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はじめに 私たち国外の市民が中国農村の情報に触れるのは、一般に

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はじめに 私たち国外の市民が中国農村の情報に触れるのは、一般に
Tahara Fumiki
はじめに
私たち国外の市民が中国農村の情報に触れるのは、一般に、内外のメディアを通じてで
ある。そこでは農村の問題はほとんど「三農(農業、農村、農民)問題」として括られてい
る。農村は「沿海都市部の発展の陰に隠れた闇の部分」として、
「農民はなんと苦しく、農
村はなんと貧しく、農業はなんと危険であるか」という「悲惨な」イメージが提示される
ことが多い。こうした「三農言説」においては、しばしば、農村末端の幹部(役人)が農民
を虐げ搾取する悪役として登場し、農民の陳情行動や暴動が頻発しているとされ、中国社
会はいまにも崩壊寸前であるかのように語られる。
注意しなければならないのは、農村の現状を伝えるメディアの重要な活動目的のひとつ
には「社会正義の実現」ということがあるので、彼らは必然的に、不公正の存在する場所
を嗅ぎつけたうえで取材に飛び出していくわけである。ときには社会の負の側面を「暴く」
ために、あるいは少なくとも、問題のある個所について広く報道することによって、問題
解決に向けた世論形成に役立てたいという意図をもって情報を発信するのである。筆者が
危惧するのは、現在の中国農村に関する情報が、あまりにも問題暴露型の「三農言説」に
偏っているために、全体のなかでは大部分を占めるごく普通の、日常的な中国農村の姿を
イメージすることが難しくなってしまうのではないか、という点である。
筆者は 2001 年から 8 年ほどの時間をかけて、中国の 3 つの村を「固定観察ポイント」に定
め、継続的に訪問したうえで、それぞれについて紹介を行なってきた(田原 2005b、2009a、
。3 つの村とは、北京市遠郊にある X 村、山東半島の C 村、そして江西省の
2009b)
陽湖か
らさほど遠くない H 村である。中国でよく用いられる東部・中部・西部の地域区分を用いる
と、X 村と C 村が東部、H 村が中部に属することになる(第 1 図)。これらの村では三農言説
に現われるような「悲惨な現実」があるわけではなく、ある意味でごく平凡な普通の村々
である。その分、
「面白み」には欠けるかもしれないが、中国農村を全体として理解するた
めには、こうした平凡な村々に目を向けることが大事である。そして平凡な村々の生活に
も、地域によってさまざまな違いがある、という点を理解することのほうが、
「農村の悲惨
な現実」を繰り返し確認することよりもよほど有意義である。小論では、筆者が村の現場
に入っていく過程で感じ取った周辺的な印象について書き留め、そうして村ごとの印象を
相互に照らし合わせることで、私たちが中国農村の「当たり前の日常」を思い描くための
国際問題 No. 581(2009 年 5 月)● 21
中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
第 1 図 3村の地理的位置
黒竜江省
吉林省
内モンゴル
自治区
遼寧省
新疆ウイグル自治区
北京市
X村
甘粛省
山
西
省
寧夏回族
自治区 陜
西
省
青海省
河
北
省
天津市
C村
山東省
河南省
チベット自治区
安
徽
省
西部
四川省
湖北省
重
慶
市
湖南省
江西省
広西チワン族
自治区
広東省
H村
上海市
浙江省
中部
貴州省
雲南省
江
蘇
省
東部
福
建
省
台
湾
手がかりを提示してみたいと思う。
1 村とはなにか
3 村の印象を述べる前に、中国の地域社会にあまり馴染みのない読者のために、中国の
「村とは何か」をめぐる、いくつかの前提的な事項を確認しておきたい。
ひとつは、地方・末端単位における「村」の位置づけについてである。中国の地方・末
端単位を示した第 2 図を参照してみれば、中国において「地域社会」と言った場合、
「省レ
