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いが、 そうなると、 芸者はこそこそ一 人へり二人へり、 廊下などで
いが、 そう な ると、 芸 者 は こそ こそ 一人 へり 二人 へり、 廊 下 など で コンパ ク ト を出 し て鼻 の自 粉 を直 し な が ら、 今 夜 は ま た フー さ ん の番 よ、 など と ひ そ ひ そ女 中 と 話 し合 って い る。 フー さ ん と は福 さ ん、 即 ち福 田さ ふんど し ん の番 な の であ る。 夏 と も な ると、 揮 一本 ま っぱだ か に な り、 金 物 に 入 れ た懐 中 御 本 尊 に つけ た 黒 い細 紐 を色 自 の肌 に かけ た ま ま大 あぐ ら を か い て扇 風機 に吹 かれ な が ら茶 碗 でガブ ガブ 飲 みな が ら始 ま る。 ど う かす ると、 稲 葉 老 に そ う いう怒 罵 が 回 る こと が あ る。 何 か家 庭 問題 を めぐ る懸 案 が爆 発 す る ら し く、 恭 々し く 頭 を さげ て承 って い る稲 葉 老 も時 ど き は奥 川栄 を、 ま っぱ だ か に な って怒 った のを私 は見 た こと が あ った。 エノケ ンみ た いな赤 裸 の老 を私 は なだ め た こと も あ る。 私 は 二次 会 で、 吉 田春 義 君 に首 を し め つけ ら れ た こと も あ る。 鈴 木 長 太 同志 ﹂ であ る。 倶 楽 部 会 と も な 郎 と吉 原 省 三 に、 う し ろ か ら首 を し め ら れ た こと も あ る。 土 百 姓 ︱の前 は ﹁ ると、 大 変 な 騒ぎ であ る。 それ が いや でた ま ら な いか ら、 私 は必ず 潮 時 を見 計 ら って失 礼 す る のが常 であ っ た。 菊 水 を根 城 と し て 月 々車 代 何 千 円、 飲 み代 何 万円 と いう 戸 田氏だ か ら、 い つ行 っても、 そ のご 威 光 た る や 大 変 であ る。 それ が誰 か の関 係 で下 谷、 湯島 と転 出 し始 め た。 と 言 っても、 そ の帰 り に は ま た菊 水 ま た は何 だ か ら座 談会 も 五時 と な ると、 では約 束 が あ り ます か ら 先 生 失 礼 し ます。 諸 君 お 先 へ、 で戸 田氏 と岩 崎 氏 の屋 であ る。 は、 そ わ そわ と帰 ってし ま う。 出 版ブ ロ ック で は 戸 田氏 のお声 が か り で大 衆 小説 出 版 万能 時 代 に な った 0 。 日配 に な って、 そ の売 上 注 文 伝 票 を 小売 店 から 取 る べく 各 社 は競 って出 張 員 を各 地 に派 遣 し た。 遠 く樺 太 、 台 湾 、 満 朝 0 に 至 るま で。 出 張 員 は自 分 の成 績 をあげ る べく無 理 をす る。 それ で伝 票 に事 故 が起 る。 日配 の業 務 部 長 か ら私 に注 意 が あ った。 或 る社 で は 一度 ダ ンピ ング に出 た本 の紙 型 を安 く売 って ま で、 大 衆 本 を集 め た。 出 版 文 化協 会 でも こ のブ ロ ック を知 って悪 質 出 版 屋 の集 合 と 注 目 し、 私 に ぬけ ろと 注 意 があ った。 私 の店 だ け に は大 衆 本 がな 23 か った か ら。 それ を 戸 田氏 に伝 え ても 問 題 に せず 、 儲 け る のは今 だ とば か り横 流 し の紙 を 買 い漁 っては ︵ 以下、 一頁 分 欠落 ︶ に よ って私 は退 陣 を余 儀 な く さ れ、 自 分 の店 を離 れ、 も と の九 尺 二間 の裏 長 屋 へ引 籠 ら ねば な ら な い無 能 力 者 と な った。 そ の時 の私 の借 金 総 額 の発表 は 六十 八 万 五 千 円 と いう こと であ った。 銀 行 の小 切 手、 振 替 、 そ れ ら の印 行 は 野島 君 が 預 か った 回 。 そし て毎 日、 自 転 車 で真 冬 の北 風 を切 って九 段 を 上 り、 市 ヶ谷 を越 え て、 四谷坂 町 の野島 君 の宅 へ行 き、 手 形 小切 手 の関 係 と そ の内 容 と を説 明 し て は、 そ の日入 用 な 金 に 対 し て 野島 君 か ら 手 形な り 小切 手 な り を振 出 し ても ら って、 それ を持 って戸 田氏 はじ め、 そ れぞ れ の先 方 へ行 く。 