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Title
杜甫の詩における「児童」
Author(s)
後藤, 秋正
Citation
北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 62(2): A7-A20
Issue Date
2012-02
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2860
Rights
Hokkaido University of Education
杜 甫 の詩 に お け る ﹁児 童 ﹂
要
第 二号
平成 二十 四 年 二月
後
藤
秋
正
北海道教育大学札幌校漢文学研究室
北 海 道教 育 大 学 紀要 (
人 文科 学 ・社 会科 学 編 ) 第 六十 二巻
概
■児 童 ﹂ の 語 は 、 平 易 な 語 で あ る に も か か わ ら ず 、 唐 代 以 前 の 詩 に し ば し
ば 見 ら れ る 語 と は 言 え な い。 こ の語 を 積 極 的 に 詩 中 に と り こ ん だ の は 杜 甫 で
と考 え ら れ るか ら であ る。 ま た、 後 に明 ら か に な る よう に、 杜 甫 は こ の語 を
(
陳 西 省 華 県 ) を 発 ち 、苦 難 に満 ち た 長 途 の旅 に 出 て から 、 成 都 に滞 在 し
自 身 の 子 供 た ち と いう 意 味 で 用 い る こ と が 多 い 。 従 って 、 と り わ け 杜 甫 が 華
州
た 一時 期 を 除 い て 、 ほ ぼ 行 動 を と も に し て い た 家 族 の 一員 と し て の 子 供 た ち
が ど の よ う に 詩 中 に 登 場 す る か を 中 心 と し て 考 察 を 加 え て み た い。 そ の 際 に
﹁帰 去 来 分 辞 ﹂ の
は ■児 ﹂ や ■童 児 ﹂ の 語 も 参 照 し よ う 。 な お 、 幼 児 を 表 現 す る ■稚 子 ﹂ の 語
も 杜 甫 の 詩 に は 九 例 見 ら れ る 。 ﹁稚 子 ﹂ に つ い て は 陶 淵 明
﹁閑 居 賦 ﹂ (﹃文 選 ﹄ 巻 一
影 響 が 極 め て 強 い が 、 こ れ に つ い て は 稿 を 改 め る こ と に し た い。
杜 詩 以外 の ﹁
児 童﹂
唐 代 以 前 の用 例 は 、 賦 に 目を 向 け て み ても 、 播岳
六 ) に 一例 が 認 め ら れ る の み で あ る 。
さかずき
みな
おそ
乃 ち版 輿 に御 し軽 軒 に升 る 。 ⋮ ⋮昆 弟
班白、児童
稚
⋮ ⋮ 太 夫 人 乃 御 版 輿 升 軽 軒 。 ⋮ ⋮ 昆 弟 班 白 、児 童 稚 歯 、称 万 寿 以 献 膓 、
成 一催 而 = 暑。
⋮⋮ 太 夫 人
太 夫 人 は 濡 岳 の 母 。 児 童 は 、 前 の 一文 に ﹁席 長 錘 列 孫 子 。﹂ (長 莚 を 席 き て
し
の か 、 ま た こ の 語 に は ど の よ う な 思 いが こ め ら れ て い る の か 。 杜 甫 以 前 の 用
孫 子 を 列 ぬ 。) と あ る か ら 、 溢 岳 の 兄 弟 の 子 、 太 夫 人 に と っ て は 孫 に 当 た る
歯 、 万 寿 を 称 し て 以 て膓 を 献 じ 、 威 一は 催 れ て 一は 喜 ぶ 。
例 と 杜 甫 の そ れ と を 比 較 し な が ら 、 杜 甫 の 詩 に お け る ■児 童 ﹂ の 語 に つ い て
子 供 た ち を 指 す 。子 供 た ち が 祖 母 の 長 寿 を 願 っ て さ か ず き を 献 ず る の で あ る 。
あ った と 考 え ら れ る 。 で は 、 杜 甫 は ■児 童 ﹂ の 語 を ど の よ う な 意 味 で 用 い た
考 察 を 加 え る。
唐 代 以前 の用 例 は これ に と どま る。 た だ 参 考 ま でに 、童 女 及 び 童 男 の語 が 傅
玄 の ﹁雲 中 白 子 高 行 ﹂ (﹃
芸 文 類 聚 ﹂ 巻 二 ﹁雑 言 詩 ﹂、﹃楽 府 詩 集 ﹄ 巻 六 三 、 ﹃全
童女
雷車を挽く
電策を型き
はじ め に
童女型電策
童男
ひ
晋 詩 ﹄ 巻 一) に 見 え て い る の で こ れ を 引 い て お こう 。
本 稿 では 杜 詩 に現 れ る ﹁
児 童 ﹂ と いう 語 に つい て、 こ の語 の意 味 す る と こ
童男挽雷車
る車 を 彼 に仕 え る 童女 と童 男 が引 いて走 ら せ る の であ る。
伝 説 上 の仙 人 、 陵 陽 子 が 天宮 に到 って ﹁上 皇 ﹂ に 謁す る時 に、 陵 陽 子 の乗
ろ を 概 観 す る 。 ﹁児 童 ﹂ の語 を 主 た る対 象 と し た のは 、 例 え ば 李 白 の詩 に は
こ れが 二例 見 え る のに 対 し て杜 甫 の詩 には 十 六 例 が 見 ら れ、 し かも 杜 甫 以 前
の詩 に は用 例 が 少 な く 、杜 甫 の詩 によ って詩 語 と し て定 着 す る こと にな った
7
正
秋
藤
後
つ いで唐 詩 の用 例 、 杜甫 以前 、 及 び 杜 甫 と 同 時代 の詩 人 の用 例 に つい て、
そ の 一斑 を 見 てみ よう 。
張九齢 (
六 七 三 ∼ 七 二 三) の ﹁
和 斐 侍 中 承 恩 拝掃 旋 轡 途 中 有 懐 、 寄 州 県 官
第 十 三 ・十 四 句 は 、静 勝 寺 の境 内 で 、寺 で 働 く 子 供 た ち が ふ ざ け だ し た の で 、
(六 五 九 ∼ 七 四 四 ) の 五 絶
︿其 一﹀ は 、 天 宝 三 載
(漸 江 省 紹 興 市 ) に 帰 った 時
﹁回 郷 偶 書 ﹂ 二首
森 に棲 む 猿 や鳥 が 驚 き あ わ て てき ょ ろき ょ ろす る こ とを 言 う の であ ろう 。
賀知章
(
七 四 四) の正 月 、 太 子賓 客 の官 を 辞 し て会 稽
かえ
郷 を 離 れ 老 大 にし て回 る
の作 で あ る 。
少小
したが
僚郷国親故、後閾﹂ (
全 一六句 。 ﹃
全 唐 詩 ﹄ 巻 四 九 ) に は次 の句 が あ る。 末 尾
の六句 を 引 く 。
少小離郷老大回
改 ま る こと 難 く 髪 毛 衰う
かた
巡 に 雇 って晋 北 を 過 ぎ
郷音
相 い見 て相 い識 ら ず
11雇 巡 過 晋 北
郷音難改髪毛衰
児童
い
俗 を 問う て河 東 に到 る
児童相見不相識
こ こ に見 え る 児 童 は 、賀 知 章 を 見 か け た 郷 里 の子供 たち であ る。
すなわ
12問 俗 到 河 東
便 ち道 う 恩 華 降 り
笑 って問 う 客 何 処 よ り 来 る と
故老を延 し
儲 光義 (
七 〇 七 ∼ 七 五九 ?) の ﹁田家 雑 興 入 首 ﹂ ︿
其 四﹀ (
全 一四句 。 ﹃
全
いず こ
13便 道 恩 華 降
笑問客従何処来
野尊
児童を見 ん
鄭里
共 に幽 聞 な り
煙火無く
れ る。
ユ 唐 詩 ﹄ 巻 一三 七 ) は 、 藍 上 の別 壁 にお け る 王 維 と の交 遊 の中 で生 ま れ た と さ
朝服
たか
郷 に 還 って礼 教 崇 し と
14還 郷 礼 教 崇
15野 尊 延 故 老
16朝 服 見 児 童
七 三〇)
、 黄 門侍 郎
斐 侍 中 は 斐 光 庭 (?∼ 七 三 三) のこ と。 開 元 十 八 年 (
か ら 侍 中 と な った 。末 句 は斐 侍 中 が開 元 二十 年 (
七 三 二) の冬 、 玄 宗 の北 巡
3鄭 里 無 煙 火
児童
(
山 西 省 聞 喜 県 ) に立 ち寄 った時 の宴 席 には 、 彼 の
に 従 い、 郷 里 の 緯 州 聞 喜
4児 童 共 幽 聞
空 圃 に懸 かり
こ う し ゅう
人 徳 を 慕 う 若 者 た ち も 連 な った こ と を 言 う の で あ ろ う 。
桔楳
桑 間 に満 つ
くら
よ
朝 に未 だ 飯 わ ず 、竿 を 把 り て鳥 雀 を 逐 う ) の句 が 、︿
其 八﹀ には ﹁嬬
稔 り を 収 穫 す る こと も で きず 、 空 き 腹 を 抱 え て鳥 を追 いかけ て いる幼 児 の姿
あり 、 そ れ ぞ れ 稚 子 の語 が見 え て いる。 前 者 では 、 働き 手 を 失 った 農 家 では
人喜 逢 迎 、 稚 子 解 趨 走 ﹂ (
嬬 人 は喜 ん で逢 迎 し 、 稚 子 は 解 く 趨 走 す ) の句 が
(
稚子
あ る。 な お 同 じ ﹁田 家雑 興 八首 ﹂ の ︿
其 五 ﹀に は ﹁稚 子朝 未 飯 、把 竿 逐 鳥 雀 ﹂
る農 家 の子 供 た ち は み な お と な しく し て いる。 こ の児 童 は農 家 の子 供 た ち で
親 たち が 野 良 仕事 に 出 か け て いる の で炊 事 の煙 は 立ち のぼら ず 、 留 守 を 守
けつこう
5桔 橡懸 空 圃
難犬
張説 (
六 六 七 ∼ 七 三 〇 ) の ﹁遊 竜 山 静 勝 寺 ﹂ (全 二 〇 句 。 ﹃
全 唐 詩 ﹄巻 八 六 )
6難 犬 満 桑 問
はど う であ ろう か 。
つね
三空 に宴 し
毎 に 上 る裏 陽 の楼
禅室
六趣 を 同 じく す
1毎 上 裏 陽 楼
11禅 室 宴 三 空
神祠
共 に戯 誰 し
遥 か に望 む竜 山 の樹
12神 祠 同 六 趣
児童
2遥 望 竜 山 樹
13児 童 共 戯 誰
が、 後 者 では これ と は 逆 に 、豊 作 に恵 ま れ た 農 村 で来客 を 歓 迎 す る農 婦 と 母
相 い驚 顧 す
静勝寺は江陵 (
湖 北省 江陵 県 ) にあ った 寺 。 のち の史 料 にな るが ﹃
清 一統
を助 け て健 気 に走 り 回 る幼 児 の姿 がそ れ ぞ れ 描 か れ て いる。 儲 光 義 の詩 にお
猿鳥
志 ﹄ 巻 二 百 六 十 九 、 荊 州 府 の条 に 、 ﹁
在 江 陵 県 西 十 五 里。 唐 成 亨 間 建 。﹂ (
江
いて児 童 と 稚 子 が 登 場 す る は こ の詩 に限 ら れ る か ら 、 そ の姿 は農 村 と 密 接 に
14猿 鳥 相 驚 顧
陵 県 の西 十 五 里 に在 り 。唐 の成 亨 (
六 七 〇 ∼六 七 四 )の問 に建 つ。)と あ る 。
8
劃
隠
掲
隷
に
詩
の
甫
杜
に 一例 が 見 え る の で 、 ま ず こ れ を 引 こ う 。
