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その友人に銃を向け - 日本国際問題研究所

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その友人に銃を向け - 日本国際問題研究所
◎ 巻頭エッセイ ◎
Watanabe Hiroshi
プロローグ
泥沼にはまって溺れている友人から助けを求められた男は、その友人に銃を向け、
「その沼は底なし沼だから君を助けようとすれば 2 人とも溺れ死ぬ。せめてもの友情
として、君が苦しまないですむように一発で仕留めてやる」と言い、引き金を絞ろ
うとした。これに焦った友人は、無我夢中で泳ぎ、もがき、自力で沼から脱出した。
友人に銃を向けたこの男の名前は、オットー・フォン・ビスマルクという。これが
実話であるかどうかは確認されていないようだが、広く語られている逸話である。
果断かつ冷酷と言われることも含め、毀誉褒貶の著しい英傑であるが、この逸話の
もうひとつの含意は、溺れた友人の危機脱出能力を、その友人本人よりも、彼が的
確に認識していたということである。
統合の動き
欧州の統合に向けての動きの源流は、第 1 次世界大戦後に遡るが、具体化したの
は再度の戦火を経験した後であった。1951 年の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立
合意を嚆矢としていくつかの試みが実現し、徐々に深化してきた。関税同盟を経て、
1999 年には共通通貨ユーロが決済通貨として導入される(2001 年には法定紙幣の流通
が開始)など、経済面での統合が進んできた。しかし、ギリシャ問題を契機として、
今後の欧州統合の方向について、財政統合ひいては安全保障の統合まで進むのか、
あるいは現状の緩やかな連携の改善を図るのか、それともこれまで進んできた道を
ご破算にするのかを含めて、ユーロ通貨圏 17 ヵ国のみならず、欧州連合(EU)加盟
国27 ヵ国の間で、あらためて議論が行なわれている。
翻ってみれば、欧州では、全域の統合以前にまず、国民国家形成のための統合作
業が必要な地域が多かった。19 世紀までは、フランス、イギリス、スペインという
西部の先進統一国家と、ドイツ語圏ならびにイタリア半島およびバルカン半島とい
う中部・東部の未統一国家群というように分かれていたのである。その時代におい
ては、モンゴル、イスラムとの対峙のなかで自陣営の外延を認識せざるをえなかっ
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◎ 巻頭エッセイ◎ 欧州統合とその力学―ドイツ的なるものの投影という切り口から
ただけの古き時代と大差なく、
「ヨーロッパ」なる概念は、アジア、アフリカ、アメ
リカなどと対比した場合の地域区分概念にすぎず、そこに位置する国家群は「ヨー
ロッパ」の名のもとに、何かひとつのものを追求するという内包理念を共有した集
合体ではなかった。
しかし、第 2 次世界大戦後の過程では、ドイツ、フランスという欧州大陸の二大
国の積年の対立を克服した協調により、アメリカ合衆国およびソヴィエト連邦とい
う両側の大国への対抗という動機によって統合が進められてきた。しかし、ユーロ
という通貨への統合においては、よりドイツの政治意志が反映された。ソヴィエト
連邦の崩壊後において、東側からの軍事上の脅威が減少するなかで、東西ドイツの
統一を進めるにあたって、1 世紀半にわたるドイツへの周辺諸国の根深い警戒心・猜
疑心を払拭するために、
「欧州の同列の一市民」であることを示すための方策として、
ドイッチェ・マルクを放棄して、共通通貨ユーロの導入を主導した面が大きい。
ドイツの位置づけ―過去と現在
19 世紀中盤までは未統一国家であったドイツ、そして、統合が具体的に動き始め
た第 2 次世界大戦後の時点においては東西分断されていたドイツが、いまや欧州全
域の統合の推進役となっている。
歴史的にみると、ドイツ語圏のなかには、いまでも国家形成上の 2 つの異なった
