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律令国家において、 一 般には天皇が官僚機構とともに国家運営の主 体

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律令国家において、 一 般には天皇が官僚機構とともに国家運営の主 体
東京大学 日本史学研究室紀要
第 四号
二〇〇〇年 三月
平 安 時 代 の后 位
春
名
宏
昭
でき た の は自 身 が皇 女 であ った か ら であ り 、 令 制 中 宮 な ら 誰 でも 即 位
でき るわ け で はな か った 。
そ の立 后 に際 し て は即 位 の 可能 性 を も 視 野 に入 れ て いたと 説 か れ る こ
藤 原 氏 出 身 の光 明 皇 后 は、 孝 謙 天 皇 の即 位 と 同 時 に称 制 を 開 始 し た 。
と が あ る け れ ども 、 武 周 革 命 のごと く 既存 の秩 序 を 破 壊 す る のな ら ば
は じめ に
律 令 国家 に お いて 、 一般 に は 天皇 が官 僚機 構 とと も に国 家 運 営 の主
と も か く 、律 令 国家 が想 定 し た秩 序 の中 で は そ れ は 不 可能 で あり 、藤
天皇 も 天皇 も 天 皇 大 権 を 行 使 でき な い非 常 の場 合 を 想定 し 、 天皇 の祖
付 与 し た も のと 思 わ れ る が 、 し か し 一方 では 、 聖 武 太 上 天 皇 は 健 在 で
こ ろか ら す れ ば 、 孝 謙 天皇 が 女 帝 であ った こと が 称 制 開 始 の正 当 性 を
ま た 、 光 明 皇 太后 の称 制 の場 合 、 淳 仁 天皇 の即 位 後 帰 政 し て いる と
原 氏 や 光 明皇 后 も そ のよう な こ と は考 え も し な か った も のと 思う 。
(3 )
し て いる 。律 令 国家 は ま た 、新 天皇 に 譲 位 し た前 天皇 を 太 上 天皇 と し 、
体 と な り 、 そ の時 天皇 に付 与 さ れ た権 能 も し く は権 力 を 天皇 大 権 と 称
(1 )
母 (11太 皇 太 后 ・太 皇 太 妃 も し く は 太 皇 太 夫 人 )・生 母 (ー-皇 太 后 ・
あ った か ら 、 称 制 が 必 要 不 可 欠 な 状 況 にあ った と は 言 え な い。 孝 謙 朝
譲 位前 と ま った く 同 じ 天皇 大 権 を 保 証 し た 。 さ ら に律 令 国家 は 、太 上
に代 わ って天 皇 大 権 を 行 使 さ せ る こと と し た 。 即 ち 、 こ の七 員 を 筆 者
皇 太 妃 も し く は 皇 太 夫 人 ) あ る いは 嫡 妻 (11皇 后 ) に太 上 天皇 や 天 皇
阿 閑 皇 女 は文 武 天 皇 の母 と し て皇 太 妃 と な り 、 文 武 天 皇 が 没 す ると
皇 太 后 の称 制 は政 治 形 態 の選 択 肢 の 一つと し て認 め ら れた と いう こと
るだ け で国 政 の安 定 は 確 保 さ れた の であ り 、 そ う し た 状 況 下 に、 光 明
に おけ る聖 武 太 上 天 皇 は 国 政 か ら 一歩 退 いた 立 場 を 取 った が 、 在 位 す
(2 )
称 制 し て 天皇 大 権 を 行 使 し 、文 武 天皇 の生 前 の懇 請 を 受 け 入 れ た と い
であ ろう 。
は令 制 中 宮 と 総 称 し た 。
う か たち を 取 って正 式 に即 位 し た 。 元 明 天皇 で あ る。 元 明 天 皇 が即 位
1
これ ら 二 つの事 例 が律 令 国 家 の発 展 にと ってプ ラ ス であ った のか マ
処 遇 を 特 定 の キサ キ や内 親 王 に与 え るた め に整 備 さ れ て い った も のと
す るも の の、 自 ら の権 能 を 行 使 す る者 は現 れな く な る。 た し か に、 藤
時 代 の状 況 に対 し て、 平 安 時 代 に入 ると 三后 も し く は皇 太 夫 人 は 在 位
権 能 が 十 全 に行 使 さ れた こと は間 違 いな い。 と こ ろが 、 こう し た 奈 良
れ た。 言 い換 え れば 、 平 安 時 代 にお いて后 位 は発 展 し進 化 し てき た の
例 が 開 か れ 、女 院 制 が 創 始 さ れ 、 准 母 皇 后 と いう 特 殊 な 制 度 も 整 備 さ
か。 女 御 ・更 衣 と いう 新 し い職 位 が 案 出 さ れ 、 一天 皇 二皇 后 並 立 の新
し か し、 本 当 に后 位 には 何 の意 義 も な く な ってし ま った の であ ろう
いう 感 を 強 く す る のは 無 理 か ら ぬ こと であ る。
原 詮 子 や藤 原 彰 子 は当 時 の政 界 に大 き な 存 在 感 を 示 した が 、 彼 女 た ち
であ る 。従 って、 こ の事 実 を 考 え る限 り 、 平 安 時 代 に お いても 后 位 は
イ ナ ス であ った の かと いう 評 価 はさ て おき 、 律 令 国 家 か ら 付 与 さ れ た
で さえ 皇 太 后 も しく は太 皇 太 后 と し て の権 能 を (
称 制 と 言 え る ほど 明
な お何 ら か の存 在 意 義 を 持 って⋮
機能 し て いた と 考 え ら れ る。
ま た 、后 位 と 類 似 し た性 格 を有 す る存 在 と し て女 院 があ る が 、女 院
没 し 、夫 帝 即位 後 皇 后 を 追 贈 さ れ て いる 。贈 后 に は 、高 志 内 親 王 のよ
の淳 和 天皇 ) の妃 と な った が 、大 同 四年 (八 〇九 ) に 二 一歳 の若 さ で
・嵯 峨 両 天皇 の同母 の妹 であ る 。高 志 内 親 王 は異 母 兄 の大 伴 親 王 (
後
高 志 内 親 王 は桓 武 天皇 の皇 女 で、 母 は皇 后 藤 原 乙牟 漏 であ り 、 平 城
贈一
皇 后 高 志 内 親王
以 下 では 、 こう した 后 位 の存 在 意 義 を 検 証 し て いき た いと 思 う 。
確 な か たち で) 行 使 し た こと は な か った。
こ のよう な状 況 に連 動 し て、 一后 一職 司制 と 通 称 さ れ る慣 習 が定 着
し た。 即 ち 、当 初 は 三后 も しく は皇 太 夫 人 、 一条 朝 以降 は 四后 (H太
皇 太 后 ・皇 太 后 ・皇 后 と 中 宮 ) に そ れ ぞ れ 中宮 職 が付 置 さ れ、 新 た に
立 后 が行 わ れ た 際 に は 既存 の后 が自 動 的 に転 上 し て いく こと が慣 例 化
し た の であ り 、 こ のよう な 状 況 は 一般 的 に は 、 后位 の本 来 の意 義 が喪
(4 )
は后 位 のご と き権 能 は 本 来 的 に 問 題 と は さ れず 、 た だ礼 遇 面 で太 上 天
う に 亡 妃 な ど が皇 后 を 追 贈 さ れ る場 合 の他 、妃 ・夫 人 や女 御 のま ま 死
失 し 、単 な る名 誉 的 地位 と し て名 目化 し た と考 え ら れ て いる 。
皇 も し く は 后 位 に 准 ず る 扱 いを す る も のと 考え ら れ て いる 。後 に は准
ん だ 天皇 生 母 が 子帝 即位 後 に皇 太 后 を 追 贈 さ れ る場 合 、 あ る いは 既 に
(5 )
母皇 后 や 后 位 を 経 ず 准 三 宮 か ら 直 ち に 院 号 宣 下 を受 け る 例も あ ら わ れ
死 去 し て いる皇 后 ・皇 太 后 を 皇 太 后 ・太 皇 太 后 に追 尊 す る場 合 な ど が
と あ る のを 見 る と 、 女 院 は あ く ま でも 后 位 の 一つ (
た だ し定 員 な し )
特 徴 的 に 現 れ てお り (
第 1図 参 照)、 そ の意 味 も 存 命 の 三 后 に 勝 ると
か し な が ら 、光 仁 ・桓 武 ・平 城 ・嵯 峨 ・淳 和 の五朝 二 二世 代 は贈 后 が
優 遇 措 置 な ど と考 え ら れ て、 そ の意 味 が 軽視 さ れ てき た感 があ る。 し
こう し た 贈后 は 、 本 人 が実 際 に在 位 し な いた め も あ って、名 誉 的 な
ある。
たが、 ﹃
魚魯愚抄﹄ に
錐 二国 母 A 依 二院 号 井 后 位 次 第 皿列 レ之 。郁 芳 門 院 者 准 母 儀 也 。侃
内 親 王 之 時 者 、 不 レ謂 二次 第 一
列 二他 内 親 王 上 、 而 立 后 之 後 者 、 列 二
后位之次第 也。
であ った こと が 理 解 さ れ る 。 つま り 女 院 は 、 これ を 見 る 限 り 、 一后 一
も 劣 ら ぬ ほ ど であ った も のと考 え ら れ る 。 な か でも 、 淳 和朝 の贈 皇 后
(6 )
職 司 制 によ り 四 人 に定 員 が 固 定 さ れ た 后 位 と 同等 も し く は そ れ に 勝 る
2
桓武天皇
1
仁明太皇太后
皇太夫人=藤 原順子
1
皇太后
↓
文徳天皇
皇后 =正子 内親王
1
仁明皇太后
仁明天皇
贈皇太后
贈 太 皇太后
平城 天皇
贈太皇太后
皇后=橘 嘉 智子
1
淳和皇太后
淳和天皇
皇 太后
i↓
i贈
復 皇太 后i
贈皇太后=紀 橡姫
皇后=井 上内親王
↓
i皇
太夫人=高 野新笠
光仁天皇
文徳太皇太后
贈皇太后
贈太皇太后
嵯峨天皇
高 志 内 親 王 の存 在 意 義 は 大 き か った 。 そ こ で以 下 では 、 ま ず 前 史 た る
光 仁 朝 か ら 嵯 峨 朝 ま で の贈 后 の事 例 を 検 討 し た 上 で、 淳 和 朝 にお け る
高 志 内 親 王 の存 在 意 義 を 検 討 し た い。
光 仁 天 皇 は即 位 す ると 父 施 基 親 王 を 天 皇 と 追 尊 し た が 、 これ によ り 、
形 式 上 は ︿天智 - 施 基 - 光 仁 ﹀ と いう 直 系 の皇 位 継 承 が 認 定 さ れ た こ
と に な る 。 つま り 、 こ の裏 返 しと し て、 天 武 系 皇 統 を 傍 系 皇 統 と 定 義
づ け る意 識 が暗 に存 在 す る。 こ の追 尊 と 同時 に井 上 内 親 王 が皇 后 に冊
立 さ れ て お り 、 さ ら に そ の 一年 後 に は 母紀 橡 姫 に皇 太 后 を 追 贈 し た が、
こ の 一連 の行 為 に は新 天皇 家 の確 立 を宣 言す る意 図 が看 取 でき る 。即
紀橡姫 (
贈皇太后)
一
施 基親王 (
追尊天皇)
井上皇后
=
光仁天皇
ち 、 次 のよ う な 天皇 ・皇 后 の世系 が 構築 さ れ た ので あ る 。
天 智 天 皇=
倭姫皇后
紀 橡 姫 への追 贈 が 遅 れ た 理 由 は 、 こ の時 点 で贈 皇 太 后 の存 在 意 義 が
あ ま り 明 確 に意 識 さ れ て いな か った た め と 考 え ら れ る。 も ち ろ ん、 紀
橡 姫 への后 位 の授 与 に抵 抗 があ った こと も 考 え ら れ る が、 そ う であ れ
ば 一旦 皇 太 夫 人を 追 贈 し ても よ か った はず であ る。 ま た 、 紀 橡 姫 は次
の桓 武 朝 で太 皇 太 后 に転 上 す る こと はな か った。 桓 武 天皇 の生 母 高 野
新 笠 が 即位 宣 命 の中 で皇 太 夫 人 と 称 す る と宣 言 さ れ て いる のと は 、際
立 った 違 いが 見 て取 れ よう 。 ま し て 、桓 武 天皇 即位 時 す で に 井上 内 親
王 は 廃 さ れ て お り 、 天皇 家 は光 仁太 上 天皇 ・皇 太 夫 人高 野新 笠 ・桓 武
天皇 と いう 極 め て 小 さ な 規 模 で し か な か った ので あ る 。
つま り 、 桓 武 天皇 に と って は 、 正 当 な 後 継 者 と し て 光 仁 天皇 か ら皇
皇后=藤原乙牟漏
位 を 譲 ら れ た 事 実 が あ れ ば 自 ら の地 位 の正 統 化 は で き た 。 桓 武 天 皇 が
天 智 天 皇 を 意 識 し た のは 事 実 であ ろ う が 、 天 武 系 皇 統 を 傍 系 に 追 いや
3
三后の変遷(光 仁朝∼文徳朝)
第1図
贈皇后=藤 原帯子
贈 皇太后=藤 原旅子
贈 皇后=高 志 内親 王
5
ら ね ば な ら な か った 光 仁 天 皇 と は 切 迫 度 が ま った く 異 な る 。 そ れ よ り
新 笠 と いう こと に な る の であ る 。
そ の高 野 新 笠 は 延 暦 八 年 (
七 八 九 ) に 没 す る が 、 恐 ら く 葬 礼 の間 に
二 月 丙 申 条 の高 野 新笠 の崩 伝 に は 桓 武 天皇 ・早 良 親 王 ・能 登内 親 王 を
内 親王﹂とあ るにもかかわ らず、 ﹃
続 日本 紀 ﹄ 延 暦 八 年 (
七 八九)十
し か し な が ら 、 そ の ﹃本朝 皇 胤 紹 運 録﹄ の能 登 内 親 王 に は ﹁母 井 上
皇 太 后 と 追 尊 さ れ た も のと 考 え ら れ る 。 な ぜ 生前 に皇 太 后 に 冊 立 し な
生 ん だ と あ る 。 つま り 、 ﹃
本 朝 皇 胤 紹 運 録﹄ は 酒 人 内 親 王 と能 登 内 親
も 桓 武 天皇 に と って重 要 な のは 母 高 野 新 笠 の処 遇 であ った 。
か った のか 、 ま た な ぜ 追 贈 と いう か た ち を 取 ってま で皇 太 后 に 冊 立 す
王 の母 を 取 り 違 え た も のと 思 わ れ 、 そう であ れ ば 酒 人 内 親 王 の母 で あ
例 を 見 る 限 り 、 贈 后 の存 在 意義 の大 き さ は 無 視 でき な い。
こ そ 実 質 的 な 問 題 は起 こ ら な か った と も 言 え る が 、 後 述 す る贈 后 の事
定 さ れ て いる 状 況 は 尋 常 では な い。 も ち ろ ん 、 贈 皇 太 后 であ った か ら
后 が 存 在 し た 。 二 人 と も贈 皇 太 后 H故 人 であ る が 、 天 皇 の母 が 二 人 設
話 を 本 論 に も ど す と 、 つま る と こ ろ 、 桓 武 朝 の末 期 に は 二 人 の皇 太
る ﹁贈 吉 野 皇 后 ﹂ と は 井 上内 親 王 と いう こ と に な る の であ る 。
(7 )
る 必 要 が あ った の であ ろ う か 。 考 え ら れ る こと は 、 帰 化 人系 の高 野 新
そ のこ と は 桓 武 天皇 自 身
、 追 贈 では そ れ が 若 干 緩 和 さ れ た こ と に よ り 、
笠 が皇 太 后 に な る のは 人 々 の反 発 が 強 く
の権威 に 直 結 す る
桓武天皇
桓 武 天皇 が 本 来 的 に 意 図 し た
光仁天皇
皇后藤原乙牟漏
=
高野新笠 (
贈皇太后)
ま た 、 こ の世 系 と の関 連 で興 味 深 い のは 、 延 暦 十 九 年 (八 〇 〇 ) に
正 妻 か つ桓 武 天 皇 の母 后 と し て の地 位 を 一旦 与 え ら れ た も の の、 後 に
后 と し て の贈 皇 太 后 であ った 。 そ れ に 対 し て、 高 野 新 笠 は 光 仁 天皇 の
紀 橡 姫 の場 合 、 施 基 追尊 天皇 の正 妻 であ り 、 な お か つ光 仁 天皇 の母
皇 太 子 を 廃 さ れ た 故 早 良 親 王 が 崇 道 天 皇 と 追尊 さ れ た のと 同 時 に 、 故
井 上 内 親 王 が 光 仁 天皇 の正 妻 と し て の地 位 を 奪 回 し た と いう こ と であ
と いう 世 系 が や っと 構 築 でき た と いう こ と であ ろ う 。
井 上 内 親 王 が 皇 后 に復 さ れ て いる事 実 であ る。 さ ら に 、 ﹃
日 本 後 紀﹄
ろ う 。 そ し て、 井 上内 親 王 の贈 皇 太 后 が 意 味 す る のは 、 先 代 天皇 の嫡
(8 >
大同元年 (
八 〇 六 ) 四 月 己 未 条 に ﹁吉 野 皇 太 后 ﹂ と あ る こ と か ら す れ
妻 た る 皇 后 と いう 皇 位 継 承 関 係 に 規定 さ れ た 地 位 であ った と考 え ら れ
午条には
平 城 天 皇 が 即 位 し た 直 後 の ﹃日 本 後 紀﹄ 大 同 元 年 (
八〇六)五月壬
よう 。
ば 、 皇 后 に 復 さ れ た 後 さ ら に 皇 太 后 を 追 贈 さ れ た も のと 考 え ら れ る 。
た だ 、 こ の ﹁吉 野 皇 太 后 ﹂ を 井 上 内 親 王 と 同 定 す る に は 若 干 の問 題
が あ る た め 、 本 論 か ら は 少 し そ れ る こと に な る が 、 こ こ で確 認 し て お
き た いと 思 う 。 ﹁吉 野皇 太 后 ﹂ の名 に つ い ては 、 井 上 内 親 王 の山 陵 の
のが 妥 当 であ ろう 。 し か し 、 そ の 一方 で、 ﹃東 大 寺 要 録 ﹄ 巻 十 の酒 人
延 喜 諸 陵 寮 式 の大 枝 陵 に ﹁太皇 太 后 高 野 氏 ﹂ と あ る こ と よ り高 野新 笠
と あ る 。 こ の ﹁太皇 太 后 ﹂ に は 井 上 内 親 王 と 高 野 新 笠 が 考 え ら れ る が 、
追 二尊 皇 太 后 一為 二太 皇 太 后 、 皇 后 為 二皇 太 后 一。
内 親 王 事 に ﹁母 贈 吉 野 皇 后 也 ﹂ と あ って、 ﹃本 朝 皇 胤 紹 運 録 ﹄ の酒 人
と 確 定 でき る 。 つま り 、 桓 武朝 で の両皇 太 后 並 立 の状 況 を 是 正 す べ く 、
あ る 宇 智 野 は 吉 野 の いわ ば 玄 関 口に 当 た り 、 こ れ に 基 づ く 称 と 考 え る
内 親 王 に ﹁母 同 桓 武 一
﹂ と あ る のに よ れ ば 、 ﹁
贈 吉 野 皇 后﹂ と は 高 野
4
高 野新 笠 を 太 皇 太 后 に転 上 さ せ た も のと考 え ら れ る。
一方 、皇 后 の藤 原 乙牟 漏 が皇 太后 と 追尊 さ れ た意 味 はど の よう に 理
解 す れ ば よ い ので あ ろう か 。 平 城 天皇 の即 位 後 問 も なく 伊 予親 王 の変
が 起 こ った ご と く 、 即 位 し た と は いえ 平 城 天 皇 の地位 は安 泰 と は 言 い
平城天皇
嵯 峨天皇 さ せ た意 図も 理解 でき る。 即 ち 、嵯 峨 天皇 は
桓武天皇 と いう 皇 位 継 承 上 の系 譜 関 係 を 構 築 し よ う と し た ので あ ろ う 。 生 母 で
皇太 子高岳親王
藤 原 旅 子 を 母 と し て いた か ら 、 平 城 天 皇 と 遜 色 は な か った 。 そ の意 味
あ る 藤 原 乙 牟 漏 を 贈 太皇 太 后 と す る こ と に よ って 、 桓 武 天 皇 が自 ら の
藤原乙牟 漏 藤 原帯 子
(
贈太皇太后) (
贈皇太 后)
か ら す れ ば 、 藤 原 乙 牟 漏 の贈 皇 太 后 は 、 平 城 天 皇 が 桓 武 天皇 の嫡 長 子
先 々代 の天 皇 であ る こ と を 明 確 に し た 。 藤 原 帯 子 の贈 皇 太 后 も 井 上 内
が た い状 況 に あ った 。 出自 的 に も 、 伊 予 親 王 は 藤 原吉 子 、 大伴 親 王 は
であ る こ と を 再 確 認 さ せ る た め の存 在 であ った も のと 考 え る べき で あ
親 王 の事 例 と 同 じ で、 先 代 天 皇 の皇 后 を 意 味 す る 地 位 と 考 え る こ と が
平城天皇
冨
嵯峨天皇
淳和天皇
皇太后)
橘嘉智子 (
と いう 皇 位 継 承 上 の系 譜 関 係 を 構 築 した 上 で、 生 母 であ る藤 原 旅 子 に
藤原帯子 (
贈太皇太后)
詔