ベル」から末端の「サブ基層レベル」まで、6 つものレベルを想定できる。そのなかで中国
の農村住民の生活に最も密着し、生活の場として重要性をもつと思われるのが、
「基層レベ
ル」の地域社会、すなわち「村」である。
『中国統計年鑑 2007』より算出すれば、2005 年現
在の基層レベル組織の平均規模は 394 戸、人口 1483 人である。
基層レベルには、かつての人民公社体制の下では「生産大隊」が置かれており、そして
現在では「村民委員会」と呼ばれる組織が置かれている。
「村民委員会」の法的位置づけは
(
「村民委員会組織法」
「村民が自己管理、自己教育、自己服務を行なうための基層大衆組織」
第 2 条)であるが、中国では慣習上、これを「行政村」と呼ぶこともある。これには 2 つの
理由がある。ひとつは、村民委員会の「委員会」というのは組織の名称であって、コミュ
ニティーを表わすのには不向きであること。そしてもうひとつは、社会的・地理的なまと
まりの側面を指す「自然村」すなわち集落と区別し、上からの行政的編成の必要に応じて
人為的に形成した単位、という意味合いをそこに込めるためである。実際のところ、後に
みる江西の H 村では、行政村と自然村はまったく乖離している。行政村としての「H 村」と
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中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
第 2 図 中国の地方・末端行政単位
人民公社時代
現在
(例)
省レベル
省(市)
省(市)
地区レベル
地区
市
県レベル
県
県(市)
サブ県レベル
人民公社
基層レベル
サブ基層レベル
(北京市)
(山東省)
(江西省)
(煙台市)
(鷹潭市)
(YQ県)
(P市)
(YG県)
郷・鎮
(K鎮)
(X鎮)
(S郷)
生産大隊
村民委員会(行政村)
(X村)
(C村)
(H村)
生産隊
村民小組
(第7区) (第9村民小組) (H1村)
(出所)
筆者作成。
「H 村」のなかの一自然村である「H1 村」は名称としては同一だが、前者は後者のほかにも
13 の自然村を包括しているのである。また行政村の概念は上から下への権力と強い政治性
を連想させ、村民自治を実行するための「村民委員会」とは大きな概念上のズレがあるの
だが、2 つの呼び方は特にその深い意味を考慮することなく、ほぼ同じくらいの頻度で使わ
れているのが現状である。
もうひとつ、背景知識として知っておきたいのは、地方財政制度のなかでの「村」の位
置づけである。日本の市町村が住民税や市町村税など独自の税源を保有するのとは対照的
に、中国の「村」には徴税権がなく、その意味でフォーマルな「財政」の単位とはみなせ
ない。また日本の「地方交付税」に相当するような、財政力の弱い自治体に配慮した財政
再配分措置も存在しない。ところが村は末端において国家の計画出産・計画生育管理を代
行したり、あるいは国家の手の届かない小規模なインフラ整備を行なったりと、実際には
多くの仕事を担わされてきた。ここから村には「支出」と、それを支える「収入」がなけ
ればならないが、それは実際の必要から「事実上」存在しているのであって、あくまで国
家の財政制度の枠外に位置するものである。
当然ながら、地域ごと、村ごとにみた
第 3 図 地域別にみた村集団収入の内訳
「財政」規模の格差は非常に大きくなる。
ややデータは古いが、第 3 図に東部、中
(元)
部、西部別にみた村集団収入の内訳
2,000,000
(1999 年)を参考までに示す。ここからは、
東部の村と中部・西部の村との間には約
1,500,000
集団経済
外部資金
村民からの調達
その他
10 倍の格差があり、その格差を生んでい
る主たる要因は「集団経済」からの収入
1,000,000
の多寡であることが知られる。
500,000
それでは「集団経済」とはなにか、そ
の制度的背景についても簡単に触れてお
く必要があろう。中国における地方・末
端行政単位、つまり第 2 図に示した省、
市、県、郷・鎮、村、村民小組などは、
0
東部
中部
西部
(出所)
田原(2005a、63―64ページ)より再構成。元データは、
