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4 - フランスの切手

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4 - フランスの切手
サントル
図版博物館 vol.63
4
土地の記憶 28
Musée imaginaire philatélique
Région Centre au travers des timbres français
4e éd. 2013
【11-4-1 トゥル】
YT-2370 サントル地域圏の 5 番目の県アンドル・エ・ロワールを訪ねる。ここは、ロワール渓
谷でもっとも城が多い地域である。切手に登場する有名な城館だけで 8 件 9 個所、これま
での 4 県あわせて 5 個所に比べると格段に多い。アンドル・エ・ロワール県の主邑はトゥル市である。フ
ランスで最もよい(純粋な)フランス語を話す町だと定評がある。一見ペイザンヌ(田舎娘)のよう
に見えても彼女たちの話す言葉は別格別品である。男たちは商人・大学教授を含めて親切
だ。よく言えば鷹揚で、普通にいえば閑人である。こういう町で栄えるのが切手収集で、
多くの市民が何かしら集めている。大収集家はいないようであるが、郵趣団体の全国大会
を誘致することにも熱心。家族ぐるみで来てもらい奥方や子供たちはお城巡りのツアーにどう
ぞ、ということで郵趣と観光は平和と繁栄をもたらす。開催の機会は単純に計算すれば 100
年に 1 回だがトゥルでは 1967、1985、2001 年と 20 年の間隔も置かずに大会を開催し、記念切
手の発行に浴した。
YT-1525 グゥアン邸
[第 40 回大会記念]
ゴシク建築を初期ルネサンス風に改築した絹商人の館をブ
ルターニュの銀行家グゥアン Gouïn が 1738 年に取得。第 2 次大戦でファサドを残して崩壊したが、ほ
ぼ完全に修復された。現在、トゥレーヌ地方考古学博物館。
YT-2370 サン・ガチアン大聖堂 [第 58 回大会記念] Cathédrale Saint-Gatien
1170-1547 年と
370 年をかけて完成した。市内のロワール河を渡る橋のたもとにある。1862 年に歴史遺産に登
録された。鐘楼は北塔 68m、南塔 69m。建築が長期にわたったため、鐘楼の基礎と躯体は
ロマン様式、装飾はゴシク・フランボワイヤン様式、尖塔部分は 16 世紀初頭タイプのルネサンス様式という。こ
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れが識別できれば教会建築について蘊蓄を傾けてよい。
YT-3397
鍛冶工芸職人ジャン・ブゥロォ Jean Bourreau 作の像とロワール
河に架かるウィルソン橋 Pont Wilson,
記念]
遠くは大聖堂。[第 74 回大会
トゥルの 12km 上流のヴェレツ Veretz の町に住む仲間職人
compagnon ジャン・ブゥロォは、75 歳になった年の 5 月、妻シュザンヌ
を連れ、この像のように身回品を肩に担いで仲間に見送られな
がらその町を出て行った。修行の旅である。そしてまたある 5
月の晴れた日(1962 年)に、
ヴェレツのゲリドン通り rue des Gueridons
にベランジェ親方の仕事場の火を守るために帰ってきた。中世以
来の同業組合の伝統を感得させる話だ。彼は 1972 年に「フランス
最優秀職工」meilleurs ouvriers de France 銀賞に、また, 1984 年
に県工芸家大賞に輝いた。この「仲間職人」の小像は 2000 年に作成され、翌年フランス郵政
はこれを郵趣団体の全国大会がトゥルで開催される際の記念切手に採用した。
ここからは、アンドル・エ・ロワール県の城を順次訪ねて行こう。ここでは、対応する切手が発行
された順に従うのがよいと思われる。切手の版式はシュノンソォ 2003 を除いてすべて凹版であ
るが、原画の作法には時代による変化がみられる。11-4-1
[G] シュノンソォ城 château de Chenonceau
[H] ヴィランドリィ城
[I] アンボワーズ城
1944 YT610,61]
château d’Amboise 1963 YT-1390
Clos-Lucé 1972YT-1759
[K] ランジェ城
château de Langeais 1958 YT-1559
château de Loches 1986 YT-2402
[M] アゼイ・ル・リドォ城
[N] シノン城
YT-3595
château de Villandry 1954 YT-995
[J] クロ・リュセ館
[L] ロシュ城
2003
château de l’Azay-le-Rideau 1987 YT-2464
château de Chinon
1993 YT-2817