さ て、 嵯 峨 天 皇 か ら 皇 位 を 譲 ら れ た 淳 和 天 皇 は 、
でき よ う 。
ろう 。
平 城 天 皇 は さ ら に、 皇 太 子 時 代 の妃 であ った 故 藤 原 帯 子 に 皇 后 を 追
贈 し た 。 藤 原 帯 子 に皇 子 女 は な く 、 所 生 の親 王 が 立 太 子 す る 前 提 作 業
と いう こと でも な い。 平 城 天 皇 は 、 神 野 親 王 (
後 の嵯 峨 天 皇 ) を 皇 太
弟 と し た が 、 そ れ と 同 時 に自 ら の皇 統 の断 絶 を 意 図 し た の では あ るま
平 城 天 皇 が皇 后 を 立 てな け れ ば 、高 岳 親 王 (
母 は伊 勢 継 子 。 同 母 弟
皇 太 后 を 、 さ ら に高 志 内 親 王 に皇 后 を 追 贈 す る。 藤 原 旅 子 の贈 皇 太 后
いか。
に巨 勢 親 王 が いる) や 阿保 親 王 (母 は葛 井 藤 子) が平 城 天 皇 の皇 統 を
は 、名 誉 付 与 的意 味 合 いの みと 考 え ら れ がち であ る が、 次 の仁 明 朝 で
皇太 子恒 世親王
継 ぐ 正 嫡 に准 ず る存 在 と 見 倣 さ れ 、皇 太 子 に 立 て ら れ る こと は十 分 考
仁明天皇i
一歩 間違 え れ ば藤 原旅 子と 高 志 内 親 王 が転 上 し 、
=
淳和 天皇ー
藤原旅子
高 志内 親 王
(
贈太皇太后)
(
贈皇 太 后 )
桓武天皇
え ら れう る 。 そ こ で 、平 城 天皇 は 嵯 峨 天皇 に 将 来 に わ た る皇 統 を 委 ね
る た め 、藤 原帯 子 を贈 皇 后 と す る こ と に よ り 高岳 親 王 や 阿保 親 王を 非
皇 后所 生 子 と し 、 両 親 王 の即 位 の可 能 性 を あ ら か じ め摘 み取 った ので
(9 )
あ る 。 し か し 、 嵯 峨 天皇 は 高岳 親 王 を 皇 太 子 に 立 て 、皇 統 を 再 び 平 城
天 皇 に 返 す 意 思 を 表 明 し た も のと 考 え ら れ る 。 即 ち 、後 の嵯 峨 天皇 と
延暦廿四年 (
八 〇 五 ) に 一七 歳 で恒 世 親 王 を 生 ん だ か ら 、 恐 ら く 、 こ
と いう 系 譜 関 係 が 成 立 し て いた 可 能 性 が あ る ので あ る 。 高 志 内 親 王 は 、
そ う し た 観 点 か ら 考 え れ ば 、 嵯 峨 天 皇 が 実 母 の藤 原 乙牟 漏 を 贈 太 皇
の前 年 あ た り に大 伴 親 王 (
後 の淳 和 天 皇 ) と 結 婚 し た も のと 考 え ら れ
淳 和 天皇 と の関 係 が も う す で に 実 現 し て いる の であ る 。
太 后 に 、 実 際 に 皇 后 と し て機 能 し な か った 藤 原 帯 子 を 贈 皇 太 后 に 転 上
5
る。 父 桓 武 天皇 の庇 護 下 に おけ る皇 后 所 生 皇 女 の婚 姻 であ り 、 正 妻 で
も 適 合 す る皇 后 であ った と 言 え る。
を 固辞 し て いる 。も ち ろ ん 、淳 和 天皇 は 最初 か ら正 良 親 王を 立 て る つ
た が、 そ れ に先 だ って 、恒 世親 王を 皇 太 子 に指 名 し 、恒 世 親 王 は こ れ
は、 皇 太 子 に嵯 峨 天皇 の皇 子 であ る 正良 親 王 (
後 の仁 明 天皇 ) を 立 て
と な り 、 や が て嵯 峨 天皇 の禅 譲 を 受 け て即 位 す る。 即 位 した 淳 和 天皇
そ の後 、 薬 子 の変 など 一連 の政 治 的 混 乱 の結 果 、 大 伴 親 王 が皇 太 弟
況 に は な か った が 、 そ れ ぞ れ の皇 統 の存 続 ・性 格 付 け に 関 し て は 、極
レ申 二山 陵 一柏原天皇﹂ と あ り 、贈 后 に際 し て 両 者 の 間 に対 立 が 生 じ る状
志 内 親 王 一追 為 二皇 后 、 有 二勅 書 力 又 今 上 (11淳 和 天 皇 ) 以 二宣 命 一
被
際、﹃
西 宮 記 ﹄ 巻 十 五 勅 書 事 に は ﹁弘 仁 上 皇 (11嵯 峨 太 上 天 皇 ) 以 二高
和 天皇 は 極 め て融 和 的 な 関 係 を 保 って いたと 理解 さ れ て おり 、 ま た 実
混 入 す る こ と を最 初 か ら拒 否 し て いた の であ る。 従 来 、 嵯 峨 天 皇 と 淳
極 端 な言 い方 を す れば 、 淳 和 天 皇 は自 ら の皇 統 に嵯 峨 天皇 の血 脈 が
も り で あ った と 思 わ れ る が 、 こ の手 続 に よ り恒 世 親 王 は淳 和 天皇 の 正
め て 緊迫 し た 状 況 に あ ったと 考 え る べき で あ ろう 。従 って、淳 和 天皇
あ る こと は自 明 であ った ろう 。
統 な皇 位 継 承者 と な り 、 正良 親 王 が 即位 し た あ か つき に は皇 太 子 に 立
が 即 位 し た 時 点 で高 志 内 親 王自 身 はす で に 没 し て いるも の の、存 在 意
歴 史 に も し は な いも の の、 嵯 峨太 上 天皇 が 早 く 没 し 、 淳 和 天皇 の主
義 の極 め て大 き な贈 皇 后 で あ った と 言え る 。
て ら れ る 十 分 な資 格 を 得 た も のと考 え ら れ る 。
注 目 す べ き は 、 淳 和 天皇 の即 位 と ほ ぼ 同 時 に 正 子内 親 王 (
嵯 峨 天皇
の皇 女 、 母 は 皇 后 橘 嘉 智 子 ) が 入 内 し 、 天 長 二年 (八 二 五) に は 恒
導 の下 に 仁 明 天皇 への譲 位 が行 わ れ て いた と す れ ば 、 橘 嘉 智 子 (
先帝
(0
1)
(
八二六)に二
し て いた と す れ ば 、 淳 和 天皇 家 に 仁 明 天 皇 のみ が 取 り 込 ま れ た 状 況 と
貞 親 王 が 生 ま れ て いる こ と であ る 。 恒 世 親 王 が 同 三年
正 子 内 親 王 の入 内 は 、 嵯 峨 太 上 天 皇 と 淳 和 天 皇 のよ り 一層 の緊 密 関
も 言 え る。 仁 明 天 皇 が 実 際 に も な ぜ 藤 原 順 子 を 立 后 し な か った のか は
皇后)と藤原旅子 (
現 帝 母 后 ) と いう 二 人 の皇 太 后 の優 劣 は ど ち ら に
係 を 築 く た め のも の であ り 、 そ の意 味 か ら す れ ば 、 正 子 内 親 王 が 正 妻
詳 ら か でな いが 、 右 の状 況 では 立 后 は さ ら に 難 し い状 況 に な って いた
二 歳 で早 逝 す る と 、 そ れ を 待 って いた か のよ う に 、 翌年 に は 正 子内 親
であ る こと は 自 明 であ った 。 た だ し 、 淳 和 天 皇 に は 恒 世 親 王 と いう 正
だ ろう 。 と す れ ば 、 恒 世 親 王 の即 位 後 に 仁 明 天 皇 の皇 統 が 存 続 でき た
転 ん でも お か し く な い。 も し 先 に 掲 げ た系 譜 関 係 のよ う な 状 況 が 成 立
嫡 の皇 子 が す で にあ った た め 、 も し 後 に正 子 内 親 王 に 皇 子 が 誕 生 し て
か ど う か す ら 疑 わ し く な って こよ う 。
王 が 皇 后 に 冊 立 さ れ て いる 。
も 恒 世 親 王 の正 嫡 の地 位 は 揺 るが な いこと を 保 証 す る 意 味 で、 恒 世 親
梅 村 恵 子 氏 は 、 平 安 時 代 の皇 后 を 分 析 す る中 で、 ﹁村 上 朝 ま では 、
時 と では 、 微 妙 に状 況 が 異 な って いた も のと 思 わ れ る。 そ の意 味 で、
れ ば 、 同 じ 兄 弟 間 の皇 位 継 承 でも 嵯 峨 天 皇 の即 位 時 と 淳 和 天 皇 の即 位
正 良 親 王 の立 太 子 の前 に 恒 世 親 王 を 皇 太 子 に指 名 し た こと に 注 目 す
皇 位 継 承 者 の母 であ る こ と が 立 后 の条 件 にな って いた のは 確 か で﹂、
藤 原 旅 子 と 高 志 内 親 王 へ の贈 后 は 時 限 爆 弾 的 な 性 格 を 有 す る 行 為 で
王 の母 であ る高 志 内 親 王 を 皇 后 に冊 立 し た も のと 考 え ら れ る 。
﹁
次 代 の天 皇 の 母 であ る こと が皇 后 の、 現 天 皇 の母 であ る こ と が 皇 太
あ った と 言 え る の であ る。
(11 )
后 の条 件 にな る﹂ と 結 論 し て いる が 、 高志 内 親 王 は こ の要件 に も っと
6
津 内 親 王 が いて は橘 嘉 智 子 の立 后 が無 理 だ った か ら で はな いかと 考 え
ま た逆 に、 業 良 親 王 を 生 んだ 高 津 内 親 王 が後 に廃 さ れ て いる の は、 高
つま り 、 天皇 家 内 で の近 親 婚 が意 図的 に 繰 り返 さ れ た 一方 、内 親 王
嵯 峨 天皇 家 と 淳 和 天皇 家 と は 、恒 世親 王 が淳 和 天皇 の後 継 者 と な る
を皇 后 に 冊 立 し な いと いう 逆 の心 理 も 働 いた 中 で 、 両皇 統 を統 一す る
られる。
淳 和 天皇 の後 継 者 と な った ので あ る 。 こ れ に よ り 両家 は融 合 し た か に
か た ち で 正 子 内 親 王 が皇 后 に 冊 立 さ れ 、 さ ら に 正 子内 親 王 が 生 ん だ恒
こ と に よ って 、当 初 か ら分 裂 す る道 を 選択 し た 。 し か し、 恒 世 親 王 が
見 え た が 、 仁 明 天皇 に 淳 和 天 皇 の皇 女 が 配 さ れ な か った こ と は 、嵯 峨
貞 親 王 が 皇 太 子 に 立 て ら れ る と いう 理 想 的 な 状 況 が 出 現 し た 。 し か し
早 世 し た た め 、 正 子内 親 王 が皇 后 に 冊 立 さ れ所 生 の恒 貞 親 王 が新 た な
天 皇 家 も自 ら の皇 統 に 淳 和 天 皇 の血 脈 が 混 入 す る こ と を 望 ま な か った
う であ れ ば ま った く 逆 の評 価 にな る。 即 ち 、 嵯 峨 天 皇 は 正 子 内 親 王 の
が 自 ら の血 脈 の嵯 峨 天 皇 家 への流 出 を 嫌 った と 考 え る こと も でき 、 そ
か し 、 そ の結 果 、嵯 峨 朝 か ら の高 官 た ち は小 姑 的 な 存 在 と な り 、 ま た
て自 前 の ス タ ッ フで政 治 を 行 いた いと 思 う のは 当 然 の こと であ る。 し
尊 重 す る意 識 が いく ら 大 き く と も 、 淳 和 天 皇 が 実 際 の政 治 の場 にお い
天 皇 の交 替 は 廟 堂 構 成 に直 接 影 響 を 与 え た 。 嵯 峨 太 上 天 皇 の地 位 を
統 は 分 裂 の道 に進 ま ざ る を え な か った の であ る 。
な が ら 、 恒 貞 親 王 が 即 位 す れ ば 、 次 の皇 太 子 を 立 てる 時 点 で再 び 両 皇
こと を 示 し て いよ う 。
た だ 、 天 皇 家 が 本 来 自 ら の血 脈 の流 出 を 嫌 い、 内 親 王 ・女 王 の婚 姻
入 内 に より 両 家 の融 合 に力 を 尽 く し た が、 淳 和 天皇 は そ れ を あ く ま で
彼 ら に し て み れ ば能 力 を 十 分 に発 揮 す る場 を 与 え ら れな い不満 を 抱 く
の範 囲 を 狭 め た (
継 嗣 令 4王 嬰 親 王 条 ) こと か ら す れ ば 、 淳 和 天 皇 家
も 拒 み、 そ の結 果 つ いに淳 和 天皇 の皇 統 は そ の存 続 を 否 定 さ れた (
承
れ た 。 も ち ろ ん 、 内 親 王 が 妃 と し て いる にも か か わ ら ず 、 藤 原 乙牟 漏
(
母 は坂 上 全 子 )、 淳 和 天 皇 に は 高 志 内 親 王 、 さ ら に 正 子内 親 王 が 配 さ
内 親 王 と 甘 南 美 内 親 王 (母 は 藤 原 束 子 )、 嵯 峨 天 皇 に は 高 津 内 親 王
色 の強 い政 治 を 指 向 し 、 一日 も 早 い恒 貞 親 王 の即 位 を 待 望 す る よ う に
の意 向 には 関 係 な く 、 淳 和 天 皇 派 の官 入 た ち は 仁 明 天 皇 に 対 し て独 立
与 え る 影 響 の大 き さ が 推 し 量 れ よ う 。 つま り 、 正 子 内 親 王 や 恒 貞 親 王
の即 位 後 か ら 昇 進 を 始 め た こ と を 考 え れ ば 、 恒貞 親 王 の即 位 が 両 派 に
嵯 峨 朝 の廟 堂 筆 頭 の右 大 臣 の子息 で あ る 藤 原良 房 で さ え 、 仁 明 天皇
することになる。
こ と に な って 、 必然 的 に 、官 人 たち が嵯 峨 天皇 派 と 淳 和 天皇 派 に分 裂
和 の変 ) と 理解 でき る 。
こ れ 以前 に は 、光 仁 天皇 に 井 上内 親 王 が 配 さ れ た のを は じ め 、桓 武
・藤 原 帯 子 ・橘 嘉 智 子 が 皇 后 に冊 立 (
追 尊 ) さ れ て いる か ら 、 彼 女 た
な る。 一方 、 嵯 峨 天 皇 派 開仁 明 天 皇 派 にし ても こう し た 空 気 を 感 じ な
(2
1)
天 皇 に は前 出 の酒 人内 親 王 、 平 城 天 皇 に は そ の酒 人内 親 王所 生 の朝 原
ち が 正 妻 と し て配 さ れ た と は 言 え な いが 、 天 皇 家 内 で の近 親 婚 が 意 図
も ち ろ ん 、 天皇 の交 替 に よ って政 策 が劇 的 に変 更 さ れ ると いう よう
泡 に帰 す のは我 慢 のな ら な いこと だ った と 想 像 さ れ る。
いはず はな く 、 自 分 た ち が 行 ってき た 政 治 が 恒 貞 親 王 の即 位 によ り 水
的 に繰 り 返 さ れ て いる こと は 明 ら か であ ろう 。
彼 女 た ち が 立 后 さ れ な か った 最 大 の理 由 は、 次 代 の天 皇 と な る親 王
・ 実 際 ・恒 世 親 王 を 生
ん だ高 志 内 親 王 や、 恒 貞 親 王 を 生 んだ 正 子内 親 王 は皇 后 にな って いる。
を 生 ま な か った こと に あ る の で は な か ろ 、
施
7
の皇 子を も う けた 。 つま り 、 両 天皇 は 天皇 家 のあ り 方 そ のも のを 変 革
た 。 そ れ に 対 し て、 桓 武 天皇 や嵯 峨 天皇 は多 く の キ サ キを 納 れ て多 く
ろう が、 天皇 の交 替 に よ って政 権 の直 接 の担 い手 で はな く な る こと が
し よう と し 、女 御 制 の導 入 は そ の 一環 であ ったと 理解 でき よう 。
な 状 況 は考 え が たく 、ま た当 時 の官 人 たち も そ こま で考 え て いな いだ
我 慢 でき な か った の であ る 。
そ の根 源 は 、淳 和 天皇 が嵯 峨 天皇 と は異 な った独 自 の政 治 を 行 い、 ま
る。 陰 謀 と か権 力 抗 争 な どと 言 え ば非 常 に底 の浅 い事 件 に聞 こえ る が、
は受 入 れ や すく な る はず であ る の に、 な お皇 太 夫 人 と いう 段 階 を 経 る
であ った と考 え ら れ る。 し か し、 そう だ と す れ ば、 臣 女 の女 御 の立 后
の差 異 よ りも 、貴 族 層 全 体 の中 で の身 分 差 ・階 級 差 を 絶 対 視 し た 制 度
さ ら に 、女 御 制 の いま 一つの側 面 と し て は 、内 親 王 と 女 王 ・臣 女 と
た そ れを 次 代 にも 継 承 し よう と 意 図 し 、 そ れた め に自 ら の後 継 者 に嵯
必 要 が感 じ ら れた こと は、 皇 后 (
も しく は 三后 ) の有 す る存 在 意 義 の
承 和 の変 は 、 こう し た歴 史 の必 然 か ら起 こ った 事 件 であ った と 言 え
峨 天皇 家 の血 脈 と は無 縁 の恒 世 親 王 を 指 名 した こと にあ った 。 藤 原 旅
大 き さを 如 実 に物 語 るも の であ ろ う 。
(15 )
子 と 高 志 内 親 王 への贈 后 は 、 そ の意 味 で 、嵯 峨 系 皇 統 から の淳 和 系 皇
光 仁 ∼淳 和 朝 の よう に集 中 的 に 現 れ る こと はな く な る。 ま た 、 女 御 制
朝 ・四世 代 はま ったく な く 、光 孝 朝 以後 再 び見 ら れ る よう にな る が、
仁 明 朝 以 後 、贈 后 は突 然 に姿 を 消 す 。仁 明 ・文 徳 ・清 和 ・陽 成 の 四
た こと に注 目す べき であ ろう 。 こ れを 見 る限 り 、 皇 后 あ る いは そ れ を
が 、逆 に 、 そう した こと があ っても 前 代 の ごと き 政 変 が起 こら な か っ
天皇 が第 一皇 子 であ る惟 喬 親 王 を 皇 位 に即 け た いと 願 った こと はあ る
仁 明 ∼ 陽成 朝 に は皇 位 継 承 を めぐ る争 いがな か った。 た し か に、 文 徳
皇 后 も しく は皇 太 后 の冊 立 に こ の よう に細 心 の注 意 が払 わ れた 結 果 、
は桓 武 朝 な いし嵯 峨 朝 の過 渡 期 を 経 て仁 明 朝 に確 立 した と 考 え ら れ て
含 め た 三后 の存 在 は皇 位 継 承 に深 く 関 わ るも の であ り 、 贈 后 は 皇 位 継
統 の独 立 を 保 証 す る機 能 を 有 し て いたと 評 価 でき る の であ る。
お り 、 そ の 一方 で 、仁 明 朝 以 後 は 皇 后 が 冊 立 さ れ な く な り 、 天 皇 生
承 関 係 を さ ら に複 雑 にす るも の であ った と 結 論 でき よう 。
が例 と な る。 皇 太 夫 人 の前 例 が藤 原 宮 子 と 高 野 新 笠 の 二人 の み であ る
(14 )
母 は子 帝 の即 位 と と も に い った ん皇 太 夫 人 を 経 て皇 太 后 に転 上 す る の
た ろう 。 称 徳 天皇 没 後 の後 継 候 補 を 選 ぶ際 、文 室 浄 三 が子 の多 いこと
把 握 した も のと 考 え ら れ る 。 そ の意 義 は 、 一つに は定 員 の解 除 であ っ
御 制 は、 令 制 の妃 ・夫 人 ・嬢 を 女 御 に統 一し、 そ れ以 下を 更 衣 と し て
更 衣 から 女 御 への昇 格 が ほと んど 見 ら れ な いこと を 考 慮 す れ ば 、 女
り 方 が喧 伝 さ れ て いる が、 実 は 、 花 山 天 皇 の即 位 後 に は皇 統 の形 状 を
果 的 に皇 位 を 棄 て てし ま った 事 件 が有 名 であ り 、 藤 原 兼 家 の強 引 な や
一条 天皇 の 一日も 早 い即 位 を 願 う 藤 原 兼 家 の謀 略 に の って出 家 し 、 結
太 后 を 取 り 上げ た い。 花 山 天 皇 は、 周 知 のご と く 、 自 ら の外 孫 であ る
右 の結 論 を 受 け て本 節 で は、 花 山 天 皇 に よ る実 母 藤 原 懐 子 への贈 皇
二 花山天皇と皇位継承
を 批 難 さ れ た ごと く 、奈 良 時 代 に は意 図 的 に親 王 の数 が制 限 さ れ、 妃
めぐ って注 目す べき 改 変 が 行 わ れ た 形 跡 が認 めら れ る。 以 下 では 、 そ
い つく 地 位 ・称 号 で はな い。
こと を 考 え れ ば 、皇 太 夫 人 は藤 原 順 子 に相 応 し い地 位 と し てす ぐ に思
・夫 人 ・嬢 は定 員 さえ 満 た さず 、 そ の結 果 皇 統 が断 絶 す る こと と な っ