農村固定観察点弁公室(中共中央政策研究室・農業部)『全
国農村社会経済典型調査数据匯編 1986―1999年』(北京:
中国農業出版社、2001年)による。
国際問題 No. 581(2009 年 5 月)● 23
中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
1950 年代から 70 年代にかけての社会主義
時代を通じて、いささかの国有企業や集
第 4 図 地域別にみた村集団支出の内訳
(元)
2,500,000
団所有制企業を保有していた。特に郷・
鎮レベルや村レベルの「集団」単位は、
2,000,000
人民公社体制下において、いわゆる「社
隊企業」を発展させ、1980 年代以降は、
1,500,000
管理費用
上納金
福利費用
公共建設費用
その他
それが基盤となって郷・鎮営企業、村営
企業など、「郷鎮企業」が勃興した。こ
1,000,000
のほか、農村部の土地所有権は社会主義
時代以来、基層レベルとサブ基層レベル
500,000
の「集団」に属しており、農民に分配し
て請け負わせる土地を除き、集団が自ら
保留して経営することも可能であった。
0
東部
中部
西部
(出所)
第3図に同じ。
これらの企業や土地など、「集団」が運
用・経営して収益をもたらすことのできる共有財産を「集団経済」と呼ぶのである。
さて同様に、支出についてみると第 4 図のとおりである。ここでも東部と中部・西部との
間には 10 倍ほどの格差があり、それが主として福利費用や、とりわけ公共建設費用への投
入額に反映されていることがわかる。
「集団経済」の規模が収入の規模を決定し、それが農
村部の公共サービスの提供度合いにも直結している。同じ「中国の農村」と言っても、沿
海地域と内陸地域は公共建設やサービスの提供度合いに大きな乖離が存在しているのであ
る。図示したのはあくまで地域ごとの「平均」であって、個々の村ごとにみれば格差はも
っと大きい。筆者の観察ポイントでも、東部の北京 X 村、山東 C 村は共に数十万元規模の収
入があるのに対し、江西 H 村は、これがほぼゼロに近い。
「三農問題」において農民世帯レ
ベルの収入格差がしばしば指摘されるが、農民の中心的な生活の場である村やコミュニテ
ィーの「力」が地域ごとに大きく異なっている点にも注目すべきである。
2 入村の儀式
外国人の研究者が中国の農村で調査活動を行なう場合、
「調査はできるもの」という前提
は成り立たない。逆に「調査はできなくて当たり前」であり、曲がりなりにも調査ができ
た場合は自身の幸運に感謝しなければならない。うまくいかないからといって、相手側を
批判したり、強引にプッシュしたりする態度は慎むべきである。
とりわけ大事なのは、インフォーマルな形であれ、村のリーダーの同意を得ることであ
る。宿泊施設ではない民家や農村内の施設に泊まり込む場合、法律的に厳格な手続きを踏
むのであれば、公安当局に「宿泊届け」を出さねばならない。だが、そのようなことをし
て「やぶ蛇」となるといけないので、通常はそれをせず、そのかわり、村のリーダーと最
初に知り合って、これから村の範囲で学術研究を目的とした活動をすること、決して中国
の「遅れた面」や「負の側面」を暴露したりする目的ではないことを理解してもらわねば
国際問題 No. 581(2009 年 5 月)● 24
中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
ならない。ちなみに、この「調査」という日本語をそのまま中国語の語彙として用いると、
ある種の「取り調べ」に近いニュアンスがかなり強く出てしまう。したがって、自らの来
意を説明するときの中国語の語彙としては、
「調研」
(調査・研究)あるいは「考察」などの
語を用いる。
こうした中国農村調査の「スタンダード」を体現していたという意味で、2002 年の山東 C
村への入村の仕方は典型的だった。煙台市の政府機関に勤める友人のつてで紹介してもら
い、友人に同行してもらってC 村を訪ね、まず村の党支部書記に軽く村を紹介してもらった
後、近隣の村にある食堂で宴会となった。書記以外にも数人の村リーダーたちが同席した。