(
七 〇 一∼ 七 六 二 ) に は 、 詩 中 に お い て は ■贈 友 人 三 首 ﹂ ︿其 三 ﹀ (全
結 び つ い て いた こ と が う か が わ れ る 。
李白
二 四 句 。 ﹁全 唐 詩 ﹄ 巻 一七 こ
春 に 長 安 を 出 て 、 秋 に い った ん 東 魯 の 家 に 戻 り 、 天 宝 五 載
(江 蘇
(
七 四 六 )、 こ こ
を 去 っ て 南 遊 し て か ら 三 年 が た った 時 に 、 幼 い 娘 と 息 子 を 思 って 金 陵
桃 辺 、 ⋮ ⋮ 小 児 名 伯 禽 、 与 姉 亦 斉 肩 ﹂ (嬌 女
ふで
三 三 句 。 ﹁全 唐 詩 ﹄ 巻 二 〇 四 ) に は 次 の よ う な 描 写 が あ る 。
こ の ほ か の 児 童 の 用 例 に つ い て も 見 て お こ う 。 實 翼 ﹁懐 素 上 人 草 書 歌 ﹂ (全
とり
つ き
名 は 伯 禽 、姉 と 亦 肩 を 斉 し く す ) と 、そ の名 が 見 え て い る 。
字 は 平 陽 、 花 を 折 って 桃 辺 に
省 南 京 市 ) で 詠 じ た 詩 で あ る 。 そ の第 十 五 句 以 降 に 、 ﹁嬌 女 字 平 陽 、 折 花 衙
世 を 慢 り功 業 を 薄 んず
衙 る、 ⋮⋮ 小 児
かろ
1慢 世 薄 功 業
胸 中 の画無 き に非 ず
あなど
2非 無 胸 中 画
誌浪
あね
3誰 浪 万 古 賢
以 て児童 の劇 と 為 す
狂僧
万古 の賢
4以 為 児 童 劇
1狂 僧 揮 翰 狂 且 逸
独 り 天機 に任 せ て格 律 を 催 く
翰 を 揮 う こと 狂 に し て且 つ逸 な り
李白全集編年注釈﹂ (
巴蜀書社、 二〇〇〇)は、 こ の詩
2独 任 天 機 催 格 律
安 旗 主 編 ﹃新 版
この
四句 は、 自 分 は 秘 策 を も ち な が ら も 功 業 を 立 て る こ と を 軽 ん じ て いた 、 そ し
を 至徳 元 載 (七 五 六 )、
魚朧
作 者 の實 翼 に つい ては 、 ﹁
全 唐 詩 ﹄ に ﹁官 御 史 。﹂ (
官 は 御 史 。) と あ る だ け
児 童 の戯 る るを 嫌う
いと
量 に貴 か ら ざ ら ん や
5魚 朧 絹 素 量 不 貴
ロハ局 促
絹素
て 昔 の 賢 人 た ち を 軽 蔑 し 、 彼 等 の事 跡 は 子 供 た ち が 騒 が し く 遊 び 回 った よ う
6 ロハ嫌 局 促 児 童 戯
﹁南 陵 別 児 童 入 京 ﹂ (
全 一二 句 。 ﹁全 唐 詩 ﹄ 巻 一七 四 ) で は 次 の よ う に
ただ
な も の で 、 児 戯 に 等 し い と 見 な し て いた こ と を 述 べ る 。
また
拾 遺 ﹄ 巻 四 九 ) に 、 ■有 實 御 史 翼 云 ⋮ ⋮ 。﹂ と あ る の に 基 づ い た に 過 ぎ な い 。
﹁自 叙 帖 ﹂ (﹃唐 文
新 た に熟 し て山 中 よ り帰 る
第 五 ・六 句 は 、 懐 素 上 人 の よ う な 人 物 は 筆 を 揮 う に し て も 紙 や 絹 布 な ど は 小
で 他 の 経 歴 は 一切 わ か ら な い。 ﹁
全 唐 詩 ﹄ の記 述 も 、 懐 素
白酒
黍 を 啄 み て秋 正 に 肥 ゆ
言 う 。 ﹁児 童 ﹂の語 が 詩 題 に は 見 え る が 、詩 中 で は ﹁児 女 ﹂の語 を 用 い て い る 。
1白 酒 新 熟 山 中 帰
黄難
ついば
2黄 難 啄 黍 秋 正 肥
さ す ぎ て 珍 重 せ ず 、 狭 く て 縮 こ ま る よ う な と こ ろ へ書 き つけ る の は 子 供 の 遊
ひ
白 酒 を酌 む
く
童 を呼 ん で難 を 烹
び の よ う で 大 嫌 い で あ る 、 と いう の で あ ろ う 。
こ
3呼 童 烹 難 酌 白 酒
児女 は嬉 笑 し て人 の衣 を 牽 く
高 適 (七 〇 二 ∼ 七 六 五 ) の ■酬 秘 書 弟 兼 寄 幕 下 諸 公 ﹂ (
全 五 二 句 。 ﹃全 唐 詩 ﹂
4児 女 嬉 笑 牽 人 衣
李白 全 集 編 年 注 釈 ﹂と磐 鋲 主 編 ﹃
李 白 全集 校 注 彙 釈 集 評 ﹄ (
百
巻 二 一 一) は 、 天 宝 九 載
前掲 ﹃
新版
花 文 芸 出 版 社 、 一九 九 六 ) に よ れば 、 こ の詩 は 天宝 元年 (
七 四 二) の秋 、 南
送 って 清 夷 軍 (河 北 省 懐 来 県 の 東 南 ) に 赴 く 途 中 、博 陵 (河 北 省 定 県 ) を 通 っ
26 憶 昨 猶 児 童
25 相 思 三 十 年
今来
憶う 昨
相 い思う 三十 年
ひら
青紫を抱く
こ の部 分 は 、開 元七 年 (
七 一九 )、高 適 が 二十 歳 の時 に初 め て長 安 で出 会 っ
(河 南 省 封 丘 県 ) か ら 吏 卒 を
陵 (
山 東 省 曲 阜 市 の西南 ) の地 から 長 安 へ上 ろう と し た時 の作 であ る。 召 使
た時 の作 であ る 。
27 今 来 抱 青 紫
忽 ち鵜 鴻 を披 く が若 し
猶 お児 童 た り し を
28忽 若 披 鵜 鴻
(七 五 〇 ) の 秋 、 封 丘
いの子 供 によ く 肥 え た鶏 を煮 さ せ、 醸 さ れ た ば か り の酒 を 飲 ん で いると 、 父
と の別 れが 近 づ い て いる とも 知 ら ず に、 幼 い娘 と息 子 が笑 いな が ら 李 白 の衣
服 を 引 っ張 る の であ る 。詩 題 の ﹁
児 童 ﹂は ﹁贈 友 人 三首 ﹂︿
其 三﹀と は異 な り 、
明 ら か に李 白 の子 、幼 い長女 と そ れ より 数 歳 年 少 の長男 を指 し て言 って いる 。
こ こ に見 え る 二人 の子 供 に つ いて は、 ﹁
寄 東 魯 二稚 子在 金 陵 作 ﹂ (
全 二六句 。
﹃
全 唐 詩 ﹄ 巻 一七 二) でも 言 及 さ れ る。 こち ら の詩 は 天宝 三載 (
七 四四 ) の
9
正
秋
藤
後
た 張 司 業 と の 交 遊 を 回 顧 し つ つ、 彼 を 賞 讃 し た も の で あ る 。 余 正 松
粉 を 、 自 分 が 帰 る 日 ま で 子 供 た ち が む や み に 触 れ て 取 り 去 って し ま わ な い よ
を離 れ、 源 城
(安 徽 省 清 流 県 ) に 赴 任 す る に 際 し て 、 気 に 入 って い る 竹 の 竹
文 注 評 ﹄ (中 華 書 局 、 二 〇 〇 九 ) は 、 第 二 十 六 句 の ■猶 児 童 ﹂ に つ い て 、 ■如
う 、 見 守 ってほ し いと 崔端 に依 頼 し て いる の であ る。 劉 禺 錫 が竹 を 愛 好 し て
﹃高 適 詩
児 童 時 感 情 那 様 淳 撲 真 誠 。﹂と 指 摘 し て い る 。今 は 高 位 に 上 って い る 張 司 業 が 、
澗 涼 を 含 み、 雨余
い た こ と は 、 ■西 郊 養 疾 、 聞 暢 校 書 有 新 什 見 贈 、 久 停 不 至 、 先 寄 此 詩 ﹂ (﹃全
唐 詩 ﹄ 巻 一八 七 ) に 、 ﹁臆 夕 含 澗 涼 、 雨 余 愛 箔 緑 ﹂ (
臆夕
以 前 か ら 子 供 の よ う に 素 朴 で誠 意 を も って いる こ と を 言 う と 見 な す の で あ る 。
銭起 (
七 二 二 ∼ 七 八 〇 ) の ﹁過 王 舎 人 宅 ﹂ (全 一四 句 。 ﹃
全 唐 詩 ﹄巻 二 一
二八 )
門 に 入 り て花 柳 暗 し
の か は は っき り し な い 。
新 竹 、 ⋮⋮ ﹂ 詩 にお け る児 童 が、 自 身 の子 供 を 指 す のか 、近 隣 の子 供 を 指 す
笏 緑 を 愛 す ) と 述 べ て い る こ と か ら も う か が わ れ る 。 た だ し 、 ■将 往 源 城 恋
1入 門 花 柳 暗
知 る 是 れ近 臣 の居 な るを
の末 句 に も 児 童 の 語 が あ る 。
2知 是 近 臣 居
7難 犬 楡 仙 薬
児童 は道 書 を 受 く
難犬 は仙 薬 を 楡 み
たり す る こと は あ っても 、李 白
寺 や 別 荘 で 働 く 子 供 を 指 し た り 、 儲 光 義 の 詩 の よ う に 農 村 の子 供 た ち を 指 し
こ こ ま で の 用 例 を 見 る 限 り 、﹁児 童 ﹂の 語 は 張 説 や 銭 起 の詩 に 見 え た よ う に 、
8児 童 受 道 書
の子 供 を 指 し て 用 い ら れ る こ と は 皆 無 で あ る こ と が 注 意 さ れ よ う 。 李 白 の 詩
十数竿
ヨ (七 四 七 )、制 科 を 受 験 し て 落 第 し た あ と の作 、﹁贈
比部 瀟 郎 中 十 兄 ﹂ (
全 二〇句 。 ﹃
詳 注 ﹄ 巻 一) に 見 え る 。 こ の詩 に は ■甫 従 姑
最 も 早 い例 は 、天 宝 六 載
順 に 検 討 し て み た い 。 制 作 時 期 は ﹃杜 詩 詳 注 ﹄ (以 下 、 ﹃
詳 注 ﹄) に よ る 。
は ﹁児 童 ﹂ の 語 が 十 六 例 見 え て い る 。 以 下 、 こ れ を 制 作 時 期 の 早 いも の か ら
そ れ では 杜 甫 の詩 に お いて はど う であ ろう か 。前 述 し た よう に杜 甫 の詩 に
一一 杜 詩 と ﹁
児童 ﹂
に お い て も 詩 中 で は ﹁児 女 ﹂ の 語 を 用 い て い た 。
﹁南 陵 別 児 童 入 京 ﹂ を 例 外 と し て 、 詩 人 自 身
こ の詩 は 王 維 が 中 書 舎 人 に任 じ ら れ た 乾 元 元 年 (
七 五 八)、 輌 川荘 を訪 ね
た時 の作 であ る 。 第 七句 は ﹁
神 仙 伝 ﹂ に、 准 南 王 が 昇 天 した 時 、 あ と に 残 さ
れ た仙 薬 を 鶏 と 犬 が な め 、 こ れも 昇 天 し た 故 事 を踏 まえ る。 第 八句 は 、 仙 人
に 仕 え る児 童 が 道 教 を 説 いた 神 秘 的 な 書 物 を 手 に し て い ると 言 う の であ ろ
う 。 いず れ の句 も 輌 川 荘 のた たず ま いを 仙 界 に 喩え た表 現 であ る。
のち の例 にな る が 、
章応物 (
七 三 七 ∼ 八 〇 四 ?) の七 絶 ﹁
将往源城恋新竹、
しんいん
車 を停 め去 ら んと 欲 し て叢竹 を続 る