8
贈太皇太后
円融天皇
中宮=昌 子 内親 王
冷泉天皇
贈皇太后=藤 原懐子
花 山天 皇
中 宮=藤 原 彰 子
↓
皇后=藤 原娠子
三条皇太后
後一条太皇太后
1
上東 門院
中宮=藤 原妊 子 三 条 太 皇 太后
1↓
後 一 条 皇 太 后 中 宮=藤 原威 子
後 一 条 天皇
一 条太 皇太 后
宮- 后中
皇
贈皇太后=藤 原超子
三条天皇
円融 皇 后
}
一 条 皇 太后
藤原定子
皇 太 后=藤 原 詮 子
1
東三条院
一条天皇
中宮=藤 原 婬 子
↓
中宮=藤 原 遵 子
円融皇太后
の意義 を検 証 し た い。
花 山 天皇 は 冷泉 天皇 の長 子 で 、冷 泉 天皇 か ら 円融 天皇 に 譲位 が行 わ
れ た の に と も な い皇 太 子 に 冊 立 さ れ て い る。 注 目 す べき は ﹃日 本 紀
略 ﹄ 安 和 二年 (
九 六 九 ) 八 月 十 三 日 条 の次 の記 述 で あ る 。
天 皇 譲 二位 於 皇 太 子 ℃ (
中 略 ) 又立 二弟 師 貞 親 王 ↓
為 二皇 太 子 コ
こ こ では 円 融 天 皇 は 冷 泉 天 皇 の子 、 花 山 天 皇 (
師貞親王)は円融天皇
の弟 と 表 現 さ れ て いる の であ る 。 円 融 天 皇 は 立 太 子 記 事 でも 即 位 前 紀
でも ﹁皇 太 弟 ﹂ と 記 さ れ てお り 、 右 の記 事 だ け が 孤 立 し てお り 、 師 貞
親 王 に冠 さ れた ﹁弟 ﹂ は 術 字 と 考 え た 方 が よ いよ う に思 え るか も し れ
し か し 、 円融 天皇 は即 位 直 後 に実 母 であ る贈 皇 太 后 藤 原 安 子 を 太 皇
な い。
し た こ と を意 味 し て いる 。
冷泉 天皇1
=
昌 子内 親 王
(
皇太后)
皇 太弟師貞 親王
円融天皇
太 后 に転 上 さ せ て おり 、 こ の こと は 円融 天皇 が次 の よう な皇 統 を 構 想
村上天皇
藤原安子
(
追贈太皇太后)
実 際 の血 縁 関 係 と は 別 次 元 に 皇 統 を 構 築 す る のは 、 仁 明 天 皇 が 実 母 橘
嘉 智 子 を 太 皇 太 后 、 叔 父 淳 和 天 皇 の皇 后 であ った 実 妹 正 子 内 親 王 を 皇
太 后 に尊 為 し た 前 例 が あ り 、 円 融 天 皇 も そ れ に倣 った も のと 思 わ れ る 。
た だ 、 仁 明 天 皇 は皇 太 子 恒 貞 親 王 (
淳和天皇皇子)を恐らく子とし て
遇 し たと 考 え ら れ る の に対 し て、 円 融 天 皇 が 師 貞 親 王 を 弟 と し て遇 し
た点 は注 目 にあ た いす る。
見 方 に よ って は、 円 融 天皇 は 兄冷 泉 天皇 の皇 統 を 存 続 さ せ るた め 、
自 ら は 一代 のみ の天皇 で終 わ り 、自 ら の子孫 に は皇 位 を伝 え な い意 思
9
三 后 の 変 遷(村 上 朝 ∼ 後 一 条 朝)
第2図
村上 天皇
中宮=藤 原安子
↓
贈皇太后
が あ った よ う に も 理 解 で き る 。 つま り 、自 ら は 村 上 天皇 の皇 統 を 直接
受 け 継 ぐ存 在 では な く 、 し か も 冷 泉 天 皇 の皇 統 を受 け 継 ぐ 者 は 師貞 親
王 であ る と いう 意 思 表 明 であ る 。 村 上 天 皇 が もう 一、 二年 存 命 であ れ
ば 、 師貞 親 王 は 皇 太 子 の子 と し て誕 生 し て いた ので あ り 、 そう な れ ば
冷泉 天皇 の即 位 に と も な い師 貞 親 王 が 立 太 子 し て いた も のと 考 え ら れ
る 。 円 融 天 皇 は 、 初 め か ら こう し た 宿 命 を 背 負 って 即 位 し た 天皇 だ っ
村上天皇
=
・(
皇太后)
藤原遵子 (
中宮)
昌 子内 親 王
=
〒 l l ll l -円 融 太 上 天 皇- 皇 太 子懐 仁 親 王
冷泉 天皇
l 藤原安
花子
山︵
天皇
追贈太皇
のは 当 然 であ り 、 二六 歳 で の譲 位 も 懐 仁 親 王 を 立 太 子 さ せ る た め と も
であ り 、 待 望 の皇 子 であ った ろ う 。 円 融 天 皇 が 懐 仁 親 王 の即 位 を 願 う
皇 ) が 誕 生 し た こと に よ って 一変 し た 。 懐 仁 親 王 は 円 融 天 皇 の唯 一子
し か し 、 こ の状 況 は 天 元 三年 (
九 八 〇) に 懐 仁 親 王 (
後 の 一条 天
無 視 も し く は 否 定 す る こ と は 、 朱 雀 天 皇 の皇 統 も 否 定 し てし ま う こ と
天 皇 の兄 であ る ) 朱 雀 天 皇 の皇 女 であ り 、 そ の皇 太 后 と し て の存 在 を
る こと に他 な ら な い。 円 融 朝 で皇 太 后 に 転 上 し た 昌 子 内 親 王 は (
村上
の であ り 、 そ れ は 即 ち 円 融 太 上 天 皇 の血 統 が 傍 流 であ る と 主 張 し て い
花 山 天 皇 は 自 ら が 村 上 ・冷 泉 と 続 く皇 統 の正 嫡 であ る と 主 張 し て いる
藤原懐子 (
贈皇 太 后 )
太后) T
考えられる。実は、貞元元年 (
九七六)に冷泉太上天皇に第二皇子居
に も な る 。 結 論 的 に言 え ば 、 ︿醍 醐 - 村 上- 冷 泉 - 花 山﹀ と いう 皇 統
た の であ る 。
貞親王 (
後 の三 条 天 皇 ) が 誕 生 し てお り 、 花 山 天 皇 の即 位 に と も な い
のみ が 正 統 の天 皇 系 譜 であ る と 主 張 し て いる の であ る 。
花山天皇- 皇太子懐仁親王
=
冷泉天皇
中 宮
と いう 擬 制 的 皇 統 が 形 成 さ れ た であ ろ う と 考 え る 向 き も あ ろう 。 し か
円融太上天皇
昌子内親王(
太皇太后) 藤原遵子(
皇太后)
内親王と藤原遵子は当然転上し、
な か った が 、 も し 在 位 が 長 期 に わ た り 、 皇 后 が 冊 立 さ れ た 際 に は 昌 子
花 山 天 皇 の在 位 は 二年 に 満 た な いも の であ った た め 、 皇 后 の冊 立 は
懐 仁 親 王 では な く 居 貞 親 王 が 皇 太 弟 に立 つこと も 十 分 に 予 想 さ れ た 。
そ こ で円 融 天 皇 は 、 自 ら の譲 位 と と も に確 実 に 懐 仁 親 王 の立 太 子 を 実
現 し た の であ る。
し か し 、 花 山 朝 にお け る 懐 仁 親 王 の位 置 づ け は 微 妙 であ った 。 そ れ
は 、 そ も そ も 円 融 太 上 天 皇 自 体 の位 置 づ け が 微 妙 であ った か ら であ る 。
円 融 天 皇 が 自 ら の皇 統 の存 続 を 願 う 中 で花 山 天 皇 が 円 融 天 皇 の弟 と し
明 天 皇 は 、 そ れ を 避 け るた め に皇 位 継 承 に基 づ く 擬 制 的 な 親 子 関 係 を
し 、 昌 子 内 親 王 の存 在 を 無 視 し て藤 原 懐 子 に皇 太 后 を 贈 った こと を 考
て即 位 し た と す れ ば 、 いず れ か の血 統 が 傍 流 と な ら ざ る を え な い。 仁
形 成 し た の であ るが 、 花 山 天 皇 は そ れ を せ ず 、 ま た 懐 仁 親 王 を 子 と し
え れ ば 、 皇 后 の冊 立 に 際 し ても 二人 の存 在 は 無 視 さ れ た であ ろ う こと
実 は 、 そ れと 同 様 の状 況 が 次 の 一条 朝 で実 現 す る 。 一条 天 皇 が 即 位
が 容 易 に想 像 でき る 。
て遇 し た 形 跡 も な い。
そ れ に代 わ り 、 花 山 天 皇 は 実 母 藤 原 懐 子 に皇 太 后 を 贈 った 。 つま り 、
花 山 朝 では 次 の よう な 複 雑 な 皇 統 の状 況 が 発 現 し た こと にな る。
10
嚇
系 に押 し 込 め よ う と し た の であ り 、 花 山 天皇 の在 位 が 長 期 に 及 び 、 円
つま り 、 花 山 天皇 は 円 融 太 上 天皇 と皇 太 子懐 仁親 王 を あ く ま でも 傍
基 づ い て) 転 上 す る こ と は な か った も のと考 え ら れ る 。
が 太皇 太 后 に 転 上 し た 。 そ の後 、 藤 原 定 子 が 皇 后 に 冊 立 さ れ た 際 に 藤
融 太 上 天 皇 が 没 す る よう な こ と が あ れ ば 、 後 楯 を 失 った 懐 仁 親 王 の
す る と 、 実 母 であ る 藤 原 詮 子 が 皇 太 后 に尊 為 さ れ 、 同時 に昌 子内 親 王
原 遵 子 の中 宮 職 は 皇 后 宮 職 と 名 称 を 変 更 し て い る。 即 ち 、 初 め て の 二
即 位 はま った く 保 証 さ れ な いも のと な り 、 最 悪 の場 合 には 恒 貞 親 王 の
(16 )
ぼ機 械 的 に転 上 し て いく 方 式 が 定 着 す る が、 一条 朝 の当 初 にお い て藤
后 並 立 であ る。 これ 以 後 、 立 后 のた び に三 后 (の中 宮 職 の名 称 ) が ほ
的 に動 く よ う な 立 場 に は な か った 。
の結 び つき は 強 か った も の の、 懐 仁 親 王 の即 位 の実 現 に向 け て積 極
(17 )
基 本 的 に 中 立 の立 場 に あ った 。 ま た 左 大 臣 源 雅 信 も 、 円 融 太 上 天皇 と
外 叔 父 ) に 対 す る 反 発 は あ った か も し れ な いが 、皇 位 継 承 に 関 し て は
外 戚 関 係 を 持 た な か った 関白 の藤 原 頼忠 は 、藤 原義 懐 (H花 山 天皇 の
父 と し て 利害 を共 有 す る) 右 大 臣 藤 原兼 家 だ け であ った 。花 山 天皇 と
な け れ ば な ら な か った が、 そ の時 、 頼 り にな る の は (
懐 仁 親 王 の外 祖
従 って 、 円融 太 上 天 皇 は自 ら が健 在 な 問 に懐 仁 親 王 の即 位 を 実 現 し
ご と く 政 変 に巻 き 込 ま れ て廃 太 子 さ れ る こと も 十 分 考 え ら れ た 。
藤原定子 (
中宮)
=
一条 天 皇
原 遵 子 が皇 后 のま ま であ った こと は大 いに意 味 のあ る こと であ った 。
(
皇后 )
一条 朝 の皇 統 は次 の よう であ った 。
(
太皇太后)
昌 子内 親 王
冷泉 天皇
藤原詮子
(
皇太后)
円 融 天 皇 が 冷 泉 天 皇 の子 と し て 即 位 し た 意 思 を尊 重 し 、 ︿
冷 泉- 円 融
原 遵 子 は 一条 天 皇 と 何 ら 関 係 を 持 た な いこと を 明 示 し て い る の であ る。
ば 、 居貞 親 王 の即 位 の可 能 性 は消 え る し、 懐 仁 親 王 の皇 太 子 の地 位 さ
将 来 が見 え て いた 。 し か し な がら 、 花 山 天 皇 に後 継 の皇 子 が誕 生 す れ
る) 居 貞 親 王 を 擁 し てお り 、 あ わ よ く ば 二代 の天 皇 の外 祖 父 と し て の
藤 原 兼 家 は 、外 孫 に皇 太 子 懐 仁 親 王 と (
そ の次 の皇 太 子 と な り う
つま り 、 三后 の配 置 は現 天 皇 家 がど の よう な皇 統 を 想 定 し 、 将 来 ど
- 一条 ﹀ と いう 皇 統 を 正 統 と 認 め る 一方 、 円 融 天 皇 の皇 后 であ った 藤
の よう な 皇 位 継 承 を 予定 し て いる かを 示す 極 め て重 要 な 手 続 き だ った
そ も そ も 、 花 山 天皇 の出 家 事 件 の引 き金 に な った のは 、女 御 の藤 原
え危 う く な る 。
三后 と し て の権 能 を行 使 し て 政 治 的 に 重 要 な 役 割を 果 た し た者 は お ら
慨 子 が 懐 妊 入 カ 月 で亡 く な った こ と で あ った 。 も し皇 子 が 誕 生 し て い
と言 え る 。 こ の こと か らす れ ば 、光 明皇 后 (お よ び橘 嘉 智 子 ) 以後 、
ず 、 そ の政 治 的 機 能 は 極端 に 縮 小 し た も の の、 三后 の存 在 意 義 は 平安
た ら 、 花 山 天 皇 と そ の側 近 た ち は こ の皇 子 の即 位 実 現 に向 け て あ ら ゆ
つま り 、 刻 々と 変 わ って いく こ のよ う な 状 況 が 藤 原 兼 家 に焦 燥 感 を
原 義 懐 の妻 と な ってお り 、 後 見 の体 制 も 万 全 であ った 。
る 手 段 を 講 じ た こと で あ ろ う 。 藤 原 低 子 の父 は 大 納 言 為 光 で、 妹 は 藤
時 代 に な って も 依 然 と し て 大 き か った こと が 理 解 さ れ よう 。
従 って 、 花 山 朝 で 皇 后 が 冊 立 さ れ れ ば 、 二后 並 立 の出 現 が 早 ま り 、
藤 原 遵 子 の中 宮 職 が 皇 后 宮 職 と 名 称 を 変 更 し た か も し れ な いが 、 花 山
天 皇 と 関 係 を 持 た な い昌 子 内 親 王 と 藤 原 遵 子 が (
花 山 天 皇 と の関 係 に
11
円 藤
融 =原
天 遵
皇 子
サ
も た ら し た の では な か ろう か 。 現 在 明 る い将 来 が 見 え て いる か ら と
非 業 の最 期 を 遂 げ て い る。
桓 武 天皇 の皇 子 た ち は 、 平 城 ・嵯 峨 ・淳 和 と 三人 が 天 皇 にな って い
天 皇 の嗣 子 恒 貞 親 王 は 承 和 の変 に 巻 き 込 ま れ て皇 太 子 を 廃 さ れ て し
い って、 そ の将 来 が 確 実 に来 ると は 限 ら な い。 皇 太 子 懐 仁 親 王 を め ぐ
藤 原 低 子 の急 逝 で悲 嘆 に暮 れ る花 山 天 皇 を 藤 原 道 兼 が そ そ のか し 出
ま った 。 そ の後 、 仁 明 ・文 徳 ・清 和 ・陽 成 と 直 系 によ る皇 位 継 承 が 行
る が、 伊 予親 王 は 実 母 藤 原 吉 子 と 自 ら 毒 を あ お って死 んだ し、 平 城 天
家 さ せ た 事 件 は 周 知 のご と く であ る。 こ の事 件 に関 し ては 藤 原 兼 家 の
わ れ た の は希 有 な こと であ り 、 成 人 で即 位 し た 光 孝 ・宇 多 の 二代 は 特
る 環 境 も い つ 一変 す るか わ か ら な い。 そ の よう な 思 いが 一日 も 早 い懐
強 引 さ ば か り が 言 わ れ 、 実 際 、 そ れ は 紛 れ も な い事 実 であ る が 、 花 山
例 と し て、 醍 醐 天 皇 の即 位 後 す ぐ に皇 太 弟 が 立 てら れ な か った のは 、
皇 の後 継 であ る高 岳 親 王 は 薬 子 の変 によ り 皇 太 子 の地 位 を 失 い、 淳 和
天 皇 家 が 磐 石 な も のと な ってし ま ってか ら では 何 を し ても 手 遅 れ な の
直 系 継 承 の維 持 を 指 向 し た か ら であ ろう 。
仁 親 王 の即 位 実 現 を 切 望 さ せ た の では な か ろう か 。
であ る 。 従 って、 な り ふり 構 わ ず 花 山 天 皇 を 退 位 に追 い込 み 、 懐 仁 親
願 った の に対 し て、 藤 原 兼 家 は も う 一人 の外 孫 であ る 居 貞 親 王 の立 太
原 兼 家 の利 害 は 一致 し て いた が 、 円 融 太 上 天 皇 は 自 ら の皇 統 の存 続 を
さ て、 懐 仁 親 王 H 一条 天 皇 の即 位 実 現 に関 し ては 円 融 太 上 天 皇 と 藤
で皇 子 誕 生 を 断 念 す る よ う な 状 況 に は な く 、 な ぜ 方 針 が 変 更 さ れ た
上 天 皇 ) が 皇 太 子 に立 てら れ て い るが 、 こ の時 朱 雀 天 皇 は ま だ 二 二歳
が待たれた。ただ、天慶七年 (
九 四 四 ) に同 母 弟 の成 明 親 王 (
後 の村
雀 天 皇 が 八歳 で即 位 す るが 、 皇 太 子 は 立 てら れ ず 朱 雀 天 皇 の皇 子 誕 生
そ し て、 立 太 子 し た 保 明 親 王 と そ の遺 児 慶 頼 王 が 相 次 い で没 し 、 朱
子 を 望 ん だ 。 し か し 、 そ う な れ ば 再 び 皇 統 は 分 裂 状 態 に な る の であ り 、
のか そ の理 由 は 詳 ら か では な い。 し か し な が ら 、 朱 雀 天 皇 には そ の後
王 の即 位 を 実 現 さ せ た のは 当 然 の判 断 であ った と 思 わ れ る 。
実 際 に は 冷 泉 天 皇 の皇 統 が 絶 え た が 、 状 況 の推 移 に よ っては 、 ま った
も 皇 子 が 誕 生 し な か った た め 、 結 果 的 に 皇 統 が 分 裂 す る こと は な か っ
(
九五〇)に憲平親王 (
後 の冷 泉 天皇 ) が 誕
(18 V
く 同 じ よ う に円 融 天 皇 の皇 統 が 絶 え る こと も 十 分 考 え ら れ た 。 一条 天
た。
(19 V
村 上 天 皇 には 天 暦 四年
皇 の即 位 と 同 時 に居 貞 親 王 の立 太 子 が 行 わ れ な か った こと は 、 円 融 太
上 天皇 が 一条 天 皇 の皇 子 誕 生 ・立 太 子 を 望 ん だ こと を 物 語 って いる 。
こ のよ う に 、 いわ ゆる 直 系 継 承 が いか に 困 難 であ る か は 歴 史 が 証 明
即 位 し た 。 た だ 、 将 来 が案 じ ら れ て であ ろ う 、 即 位 か ら 三 カ 月後 に は
皇 ) が 誕 生 し ても 、 そ の地位 に 変 動 は な く 、 村 上 天皇 の死 去 をう け て
生 し 、 二 カ 月 後 に は 皇 太 子 に 立 て ら れ た 。 憲 平 親 王 は 幼 いと き か ら
し てお り 、 ま た 皇 統 が 分 か れ た 場 合 に は 、 結 局 、 政 変 な ど に よ り 一つ
守 平 親 王 が 立 太 子 し て いる が 、 即位 と 同 時 では な い のは 若 干 の逡 巡 が
し か し 、 一条 天 皇 は 即 位 時 に わ ず か 七 歳 であ り 、皇 子 誕 生 ま では 十年
の皇 統 が 絶 え てし ま う のが 歴 史 の常 であ った 。称 徳 天皇 の没後 に 文 室
あ った も のと 思 わ れ 、事 実 、 こ の立太 子 が 結 果 的 に 冷泉 系 と 円融 系 の
奇 行 が 目 立 って いた が 、 同 母 弟 の為 平 親 王 ・守 平 親 王 (
後 の円融 天
浄 三 が後 継 候 補 に挙 げ ら れ た 時 、 文 室 浄 三 には 子 が多 いこ と が 批 判 さ
皇 統 の分 裂 を 引 き起 こ し 、 そ れ は 小 一条 院 の皇 太 子 辞 退 でや っと終 焉
以 上待 た な け れ ば な ら な か った 。
れ た 。光 仁 天 皇 の皇 子 た ち も 、 桓 武 天皇 以 外 は 他 戸 親 王 も 早良 親 王 も
12
を 迎 え る の であ る。
つま り 、 花 山 天皇 は こ の皇 統 の分 裂 を 最 初 期 の段 階 で ︿醍 醐 ー 村 上
- 冷 泉 - 花 山 ﹀ と いう 本 来 の直 系 に よ る皇 位 継 承 に戻 そ う と し た の で
あ り 、 そ の意 思を 明 確 に宣 言 し た の が実 母 で あ る藤 原 懐 子 に皇 太 后 を
贈 った こと で あ った 。 し か し 、逡 巡 のう ち に 立太 子 し、 師 貞 親 王 (
