions Normandie au travers des timbres français 4e éd. 2013 【2-4-1 ノルマンディ分割】 すでに述べたことだが、1956 年に県を越える広域行政圏として地 域圏 Région の制度が創設されて 以来、ノルマンディは、Basse と Haute の 2 つの区域に分けられている。 一般に地方制度改革を行う目的 は、「中央」との関係で「地方」 の地位を相対的に向上させると 同時に、 「地方」の間に存在する 格差を縮小して均等な発展の機 会を与えることである。ノルマンディ の場合はどうであったか、歴史 的に見て 1 つの安定した豊かな 地域であった。このような場合、 制度改革において重視されるのは隣接す セェヌ河によってパリと直結する Rouen る諸地域との均衡であるが、たとえば西隣のブルターニュと比べた場合ノルマンディ全体を単一の地 域とするならば、この均衡を欠く。 いわば、横並びに見て 2 分割が相 当ということになったのである。 当時、分割を推進した内務省高官 のセルジュ・アントワーヌ Serge Antoine は、 のちに誤りを認めて「やり直せと いうのであれば 1 つのノルマンディをつ くるべきだろう。2 つがやがては 融和していくと単純に考えたのが 間違いだった」と言っている。 復興を遂げ、ヨーロッパ有数の港湾都市となった Le Havre ©bibliotheca philatelica inamoto では、もともと仲が悪くて 2 つに 1 したのか、そうではない、2 つにしたことから新たな格差が生じそれを背景に不和・対立が 生じたのである。現在の世論は、総論=再統合だが、各論では両地域は一致しない。2009 年 3 月の世論調査(IFOP Ouest-France)によると、これまで見てきたバス・ノルマンディでは再 統合賛成は 36%の支持しかない。むずかしく聞こえる話を先にして恐縮だが、これを知ら ぬことにしては、ノルマンディのこの半世紀を語ることはできないのである。切手の表面を見る 限りなんらの問題も窺知しえないが、だからと言って時にその図柄を透して見える裏面を 無視することも難しい。2-4-1 【2-4-2 ルアーヴルとルーアン】 オォト=ノルマンディに属するセーヌ・マリチム県は、まさにその名のように「海の セーヌ」である。ここにルアーヴル (人口 183,900 (2006))とルーアン (人口 107,900 (同))の 2 大都市が ある。前者は、フランス最大の北米大陸との交易港であり、近在に巨大な備蓄・精製基地を持 つ原油受入港であって、いわば世界との窓口である。これに対して後者はノルマンディの主邑で ありながら、 (セーヌ河によって直結することにより)パリの港湾としての機能を一手に引き受 けている都市であって、いわば首都圏イ-ルドフランスの玄関である。このような他に例のない地 域を地域圏としてどのように位置づけるか、がそもそも問題であったのだ。 両都市を見よう。1958 年に発行された右の切手 YT-1152 は、戦災復興都市を代表する全国 4 都市の 1 つとしてルアーヴルを取り上げたものである。フランスの切手 としては縦横の線だけで街を描いた異例の構図であ るが、これは描き方の問題ではなく、第 2 次大戦下で 徹底的に破壊されたためゼロからつくらざるを得なか ったことの結果であった。前頁の写真からも同じこと が読み取れよう。 ルーアンもまた戦争の被害を受けた。左の切手 YT-745 は、すでにカァンやサンマロ(ブルタ-ニュ)の項 で取り上げた のと同一の復 興資金調達付 加金つき切手シ リーズのうちの 1 点として発行 されたもので ある。ただ、この画面をカァンのそれ(【ノルマンディ 3】)と比べてみるとはっきりと異なることがあ る。それはカァンの場合はほとんど何も残っていないのに対してルーアンの場合には画面中央に大 聖堂が、それもほとんど破壊されずに残っていることだ。つまり、ドイツ軍も英米連合軍も ルーアンに関する限りカテドラルだけは爆撃の対象としなかったのである。右の切手 YT-1806 は歴 史的建造物として重要なルーアンの裁判所(控訴院)であるが、これも残された。