めぐ
簡 崔 都 水 示 端 ﹂ (﹃
全唐 詩﹄ 巻 一八七 ) には 次 のよう に言 う 。
停車欲去続叢竹
ひとえ
偏愛新伸
均十 耐
数牌
干 偏に愛す新箔
児童 を し て環 粉 に触 れ し む る莫 か れ
之 子 。﹂ と いう 原 注 が あ り 、薫 郎 中 が お ば の 子 、 つま り い と こ で あ る と 言 う 。
けいふん
莫遣児童触環粉
留 め て待 て幽 人 の 日 に看 ん こと を
10 児 童 恵 討 論
9宅 相 栄 姻 戚
知 ら る る こと 真 に幼 き よ り す
児童 にも 討論 を 恵 む
宅相
刺 史 と し て 赴 任 す る 時 の作 で あ る 。 崔 都 水 は 妹 婿 の崔 緯 。 端 は族 弟 の土
早端 。
謀
姻戚を栄えしめ
留待幽人 日看
ち ょし ゅう
11 見 知 真 自 幼
こ の詩 は 建 中 三 年 (
七 八 二) の夏 、 比 部 員 外 郎 と し て務 めた 長 安 か ら 源 州
環 粉 は 竹 幹 の 表 面 に 出 る 白 い粉 。 劉 禺 錫 ﹁和 楽 天秋 涼 閑 臥 ﹂ (
﹃
全唐詩﹄巻三
12謀 拙 悦 諸 昆
(2)
残粧在り)
貫索 断 え 、 竹 粉
拙 に し て諸 昆 に憶 ず
は
五 五 ) に 、 ﹁荷 珠 貫 索 断 、竹 粉 残 粧 在 ﹂ (
荷珠
第 十句 の解 釈 は 、 ﹁児 童 ﹂ を 薫 郎 中 と と る のか 、 杜 甫 等 と と る のか に よ っ
はかりごと
と 詠 じ ら れ る 竹 粉 と 同 じ 物 で あ ろ う 。 転 ・結句 は 長安 の西郊 にあ った 住 ま い
10
劃
隠
掲
隷
に
詩
の
甫
杜
ら 量 に能 く 五斗 米 の為 に 、 腰を 折 り て、 郷 里 の小 人
に 向 か わ ん 。)と いう 、よ く 知 ら れ た 言 葉 で あ る 。 ﹃九 家 集 注 杜 詩 ﹄ 巻 七 も ■陶
折 腰 、 向 郷 里 小 児 。﹂ (我
■閑 居 賦 ﹂ の 一節 を 引 く の み だ が 、 ﹃九 家 集 注 杜 詩 ﹄ 巻 十 八 は 、 ■言 方
淵明 伝 ﹂ を 出 典 と し て引く 点 で は同 様 であ る。 た だ 、出 典 を 示 し た あ と で、
て 二分 さ れ て い る よう であ る。 ﹃
詳 注 ﹄ は ﹁児 童 ﹂ の 典 拠 と し て 、 先 に 引 い
た溢 岳
恵むに討
あた
■故 公 又 云 、郷 里 小 児 狐 白 裏 。 項 領 成 、言 其 長 成 而 得 意 也 。﹂ (
故 に公 又 云 う 、
児 童 時 、 得 薫 兄 恵 以 討 論 之 益 臭 。﹂ (児 童 た り し 時 に 方 り て 、 薫 兄
論 の益 を 以 て す る こ と を 得 た る を 言 う 。) と 指 摘 す る 。 杜 甫 た ち が 年 少 だ っ
(七 六 七 )、 憂 州 の 東 屯
もと
﹃詳 注 ﹂ に
﹃杜 臆 ﹂ は 、﹁郷 里 後 輩 、挟 勢 驕 人 、固 不 足 責 、乃 故 旧 在 朝 、而 礼 数 亦 絶 、
確 か に ﹁投 簡 成 華 両 県 諸 子 ﹂ と 発 想 を 通 わ せ る 部 分 が あ る 。 ま た
白 裏 ﹂ (五 陵 の 豪 貴 は 反 って 顛 倒 し 、 郷 里 の 小 児 は 狐 白 裏 ) と 見 え て い る 。
で 書 か れ た ﹁錦 樹 行 ﹂ (﹃詳 注 ﹄ 巻 二 〇 ) に 、 ﹁五 陵 豪 貴 反 顛 倒 、 郷 里 小 児 狐
と 指 摘 す る 。 こ こ に 引 か れ る 杜 詩 の句 は 、 大 暦 二 年
郷 里 の 小 児 は 狐 白 裏 と 。 項 領 成 る は 、 其 の 長 成 し て 意 を 得 る を 言 う な り 。)
﹃杜 詩 新 補 注 ﹄ (
中 州 古 籍 出 版 社 、二〇 〇 二)
た時 に薫 郎 中 が 物事 の是非 を 教 え てく れ た 、 と 解 す る のであ る。 これ に 対 し
て 現 代 の 注 釈 、例 え ば 、信 応 挙
は、 次 のよ う に説 明 す る。
恵 、愛 。 ⋮ ⋮ 。 恵 討 論 、言 其 児 時 就 愛 討 論 、此 指 其 好 研 討 問 題 義 。 恵 、
釈 為 慧 也 通 、 二字義 同。
引く
尚 何 望 乎 。﹂ (郷 里 の後 輩 、 勢 を 挟 ん で 人 に 驕 る は 、 固 よ り 責 む る に 足 ら ず 、
つま り 、 薫 郎 中 は 年 少 の こ ろ か ら 討 論 を 好 ん で い た 、 も し く は 子 供 の 時 分
か ら 討 論 に 秀 で て いた 、 と 解 す る の で あ る 。 こ の 場 合 は 、 ﹁児 童 た り し と き
乃ち故旧
誰か独り悲しむ
確 か であ る。
ふしゅう
き ょう そ ん
﹁禿 村 三 首 ﹂ ︿其 三 ﹀ (全 一六 句 。 ﹁
詳 注﹄ 巻 五 ) は、 至 徳 二載
閏 八月 、 鄭 州 の完 村 (
陳 西省 富 県 の西 北 ) に疎 開 さ せ てあ った家 族 を 訪 ね た
(七 五 七 )
な いの に高 貴 な 地 位 に 就 いて いる者 を 軽 蔑 す る 意 味 が こ めら れ て いる こと も
と いう 意 味 が あ る の は 当 然 と し て 、 陶 淵 明 の 言 葉 に 見 ら れ る よ う に 、 才 能 も
朝 に 在 り 、 而 る に 礼 数 亦 絶 ゆ 、 尚 何 を か 望 ま ん や 。) と 言 う 。 杜
なお
討 論 に 恵 し ﹂ な ど と 読 む こ と に な ろ う 。 いず れ の解 に 従 う に し て も 、 こ の句
甫 が ひ ど い寒 さ に 苦 し ん で い る 時 に 、 郷 里 の と る に 足 ら な い後 輩 た ち は 今 を
さと
の ﹁児 童 ﹂ は 、 ま だ 成 人 に は 達 し て いな いが 一定 の年 齢 に は 達 し て い る 年 少
と き め く 勢 い で 人 を 見 く だ し て い る と 言 う の で あ る 。 ﹁児 童 ﹂ に は 年 少 の 者
(七 五 一)、 ■三 大 礼 賦 ﹂ を 献 じ た 後 、 長 安 で 任 官 を 待 っ て
者 であ る。
つ いで天 宝 十 載
い た 時 に 、成 陽 県 と 華 原 県 の知 人 に 宛 て た ﹁投 簡 成 華 両 県 諸 子 ﹂ (全 一四 句 。
長 安 の苦 寒
﹃
詳 注 ﹄ 巻 二) を 見 よう 。
3長 安 苦 寒 誰 独 悲
骨 折 れ んと 欲 す
辞 す る莫 か れ酒 味 の薄 き を
杜陵 の野老
9莫 辞 酒 味 薄
4杜 陵 野 老 骨 欲 折
項領成り
な
郷 里 の児 童
時 に書 かれ た 。
7郷 里 児 童 項 領 成
黍地
酒 を 携 え て杜 甫 を 訪 ね てき た土 地 の父 老 が 語 った 部分 を 引 いた 。 こ の年 の
や
人 の耕 す 無 し
10黍 地 無 人 耕
既 に未 だ 息 ま ず
礼数絶 ゆ
兵革
尽 く東 征 す と
朝 廷 の故 旧
児童
8朝 廷 故 旧 礼 数 絶
﹃
詳 注 ﹄ は 、 ■郷 里 小 児 、 出 陶 潜 伝 。﹂ (
郷 里 の小 児 は 、陶 潜 伝 よ り 出 づ 。)
11兵 革 既 未 息
辞 任 す る 時 の 逸 話 が 記 録 さ れ て い る 。 郡 の督 郵 が視 察 す る にあ た って、 礼 装
四月 、 杜 甫 は 長 安 か ら脱 出 し て鳳 翔 (
陳 西 省 鳳 翔 県 ) に たど り つき 、 五 月 に
12児 童 尽 東 征
で 出 迎 え る よ う に 下 吏 に 言 わ れ る と 、 彼 は そ れ に堪 え ら れず 、 印 綬 を 解 き 、
は左 拾 遺 を 授 け ら れ て いた。 九 月 には 長 安 が 、 十 月 に は洛 陽 が収 復 さ れ 、 粛
と言 う 。 昭 明 太 子 ﹁陶 淵 明 伝 ﹂ (
﹃
全 梁 文 ﹄ 巻 二〇 ) に は、 彼 が彰 沢 の県令 を
即 日 去 って し ま った の だ と いう 。そ の 時 に 彼 が 吐 い た の が 、■我 山
豆能 為 五 斗 米 、
11
正
秋
藤
後
宗 も 長 安 に戻 った が 、 河 北 一帯 で は依 然 と し て戦 乱 が続 いて いた 。 鄭 州 か ら
五律 ﹁
江 振 ﹂ (﹁
詳 注﹄ 巻 九) は、 上 元 元 年 (
七 六 〇) 夏 、 成 都 郊 外 の洗 花
こ でも 播 岳 ﹁閑 居 賦 ﹂ を 示す 。 し かし 、 こ こ で用 いら れ る ﹁
児童﹂は明らか
児童報急流
江涯柴門外
林 を 下 れ ば高 さ数 尺
児童
江 は 漂 る柴 門 の外
草 堂 で書 か れ た 。 起 ・頷聯 を引 こう 。
に子 供 を 指 す も の では な い。 杜 甫 は苛 酷 な 徴 兵 に よ って耕 作 す る者 の いな く
下林 高 数 尺
杖 に 椅 れ ば中 洲 没 す
も 多 く の兵 卒 が 徴 発 さ れ た ので あ ろう 。 ﹃
詳 注 ﹂ は ■児 童 ﹂ の典 拠 と し て こ
な った 農 村 の悲 惨 さ を 強 調す るた め に、 年 端 の行 か な い者 と いう 意 味 を も つ
椅杖没中洲
急 流を 報 ず
■
児 童 ﹂ の語 を 敢 え て用 いて、 兵 士 の徴 発 が 続 く 現 状を 伝 え よう と し た の で
供 たち が知 ら せ てく る 。洗 花 渓 が し ば し ば氾 濫 した こと は 宝 応 元年 (
七 六 二)
錦 江 の支 流 であ る 洗 花渓 の流 れ が速 く な り 、 水 か さ が急 に増 し た こと を 子
杜詩 の ■
児 童 ﹂ が 我 が 子 の意 味 で用 いら れ る よう に な る のは、 秦 州 (
甘粛
の作 で あ る ﹁渓 振 ﹂ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 = ) に も 、 ﹁当 時 洗 花 橋 、 渓 水 縄 尺 余 、
はあ るま いか 。
省 天水 市 ) に到 着 し て以後 であ り 、 これ 以 前 の用 例 と は様 相 を 異 にす る 。 先
⋮ ⋮ 秋 夏 忽 涜 溢 、 量 惟 入 吾 廉 ﹂ (当 時
江漬よ
忽 ち 迂 溢 し 、山
豆に 惟 だ 吾 が 盧 に 入 る の み な ら ん ) と 述 べ ら れ て いる 。 ﹃詳
纏 か に 尺余 、 ⋮ ⋮ 秋
わず