花
山 天皇 ) に皇 位 を 戻 す こ と を前 提 に 、 ま た自 ら も そ れを 承 知 の上 で 即
位 し た 円 融 天皇 に懐 仁 親 王 (一条 天皇 ) が 誕 生 し 、 円融 天皇 は こ の皇
子 の即位 と自 ら の皇 統 の存 続 を 願 った 。 ま た 藤 原兼 家 も 、自 ら の外 孫
の即 位 を 実 現 す る た め に は 強 引 な手 段 も 厭 わ な か った 。 こ の よう な 状
況 の中 で 、 花 山 天皇 の正 当 な 意 思 は も ろ く も つ いえ た ので あ る 。
三 贈皇太后の意義
第 一節 では 、 淳 和 天 皇 が 、 正 子 内 親 王 (
嵯 峨 天 皇 皇 女 ) の生 む で あ
ろう 皇 子 を 排 除 し て長 子 の恒 世 親 王 に自 ら の皇 統 を 継 承 さ せ る と いう
意 思 表 示 と し て、 恒 世 親 王 の生 母 であ る高 志 内 親 王 に 皇 后 を 贈 ってお
を 目 指 し 、 そ の意 思 表 明 の手 段 と し て (
冷泉中
そ れ は 即 ち 円 融 天 皇 の皇 統 を 傍 系 と 位 置 づ け 排 除 す
り 、 第 二節 で は 、 花 山 天皇 が 、 ︿醍 醐- 村 上- 冷 泉 - 花 山 ﹀ と いう 直
系 皇 統 の確 立
る こと に直 結 す る
宮 で円 融 朝 に皇 太 后 に転 上 し た 昌 子 内 親 王 の存 在 を 無 視 し て) 生 母 の
藤 原 懐 子 に皇 太 后 を 贈 って いる。 以 上 の 二例 か ら見 れ ば 、 本 入 は す で
に没 し てお り 実 際 に政 治 的 な 動 き は しな いも の の、 贈 后 と いう 行 為 は
重要な⋮
機能 を 果 た し て いた と 考 え な け れ ば な ら な い。
た だ 、 即 位 時 に 天皇 の生 母 がす で に没 し て いる場 合 はす べ て皇 太 后
が贈 ら れ て おり 、 そ の限り で は 、贈 皇 太 后 は特 別 に は意 味 を 持 た な い
付表 贈皇太后の事例
所 生 天 皇
贈 后 状 況
皇太
帝
贈皇 太后
人← 贈皇
夫
①紀 橡 姫 施 基 親 王 光仁天皇
皇 太夫
后
太后
贈皇太后
皇太
皇太后
← 贈太
太后← 贈太
②高 野 新 笠 光 仁 天 皇 桓武 天皇
贈皇太 后←贈太 皇太
贈皇 后
'
* 高 志内
贈皇 太后
二 条天皇
贈皇 后
后
←
皇后
天皇・ 嵯峨
贈皇
天皇
③藤原乙牟漏 桓 武 天 皇
し
⑥藤 原 沢 子 仁 明 天 皇 光孝 天皇
贈皇太后
平城
④藤 原 帯 子 平 城 天 皇 な
贈皇 太后
原 胤 子 宇 多 天 皇 醍醐天皇
中宮← 贈皇
太后← 贈太
后← 贈皇
⑤藤 原 旅 子 桓 武 天 皇 淳和 天皇
⑦藤
原 安子 村上 天皇
贈皇太后
し
⑧藤
原 懐 子 冷 泉 天 皇 花山天皇
贈皇太后
な
藤
⑨
原 超 子 冷 泉 天 皇 三条天皇
贈皇太后
淳和天 皇
⑩藤
原 嬉 子 後朱雀天 皇 後冷泉天皇
親王
⑪藤
贈皇太后
冷泉天皇・ 円融天皇
⑫藤 原 茂 子 後三条天 皇 白河天 皇
←
中宮
土 御門天
皇
贈太皇太 后
*藤 原 賢 子
贈皇太
后
子
後嵯峨天皇
白 河 天 皇 堀河天皇
⑬藤 原苡 子 堀 河 天 皇 鳥羽天 皇
通
⑭藤 原 麓 子 後白
河 天
皇
*源
后
13
より 広 く 贈 后 ) の意 義 を 説 こう と す れ ば、 他 の事 例 も 検 証 し て総 合 的
れな いが 、結 局 は、 藤 原 基 経 ら の懇 請 に より 、光 孝 天皇 が自 ら 源 定 省
て は いな い。後 事 はす べ て藤 原 基 経 に委 ね る つも り であ った の かも し
太 后 と は齪 鱈 を 生 じ る よう にも 思 え る。 た だ 、 光 孝 天皇 は後 継 を 決 め
と 意 思 表 明 し た こと に他 な ら ず 、 一見 す ると 、 そ れ は右 に述 べた 贈 皇
に評 価 す る必 要 があ る。 付 表 は贈 皇 太 后 の事 例 を 中 心 に整 理 し た も の
単 な る儀 礼 的 行 為 と 考 え る余 地 も あ る。 従 って、 贈 皇 太 后 (
あ る いは
であ る が 、 こ のう ち 、① 紀 橡 姫 か ら *高 志 内 親 王 ま でと ⑨ 藤 原 懐 子 の
(
後 の宇 多 天 皇 ) を 後 継 に 定 め た の であ る 。
こ れ ら のこ と か らす れば 、 光 孝 天皇 の真 意 は 、自 ら の治 世中 は自 分
事 例 に つ いて はす で に検 討 し た 。網 羅 的 に な る が、 本 節 で こ れ以 外 の
事 例 を 逐 一検 証 し て み た い。
が 天皇 で あ る こと がす べ て であ り 、 旧来 の勢 力 にも 将 来 の勢 力 にも 影
れ る 。 生 母 藤 原 沢 子 への皇 太 后 追 贈 に よ り 旧来 の勢 力 の干 渉を 封 じ 、
響 さ れ る こ と なく 国政 運 営 に専 心 し た いと いう も のであ ったと 想 像 さ
⑥ 藤 原 沢 子 は 、 仁 明 天皇 の女 御 に な り時 康 親 王 (
後 の光 孝 天皇 ) を
皇 子 た ち への源 氏 賜姓 に よ り将 来 の勢 力 形 成 に向 け た貴 族 たち の動 き
藤原沢子
生 ん だ 。 源 氏 と な ら ず 親 王 と さ れ た こ と か らす れ ば 、あ る程 度 の地 位
を抑 え た も のと結 論 で き よう 。 つま り 、贈 皇 太 后 に は そ れ だ け の重 要
(1)
が確 保 さ れ て いた と 考 え ら れ る も の の、 藤 原良 房 が 政権 の確 立 途 上 に
藤原胤子
な 意 味 が 込 め ら れ て いた ので あ る 。
(2)
あ った 仁 明朝 では 、 道康 親 王 (後 の文 徳 天皇 ) の嫡 流 た る 地位 は安 定
し てお り 、 時 康 親 王 は 庶 出 の 一親 王 に す ぎ な か った 。
そ の後 、 ︿
仁 明- 文 徳- 清 和 - 陽 成 ﹀ と 直 系 に よ る皇 位 継 承 が 実 現
に 時 康 親 王 を 天 皇 に 擁 立 し た の であ る 。 即 位 し た 光 孝 天皇 が 生 母 の藤
が 、 醍 醐 天 皇 の即 位 を 待 た ず 没 し て いる 。 こ のこ ろ 、 立 后 は し て いな
後 の醍 醐 天 皇 ) を 生 ん だ 。 宇多 天皇 の即 位 後 更 衣 を 経 て女 御 と な った
⑦ 藤 原 胤 子 は 、 源定 省 (
後 の宇多 天皇 ) の室 と な り維 城 (
敦仁親 王、
原 沢 子 に 皇 太 后 を 贈 った こと は 、 現 皇 太 后 の藤 原 高 子 (H陽 成 天皇 の
か った も の の宇多 天皇 の正 妻 的 地 位 に は 藤 原 温 子 が あ り 、 藤 原 胤 子 の
し た が 、 藤 原 基 経 は 政 治 を 顧 み な い陽 成 天 皇 を 退 位 に 追 い込 み 、新 た
そ れ は 即 ち 、 光 孝朝 で
没 後 に 敦 仁 親 王 の継 母 ・養 母 と な って いた 。 従 って、 当 時 の状 況 と し
母后)が光孝天皇とは何ら関係を有しな い
は 何 ら 権 能 を 有 し な い こと を 意 味 す る
て は、 醍 醐 天 皇 は 藤 原 温 子 を 母 と し て遇 す る べ き であ り 、 ま た 周 囲
存 在 であ る こ と を 確 認 す る
と と も に 、 仁 明 天 皇 の妻 后 の地 位 が 藤 原 順 子 か ら 藤 原 沢 子 に 移 った こ
(
特 に摂 関家 ) も そ れを 当 然 と 考 え て いた も のと 思 わ れ る。
し か し な が ら 、 醍 醐 天 皇 も し く は 宇 多 太 上 天 皇 の考 え は 異 な って い
と を 意 味 し 、 そ れ は 取 り も 直 さ ず 、 文 徳 天 皇 の皇 統 を 傍 系 に 追 いや り 、
新 た に成 立 し た ︿仁 明ー 光 孝 ﹀ と いう 皇 統 が 唯 一正 統 のも の であ る と
表 示 が 贈 皇 太 后 な の であ る 。 贈 皇 太 后 の記 事 は 簡 単 であ り 、 そ れ を め
た 。 醍 醐 天 皇 の母 は あ く ま でも 藤 原 胤 子 でな け れ ば な ら ず 、 そ の意 思
し か し な が ら 、 光 孝 天 皇 は 一方 で皇 子 た ち を す べ て源 氏 に 下 し て皇
ぐ つてど のよ う な 動 き が あ った のか (
も し く は な か った のか ) を 窺 い
表 明 し た こと に他 な ら な いと 考 え ら れ る 。
位 継 承 を 放 棄 さ せ た 。 こ の こと は 即 ち 、 自 ら は 一代 限 り の天 皇 であ る
14
知 る こと は でき な い。 し か し、 藤 原胤 子 の贈 皇 太 后 か ら 時 を 置 か ず に
藤 原 温 子 の立 后 (
皇 太 夫 人 11中 宮 ) が行 わ れ た こと は 、 贈 皇 太 后 が 起
(3)
藤原安子
しく 行 わ れず 、藤 原 穏 子 が醍 醐 朝 に 冊立 され て、 ふた た び 皇 后 の冊 立
あ る 。皇 后 の冊立 は 正 子 内 親 王 が淳 和 天 皇 の皇 后 に冊 立 さ れ て以 来 久
⑧ 藤 原 安 子 は 、村 上 天 皇 の皇 后 (
中 宮 ) で冷 泉 ・円 融 両 天 皇 の母 で
藤 原 温 子 の立 后 と 同時 に皇 太 夫 人 で あ った班 子女 王 が皇 太 后 に転 上
こ した 政 治 的 波 紋 の大 き さを 何 よ りも 雄 弁 に物 語 って いる。
し た が 、 こ れ は藤 原 胤 子 の贈 皇 太 后 と は衝 突 し な い。 班 子 女 王 は光 孝
后 を太 上皇 后 と称 し た が 、 そ れ に 倣え ば太 上皇 太 后 と 言 え 、 宇 多 太 上
立 さ れ た が 、 早 世 し た た め 、 そ の遣 児 慶 頼 王 が皇 太 子 (
皇 太 孫 ) に冊
醍 醐 朝 で は 、初 め保 明 親 王 (11藤 原 穏 子 所 生 の長 子 ) が皇 太 子 に冊
が 一般 的 に行 わ れ る よう にな った 。
天皇 の母后 で あ る班 子女 王 と醍 醐 天皇 の母后 で あ る藤 原 胤 子 は、 同 じ
立 さ れ た 。 し か し、 そ の慶 頼 王 も 夫 折 し た た め 、寛 明 親 王 (
後 の朱 雀
天皇 の女 御 で宇 多 太 上 天皇 の生 母 で あ った 。 中 国 で は、 太 上 皇 帝 の皇
く后 位 を授 け ら れ た と いう 点 で む し ろ つり あ いがと れ た 関係 と な った
天皇 ) が あ ら た め て皇 太 子 に 冊立 さ れ 、保 明 親 王 の女 であ る煕 子 女 王
の皇 后 に 冊 立 さ れ て し か る べき と 思う が 、 な ぜ か そ のこと は な か った 。
が そ の妃 と な った。 こ のよう な経 過 か らす れ ば 、煕 子女 王 は朱 雀 天皇
と も 評価 で き る 。
宇多 太 上 天皇 は 、 阿衡 の紛議 か ら 藤 原 基 経 11摂 関家 に対 し て含 むと
な お 、 熈 子女 王 に は朱 雀 天皇 譲 位 後 に昌 子内 親 王 が 誕生 し 、後 に冷 泉
ころ が あ り 、 醍 醐 天皇 の外 祖 父 であ る 藤 原 高 藤 (
後 に内 大 臣 ) や そ の
天皇 の皇 后
良 好 で、 む し ろ 宇多 太 上 天皇 と 菅 原 道 真 に 対 す る 世代 間 の対 立 意 識 の
二年 後 に は 早 く も 譲位 し た 。皇 子 の誕 生 を あ き ら め る に は 二 二歳 は 早
歳 の時 、 同 母 弟 の成 明親 王 (
後 の村 上 天皇 ) を皇 太 弟 に 冊 立 し 、 そ の
朱 雀 天皇 に は 他 のキ サ キ に も皇 子女 の誕生 は な く 、朱 雀 天皇 が 二 二
(
中 宮) に 冊立 さ れ て いる 。
子 の定 国 (
後 に 大 納 言 )・定 方
方 が 強 か った よ う であ る 。 従 って、 醍 醐 天 皇 か ら 見 れ ば 、生 母 で あ る
す ぎ る と 思 わ れ 、皇 太 弟 冊 立 の理 由 は詳 ら か に し が た い。朱 雀 天皇 は 、
(
後 に右 大 臣 ) に期 待 す る と こ ろ が 大
き か った よう であ る 。 そ れ に 対 し て、 醍 醐 天皇 は藤 原時 平 と の関係 も
藤 原 胤 子 の贈 皇 太 后 も 藤 原 時 平 の 姉 であ る 藤 原 温 子 の 立 后 (
皇太 夫
冷 泉 天皇 のよ う に 精 神 上 の病 的 体 質 も な く 、醍 醐 天 皇 の直 系 皇 統 を
人 ) も 意 に反 し た も の では な か った と 言 え る 。
た だ 、 班 子 女 王 の皇 太 后 転 上 と 藤 原 胤 子 の贈 皇 太 后 と 藤 原 温 子 の立
これ ら は 同 時 に行 わ れ てし か る べき であ る。 従 って、 藤 原 胤 子 の贈 皇
冊 立 し な か った こと と 早 期 に 皇 太 弟 を 冊 立 し た こと は 不 可 思 議 と 言 わ
早 す ぎ る譲 位 を 藤 原 穏 子 が 嘆 いた 逸 話 は 残 って いる も の の、皇 后 を
守 って いく こと に何 ら 問 題 は な か った は ず であ る 。
太 后 が ま ず 行 わ れ 、 そ れ に対 抗 す るよ う に急 遽 藤 原 温 子 の立 后 (
皇太
ざ るを え ず 、 そ の点 で朱 雀 天 皇 は (
理 由 は ま った く 詳 ら か でな いが )
后 (
皇 太 夫 人 ) が 相 反 す る 要 素 を ま った く 持 って いな か った と す れ ば 、
夫 人 ) が 行 わ れ た こと か ら す れ ば 、 醍 醐 天 皇 の母 の地 位 を め ぐ る争 い
存 在 が 極 め て中 途 半 端 な 天 皇 であ った と 評 価 でき る 。
村 上 天 皇 が 即 位 す る と 、 朱 雀 朝 です で に皇 太 后 に転 上 し て いた 藤 原
が あ り 、 さ ら には 、 そ の背 後 に政 治 上 の主 導 権 争 い の存 在 を 感 じ 取 る
べき であ ろう と 思 う 。
15
尋
な り 、摂 関家 の繁 栄 を 支 え る重 要 な役 割 を 担 った安 子も 、村 上 朝 に お
す る に は相 当 腐 心 し た であ ろう こと が想 像 でき る 。 二代 の天皇 の母 と
あ り な が ら 、皇 位 継 承 上 は 子と し て 即位 し た のであ る 。女 御 藤 原 安 子
け る そ の地 位 は極 め て 不安 定 な も のであ った と言 え よう 。
穏 子 は さ ら に太 皇 太 后 に転 上 し た 。 即ち 、村 上 天皇 は朱 雀 天皇 の弟 で
が憲 平 親 王 (
後 の冷 泉 天皇 )を 生 む と 、 ニ カ月 後 に は皇 太 子 に立 て ら
(
九 六 七 ) 五月 廿 五 日 に村 上 天皇 が 没す る と 、 即 日冷 泉 天
皇 が 践酢 し 、 六 月廿 二 日 に は左 大 臣 実 頼 に 関白 の勅 が 下 った 。冷 泉 天
康 保 四年
平親 王 が 初 め て の皇 子 と 言 ってよ く 、 そ の皇 子 が速 や か に立 太 子 し た
皇 は こ の時 す でに 一八歳 であ った が 、 国 政 を 領導 でき る 状態 であ った
れ た 。庶 出 の広 平親 王も 同年 の誕 生 ら し いが 、村 上 天皇 にと って は憲
こ と は 、 藤 原 安 子 が す でに 正 妻 的 地 位 に あ った こ と を物 語 って いよう 。
てよう や く 行 わ れ た 。 た だ 、 す で に皇 太 子 の母 と し て地 位 は安 定 し て
王 (
後 の円 融 天皇 ) が皇 太 弟 に 立 てら れ 、 同 月 四 日 に 昌 子 内親 王 が皇
た と 考 え て間 違 いな か ろう 。 そ のよう な 状 況 下 で、 九 月 一日 に守 平 親
と は 思 え な い。 従 って 、村 上 天皇 没後 の政 局 は 実 頼 の指導 下 に推 移 し
お り 、 立 后 の契 機 と な る よ う な 出 来 事 も な く 、 立 后 の積 極 的 意義 は 見
后 (
中 宮 ) に冊 立 さ れ 、 さ ら に 十 一月 廿 九 日 にな って安 子 に皇 太 后 が
(
九五八)にな っ
出 し が た い。 し か も 、 冷 泉 天 皇 の即 位 を 持 た ず 早 世 し て いる の であ る 。
贈 ら れ て い る。
し か し 、 藤 原 安 子 の皇 后 (
中 宮 ) 冊 立 は 天 徳 二年
藤 原 安 子 は 、 そ の後 の九 条 流 に発 展 を も た ら し た キ ー パ ー ソ ン であ る
そ う し た 観 点 から 言 え ば 、 藤 原 穏 子 は 基 経 の女 で、 藤 原 安 子 は 師 輔
太 后 と 同 時 に行 わ れ てし か る べき も のと 考 え ら れ 、 安 子 の贈 皇 太 后 が
后 も 予 定 さ れ て いた こと と 思 わ れ る。 た だ 、 そ う であ れ ば 安 子 の贈 皇
昌 子 内 親 王 は 憲 平 親 王 が 元 服 し た 日 に妃 に立 てら れ てお り 、 当 然 立
の女 であ り 、 時 平 の女 が 慶 頼 王 を 生 ん で いるも の の、 結 果 的 に忠 平 の
後 れ た こと は、 そ れ が あ ら か じ め 予 定 さ れ た も の で はな か った こと を
が 、 奇 妙 な こと に、 そ の地 位 に確 固 た るも のが 看 取 でき な い。
女 が抜 け て いる のも 不思 議 であ る。 そ し て、 忠 平 の後 継 者 は 実 頼 であ
物 語 って いよう 。
(
追 贈 ) ら れ て お り 、 こ れ に 倣 え ば速 や か に贈 皇 太 后 が 行 わ れ る べき
③ 藤 原 乙牟 漏 や④ 藤 原 帯 子 は 天 皇 の代 替 わ り にと も な い皇 太 后 を 贈
り 、 師 輔 はあ く ま でも 兄 の補 佐 役 であ った。 実 頼 の女 述 子 も 村 上 天 皇
の女 御 と な った が 、皇 子 を 生 む こと も なく 早 世 し、 結 果 的 に安 子 が 次
代 の 天皇 の 母と な った の であ る 。
忠 平 の 没後 に 政権 を確 立 し た実 頼 に と って は 口惜 し い限り であ り 、 そ
か に行 わ れ な か った の であ ろう 。 で は 、 な ぜ方 針 が変 更 さ れ藤 原 安 子
存 在 し て いな い。ま ただ か ら こ そ 、藤 原安 子 に対 す る贈 皇 太 后 は速 や
であ る 。 し か し 、藤 原 安 子 の場 合 は両 例 の ごと き 贈 皇 太 后 の必 要 性 は
の安 子 の立后 を進 ん で実 現 し よう と は し な か った で あ ろう 。師 輔 は 天
に皇 太 后 が 贈 ら れ た ので あ ろう か 。
摂 関家 と し て み れ ば 、皇 太 子 の母 で あ る安 子 の存 在 は重 要 であ る が、
徳 四年 (九 六 〇 ) に 病 没 す る が 、 そ れ が もう 少 し 早 け れ ば立 后 の実 現
あ った も のと 考 え る こ と が で き る ので は な か ろう か 。 冷泉 天皇 と 昌 子
強 い て 可 能 性 を 述 べ れ ば 、 円 融 朝 で の贈 太 皇 太 后 の 前 提 的 作 業 で
村 上 天 皇 が 安 子 に 寄 せ た 信 頼 感 は 大 き か った ろう が 、 一方 で実 頼 と
