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ÿþM icrosoft W ord - 2 2 1 5 iledefrance - intra 1 5 _ 1 3
イ-ルドフランス
図版博物館 vol.174
パリ市内 15
土地の記憶 98
Musée imaginaire philatélique
Région Île de France au travers des timbres français
Paris intra-muros 4e éd. 2013
【221-15-1 パリ 16 区
シャイヨー宮と 1937 年万博】エトワールの凱旋門は、地籍としては 8 区(一
部 17 区)で 16 区ではない。エフェル塔は河向うの 7 区である。とすれば、16 区のシンボルとなる
建造物は何か。シャイヨー宮であろう。トロカデロ Trocadero の広場からセーヌ河まで緩やかな傾斜地に
広大な敷地を擁して立つこの建築群は景観の要素となって 16 区を印象づける。
この辺りには、旧制下では 1651 年に建てられた小修道院のほかには特別の建物はなく、
その修道院も革命下で取り壊されたのでその後 1 世紀近くも空き地であった。その間、ナポ
レオンの墓を作る話も含めて諸案が呈されたが実現に至らず、ようやく陽の目を見たのは、パ
リで 1878 年に開催された万博のための会場としてであった。Palais de Trocadero と呼ばれた。
19 世紀後半、フランスはことさらに万博に熱心(1867,1878,1889,1900 年と 11 年ごとに開催)で
あったが、その第 2 回を盛り上げるための宮殿建設であった。第 3 回の 89 年はフランス革命 100
年記念万博でエフェル塔、第 4 回の 1900 年万博はパリの地下鉄と巨大な目玉付きの大イベントで、
フランスの威信それも近代テクノロジーの先端を行くフランスのイメージを世界に発信した。その後、大戦
があり大恐慌がありで、万博の開催はどの国において
も難しくなった。フランスも例外ではなかったが、1937
年に 37 年ぶりのパリ開催が決まった。切手との関係で
は、1900 年当時は国家的なイベントであっても記念切手
を出すということに思いが及ばず、せっかく同年、初
めての大型切手〈Merson〉のシリ-ズ YT-119 を出したに
かかわらず〈commémoratif〉なる語を郵政官僚は知らなかった。その結果、万博の開催に
かかわらずここでトロカデロ周辺を取り上げる機会もなく過ぎた。しかし、1937 年は、それま
でと状況が違った。国際情勢でナチス・ドイツの台頭と社会主義国ソビエト連邦の成長、国内情勢
©bibliotheca philatelica inamoto
1
では人民戦線内閣と労働運動をはじめとした社会運動の高揚..... である。その中で人民戦線
政府主催の万博となれば新たな意気込みもあったであろう。前年から記念切手の発行も盛
んに行われた。下の 2 点を含めて 7 点セットというのも珍しい YT-322/327。
開会の 2 カ月
前にはピールが原
画・彫版を担当
した優美な決定
版も発行されて
いる YT-336。
万博自体についてもいろいろとあるが、箇条書きと
する。1/ 博覧会のカテゴリが〈universel〉ではなく、テー
マを特化して開催される〈spécialisé〉とされ、「近代生
活の技芸と技術」(Les arts et techniques dans la vie
moderne)がこの万博のテーマとされた。2/ この万博の
ためにトロカデロ宮が取り壊され跡地にシャイヨー宮が新築さ
れた。3/ 外国ではドイツとソ連が張りきった。写真で
みるとよくわ
かるが、シャイヨー
宮の両翼先に
巨大な塔が向
きあうように
立っている。左
はドイツ第 3 帝
国で頂上にはシ
ンボルの「大鷲」
が、右はソ連で
屋上には「コルホ
ーズ農民男女
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2
像」がと言う具合だ。4/ トロカデロから少し上流のウィルソン河岸に《Palais de Tokyo》という恒
久建築物がある。現在フランスの近現代美術館とパリ市の美術館が入っているが、1937 年万博の
際はフランス美術の回顧展に充てられていた。あるフランス人が間違って万博の際の日本館かと聞
いたので、余計かもしれないが一言。今は改称されたが 1945 年まで〈avenue de Tokyo〉が
あって一部それに接していた。そのため「東京宮」になっただけで、現在は街路の名も変
わってしまったが建物の名の方はそのままである。フランス人も取り違えたようで、少し困っ
た。221-15-1