回り し て述 べ てお く な ら ば、 華 州 司 功 参 軍 の官 を棄 て て華 州 (
陳西省華県)
夏
洗花橋、渓水
を 旅 立 ち 、 家 族 と と も に 困難 な旅 程 を た ど るよう に な って から は、 我 が 子 の
注 ﹄ は ﹁急 流 ﹂ の 語 に は 、出 典 と し て 飽 照 ﹁還 都 道 中 三 首 ﹂ ︿其 一﹀ (﹃全 宋 詩 ﹂
はんいつ
存 在 を 常 に意 識 せ ざ る をえ なく な った こと が 、 そ の要 因と な って いよ う 。
あ
﹃杜 臆 ﹄ 巻 四
飛沫 を 騰 げ 、 回風
巻 八 ) か ら 、 ﹁急 流 騰 飛 沫 、 回 風 起 江 漬 ﹂ (急 流
水 没 中 洲 、 何 其 騨 也。
三 四 は 急 流 を 頂 き て来 る 、児 童
中洲を没するこ
こ の ■児 童 ﹂ は 、 宗 文 か 宗 武 を 言 う と 考 え る の が 自 然 で あ ろ う 。 杜 甫 に は
と 、 何 ぞ 其 れ 騒 か な る や。
にわ
已 に高 さ 数 尺 、 因 り て門を 出 で て杖 に椅 り て望 む。 水
相 い報 じ 、遂 に 起 ち て 床 よ り 下 れ ば 、
三 四頂 急 流 来 、 児童 相 報 、 遂 起 而 下 床 、 已 高数 尺、 因 出 門 衙 杖 而 望 。
は頷 聯 に つ いて、 次 のよう に言 う 。
五律 ﹁
秦 州 雑 詩 二十首 ﹂ (﹃
詳 注 ﹂ 巻 七 ) は 、 乾 元 二年 (
七 五九 ) 秋 、秦 州
薬 を採 り て吾 将 に老 いんと す
り 起 こ る ) の 句 を 引 く が 、 第 二 句 に つ い て は 言 及 し な い。 た だ
採薬吾将老
児童 にも 未 だ 聞 かし め ず
(
甘 粛 省 天 水 市 ) で書 か れ た。 ︿
其 十 六 ﹀ の末 聯 に は次 のよう に言 う 。
児童未遺聞
童 子 に問 え ば 、 言う
こ の二句 に つ いて ﹃
詳注﹄ は、﹁
採 薬 二句 、 即 晩 唐 詩 ﹃
山 下 問童 子 、 言 師
採 薬 去 ﹄ 所 本 。﹂ (
採 薬 の二句 は、 即 ち 晩 唐 詩 の ﹃
山下
児輩
師 は薬 を採 り 去 く と ﹄ の本 つ く所 。) と 、後 代 への影 響 を 指 摘 す る のみ であ
る。 た だ ﹃
読 杜 心 解 ﹄ 巻 三 は、 ﹁
結 言 此 意 非 児 輩 所 知 。﹂ (
結 は 此 の意
の知 る所 に非 ざ る を 言う 。) と指 摘 し 、 辺 連 宝 ﹃
杜律 啓 蒙 ﹄ 五言 巻 二は 、 ■真
(七
(錦 里 先 生 ) の家 を 訪 問 し た こ と
七 律 ﹁南 鄭 ﹂ (﹁
詳 注 ﹄ 巻 九 ) も 、先 の ﹁江 振 ﹂ が 書 か れ た 同 じ 上 元 元 年
(江 発 蛮 夷 振 )﹂ (﹃詳 注 ﹄ 巻 一〇 ) が あ る が 、 こ ち ら に 子 供
も う 一首 ﹁江 振
こく
隠 不令 人 知 、 故 児 童 亦未 遣聞 也 。﹂ (
真 隠 は 人 を し て知 ら し めず 、 故 に児童 に
か
の姿 は 見 ら れ な い 。
とう
も 亦 未 だ 聞 か し め ざ るな り 。) と 言 う 。 杜 甫 が こ の時 、 秦 州 の東 何 谷 を隠 遁
の場 所 と定 め て いた か は は っき り し な い。 ﹃
読 杜 心 解 ﹂ が指 摘 す る よ う に、
六 〇) の秋 の作 であ り 、南 隣 に住 む 朱 山 人
子供 た ち は ま だ 幼 いか ら 父 の本 心 を 告 げ ても 理 解 し ても らえ そう にな い の で
烏角巾
を詠 ず る。 前 半 四句 を 引 こう 。
錦里先生烏角巾
錦 里先 生
聞 か せな い、 と いう のが妥 当 な解 釈 であ ろう 。 こ の児 童 は明 ら か に杜 甫 の子
供 たち を 指 す 。
12
劃
隠
掲
隷
に
詩
の
甫
杜
園収芋栗不全貧
賓 客 を 看 る に慣 れ て児 童喜 び
園 に芋 栗 を 収 め て全 く は 貧 な らず
我 容 貌 亦 已 老 醜 也 。﹂ (公
楚 、 留 別 章 梓 州 諸 公 、 故賦 此詩 。 言 我 入 蜀 門 、 歳 月 已久 、 量 惟 長 大 児 童 、 而
﹃
刻 杜 少 陵 先 生 詩 分 類集 註 ﹄ 巻 一があ り 、 こ こ では ﹁
公 因留 蜀 之 久 、 将 之 呉
慣 看 賓 客 児 童喜
塔 除 に食 す るを 得 て鳥 雀 馴 る
う り つ
得食塔除鳥雀馴
か んと し て、 章 梓 州 諸 公 に留 別 す 、 故 に此 の詩 を 賦 す。 言 う こ こ ろは 我
蜀
蜀 に留 ま る こと の久 し き に 因 り て、 将 に呉 楚 に之
ゆ
﹃
詳 注 ﹄ は 第 三 句 の典 拠 と し て ﹃
後 漢 書 ﹄ 巻 三 十 一、 郭 汲 (
仮)伝を 引
え な い。 い っぽう ﹃
九家 集 注 杜 詩 ﹄巻 二十 一は 魏 野 の詩句 、﹁
児童不慣見車馬、
よ り 簡 潔 に 、 ﹁我 入 蜀 多 年 、 幼 者 長 、 壮 者 老 臭 。﹂ (我
我 が 容 貌 も 亦 巳 に 老 醜 な り と 。) と 言 い 、 ま た 盧 元 昌
蜀 に入 る こ と多 年 、
﹃杜 詩 閲 ﹄ 巻 十 六 に は
門 に入 り 、 歳 月 已 に久 し 、 山
豆に 惟 だ 児 童 を 長 大 に す る の み な ら ん や 、 而 し て
車 馬 を 見 る に 慣 れ ず 、 走 って藍 花 の深き 処 に 入 り
砲 。 し かし 、 ﹃
後 漢 書﹂ 郭 仮 伝 に ﹁
童 児 ﹂ の語 は あ っても 、 ﹁
児 童 ﹂ の語 は 見
走 入藍 花 深 処 蔵 ﹂ (
児童
(七 五 〇 ) こ ろ 、 宗 武
かく
幼 は 長 じ 、 壮 は 老 いた り 。) と 言 う 。 宗 文 が 天 宝 九 載
こ れ に 従 え ば 、 第 三 句 は 、 単 に 杜 甫 の よ う な 客 人 の訪 問 に 慣 れ て 子 供 た ち が
厳 武 が今 度 は 剣 南 東 西 両 川節 度 使 と し て成 都 に 着 任 す る こと を 知 り 、 広 徳 二
い った んは 蜀 地 か ら 去 る こと を 決 意 し た 杜 甫 であ った が、 庇 護 者 であ った
り て 蔵 る ) を 引 い て 、 ﹁則 今 慣 看 而 喜 。﹂ (則 ち 今 は 看 る に 慣 れ て 喜 ぶ 。) と 述
が そ の 四年 後 に生 ま れ た と す れば 、 二人 は す でに 十 四歳 と 十 歳 にな って いた
喜 ぶ の では な く 、 質素 な生 活 の中 にあ って、 子 供 た ちも 来 客 に対 し て心 のこ
年 (
七 六 四) 二月 、 閲 州 か ら成 都 に戻 る。 七 律 ﹁将赴 成 都 草 堂 途 中 有 作 、 先
こと にな る。
べ て い る 。 ま た 黄 生 ﹃杜 詩 説 ﹂巻 八 は 、﹁看 、平 声 。 即 看 待 之 看 、用 俗 語 入 詩 。﹂
も つ
も った も て な し を し て く れ る と いう こ と に な ろ う 。 こ の ﹁児 童 ﹂ は 朱 山 人 の
寄厳鄭公、五首﹂ ︿
其 二﹀ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 コニ) は 、成 都 への帰 途 の作 であ る 。
(
看 は 、平 声 。 即 ち 看 待 の 看 に し て 、俗 語 を 用 て 詩 に 入 る 。) と 言 っ て い る 。
子 供 た ち で あ ろう 。
処処
清江
しょうい
あ った 章 舞 が 開 い てく れ た送 別 の宴 で の感 慨 を 述 べた ■
将適呉楚留別章使君
我 来 り て蜀 門 に入 る
が 下 品 な 客 人 を 招 き 入 れ た と し ても いぶ か ら な いで ほ し い、 せ め て草 堂 で
白顔を帯ぶ
1処 処 清 江 帯 白 顔
猶 お残 春 を 見 るを 得 ん
(四 川 省 三 台 県 ) か
故園
(七 月 、 広 徳 と 改 元 。 七 六 三 ) 十 二 月 、 梓 州
2故 園 猶 得 見 残 春
怪 し むを 休 めよ 児 童 の俗 客 を 延く を
宝 応 二年
5休 怪 児 童 延 俗 客
鵡鴨 を し て比 隣 を 悩 ま し め ず
ら 長 江 に 出 て 蜀 の 地 を 離 れ よ う と し た 杜 甫 の た め に 、 梓 州 の 刺 史 ・留 後 で
留後兼幕府諸公、得柳字﹂ (
全 三 六句 。 ﹁
詳 注 ﹄ 巻 一二) の冒 頭 で は次 のよう
6 不教 鵡 鴨 悩 比 隣
我来入蜀門
歳月
飼 って いる鷲 鳥 や家 鴨 の こと で は 近 隣 に迷 惑 を か け な いよ う に し ま す か ら
や
に言 う 。
歳月亦已久
量 に 惟 だ児 童 を 長 ぜ し め し のみ な ら ん や
と。 俗 客 は 子 供 た ち の友 人 を 指 す 。 ■
鵡 鴨 ﹂ は 以 前 、 近 隣 の畑 を 荒 らす な ど
し た こと が あ った の であ ろう 。 広 徳 元 年 (
七 六 三 ) の冬 、 杜 甫 は弟 の杜 占 が
た
実 際 に杜 甫 が 蜀 地 に 入 って から こ の時 ま でに 、 ほ ぼ 四年 が経 過 し て いた 。
草 堂 の様 子 を 見 に行 く 時 に 、﹁
舎 弟 占 帰 草 堂 検 校 、柳 示 此詩 ﹂(﹃
詳 注﹄巻 一二)
第 五 ・六 句 は 厳 武 に向 か い、 く だ け た 口吻 で告 げ たも のであ る。 子 供 た ち
量惟長児童
自 ら老 醜 と 成 るを 覚 ゆ
亦 巳 に久 し
自覚成老醜
第 四句 に つい ては ほと んど の注 が 、 院 籍 ﹁詠 懐 詩 十 七 首 ﹂ ︿
其 五 ﹀ (﹃
文選﹄
灘
を書 き 、 ﹁鵡 鴨 宜 長 数 、柴 荊 莫 浪 開﹂ (
鵡鴨
宜 し く 長く 数 う べし 、 柴 荊
巻 二 三 ) の 句 、 ﹁朝 為 媚 少 年 、 夕 暮 成 醜 老 ﹂ (朝 に は 媚 少 年 為 れ ど も 、 夕 暮 に
り に 開く こと 莫 か れ ) と 述 べ て いる。 留 守 を し て いる 問 の草 堂 は常 に気 が か
た
は 醜 老 と 成 る ) を 引 い て い る 。 第 三 句 に 言 及 す る も のと し て は 例 え ば 、 郡 宝
13
正
秋
藤
後
杜 占 に対 し てそ の数 を か ぞえ る よう に告 げ た の であ る。 し かも 、 久 々に 草 堂