内 親 王 と の婚 姻 が 早 く か ら 実 現 し て いた こ と か ら す れ ば 、 村 上 天皇 も
さ え危 う か った も のと 思 わ れ る 。
の良 好 な 関 係 を 保 ち つ つ、 後 見 の いな い安 子 の地 位 を 確 固 た る も のと
16
か ろう 。 言 葉 を 換 え れ ば 、 守 平 親 王 の立 太 弟 こそ が突 然 の方 針 変 更 で
藤 原安 子 も 冷 泉 天皇 に皇 統 を 継 承 さ せ よ う と 考 え て いた のは 間違 いな
主 張 し 、 円 融 太 上 天皇 と皇 太 子 懐 仁 親 王 (
後 の 一条 天皇 ) を傍 系 に追
藤 原 懐 子 に皇 太 后を 贈 る こ と に よ って自 ら が 正嫡 で あ る こ と を明 確 に
(
後 の 三 条 天 皇 ) を 生 んだ 。前 節 で検 証 し た ご と く 、 花 山 天皇 が 生 母
藤 原 兼 家 の謀 計 に よ り 花 山 天 皇 が 出 家 ・退 位 し 一条 天皇 の即位 が 実
(20 )
あ った の で あ り 、 事 実 、 こ こ か ら 五 〇年 間 に お よ ぶ皇 統 の 分 裂 が 始
いや った こと か ら 、皇 統 は 冷泉 系 と 円 融系 の 二派 に 分 裂 し て し ま った 。
な ぜ こ のよ う な 重 大 な 方 針 変 更 が な さ れ た のか は 詳 ら か でな いが 、
現 し た 時 にも 、 居貞 親 王 の立 太 子 を 望 む 藤 原 兼 家 と 、 一条 天 皇 の皇 子
(21 )
ま った の であ る 。
当 時 の政 局 を 領 導 し て いた のが 藤 原 実 頼 であ った と す れ ば 、 外 戚 関 係
そ の居 貞 親 王 は、 外 祖 父 であ った 藤 原 兼 家 が 没 す ると 微 妙 な 立 場 に
誕 生 と そ の即 位 を 願 う 円 融 太 上 天 皇 と の問 で意 見 対 立 が あ った 。 結 局 、
立 た さ れ た。 兼 家 の後 を 継 いだ 道 隆 や道 長 は 一条 天 皇 と 居 貞 親 王 (
三
にな い冷 泉 天 皇 に対 す る思 いは 自 然 と 冷 淡 な も の にな った は ず で、 そ
た だ 、 一臣 下た る藤 原 実 頼 が村 上 天皇 と 藤 原 安 子 の思 いを 無 視 す る
条 天皇 ) に そ れ ぞれ 女 を 嫁 が せた が、 一条 天 皇 に は皇 子 が誕 生 し 居 貞
居 貞 親 王 の立 太 子 は 実 現 し た も の の、 居 貞 親 王 は 一条 天 皇 の父 兄 子 と
こと に 関 し て は反 発 が当 然 予想 さ れ る 。 そ こ で 、藤 原 実 頼 は 冷 泉 系 皇
親 王 に は 誕生 し な か った た め、 必 然 的 に 一条 天皇 の皇 統 の存 続 が望 ま
う であ れば 皇 位 の安 定 を 最 優 先 に考 え る の は当 然 であ り 、 そ の結 果 と
統 の存 続 を 留 保 す る た め 、守 平 親 王を 冷 泉 天皇 の (
皇 位 継 承 上 の) 子
れ る よう に な り 、 そ の結 果 、 一条 天皇 は病 没 直 前 ま で皇 位 にあ った の
いう 実 際 の血 縁 関 係 以 上 の関 係 は 設 定 さ れ な か った の であ る。
と し て位 置 づ け た の で は な か ろう か 。 こ のよう に し て守 平 親 王 "円 融
で あ る 。 つま り 、居 貞 親 王 11三条 天皇 は望 ま れ な いま ま 即 位 した の で
し て聡 明 な 守 平 親 王 の早 期 の即 位 を 期 待 した も のと 想 像 さ れ る 。
天皇 の 不安 定 極 まり な い即位 が実 現 し た こ と は前 節 で検 証 した 通 り で
徹 底 さ せ る に は 、 冷 泉皇 太 后 (
で な お か つ円 融 天皇 に と っても 実 母 )
す い構 図 であ った 。 む し ろ 三 条 天 皇 が 解 決 し な け れ ば な ら な か った の
た で あ ろ う が 、 あ る 意 味 で は 冷泉 系 と 円 融系 の皇 統 の分 裂 は わ か り や
敦 成 親 王 の早 期 の即位 を 願う 藤 原道 長 と の確 執 は 三条 天皇 も覚 悟 し
天皇 ) が 立 て ら れ た 。
あ り 、皇 太 子 に は当 然 の ご と く敦 成 親 王 (一条 天皇 皇 子 、後 の後 一条
(22 )
ある。
そ の場合 、右 のご と き皇 位 継 承 を表 明 す る に は 、冷 泉 中 宮 た る昌 子
たる藤原安子を (
円 融 天皇 の) 太 皇 太 后 に 転 上 さ せ る のが 最 も効 果 的
は 、 自 ら が冷 泉 系 皇 統 の正 統 な 後 継 者 で あ る こ と を 宣 言 す る こと で
内 親 王 を (円 融 天皇 の)皇 太后 に 転 上 さ せ れ ば よ い。 し か し 、 こ れ を
であ ろ う 。事 実 、 円 融 天 皇 が 即 位 す る と 速 や か に 藤 原 安 子 に 太皇 太 后
あ った ろう と 思 う 。 即 ち 、 そ の宣 言 こ そ が 生 母 藤 原 超 子 への贈皇 太 后
后 に転 上 し た にも か か わ ら ず 、 花 山 天 皇 は そ の存 在 を 否 定 し 生 母 藤 原
冷泉天皇が即位すると昌子内親王が立后 (
中宮)し、円融朝で皇太
であ った 。
が 追 贈 さ れ 、 昌 子 内 親 王 の皇 太 后 転 上 は 藤 原 婬 子 の立 后 (
中宮)にと
藤 原超 子
も な って行 わ れ て いる 。
(4)
⑩ 藤 原 超 子 は 、冷 泉 天 皇 の女 御 と な り 冷 泉 天 皇 の 譲 位 後 居 貞 親 王
17
'i一
立后 (
中 宮 ) さ れ る のにと も な い、 一条 中宮 の藤 原彰 子 が皇 太 后 、 一
条 皇 太 后 の藤 原遵 子 が太 皇 太 后 に転 上 し た 。 即 ち 、 こ れ に より 両 后 は
懐 子 に皇 太 后 を贈 った 。 さ ら に 一条 朝 では 、 そ の昌 子内 親 王 が太 皇 太
后 に 転 上 し 、 そ の地 位 を復 活 さ せ た 状 況 に な った が 、 三条 天皇 の即位
三条天皇 の (
皇 位継 承 上 の) 母后 と祖 母后 に な った わ け で、形 式 上 は
三 条 天 皇 が 一条 天皇 の子 と な った わ け であ る 。
以前 に 没 し て いる 。
三条 天 皇 は 、 生 母 藤 原 超 子 にあ ら た め て皇 太 后 を 贈 った が 、 注 目 す
円 融皇 后 藤 原 遵 子 と 一条 中宮 藤
原 定 子 、 一条 皇 后 藤 原 定 子 と 一条 中 宮 藤 原 彰 子
た だ 、 一条 朝 に 二例 の二 后 並 立ー
記 事 であ る 。 贈 皇 太 后 にと も な い、 藤 原 超 子 の忌 日 は 国 忌 と な り 墓 は
い る こと か ら す れ ば 、 藤 原 彰 子 を 皇 后 に横 滑 り さ せ る だ け でも よ か っ
べき は そ れ を 記 し た ﹃
権 記 ﹄ 寛 弘 八 年 (一〇 = ) 十 二月 廿 七 日 条 の
山 陵 の扱 いと な る。 同 日 には そ の処 分 が 行 わ れ て いる が 、 藤 原 行 成 は
た は ず で、 これ であ れ ば 三 条 天 皇 と の関 係 は 発 生 し な い。 し か し 、 三
を す で に経 験 し て
﹁
華 山 母者 、 於 二当 今 一為 二嫡 母 汽 是 二等 也 ﹂ と 記 し て いる 。
構 築 でき るだ け に、 そ の手 続 き に注 文 を 付 け る こと を 躊 躇 した の であ
条 天 皇 と し て は、 中 宮 の藤 原 妖 子 を 介 し た 藤 原 道 長 と の良 好 な 関 係 が
冷 泉 天 皇 の正 嫡 の皇 后 (H嫡 妻 ) であ り 、 そ の他 のキ サ キ (H妾 ) が
ろう 。
花 山 天 皇 の生 母 であ る贈 皇 太 后 藤 原 懐 子 は、 藤 原 行 成 にし て みれ ば 、
生 んだ 皇 子 はす べ て庶 子 であ った 。 従 って、 冷 泉 天 皇 の庶 子 であ る三
条 天皇 にと って藤 原 懐 子 は嫡 母 に他 な らな か った の であ る。 藤 原 行 成
⑪ 藤 原嬉 子 は、 皇 太 弟 敦 良 親 王 (
後 の後 朱 雀 天皇 ) の妃 と な って親
藤原嬉子
う し た表 現 は な いか ら 、右 の評 価 は藤 原行 成 の み の意 見 と も 思 わ れ る
仁王 (
後 の後 冷 泉 天皇 ) を 生 んだ 。 藤 原 道 長 の女 であ る こと から す れ
(5)
が 、翻 って見 れ ば 、花 山 天皇 に近 し い人 々か ら は 三条 天皇 はあ く ま で
ば 、後 朱 雀 天皇 の即 位 ま で存 命 であ れば 当 然 立 后 し て いたも のと 思 わ
は伊 サ の孫 で 、藤 原 懐 子 は叔 母 に当 たり 、 同 じ 日 の ﹃
小右記﹄ にはそ
も 庶 流 と見 倣 さ れ て いた こ と を物 語 って いる 。
所 生 であ る 自 分 こそ が 冷 泉 天 皇 の正 統 な る 後 継 者 であ る と 宣 言 し た の
原 懐 子 も 否 定 し 、 藤 原 超 子 こそ が 冷 泉 天 皇 の正 嫡 の皇 后 であ り 、 そ の
冷 泉 天皇 の正 統 な る 後 継 者 の母 (H冷 泉 天 皇 の正 嫡 の皇 后 ) と し た藤
太 后 ("皇 位 継 承 上 の祖 母 后 ) と 認定 し た 昌 子内 親 王も 、花 山 天皇 が
娠子 (
敦 康 親 王 女 、 藤 原 頼 通 養女 ) の立 后 (
中 宮 ) の前 提 作業 と し て
立后 (
中 宮 ) は 即 位 の翌年 に行 わ れ てお り 、 そ の直 後 に 行 わ れ た藤 原
条 天 皇 ) を 生 み 、後 朱 雀 天皇 が 即 位 す る と 中 宮 に 冊 立 さ れ た 。 た だ し 、
誕 生 が 期 待 で き る 一五歳 に な る と す ぐ に 妃 と な り 、尊 仁 王 (
後 の後 三
嬉 子 の亡 き 後 、禎 子内 親 王 (三条 天皇 皇 女 、 母 は藤 原妊 子) が皇 子
れる。
であ る 。 ま た 同 時 に、 円 融 中 宮 で 一条 朝 で皇 太 后 に 転 上 し て いた 藤 原
の性 格 が 強 く 、 禎 子内 親 王 の立 后 自 体 が 当 初 か ら 予 定 さ れ て いた も の
三条 天皇 が こ のよう な感 情 を快 く 思う は ず は なく 、 一条 天皇 が太 皇
遵 子 が 自 分 と は 無 関 係 (11三 条 朝 では 無 力 ) であ る こと を 表 明 す る も
か ど う か は 疑 わ し い。
あ る いは 、 あ る 時 点 で予 定 が 変 更 さ れ た 可 能 性 も 高 い。 藤 原 道 長 が
の であ った こと は 言 う ま でも な い。
た だ し 後 日 談 を 言 え ば 、 藤 原 道 長 の巻 き 返 し が あ った 。 藤 原 妊 子 が
18
禎 子 内 親 王 を 藤 原 氏 の いわ ゆる ﹁后 が ね ﹂ と し て大 切 に し て いた こ と
後 朱 雀 天 皇 は 病 没 直 前 ま で皇 位 に あ った 。
王 は 皇 子 女 に恵 ま れ ず 、 皇 位 継 承 の将 来 像 が 不 明 な た め であ ろ う か 、
後冷泉天皇は、即位後直ちに生母藤原嬉子に皇太后を贈り、さらに
は 事 実 であ る が 、 そ の 一方 で、 上 東 門 院 (
藤原彰子)や藤原頼通が同
じ 考 え であ った か ど う か は 疑 わ し い。 藤 原 娠 子 の立 后 が 禎 子 内 親 王 の
あ る 。 た だ 、 重 要 な こ と は 後 冷 泉 天 皇 の受 禅 と 同 時 に 尊 仁 親 王 が 立 太
翌 年 に章 子 内 親 王 を 立 后 (
中 宮 ) し た 。 即 ち 、 後 冷 泉 天 皇 家 の確 立 で
し か し 、 藤 原 源 子 は 皇 子 を も う け な いま ま 早 世 し 、 後 冷 泉 天 皇 の即
子 し た こと であ る 。 受 禅 と 立 太 子 が 同 時 に 行 わ れ た のは 、 花 山 天 皇受
地 位 を 無 視 し た も の であ った こと は 確 か であ ろう 。
位 時 には 禎 子 内 親 王 が 後 朱 雀 天 皇 の嫡 后 の地 位 にあ った 。 後 冷 泉 天 皇
冷 泉 ・円 融 の例 に 端 的 に 現 れ た ご と く 、 兄 弟 聞 の皇 位 継 承 は 必 然 的
禅 ・懐 仁 親 王 立 太 子 と 三 条 天 皇 受 禅 ・敦 成 親 王 立 太 子 の 二例 のみ で あ
尊 仁 王 が 誕 生 し た 時 、 親 仁 王 は 自 分 が 将 来 皇 太 子 に な れ る のか ど う
に皇 統 が 分 裂 す る危 険 性 を は ら ん で いた 。 敦 良 親 王 (
後 の後 朱 雀 天
にす れ ば 、 あ く ま でも 本 来 は 藤 原 嬉 子 が 後 朱 雀 天 皇 の嫡 后 だ った の で
か さ え 不安 に思 った ので は な か ろう か 。 ﹃
神 皇 正 統 記 ﹄ で後 三条 天 皇
皇 ) の立 太 弟 は 、 敦 明 親 王 (
小 一条 院 ) の辞 退 を 受 け た も の で、 十 分
り 、 これ ら は いず れ も 皇 統 が 分 裂 し た 緊 迫 状 態 の中 で 行 わ れ た も ので
が ﹁両 流 を 内 外 に 受 け 給 ひ て、 継 体 の主 と な り ま し ま す ﹂ と 評 さ れ て
な 理 由 が あ った 。 そ れ に 対 し て、 後 冷 泉 天 皇 の場 合 は 早 期 に 皇 太 子 を
あ り 、 尊 仁 王 の存 在 も 含 め て禎 子 内 親 王 は 自 分 の地 位 を 否 定 し か ね な
いる のは 、 父 系 (ーー内 ) に円 融 系 皇 統 を 継 承 し な が ら 、 母 系 (11外 )
定 め な け れ ば な ら な い理 由 は な く 、 後 朱 雀 朝 末 の時 点 では 、 後 冷 泉 天
あ った 。
に冷 泉 系 皇 統 を も 受 継 ぎ 、 一時 期 分 裂 し た 皇 統 を 一身 に 統 合 し 体 現 し
皇 の即 位 と 尊 仁 親 王 の立 太 子 を 同 時 に 実 現 す る こ と で妥 協 が 成 立 し た
いも の であ った 。
た 正 統 の天 皇 と いう 意 味 であ る 。 も し 、 こ のよ う な 考 え 方 が こ の時 期
と 考 え る 他 な いと 思 う 。
憶 測 を た く ま し く す れ ば 、 こ のよ う な 妥 協 を 成 立 さ せ た のは 藤 原 頼
にも 存 在 し た と す れ ば 、 尊 仁 王 の存 在 は 絶 対 的 であ る 。 そ し て、 父 敦
良親王 (
後朱雀天皇)が即位した時、禎子内親王が皇后となり尊仁親
通 であ った と 思 う 。 も ち ろ ん 、 ﹃
愚管抄﹄ にあるごとく、藤 原能信 の
尊 仁 親 王 の立 太 弟 を 明 記 さ せ た のだ が 、 最 終 的 に 藤 原 頼 通 が そ れ を受
王 が 皇 太 子 と な れ ば 、 極 め て明 瞭 な 皇 位 継 承 の構 図 が 描 け る 。 そ こ で
親 仁 親 王 の立 太 子 は 後 朱 雀 天 皇 の践 酢 か ら 一年 以 上 も た って か ら 行
諾 し な け れ ば 実 現 し な か った こ と であ る 。 そ の 意 味 で、 藤 原 頼 通 が
機 転 によ って、 病 没 直 前 の後 朱 雀 天 皇 が 藤 原 頼 通 に命 じ て譲 位 宣 命 に
わ れ て いる 。 こ れ が 遅 いか ど う か は 判 断 が む つか し いが 、 こ の時 点 で
(
消 極 的 で あ った かも し れ な い が) 尊 仁 親 王 の立 太 弟 を 後 押 し し た と
は 親 仁 親 王 は 不 要 な 存 在 な の であ る 。
は 尊 仁 親 王 が 立 太 子 す る 可 能 性 も 十 分 考 え ら れ た 。 ま た 、親 仁 親 王 は
言 ってよ か ろう と 思 う 。
本 当 に 自 分 を 後 見 し てく れ る と 確 信 し た のは 、 章 子 内 親 王 (後 一条 天
皇 子 が 誕 生 し てお ら ず 、皇 位 継 承 の予 定 が こ の時 点 で は ま った く 立 た
藤 原 頼 通 が こ のよ う な 選 択 を し た のは 、 親 仁 親 王 に も 尊 仁 親 王 に も
(23 )
立 太 子 し ても 安 心 でき な か った も のと 思 わ れ 、 上 東 門 院 や 藤 原 頼 通 が
皇皇 女 ) が 妃 と し て配 さ れ た 時 では な か った ろ う か 。 た だ 、章 子内 親
19
原 氏 と 外 戚 関係 に な い天皇 の 即位 が実 現す る こと であ った。 藤 原 頼 通
な か った か ら で あ ろう 。藤 原頼 通 が 恐 れ た のは 、皇 統 の分 裂 より も 藤
た女 性 で あ る 。
は藤 原 公成 の女 であ り 、 こ れ 以後 の閑 院 流 藤 原氏 の隆 盛 の端 緒 を 開 い
に不 安 があ る藤 原頼 通 は そ れを 必 要 以上 に恐 れ た の で はな か ろう か。
た 事 態 が起 こ っても 藤 原氏 の政 権 は揺 る が な いの であ ろう が、 指 導 力
子 内 親 王 と 白 河 天皇 の間 に形 式 的 では あ っても 母 子 関 係 を 認 め る こと
が白 河 天皇 の継 母 であ ると 見 え て いる。 継 母 は養 母 と は異 な るが 、 馨
が 、 ﹃兵 範 記 ﹄ 嘉 応 元年
茂 子 は 、後 三条 天 皇 の即 位 を 待 た ず 康 平 五年 (一〇 六 二) に没 す る
そ う し た 意 味 も あ って か、 藤 原 頼 通 は (
贈 皇 太 后 藤 原 嬉 子 こそ が 後
に は違 いな く 、 白 河 天 皇 にす れ ば 、 そ のよ う な 関 係 を 押 し つけ ら れ る
が 三条 天皇 を 譲 位 に追 い込 んだ 父道 長 の よう な 剛 腕 であ れば 、 そう し
朱 雀 天 皇 の本 来 の嫡 后 であ ると いう 後 冷 泉 天皇 の意 思 表 明 にも か か わ
の は釈 然 と しな か った も のと 思 わ れ る。
子 内 親 王 の皇 太 后 転 上 は 贈 皇 太 后 藤 原 嬉 子 の地 位 を 単 な る礼 遇 上 の意
と と な った 。 寛 子 の立 后 は 中 宮 章 子 内 親 王 と 対 立 す る も の であ り 、 禎
立后 (
皇 后 ) さ せ 、 そ れ にと も な い禎 子 内 親 王 は 皇 太 后 に転 上 す る こ
た った 永 承 六 年 (一〇 五 一) にな り 、 藤 原 頼 通 は 実 の女 であ る寛 子 を
て い る のは 驚 く べき こ と であ る 。事 実 、 後 三 条 天皇 は白 河 天皇 に譲 位
の冷 泉 ・円 融 の皇 統 分 裂 が いま だ に 対 立 の火 種 と し てく す ぶ り つづ け
条 院 の孫 女 であ った 。 後 三 条 天 皇 は 三 条 天 皇 の外 孫 であ り 、 一世 紀前
即 位 を 望 んだ こと であ る 。 実 は 、 実 仁 親 王 の生 母 であ る源 基 子 は 小 一
白 河 天 皇 の いま 一つの気 掛 か り は 、 後 三 条 天 皇 が 次 子 の実 仁 親 王 の
(一一六 九 ) 十 二月 十 五 日条 に は 馨 子 内 親 王
ら ず ) 禎 子 内 親 王 と 一定 の和 解 を し た も のと 思 わ れ る。 即 位 か ら 六 年
