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241 - フランスの切手

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241 - フランスの切手
イ-ルドフランス 自然科学 1
図版博物館 vol.187
人の記憶 82
Musée imaginaire philatélique
Région Île de France au travers des timbres français
Scientistes
4e éd. 2013
【224-1-1 自然科学 まず数学者から】フランスの切手に登場したパリの女性たちは、その数は多く
なかったがいずれも強烈な個性をそなえた人たちであった。凡庸な能力をもって彼女たち
の素晴らしさを表現することができたとは言えないが、パリ出身の 150 人の著名人の冒頭に
置くことができて心が軽くなった。残るは、一方の男性陣だが、切手に取り上げる理由が
不純とは言わないまでも複雑で、非礼を顧みなければ「なぜこの殿方が?」と思いたくな
る向きもあり、それらを取り混ぜて百数十枚の紙片を並べてみると、これからが苦行であ
る。どこまでできるかわからぬままひとまずは、より純粋な人たち「数学者」から始めよ
う(それが別の意味で「苦行」であることはいうまでもないが)。
19 世紀前半のヨーロパは数学史上重要な舞台であった。60 年近くも前の教養課程の「概論」
「数学史」の授業のかすかな記憶によって思い出すままに挙げれば、プロイセン・ドイツに Johann
Carl Friedrich Gauss(1777-1855)があり、フランスにはオォギュスタン・コーシィがいて、ノルエーには Niels
Henrik Abel(1802-29)がいた。そして彼らを追いかけて、Evariste Galois となる。後三者は、
個人的な関わりあいにおいても穏やかではないが、フランス郵政はそのうちフランス人たるコーシィと
ガロワを取り上げた。224-1-1
【224-1-2 オォギュスタン・ルイ・コーシィ】 Augustin Louis Cauchy
1789-1857 YT-2610 フランス革命
勃発の年の 8 月にパリに生まれる。パリ警視総監首席代理官であった父親が総監の処刑(1794
年)後の後任を辞して南郊のアルクーユに疎開し、(食糧)最高価格法などのもとでの窮乏生活を
経験したが、おそらくそれが原因で病弱痩身で生涯をすごしたようだ。とはいえ同時代の
学者の中では長命で、世紀前半のヨーロッパ数学界に大きな影響を与えた。影響は、まずはそ
の数学理論によって。1989 年に生誕 200 年を記念
して発行された切手には、数式と曲線のグラフがデザ
インとして描かれているが、この数式(下は拡大図)
は「コォシー
の積分公
式」と呼ば
れるもの
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で、解析学に厳密性を付与したコォシーの貢献は大きい。19 世紀前半の複素解析の研
究はほとんどがコォシーが行い、複素平面における積分の理論、留数
計算など、基本概念の多くを独力で生み
出したと言われる。オイラーの多面体に関する
定理の証明など、早くから注目された数学
界の星であった。同時に、ナポレオン帝政から
王政復古期にかけては権力との関係も近く、学士院での論文審
査などに関わって問題を起こした(アーベル、ガロワの論文を預か
りながら紛失した事件も含めて)。ほぼ同年の数学者、工学家
で射影幾何学で業績をあげたポンスレ Jean- Victor Poncelet にも、
彼が理工科学校の教授であったた
めか厳しい評価をしていたようだ。
自身も理工科学校の卒業生で土木技師としてシェルブール港の造成を
指導したが、そのような経歴や事業の類似性が却って不要な摩擦
を生じさせたのかもしれない。
政治・宗教上も、反リベラルでイエズス会の熱心な擁護者であったか
ら、当時の科学者に共通のリベラリスムないしブルジョワ的思想とも相容
れなかった。とくに 1830 年の 7 月王政でルイ・フィリプが「人民の