り で あ った 。 と り わ け 鷲 鳥 や 家 鴨 と い った 生 き 物 は 心 配 の種 で あ った か ら 、
め が簾 を 垂 ら し た 戸 口に出 入り す る の に便 利 だ し 、 子供 たち に は これ も 雛 を
其 の傷 残 に 任 す 莫 し。) と 言 う よう に、 桃 の樹 が あ る の で雛 に給 餌 す る つば
(
燕 は子 を 生 み 、鴉 は 母 に哺 ま る、故 に皆 な 護 り て之 を惜 しむ 。 信 す 莫 し は 、
まも
に 戻 る 杜 甫 は 、こ の詩 の ︿其 五 ﹀ に 、﹁昔 去 為 憂 乱 兵 入 、今 来 已 恐 鄭 人 非 ﹂ (昔
も つ烏 を 打 って傷 つけ な いよう に戒 め て いる こと を 言 う 。 ■
乳 燕 ﹂ の語 は 例
はぐく
去 り し は 乱 兵 の 入 る を 憂 え し が 為 な り 、 今 来 れ ば 巳 に 鄭 人 の非 な る を 恐 る )
えば飽照 ﹁
詠 採 桑 ﹂ (﹁
玉台 新 詠 集 ﹂ 巻 四) に、﹁乳 燕逐 草 虫 、巣 蜂 拾 花 薯 ﹂ (
乳
からす
と あ る よ う に 、 近 隣 の 人 々 の人 情 が 変 化 し て い る こ と を 危 惧 し て いた か ら 余
燕 は草 虫 を 逐 い、 巣 蜂 は花 薯 を 拾 う ) と いう 先 例 が あり 、 杜 甫 も ■
題省中院
青 春 深 し) と 述 べ て いる が、 ■
慈鵬 (
鴉 )﹂ の語 は
遊糸
計 に 迷 惑 を か け る こ と を 心 配 し た の で あ る 。 ﹃詳 注 ﹄ は 、 ■児 童 ﹂ の 典 拠 と し
たんげき
風 を 排 す る の影 、 林 鳥
へん ぽ
反 哺 の 声 ) と 言 う 。 ﹁反 哺 ﹂ と は 、 カ ラ ス
﹁補 亡 詩 六 首 ﹂ ︿其 一﹀ (﹃
文 選 ﹄ 巻 一九 ) に 、﹁傲
の雛 が 成 長 し た 後 、 親 元 に 戻 って 口 に 含 ん だ 餌 を 与 え る こ と 、 親 に 恩 返 し を
(丹 鶴
送 二 十 三 舅 録 事 之 摂 柳 州 ﹂ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 二 三 ) に は 、﹁丹 鶴 排 風 影 、林 烏 反 哺 声 ﹂
杜 甫 以 前 の 用 例 を 見 な い。 た だ 、 こ の詩 よ り の ち 、最 晩 年 の 作 に な る が 、﹁奉
乳燕
壁﹂ (
﹃
詳 注 ﹂ 巻 六 ) で、 ﹁
落 花 遊 糸 白 日静 、 鳴 鳩 乳燕 青 春 深 ﹂ (
落花
そん き
児
白 日静 か に、 鳴 鳩
て ﹃
晋 書 ﹄ 巻 八 十 八 、 孫暑 伝 を 引 いて いる 。
字 は 文 度 、呉 国 富 春 の人 、 呉 の伏 波 将 軍秀 の曾 孫 な り 。 暑
孫 暑 字 文 度 、 呉 国富 春 人 、 呉 伏 波 将 軍 秀 之曾 孫 也 。 暑 為 児 童 、 未 嘗 被
呵怒。
孫暑
か ど
童 為 り し と き 、未 だ嘗 て呵 怒 せら れ ず 。
﹁呵 怒 ﹂は 怒 っ て 叱 り つ け る こ と 。孫 暑 は 子 供 の 時 か ら 温 厚 な 性 格 で あ り 、
す る こ と で あ り 、一句 は 束 哲
吸 林 烏 、 受 哺 干 子 ﹂ (吸 吸 た る 林 烏 、 哺 を 子 に 受 く ) と あ る の に 基 づ く 。 そ
人 か ら 叱 ら れ る こ と が な か った の で あ る 。 た だ し 、 ﹃晋 書 ﹄ と 第 五 句 の 意 味
上 の 関 連 は は っき り し な い。 ま た
のよう に慈 愛 心 深 いカ ラ スであ ると 認 め た か ら こそ 、杜 甫 は子 供 た ち に いじ
﹃杜 臆 ﹂ 巻 五 は 、 ﹁不 棄 俗 客 、 輯 睦 隣 人 、
蓋 奔 走 巳 倦 、 思 為 久 住 之 計 臭 。﹂ (
俗 客 を 棄 てず 、 隣 人と 輯 睦 す る は、 蓋 し 奔
め な い よ う に 言 い つけ た の で あ る 。
(四 川 省 奉 節
■熱 三 首 ﹂ ︿其 一﹀ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 一五 ) は 、 ■題 桃 樹 ﹂ を 書 い て か ら 二 年
(七 六 六 ) の夏 、 例 年 に ま し て 暑 気 が 厳 し い璽 州
県 ) で作 ら れ た 。
後、大暦元年
五律
走 し て 已 に 倦 み 、 久 住 の 計 を 為 さ ん こ と を 思 う 。) と 言 っ て い る 。 杜 甫 が 隣
(七
人を 分 け 隔 てな く 迎え 入 れ て仲 睦 ま じ く し 、 草 堂 に落 ち 着 こう と 思 って いた
と いう の は 事 実 で あ ろ う 。
■題 桃 樹 ﹂ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 一三 ) は 、 前 の 詩 が 書 か れ た 同 じ 広 徳 二 年
乞う 寒水 玉と 為 ら ん
七律
5乞 為 寒 水 玉
な
六 四 ) の 晩 春 、 草 堂 へも ど って か ら 、 庭 の 桃 の 樹 を 見 て の感 慨 を 述 べ た 詩 で
願 わ く は冷 秋 菰 と 作 ら ん
小径
いかん
6願 作 冷 秋 菰
児 童 の歳
1小 径 升 堂 旧 不 斜
もと
あ る。
何似
舞 雲 に出 でし に
まか
亦 遮 る に従 す
ぶ う
7何 似 児 童 歳
風涼
五株 の桃 樹
堂 に升 る に旧 斜 め な らず
8風 涼 出 舞 雲
2 五株 桃 樹 亦 従 遮
語 ﹄ 先 進 篇 に見 え る 、弟 子 たち が孔 子 に向 か って抱負 を 述 べた 時 の、 曾 哲 の
尾 聯 は黄 希 ・黄 鶴 ﹃
補注 杜 詩 ﹂ 巻 二十 入 に指 摘 が あ ると おり 、 こ こは ﹃
論
毎 に乳 燕 を 通 ず る に宜 し
よう
簾戸
つね
5簾 戸 毎 宜 通 乳 燕
言 葉 を 踏 ま え て いる 。
まか
慈 鵡 を 打 つに信 す 莫 し
じ あ
児童
莫 春 者 春 服 既 成 、 冠者 五六 人 、 童 子 六 七 人 、浴 乎 祈 、 風 乎 舞 雲 、 詠 而
6児 童 莫 信 打 慈 鵬
頸 聯 は、 ﹃
詳 注﹄ に ﹁
燕 生 子、 鴉 哺 母 、 故 皆 護惜 之。 莫 信 、 莫 任 其 傷 残 。﹂
14
劃
隠
掲
隷
に
詩
の
甫
杜
ヨ市 ○
グ
ぎ
莫 春 には 春 服 既 に成 り 、 冠 者 五 六 人 、 童 子 六 七人 、 折 に浴 し 、 舞 雲 に
暦元年 (
七 六 六 ) の秋 、憂 州 に おけ る作 であ る 。 漢 中王 は容 宗 の孫 であ る 李
璃 のこと 。 杜 甫 は 少 な く とも 長 安 に いた 天 宝 十 三 載 (
七 五 四) こ ろか ら 交 遊
従 って尾 聯 は 、 杜甫 も 子供 の こ ろ、 涼 し い風 に吹 か れ な がら 、 雨 乞 いの舞
を書 いて いる。 し か し 、監 察 御 史 の章 某 と 道 士 の薫某 の事 績 に つ いては 不 明
らも たら さ れ た 彼 の書 簡 を受 け取 ってお り 、■奉 漢 中 王手 札 ﹂(
﹃
詳 注 ﹂巻 一五 )
があ り 、 憂 州 に着 い てか ら 、 こ の詩 を 書 く 以 前 に も帰 州 (
湖北省柿帰県)か
楽 を 行 う 場 所 で あ る 舞 雲 に 出 か け て い った こ と を 、 そ の涼 し さ と と も に 回 顧
であ る。 若 い時 か ら交 遊 が あ った こと は 詩 の内 容 か ら明 ら か であ るか ら 、 お
風 し、 詠 じ て帰 ら ん。
し て い る の で あ る 。 ち な み に 杜 甫 は こ の 詩 の 直 前 に 書 か れ た ■雷 ﹂ (﹃詳 注 ﹂
そ らく 天 宝 年 間 に朧 西 郡公 であ った 李 璃 のも と で知 り合 った の であ ろう 。
1秋 日薫 章 逝
准王
秋日
峡 中 に報 ず
薫 ・章 逝 け り と
お 巻 一五 ) に お い て も 、 ﹁封 内 必 舞 雲 、 峡 中 喧 撃 鼓 ﹂ (
封 内 は必 ず 舞 雲 、 峡 中 は
撃 鼓 喧 し ) と 、 憂 州 で は 畿 内 と は 異 な り 、 雨 乞 い の祭 に 太 鼓 を 打 ち 鳴 ら す こ
2准 王 報 峡 中
疾 病 に侵 さ る
かまびす
と を 述 べ て いる 。
一哀
児 童 より す
(
七 六六 ) 七 月 、 憂
7 一哀 侵 疾 病
相識
﹁牽 牛 織 女 ﹂ (
全 三 六句 。 ﹃
詳 注 ﹂ 巻 一五 ) は 大 暦 元 年
州 で 書 か れ た 。 七 夕 伝 説 を 批 判 的 に と ら え な が ら 、 七 夕 の行 事 を 述 べ 、 夫 婦
8相 識 自 児 童
ゆ
疾 病 に侵 さ
る 、 相 い見 ゆ る こ と 児 童 よ り す は 、 筆 に 信 せ て 写 し 去 く 、 不 対 の 対 に し て 、
まみ
侵 疾 病 、 相 見 自 児 童 、 信筆 写去 、 不 対 之 対 、 惟 杜 有 之。﹂ (一哀
﹃
詳注﹂ に引く ﹃
杜 臆 ﹂ は第 八句 の ﹁相 識 ﹂ を ﹁
相 見 ﹂ に作 って、 コ 哀
(﹃杜 工 部 詩 通 ﹂
﹃
易 ﹂ 言 、物 不 可 以 荷 合 、蓋 借 牛 女 無 私 会 之 事 、
と 君 臣 の あ り 方 に も 言 及 し て い る 。 ﹃詳 注 ﹂ に 引 く 張 艇 の注
巻 = 二) に 、﹁興 而 比 也 。 ⋮ ⋮
私 会 の事 無 き に 借 り
以 興 男 女 無 荷 合 之 道 、 又 以 比 君 臣 無 筍 合 之 義 也 。﹂ (興 に し て 比 な り 。 ⋮ ⋮
む ﹁
易 ﹄ に言 う 、 物 は 以 て荷 合 す 可 から ず と 、 蓋 し牛 女
荷 合 の義 無 き に比 す る な
惟 だ 杜 の み 之 有 り 。) と 言 う 。 ﹁児 童 よ り す ﹂ と いう 言 い方 は 何 の 変 哲 も な い
荷 合 の道 無 き を 興 し、 又 以 て君 臣
て、 以 て男 女
五律 ﹁
王 十 五 前 閣会 ﹂ (﹃
詳 注 ﹂ 巻 一八) は 大 暦 二年 (
七 六七 ) の春 、 憂 州
べ る年 齢 では な い。 二人 と の交 遊 期 間 の長 さ を 誇張 し た表 現 であ る。