道筋と言われるハプスブルグ型とホーエンツォルレン型の対峙がみられた。ハンガ
リーとの間での同君連合という形態まで受容するような、構成地域の自律的運営を
前提とする緩やかな連合形態をとった南部のハプスブルグ家オーストリアに対し、
北部のホーエンツォルレン家プロイセンは集中的な国家運営を志向した。19 世紀に
入って産業興隆をうまく取り込んだプロイセンは軍事力・国力を強化し、ついに過
去においては単なる象徴地域概念にすぎなかった「神聖ローマ帝国」の版図の大半
を統べるドイツ帝国を成立させた。ただし、その後の動きをみると、皮肉なことに
プロイセン国民は徐々に大「ドイツ」国民という意識をより濃厚にもつようになり、
プロイセン国民というアイデンティティーは低下していったとも言われ、国家に対
する同一意識という点では、フランスほどの強烈な国民意識はないともされる。
1 世紀半にわたるドイツと周辺国との軋轢のなかで、大きな災禍を被った教訓に立
って、より広範な地域連合を希求する第 2 次世界大戦後の欧州共同体(EC)、EU の
骨格は、ハプスブルグ型の緩やかな連合を基礎としている。にもかかわらず、今回
のギリシャ問題を契機とするEU の制度再構築の議論においては、所得・資源の再分
配を行なう財政決定の一本化を含めた、より強固な統一構造の必要が囁かれるに至
っている。
また、現状において資金提供能力がある数少ない国のなかでもドイツの位置は圧
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◎ 巻頭エッセイ◎ 欧州統合とその力学―ドイツ的なるものの投影という切り口から
倒的であり、域内困難国を対象とする大きな財政支援の実行を、域内各国からも、
あるいは諸外国からも要求されている。国政選挙、地方選挙での与党の退潮という
国内状況を踏まえてタイミングは遅れながらも、
「欧州の同列の一市民」としての義
務を果たすべく、ドイツはそれに応えてきている。しかし、一方で、“Merkel Über
alles(世界に冠たるメルケル)” というサブタイトルが付く風刺画のなかでメルケル =
ドイツ首相がプロイセン風の軍服を着せられるなど、ドイツの一人勝ちに対する各
国国民の懸念・危惧が徐々に示される状況にもなっている。この背景には、強さへ
の畏怖のみならず、EU の推進あるいは共通通貨ユーロの導入がもたらす便益の最大
の受益者は、実はドイツであったのではないかという評価・分析もある。
統合の実態と理解
一つの通貨圏を作るということと、一つの国家を作るということはまったく異な
った事象である、少なくとも段階的にみて大きな乖離があるということは、各国の
為政者の大半と国民の過半は理解していたものの、域内住民全員がその認識を共有
していたわけではなかった。しかも今世紀の最初の数年間、アフリカ諸国も含め世
界中の国において 1 人当たり国内総生産(GDP)が向上するという、折からの空前と
も呼ぶべき世界的好況下にあって、ユーロ加盟国全体の経済が上向くなかで、加盟
各国の生活水準自体の平準化、すなわち高いほうへの「片寄せ」が進行する、ある
いはそれが可能であるという錯覚が生まれたのである。さらに、ユーロ通貨圏内の
民間金融機関が為替リスクなしに運用できる手段として域内各国政府の発行する国
債を買ったことから、借金の調達コストが低下するという状況も出現し、赤字ファ
イナンスが容易になることを通じて、各国において財政支出の増大、債務の累積へ
の抵抗感が減少していった面もある。
日本の地方交付税をはじめとする財政平衡メカニズムは、若干の格差は残しつつ
も「ナショナル・ミニマム」というある水準への収斂を前提としているが、それは、
豊かな地域から貧しい地域への財政および資源の配分を行なうという国民の意志の
表われであり、それは国会という民主的メカニズムを通じて制度設計され、執行さ
れている。
まだ、そのような意志形成がない EU において、蟻の立場に立つドイツ、オランダ
といった国から現在支援の形で拠出される資金は、キリギリスになぞらえられる受
け手の国の生活水準を、蟻のそれと同じ高いレベルで維持することを目的としてい