このように ©bibliotheca philatelica inamoto 2 街の一部が計画的に保存されたということが、ルアーヴルとの最大の違いでもある。その結果、 ルーアンの街は、下の 2 枚の切手に見られるような中世からの壮大な大聖堂 YT-1129 と時計塔 YT-1875 をその中心部に今でも変わりなく有するのである。因みに、35 フランの大聖堂の切手 は、その色がなんとも美しい凹版で、1957 年の「切手芸術大賞」に輝いた。また 80 サンチーム の時計塔はルーアンで開催された第 49 回全国郵趣団体連合の大会を記念して発行したものであ る。 ルーアンは、郵趣という点でいえば非常に熱心な町で、1976 年には青年郵趣祭 Juvarouen を誘 致して記念切手 YT-1878 も発行させている。この切手も同年の「切手芸術大賞」となった。 しかし、この郵趣の世界では実はルアーヴルの方が抜きんでて早く、 国際的に重要な切手博をすでに戦前 1929 年に開催していることを 忘れてはならない。外に開かれ た港湾都市という点で、ルアーヴル が開催地に選ばれたことは間 違いのないところである。それ を記念する切手 YT-257A は、 1920 年に普通切手として発行 された横長のメルソン Merson 2 フラ ン(橙+緑青)に黒色で EXPOSITION PHILATELIQUE LE HAVRE1929 と加刷したもの。希少品で極めて高額であ るため滅多に見ることはないが、ここではその先例に あたる 1923 年ボルドォ郵趣会議のそれ YT-182(入場券 とともにしか販売されなったためさらに希少)と並べ て私のコレクションのコピ-を見ていただくこととする。2-4-2 【2-4-3 港湾と物流】 セーヌ河口に位置するルアーヴル(とルーアン)が他の都市や地域に比して突出 ©bibliotheca philatelica inamoto 3 した経済的地位にあるのはすでに見たように第 1 級 の港湾施設を有するからである。それはまた、物流の 拠点でなければならない。フランス郵政はこの点について も強い関心を示し、とりわけ陸運の主役が鉄道からト ラック輸送にシフトするに伴って各地で大規模な橋梁建設 が計画されるようになると、それを国家的事業として 切手の上でも好んで取り上げた。すでに見たノルマンディ 大橋[YT-2923]はより新しい例であるが、同橋より上 流にタンカルヴィル Tancarville 大橋(左上)が架橋されたと き(1959 年)、戦後の大事業としてこれを顕彰したこ とを今思い出す YT-1215。地域は異なるが、シャラントマリチ ム県のオレロン大橋 Pont d’Orélon(1966)[YT-1489 ポワトゥ・ シャラント 1]のときもそうであった。 ルアーヴルの港湾施設で特筆に値するのは、エクリューズ écluse と呼ばれる巨大な閘門である。潮 の干満差が大きなこの地方では重要な港湾で欠かせない装置であり、とくにルアーヴルのそれ Ecluse François 1er YT-1772 は世界最大の規模である。長さ 400m, 幅 67m、深さ 24m、排 水量 643,000 ㎥の閘門で、これまでの記録は 2006 年 10 月に通過したコンテナ船 MSC Madeleine 号の、長さ 348.5m、幅 42.8m、積載コンテナ数 9100 というものである。水先案内人 を乗せたタグボートに曳航されて定水位水面や運河など内水面に入るのである。2-4-3 【2-4-4 レザンドリィ】 さきにルーアンはセーヌ河で繋がったパリの港湾だといった。機能的にはすでに 数世紀前からそうだといってよい。しかし、自然地理の観点から見れば、パリとルーアンの間に はセーヌ河に沿って 様々な景観が展開 し、また蛇行・湾 曲もするのでこの 河が海と直接に繋 がるという印象は ©bibliotheca philatelica inamoto 4 薄い。ここでは 1 つだけ、オォト=ノルマンディのウル県下の景勝地レザンドリィ Les Andelys を挙げてお こう。