宝 十 三 載 こ ろだ と す れ ば、 杜 甫 は す でに 四 十 歳 を 過 ぎ て お り 、 ■
児童 ﹂と呼
んだ の であ る。 先 に 述 べた よう に杜 甫 が 章 侍 御 や 薫尊 師 と 知 り 合 った のが 天
け あ る こ と を 示 し て い よ う 。 つま り 杜 甫 は そ の よ う な 表 現 を 敢 え て 詩 に 取 り こ
杜 甫 以 前 の み な ら ず 唐 代 に お い て も 見 ら れ な い 。 そ れ は こ の表 現 が 散 文 的 で
表 現 だ が 、 こ の 言 い方 は ■児 童 の時 よ り す ﹂ と いう 表 現 を 視 野 に 入 れ て も 、
亭亭 と し て新 粧 立 ち
り。) と いう 指 摘 が あ る よう に、 単 に七 夕 の故事 を 述 べたも の では な い。
9亭 亭 新 粧 立
竜駕
層 空 に具 う
10竜 駕 具 層 空
世人
なんじ
11世 人 亦 為 爾
祈請 し て児 童 走 る
亦 爾 の為 に
12祈 請 走 児 童
﹃
詳 注 ﹂ は 中 間 の十 四句 に つ い て、 ﹁此 見 七 夕 祈 請 、 乃 世俗 之 好 事 。﹂ (
此
しめ
れ 七 夕 の 祈 請 は 、乃 ち 世 俗 の好 事 な る を 見 す 。) と 言 う 。 第 十 一 ・十 二 句 は 、
鄭舎
老翁を強う
書 札を 煩 わ し
で書 か れた 。 頸 聯 と 尾 聯 を 引 こう 。
鄭舎煩書札
肩輿
俊 味 を 虚 しく す
織 女 星 が空 に現 れ る と 、 人 々は裁 縫 が 上 達 す る こ と な ど さま ざ ま な こと を 祈
り 、 子 供 た ち ま で 忙 し く 走 り 回 る と 言 う の で あ る 。 た だ し 、 こ の ﹁児 童 ﹂ は
肩輿強老翁
病身
し
杜 甫 の 子 供 を 指 す ば か り で は あ る ま い。
病身虚俊味
﹁奉 漢 中 王 手 札 、 報 章 侍 御 薫 尊 師 亡 ﹂ (全 一二句 。 ﹃
詳 注 ﹄ 巻 一六 ) も 、 大
1
5
正
秋
藤
後
あ
何 の幸 いか児 童 を 飲 か し む
尾 聯 は、 隣 に住 む 王 十 五 が 用意 し てく れ た 新 鮮 な なま す な ど の御 馳 走 を 、
後 半 四句 を 引 こう 。
二首 ﹂ が書 か れ た 大 暦 二年 (
七 六 七 ) 秋 、 憂 州 の濃 西 で の作 であ る。 これ も
五律 ■
秋野五首﹂ ︿
其 五 ﹀ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 二〇 ) は 先 の ■
喜 観 即 到 、復 題 短 篇 、
めな がら 質 問 に答 え た ので あ る。
病 身 の杜 甫 が 食 べら れ な い ので土 産 に持 た せ てく れ た。 お かげ で家 の子 供 た
径 は 千重 の石 に隠 れ
何幸飲児童
ちま で飽 き るほ ど 食 べる こと が でき る、 何 と いう 幸 せ な こと だ ろう か 、 と 言
径隠千重石
帆 は 一片 の雲 に留 ま る
あ う ので あ ろう 。 た だ し ﹃
詳注﹄ に引く ﹃
杜臆 ﹄ は 別 の解 釈 を 示 し 、 ﹁以鄭 舎
帆 留 一片 雲
児童
な
蛮語を解くす
よ
而 致 札 迎 輿 、 見 其 股心
勲 、 又且 飲 及 児 童 、 見 札 中 井招 其 子。﹂ (
鄭 舎 な るを 以 て
児童解蛮語
必 ず しも 参 軍と 作 ら ず
しめ
札 を 致 し て 輿 を 迎 う る は 、 其 の 股心
勲 な る を 見 し 、 又 且 つ飲 か し む る こ と 児 童
不必 作 参 軍
め 井 せ て其 の子 を 招 く を 見 す 。) と 言 って いる。 王 十 五 か ら
尾聯 が ﹃
世 説 新 語﹄ 排 調篇 に見 え る、 桓 温 のも と で南 蛮 参 軍 と な った 邨 隆
に及ぶは、札中
の招 待 状 に杜 甫 ば か り で なく 、 杜 甫 の子 を も 招 待 す る旨 の言 葉 が あ った か ど
が そ の詩 に、 南 方 の方 言 で あ る ﹁
蛮 語 ﹂ を 用 いた 故事 を 踏 ま え て いる こと は
都 隆 為 桓 公 南蛮 参 軍。 三月 三 日会 、 作 詩 。 不能 者 、 罰 酒 三升 。 隆 初 以
う か は定 か では な い。 し か し、 こ の こ ろ宗 文 が 十 八歳 、 宗 武 が十 四歳 に な っ
五律 ﹁
喜 観 即 到 、復 題短 篇 、二首 ﹂ ︿
其 一﹀ (﹃
詳 注 ﹄巻 一八)も 大 暦 二年 (
七
不能 受 罰 。 既 飲 、 撹筆 便 作 一句 云 、 娠 隅 躍 清 池。 桓 問 、 娠 隅 是 何 物 。 答
諸 注 と も に指 摘 し て いる。 以 下 のよう な 逸 話 であ る。
六七 ) の暮 春 、﹁
得 舎 弟 観 書 、自 中 都 已 達 江陵 、今 菰 暮 春 月 末 行 李 合 到 璽 州 、
日、 蛮 名 魚 為 娠 隅 。桓 公 日、 作 詩 何 以 作 蛮 語 。隆 日、 千 里 投 公 、 始 得 蛮
て いた と す れ ば 、 可能 性 はあ る。
悲 喜 相 兼 、団 円 可 待 、賦 詩 即事 、情 見 乎 詞 ﹂ (
同 前 ) に続 いて憂 州 で書 か れ た 。
府 参 軍 、 那 得 不作 蛮 語 也 。
意 も て児 童 の問 いに答 う
者 は、 罰 酒 三 升 な り。 隆 初 め能 わ ざ る を 以 て罰 を受 く 。 既 に飲 む や、 筆
こ れも 頸 聯 と 尾 聯 を 引 こう 。
意答児童問
来 る は 戦伐 の新 た な るを 経 た り と
を 撹 り て 便 ち 一句 を 作 り て 云 う 、 娠 隅
しゅぐう
清 池 に 躍 る、 と 。 桓 問 う 、 娠 隅
公 に投
と は是 れ 何 物 ぞ 、 と。 答 え て 曰く 、 蛮 は 魚 を 名 づ け て娠 隅 と 為 す 、 と 。
と
桓 公 の南 蛮 参 軍と 為 る。 三 月 三 日 の会 に、 詩 を 作 る。 能 わ ざ る
来経戦伐新
船 を 泊す 悲 喜 の後
秦 に帰 る こと を 話 ら ん
都隆
泊船悲喜後
款款
かた
款款話帰秦
な
じ て 、 始 め て 蛮 府 の参 軍 を 得 た り 、 那 ぞ 蛮 語 を 作 さ ざ る を 得 ん 、 と 。
なん
桓 公 曰 く 、 詩 を作 る に何 を 以 て蛮 語 を 作 す 、 と。 隆 曰く 、 千 里
ね る の で、 読 み な が ら叔 父 は最 近 の戦 乱 の中 を く ぐ ってき た のだ と 教 え て聞
杜 甫 は こ の 故 事 を 用 い て 、 息 子 た ち は 都 隆 の よ う に 蛮 府 参 軍 に な る つも り
頸 聯 は、 杜 観 か ら の手 紙 が届 いた こと を 知 った息 子 たち が叔 父 の様 子 を 尋
か せ る、 と いう の であ る。 黄 生 ﹃
杜 詩 説 ﹄ 巻 七 は 、第 五句 を ﹁
寛答児童問﹂
で は な か ろ う が 、南 方 で の生 活 が 長 び い て 土 地 の 言 葉 を 話 せ る よ う に な った 、
おわ
(
寛 り て 児 童 の 問 い に 答 う ) に 作 って 、﹁五 六 、開 書 時 、其 子 在 傍 、詞 叔 動 定 、
と
と 言 った の で あ る 。 二 人 の息 子 が そ ろ そ ろ 官 職 を 求 め て も よ い年 齢 に な っ て
おじ
且 読 且 答 、 読 至 末 幅 、 則 知 当 来 此 相 聚 。﹂ (五 六 は 、 書 を 開 き し 時 、 其 の 子
き た こ と が 背 景 に は あ る で あ ろ う 。 な お ﹁蛮 語 ﹂ は 唐 詩 に お い て は 用 例 の 少
レ 傍 に 在 り 、 叔 の 動 定 を 詞 う 、 且 つ読 み 且 つ答 え 、 読 み て 末 幅 に 至 れ ば 、 則 ち
つど
な い語 で あ る 。
ここ
最 後 に ﹁児 童 ﹂ の 語 が 見 ら れ る の は 、 大 暦 三 年
(七 六 八 ) の 秋 、 江 陵 で 、
当 に 此 に 来 り て 相 い 聚 う べ き を 知 る 。) と 言 う 。 ﹁動 定 ﹂ は 消 息 。 子 供 た ち も
叔 父 が い つ憂 州 に 来 る の か 気 が か り で あ った の だ ろ う 。 杜 甫 は 手 紙 を 読 み 進
16
劃
隠
掲
隷
に
詩
の
甫
杜
﹁
突 李 尚書 之 芳 ﹂ (﹃
詳 注 ﹂ 巻 二 二 ) に つ い で書 かれ た 五律 ﹁
重 題﹂ (
同上)
契君余白頭
涕洒不能収
児童
相識尽き
君 を 契す る白 頭 を 余 す
涕洒
此 の生 浮 か ぶ
であ る。 前 半 四句 を 引 こう 。
児童相識尽
宇宙
収 む る能 わ ず
宇宙此生浮
三
杜詩と ﹁
童 児 ﹂、 及 び
﹁
呼 児﹂ など
こ こ で は 杜 甫 の 詩 に 見 え る ﹁童 児 ﹂、 及 び 単 独 で ﹁児 ﹂ が 用 い ら れ る 例 の
(七 五 七 )、 長 安 賊 中 の 作 で あ る ■大 雲
う ち 、 最 も 多 く 見 ら れ る ■呼 児 ﹂ (
児 を 呼 ぶ ) と いう 表 現 に つ い て 述 べ て お
こ・
つ。
ま ず ■童 児 ﹂ の 用 例 は 、 至 徳 二 載
手 に上 る
寺 賛 公 房 四 首 ﹂ ︿其 四 ﹀ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 四) の冒 頭 に 見え る。
童児
原注 に ﹁李 公 亮 於 太 子 賓 客 。﹂ (
李 公 は 太 子 賓 客 に莞 ず 。) と あ る よ う に、
童児汲井華
井華 を 汲 む
李之芳 (
?∼ 七 六 八 ) は太 宗 李 世 民 の曾 孫 にあ た る。 杜 甫 と の交 遊 が 始 ま っ
捷 き に慣 れ て瓶
ち水 を す る の であ る 。
大 雲 寺 で働 く 子 供 た ち が 、朝 一番 の水 を 井 戸 か ら 汲 み 上げ て、 あ た り に打
はや
慣捷瓶上手
よう
(七 六 七 )、 杜 甫 が 憂 州 に い
(斉 州 。 山 東 省 済 南 市 ) に 遊 ん だ 時 に は 、 北 海 太 守 の 李 琶 と 斉 州 司
り
た の は天 宝 (
七 四 二∼ 七 五 六) の初 年 に遡 る。 天宝 四載 (
七 四 五) の夏 、 杜
りん し
甫 が臨 溜