それ と若 干 の校 正 が そ の日 の役 日 であ った。 月給 は 百 五十 円、 それ で夫 婦 と妹 と 姪 と女 中 と 五 人 が暮 さ ねば な ら な い。 いか に昭 和 十 八年 と は言 え、 当 時 の物 資 と物 価 で は、 それ で行 け る筈 は な い。 衣 類 一枚 か ら靴 一 足 に至 るま で書 き出 し て 一切 は 二 人 の監 理 下 で戸 田氏 名 義 に移 し た 以上、 靴 下 一足 た り と も失 くす こと は良 心 上 ゆ るさ な い。 仕 方 が な し に友 達 か ら、 或 いは女 房 の兄貴 か ら 五十 、 百 と 小銭 を借 り る のでな く、 貰 って 来 て は、 足 し前 にし て いた。 時 ど き 野島 君 から 電 話 で呼 び 出 さ れ る。 今 夜、 何 時 に夫 婦 で来 い、 と。 或 いは 六 芸社 座 談 会 を や る か ら、 み んな で来 い、 と言 わ れ る。 或 いは店 員だ け が呼 ば れ る。 私 が 昼食 代 と し て 一円 二十 銭 を何 回 か店 か ら請 求 し て い る のが け し か ら ん と いう こと に な った。 橘 君 が、 福 田君、 君 の店 員 が こう し た ら、 君、 それ を や る かね、 と 反 問 し た。 お 生 憎 さ ま、 私 は そ んな し み った れ た こと は致 し ま せ ん。 し かし私 は最 早 何 を か言 わ ん や、 と 決 心 し た あ とだ か ら無 言 の行 であ った。 突 如 と し て、 店 員 のす べて が、 それ ま で の旦那 さ ん、 を福 田さ ん、 と呼び 始 め、 出 版 修 業 の熱 意 一つで私 24 の見 所 あ って拾 った よ う な、 紙 の取 り方 す ら も わ か ら な い青 年 が校 正 の こと で私 に食 って か か る。 私 が教 え ると、 気 に く わ な いと 言 って、 吉 田君 の所 へ訴 え に行 き、 今 日 か ら や ると 言 う のだ そ う であ る。 今 やめ ら れ ると、 あ れ でも店 が困 る、 結 局、 将 来 の君 に ひび く こと にな る か ら、 奴 の思 い通 り に さ せ てお け、 大 体 が大 衆 小説 の校 正 な んだ から ね、 と 六 芸 社 営 業 担 当 の吉 田君 が来 て言 ってゆ く。 大 衆 小説 と は言 っても、 獅 子文 六、 矢 田挿 雲 と有 名 な や か ま し 屋 であ る。 挿 雲 居 士 は、 六芸 社 企 画担 当 の 橘 君 がわざ わざ 一日 を六 芸 社 のた め に さ い て、 三島 ま で私 を連 れ て行 ってく れ て貰 って来 た ﹁ 江 戸 から東 京 へ の原 稿 であ る。 私 は今 でも挿 雲 居 士 と 友 達 付 合 いを し て、 橘 君 に感 謝 し て い る。 ﹂ 経 営 、 全 体 指 導 の任 にあ た る野島 君 は これぞ と いう出 版 物 も な い代 り に加 藤 武 雄だ と か浅 原 六郎 だ と か、 現 代 大 衆 作 家 の売 れ っ子ば か り持 って いた の で、 早 く も 一丁 上 り で、 既 に業 成 り、 戸 田氏 に 二十 何 万かあ っ た 手 形 も き れ いに し て、 な お 相 当 な金 を握 り、 焦 らず 迫 らず 悠 々と営 業 を楽 し む 風 に商 売 を や って いた頃 と て、 心 に余 裕 は あ り、 面 倒 な こと な が ら、 人 の内 幕 を 覗 い ては何 も のか精 神 に得 る所 あ る 一つの人生 勉 強 と でも 言 う つも り か の如 く、 そ れだ け に親 切 で、 時 に 手 形 の引 繰 返 し ま で三 日、 五 日 と 二万、 三 万 の立 替 も し てく れ、 妹 の縁 談 に は仲 人 に ま でな ってく れ て、 夫 婦 で 一日を費 し、 砂 町 か ら 川崎 く んだ り ま で行 ってく れ た 厚 情 に 対 し て は、 お 役 目 と は言 いな が ら今 でも感 謝 に堪 え な い。 