王」たらんと述べたとき、失権したシャルル 10 世への忠誠から猛然
と批判したことも語り草となっている。224-1-2
【224-1-3 エヴァリスト・ガロワ】 Evariste Galois
1811-32 YT-2332
今日に至るまで数学理論
の諸分野に大きな影響を与え続けているエヴァリスト・ガロワもこの時期の人である。19 世紀最大
のスケールをもって数学界に問題を投げかけ、挑戦し、群論を中心として当時の数学の地平を
大きく変えた、しかしそれだけに多くの謎につつまれた存
在でもある。さきにコォシーについてあれこれと書き記したの
も、その意図はガロワとの対比にあった。まず、単純な対比
をすれば、2 人は 20
年ほどの年齢差が
あるものの天敵の
ような関係であっ
た。ガロワを庇護すべ
きコォシーが学士院の
審査に取り次ぐ論
15 歳のガロワ 姉の遺族が保存しデュピュイが発見した。
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文を紛失して失望を買う。数学に関しては新興で最高の権威であった理工科学校にコォシーは
入ったがガロワは 2 度も失敗した。
政治的にはコォシーが 7 月王政を反動右派の立場から批判したのに対して、ガロワは逆の共和過
激派の立場から攻撃した。両者は数学においても政治においても結局のところ和解しがた
い対立状態にあった。
それでは、ガロワは何をし、どのように生きたか。ガロワの業績は上記のように数学の発展
への寄与である。これについては独自の記述をする力がないので、ウィキペディア日本語版の詳
しい解説の一部を引用させていただく。
(ガロアは)数学者として 10 代のうちにガロア理論の構成要素である体論や群論の先見的な研
究を行った。彼はガロア理論を用い、ニールス・アーベルによる「5 次以上の方程式には一般的な代数
的解の公式がない」という定理(アーベルールフィニの定理)の証明を大幅に簡略化し、また、より
一般にどんな場合に与えられた方程式が代数的な解の表示を持つかについての特徴付けを与
えた。
ガロア理論に端を発する考え方は抽象代数学、疑似乱数列(PN)、誤り訂正コーディングなど、
数学、物理学、コンピュタなど、自然科学や応用科学の多くの分野に表れている。また、彼の創
始した数学理論群論はアルベルト・アインシュタインの相対性理論やヴェルナー・ハイゼンベルクらの量子力学、ベ
ルンハルト・リーマンなどのリーマン幾何学などの現代物理学の言葉として用いられる。
このように代数学で重要な役割を果たすガロア理論は、現代数学の扉を開くとともに、20 世紀、
21 世紀科学のあらゆる分野に絶大な影響を与えている。しかし、ガロアの業績の真実と重要性、
先見性は当時世界最高の研究機関であったパリ科学アカデミーや数学王と呼ばれたカール・フリードリヒ・
ガウスにさえ理解されず、生前に評価されることはなかった(ただしその原因は、……ガロア自
身によるところが大きい)。
ガロアの遺書には後の数学者達にとって永年の研究対象となる理論に対する着想が「僕にはも
う時間が無い」という言葉と共に書き綴られている。例えば代数的には解けない 5 次以上の
方程式の解を与える、楕円モジュラー関数による超越的解の公式の存在を予言し、そのアイデアを記
している。なお、この手法は彼の死後 50 年の時を経てシャルル・エルミートによって確立される。
ガロワの生涯は 21 年間で終わった。1832 年に決闘に応じて腹部に負傷し、その場に放置され
て致命的結末となった。数学への寄与は 21 年にしては余りにも多く、情熱を注いだ社会蜂
起=共和主義の実現には 21 年は余りにも短かった。社会的心情、政治的思想、それと不可
分の英雄的ロマンティスムと突出した行動について没後 170 年余を経た今日においても学術的な議
論と崇敬的な行事が終わりを見ない。
その 21 年については、数学の業績を含めて高等師範学校の歴史学教授
ポール・デュピュイ(右)が 1896 年に公にした論文《La vie d'Evariste Galois》
(エヴァリスト・ガロワの生涯)があり、今日でも客観的で均衡のとれたその記