馬 で あ った 李 之 芳 に 歓 待 さ れ て い る 。 大 暦 二 年
で 李 之 芳 と 会 い、 ﹁書 堂 飲 既 、 夜 復 遽 李 尚 書 、 下 馬 月 下 賦 、 絶 句 ﹂ (﹃
詳 注﹄
7巻 耳 況 療 風
6 野疏 暗 泉 石
5蓬 秀 独 不 焦
巻耳
野疏
蓬秀
且 つ時 に摘 ま んと
況 ん や風 を 療 す を や
泉 石を 暗 く す
独 り焦 げ ず
﹃
詳 注 ﹄ 巻 一九 ) に 見 え る。
も う 一例 は 大 暦 二年 (
七 六七 )、 憂 州 で の作 ﹁駆 竪 子摘 蒼 耳 ﹂ (
全 二 四句 。
巻 二 一)、 ﹁夏 夜 、 李 尚 書 錘 、 送 宇 文 石 首 赴 県 、 聯 句 ﹂ (同 上 )、 ﹁多 病 執 熱 、
いて いるし 、 そ の後 、 大暦 三年
﹁詳 注 ﹄ に 引 く 申 酒
童児
た 時 に は 、 ﹁秋 日 憂 府 詠 懐 、 奉 寄 鄭 監 李 賓 客 一百 韻 ﹂ (﹃詳 注 ﹄ 巻 一九 ) を 書
奉 懐 李 尚 書 ﹂ (同 上 ) な ど も 書 い て い る 。 第 三 ・四 句 は
8童 児 且 時 摘
(
七 六 入 ) の 春 に 江 陵 に 至 った 杜 甫 は 、 こ こ
光 (一六 一七 ∼ 一六 七 七 ) の注 に 、■契 李 尚 書 二 首 、是 挽 詩 絶 調 。 児 童 相 識 尽 、
杜 甫 のも と で働 く 作 男 の ﹁畦 丁 ﹂ が 語 った 言 葉 で あ る 。 ﹃
詳 注 ﹂ は 、 ﹁首 叙
いや
実 及 衆 友 。 宇 宙 此 生 浮 、 兼 突 自 己 。﹂ (李 尚 書 を 突 す 二 首 は 、 是 れ 挽 詩 の 絶
摘 蒼 耳 。 秋 分 猶 旱 、 故 畦 疏 不 足 。 蓬 萎 野 疏 、 与 巻 耳 雑 生 者 。﹂ (首 は 蒼 耳 を 摘
けいてい
此 の生 浮 か ぶ は、
相 識 尽 く は 、契 す る こ と 衆 友 に 及 ぶ 。宇 宙
調 な り 。児 童
猶 お 旱す 、故 に畦 疏 足 り ず 。 蓬 秀
﹃
詳 注 ﹂ は 、 コ 作 僕 先 。﹂ (一に 僕 先 に 作 る 。) と 言
野疏 は、 巻 耳 と 雑 わ り
むを 叙 ぶ。 秋 分
ひでり
兼 ね て自 己 を 突 す 。) と 言 っ て い る よ う に 、 李 之 芳 の よ う な 若 年 の 頃 か ら の
生 ず る 者 な り 。) と 言 って い る 。 ■巻 耳 ﹂ は お な も み 。 食 用 に し た 。 第 八 句 の
﹁童 児 ﹂ に つ い て 同 じ く
の
知 り 合 いは す べ て 亡 く な って し ま った と いう の で あ る が 、 こ の 詩 に お い て も
﹁奉 漢 中 王 手 札 、 報 章 侍 御 薫 尊 師 亡 ﹂ に お け る の と 同 様 に 、 彼 と の 交 遊 が 長
童僕
う 。 そ う だ と す れ ば 一句 は ﹁童 僕 先 時 摘 ﹂ (
時 に先 んじ て摘 ま ん ) と
期 に わ た った こ と を 述 べ る だ け で は な く 、 そ の悲 哀 を 強 調 し た 表 現 と な っ て
な る 。 日 照 り が 続 い て 畑 の疏 菜 類 が 被 害 を 受 け る な か 、 野 生 の お な も み な ど
い る 。 こ の 詩 が 晩 年 の 作 で あ る こ と も あ っ て 、こ れ 以 後 、杜 甫 の 詩 に ﹁児 童 ﹂
は 茂 っ て い る の で 、 わ た く し ﹁童 児 ﹂ が 摘 ん で き ま し ょう 、 と 言 っ て い る の
ね の語 は 見 ら れ な い 。
で あ る 。 つま り こ の ﹁童 児 ﹂ は 作 男 の 自 称 と いう こ と に な る 。
つ い で ﹁呼 児 ﹂ と いう 表 現 に つ い て も 見 て お こう 。 こ の表 現 は 杜 詩 に 九 例
1
7
正
秋
藤
後
が 見 え て い る 。 制 作 時 期 の順 に 挙 げ て み よ う 。
次第尋書札
児 を呼 び て贈 詩 を 検 べし む
次第 書 札を尋ね
也復 た 可憐 の人 な り
(
﹁突李 常 侍 峰 二首 ﹂ ︿
其 二﹀、 ﹃
詳 注﹂ 巻 二 二)
しら
呼児検贈詩
也復可憐人
児 を呼 ん で梨 喪 を 具 え し む
また
呼児具梨喪
が蘇 端 を 訪 ね た と こ ろ、蘇 端 の子 供 が 空 腹 の杜 甫 のた め にな し やな つめ を 用
■
雨 過 蘇 端 ﹂ は 至 徳 二載 (
七 五七 ) の春 、 反 乱 軍占 領 下 の長 安 に いた 杜 甫
髪 を握 り 児 を 呼 び 延 き て戸 に 入 ら しむ
意 し てく れ た の であ る 。 こ の詩 以 外 の ■児 ﹂ は す べて杜 甫 の息 子 た ち を 指 し
(
■雨 過蘇 端 ﹂、 ﹃
詳注﹄巻四)
握髪呼児延入戸
手 に提 ぐ 新 画 の青 松 の障
客有 り茅 宇 に過 る
(
﹁題李 尊 師 松 樹 障 子 歌 ﹂、 ﹃
詳 注﹄ 巻 六 )
事 で あ る。 た だ し 、 大 暦 二年 (
七 六 七 )、蔓 州 で書 か れ た ﹁
立春﹂ では杜甫
頭巾 を な お し た り 、 柴 戸 を 閉 めた り 、 料 理 を 並 べた り、 す べ て息 子 た ち の仕
て いる。杜甫 の息 子 たち は様 々な 雑 用 を こ な し て いる。客 人 を招 き 入 れた り 、
ひ っさ
手提新画青松障
有客過茅宇
児 を呼 び て葛 巾 を 正 さ し む
よぎ
呼児正葛巾
の詩 作 を 助 け る よう に も な って いる。 これ は ﹁立 春 ﹂ の翌年 に書 かれ た ﹁契
り えき
(
﹁有客 ﹂、 ﹃
詳注﹄巻九)
李 常 侍 峰 二首 ﹂ ︿
其 二﹀ でも 同様 で あ る。 杜 甫 が 大 切 に保 存 し て お いた 李 峰
堪 う る無 く 邨 を 出 でず
獺慢
らんまん
獺慢無堪不出邨
の手 紙 や 詩 を 調 べ捜 さ せ る のに は 一定 の学 識 が 求 め ら れ る か ら で あ る 。 ﹁又
おお
児 を呼 び 日 に在 り て柴 門 を掩 わ し む
ひび
呼児日在掩柴門
ひら
よ
示宗 武 ﹂ (﹃
詳 注﹄ 巻 二 一) に お いては 、 冒 頭 に ﹁覚句 新 知 律 、 灘 書 解 満 林 ﹂
もと
(
﹁絶句 漫 興九 首 ﹂ ︿
其 六 ﹀、 ﹃
詳 注﹄ 巻 九 )
(
句 を 覚 め て 新 た に 律 を 知 り 、 書 を 灘 き て 解 く 林 に 満 た し む ) と 言 い、 宗 武
此 の身
未 だ 知 ら ず 定 処 に帰 す るを
此身未知帰定処
(
﹁立春 ﹂、 ﹃
詳 注 ﹄ 巻 一八 )
り の役 割 も 加 わ る こ と に な った 。 こ れ 以 前 か ら 杜 甫 は 病 ん で 体 力 が 落 ち た 時
は 、 杜 甫 の 耳 が 聞 こ え な く な った こ と が 詠 じ ら れ る 。 子 供 に は 杜 甫 の 耳 代 わ
■耳 聾 ﹂ で
筐果を移 し
が 作 詩 を 始 め た こ と が 述 べ ら れ て い る 。 大 暦 二年 の 秋 に 書 か れ た
桂壁
に は 、 子 供 に 行 動 を 助 け ら れ て い る 。 ﹁別 常 徴 君 ﹂ (﹁
詳 注 ﹄ 巻 一四 ) に 、 ﹁児
しる
児 を呼 び 紙 を 覚 め て 一た び詩 を 題す
児 を呼 び て煮 魚 を 間 せ し む
扶 猶 杖 策 、 臥 病 一秋 強 ﹂ (児 に 扶 け ら れ て 猶 お 策 を 杖 く 、 病 に 臥 す 一秋 強 )
もと
呼 児 覚 紙 一題 詩
桂壁移筐果
(
■過客 相 尋 ﹂、 ﹃
詳 注 ﹄ 巻 一九 )
と 言 い、﹁送 盧 十 四 弟 侍 御 護 章 尚 書 霊 襯 帰 上 都 、 二 十 四 韻 ﹂ (﹁
詳 注 ﹄ 巻 二三 )
つ
呼児問煮魚
児 を呼 び て紙 筆 を 具 え し め
で は 、 ■眼 冷 看 征 蓋 、 児 扶 立 釣 磯 ﹂ (
眼 冷 や やか に し て征 蓋 を 看 、 児 に扶 け ら
つえ
呼児具紙筆
几 に隠 り て軒 櫨 に臨 む
れ て 釣 磯 に 立 つ) と いう の は そ の例 で あ る 。
のが
た 。 ﹁飛 仙 閣 ﹂ (全 十 六 句 、 ﹁
詳 注 ﹄ 巻 九 ) に 、 ﹁浮 生 有 定 分 、 飢 飽 量 可 逃 、 嘆
こ の ほ か 杜 甫 は 妻 や 息 子 た ち に ﹁汝 曹 ﹂の 語 を 用 い て 呼 び か け る こ と も あ っ
たす
隠几臨軒榴
詩 を作 る陣 吟 の内
よ
作詩陣吟内
墨 は淡 く し て字 は敲 傾 す
き けい
墨淡字敲傾
(
﹁同 元使 君 春 陵 行 ﹂、 ﹃
詳 注﹂ 巻 一九 )
量 に逃 る可 け ん や 、 嘆 息
息 謂妻子、我何随汝曹﹂ (
浮生
定 分有 り 、 飢 飽
黄落
し て妻 子 に謂 う 、 我
山樹 に驚 き
黄落驚山樹
児 を呼 ん で朔 風 を 問 う
宗 文 宗 武 ﹂ (﹃
詳 注﹄ 巻 一八 ) の尾 聯 に、 ﹁汝 曹 催 我老 、 回首 涙 縦 横 ﹂ (
汝が曹
何 ぞ汝 が曹 を 随 う る やと ) と 言 い、 五律 ﹁
熟食日、示
呼児問朔風
(
﹁耳聾 ﹂、 ﹃
詳 注 ﹄ 巻 二〇 )
18
劃
隠
掲
隷
に
詩
の
甫
杜
童 ﹂ や ﹁児 ﹂ を 取 り 上 げ る の み で は 不 十 分 で あ ろ う 。 し か し 、 こ れ ら の 語 の
も あ る 。 杜 甫 が 自 身 の 子 供 た ち を いか に 詠 じ て い た か を 考 察 す る 際 に は ■児
い は ﹁児 女 ﹂、 ﹁小 児 ﹂、 ﹁小 児 女 ﹂ な ど の 語 を 用 い て 子 供 た ち に 言 及 す る こ と
も ち ろ ん 先 に 触 れ た よ う に 、 ■児 ﹂ だ け で息 子 た ち を 指 す こ と も あ る 。 あ る
我 が老 ゆ るを 催 す 、首 を 回 ら し て涙 縦 横 た り ) と 言う のは、 そ の例 であ る 。
甫 は宗 文 と 宗 武 にし ば し ば 人生 上 の教 訓 を 与 え て いる。 杜 甫 一家 の次 代 を 担
支 え る不 可 欠 な 存 在 、 いわ ば有 能 な 助 手 と な って い った のであ る。 晩 年 の杜
け て家 事 を こな す 有力 な存 在 と な り 、 さ ら には 肉 体 的 にも 精 神 的 にも 父 親 を