左は、1954 年の観光地切手の 1 つ YT-977 で、セーヌ河とそれを見下ろすガイヤァル城跡 château de Gaillard を描いたものである。城は少し判りにくいので写真を添えよう。この町のノートルダ ム大聖堂もまた素晴らしい。レザンドリは、パリからもルーアンからも 1 日をかけて行きたい観光地 である。2-4-4 【2-4-5 修道院・教会】 オォト=ノルマンディは、ルーアンの大聖堂に限らず、カトリクの教会や修道院にす ぐれたものが多い地域である。フランス郵政の切手にもしばしば登場している。まず、3 つの大 修道院 abbayes を訪ねよう。 下は、セーヌ・マリチム県のランソン Rançon にあるサン・ヴァンドリィユ修道院 abbaye de Saint Wandrille で ある。YT-842, YT-888 7 世紀 に創建された 非常に古い僧 院で 1862 年に 「歴史的記念 物」に登録され た。ヴァイキングの侵入、100 年戦争、ユグノ ォの乱、大革命と試練の時代を経て今日ベ ネディクト派の重要な拠点となっている。 この切手は、戦争終了直後,国民の心に 染み込むようななにか特別の力をもって いたと思われる。左は 1949 年の観光地切 手の一つで外国あて書状普通便用の切手 であるが、右は 1951 年の料金改定時に従 前のデザインで再度発行されたものであっ た(料金改定時の同一デザイン再発行が例 外的であることはすでにブルターニュの世界一周ヨットレースの切手のと ころで述べたところ である)。人々の心に 強く語りかける修道 院の瞑想の場、それは 回廊である。サン・ヴァン ドリィユのそれは特に有 名だ。白黒であるが、 中庭の向こうから撮 ©bibliotheca philatelica inamoto 5 った写真があるのでそれも掲げておく。 次はジュミエージュ大修道院 abbaye de Jumièges の廃墟である YT-985。 サン・ヴァンドリィユと同じ 7 世紀の創始であるが、その歴史は悲惨だ。16 世紀の「宗教戦争」下では、ルーアン、ルアーヴル、 ディエプをつぎつぎと襲ったユグノォがジュミエージュを攻囲し、無人と化した修道院を損壊した。 また、フランス革命下では多くの修道院とその付属地が教会財産として没収され、国有財産と して売却されたが、ジュミエージュもその 1 つ。落札した材木商人は内陣を爆破し、やがては石 材として売却するまでにいたる。19 世紀中葉、ある家族が荒廃した跡地を買い、遺跡とし ての復興に着手。1918 年に「歴史的記念物」として登録されて国の史跡となり、2007 年に 地方分権法でセーヌ・マリチム県に移管された。 もう 1 つ、ウル県のベック・エルゥアン Bec-Hellouin のノートルダム修道院が切手となっている YT-1999。 内陸の静かな人口 400 人の小さい町で、写真のような街並みの中にこの修道院がある。Bec は小川のこと、エルゥアンは修道院創始者の名であるらしい。ここもまた、多くの人を引き付け る土地のようだが、訪ねたことがないのでよく知らない。 ルゥヴィエ Louviers のノートルダムは修道院ではなく、司教区の教会である。ウル河の中流でいくつ にも分かれた川筋が水の町を造っているが、そこの聖堂が 1981 年に観光地切手として登場 した YT-2161。 実は、それまで私はこの町の美しい佇まいを知らなかった。この町は全く 別の意味で有名 であったからで ある。労働者の町 で、インドシナ戦争を 終結させた 20 世 紀後半の最も優 れた政治家マンデ ス・フランス Pierre Mendes France の本領地であった。彼の影響のもとに町政を託された黒人の エルンスト・マルタン Ernst Martin が穏健から過激まで左翼諸派を糾合して改革路線を邁進し、1968 年の「5 月革命」で全国に知られた存在となったからである。その後の右からの巻返しや、 マルタンの革命市政の復活など話題は尽きないが、ここで長く語ることではない。要するに、 美しい水の町の切手の裏側もちょっと見てもらえればということである。2-4-5 ©bibliotheca philatelica inamoto 6