述が信頼されている。評伝などは基本的にそれに依っているが、新資料の
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発掘や解釈がつづいていて推理小説のような面白さがある。1832 年 5 月 30 日の決闘(一
方だけに装弾された 2 丁のピストルから籤で選んで同時に発射する作法に依る)はどのような
文脈でなされたか。共通のベースとなるのは、ガロワはブルグラレーヌ町長であった父親の血を引い
て熱心な共和主義者であり、その心情はルイ・フィリプの 7 月王政に期待して裏切られた大衆の
それであることだ。秘密結社『人民の友』Amis du peuple に加わ
って挑発的な行動に出ることを辞さない。そのような行動や言
動を理由に国王権力によって拘束され、その監視下においてあ
る娘に出会って恋をしたが断られ、それを理由として愛国者た
ちと決着をつける羽目になったとする内部決裁説①、美人局的
手段による権力謀略説②、民衆蜂起を計画する過激勢力が権力
によるガロワ謀殺を演出し、その無残な死によって民衆を蜂起に
立ちあがらせる、という煽動計画説③。決闘の相手が確定され
ていないことから諸説が可能となる。①②③のいずれかで相手
方が異なり装弾銃の選択方法が異なるはずだ。また恋と決闘の弟
アルフレドが後年に描いたガロワ
牽連性が大きく異なる。ガロワが牢獄で遺書を残しているため、
その内容の解釈によって諸説の成否も大きく変わる。③をとる場合、ガロワの自己犠牲に依
っても蜂起が起きなかったことを別に説明することが必要になるが、最終段階で計画が変
更されたとしている(Laura Toti Rigatelli, Matematica sulla barricade,1993; Évariste Galois,
Morte di un matematico, 2007)。いずれにしても、『レミゼラブル』の世界につながる状況で
の推理
であるだけに興味が尽きない。224-1-3
【224-1-4 ジャン・ダランベール】
Jean Le Rond d'Alembert
1717-83 YT-1209
ディドロ Denis
Diderot について書いた個所で「百科全書」の協力者
であったダランベールについても触れた(シャンパーニュ 3)。
そのダランベールはパリ生まれで、数学者としても知られ
る人であるからここで登場する。18 世紀の人間で、
これまでに述べた 19 世紀数学の世界とは遠いものの、
啓蒙思想が数学や物理学、力学と親近性をもち、社会
事象の理解(哲学)にそれら自然科学の基本的知見がどのよう
に結びつき役立っていたかを知る上で、この人の存在は重要
である。なお、ここに掲げるダランベールの切手は彫版の巨匠ドカ
リスが絵を描き、シャルル・マズランが彫版したという贅沢版である。
あわせて掲げる肖像画はモォリス・ダラン
ベールの微分方程式
カンタン・ドラトゥル
Quentin de la Tour の手になるれっきとした美術品(ルーブル美術
館蔵)であるが、ドカリスの絵はそれとおよそ描きぶりが違うこ
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とに注意したい。が違うことに注意したい。絵画は人を引き立てて作られるが、切手では、
特にドカリスの場合、人が成し遂げようとしたことの中にその一部として人をおくことへのこ
だわりが見られる。
ダランベールの名をみると通常の名と少し違う。ジャン・ル・ロンとは何か。母親は著名な文学者で
サロン主催者であった Claudine Gué rin de Tencin だが、砲兵隊の将校 Louis-Camille Destouches
の子を生んだ翌日、下女にその子をノートルダム大聖堂の隣のサン・ジャン・ル・ロン教会の石段に捨てさ
せた。孤児養育院に移された後,父親が引き取り養育費を負担して里親に出したが、認知を
しなかったため本来の氏名がない。ダランベールは 50 歳になるまで、捨て子の乳母となったこ
の親切なルソォおばさんと一緒に暮らした。バカロレアをとって法学部に
入ったとき《Daremberg》として登録し、のちにそれを《D'Alembert》