るわけではない。それぞれの国が歳入・歳出という自らの体力にあった生活水準・
福祉水準を維持できるだけの財政状態に戻すことを意図しているだけであり、その
水準を他国、特に豊かな国の水準と均衡するように引き上げるということは構図の
外である。
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◎ 巻頭エッセイ◎ 欧州統合とその力学―ドイツ的なるものの投影という切り口から
統合への努力
いま、欧州に必要なのは短・中期的な流動性の確保である。欧州に蓄積された
「国富」は膨大である。欧州全体が債務超過になっているわけではない。したがって
現在見舞われているシステムの動揺、崩壊を防ぎ、今後も維持するためには、その
国富をいったん公的部門の仕組みに移転させて発動させることで対応できる。しか
し、そのような公的部門への国富の移転は民主的過程においては相当の時間がかか
る。しかも、リーマン・ショックのあとの混乱においては脆弱化した金融システム
を最終的には公的資本注入などの政府支援によって救済したものの、今回はいくつ
かの国においては政府の財政困難・赤字が金融システムに負担を与えたのであり、
それらの国には自力でシステムを救済する力はない。いま行なうべきことは、まず
域内の総国富を動員して融通し合うことを通じて集合的に対応し、それを事後的に
可能な限り関係各国間で精算するしかない状況になっている。このような複雑な状
況の下、民主的過程における決定・決断には、より長い時間がかかる可能性が増し
ている。
しかし、資金の支払い・決済は、すでに決まった日程において特定日に集中して
起こりうるものであり、民主的な決定過程の緩慢さを待ってくれない可能性がある。
その際には、十分な流動性の確保が不可欠であり、そのための手当てを講じなけれ
ばならない。そして、このような流動性を、必要に応じて域外の供給可能な国が
短・中期的に提供することは、あってしかるべき対応である。
エピローグ
2012 年 2 月 27 日、メルケル首相は、対ギリシャ第 2 次支援に関するドイツ議会で
の投票に先立ち、議員らに対し「この第 2 次支援が 100% 成功する保証はない。ただ、
支援を後押しすることによって得られる恩恵はリスクを上回る」と述べた。さらに、
メルケル首相は「ギリシャに対する第 2 次支援を拒否した場合、同様に支援を受け
ているポルトガルとアイルランド、あるいはスペインやイタリアにどのような影響
が及ぶかは誰にもわからない。首相として私は一定のリスクを取らねばならないが、
無謀な行為は許されない。ドイツ首相に就任した際の誓いで、それは禁じられてい
る」と述べた(ロイター)。
賞賛すべき対応である。不愉快なこと、自らが傷つきかねないことは、残念なが
らこの世の中、事の大小を問わず、決して少なくはない。しかし、それらの発現を
すべて厭うていては大きなものを失い、かつ、より甚大な危険に身をさらすことに
もなりかねない。欧州の出来事は彼らに固有・特有のことではない。
「国際化」がさ
まざまな側面で進行するなかでは、共通通貨という実験を試みなかったとしても、
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◎ 巻頭エッセイ◎ 欧州統合とその力学―ドイツ的なるものの投影という切り口から
日本において、あるいはアジアにおいても、類似の事態が今後起こることは避けら
れないかもしれない。
今回の欧州の出来事は、これまで世界が遭遇した種々の出来事を教訓として咀嚼
したうえで、発生した事態に対して、適時にかつ果敢に対応することが必要である
ことを、あらためてわれわれに警告している。
「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」
(オットー・フォン・ビスマルク)
わたなべ・ひろし 国際協力銀行副総裁
http://www.jbic.go.jp/ja/
[email protected]
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