【221-15-2 国連総会】シャイヨー宮は、戦後の切手にもしばしば登場したが、それは建物として
と言うよりもそこで開催された歴史上重要な会議の故にである。
中でも 1948 年 12 月に国連総会がシャイヨー宮で開かれ、同月 10 日に世界人権宣言 La
Déclaration universelle des droits de l'homme が採択されたことは、戦後の国際社会でフランスが
果たす役割を期待させる出来事であった。参加 58 カ国中
48 カ国が支持を表
明していたが、結果
的には反対0、棄権
8 カ国にとどまった。
棄権したのは人種差
別を肯定していた南
アフリカ、男女同権に反
レノア・ルーズヴェルトが採択の記事を読む
対したサウジアラビア、第 2
条の解釈について疑義を呈したチェコスロヴァキア、ポーランド、
ユーゴスラヴィア、ソ連であり、イエーメン、ホンデュラスは議決に参
加しなかった。この世界人権宣言は人の尊厳と権利と
いう観点から大戦を経た国際社会の共同の意思を表明
したものとして(それ自体は法的拘束力を直ちには持
たないものであっても)重要な歴史的意義を有する。
シャイヨー宮の名を中学生の私が初めて知ったのもこのこととの関連であった。
切手の出来も素晴らしい YT-818/819。 彫版はピール、原画はドカリスというコンビネ-ションである
が、20 歳も若い、といっても当時既に 47 歳の彫版師ドカリスが、自らは彫らず大先輩のピール
に原画を渡すあたりを想像すると、戦後の「良き時代」という言葉をまた使いたくなるも
のだ。
シャイヨー宮は 1951 年の第 6 回国連総会の会場としても使用された。3 年前とは国際情勢は大
きく変わり、
「冷戦」の緊張度が強まるばかりの時期であった。議事についてのべることは
省略し、同じドカリスが原画を描き彫版した 2 点の切手を掲げるだけに留める。
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誰が見てもこの 3 年間の情勢の厳しさをこの切手からも感じ取ることのなるのではない
か。ドカリスの個人
的意図とはかか
わりなく、時代
が反映している
ことを感じさせ
る作品である
YT-911/912。
221-15-2
【221-15-3 北大西洋条約機構
NATO】フランス語では、Organisation du traité de l'Atlantique
Nord、略して OTAN である。1948 年以来相互防衛条約を結んでいたフランス、オランダ、ベルギー、
ルクセンブルク、イギリスと、アメリカ、カナダが協議し、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウエー、アイスランドを誘
って 12 カ国で OTAN を結成した。52 年にはトルコ、ギリシャが加わり、54 年にはヨーロッパ共同体
防衛条約案がフランス議会で否決されたのを受けて、西ドイツが加わり、15 カ国となった。この
OTAN の本部ははじめパリに置かれたが、1967 年 10
月にブリュクセルに移転し、それに先立ってヨーロッパ連合軍
総司令部もフランスから撤収し、ベルギーのモンスに移転した。
切手は、いまだパリ 16 区に OTAN 本部(洗濯挟み)
があった 1959 年
に 10 周年を記念
して発行された
ものである。YT-1228 ここでは解説を省略するが、対米
従属をことさらに嫌ったドゴール大統領の軍事外交政策
を見ることができる。ベルギーに移ってから 25 周年を迎
えたが、ベルギーの切手もつまらない拵えだ。221-15-3
【221-15-4 経済協力開発機構
OECD】フランス語では Organisation de coopération et de
développement économiques (OCDE)。マーシャル・プランから生まれたヨーロッパ規模での協力機構
Organisation européenne de coopération économique (OECE)を前身として、1960 年に発足。
以後、先進国間の経済政策の協調のための分析、予
測、推奨にかかわる業務と統計の整備のための国際
機構として大きな役割を果たした。現在の参加国数
は 33 で、旧東欧圏からチェコ、スロヴァキア、ポーランド、ハン
ガリー、スロベニアが、またアジアからは日本と韓国が加盟し
ているが、基本的に西側自由主義経済諸国に限定さ
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れた国際組織である。実質は各国から派遣される専門家集団と見るべきか。本部は、パリ 16
区のアンドレ・パスカル街でシャトォ・ミュエットと呼ばれるビルディングに置かれている。1990 年に創立 30