村に滞在中の日常的な世話を焼いてくれることになった、当時、村民委員会委員であった D
さんにもこのとき知り合った。煙台の政府機関の友人たちの同席によって人間関係上の保
証が与えられたことにもなり、この宴席が筆者という外国人の調査活動をインフォーマル
に認める儀式ともなっていたのである。
2001年、北京のX 村に入村した際もこうした「儀式」がありはしたものの、それは C 村よ
りはずっと簡単なものだった。友人である中国農業大学の S 教授の同行で村を訪ね、当時の
村党支部書記であったC さんと面通しをしてもらった。車で県城のレストランまで出て食事
をしたが、他の参加者もおらず、それは「宴会」というほどのものではなかった。C 書記も
「村外の客人の接待が多い」とこぼしながら、筆者たちと食事につきあうのも面倒な様子で、
酒の応酬もほとんどなかった。のちにわかってきたのは、X 村は野菜栽培と野菜卸売り市場
で大発展を遂げた村で、リーダーたちは市場の経営を含め、大変に多忙なのである。党支
部書記やその他の村のリーダーは、県当局や外部の商人とのコネクションを頼りに、村内
部の実力を超えたスケールで外部資金を導入し、市場のさらなる拡張を計画していた。さ
らに「市場」というのはその性格上、外部世界・マーケットに向かって「開かれた」存在
であり、村外の見知らぬ人間が村に来ることは X 村にとってはもはや日常であった。したが
って、外国人が 1 人村に来ようが来まいが、彼らにとってはどうでもよいことだったのであ
る。
江西 H 村には 2006 年に初訪問したが、X 村とはまた別の意味で、筆者の入村には無関心
か
だった。ひとつには、研究協力者として調査に同行してくれた上海在住の大学院生、何 CQ
氏が、この H 村の出身者であったという点がある。つまり筆者は「調査者」としてではなく、
あくまで何氏の友人ないしは関係者として入村したので、村リーダーの認可を得ようとい
う動機づけ自体が筆者にも弱かったということがある。他方で、それまでの経験から、村
にしばらく滞在しておれば、村のリーダーや、めぼしい人々とは自然に知り合うことがで
きるだろう、との思惑があった。ところが、何日滞在して集落を歩き回っても、村のリー
ダーらしき人には出会わない。外国人入村の情報を聞きつけて先方からやってくることも
ない。いったい、どういう人々が党支部の委員なのか、村民委員会の委員なのか、村民に
尋ねても要領を得た答えは返ってこない。H 村は稲作のほかにはめぼしい収入源もなく、い
わば「出稼ぎ経済」で、多くの青年層、壮年層が流出している。出稼ぎ者のなかには村民
委員会委員の 1 人も含まれているとのことだった。村のリーダー層さえも出稼ぎで不在がち
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中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
ということになれば、幹部に出会わないのもやむをえないか、と考えていたところ、村党
支部書記は H 行政村内の集落のひとつ、HU 村に在宅であることがわかった。そこで「やぶ
蛇」になるリスクも多少は感じながら、こちらから訪ねていくことにした。
HU 村は小山の斜面に沿って固まっており、書記の自宅の外見は他の民家と同様の古い木
造住宅だったが、内部はこぎれいに掃除が行き届き、快適な空間となっていた。客用の肘
掛け椅子を勧められると、卓上には読みかけの書物があり、よくみると著名な社会学者・
費孝通の古典的名著『江村経済』だった。書記は 42 歳で、1986 年からすでに 20 年も変わら
ず H 村の書記を務めているという。怪しい外国人が現われたのでさすがに警戒したのか、質
問されないために徹底的にしゃべり倒す、という作戦に出たのか、書記はとにかくよくし
ゃべった。だが、彼の管轄する村で筆者がなにをしようとしているか、そんなことにはな
んの関心もないようであった。これはやや拍子抜けであったが、X 村や C 村のリーダーたち
のように、
「ここは自分の村だ」という意識があまりないようにみえた。言い換えると、村