味 し か 有 し な いも の に変 質 さ せ る 行 為 に他 な ら な か った 。
天皇 の地 位 を危 う く す る こ と に 他 な ら な か った 。尊 仁 親 王 に長 子貞 仁
期 天皇 と し て の地 位 が 固 ま った の であ り 、 そ れ は 取 り も直 さず 後 冷 泉
仁 親 王 の妃 に 立 てら れ てお り 、 これ に よ って名 実 と も に尊 仁 親 王 の次
ま わざ る を え な い のであ り 、白 河 天皇 にと っては自 ら の血脈 が 天皇 家
の の、 実 仁 親 王 の即位 が実 現す れ ば白 河 天皇 は傍 系 に追 いや ら れ てし
を 廃 し て実 仁親 王 を 立太 子 さ せ よう と考 え て いた と ま では 言え な いも
も ち ろん 、後 三条 天皇 が い った ん 立太 子 し た貞 仁 親 王 (
白 河 天皇 )
す る と と も に実 仁 親 王 を 立太 子 さ せ た の であ る 。
(一〇 五 三) で
こ の九 カ 月 後 には 、 馨 子 内 親 王 (
章 子 内 親 王 の同 母 妹 ) が皇 太弟 尊
王 (
後 の白 河 天皇 ) が 誕 生 す る のは 二年 後 の天喜 元年
と し て生 き残 れ る かど う か の重 大 問 題 であ った 。
さら に白 河 天 皇 は 、 藤 原 賢 子 の立 后 (
中 宮 ) に際 し て、 皇 太 后 藤 原
后 だ った のであ る。
た ち で表 明 す る必 要 が あ った 。 即 ち 、 それ が生 母 藤 原 茂 子 への贈 皇 太
換 え れ ば 、後 三条 天 皇 や馨 子 内 親 王 の影 響 下 に はな いこと を 明 確 な か
と のな い天皇 であ ると いう こと を 示 さな け れ ばな らな か った。 言 葉 を
こ のよう な状 況 下 に即 位 し た白 河 天皇 は 、自 分 が何 にも 侵 さ れ る こ
あ り 、 な ぜ 藤 原 頼 通 が こ の時期 に方 針 を 変 え た のか は詳 ら か でな いが 、
藤原茂子
こ れ に よ って後 冷 泉 天皇 が 最も 重 要 な支 援 者 を 失 った こと は 間違 いな
か ろう 。
(6)
⑫ 藤 原 茂 子 は 、皇 太 弟 尊 仁 親 王 に 入内 し貞 仁 王 (
後 の白 河 天 皇 ) を
生 んだ 。 茂 子 は 、藤 原 頼 通 の異 母 弟 能 信 の女 と し て入 内 し た が 、 実 際
20
す る の は 一見 す ると 順 当 な 中 宮 職 の名 称 変 更 な のであ るが 、 馨 子 内 親
る から 、 後 三条 天 皇 の妻 后 であ る馨 子 内 親 王 に先 んじ て皇 太 后 に転 上
王 は皇 后 に横 滑 り さ せ る に止 めた 。 藤 原 歓 子 は後 冷 泉 天 皇 の妻 后 であ
寛 子 を 太 皇 太 后 に、 皇 后 藤 原 歓 子 を 皇 太 后 に転 上 さ せ 、 中 宮 馨 子 内 親
れ な い。
考 え る余 地 も あ る が、 令 子 内 親 王 の例 を 見 ると 単 純 にそ う と は言 い切
影 響 し て堀 河 朝 の こ ろ には す で に世 計 に関 心 を 払 わ な く な って いた と
お いて章 子 内 親 王 が 太 皇 太 后 に転 上 し て いる 特 殊 な 例 が あ り 、 これ が
た だ 次 節 で見 るご と く 、 後 冷 泉 朝 にお い て禎 子 内 親 王 が 、 後 三 条 朝 に
令 子内 親 王 は鳥 羽 天皇 の准 母と し て皇 后 にな った が、 藤 原 泰 子 が鳥
王 の継 母 と いう 地 位 を 尊 重 す れ ば 、皇 后 藤 原歓 子 はそ のま ま でま った
(24 )
く 問 題 は な い のであ る か ら 、 中宮 馨 子内 親 王を 皇 太 后 に転 上 さ せ る の
いる 。 当 時 は崇 徳 天皇 の中宮 と し て 藤 原 聖 子 が在 位 し た だ け で皇 太 后
(
太 上皇 后 ) に 冊立 さ れ る のに際 し て太 皇 太 后 に転 上 し て
つま り白 河 天皇 は 、 後 三 条 天皇 の意 思 に は ま った く 関係 な く 、白 河
位 は 空 位 であ った 。普 通 に考 え れ ば 、令 子内 親 王 は皇 后 か ら皇 太后 に
羽 院 の皇 后
朝 にお け る 母 后 は 贈皇 太 后 藤 原 茂 子 であ り 、 妻 后 は 中宮 藤 原賢 子 で あ
転 上 し て何 の問 題 も な いに も か か わ ら ず 、 崇 徳 天 皇 と の世 計 が 問 題 と
が 最良 の措 置 で あ ろう と 思う 。
ると 宣 言 し た の であ る 。 実 仁 親 王 が 早 世 す ると 、 三 弟 の輔 仁 親 王 (
母
な り 異 例 の太 皇 太 后 転 上 と な った の であ る 。
贈 太 皇 太 后 も そ れぞ れ にし か る べき 理 由 が あ った と 考 え る べき であ ろ
だ と す れば 、 禎 子 内 親 王 や章 子 内 親 王 の太 皇 太 后 転 上 も 藤 原 賢 子 の
は 源 基 子 ) を 立 太 弟 さ せ よ と いう 後 三条 天 皇 の遺 志 を 無 視 し て、 皇 子
善仁親王 (
後 の堀 河 天 皇 ) を 立 太 子 さ せ即 日譲 位 し た のは 周 知 のご と
く であ る。
う 。 そ こ で注 目す べき は ﹃
本 朝 世 紀 ﹄ 寛 治 元 年 (一〇 八七 ) 十 二月 廿
は 平安 初期 に 三 例あ る が 、藤 原安 子 の 例 が最 も 近 い例 であ り 、右 は そ
入 日条 の ﹁依 二冷 泉 ・円 融 母 后 例 一
也 ﹂ と いう 一節 であ る。 贈 太 皇 太 后
*藤 原賢 子 は 、白 河 天皇 の中宮 と な って善 仁 親 王 (
後 の堀 河 天皇 )
れ だ け の意 味 と も考 え ら れ る 。 し か し 、藤 原賢 子 の贈 太 皇 太 后 の意 義
藤原賢子
を 生 ん だ 。 実 際 は 源 顕 房 の女 な が ら 、 藤 原 師 実 の猶 子 と し て 入内 し て
を 知 る 唯 一の手 が か り で あ る こ と を 思 え ば 、 以 下 のご と き 状 況 を想 定
(7)
お り 、 嫡 后 の地 位 を 得 た と 考 え て 間 違 いあ る ま い。 た だ 、賢 子 は 堀 河
す る 価 値 も あ ろ う と 思う 。
て い るが 、 これ は
と いう 皇 位 継 承 上 の世 計 に基 づ いた も の であ る。 堀 河 天 皇 は自 らを 円
藤原安子 (
贈太皇太后)
冷泉天皇 村上天円
皇融
天皇
冷 泉 ・円 融 両 天 皇 の母 で あ る 藤 原 安 子 は 円 融 朝 で太 皇 太 后 を 贈 ら れ
天 皇 の即 位 を 持 た ず に 没 し 、 堀 河 天 皇 の即 位 後 に 太皇 太 后 を 贈 ら れ た 。
堀 河 天 皇 の母 后 であ る か ら 贈 皇 太 后 でな け れ ば な ら な いは ず で あ り 、
(25 )
関 係 史 料 を 見 ても ﹁母 儀 ﹂ と あ って認 識 に混 乱 は な く 、 な ぜ 贈 太 皇 太
后 な のか 説 明 に窮 す る。
一つ考 え ら れ る のは 、 堀 河 天 皇 に は継 祖 母 に当 た る 馨 子 内 親 王 への
対 抗 上 の措 置 と いう 可 能 性 であ る が、 そ れ が 目的 であ れ ば 、 藤 原 茂 子
に太 皇 太 后 を 追 贈 し、 藤 原 賢 子 を 贈 皇 太 后 と し た方 が合 理 的 であ ろう 。
21
堀河天皇
融 天 皇 にな ぞ らえ た こと にな る が 、 こ れを 活 か そう と す れば 次 の よう
な 世 計 が想 定 でき る 。
=
白河天皇 - 皇太子実仁親王 (
早世)
藤原賢子 (
贈太皇太后)
藤 原藪 子 は 承徳 二年 (一〇九 八) に入 内 し女 御 と な った が、 閑 院 家
は後 の ご とき 勢 力 を いま だ 有 し て お らず 、苡 子 に は次 代 の 天皇 を 生 ん
だ 功 績 し か与 え ら れな か った 。 政 子 は皇 太 后 を 贈 ら れ、 そ の父 実 季 は
正 一位 太 政 大 臣 を 贈 ら れ た が 、 そ の 一方 で は、 中 宮 篤 子 内 親 王 が 没 す
ると 鳥 羽 天皇 の継 母 と し て の礼 遇 (H服 一日) がな さ れ て いる。
そ の後 継 を 輔 仁 親 王 (
実 仁 親 王 の同 母 弟 ) と 争 って即 位 を 実 現 し た 。
ると 前 例 に基 づ い て行 わ れ る儀 礼 的 措 置 にな った 感 が 強 い。 た だ 、 輔
母 ) の地 位 か ら排 除 す る意 味 は あ ま り な く 、 贈 皇 太 后 も こ の こ ろ にな
思 え ば 、 篤 子内 親 王 を 堀 河 天 皇 の妻 后 (H鳥 羽天 皇 の皇 位 継 承 上 の
実 際 は 実 仁 親 王 は 皇 太 弟 であ り 、 白 河 天 皇 は 傍 系 と な る宿 命 を 負 って
仁 親 王 を いま な お支 持 す る 勢 力 が あ る こ と が 白 河 院 に は 気 掛 か り で
実 仁 親 王 が 皇 太 子 であ った こと は動 か せな い事 実 であ り 、 堀 河 天 皇 は 、
いた の であ るが 、 堀 河 天 皇 の即 位 に際 し てそ れ を 直 系 に変 更 し 、 逆 に
あ った も のと 思 わ れ 、 これ を 牽 制 す る意 味 でも 、 皇 位 継 承 の関 係 を 明
藤 原酪 子
⑭ 藤 原 酪 子 は、 雅 仁 親 王 (
後 の後 白 河 天 皇 ) の室 と な り 守 仁 王 (
後
(9)
確 にし てお く 必 要 が あ った の であ ろう 。
傍 系 の輔 仁 親 王 の立 太 子 を 避 け た 正 当 性 を 主 張 し た も のと 思 わ れ る。
も ち ろ ん、 こ のよ う な 思 考 過 程 が 読 み取 れ る史 料 は な く 、 ま た あ つ
た と し ても そ れ 自 体 が 誰 弁 にす ぎ な いが 、 いか な る手 段 を 講 じ ても 堀
河 天 皇 の正 統 性 (11輔 仁 親 王 に対 す る優 位 性 ) を 主 張 し よ う と し た 必
死 の思 いが 看 取 でき るも のと 思 う 。
の 二 条 天 皇 ) を 生 んだ 。守 仁 王 は 雅 仁 親 王 が 一七 歳 の時 の第 一子 で
は な か った 。 し か も 、 母 の藤 原 酪 子 は 出 産 直 後 に 亡 く な り 、後 見 を 唯
あ った が 、 誕 生 の時 は 近 衛 天皇 が在 位 し てお り 雅 仁 親 王 に 皇 位 の望 み
⑬ 藤 原苡 子 は⑫ 藤 原 茂 子 の姪 で、 藤 原 璋 子 (
待 賢 門 院 ) に は叔 母 に
一期 待 でき る外 祖 父 藤 原 経 実 (H師 実 の三 男 ) も 高 位 高 官 は あ ま り 望
藤 原苡 子
当 た る。苡 子 は 、 堀 河 天 皇 の女 御 と な り 宗 仁 親 王 (
後 の鳥 羽 天皇 ) を
め な い状 況 にあ った か ら 、 守仁 王 の即位 な ど 思 いも つか な か った こ と
(8)
生 ん だ が 、 産 後 の肥 立 ち が 悪 く 直 後 に 死 去 し た 。
一) に な ってよ う や く 篤 子内 親 王 が 入内 し 、 同 七年
(一〇 九 三 ) に 立
皇 に 入 内 し た も の は お ら ず 、 即 位 か ら 五年 た った 寛 治 五 年 (一〇 九
て 一人 天 皇 家 を支 え る存 在 と な った 。実 は 、後 白 河 天皇 の即位 は (
美
没 し た のを 契 機 と し て起 こ った保 元 の乱 で兄崇 徳 院 を破 り 、結 果と し
と こ ろが 、 近 衛 天皇 の急 逝 に よ って後 白 河 天皇 が 即 位 し 、鳥 羽院 が
であ ろう 。
后 (
中 宮 ) し て いる 。 篤 子内 親 王 は 、 後 三 条 天皇 皇 女 で白 河 天皇 の同
福 門 院 の猶 子 と な って いた) 守 仁 王 の即位 を前 提 と し て実 現 し たも の
堀 河 天皇 の後 宮 に つ い て見 れ ば 、 奇 妙 な こと に 、 高官 の女 で堀 河 天
母妹 であ る 。 祖 母 の陽 明 門 院 (
禎 子内 親 王 ) に養 女 と し て後 見 を受 け
であ り 、事 実 、後 白 河 天皇 の践酢 と 同時 に守 仁 親 王 の立太 子 が行 わ れ
(26 )
た ら し く 、 ま た 藤 原 師 実 の養 女 と し て入内 ・立后 し たも のら し い。
22
塵, 司
ー
た 。 つま り 、 言 い方 を 換 え れ ば 、 後 白 河 天 皇 は 守 仁親 王 の お か げ で 天
孫に当たる。
藤 原 基 実 の補 佐 を受 け つ つ独 自 に 国 政 を 運 営 し た 。 二条 天皇 に は 、崇
保 元 の乱終 息 後 時 を 置 か ず に 後 白 河 天皇 は 譲 位 し 、 二条 天皇 は 関白
母 弟 の順 徳 天 皇 に 譲位 し た 結 果 、皇 統 上 は傍 流 と な り 、邦 仁 王 に は親
い った 。 そ の間 、源 通 親 と いう 強力 な後 見 を失 った 土御 門 天皇 は 、異
の主 と し て自 由 に活 動 す る よう に な る 中 で鎌 倉 幕 府 への 反感 を 強 め て
源 通 親 が 没 し て そ の管 理 下 か ら脱 し た後 鳥 羽院 は 、名 実 と も に朝 廷
徳 天皇 以 来 の皇 統 の混 乱 を 整 理 し 正 統 な 皇 統 を 確 立 す る のが自 ら の役
王 宣 下 さ え な か った 。
皇 に な れ た ので あ る 。
目 で あ る と いう 自 負 が あ った も のと 思 わ れ 、 だ か ら こ そ 、後 白 河 院 に
姉 )、 中 宮 藤 原 折 子 (
後白 河妻后)が在位 した。二条天皇 は、美福 門
后藤原呈子 (
近 衛 妻 后 )、皇 后 統 子 内 親 王 (
二条准母、後白 河院同 母
二条 天 皇 の 即 位 時 、 後 宮 に は 太 皇 太 后 藤 原多 子 (
近 衛 妻 后 )、 皇 太
嘗 祭 も 行 わ な いま ま廃 さ れ て し ま った ので あ る 。 土御 門 院 は こ の謀 議
乱 )、 後 鳥 羽 院 は 隠 岐 に 、順 徳 院 は 佐 渡 に 流 罪 と な り 、 仲 恭 天皇 は 大
事 に 当 た ろ う と し た 。 し か し 、 周 知 のご と く朝 廷 側 は 惨敗 し (
承久 の
そ の意 を 受 け た 順徳 天皇 は 仲恭 天皇 に 譲位 し 、 院と いう 身 軽 な 立場 で
そ の後 、 源 実朝 の暗 殺 を 契 機 と し て後 鳥 羽 院 は幕 府 打 倒 を 決意 し 、
院 (㎜近 衛 天皇 の生 母 ) の猶 子 と し て 皇 位 を 獲 得 し た 一面 を持 つか ら 、
に は 無 関 係 であ ったも の の 、自 主 的 に 土佐 (
後 に 阿 波 ) に 退去 し 、幕
よ る 国 政 への干 渉 を 許 さ な い姿 勢 を 示 し た ので あ る 。
近 衛 天皇 と の関 係 を持 つ太皇 太 后 ・皇 太 后 の地 位 を尊 重 し な け れ ば な
府 に 対 し て恭 順 の意 を 示 し た 。
事 態 の収 拾 を 図 る幕 府 は 、 後鳥 羽 院 の皇 統 を 避 け て 、後 鳥 羽 院 の同
ら ず 、 ま た 一面 で は 、 父 で あ る 後 白 河 院 の禅 譲 を受 け て 即 位 し た こ と
も事 実 で あ る か ら 、 後 白 河 院 に 敬 意 を 払 う 意 味 で 、皇 后 ・中 宮 に 対 す
段 と し て は 、 生 母 で あ る 藤 原 繋 子 への贈 皇 太 后 し か な か った も のと 思
結 局 、 こ のよ う な 状 況 の下 で 二 条 天 皇 が自 ら の正統 性 を主 張 す る手
絶 し た 。 こ の状 況 下 で 、 朝 廷 は 順 徳 院 の皇 子 忠 成 王 の即 位 を 期待 し た
る 四 条 天 皇 が 継 いだ が 、 一二 歳 で 早 世 し た た め 、 後 高倉 院 の皇統 は 断
堀 河 天 皇 と し て 擁立 し た 。 そ し て 、後 堀 河 天皇 の後 は そ の唯 一子 で あ
母 兄 で あ る 守 貞 親 王 に後 高 倉 院 の称 号 を 賜与 し 、 そ の王 子 茂 仁 王 を後
わ れ る 。 生 前 の藤 原 酪 子 は 女 御 や 皇 太 子 の妃 に さ え も な れ な か った の
が 、 幕 府 は こ れ を 嫌 い、 土 御 門 院 の遺 児 邦 仁 王 を擁 立 し た 。 後嵯 峨 天
る 礼 遇 に も留 意 し な け れ ば な ら な か った 。
で あ り 、 贈皇 太 后 は そ のよ う な 母 へのせ め ても の表 敬行 為 で あ る と と
皇である。
土 御 門 天 皇 に は藤 原 麗 子 が 中 宮 と し て 立 て ら れ 、 後 に 陰 明 門 院 と な
も に 、 何 の地 位 も な い藤 原 酪 子 を 皇 太 后 に す る こ と が で き る自 身 の天
皇 と し て の権 力 を 明 示 す る も の であ った のだ ろ う 。
り 後 嵯 峨 天 皇 の即 位 時 に は存 命 で あ った 。 ま た 、 後 嵯 峨 天 皇 の即 位 時
に は 三 后 は 在 位 し な か った が 、 女 院 に は修 明 門 院 (
順 徳 院 生 母 )・東
一条 院 (
順 徳 妻 后 、 仲 恭 天皇 生 母 )・安 嘉 門 院 (
後 堀 河 准 母 )・安 喜 門
源 通 子
*源 通 子 は 、 土 御 門 天 皇 の女 御 と な り 邦 仁 王 (
後 の後 嵯 峨 天皇 ) を
院 (
後 堀 河 妻 后 )・鷹 司 院 (
後 堀 河 妻 后 )・式 乾 門 院 (
四条 准 母)が
(10)
生 ん だ 。 土 御 門 天皇 の母 源 在 子 は 通 親 の女 (
養女)で、通子は通親 の
23
(27 )
か った か ら であ る。 即ち 、 嫡 流 の宣 言 が生 母源 通 子 への贈 皇 后 であ っ
る 必 要 が あ った 。 傍 流 の皇 統 に 連 な る 女 院 な ど 何 人 いて も 問 題 は な
ら の皇 統 を 嫡 流 と位 置 づ け 、順 徳 系 や後 高 倉 系 の皇 統 を 傍 流 に 固定 す
後 嵯 峨 天皇 は 、右 に見 た複 雑 な皇 位 継 承 の経 過 を 整 理す る中 で 、自
が厳 然 と し てあ った の であ り 、 皇 位 継 承 問 題 や複 数 の政 治 勢 力 間 の主
れ の后 位 にあ る、 も しく は新 た な 后 位 に転 上 す る こと に は政 治 的 意 味
の存 在 意 義 は 認 めら れな いが、 そ れ でも 、あ る 天皇 の治 世 下 で それ ぞ
よう に 思う 。 た し か に、 平 安 時 代 の 三后 に は光 明皇 后 (
皇 太 后 ) ほど
え られてきた (
あ る いは そ の意 味 の大 き さ が指 摘 さ れ て こ な か った)
た も ので あ り 、 そ れ ぞ れ の称 号 に つ いて さ し た る意 味 は な か ったと 考
た 。 史 料 に よ って は贈 皇 太 后 と あ り 、 こ の方 が合 理 的 と も 言 え る が、
導 権 争 いを 正 しく 理 解 す るた め に は、 后 位 の持 つ意 味 を 再 確 認 す る必
いた 。
近 衛 天 皇 の生 母 であ る 藤 原 得 子 が 近 衛 天 皇 の即 位 式 の日 に 立 后 (
皇
要 があ る。
四 章子内親王の后位転上