[G]【11-4-2 シュノンソォ城】 YT-610 1944 年に同一図柄
で 15 フラン、25 フランの 2 種が発行された。60 年ほど後、
「行って見たいフランス」France à voir シリーズの 1 つとし
て再登場するが、凹版とグラビアの違いは別として,ま
た建物を上流から見るか下流から見るかの違いも別
として、比べ
てみて気にな
る違いはない
か。一方は
Chenonceaux 、
他方は
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2
Chenonceau と表記が違っている。しかし、いずれも正しいのだ。村の名としては《x》が
付いていなければならないが、城の名としては《x》は付かない。一説によればフランス革命時
の所有者ルイーズ・デュパン Louise Dupin が 共和制への移行を記念するため城の名から《x》を
除き、その後、城はそのように表記されたというが、明確な裏付けが
ない。結局のところ、フランス郵政のように城を指称するときは《château
de》を付け《x》は付けず、地名(村名)を指称するときは《x》を付
けるのが正しいということになる。
さて、この城はロワール河ではなくシェール河の上に、その右岸と接続して
建造されている。上流側と下流側のデザインは鏡像のように相似してい
る。参考のため上流・下流両側からのそれぞれ 2 枚の写真を掲げよう。
ルイーズ・デュパン
上流から見た城館
下流から見た城館
城
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館内に入るには、右岸下流からのアプローチとなる。入り口の木製の扉が由緒あるもので城館
の施主 Thomas Bohier とその妻 Katherine Briçonnet の紋章が掲げられている。
さて、さきにシュヴェルニィ城で触れたように、アンリ 2 世は同城を愛妾ディアヌ・ド・ポワチエに与えた
が、嫌だというので代わりに差出したのがシュノンソォであった。この Brézé
元帥の若き未亡人はシュノンソォが大好きで、右岸に好みの庭園を造らせて楽
しんだ。また、優れた建築家や造園家を指図して今日高く評価されてい
るさまざまな付属の建物や通路、造作を創りだした。しかし、国王の愛
人にとって栄華は儚いものであった。まず、国王がスコットランド衛兵隊長ド・
カトリヌ・ド・メヂチ
モンゴメリ・ガブリエル 1 世 Gabriel 1er de Montgomery との試合で
負傷し死亡した。死後、国王の正妻カトリヌ・ド・メディチ
Catherine de Médicis が摂政となった。
摂政は国王と
同一の権限を持つ。その結果、亡夫の愛妾はシュノンソォ
からブロアとアンブロワーズの間にあるショウモン城 Chaumont
YT-3947 に住替えを命じられてしまった。このことか
らも垣間見られるように、シュノンソォでの王族の生活や貴
賓・重臣・文化人との華やかな社交の世界で、パトロン
ヌ(女主人)としての女性の地位や影響力は無視できないものがあった、という。
フランスのテキストからの引用だが、このようにも書いてあった。
「城の歴史は、城の所有者や建
築主であった女性たちによって彩られている。そこから「夫人の城」という綽名が生まれ
た。なかでも、アンリ 3 世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌは、3 階の部屋で、1589 年に暗殺された夫の喪
に服した。彼女は死ぬまでシュノンソォで、そこに住まいを決めた尼僧たちに囲まれてすごした。」
ディアヌ・ポアチエの寝室
カトリヌ・ド・メヂチの寝室
5 人の妃の間
フランソワ 1 世の寝室
ルイ 14 世の寝室
彼女はこの城をカトリヌ(ド・メヂチ)
の死まで一種の修道院のよう
に変えてしまった。カトリヌ・ド・メ
ヂチの娘や義理の娘には一室が
設けられ、「5 人の妃の間」と
名付けられた。通常「女の城」
というと男子禁制の楽天地の
ようだが、シュノンソォは少し違う厳
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かな空気に包まれていたようだ。11-4-2
[H]【11-4-3 ヴィランドリ城】 YT-995 トゥルから 15km ほど西、ロワール河沿いにあるルネサンス風建築の城
である。現在も
個人所有の城
館であるが、ド
ンジョンと果樹庭
園で有名で訪
れる人が多い。
昔に遡れば、こ
の地に築かれ
た砦において、
1189 年に「コロンビ
エの和平」条約が結ばれた。この条約においてイギリスのプランタジネット朝の王ヘンリー 2 世がフランス王
フィリプ・オォギュストに対して敗北を認めた。コロンビエとはヴィランドリ
となる前の古地名である。以後、さまざまな建物や施設が築
造されたが、1532 年に Jean de Breton が買って 14 世紀のドン