民の生活の改善や発展に対して、リーダーたるものがなにかを「背負う」という意識自体
が希薄なようであった。そして、自分になにかができる、とも考えていないようであった。
第 1 節にみたように、中国中部・西部の村はきわめて限定された収入しかなかったが、H 村
の集団収入もほぼゼロであり、特に 2005 年に当地で農業税が全廃されてからは、村民から
の資金徴収を行なうことも非常に困難となっている。先立つものがないのでは、村民のた
めになにかができる、とは思えないのもまた自然なことである。
3 村のかたち
めでたく入村の儀式が終了する―あるいは「免除」ないしは「無視」される―と、
筆者はまず、集落の周りを遊び半分に「ぶらぶらする」ことにしている。これにはいくつ
かの意味があり、ひとつには、いきなり村民を捕まえて聞き取りを始めたりして、
「取り調
べ」的な雰囲気を醸し出さないためであり、また新しい環境に適応する猶予を自らに与え
るためでもあり、さらには話し相手になってくれる情報提供者が自然発生的に現われるの
を待つためでもある。総じて言えば「無理をしないため」の時間である。ただし、
「ぶらぶ
ら」にはもうひとつの重要な目的があるのであって、それは村落社会というものを脚で歩
いて、その「かたち」の側面から把握しておく、ということである。
歩いてみた結果、北京 X 村と山東 C 村の「村のかたち」は相対的に似通っていることがわ
かった(第 5 図、第 6 図)。それぞれの戸数と人口は、X 村が 700 戸、2200 人ほど、C 村が 500
戸、1500 人ほどであるが、ともに華北地域には一般的な集村形態をとっている。厳密にみ
れば、X 村は、2000 年以降に吸収合併した小集落(図の「池」の付近)を含んでいる。また
C 村の北西部の一角は本来、別の集落であったが、現在は一塊となり、ひとつの集落として
認識されている。いずれも大まかにみれば、一集落(自然村)=行政村となっている。自然
村=行政村の構造は、端的に言うと「X 村民」ないしは「C 村民」としての意識の生まれや
すさ、ひいては社会構成上の「まとまりやすさ」を意味していよう。さらに両村に共通し
ているのは、集落のなかほどに、権力の中心としての村党支部・村民委員会のオフィスが
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中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
位置していることである。両村の村民たちは
第 5 図 北京X村
この権力中心のことを現在でも「大隊」と呼
んでいる。さらに、これらの「大隊」に隣接
して、ベストな空間的位置を「野菜卸売り市
場」や「ソファー工場」など、それぞれの村
を代表する「集団経済」が陣取っている点も
似通っている。それぞれの村がある種の「経
営体」であり、経営体としての収入をもって
村落の公共建設を振興し、さらにその村民へ
の貢献をもって村をひとつにまとめ上げてい
第 6 図 山東C村
る。
対照的に江西 H 村は華中に多いタイプで、
丘陵地帯に分散した 14 の集落がひとつの「行
政村」を構成している(第 7図)。14の「集落」
と言っても、そこには、現在は廃村となり、
地名として残っているだけのものや、独居老
人が 1 人、住んでいるだけの「集落」も含ま
第 7 図 江西H村
れている。当該地域の集落は概して規模が小
さく、平均すると 30 戸程度のものが多い。調
査者としてまったく面目ないことであるが、
筆者は現在に至るまで、行政村全体としての
H 村の戸数、人口を把握できていない。把握
できているのは、H 行政村のなかで直接的な
観察対象とした中心集落である H1 村の戸数
が 88 戸、人口が 440 人という点のみである。
行政村のデータが得られないのは、筆者の怠
慢にもよるが、H 村の村落生活が圧倒的に集
落単位で営まれており、X 村、C 村にみられ
たような、行政村内の人材や情報を集積するような「中心」が欠けている点ともかかわっ
ている。行政村のリーダーたちが会議や打ち合わせをする建物自体も、もともとは H1 集落