周年を迎え、フランス郵政が記念切手を発行した YT-2673。 加盟国を世界地図に落としただけ
の簡素な図案である。221-15-4
【221-15-5 ラジオ・テレビジョンセンター】セーヌ河に浮かぶ白鳥島の端にリベルテの像があることは先に
記したとおりだが、その手前にかかるグルネル橋の一部が下の切手の左端に見えている。左岸
からこの橋を渡るとすぐに、円形の大きな構造物に行
きつく。これがフランス国営放送の総本山 Maison de
laRadio-Télévision であった。私たちの留学時代には
切手に描かれたような建物の出現(1963 年)に感動を
覚えたものだ YT-1402。
下の写真は 50 年近い年月を経た現在の姿である。
よく見ると看板にあたる部分に掲げられている施設
名は《Radio France》であって télévision の文字がない。ここに半世紀近くの変遷が示され
ているようだ。
63 年に建物が完成したとき
ドゴール大統領が除幕の演説を
したが、当時の組織は上掲のロゴが示すように RTF という
国営の放送機構であった。それがドゴールの好みであったかというとそうではなく、むしろ、
イギリスの BBC のような、国には直属しない公共放送であるべきだというのがドゴールの信条で
あったようだ。1940 年以降、BBC がいまだ未知数に近い「自由フランス」のリーダーに放送の機会
を再三与えたのは BBC がそれなりの自主権を有していたからだ、と彼は考えていた。建物
の竣工後彼が命じたのは、RTF の改組であった。翌 64 年 6 月、公共放送事業を担う新たな
公法人として Office de Radiodiffusion-télévision française (ORTF)が発足した。ORTF は情報省の後見的監督には服するも
のの報道の自由という点では従前の RTF とは大きく変わった。しかし、財政面での従属は
基本的に変わらず、以後自主財政(端的に言って広告の解禁)への模索が続いた。ORTF 発
足時からテレビは 2 チャンネルで放映されていたが、1969 年の所信表明演説でシャバンデルマス首相がチ
ャンネル間の競争を奨励したことや、第 2 チャンネルがカラー化されたことなどが契機となって風向き
が変化した。現実に、
「公平で競争的な報道」という路線が明確に意識されるようになった。
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私にとって今でも不思議なのは、巨大な
新放送施設がセーヌ河の対岸にできたにかか
わらず、テレビ部門の移転は容易には進まず、
若干のスタジオ・スペースは使用しながらも最終
的には 7 区のコニャク・ジェイ街 rue Cognacq-Jay の建物に戻ってしまったことだ。その間、ラジオ
は 4 チャンネル(Inter, Culture, Musique, Inter-Paris)に、テレビは 3 チャンネルに増えた。他方、番組編
成の自主・競争主義のめどがほぼついた 1974 年末、ORTF 自体がその存在理由はなくなっ
たとして解散するに至った。以後、16 区の巨大施設はラジオ・フランスに委ねられ、テレビは古巣
の 7 区に戻った。
《TF1》,《France2》,《France3》の各チャンネルはそれぞれ独立の法人となって
民営化を達成し、その上で多様な連携関係や系列局等を構築して現在に至っている。
16 区の放送局は巨大であること、制度上の変遷が著しいこと、加えて予想しない出来事
も少なくなかったことなどから、いまだ市民の心に安定したイメージを結ばないようである。
あれこれと述べるつもりはないが、2 つだけ余談を記す。1 つは、1963 年の建築物が現在の
建造物安全基準に照らすと不適格で、特に消防(火災予防)の点で関係当局から再三の改善
要請を受けている。特に中央の高層棟が問題のようだが、他に移転して大規模な修繕をす
るための予算が全くない。使用しながら直していくという方針だが、劣化に対応するだけ
の補修ですら資金的に無理があり、既存不適格の現状には頬かむりするしかないという。
もう 1 つは、パリでは大変珍しいことだが、建物の敷地からかなり豊富に温泉が出ることだ。
その温度は 27 度に達する。これに気づいた技術者は、それを空調や様々な熱交換に利用し
て真冬も春のごとく人々を和ませる。最後は摂氏 7 度の水としてセーヌ河に放出するというが、
これはよい話だ。221-15-5
【221-15-6 世界退役軍人連合会】日本では戦争の仕方と終わり方から、退役ないし在郷軍
人の運動は存在しないか、隠れて見えないかである。遺族会は有力であるようだが、その
仕掛けや政治的な利用に疑問を感じることもあろう。主観的な判断はさておくとして、トロカ