ジョンを残して既存の
砦 を 取 り 払 い 、 1536
年にルネサンス風の城館を
建造した。ジャン・ド・ブ
ルトンはフランソワ 1 世の財務
総 監 で あ っ た 。
YT-4581
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その後さまざまな改造や権利の変動を経て、1906
年にスペイン生まれの Joachim Carvallo 博士とその妻
Ann Coleman が取得した。妻はアメリカの鉄鋼王の相続
人で資産があり、夫はノーベル医学賞を受賞した Charles
Richet との共同研究者であったが、それを捨ててヴィ
ランドリに専念することに決した。庭園は、15 世紀のフラ
ンス庭園を古文献に基づいて復活させたものである。庭園は 3 段からなり、一番高い段は噴
水とクマシデの生け垣からなる水の庭園、2 段目は刈り込まれたツゲとトピアリ仕立てのイチイの庭
園、3 段目は野菜畑である。1 段と 2 段は 1994 年以降に整備された。11-4-3
[I]【11-4-4 アンボワーズ城】 YT-1390
ロワール河を見下ろ
す高台にある個性のある城である。10 世紀からの歴
史のある城であるが、1434 年に国王家の財産となっ
た。ルネサンス期に歴代国王の居城として使用されたため、
外観・内装の両面において洗練された城となった。そ
のような歴史にかかわらず、18 世紀後半には十分な営
繕がなされず放置された状態にあった。そのためかフ
ランス革命下においてはさしたる被害はなかったが、この城をナポレオンから拝領した旧頭領のひ
とりロジェ・デュコ Roger Ducos は金がなかったため 1806-10 年の間に重要なサン・フロランタン参事会
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教会や王妃の居館などほぼ 3 分の 2 に当たる部分を取り壊してしまった。7 月王政下でルイ・
フィリプが修復に着手し、1840 年には歴史的記念物に登録されたが、2 月革命では政府に没収
され、オルレアン家に戻されたのは 1873 年であった。オルレアン家では老齢者の受入施設などに提供
していたが、20 世紀になって本格的な復旧事業が実施されることとなり、リュプリシュ・ロベール
Ruprich-Robert 父子の手ですすめられた。整備された同城は現在サン・ルイ財団の所有のもとに、
観光客にも公開されている。11-4-4
アンボワーズ城内のサンチュベール礼拝堂
サンチュベール礼拝堂のファサド
[J]【11-4-5 クロ・リュセ館】 YT-1759
アンボワーズ城から 500m ほどのところに、クロ・リュセと呼ばれ
マ ノ ワ ー ル
る邸宅地がある。
15 世紀中葉に Étienne le Loup が邸宅を建てたが、1490 年にシャルル 8
世が妻アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne のために買い取った。
1516 年、国王フランソワ 1 世はレオナルド・ダヴィンチをアンボワーズに招いて最
晩年の 3 年間をクロ・リュセで過ごさせた(1519 死去)。そのときにイタリア
から持ってきた 3 点の絵画のうち「モナリザ」Joconde と「聖ジャン・バ
チスト」はルーヴルにあるが、「聖アンヌとキリスト」はロンドンのナショナル・ギャラリーに
ある。クロ・リュセは、現在ダヴィンチの発明品(ヘルコプタ、戦車など 40 点)
を彼の設計図を基にして
試作し展示した博物館等
として使用されている。アン
ボワーズ城とは 500m の地下通路で結ばれており、あ
たかも同城の文化・芸術関係の迎賓館のような役割
を果たしていたらしい。
先にポアトゥ・シャラント 2 で紹介したマルグリト・ダングレーム
(=マルグリト・ド・ナヴァル)は、フランソワ 1 世の姉であるが、こ
の邸宅に籠って「エプタメロン」L'Heptaméron (7 日物語)を書いた。これは、ボカチオの「デカメロン」
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にならって 1 日 10 話の「10 日物語」を書こうとしたが 100 話には届かず、72 話で終わっ
たので、彼女の死後そのように名付けられたものである。歴史に残るこの英傑の女性が恋
愛・官能・不倫を鏤めた物語を悠然かつ艶然とこのマノワールで書いていたルネサンスは、どのよう
な自由な時代であったか、改めて考えるに値する。11-4-5
モナリザ
聖アンヌとキリスト
聖ジャン・バチスト
ダヴィンチ発明のヘリコプタ
ク
クロ・リュセ庭園
庭園内の
ダヴィンチ関係展示
左奥に戦車
左図の「戦車」を拡大
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