然 る に そ の教 育 法 と な ると 別 人 の如 く、 大 体 に於 て そ の方 針 は先 生、 戸 田氏 に相 談 し つ つ実 行 し て いた よ う であ った が、 言 う所 の慈 悲 心 か ら ル ーズ な 福 田 の目 を さ ま せ てや る べき鞭 に は何 か それ 以上 の復 讐 心 み た いな嫉 妬 み た いな 剣 が多 分 に含 ま れ て いる。 殊 に そ の奥 方 に於 て、 そ れ が露 わ であ った。 今 や学 会 に こ の人 あ り と言 わ れ るほど の野島 君、 次 代 の理事 長 候 補 と擬 さ れ て い る野島 君 に し て、 そ の認識 に欠 け、 そ の独 裁 主義 的 君 的 態 度 は人 に 反感 をす ら か って、 私 に も何 と し ても 首 肯 でき な い要素 があ った。 それ が事 ご と に橘 君 と吉 田君と 心 の奥 底 で抵 触 し た。 それ が私 への吉 田君 の 一つの同情 と な って現 わ れ た。 時 ど き 野島 君 に夜 、 呼 び つけ ら れ る のは、 う るさ か った が、 淋 し く 悶 々 の日 の中 に も、 商 手 や菊 水 へ呼 び 出 さ れ て罵 詈雑 言 さ れ 25 る こと を 思 えば 何 でも な く、 そ う いう こと が な く な った のは助 か った。 す ると 或 る夜、 菊 水 へ呼 ば れ た。 野 島 、 吉 田、 橘 三 君 の無 報 酬 の献 身 的 六 芸社 奉 仕 に対 し、 今 日かぎ り福 田君 の金 利 はな し、 と いう こと にす る、 と いう御 託宣 が下 った。 金 利だ け でも、 これ か ら は 元 金 が へ ってゆ く わ け であ る。 何 てう ま い こと に な った のだ 、 と 四海 董 房を背 負 って立 って い る吉 田君 は言 ってく れ た。 そ の吉 田君 は営 業 担 当 と は言 え、 実 際 に六 芸 社 で は 小量 の 一時 的 貸 借 以外 に紙 一枚 お 世 話 に な った こと は な く、 反 対 に私 が お世 話 す る場合 があ った。 出 張 員 に し ろ共 通 に使 う のであ る が、 六 芸 社 に は迷 惑 な こと が 多 か った。 結 局、 最 後 に は 手 形 を濫 用 さ れ る のが落 ち であ った。 いか に も吉 田君 ら し く、 今 でも私 は 君 のた め に痛 い目 に あ って い る。 そ の吉 田君 と 野島 君 と岩 崎 君 と が揃 いも揃 って商 手 倶 楽 部 の信 仰 増 進 ・営 業 飛躍 と いう観 点 から の進 歩 賞 と いう も のを先 生 か ら貰 って、 盛 大 な る祝 賀 の宴 があ った。 そ の時 、 戸 田氏 は私 を顧 み て、 い いも んだ ね、 み んな 小学 校 時 代 にお 免 状 を も ら った時 のよ う な 気 分 で。 来 年 は 君 も貰 う んだ な、 と 言 った。 私 は苦 笑 し た。 間 も な く奥 川 君 が 脳溢 血 で倒 れ た。 曽 根 君 に次 い で倶 楽 部 で 二度 目 の葬 式 であ る。 そ のお 通 夜 の晩 が大 変 だ った。 千種 先 生 のお 経 ま で は よ か った が、 酒 が 回 った と こ ろ へ、 奥 川 君 の親 戚 か ら遺 産 問 題 が出 て、 冗談 言 う な い、 と いう こと に な り、 遺 産 ど ころ か、 遺 産 は俺 ンと こに手 形 にな って山 ほ ど 残 ってら、 欲 し か った ら、 い つでも く れ て や る、 そ の代 り み んな そ の手 形 を き れ い にし ろ、 と 戸 田氏ば か り か、 誰 か れ と ど な り た て、 は ては、 奥 川 を棺 桶 から 引 っ張 り出 せ、 と いう こと にな った。 始 ま った な、 と 思 って千種 先 生 を促 し、 早 々に帰 った。 困 った も ん です な、 と先 生 は、 ひと こと 言 わ れ た。 感 慨 無 量 と い っ た 風 に、 先 生 と私 は暗 い夜 道 を、 だ ま って歩 き、 信 濃 町 から 省 電 でお 茶 ノ水 でお 別 れ し た。 そ の後 と 思 う が、 或 る 日、 商 手 の 二階 へ何 か の用事 があ ってあ が ってゆ く と、 大 変 な 場 合 に ぶ つか った。 十 数 名 が堀 米 先 生 を取巻 い て、 四方 か ら何 か詰 寄 って いる場 面 であ った。 