テ ゙ ロ 広 場 の 近 く に 事 務 所 が あ る 世 界 退 役 軍 人 連 合 会 Fédération mondiale des anciens
combattants の活動は、市民の間でかなり良く知られている。連合会の文書によると、この
組織には世界 89 カ国の退役軍人組織 170 団体(延べ 2500−3000
万人)が加盟しており、いずれの政府にも、また政治的軍事的宗
教的な勢力ともかかわりを持たずに、1/退役軍人と戦争犠牲者、
その家族の利益を擁護し、2/国連憲章と世界人権宣言および規約
にしたがって平和と国際の安全の維持のために行動し、3/退役軍
人と戦争犠牲者の身体的精神的な社会復帰・再適応のための運動
を推進し、4/加盟諸団体間の友好・親睦を増進し.......とその目的
を掲げている。重要な行事の 1 つは平和行進で、世界平和の日と
定められた日にそれぞれの組織が定めた集合地と目的地の間を
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隊列を作って行進し、目的地に到達したのち国連事務総長のメッセージを聞き、1 分間の黙祷を
し、その地の代表の話を聞く、それだけを約束事として戦後 60 余年にわたって運動を続け
てきたという。フランス郵政は 1961 年にこの団体がパリで開催した国際会議を記念して切手 1 点
を発行した YT-1292。
221-15-6
【221-15-7 マレ・ステヴァン街】1987 年のヨーロッパ切手は、20 世紀の斬新な建築をテーマにした。選
ばれたのは 16 区のマレ・ステヴァン街 Mallet-Stevens の集合住宅と 16 区に隣接するブゥローニュ・ビヤン
クール Boulogne Billancourt のルノォ工場敷地の再開発「57 メタル」の 2 つである。後者は 16 区では
ないが、組切手の相方としてここであわせて紹介しよう。
マレ・ステヴァン街はメトロのラヌラ駅 Ranelagh に近い住宅地にある全長 77m の行き止まりの私道だ
が、1926-27 年に街区全体を様々な趣向の 6 棟の集合住宅群として開発したことで注目され
た。設計者は Robert Mallet-Stevens で、白い立方体の積み重ねのようなフォルムでモダニスムの典型
のように見える YT-2472。
ブゥローニュ・ビ
ヤンクールの事例
は 、大 規模 な
都市開発設計で著名なクロード・ヴァスコニ Claude Vasconi の作品である。ルノォ公団が、その完全
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民営化とイヴリヌ県ギヤンクール Guyancourt の「ルノォ・テクノセンター」への工場移転を見越して、自社に
よる跡地利用計画をヴァスコニに委ねたもので、彼はこの依頼を受けてルノォ・グループ全体のため
の大国際会議場などの複合的な非工場施設を「メタル 57」の名で実現した。ブゥローニュ・ビヤンクー
ルでの自動車生産は 1992 年で終了し, 以後、その跡地は、ルノォ株式会社の本社機能と「メタル 57」
のような関連諸施設によって多面的に利用されている YT-2471。
221-15-7
【221-15-8 パリ 19 区 ビュト・ショウモン公園】16 区から 19 区へ。この間の 17 区、18 区にはとり
わけここで紹介すべき切手がない。切手にすべき重要な
街があり史跡・建造物も少なくないのに、ここではその
切手が欠けている。たとえば、18 区にはモンマルトルがあり、
サクレクール寺院 Basilique du Sacré-Coeur があるが、切手帳を
いくら探してもその姿はない。サクレクー
ルについては 1 つ見つけたが、それは
「切手で辿る 20 世紀」シリーズの 1 つ「乗
物」編に簡易バイクのモビレトを取り上げ
たときサクレクールを借景としたものであ
った。人物の背景にはないかと探した
[YT-3472]
ところ、こよなくモンマルトルを愛した音
楽家ギュスタヴ・シャルパンチエの肖像の背後にサクレクールが描かれ
ていた(ロレーヌ 6)のを思いだした。革命 200 年に便乗した「パリのプロムナド」シリーズでは、ルーヴ
ルのガラスのピラミドの彼方遠くにこのバジリカは霞んでいた。
19 区になるとパリ北東の新開地という印象が残る。そこでも切手の案内役は頼りないが、
2 か所を訪ねよう。1 つはナポレオン 3 世の命によりオスマンの都市計画の一部としてジャン・シャルル・アル
ファン Jean-Charles Alphand によって造園されたビュト・ショォモン公園 Parc des Buttes- Chaumont
である。パリには大小 426 の公園があるというが、この公園は 3 番目に大きい。総面積は