に置かれていたのが、現在は村民個人に売却されてしまった。前節で書記の自宅を訪問し
たエピソードについて触れたが、リーダーたちの居住地は各集落に分散しており、集落同
士を結ぶ道も悪路なため、村から村への移動は困難で時間もかかる。リーダーたちは頻繁
に顔を合わせることはなく、そもそも一所に集まって話し合うような議題自体が存在しな
いようである。次節でみるように、集落の内部では相対的に濃密な人間関係もみられるが、
行政村全体としてはバラバラなのである。
以上、
「村のかたち」を相互に比較すると、①自然村と行政村が重なり明確な中心性を帯
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中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
びた X 村、C 村と、②自然村と行政村が 2 つの異なるレベルを構成し、日常的世界と政治的
世界との間に断層が存在する H 村、という 2 つの類型が示されていると言える。
4 食と宴
入村の儀式をめぐっても少し触れたが、3 つの村は、
「食」や「宴会」のあり方において
も独自のカラーがある。
山東 C 村の食と宴は、かなり派手である。もとより、山東人は豪快な酒好きで知られる。
毎度、筆者を受け入れてくれる D さんが酒好きであるということもあるが(ただし彼はビー
、家庭で食事をとるときも、誰彼となく友人や縁者
ル専門で、
「白酒」はあまり得意ではない)
を巻き込んで、小さな宴会になることが多い。またホスト・ファミリー以外の家で御馳走
になることもしばしばである。村の大きな果物農家であり、現地の果物を南方に出荷する
(経営者のことを「老板」と
流通業者のために代理買い付けもしていて景気のよい「C 老板」
いう)の家には、これまでに幾度となく御馳走に呼ばれた。そんなときは、家に間借りして
いる南方のトラックの運転手や上級の鎮の幹部たちも交えて、酒の応酬となることも多い。
宴会料理の献立は、肉・魚料理が多い。写真 1に示したのは、家を新築する世帯の「手伝い」
に参加した近隣の村民に対して、当家が昼に振る舞う宴会料理である。C 村がある P 県は渤
海に面しており、C 村は車で 30 分ほど山側に入るものの、村で開かれる定期市を通じて新
鮮な魚介類も手に入る。
写真 1 肉・海産物ばかりの宴会料理(C村)
これと比べると、北京 X 村の食と宴はかな
り「あっさり」している。決まったホスト・
ファミリー宅に投宿し、毎度、その家庭で食
事を出してもらっているが、他の家を食べ歩
く、ということがほとんどない。さらに、野
菜卸売り市場で名を馳せた村でもあり、その
食事もブロッコリーその他の野菜をふんだん
に用い、北方の小麦粉のお焼きを取り混ぜた
料理は、外部の客にとっても食べやすく、す
んなりと受け入れられる (写真 2)。さらに、
写真 2 野菜の豊富な家庭料理(X村)
C 村のような酒の応酬によるテンションの高
い盛り上がりには、X 村ではついぞ出会った
ことがない。そもそも酒好きな村民の「武勇
伝」の類も聞いたことがない。したがって、
筆者も「酒」と闘いながら気負って「農村調
査」をしているという自覚はほとんどなく、
さながら気楽な「ホーム・ステイ」の感覚で
ある。一家の主人が村外の漬け物工場に出勤
していて不在のことも多く、ホスト・ファミ
国際問題 No. 581(2009 年 5 月)● 28
中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
リー宅の居間で、東京の自宅にいるのとあま
り変わらない感じで「手酌酒」というパター
写真 3 貧しいながらも精一杯にもてなす
家庭での招待料理(H村)
ンが最近は多い。X 村で「宴会」が重要な意
味をもつとすれば、村民同士で関係を強め合
うというよりは、むしろ県の幹部や広東の野
菜商人など、外部者の「接待」を村で行なう
場合である。X 村のリーダーたちが村を発展
させることに成功したのは、接待を通じて外
部とのコネクションを作り上げ、外部資金を
調達してきたことが大きい。接待用の料理は、
多少は肉料理が多いだろうが、それでも X 村