丁度 、 神 尾 君 が 一人背 の高 い頭 26 を ふ り た て、 大 き な、 あ のど ま声 で先 生 をな じ って い る。 それ は堀米 先 生 や ツ つけ の会 であ った 0 。 私 は と ん で帰 って来 て、 お い、 え ら い こと に な ったぞ 、 これ は 只事 では済 ま な い。 俺 は も う今 日かぎ り学 会 な ん ても のと は縁 切 りだ 、 と家 内 に言 った。 翌 日、 砂 町 へと ん で行 って、 私 は、 今 度 こそ見 ま し た、 創 価 教 育 学会 と いう も の の在 り方 と そ の姿 と を、 と 言 って、 そ の話 をす る と、 それ こそ容 易 な ら ん こと です 。 遠 からず 、 必ず 何 か大 珍 事 が牧 口さ ん た ち に起 り ます よ、 これ であ な た がわ か る のです、 と 先 生 の母堂 が言 わ そ の翌 年 m 、 太 平 洋 戦争 も、 正味 は まだ 一年 そ こそ こでは あ るが、 早 く も第 二年 に は い った。 れ た。 或 る朝 、 野島 君 か ら 電 話 が か か って、 ふ ろし き を持 って、 すぐ 来 てく れ ろと 言 う。 何 事 かと 思 って行 って み る と、 実 は、 と 所 謂 学 会 旋 風 0 の話 を 聞 か さ れ、 だ か ら 自 分 も、 い つ引 っ張 ら れ る か わ か ら な い。 だ か 一人 で や ってゆ か れ る か、 と き く。 心 な し か 野島 君 ら 預 った書 類、 手 形、 小切 手 、 印 行 す べて返 す と 言 い、 の顔 は沈 痛 であ る。 も と も と自 分 の店 だ か ら、 やれ ぬ こと は な い、 必ず や って み る、 長 々た い へん にお 世 話 に な り ま し た、 と奥 さ ん にも 礼 を の べ、 御 本 尊 に、 も し 当家 の主 人 に 万 一の場 合 が起 っても無 事 に お守 り下 さ るよ う、 と、 行 く たび にご 挨 拶 す る通 り お 願 いし て辞 し た。 陣 野 のバ カ と 思 った。 例 の調 子 で得 意 にな って喋 り ま く った に ち が いな い。 それ で相 手 が怒 ら な け れば ど う か し て い る m 。 こ の前 も 先 生 は中 野 署 へ留 め ら れ た時 、 それ を 聞 い て私 は友 人 の弁 護 士 に話 す と、 そ れ はお 気 の毒 だ と て、 す ぐ に電 話 を か け てく れ、 そ の 一言 で帰 ら れ た こと があ る。 だ か ら先 生、 よ ほど ご 注 意 な さ ら んと いけ ま せ ん よ、 と 言 ってお いた のに、 こ の状 勢 と いう に何 と いう軽 率 な 話だ ろう、 と は 思 った が、 思 えば 去 年 の秋 の総会 口 に、 お山 の管 長 狽 下 田 か ら、 今 、 日蓮 の再 誕 か、 と ま でお ほめ のお 言葉 を賜 った、 牧 日は死 ん でも これ で本 懐 であ る、 と 二千 の聴 衆 の前 で感 涙 に む せ んだ 先 生 であ る。 あ く ま でも 治 安 維 持 法 と 戦 わ れ る こと であ ろう、 そ れ は先 生 の本 懐 であ ろう。 し か し こ の事 件 がど こま で発 展 し、 何 人、 何十 人 が 引 っ張 ら れ る かわ か ら な い、 自 分だ と てわ か ら な い、 それ ら の弟 子 た ち を何 と 思 わ れ る か。 ワ‘ 04 弟子らしき弟子 の主なる者 は十何人行 ってしま って、大体 これ で止まりだ ろう、 と思われる頃、橘 君は言 っ た。 野島 君は君 の身替 りだぜ、 と。私 に裏長屋 へ追 い込んで座禅 を組 ませた人 々が、 いま私 の身替 り座禅 を、 あ の別荘 m で組 ん でいる。 寺坂、 木下 のいなくな った跡 など は言 う に及ばず 、 折角、 岩崎 君 を押 し立 てて天下 の兜 町 岡 に進出 した ば かり の戸 田氏 も、蓋 をあけ てみると、支離滅裂、岩崎 君に至 っては鼻 も つま みた いほど の下馬評ば かり で あ った。 