に変えて生涯を過ごした。弁護士にはならず医学部に入ったが医
者にもならず、22 歳の時シャルル・ルネ・レイノォの数学教本の誤謬に関する
論文を書いて自らも数学者になった。認められて 24 歳で科学アカデ
ミー天文部会員補となり、数物理学者アレクシス・クレロォ Alexis Clairaut(右)
と出会う。ライバルとのこの出会いが契機となって『動力学論』の執
筆に傾注し、ニュートンからラグランジュへの懸け橋となる役割を果たした。
28 歳でベルリン・アカデミーの会員になり、その頃にディドロと出会う。ヴォルテールとも親しくなる
が、それらの出会いは名流夫人が開くサロンに集ううちに生まれるのである。ダランベールは
Marie-Thérèse Geoffrin, Marie du Deffand, Julie de Lespinasse などのサロンによく出入りした。
さてここで(他では書くところはないであろうから)サロン相関図を少し。ジュリ・ド・レピナス
(以下、ジュリ
下の写真)は、A 伯爵と B 伯爵夫人の間の婚外子だが、A 伯爵が、B 伯爵夫人
の別の男との間の婚外子 C 嬢(従ってジュリの二重婚外姉妹)
と結婚したので、母である B 伯爵夫人のもとで育てられた。
その B 伯爵夫人が若くして死亡する直前に A 伯爵にあとを頼
んだので、ジュリは A 家の子で、自分の婚外弟妹でもある子た
ちの母親代わりとなった。A 伯爵には妹マリ・デュ・デファン(以下、
マリ)がいて、彼女はパリでサロンを開催していたが、視力が弱っ
たと感じたのでジュリをサロンでの朗読役に頼んだ。このサロンには、
フォントネル、モンテスキュー、マリヴォなどの名士に加えてダランベールが出入
りしていたが、パトロンヌのマリよりも、さほどの美人ではないが
知的で才気にあふれ、しかも物腰の優しいジュリのほうに諸子
諸賢の関心が集まったため、マリは嫉妬心をかきたてられてジ
ュリを首にした。翌 1764 年、ジュリは自己のサロンを開設、すでに
プラトニクだが親しい関係にあったダランベールもその方に移り、コン
ディヤク、コンドルセ、チュルゴも寄り来たって賑わいを極めた。この
サロンこそ「百科全書の製作室」
laboratoire de l’Encyclopédie であり、若く熱心で知的なジュリ
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こそ「全書のパトロンヌ」であった。このことを書くためにあえて「相関図」と言ったまでだ
が、実はフランスの研究者の中にも「教会の前に捨てられたジャン・ルロンとジュリがともに婚外子で
あったこと」に注目するものもいて、「百科全書」の、さらにはそれによって啓蒙された革
命市民たちのバックグランドに関する談義を色彩豊かにしている。余計なことだが、東京でも
引き抜き、追い出し、独立でサロンやクラブが育ち繁殖して国家の文化水準の向上に貢献した「百
家善処」の街があったらしい。昔の話だが。
ダランベールは 1754 年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、72 年には終身書記となった。同じ
54 年、百科全書に執筆した「ジュネーヴ」の項でルソォの怒りにふれ、経営状況もおもわしくな
くなって 57∼59 年には休刊を余儀なくされた。ダランベールは 57 年にディドロとも衝突して事
業から手を引いた。その後のことはディドロの項に譲る(シャンパーニュ 3)。
65 年にそれまで住みつづけた乳母の家を出てジュリと同居し、プラトニクな愛を紡ぐ。そのジ
ュリも 76 年に 43 歳で死亡した。ダランベールは取り残されても元気であったようだが、1783 年
に 66 歳で死亡した。224-1-4
願わくは、後世の人々が私たちの『辞典』を開いて、「これが当時の学問と芸術の状態であったのだ
な。」といってくれますように!願わくは、後世の人々が、私たちによって記録された発見に自分た
ちの発見をつけ加え、人間精神とその産物との歴史が最も遠く隔たった幾世紀までも代々続いてゆき
ますように!願わくは、「百科全書」というものが人間の知識を時の流れと変革とから保護する神殿
となりますように!