25ha という。かつては石切り場で、石膏と硅石を多く産出した。その跡地を公園にしたの
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で、採石場当時の坑道や地下道、洞窟などがかなり残っていて、人々は一種秘教的なカルトの
世界を想像して恐れ、憧れる。モンマルトルの丘(la Butte といえばモンマルトル)ほどはないとしても、
ビュト
なかば掘り崩された山であることに変わりはなく、標高差がある。断崖があってその頂に
シビルの神殿 temple de Sybil がある。断崖の高さは 30m あるから、優に 7−8 階建のアパルトマン
に匹敵する高さだ。2003 年にフランス郵政が公園シリーズの 1 点として発行した切手は、まさに
この断崖と頂上の神殿を絵にしたものであった YT-3606。この切手はフランス人には評判がよく、
同年の第 53 回切手芸術大賞に輝いている。この公園はまた、樹木の植生の豊かさでも知ら
れている。19 世紀後半特に普仏戦争の始末がついた後は万博の時代で、国際的な交流や物
流が勢いを増す時期である。説明書を開くと、この公園に植えられて 100 年以上の(おそ
エンジュ
サイカチ
ハシバミ
らく日本の)槐 、オリエントの梍 、ビザンチンの 榛 、ビルバオの銀杏、シベリアの楡、レバノンの樫(前頁
ア
ミ
カ ル
右の写真)と並んでいる。植物の好きな人たちによるビュト・ショウモン友の会もあるようだ。
221-15-8
【221-15-9 ラヴィレトの科学・産業センター】もう 1 つは、20 世紀末に、かつての屠殺場の跡地を
大改造して作り出したラヴィレトの公園 parc de la Villette とそこに設けられた「科学・産業シティ」
Cité des sciences et de l’Industrie である YT-2409。 面積ではビュト・ショウモンより大きい(35ha)
から、おそらくパリ一の公園であろう。1982 年に設計
コンペが行われ、スイス出身でコロンビア大学教授のベルナール・
チュミ Bernard Tschumi の案が採用された。一部に運河を
取り込んだ平面的な公園であって、ビュト・ショウモンとは対
照的である。この公園内の施設で最も重要なのは巨大
な科学博物館と言ってよい上記「シティ」である。1986
年に開設された。科学博物館としてはそれまで、グランパレの「発見発明館」Palais des
Découvertes
があったが、
2009 年 に
「科学・産
業シティ」と統
合されて 1
個の法人組
織となった。
アリアヌ 5 号のエンジ
ン(【ブルターニュ 5】)
221-15-9
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9
【221-15-10/14 ヨーロッパの首都 パリ】 Capitales européennnes というブロック切手のシリ-ズが
2002 年のローマから始まって、9 年目にパリの登場となった。ご覧のような装いで「ゆるい軽
チャ-」の時代にふさわしい。5 点でそれぞれの首都を表すのだから厳密な考証・選択は不要
で、五つ数えれば出来上がりと言う仕様だ。パリについてここに並ぶのはすべて、何回とな
く組み合わされた見飽きた名所であるから、コメントは要らないだろう。それでも、眺めて見
れば、欄外のデザインは--サクレクールは別として--少しイケる。パリの屋根 Les toits de Paris として
もっぱらオスマン時代に推奨された屋根裏のマンサルドを取り上げたこと(右肩)。屋根の下を流れ
る河がどうこうと言うのでないところがよい。それでもセーヌ河の絵もあるじゃないかという
方には、いやそれはセーヌ河を描いたのではなく、そこに記されているように「スカール・デュ・ヴエ
ール・ギャラン」Square du Vert Galant 、直訳すれば「粋な緑の小広場」を紹介しようとするもの
だ。シテ島の最西端にはこのように洒落た憩いの場がある。では、なぜ「粋な緑」なのか。
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右は、この広場の付け根のポンヌフ橋に立つアンリ 4 世の騎馬像だが、同王は「vert-galant」と讃
えられた。若く凛々しいからではない。かなりの歳なのにあの方は若々しくていつも元気
であった、要するに女性に大変もてたので粋なのだそうである。つまりはアンリ 4 世広場と言
うだけなのだが、それでもあやかりたい向きは、国王と乗馬に敬礼されたし。221-15-10/15
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