后 ) し た 例 か ら す れ ば 、 贈 皇 后 でも 不 適 当 では な い。後 嵯 峨 天 皇 に
と っては 、 土 御 門 系 皇 統 の復 活 と そ の正 統 性 を 表 明 す る こと が でき れ
ば 十 分 だ った の であ る。
あ り 、 一二歳 の長 暦 元 年 (一〇 三 七 ) 後 朱 雀 天 皇 の皇 太 子 に冊 立 さ れ
章 子 内 親 王 は 後 一条 天 皇 の第 一皇 女 で、 母 は 藤 原 道 長 の三女 威 子 で
以 上 、 検 証 し た き た 結 果 を 総 合 的 に評 価 す れ ば 、 贈 皇 太 后 は 、 早 世
た ば か り の親 仁 親 王 (
後 の後 冷泉 天皇 ) の妃 と な った 。 そ し て、後 冷
括
し た た め 礼 遇 が いま だ 加 え ら れ て いな か った 天 皇 の生 母 に 対 し あ ら た
泉 天 皇 が 即 位 す ると 中 宮 に 冊 立 さ れ た が 、 後 冷 泉朝 末 に 藤 原歓 子 が 立
小
め て相 応 の礼 遇 を 加 え る と いう 以 上 に 、 そ の天皇 の皇 位 継 承 上 の位 置
后 (
皇 后 ) さ れ る のに とも な い皇 太 后 に 転 上 し て いる 。 こ れ 以前 、藤
原寛子が立后 (
皇 后 ) し てお り 、 こ れ で後 冷 泉 天皇 に 三 人 の妻 后 が在
づ け を 明 確 に 示 す 意 味 が あ った と 結 論 でき よう 。
多 く の場 合 、 天皇 の正 統 性 を 明 示 す る 行 為 であ った が 、第 一 ・第 二
過 程 でも 、対 抗 す る実 仁 親 王 ・輔 仁 親 王 に対 す る正 統 性 ・嫡 流 性 を 主
か った が 、 ︿後 三 条 - 白 河 ー 堀 河 ー 鳥 羽 ﹀ と いう 直 系 皇 統 が 守 ら れ た
泉 系 ・円 融系 の分 裂 の際 に特 徴 的 に 現 れ た 。結 果的 に皇 統 は分 裂 し な
た が 、 三后 鼎立 は前 代 未 聞 であ る。 し かも 、付 置 す る中 宮 職 の名 称 を
后 禎 子内 親 王 と中 宮 藤 原 娠 子 な ど 、 平 安 後 期 に はす で に 一般 的 と な っ
中 宮 藤 原彰 子 、 三条 朝 の中 宮 藤 原 妊 子 と 皇 后 藤 原鍼 子 、後 朱 雀 朝 の皇
一人 の天皇 に 二 人 の皇 后 が並 立 す る例 は 、 一条 朝 の皇 后 藤 原 定 子 と
位 す る こと に な った の であ る (
第 3図参 照 )。
張 す る た め贈 皇 太 后 が 繰り 返 さ れ て いる 。 そ れ 以外 では右 の特 徴 が看
変 え る こと で便 宜 的 に 二 つの皇 后 位 を 設 置 した も の の、 三 つには な ら
節 で検 証 し た ご と く 、 これ は皇 統 を め ぐ る 嵯 峨系 ・淳 和 系 の相 剋 や冷
取 さ れ にく い事 例 も あ る が 、贈 皇 太 后 は右 のごと き 重 要 な 意 味 を 持 っ
な いた め 、 一人 は皇 太 后 にな ら ざ を え な い。 即 ち 、 そ れ が図 中 に☆ 印
を 付 し た章 子内 親 王 であ った 。
て行 わ れ たも のであ ると 結 論 し て よ いと 思 う 。
従 来 、 中 宮 ・皇 后 ・皇 太 后 ・太 皇 太 后 の后 位 転 上 は機 械 的 に行 わ れ
24
贈皇太后=藤 原嬉子
後冷泉天皇
(白河 太 皇 太 后)
白河天皇
1
1
後三条皇后
後三条皇太后
白河太皇太后
中宮=藤 原賢子
1
皇后=藤 原歓子
中宮
中宮=馨 子 内 親 王
後三条皇太后
☆太皇太后
皇后=藤 原寛子
1
中宮=章 子 内親王
}
後冷泉皇太后
1
☆太皇太后
☆皇太后
1
1
(後三 条 太 皇 太 后)
(後三条皇太后)
1
陽 明 門院
後三条天皇
中 宮=藤 原姫 子
皇后
(上東 門 院=藤 原 彰 子)
中 宮=禎 子 内 親 王
後朱雀天皇
后 位 転 上 の典 型 は 、 第 3図 で言 え ば 藤 原 寛 子 のご と く 、 後 冷 泉 天 皇
の皇 后 と し て 冊立 さ れ 、 次 の後 三条 朝 で皇 太 后 に転 上 し 、 さら に次 の
白 河 朝 で 太 皇 太 后 に 転 上 す る も の で あ って 、 そ こ で は 次 帝 の母 后 、
次 々帝 の祖 母后 と いう 皇 位 継 承 上 の関係 が成 立 し て いた 。 何 度 も 繰 り
返 す が 、重 要 な のは 、 一見 す ると 機 械 的 に転 上 し て いく よう に見 え る
も の の、 そ れ ぞ れ の后 位 に は政 治 的 意 味 があ った こと で 、 こ のこと を
明 確 に 認 識 す る 必要 があ る 。
藤 原 歓 子 の立 后 の際 に は ま た 、後 冷泉 天皇 の母后 に当 た る禎 子内 親
王 も 太 皇 太 后 に 転 上 し て いる 。 さ ら に章 子内 親 王 は 、後 三条 朝 でも 太
皇 太 后 に転 上 し て皇 位 継 承 上 の関 係 と 齪 酷 を 生 じ て いる (いず れも ☆
印 )。 前 節 で若 干 ふ れ た ご と く 、 これ ら は皇 位 継 承 の 世 計 が 意 識 さ れ
な く な った 結 果 杜 撰 な 后 位 転 上 が 行 わ れ た の では な く 、 何 ら か のし か
る べき 根 拠 に基 づ いた 処 分 であ った と 考 え る べき であ る 。
注 目 す べき は 、 禎 子 内 親 王 ・章 子 内 親 王 は と も に女 院 にな って いる
点 であ る。 禎 子 内 親 王 は 、 は やく 夫 帝 後 朱 雀 天 皇 の死 後 出 家 し て いる 。
そ も そ も 、 女 院 は藤 原 詮 子 が 出 家 を 機 に皇 太 后 位 を 辞 退 し た た め 東 三
条 院 の称 号 と と も に太 上 天 皇 と ほ ぼ同 様 の処 遇 を 付 与 さ れ た こと に始
ま り 、 上 東 門 院 藤 原 彰 子 も 出 家 を 機 に院 号 宣 下 を 受 け て いる。 従 って、
禎 子 内 親 王 も こ れら に倣 って出 家 を 機 に女 院 にな っても よ か った が 、
出 家 後 も 后 位 を 保 ち 、 皇 太 后 ・太 皇 太 后 と 転 上 し た 後 に院 号 宣 下 を 受
け て いる (陽 明 門院 )。
た だ 、出 家 後 も 后 位 を 保 った例 は藤 原 定 子 にあ り 、 そ れ自 体 不自 然
な こ と で は な い。当 時 は 、所 生 の尊 仁 親 王 (
後 の後 三条 天皇 ) が立 太
弟 し た と は いえ磐 石 の状 況 に は な か った た め 、禎 子内 親 王 は 、自 ら が
皇 后 と し て在 位 し尊 仁 親 王 の地位 を後 援 し よう と いう 思 いで あ ったも
25
三后 の変遷(後 朱雀朝∼ 白河朝)
第3図
1
二条院
贈皇太后=藤 原茂子
のと 想 像 さ れ る。
発 的 な 状 況 は な く 、 説 明 が つか な い。
馨 子 内 親 王 の立 后 (
中 宮 ) の五 か 月 前 に行 わ れ て いる 。 恐 ら く 、 大 嘗
も のと 思 わ れ る 。 禎 子 内 親 王 の院 号 宣 下 は 、 後 三 条 天 皇 の践 酢 の翌 年 、
ず 、 院 号 宣 下を 受 け ず そ のま ま 太 皇 太 后 に転 上 し た 。 藤 原 歓 子 の立 后
陽 明 門 院 と いう 出 家 と 連 動 し な い院 号 宣 下 の前 例 が あ る にも か か わ ら
身 は 院 号 宣 下 を 受 け な か った 。 ま た 、 馨 子 内 親 王 の立 后 に際 し ても 、
章 子 内 親 王 は 、 禎 子 内 親 王 の院 号 宣 下 の 一カ 月 後 に出 家 し た が 、 自
祭 を 終 え た 後 三 条 天 皇 が そ の地 位 を 安 定 さ せ た こと を 見 届 け 、 自 ら の
にと も な う 不 自 然 な 后 位 の状 況 は 二 日 で解 消 し た が 、 今 度 は 白 河 天 皇
こ のた め 、 禎 子 内 親 王 は 院 号 宣 下 の機 会 を 失 い、 転 上 を 繰 り 返 し た
役 割 が 一応 完 了 し た と 感 じ ると と も に、 近 い将 来 に行 わ れ る後 三 条 天
の即 位 ま で 三年 間 も 不 自 然 な 后 位 の状 況 が 続 く こと と な った 。
以 上 の経 過 を 見 る限 り 、 章 子 内 親 王 は 、 あ え て太 皇 太 后 に転 上 し た
皇 の皇 后 の冊 立 の た め の前 提 措 置 (H后 位 を 一つ空 位 にす る) と し て
行 わ れ た と 理 解 す る のが最 も 妥 当 な の で はな か ろう か 。 言 い換 え れ ば 、
と 理 解 せざ るを え な い。 これ は 一体 な ぜ な の であ ろう か。 あ る いは 、
題 を 考 え る 糸 ロ に し た いと 思 う のは 、 章 子 内 親 王 が 一度 も 懐 妊 し な
禎 子 内 親 王 の院 号 宣 下 → 后 位 離 脱 ) に は そ れ自 体 の意 義 はな いと い
ま た 藤 原 歓 子 の 立 后 は 、恐 ら く 関 白 に 就 任 し た 藤 原 教 通 の 懇 請 に
か った事 実 であ る 。 死産 であ った が、 藤 原歓 子 は 入内 後 早 い時 期 に懐
章 子 内 親 王 に はど の よう な 考 え があ った のであ ろう か。 筆 者 が こ の問
よ って実 現 し たも の であ り 、後 冷 泉 天皇 の死去 の二 日前 と いう 倉 卒 の
妊 し てお り 、 ま た (
世 間 に は伏 せ たも の の) 後 冷 泉 天皇 に は男 児 が 誕
う こと であ ろう 。
間 に行 わ れ てお り 、禎 子内 親 王 に 院号 宣 下 を受 け る 用意 があ ったと し
生 し て いた ら しく 、後 冷 泉 天皇 に問 題 があ った わ け では な い。
の死 去 の翌年 に 出 家 す る が 、 郁 芳 門 院 提 子 内 親 王 (
堀 河准 母 ) は出 家
こ の点 は章 子内 親 王 も 同様 であ った ろう 。 章 子内 親 王 は後 冷 泉 天皇
ど の評 は あ るも の の、 夫 後 冷泉 天皇 と 仲 睦 ま じ か った と いう 評 が ま つ
後 一条 天 皇 に愛 さ れ た 、 見 目 麗 し か った 、 仏 教 に 深 く 帰 依 し て いた な
と 考 え る のが 妥 当 であ ろう が 、 注 目 す べ き は 、章 子内 親 王 に つ い て父
従 って、 これ だ けを 見 ると 章 子内 親 王 が妊 娠 し に く い体 質 であ った
(28 )
ても 、 こ の時 に は 間 に 合 わ な か った も のと 思 わ れ る 。
し な か った し 、 待 賢 門 院 藤 原 璋 子 は 院 号 宣 下 の後 一八年 も た ってか ら
章 子 内 親 王 は皇 太 子 時 代 の後 冷 泉 天 皇 に嫁 いだ の であ り 、 そ れ に よ
出 家 を し てお り 、 高 陽 院 藤 原 泰 子 は 二年 後 、 美 福 門 院 藤 原 得 子 は 七年
る限 り 、 実 際 の夫 婦 と し て 一生 を 送 る は ず であ った も のと 考 え ら れ る 。
た く 見 ら れ な い事 実 であ る 。
皇 が ま だ 存 命 し て い る藤 原 歓 子 の立 后 直 前 の時 点 で章 子 内 親 王 に院 号
し か し、 右 の事 実 に注 目 す れ ば 、 章 子 内 親 王 の入 内 は 彼 女 に皇 后 と い
後 であ って、 院 号 宣 下 と 出 家 の関 係 は ほ ぼ な く な って いる 。 後 冷 泉 天
宣 下 を 受 け る用 意 が あ った か ど う か は わ か ら な いが 、 そ れ を 拒 否 す る
であ る。 内 親 王 に皇 后 の地 位 を 付 与 す る の は後 の准 母 皇 后 に他 な ら な
う 地 位 を 付 与 す るた め だ け の措 置 では な か った か と 考 え ら れ てく る の
理 由 が あ ま り な か った こと も 事 実 であ る。
藤 原 歓 子 の立 后 にと も な う 禎 子 内 親 王 ・章 子 内 親 王 の異 例 の后 位 転
い 。
上 は 一応 こ の よう に説 明 す る こと も 可能 であ ろう が、 馨 子 内 親 王 の立
后 にと も なう 章 子内 親 王 の太 皇 太 后 への転 上 の場 合 は、 こ の よう な 突
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皇 位 の安 定 のた め にも 後 見 役 が 必 要 な 堀 河 天 皇 には 、 母 代 わ り が 必 要
る。 た だ 、 堀 河 天 皇 の生 母 であ る中 宮 藤 原 賢 子 は す でに 没 し てお り 、
譲 り た く な い白 河 天 皇 が 急 遽 入 歳 の自 ら の皇 子 を 即 位 さ せ た も の であ
る 。 堀 河 天 皇 は 、 皇 太 弟 実 仁 親 王 の死 去 後 、 そ の弟 輔 仁親 王 に皇 位 を
いう 構 成 を も った ) 自 ら の意 にか な った 後 冷 泉 天 皇 家 を ふた た び 形 成
泉天皇は (
准 母 であ る 皇 太 后 章 子 内 親 王 、 嫡 后 であ る 皇 后 藤 原 歓 子 と
内 親 王 の皇 太 后 転 上 も 本 意 にか な う こと であ った ろ う 。 つま り 、 後 冷
は ど う であ れ ) 自 ら の皇 太 子 の地 位 を 確 固 た る も のに し てく れ た章 子
後 冷 泉 天 皇 にす れ ば 、藤 原 歓 子 の立 后 も (
章 子内 親 王自 身 の気持 ち
位 置 を 有 名 無 実 化す る こ と に他 な ら な か った 。
であ った 。 提 子 内 親 王 は 堀 河 天 皇 の同 母 姉 であ り 、 白 河 院 に懇 請 さ れ
した の であ る。
准 母皇 后 の初 例 は 、 堀 河 天皇 の准 母 と し て立 后 し た媛 子内 親 王 で あ
て中 宮 と な った 篤 子 内 親 王 (
白 河 院 同 母 妹 ) と と も に、 そ の役 を 委 ね
こ の よう にし て准 母 皇 后 は 誕生 し た の であ る が、 幼 い天 皇 の後 見 役
であ ったも のと 想 像 さ れ る。 ま た こ の時 、 藤 原 寛 子 は皇 后 か ら中 宮 に
贈 皇 太 后 藤 原嬉 子 の いわ ば 仇 を 取 った と いう 意 味 で 一矢 を 報 いた思 い
逆 に 、禎 子 内 親 王 を 何 の根 拠 も な い太 皇 太 后 に転 上 さ せ る こと は 、
に皇 后 の地 位 を 付 与 す ると いう 発 想 は 一朝 一夕 に出 てく るも の で はな
横 滑 り す る に止 ま って いる。 中 宮 か ら皇 后 へ移 る の が 一般 的 な こと か
る の に適 任 であ った ろう 。
いだ ろう 。 つま り 、置 か れ た位 置 づ け 、期 待 さ れ た役 割 は かな り 異 な
ら す れ ば 、 こ れ も マイ ナ ス の意 味 が込 め ら れ て いた の であ ろう 。
(29 )
こ のよう に 考 え れ ば 、藤 原歓 子 の立后 が後 冷 泉 天皇 の 死去 の二 日前
る も の の 、当 初 か ら後 冷 泉 天皇 の妻 后 の役 割 を期 待 さ れず に立 后 し た
章 子内 親 王 の存 在 が 、提 子内 親 王 の准 母皇 后 を 誕生 さ せ たと 考 え ら れ
こ こ で ふ た た び 藤 原 歓 子 の立 后 に 話 を も ど す と 、 いく ら藤 原 教 通 が
政 治 的 大 事 件 と 連 動 し て行 わ れ た も の であ った 。 従 来 、 藤 原 頼 通 は
い。 し か も 、 こ れ は 藤 原 頼 通 の政 界隠 退 と 藤 原 教 通 の関白 就 任 と いう
に 行 わ れ た のも 、 後冷 泉 天皇 の執 念 を 物 語 る も のと 言え る か も し れ な
懇 請 し た と は いえ 、 本 来 無 理 な 立 后 であ れ ば 実 現 し て いな いは ず で あ
(
外 戚 関 係 に な い) 後 三 条 天皇 の即 位 を 目 前 にし て 関白 を 退 いた と 考
・
る 。 だ と す れ ば 、 章 子 内 親 王 の皇 太 后 転 上 には (
こ れ自 体 誰 弁 で あ っ
え ら れ て いるが 、 そ れ な ら ば 、 後 三 条 天 皇 の即 位 と 同 時 に 関 白 の交 替
る ので は な か ろ、
胸
ても ) 何 ら か の正 当 な 説 明 が でき た も のと 考 え る べき で あ ろ う 。 つま
が な さ れ れ ば よ い。
つま り 、 関 白 交 替 と 藤 原 歓 子 立 后 は 、 後 冷 泉 天 皇 の自 ら の血 脈 11皇
り 、 章 子 内 親 王 は 後 冷 泉 天 皇 の准 母 に類 す る資 格 で皇 太 后 に 転 上 さ れ
た も のと 考 え ら れ る の では な か ろう か 。
(
中 宮 ) し 、 面 目 を 失 った 藤 原 歓 子 は 里 邸 に 引 き こも り がち に な った
后 であ った 。 そ れ を 藤 原 寛 子 が 父 藤 原 頼 通 の権 力 を 背 景 と し て 立 后
れ て いたも のと 思 われ 、 後 冷 泉 天 皇 は万 感 の想 いを こ め て藤 原 頼 通 を
後 冷 泉 天皇 と 藤 原 教 通 と は 藤 原 歓 子 を 介 し て かな り 親 密 な 関 係 が築 か
後 冷 泉 天皇 に よ る最 後 にし て最 大 の反 撃 であ った の では な いだ ろう か 。
統 を 残 した いと いう 願 いに対 し てま った く 冷 淡 であ った 藤 原 頼 通 への
と いう 。 藤 原 寛 子 の立 后 はま た 、禎 子 内 親 王 を 皇 太 后 に転 上 さ せ る こ
更 迭 し 、自 ら の正 嫡 の妻 后 の 父 であ る藤 原教 通 を そ の後 任 に任 じた も
翻 って考 え れ ば 、 藤 原 歓 子 は 後 冷 泉 天 皇 の皇 子 を 身 ご も った 唯 一の
と に繋 がり 、 即 ち そ れ は後 冷 泉 天皇 の生 母 で あ る贈 皇 太 后 藤 原 嬉 子 の
27
後 に 所 生 の後 三 条 天 皇 が 即 位 し 、 そ の祖 母 后 と し て の地 位 を 得 た こと
後 冷 泉 天 皇 の執 念 に巻 き 込 ま れ た か た ち と な った 禎 子 内 親 王 は 、 直
上 は 、 後 冷 泉 天 皇 の立 場 を あ る 意 味 で保 護 し た 役 割 に対 し て付 与 さ れ
位 転 上 の背 景 を 検 証 し てき た 。 そ れ に よ れ ば 、 章 子 内 親 王 の皇 太 后 転
以 上 、 皇 位 継 承 上 の世 計 か ら 見 る と 不 自 然 に思 え る 章 子 内 親 王 の后
し て後 三 条 太 皇 太 后 に 転 上 し た の であ る 。
に 満 足 し 、 翌年 陽 明 門 院 と な った 。 そ れ に 対 し て、 (
准 母 と し て) 後
た も の であ り 、 そ れ は 後 の准 母 皇 后 の先 膓 と も な った 。 そ れ に 対 し て、
のと 理 解 でき る 。
冷 泉 皇 太 后 と な った 章 子 内 親 王 は 、 来 る べき 馨 子 内 親 王 の立 后 時 に 役
同 時 に行 わ れ た 禎 子 内 親 王 の (
何 の根 拠 も な い) 太 皇 太 后 転 上 は 、 生