そ の善 後 策 に つい て何 回 か、 戸 田氏 、 ひ い ては我 々に密 接 な 金 融 関 係 を持 つ川内 氏 を中 心 に集 ま って は鳩 首 協 議 を こら し た が、 ど う に も な らず 二 月 た ち 半 年 た つに つれ て、 一人去 り、 二人去 り、 ふ た こと め に は我 が 八天 王と し て、 これ がわ れ唯 一の財産 な りと戸 田氏 の誇 った若 き渡 辺 力 をはじ め 石井 老 も住 吉 マネ ー ジ ャー も段 々姿 を 見 せな く な って、 僅 か に女 性 の身 な が ら森 重 さ ん 同 一人 が孤 軍 奮 闘 を続 け て いた。 絶 えず 私 は 連 絡 を と り、 稲 葉 老 の留 守 宅 へも行 って、 た と え 五 千 円 に つい て百 円だ け でも 入金 を し て は森 重 さ ん の苦 労 を和 らげ て行 った。 幸 い私 は企 業 整 備 に よ る合 同体 に恵 ま れ、 それ と残 務 整 理 と称 す る横 流 し、 さ ては帳 簿 か ら障 子紙 の製 作 に至 るま で、 応 召、 入営 、 徴 用 と 一人 の店 員 も いな く な った、 ガ ラ ンと し た 店 で、 ただ 一人 勝 手 気 侭 に従 来 の取 引 を相 手 に、 のんび り と、 し かし怠 らず 活 動 を つづ け た 甲斐 があ って、 一年 前 に約 七十 万と う た わ れ た 大 借 金 も、 い つか 四十 万を下 回 って来 た。 も う 一年 と いう と ころ で、 と う と う私 は焼 け出 さ れ てし ま った が、 別荘 へ行 った 人 々が、 ど ん な 顔 し て帰 って来 るだ ろ う と 思 って い るう ち に先 生 が、 まず 獄 死 を さ れ た 0 。 ま こと に哀 悼 の念 に堪 え な いが、 さ て翻 って、 先 生 の創 価 教 育 学 説 な らび に学 会 と いう も のを振 り返 る時 、 こ の 一八 ・三旋 風 四 が巻 き 起 ら な か った な ら、 お 山 を は じ め 我 々学 会 関 係 者 一同 の自 分 の信 仰 と いう も の の在 り方 と、 そ の姿 と いう も のに画然 と し た整 理 が つかな か った であ ろう と いう こと であ る。 誰 し も申 合 せた よ う に感 じ た こと は、 まず う るさ く な く な ってよ か った、 と いう こと であ る。 28 註 創 価教 育 学 会 の回想 砂 町 教 会 =東 京 文 京 区 に所 在 す る 日蓮 正宗 寺 院 、 白 蓮 院 の前 身 。 ﹁ 日蓮 正宗 法 華 経 要 品講 話﹂。 昭 和 六 年、 日蓮 大 聖 人 六 百 五十 遠 忌 記 念 と し て 法 華 経 入門﹂ = 正確 に は ﹁ 千 種 先 生 =元 白 蓮 院 主 管 ・千種 法 輝 師 ︵ 観 法 院 日健 贈 上 人︶ 出 版 さ れ た。 戸 田城 聖 氏 は寺 坂 氏 に つい て後 年、 次 のよ う に酷 評 し て い る。 ﹁ 私 は、 まず 、 第 一回 の試 みと し て寺 坂 陽 三氏 を教 育 し、 次 代 会 長 の貫禄 を つけ ん と努 力 し た のであ る。 し かし、 彼 は 小才 子 にすぎ ず 、 牧 日会 長 の ロ マネ のみ し て、 学 会 内 に勢 力 をう る こと のみ腐 心 し、 ついに は学会 を 二分 し よ う とす る機 運 に ま で、 立 ち いた ら し め た のであ った。 し か も、 彼 は法 罰 を う け、 故 牧 口 創 価 学 会 の歴 史 と 確 信 ﹂、 ﹁ 会 長 を 窮 地 に お と し いれ ん と す る の事 件 を、 起 こし た の であ った﹂ ︵﹁ 戸 田城 聖 先 生 論 文 集 ﹂ 所 収︶ し かし、 この戸 田氏 の説 明 は にわ か には信 じ がた い。 なぜ な ら、 二人 の間 にな に かト ラブ ル か誤解 があ っ た のだ ろ う、 ﹁ わざ わざ 北 海 道 へ行 って いた寺 坂 君 の所 ま で戸 田氏 が出 か け て、 自 分 の怨 嫉 を詫 び た こと が あ る と いう﹂ と の福 田氏 の証 言 と食 い違 う からだ 。 推 測だ が、 戸 田氏 が 酒ば か り飲 ん で いた ので、 寺 坂 氏 を次 期 会 長 に と 目 し て教 育 し て いた のは む し ろ牧 国会 長 のほ う で、 そ れ を戸 田氏 が怨 嫉 し た のでは な か ろう か。 