(ウィキペイア日本語版「百科全書序論」における引用より引用)
数学の次は物理学である。パリ出身の 5 人の学者が切手に登場する。
【224-1-5 レオン・フゥコォ】
Jean Bernard Léon Foucault
1819-68
YT-1148 「フゥコォの振り子」
で世界中に知られた天才的な物理学者。その数々の独創的研究は自宅とコレージュ・スタニスラス(私
立リセの名門で、公立のアンリ IV, ルイ・ルグラン、私立のリセ・サンルイと並びフランスの 4 大リセと称される)
での独学から始まった。父親は出版編集者。大学で
は医学から転じて理学部を卒業したが、科学的関心
の展開をみると顕微解剖学
鏡から天文学
写真術
光学 望遠
天文物理学という具合で、それ自体
興味深い。太陽光、赤外線、偏光など、コレージュ・スタ
ニスラスからの同僚イポリト・フィゾォ Hippolyte Fizeau
(1819-96
下右)と共同
の、または競争して行っ
た研究は、科学史のテーマと
してまことに面白い。そ
の 1 つが光の速度の測定
である。フランソワ・アラゴ
François Arago(ラングドク 6)
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が失明のため放棄した研究つまり光は波動か粒子かが争われていた当時、水中よりも空気
中の方が光速が速ければ波動説が正しいという仮説の実証のため光速の測定が競われた。
既に袂を分かっていたフィゾォとフゥコォはそれぞれ測定の結果を提示したが、フィゾォは 1849 年に
回転歯車方式を案出して秒速 313,000km としたのに対して、フゥコォはまず空気中の方が早い
ことを実証し(のちにフィゾォも同じ結論に至る)、その後アラゴが提唱した鏡を回転させる方
式で 1862 年に秒速 298,000km とする測定値を出した。今日ほぼ確定されている数値は
299,792km であるから、フゥコォが出した値の誤差は僅か 0.6%でしかない。波動説・粒子説の
論争は今日量子物理学によって過去のものとなったが、当時は非常にスリリングな問題として
注目された。フゥコォはこの研究によって、1853 年にパリ大学から理学博士号を授与された(「空
中および水中の光の速度について」Sur les vitesses de la lumière dans l'air et dans l'eau)。
その間、フゥコォは振り子を用いて地球の自転を証明する実験にも
成功し、1855 年にイギリス王立協会から物理学、生物学のすぐれた
研究に与えられるコプリ・メダル Copley Medal を受け、フランスではパリ
帝室天文台の経度局助手の職を与えられた。振り子の研究の発端
は、太陽表面の写真撮影に必要な長時間の露光を可能にするため
振り子を応用してカメラを回転させるという着想である。いわばそ
の副産物として、カメラの回転にかかわらず振り子の振れる方向が
変わらないことに気づき、地球が自転しているため振り子が逆方
向に回転しているように見える、いわゆる「コリオリの力」が自転と
の関係で生ずると結論
付けた。したがって、見かけの回転を測れば地球
の自転の周期がわかる。
この実験は長大だが簡明な装置で再現できる。
フゥコォは、1851 年、パリのパンテオンのドームにおいて 67m
の鋼線で
28kg の鉄
球を吊る
し、この理を実証した(上はパンテオンに現に設置され
ているもの)。彼は、それを角速度の計測という極
めて応用範囲の広いジャイロスコープの発明につなげた
(1852 年)。
1868 年に脳の多発性硬化症で死去し、モンマルトルの
墓地に埋葬されている。 224-1-5
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