母 藤 原 嬉 子 への贈 皇 太 后 の意 義 を 皇 太 后 転 上 によ って有 名 無 実 化 し た
割 を 果 た さ な け れ ば な ら な か った 。
馨 子 内 親 王 は 章 子 内 親 王 の同 母 妹 な が ら 、 す で に立 場 は 姉 と ま った
統 を 継 ぐ 者 と し て天 皇 家 を 新 た に構 成 す る こと が 予 想 さ れ 、 事 実 、 馨
者 と し て新 天 皇 家 を 構 築 し よ う と す る後 三 条 天 皇 の構 想 の 一角 を 崩 す
そ し て、 章 子 内 親 王 の太 皇 太 后 転 上 は 、 後 朱 雀 天 皇 の正 統 な る 後 継
禎 子 内 親 王 に対 す る 一種 の報 復 措 置 であ った 。
子 内 親 王 の立 后 (
中 宮 ) に際 し ては 、 か つて禎 子 内 親 王 を 意 味 のな い
行 為 に他 な らず 、 そ れ は 後 冷 泉 天 皇 の遺 志 を 継 いだ 章 子 内 親 王 のせ め
く 異 な って いた 。 後 三条 天 皇 は 、 当 然 の こと な が ら 、 後 朱 雀 天 皇 の正
太 皇 太 后 に追 いや った 皇 后 藤 原 歓 子 は そ のま ま に捨 て置 か れ 、 か つて
し て位 置 づ け 、さ ら に章 子 内 親 王 の母 代 わ り のご と き 役 割 に対 し て皇
ても の抵 抗 であ った の であ る。 そ も そ も 、 後 冷 泉 天 皇 の死 去 直 前 に行
こ の時 点 ま で に章 子 内 親 王 が皇 太 后 を 辞 し て いれ ば 、 禎 子 内 親 王 は
太 后 の地 位 を 付 与 す ると 同 時 に、 禎 子 内 親 王 を 後 冷 泉 天 皇 家 か ら 排 除
禎 子 内 親 王 に後 冷 泉 天 皇 の母 后 の地 位 を 与 え た 藤 原 寛 子 が (
あらため
恐 ら く 太 皇 太 后 位 を 保 って いた も のと 思 わ れ る。 即 ち 、 後 三条 天 皇 の
す る こと で あ った 。 重 要 な こと は、 こ の背 景 に後 冷 泉 天 皇 の藤 原 頼 通
わ れた 立 后 は、 先 に立 后 し た 藤 原 寛 子 に対 し て藤 原 歓 子 を 真 の妻 后 と
実 母 に し て皇 位 継 承 上 の祖 母 后 であ る太 皇 太 后 禎 子 内 親 王 、 皇 位 継 承
へ の恨 み が感 じ取 れ る こと であ る。
て後 冷 泉 天 皇 の嫡 后 と 認 定 さ れ) 皇 太 后 に転 上 し た 。
上 の母 后 であ る皇 太 后 藤 原寛 子 、 嫡 后 であ る中 宮 馨 子内 親 王 と いう 完
た が 、 以 上 の経 過 を 見 る限 り 、 藤 原 頼 通 と 禎 子内 親 王 と の間 に は 一定
従 来 、藤 原頼 通 と 禎 子 内 親 王 ・後 三条 天皇 と の不和 は認 識 さ れ て い
藤 原 歓 子 が こ の新 天皇 家 か ら疎 外 さ れ る こ とを 関 白 藤 原 教 通 は快 く
の妥 協 が成 立 し 、対 立 関 係 に は な か った こと が看 取 でき る 。 そ れ に対
壁 な 構 成 を 持 った後 三条 天皇 家 が成 立 す る のであ る。
思 わ な か った で あ ろう が 、 そう か と い って後 三条 天皇 に対 抗 しう る皇
し て 、藤 原 頼 通と 後 冷 泉 天皇 と の不和 は言 わ れ た こと が な いが、 本 節
こう し た 対 立 は 、当 然 のこと な が ら後 冷 泉 朝 の国 政 運営 にも 現 れ た
子 が いる わ け でも な いた め 、 こ の問 題 か ら 政治 的 な主 導 権 争 いと い っ
内 親 王 に は後 冷泉 天皇 の遺志 を 継 が な け れ ば な ら な いと いう 意 識 があ
であ ろう 。 従 来 、藤 原頼 通 に よ る後 冷 泉 朝 の政務 運営 に 問 題 があ った
の考 察 に よ る 限 り 、相 当 根 深 い対 立 があ ったも のと 思 わ れ る。
り 、 そ れ が 一見 不自 然 に 思 え る 太皇 太 后 転 上 に繋 が ったも のと考 え ら
と 指 摘 さ れ た こと は な いが 、右 に述 べ た よう な 対 立 を考 慮 し つ つあ ら
た対 立 は起 こ ら な か った も のと 思 わ れ る 。 し か し 、 そ れと は 別 に章 子
れ よう 。余 言 す れ ば 、 後 冷 泉皇 太 后 た る章 子 内親 王 は 、当 然 のこ と と
28
れ る 。 本 稿 の分 析 結 果 を 見 れ ば 、 そ れ ぞ れ の后 位 の意 義 を 考 え る こ と
た め て検 証 す れ ば 、 従 来 と は 異 な る 分 析 結 果 が 得 ら れ る こ と が 期 待 さ
行 を 誕 生 さ せ る ので あ る 。
位 転 上 であ り 、 妻 后 で あ り な が ら の皇 太 后 転 上 は や が て 准 母 皇后 の慣
る こと も あ った 。 そ の代 表 例 が 章 子 内 親 王 の本 来 的 な 原 則 に 反 す る后
註
拙稿 ﹁
太 上 天 皇 制 の成 立 ﹂ (﹃
史 学 雑 誌 ﹄ 九 九 - 二、 一九 九 〇 年 )。
す る重 要 な 要 素 であ った と 結 論 でき よ う 。
様 を 表 現 す る 機 能 を 担 った の であ り 、 平 安 時 代 的 な 皇 権 を 規 定 し 表 現
の の、 そ の地 位 が 天 皇 と の関 係 に よ って決 定 す る た め 皇 位 継 承 の有 り
平 安 時 代 にお け る 后 位 は 、 令 制 当 初 に 付 与 さ れ た 権 能 は 放 棄 し た も
によ り 、 そ の背 景 にあ る 政 治 的 対 立 が 見 え てく る こと が 実 感 で き よ う 。
おわり に
以 上 、 四節 にわ た って后 位 の意 義 に つ いて検 証 し てき た が 、 そ れ を
皇 のみ な ら ず 太 上 天 皇 や七 員 の令 制 中 宮 にも 担 え る こと と し た が 、 平
(1)
拙 稿 ﹁皇 太 妃 阿 閑 皇 女 に つ い て11 令 制 中 宮 の 研 究 1
総 括 す ると 次 のよ う にま と め ら れ よ う 。 律 令 国 家 は 、 当 初 、 皇 権 を 天
安 時 代 にな ると 天 皇 の みが 皇 権 を 担 う 単 純 明 瞭 な シ ス テ ムに 移 行 し 、
(2)
史 ﹄ 五 一四、 一九 九 一年 )。 な お 、 中 国 では 、 太 后 (11皇 太 后 も しく は 太
﹂ (
﹃日 本 歴
そ れ にと も な っ て令 制 中 宮 も 四 后 制 (
太 皇 太 后 ・皇 太 后 ・皇 后 ・中
宮 ) に落 ち つき 、 表 面 的 には 名 誉 的 地 位 と な った 。
米 田雄介 ﹁践酢と称制ー
皇 太 后 ) が皇 帝 大 権 を 行 使 し 国 政 を 行 な う 体 制 を ﹁臨 朝 称 制 ﹂ と 言 う が 、
いま ど の よう な 皇 位 継 承 が 構 想 さ れ、 現 天 皇 (およ び 皇 太 子 ) が そ の
究 ﹄ 二 〇 〇 、 一九 七 八 年 ) は 、皇 太 妃 阿 閑 皇 女 の 即 位 前 の 行 為 を ﹁称
た だ 、 后 位 は 天 皇 と の関 係 によ って決 定 し た た め 、 四 后 の構 成 が 、
中 でど の よう な 位 置 づ け にあ る かと いう こと を 如 実 に示 す も のと な っ
制 ﹂ と 見 倣 し て い る。 本 稿 も これ ら に 倣 い、 令 制 中 宮 が 天 皇 大 権 を 行 使
﹂(
﹃続日本 紀研
た。 平 安 初 期 に創 始 さ れ た 一后 一職 司 制 は后 位 の名 目 化 を 象 徴 す るも
す る 体 制 を ﹁称 制 ﹂ と 表 現 す る 。 ま た 、 中 国 で は 太 后 が 臨 朝 称 制 を 止 め
元明天皇 の場合 を中心 にー
のと 考 え ら れ がち であ る が、 実 際 の複 雑 な 皇 位 継 承 を 単 純 な 直 系 継 承
﹂ (一
国 政 を 皇 帝 に帰 す こと を ﹁
帰 政 ﹂ と 言 い、 本 稿 も こ の表 現 を 用 いる。
岸 俊 男 ﹁光 明 立 后 の史 的 意 義 1 ー古 代 に お け る皇 后 の 地 位 1
橋 本 義 彦 ﹁中 宮 の 意 義 と 沿 革 ﹂ (一九 七 〇年 初 発 表 。 のち ﹃
平安 貴族
橋 本 義彦 ﹁
女 院 の 意 義 と 沿 革 ﹂ (一九 七 八 年 初 発 表 。 の ち ﹃
平安貴
族 ﹄ 平 凡社 、 一九 八六 年 )
。
(
5)
社 会 の研 究 ﹄ 吉 川 弘 文 館 、 一九 七 六年 )。
(
4)
ど。
九 五七年初発表。 のち ﹃
日 本 古 代 政治 史 研 究 ﹄ 塙 書 房 、 一九 六 六 年 ) な
(3)
に擬 制 的 に変 換 す る重 要 な 機 能 を 付 与 さ れ て いたと 理 解 す べき であ り 、
そ れは 即 ち 、 后 位 に付 与 さ れた 役 割 が平 安 初 期 に明 確 な 意 図 を も って
変 革 さ れた こと を 物 語 って いよう 。
そ の結 果 、 誰 がそ れ ぞ れ の后 位 にあ る かと いう こと が 極 め て重 要 視
さ れ る よう にな り 、 実 際 の皇 位 継 承 の状 況 が複 雑 さを 増 す と 、 存 命 の
后 のみな らず 贈 后 ま でも が重 要 な機 能 を 果 たす こと にな った の であ る。
ま た、 誰 が そ れ ぞ れ の后 位 にあ る か は 、 そ の時 々の政 治 勢 力 の様 相 に
よ って変 わり 、 そ の様 相 が変 わ る ごと に后 位 に新 た な 意 味 が付 け 加 わ
29
(6)
(7)
﹃
魚 魯 愚 抄 ﹄ 下巻 之 一 (
史 料 拾 遺 本 ) 二 三 六 ∼ 二 三七 頁 。
塚野重雄 ﹁
井 上内 親 王 の 子﹂ (
﹃
古 代 文 化 ﹄ 二八 1 = 、 一九 七 六 年 )
参照。
﹁
妃 四品 大 宅 内 親 王 辞 レ職 。 許 レ之 ﹂ と ま った く 同文 で見 ら れ る こと よ り す
れ ば 、前 述 し た 酒 人 内 親 王 と 能 登 内 親 王 の 例 と 同 じ く 、 ﹃
本朝 皇胤 紹運
録 ﹄ が廿 南 美 内 親 王 と 大 宅 内 親 王 を 取 り 違 え た こ と も 容 易 に想 定 し え る。
し か し な が ら 、 平 城 天皇 の妃 に 三内 親 王 が 立 てら れ て いた 、も し く は 大
宅 内 親 王 が 嵯 峨 天 皇 の 妃 であ った と も 考 え ら れ る た め 、 暫 時 こ のま ま に
井 上内 親 王 の復 位 に つ いて は 、 通 常 、 桓 武 天 皇 が そ の霊 を 慰 め よ う と
し て おく 。
(8)
した も の と 考 え ら れ てお り 、 同 時 に 早 良 親 王 が 追 尊 さ れ て いる のも こ の
平 城 天 皇 の場 合 は 、前 述 のごと く高 岳 親 王 ら を 非 皇 后 所 生 子 と す るた
の意 味 で藤 原 帯 子 は 適 任 で あ った 。 特 に、 朝 原 内 親 王 は聖 武 天 皇 の曾 孫
め の贈 后 だ った と す れ ば 、 存 命 の皇 后 を 冊 立 す る こと は 不 要 であ り 、 そ
(
13 )
考 え に有 利 であ る が 、他 戸 親 王 は 庶 人 のま ま 親 王 に も 復 さ れ な か った の
であ り 、筆 者 は 右 の想定 にも 一抹 の疑 念 を覚 え る 。
で あ り 、 そ の皇 后 と し て の存 在 自 体 が 危 険 で あ った と も 言 え る か ら であ
そう だ と す れ ば 、 嵯 峨 朝 では 平 城 太 上 天 皇 と 嵯 峨 天 皇 が 共 治 体 制 を 取
り 、 時期 を 見 て高 岳 親 王 が 即 位 す る こ と が 予定 さ れ た も の と 考 え ら れ る 。
る 。 見 方 を 変 え れ ば 、 聖 武 天 皇 の 血 脈 が こ の 時 点 ま で存 続 し て いた こ と
(
9)
た だ こ の場 合 、 平 城 ・高 岳 問 で 強 固 な 政 権 の継 続 性 が形 成 さ れ る が 、 そ
自 体 が 特 筆 す べき こと と 言 え る 。
平安 時 代 の変 化 を 中 心 にー
﹂ (﹃
お 茶 の 水 史 学 ﹄ 一三 、 一
定 員 が な か った と いう 指 摘 も な さ れ て い る 。 ま た 、 玉 井 力 ﹁
女 御 ・更 衣
九 七 〇年 ) で は 、 令 制 の后 妃 と 女 御 と の 関 係 の変 遷 が 分 析 さ れ、 女 御 に
に つ い て1
一九 九 一年 ) 参 照 。 な お 、 女 御 制 に 関 し て は 、柳 た か ﹁日 本 古 代 の後 宮
津 田 京 子 ﹁﹁女 御 ・更 衣﹂ の成 立 に つ い て﹂ (﹃
奈 良 古 代 史 論 集﹄ 二 、
れ と 反 比 例 し て嵯 峨 天 皇 の立 場 は 極 め て不 安 定 な も の に な ら ざ るを え な
﹂
(14)
い。 実 際 に 同 じ 状 況 に 置 か れ た淳 和 天 皇 は 一貫 し て恭 順 の態 度 を 取 った
も の の、 平 城 太 上 天 皇 が 独 善 的 な 行 動 を 取 った 嵯 峨 朝 に お いて は 、 嵯 峨
中 国 と 日本 と の比 較 1
(
八 二 三 ) に は 正 子 内 親 王 は ま だ 一四
天 皇 を 支 持 す る官 人 た ち は 心 穏 やか では な か った であ ろう 。
淳 和 天 皇 が 即 位 した 弘 仁 十 四年
歳 であ り 、 こ れ以 前 の婚 姻 は 考 え にく い。
(10)
梅村恵子 ﹁
天 皇 家 に お け る 皇 后 の位 置-
制 度 の成 立 ﹂ (﹃
名 古 屋 大 学 文 学 部 研 究 論 集 ﹄ 五 六 、 一九 七 二 年 ) は 、 所
(11)
生 皇 子 の観 点 から 分 析 を 試 み て い る。
日本 女 性 史 再 考 ﹄ H お ん な と
そ の意 味 で、 醍 醐 朝 で皇 太 夫 人 藤 原 温 子 が 没 し 、 女 御 の藤 原穏 子 が 立
(
伊 東 聖 子 ・河 野 信 子 編 ﹃
女 と 男 の時 空 -
(
15)
お と こ の誕 生 ー 1古 代 か ら 中 世 へ、 藤 原 書 店 、 一九 九 六 年 ) 三 一 一頁 。
天 皇 生 母 と し て の三 后 に着 目 し た 論 考 と し ては 、 他 に服 藤 早 苗 ﹁王 権 と
﹂ (
﹃民 衆 史 研 究 ﹄ 五 六 、 一九 九 八
后 し て 以 後 、 皇 后 の 冊 立 が 常 態 と な る の は、 醍 醐 朝 が 仁 明 朝 に 次 ぐ 画 期
王朝 国 家 の政治 と 女性
国 母-
目崎徳衛 ﹁
円 融 上 皇 と 宇 多 源 氏 ﹂ (一九 七 二年 初 発 表 。 の ち ﹃
貴 族社
(一〇 〇 八 ) に 四 一歳 で 没 し て いる 。
因 み に 、 円融 天皇 は 正暦 二 年 (
九 九 一) に 三 三 歳 で没 し た のに 対 し、
で あ った こと を 示 し て いよう 。
(
17 )
花 山 天皇 は寛 弘 五年
(
16 )
年 ) や 西 野 悠 紀 子 ﹁九 世 紀 の天 皇 と 母 后 ﹂ (﹃
古 代 史 研 究 ﹄ 一六 、 一九 九
﹃
本朝 皇胤紹運録﹄ による。ただ、 ﹃
日本後紀﹄弘 仁三年 (
八 一二) 五
九年 )などがある。
(
12 )
月 癸 酉 条 に ﹁妃 二 品 朝 原 内 親 王 辞 レ職 。 許 レ之 ﹂ と あ り 、 同 月 癸 未 条 に
30
ただ し 、昌 子内 親 王 も譲 位 後 の誕 生 であ り 、皇 子 女 に恵 ま れ る 気 配 が
会 と 古 典 文 化 ﹄ 吉 川弘 文 館 、 一九 九 五年 )。
(18)
憲 平親 王 は第 二 子 で 、 庶 出 の広 平 親 王 が 第 一子 と な って いる が 、 同 年
あ ま り感 じ ら れ な か った のは事 実 で あ ろ う 。
(19 )
たしかに ﹃
栄 花物 語﹄ に は 、 村 上 天 皇 が 藤 原 実 頼 の奏 問 に答 え て非 常
の生 ま れ で あ る 。
(20 )
の場 合 に は 守 平 親 王 を 皇 太 子 に 立 て よと 命 じ た と あ る が 、 こ の非 常 の場
合 は 村 上 天 皇 の死 去 で は な く 、 皇 子 誕 生 が な いま ま 冷 泉 天 皇 に 異 変 が
(
27 )
嘉 陽門院 (
礼 子 内 親 王 )・明 義 門 院 (
端 子 内 親 王 ) も いた が 、正 式 な
角 田文術 ﹁
後 冷 泉 天皇 の皇 子 ﹂ (一九 七 一年 初 発 表 。 のち ﹃
王 朝 の明
准 母 で は な いため 考 慮 す る必 要 は あ る ま い。
(28 )
章 子内 親 王 に期 待 さ れ た 役 割 は、 親 仁 親 王 (
後 冷 泉 天皇 ) の皇 太 子 た
暗 ﹄ 東 京 堂出 版、 一九 七 七年 )参 照 。
(
29 )
る 地 位 が 確 固 た る も の で あ る こと を 親 仁 親 王 自 身 と 周 囲 に 明 示 す る こと
で あ った と想 像 さ れ る 。
た だ し 、 准 母皇 后 の皇 后 と いう 后 位 に 関 し て は 、 皇 太 后 と な れ ば 先 代
天皇 と の関 係 が 生 じ る こ と と な る が 、 章 子 内 親 王 が 後 朱 雀 天 皇 と の関 係
(30 )
は ま った く な か った よ う に、 提 子 内 親 王 は 白 河 天 皇 の皇 女 で あ って妻 后
あ った 場 合 と考 え る べき で あ ろう し 、意 中 の為 平 親 王 に 関 し ても 、村 上
天皇 は 冷 泉 天 皇 の即 位 後 速 や か な 立 太 弟 を 望 ん だ わ け で は な か ろ う と 思
﹃
勘 仲 記 ﹄ 正 応 五年 (一二九 二) 九 月 九 日条 を 参 照 。
で あ り な が ら そ の地 位 を 皇 后 と し た も のと 考 え ら れ る 。
で は な い。 そ こ で 、先 代 天 皇 と の関 係 が 生 じ る こと が な いよ う に、 准 母
康保四年 (
九 六 七 ) の守 平 親 王 の立 太 弟 を 契 機 と し て始 ま った 皇 統 の
・
つ。
(21 )
分 裂 は 、 冷 泉 系 皇 統 の後 継 者 であ る 敦 明 親 王 (
三 条 天皇 皇 子 、 後 の小 一
条 院 ) が 寛 仁 元 年 (一〇 一七 ) に 一条 朝 の皇 太 子 を 辞 退 し た こ と に よ り
三 条 天 皇 に は 二入 の同 母 弟 が あ った が 、 彼 ら は (
自 ら の外 孫 た る皇 子
終息した。
(22 )
後 朱 雀 天 皇 の即 位 にと も な い親 王 宣 下を 受 け た 時 、親 仁 親 王 は 一二 歳 、
を 手 中 にし た ) 道 隆 や道 長 にと ってす で に何 の価 値 も 有 さ な か った 。
(23 )
藤 原 歓 子 は 皇 位 継 承 上 にお いて は後 三条 天皇 の 母 后 た る皇 太 后 (
11 白
尊 仁 親 王 は 三 歳 であ った 。
(24 )
河 天 皇 と は 直 接 関 係 を 持 た な い后 位 ) であ り 、 後 冷 泉 天 皇 の皇 后 か ら 転
(25 )
﹃
中 右 記 ﹄ 永 久 二年 (一 一 一四) 十 月 一日 条 の崩 伝 、 ﹃
扶桑 略記﹄寛治
上 す る意 味 は ま った く な い。
(26 )
七 年 (一〇九 三 ) 二月 廿 二 日条 を 参 照。
31
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