理 知 的 な寺 坂 氏 と 野 人 タ イプ の戸 田氏︱ ︱ ち ょう ど 、 戸 田氏 の後 継 問題 で、 石 田次 男 氏 と池 田大 作 氏 の 双璧 が拮 抗 し て いた のと 同様 の構 図 であ る。 出 版ブ ロ ック =出 版 ク ラブ の こと。 昭和 十 五 年 八 月、 創 価 教 育 学 会 の 一分 科 と し て事 業 を営 む会 員だ け で構 成 さ れ る生 活革 新 同 盟 倶 楽 部 が結 成 さ れ、 そ の中 に ま た出 版 業 を営 む会 員 八社 で構 成 さ れ る出 版 ク ラ 29 (4(3}(2)(1) (5) ブ が あ った。 八社 と は、 大 都 書 房、 大 道 書 房、 四海 書 房、 学 芸 社 、 橘 書 店 、 昭森 社 、 奥 川書 房 、 六 芸 社 。 同 非難 の的 であ った = 昭和 十 七年 八 月発 行 の ﹁ 大 善 生 活 実 証録 ﹂ 創 価 教 育 学会 第 四 回総会 報 告 に、 ﹁ 四月 の例会 では 六 芸 社 主 福 田久 道 君 が専 ら 研 究 題 目 の中 心 と な った。 同 君 の幸 福 を希 ひ そ の事 業 の繁 栄 を祈 る大 いな る親 心 を発 揮 し、 同 君 の悪 を除 かう と し た のは 西 川喜 右 衛 門 君、 岩 崎 洋 三 君、 稲 葉 伊 之助 君 で、 殊 に 西 川 君 の如 き は ﹃口で 云 つても わ か ら な け れば 今 夜 と いふ今 夜 、 自 分 達 に鉄 拳 の用意 が あ るぞ ﹄ 4 と ま で熱 誠 籠 め て の強 折 であ つた﹂ ︵ 5頁︶ ﹁ 五 月 の例会 では再び 福 田久 道 君 が 一座 を賑 はす 役 目 に 回 つた。 同 君 は倶 楽 部 では な かな か の人気 者 であ る﹂ ︵ 同 頁︶ と皮 肉 を こめ て記 載 さ れ て い る から、 こ こら 辺 の事 情 を指 し て い ると 思 わ れ る。 生 活 革 新 同 盟 倶 楽 部 は単 な る実 業 家 同 士 の懇 親 会 な ど で は な く、 戸 田理事 長 指 導 の下 、 ﹁ ど う し た ら借 方 の生 活 か ら貸 方 の生 活 へ発 展 出 来 る か、 更 に進 ん でど う し た ら大 善 生 活 を実 践 出 来 る か、 と いふ こと が 眼 目﹂ であ り、 ﹁ 職 域 が実 業 であ るだ け に業 績 はす ぐ そ の月 々 の営 業 上 に、 或 は集 金 高 と し て或 は貸 付 高 と し て或 は貸 借 対 照 表 と し て動 かす こと の出 来 な い数 字 と な って現 れ る。 む し ろ恐 ろし いく ら い信 仰 即 生 活、 事 業 即信 仰 の実 証 が掴 め る﹂ ︵ 生 活 革 新 同盟 倶 楽 部 近 況報 告 = 野島 辰次 理事 ︶、 いわば 練 成 道 場 であ っ た。 毎 月 一回例 会 が催 さ れ、 牧 国会 長、 戸 田理事 長 出席 のう え、 各 人 の ﹁ 信 仰 即 生 活、 事 業 即信 仰﹂ の実 験 証 明度 が検 証 さ れ、 実 績 の芳 し く な い会 員 は厳 し く叱 咤 さ れ た。 0 大 衆 小説 出 版 万能 時 代 =出 版 ク ラブ 八社 の中 でも、 と く に戸 田氏 の経 営 す る大 道 書 房 は、 子 母 沢 寛、 長 谷 川伸 、 陣 出 達 朗 な ど 当 時 人気 のあ った大 衆 小 説家 を動 員 し、 百点 近 く 出 版 、 ﹁ 月 々 の売 上げ は 二十 万 円 以 上 ﹂ に な った と いう ︵ 妙悟空 ﹁ 人 間 革 命 ﹂︶。 ち な み に、 昭 和 十 六 ∼十 八年 当 時 の小学 校 教 員 の初 任 給 が 五十 ∼ 六十 円、 銀 行 員 の初 任 給 が 七十 五 円、 高 給 の東 京 都 知 事 さ え 五 千 三 百 五十 円だ った か ら ︵﹁ 値段 の明 治 。大 正 。昭 和 の風 俗 史 ﹂ 上、 朝 日文 庫 に よ る︶、 戸 田氏 の稼ぎ が い か に莫 大 であ った か窺 い知 れ よ 30 う。 し た が って、 敗 戦直 後 、 戸 田氏 が最 初 に手 が け た のも、 大 衆 小説 の出 版 だ った。 日本 正学館 、 日 正書 房、 大 道 書 院、 大 衆 社 など の出 版 社 を立 ち 上げ 、 当 初 は順 調だ った が、 急 騰 す る イ ン フレ経 済 のあ お り を 受 け、 ことご と く破 綻 し た。 