はゴテゴテしたものよりは、素朴な農村家庭料理(農家飯)を「売り」にしている村である。
同村は八達嶺長城への観光客を呼び込んでの農村観光(民俗旅遊)の、北京郊外区域での先
駆けでもある。
江西 H村の域内に散らばる集落は、基本的にひとつの姓(同族)が聚居して形成しており、
中心集落である H1 村は何姓の集まるところである。2006 年の初回滞在と 2 回目の滞在では、
前出の何 CQ 氏の叔父の家にやっかいになったが、毎度の食事は近隣の家で御馳走になるこ
とが多かった。不思議だったのは、いつ、誰の家で食事を呼ばれるかについて「アポ」を
入れたわけではないのに、そのときになると、なぜかちゃんと食事をする家が決まってお
り、呼ばれて行ってみると、家の女性たちが竈に薪をくべ、着々と客を招く準備が進んで
いるのである。ごく近い集落の内外で、血縁者や姻戚関係者を客として呼んだり呼ばれた
り、そのような濃密なつきあいが日常の一部となっている。H 村も C 村と同様に、豚肉、鶏
肉(家で飼っているものを潰してくれる)、すこしの川魚、そして客人のために特別に用意さ
れた犬肉などの動物性タンパク質が主体となったものである。写真 3 に示した取り合わせは
比較的マシなほうで、9 皿のなかには昆布やタケノコなども混じっているが、ほとんどの場
合は 9 皿すべてが肉料理で埋め尽くされる。さらにこれらはすべてが食用油と食塩を多用し
た変化に乏しい味付けで、毎度の精一杯の招待に感謝する気持ちとは裏腹に、食べ物はす
ぐに喉を通らなくなってしまうのである。
それでは 3 村の違いが物語るものはなにか。H 村は、かつては非常に貧しい村だった。動
物性タンパクが貴重だった時代、そしてそれが実際に日常的に食べられるようになっても
「豊かさの象徴」としての記憶だけは生き残り、もはや客人の側が肉料理を心底欲している
わけではないのに、もてなす側ともてなされる側の「お約束」として肉料理が出され続け
ている、と言えよう。C村も同様で、外部に開かれ、かなりの豊かさを享受している一方で、
村民間のつきあいは濃厚であり、家庭の経済的実力に絡む「面子」の意識が刺激されやす
く、それが宴会料理における海産物・肉料理の多さとして現われる。他方で、北京 X 村の村
民関係はコスモポリタン的にあっさりしており、互いに「面子」を競い合う風潮がほとん
どない。
「面子」を気にせず、外部の客人が実際に食べて喜ぶメニューを考えた結果、野菜
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中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
や小麦粉のお焼きなど、むしろ「素朴な」メニューが増えたのだろう。
5 言語生活の襞
農村調査をする者にとって、言語の問題はけっして小さくはない。とりわけ、現地の情
報をスムーズに得ようとする立場からは、現地の方言の存在は厄介な「障碍」として映る。
だが、標準語(普通話)がどの程度通じるか、その齟齬の感覚を、単なる調査活動をめぐる
「障碍の程度」として片付けてしまうのはあまりに惜しい。
「村のかたち」を知ることと同様
に、現地社会を知るうえでの重要な手がかりとして捉えるべきだろう。
標準語しか解さない筆者と 3 村との関係について言えば、北京 X 村は最も「障碍」の小さ
いフィールドである。もちろん X 村にも多少の「方言」はあり、声調の第一声がすべて第四
声で発音されるなど、最初は戸惑うこともあったが、じきに慣れることができる。高齢者
の話が聞き取りにくいのはおそらく普遍的な現象で、X 村でも 2 ― 3 割しか理解できない場
合もあったが、これは同村の方言のためというよりは、筆者の聞き取り能力が高齢者独特
の発音や語りに対応できなかったためであろう。
山東 C村は同じ華北地域に属し、標準語の勢力範囲に入っているが、訛りはかなりきつい。
声調が標準語とずれたり、
「r」の音が「y」となったりという変化だけではなく、地方独自
のボキャブラリーも多く入ってくる。C 村村民同士の会話は、筆者にはほとんど聞き取れな
い。ただし、筆者から質問したことの返答については、文脈から意味を類推できるので、