現 中 国東 北部 ︶ の こと。 第 二次 世 界 大 戦 下、 日本 が中 国 を侵 略 し、 満 州 に清 朝 の末 裔 で 国 満 朝 =満 州 ︵ 。 王道 楽 土 建 設﹂ の あ る皇 帝 、 薄 儀 を擁 し て満 州 国 を建 設、 日本 の愧 儡 政 権 を樹 立 し た。 日本 国内 か ら も ﹁ ス ローガ ン の下 、 満 蒙 開 拓 団 と 称 し て、 多 数 の殖 民 が行 わ れ た。 生 活革新 倶 楽 大 善 生 活実 証録 ﹂ 第 五 回総会 報 告 掲 載 の ﹁ u 野島 君 が 預 か った =昭和 十 七年 十 二月発 行 の ﹁ 尚 最 近 に於 て部 会 員 中 余 り に懸 離 れ て 不成 績 の某 氏 を部 会 全 体 の責 任 に於 て救 ひ上げ て行 く 部報 告﹂ に ﹁ 為 に全 員 が其 店 の顧 間 と な り 特 に 野島 、 吉 田、 橘 の三 君 が常 任 顧 間 と し て献 身 的 に運 営 の指 導 に当 る事 に 2 3 成 った﹂ ︵ 3∼ 3頁︶ と報 告 さ れ て い る か ら、 こ の こと を指 し て いる のだ ろう。 現 。昭倫 寺 ︶ 主 管 、 堀 米 泰 栄 師 m 堀 米 先 生 や っ つけ の会 = 堀 米 先 生 と は 東 京 。中 野 に所 在 す る歓 喜 寮 ︵ ︵ 後 の大 石寺 第 六十 五 世 日淳 上 人︶。 堀米 師 は毎 月、 教 育 学会 本 部 に赴 い て、 法 話 を行 って いた。 こ の、 。 いわば 吊 し 上げ と も いう べき ﹁ や っつけ の会 ﹂ 事 件 は、 昭 和 十 七年 十 一月 六 日、 教 育 学会 本 部 で、 幹 部 十 数 人 に よ って引 き起 こさ れ た ︵﹁ 大 善 生 活実 証録 ﹂ 第 五 回総 会 報 告 6 5頁参 照︶。 この ﹁ や っつけ の会 ﹂ 事 件 に つい て、 次 のよ う な興 味 深 い証 言 があ る。 ﹁ 金 川氏 福 岡 のお寺 でな かな か御 授 戒 が お 願 ひ出 来 な い の で、 困 つてお 願 ひに行 く と晩 のお 勤 め の時 な ら い つでも よ ろし いと緩 和 さ れ た。 今 日 で は 昼 間 で でも や つて下 さ る やう に な り喜 ん で ゐ るが、 こ の事 に ついて先 般 寺 坂 さ ん が お い でに な つて、 和 尚 さ ん に会 つて、 過 去 の誤 評 を 攻 め ら れ た。 かう いふ場 合 はあ く ま で和 尚 さ ん に懺 悔滅 罪 さ せな け れば いけ な いも のであ ら う か。 本 間氏 や は り お寺 の人 に関 係 のあ る問 題 であ る が、 先 般 堀米 師 は非 を 認 め な が ら 頭 を下げ な い。 自 分 はど こま でも懺 悔 さ せ る のが、 弟 子 の道 と 思 ふ。 ︵ 中 略︶ 31 5∼ 6頁︶ 神 尾氏 堀米 師 の場 合 は 言 質 を 取 つた。 ︵ 同報告 4 以下 略 ︶﹂ ︵ 4 ﹁ こ の 言 質 を取 つた﹂ と いう のが、 冒 頭 で触 れ た 吊 し 上げ 事 件 の結 末 だ った のだ ろう。 E[質﹂ の内 容 と は、 ﹁ 過 去 十 年 来 の結 果 に於 て創 価 教 育 学 会 の信 仰 指 導 に は何 等 の弊 害 は な か つた。 但 し 将 来 は弊 害 が 6 あ り相 であ る﹂ ︵ 5頁︶ と いう も ので、 堀米 師 は学 会 の将 来 に警 鐘 を鳴 ら し て いる のだ が、 学 会 と し ては、 従 来 の折 伏 の実 績 =宗 門 への貢 献 がと に も かく に も是 認 さ れ た ので、 それ でよ し と し た のだ ろう。 右 に 引 用 し た記 事 か ら推 察 す ると、 地 方 寺 院 でも 吊 し 上げ ま が い の行 為 が行 わ れ て いた こと が窺 え る。 こう し た僧 侶 吊 し 上げ 事 件 が惹 起 さ れ る背 景 に は、 従 来 寺 院 側 が教 育 学 会 の、 罰論 を振 り かざ し た折 伏 方 法 に違 和感 を抱 き、 積 極 的 に本 尊 下 付 に応 じ て いな い情 況 があ った。 牧 国会 長 も 次 のよ う に、 寺 院 側 を 手厳 し く批 判 し て いた。 ﹁ 旧式 信 者 の中 に は ﹃ 創 価 教 育 学会 の連 中 は 罰 を い つた り し て ひど い﹄ と 非難 し て折 角 信 仰 に 入 つた 弱 い婦 人 など を退 転 さ せ るも のがあ ると 聞 が、 家 の 僧 侶中 に も 一緒 にな つて か う いふ事 を いふ 人 が 御 当 御 く あ る と い ふ こと であ る。 これ は 容 易 な ら ぬ謗 法 の行 ひ であ る﹂ ︵﹁ 法 華 経 の信 者 と 行 者 と 学 者 及び 其 研 究 法﹂、 ﹁ 大 善 生 活 実 証録 ﹂ 第 五 回総会 報 告 4頁︶ 9 ・9 ・6付 ︶ の中 な お、 昭和十 八年 七 月 に警 察 に拘 引 さ れ た 戸 田氏 は獄 中 か ら夫 人 に充 て た 手 紙 ︵ Sl で、 ﹁ 堀米 先 生 二、 去 年 、 堀 米 先 生 ヲ ﹃ソ シ ツタ﹄ 罰 ヲ ツクヅ ク懺 悔 シ テオ ル ト 話 シ テ下 サ イ。 ﹃ 法 ノ師 ヲ ソ シリ シ罪 ヲ懺 悔 シ ツ ツ、 永 劫 ノ過 去 ヲ現 身 二見 ル﹄ 卜 言 ツ テ オ リ マ スト ﹂ と悔 悟 の念 を も ら し て い る ︵ 戸 田城 聖 ﹁ 若 き 日 の手 記 ・獄 中 記﹂ 1 4 6頁︶。 し かし、 獄 中 で 一時 的 に も改 悛 ・懺 悔 し た はず の戸 田氏 は戦 後 、 こう し た、 創 価 学 会 の方 針 に 反 対す る 宗 門 僧 侶 を吊 し 上げ て、 学 会 の意 向 に随 わ せ る や り 口を、 いわば 学 会 の伝 統 と 化 し た。 主 な も のを 列挙 す ると、 ① 戦 時 下、 神 本 仏 述 論 を 唱 え身 延 と の合 同 問題 で暗 躍 し た と さ れ る 小笠 原 慈 聞 師 に強 圧的 に詫 び 状 を書 か せ た り、 ② 戦 後 ま も な く学 会 が独 自 に宗 教 法 人 を取 得 し よ う と し た際 に も、 反 対 す る宗 会 議 員 のと 0ん 00 ころに青年部 が押 し かけ て、 押問答 の末、強引 に了解 を取 り付 けたり、③学会 の荒 っぱ い折伏法 を快 しと 後 に、蓮 華寺 は日蓮 正宗 から離 脱 せず 、本尊 下付 を拒 否した大阪 。蓮華寺 を多数 の学会 員 が包 囲したり ︵ し、 日 蓮 実 宗 と し て活動︶、 ④ 昭和 五十 年 前 後 に は、 創 価 学会 が 日蓮 正宗 の伝統 教 義 から逸 脱 す る動 き 2年路線 問題︶ を見 せたとき、 これ を御講 の説法 や宗内論文等 で批判 した僧侶 を学会施 設 に呼 いわゆ る5 ︵ び つけ、 吊し上げ て詫び 状 を書 かせたりし ている。 l l そ の翌年 =昭和十 八年 1 ︲ 0 学会旋 風 =昭和十 八年 七月、牧 日常 三郎会 長 をはじめとす る創価教育学会幹部 二十 一名 の 一斉検挙事件 ヂ ンノ株式会社︶ m 陣 野 のバカ ⋮どう かし ている=昭和十 八年六 月初旬、東京 。中 野 でクリー ニング店 ︵ を営 む陣 野忠 夫氏 ︵ 教育 学会 中 野支部 長︶ が、 近所 の人 を折伏 しよ うとし て、 そ の子供 が死 んだ こと を ﹁ デ ンノ株式会 罰だ﹂ と決 め付 け た こと で、 そ の人が激 怒 し、 警察 に訴 え出 た ことから陣 野、 有 村勝次 ︵ 社専務、 教育学会 理事︶ の 二人 の会 員 が警察 に逮捕された ことを指す ︵ お そらく 二人 で折伏 に赴 いた のだ ろう︶。 この二人 の取 り調 べから特高警察 は創 価教 育学会 への罪状 ︵ 治安維持 法違 反、 不敬罪容疑︶ を作 7∼ 8頁︶ 佐木秋夫 ・小 日偉 一共著 ﹁ 創 価学会﹂ 6 り、 翌 七月 の 一斉検挙 とな った ︵ 6 。 国 去年 の秋 の総会 =昭和十 七年十 一月に行われた、創価教 育学会第 五 回総会。 同 お山 の管 長貌下 =日蓮 正宗総本山大 石寺第 六十 二世 。鈴木 日恭上人 m 別荘 =留 置場 や拘 置所 を指す。 同 兜町 =東京都中央 区日本橋兜町。 証券会社 が密集す る、株 取引 の中 心地。 一説 には愛 人だ ったと の噂 もあ る。 戦後 m 森重 さ ん=森重紀美 子氏。 戸 田理事長 の秘書的存在 と いわれ、 の 一時期、 金融会社 ・大蔵商事社長 も務 めた。 0 獄死された =昭和十 九年十 一月十 八 日、牧 国会長 は栄養失 調 で病 死した。 享年 七十 三。 ω 一八 ・三旋 風 = 一八 ・七 の間違 いか。 つ0 つ0