聞き取りは可能である。さらに、C 村村民は曲がりなりにも、標準語の発音で話すことも
(ある程度は)可能である。筆者が単独で入村して、この村の調査ができたのは、受け入れ
者の D さんが、ゆっくりとした標準語でいろいろなことを根気強く筆者に説明してくれたこ
とが大きい。
江西H 村の言語は、いわゆる「中国語」からはかけ離れた、まったく別の言語のように聞
こえる。方言通訳も兼ねて、研究協力者の何 CQ 氏に毎度同行してもらわねばならないのも、
やむをえないことである。少し驚いたのは、H 村では正規の教育を受けている小学生や中学
生も家庭の生活ではあまり標準語を話す機会がなく、得意でないようにみえることだ。お
そらくは学校の授業も標準語、現地語まじりで行なわれているのだろう。H 村村民―そし
て多くの南方中国の農民―の場合、標準語に対してはある種の「よそよそしさ」を抱い
ている。彼ら同士の会話に筆者が標準語で割って入ることは、
「場を白けさせる」可能性が
高い。かといってこちらが現地語のボキャブラリーを 10 や 20 ほど習い覚えて場を和ませる
ことはできたとしても、相手の言うことはおいそれと聞き取れるはずもない。無理に標準
語を話してもらえば、その内容は「本音」とは乖離したものになるだろう。こうしたとき、
比較的頼りになるのは 20 ― 30 代の青年層だが、H 村では出稼ぎのため、この年齢層はすっ
ぽりと抜け落ちている。そうなると、血縁と地縁が織りなす親密な言語世界に外部者が入
っていくのはいかにも困難である。
言語の通じやすさが示すのは、オープンな社会とクローズドな社会の違いである。X 村が
外に向かって開かれており、外部者の筆者が標準語で直接、交流できるのに対し、H 村社会
国際問題 No. 581(2009 年 5 月)● 30
中国の村を歩く― 皮膚感覚からの「三農問題」再考
は内に向かって閉じやすく、村民と外部者との関係がダイレクトなものに発展するにはよ
り長い時間を要する。省の大部分が山地と丘陵地からなる江西では、山をひとつ越え、県
境を跨いだだけで言語ががらりと変わってしまう。江西人が「故郷」に対して抱く親密な
感情は、そこでの言語生活が内向きでデリケートであることと表裏の関係にあるのだろう。
むすび
小論では思いつくままに、皮膚感覚で捉えた印象を中心に3 村の特徴を綴ってみた。私た
ちが多く接する機会のある「三農言説」にはこうした皮膚感覚が乏しいような気がするので、
あえてここでは対極的なアプローチを採ってみた。3 つの村を取り上げたことの意味は、け
っしてこの3つの村が広大な中国の大地に拡がる村々をバランスよく代表する3類型だという
ことではない。また中国の農村を論ずるのに 3 つの村を比較対照すれば十分だと主張するつ
もりも毛頭ない。3つの村が選択された理由はかなりの程度、
「偶然」によるところが大きい
し、また現段階でのサンプルが 3 つしかない、というのも純粋に筆者の時間とエネルギー上
の制約によるもので、今後、力の続く限り観察ポイントの数を増やし、また深めていかねば
ならないのは当然のことである。結局、平凡な村々を地道に訪問し、歩き続けることを除い
て、ほかに中国農村を理解する有効な方法があるとは思われないのである。
■参考文献
田原史起(2005a)
「中国村落政治のアクター分析」
、佐々木智弘編『現代中国の政治変容―構造的変
化とアクターの多様化』
、アジア経済研究所。
―(2005b)
「中国農村における開発とリーダーシップ―北京市遠郊 X 村の野菜卸売市場をめぐっ
て」
『アジア経済』第46巻第6 号。
―(2009a)
「道づくりと社会関係資本―中国中部内陸農村の公共建設」
『近きに在りて』第 55 号
(掲載予定)
。
―(2009b)
「水利施設とコミュニティ―中国山東半島 C 村の農地灌漑システムをめぐって」
『ア
ジア経済』第 50巻第6号(掲載予定)
。
たはら・ふみき 東京大学准教授
[email protected]
国際問題 No. 581(2009 年 5 月)● 31
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