徐 々に変 化 し て いく こと が見 てと れ る。 子 供 の成 長 にと も な って、 父 親 を 助
はも っぱ ら 、 庇 護 す べき存 在 と し て父 親 の心 配 や 憂慮 の対 象 であ った も のが
情 を 注 ぐ べき 存 在 と し て描 か れ て いる こと は そ の詩 に 一貫 し て いるが 、 当 初
るいるい
﹃
章応 物集 校 注﹂ (
上 海 古 籍 出 版 社 、 一九 九 八 ) に
﹃
唐 代詩 人叢 考﹄ (
中 華 書 局 、 一九 八 〇 ) は 、 建 中 四 年 の夏 に 長 安 を 出 て 秋
(
七 四 九 )、 偶 師 に 帰 る 時 の 作 と す る 。
﹃
全 杜 詩 新 釈 ﹄ (中 国 書 店 、 二 〇 〇 二 ) は 、 ﹁此 句 説 自 己 従 児 童 時
五 斗 米 の為
﹁
老 学 庵 筆 記 ﹄ 巻 二 に 、 ﹁晋 語 、 児 人 二 字 通 用 。 ⋮ ⋮ 又 陶 淵 明 、 不 欲 束 帯 見 郷 里
に 腰 を 折 り て 郷 里 の小 人 に 向 か う 能 わ ず 。) に 作 る 。 な お 陶 淵 明 の言 葉 に つ い て は 、
(5) ﹃
晋 書 ﹄ 巻 九 十 三 、 陶 潜 伝 は ﹁我 不 能 為 五 斗 米 折 腰 向 郷 里 小 人 。﹂ (
我
就 和 表 兄 一起 研 討 学 問 。﹂ と 言 う 。 折 衷 案 と 言 え よう 。
(4 ) 李 寿 松 ・李 翼 雲
(3) ﹃
読 杜心解 ﹄ 巻 五は、 こ の詩を 天宝 八載
よ った 。
に 着 任 し た と す る 。 陶 敏 ・王 友 勝
(2) 傅 瑳 踪
(1)芳 村 弘 道 ﹁儲 光 義 の 田 園 詩 に つ い て ﹂ (
中 国 芸 文 研 究 会 ﹁学 林 ﹂第 四 号 、一九 八 六 )。
注
う 者 と し て の期 待 が そ こ に は こ めら れ て いた と 言 え よう 。
検 討 に つ い て は 別 の機 会 に 譲 り た い。
おわ り に
孫寿 璋 ﹃
唐詩字詞大辞典﹂ (
華 齢 出 版 社 、 一九 九 三 ) は ﹁児 童 ﹂ の意 味 を
二分 し て、① では ﹁小核 子﹂、つま り 幼 児 ・小 児 な ど の子供 と 解 し、皮 日 休 ﹁三
か
﹁禿 村 ﹂ の 第 十 一 ・
草 根 を 督 み 、 桑 に 椅 り て 空 し く 巌 巌 た り ) と いう 句 を 引 く 。 さ ら に ② で
差 詩 三首 ﹂ ︿
其 三 ﹀ (﹃
全 唐 詩﹂ 巻 六 〇 八 )か ら ﹁
児 童 蓄 草 根 、椅 桑 空 巌巌 ﹂ (
児
童
は ﹁年 軽 人 ﹂、 つま り 年 の 若 い 人 、 若 者 と 解 し て 、 杜 甫
十 二 句 を 引 い て い る 。 こ の詩 を 出 典 と し て 示 す こ と に 問 題 は な い。 た だ し 、
杜 甫 が 用 い る ﹁児 童 ﹂ の意 味 は ① の 範 疇 に 含 ま れ る も の が 多 数 を 占 め る に し
陸游
小 人 、 亦 是 以 小 人 為 小 児 耳 、 故 宋 書 云 郷 里 小 人 也 。﹂ (
晋 語 、児 ・人 の 二 字 は 通 用 す 。
て も 、 既 に 見 て き た よ う に 、そ の う ち の ほ と ん ど は 、 ■南 鄭 ﹂ な ど を 除 い て 、
自 身 の 子 供 を 指 し て 用 い て い る 。 こ れ は 杜 甫 以 前 に は 見 ら れ な か った こ と で
:-又 陶 淵 明 、 束 帯 し て郷 里 の小 人 に 見 ゆ る を 欲 せ ず 、 亦 是 を 以 て 小 人 を 小 児 と 為
(6) こ こ に 引 か れ る句 は 、 ﹃
全 唐 詩 ﹄ 巻 四 七 三 に は 孫 革 の 五 絶 ﹁訪 羊 尊 師 ﹂ と し て 収 め
す の み 、 故 に 宋 書 に 郷 里 の小 人 と 云 う な り 。) と いう 指 摘 が あ る 。
まみ
あ り 、 ■児 ﹂ に つ い て も 同 様 の こ と が 指 摘 で き る 。 ま た 、 杜 甫 自 身 が 若 か っ
た こ ろ 、 あ る いは 幼 か った こ ろ を 指 す 語 と し て ﹁児 童 ﹂ を 用 い て い る こ と も
注 意 さ れ る 。 ■契 李 尚 書 之 芳 ﹂と ■奉 漢 中 王 手 札 、報 章 侍 御 瀟 尊 師 亡 ﹂、■重 題 ﹂
(
在位 八 二〇 ∼八 二四) に かけ て の人。
客 を携 え て主 人
(
在 位 八〇 五 ∼八
童 子 に 問 う )に 作 る 。 こ の こ と に つ い て 修 培 基 ﹃
全
句 は と も に ﹁松 下 問 童 子 ﹂ (
松下
ら れ 、 同 じ く 巻 五 七 四 に は 頁 島 の 五 絶 ﹁尋 隠 者 不 遇 ﹂ と し て 収 め ら れ る 。 た だ し 起
は そ の 例 で あ る 。 こ れ は 杜 詩 に お け る ﹁童 児 ﹂ が も っぱ ら 他 人 を 指 す の と は
唐 詩 重 出 誤 収 考 ﹄ の孫 革 の条 は 、 孫 革 の作 と 認 め る 。 孫 革 は 憲 宗
よろ こ
置 酒 し て 相 い款 ぶ 、 ⋮ ⋮ 。) と 言 う 。 こ の説 に 従 え ば 、 訪 問 し た の は
(8) ﹃
詳 注 ﹄ の引 用 は 、 ﹁有 児 童 数 百 迎 之 、 日 、 聞 使 君 到 、喜 、 故 来 迎 。﹂ (児 童 数 百 有 っ
杜 甫だ け では な いこと にな る。
を 尋 ね、主 人
(7 ) ﹃
杜 詩 説 ﹄ 巻 八 は 、 ﹁杜 携 客 訪 主 人 、 主 人 置 酒 相 款 、 ⋮ ⋮ 。﹂ (杜
二〇) 朝 から穆 宗
明 ら か に 異 な っ て い る 。 さ ら に ■投 簡 威 華 両 県 諸 子 ﹂ で は ■児 童 ﹂ を 軽 蔑 の
意 味 を こ め て 用 い て い る 。 こ れ は 、 小 僧 っ子 、 あ る い は こ わ っぱ な ど と 言 う
れ の に 近 い。 つま り 、 杜 詩 に お け る ﹁児 童 ﹂ の 語 は 、 単 純 に 幼 児 ・小 児 な ど の
子供 と は解 せ な いこ と が 理解 さ れ よう 。
さ ら に 杜 甫 が 自 身 の 子 供 を 指 し て ﹁児 童 ﹂ と い った 場 合 、 児 童 は 杜 甫 が 愛
19
正
秋
藤
後
て 之 を 迎 う 、 曰 く 、 使 君 到 る と 聞 き 、 喜 び 、 故 に 来 り 迎 う と 。) であ る が 、 郭 郭 伝 で
の 五 律 ﹁寄 武 陵 李 少 府 ﹂ (﹃
全 唐 詩 ﹄ 巻 二 四 四 ) に 、 ﹁楚 歌 催 晩 酔 、 蛮 語 入 新 詩 ﹂ (
楚
新 詩 に入 る) と いう句 が あ り、 杜甫 よ り や や後 にな る と王
ほと り
門 は 臨 む 広 州 の 路 、 夜 蛮 語 を 聞 く 小 江 の 辺 ) と いう 句 が あ る 。
(20) 古 川 末 喜
﹃
杜甫 農業 詩研 究﹄ (
知 泉 書 館 、二 〇 〇 八 ) は 、﹁杜 甫 は 困 った の で あ ろう 。
(19) ﹃
草 堂 詩 箋 ﹄ 巻 三 一に も = 作 童 僕 先 時 摘 。﹂ と あ る 。
(
草館
建 の 七 絶 ﹁江 館 対 雨 ﹂ (﹃
全 唐 詩 ﹄ 巻 三 〇 一) に 、﹁草 館 門 臨 広 州 路 、夜 聞 蛮 語 小 江 辺 ﹂
晩 酔 を催 し 、蛮 語
うな が
歌
の
之 。﹂ (始 め て 至 って 部 を 行 り 、 西 河
めぐ
は 、 ﹁始 至 行 部 、 到 西 河 美 稜 、 有 童 児 数 百 、 各 騎 竹 馬 、 道 次 迎 拝 。 仮 問 、 児 曹 何 自 遠
来 。 対 日、 聞使 君 到、 喜、 故 来奉 迎 。仮 辞 謝
之 を 辞 謝 す 。) と な って い る 。
何 ぞ 遠 き よ り 来 れ る と 。 対 え て 曰 く 、使 君 到 る と 聞 き 、喜 び 、故 に 来 り て 奉 迎 す と 。
美 稜 に 到 る や 、 童 児 数 百 有 っ て 、 各 々竹 馬 に 騎 り 、 道 次 に 迎 え 拝 す 。 仮 問 う 、 児 曹
仮
(
猿 族 の 阿 段 ) に 採 って き
て も ら う こ と に し た 。 こ の雨 不 足 で も 雑 草 は 枯 れ ず 、 石 清 水 の 湧 く あ た り に は 野 草
(
野 疏 ) を 使 用 人 の少 年
な い。 趙 次 公 の 誤 り で あ り 、 胡 令 能 の 七 絶 ﹁喜 韓 少 府 見 訪 ﹂ (﹃全 唐 詩 ﹄ 巻 七 二 七 )
の オ ナ モ ミ (蒼 耳 11巻 耳 ) が 栄 え て い る と いう 話 し を 耳 に し た のだ 。﹂ と 述 べ 、 こ の
窮 余 の策 で 、 食 べ ら れ る 山 野 草
(
鋏 釘 ・釘 絞 ) の
(9 ) た だ し 、 北 宋 初 期 の 人 で あ る 魏 野 (
九 六 〇 ∼ 一〇 一九 ) の詩 に は こ の句 が 見 ら れ
と す る の が 正 し い 。 ﹃万 首 唐 人 絶 句 ﹄ 巻 六 八 に は 、 こ の 詩 を 胡 釘 琉
軽 蔑 之 詞 、 猶 言 小 子 。﹂ と す る が 、 用 例 は 示 さ な い。
(
札幌校教授)
﹃
唐 詩常 用語 詞﹄ (
百 花 文 芸 出 版 社 、 二 〇 〇 九 ) は 、 ﹁児 ﹂ の項 で、 ﹁⑥
四句を とり あげ る。
弟 子 の行) とあ る から 、次 男 の宗武 は こ のこ ろ
款
(21) 李 連 祥 編 著
作 と す る。 ま た こ の詩 は ﹃雲 難 友 議 ﹄ 巻 下 、 ﹁祝 墳 応 ﹂ の条 に は 胡 生 の コ暑圃 田 韓 少
男 児 は志 す、 三千
(七 六 八 ) に 書 か れ た ﹁又 示 宗 武 ﹂ (﹃
詳 注 ﹂ 巻 二 一) に、 ﹁十 五 男 児 志 、 三 千
﹃
杜 甫親 春交 遊行 年 考﹂ (
上海 古籍 出 版社 、 二〇 〇六 ) によ る。大
府 見 ﹂ と し て引 か れ る 。
暦 三年
(10) 陳 冠 明 ・孫 慷 埠
弟 子行 ﹂ (
十五
(七 五 四 ) こ ろ に 生 ま れ た と 考 え ら れ る 。
かが
﹁同 王 十 三 維 突 股 遥 ﹂ (﹃
全 唐 詩 ﹂ 巻 一三 八 ) に 、 ﹁慈 烏 乱 飛 鳴 、
一五 歳 であ り 、 従 っ て 天 宝 一三 載
(11 ) ﹁慈 烏 ﹂ は 儲 光 義
いやし く
猛 獣 亦 以 跨 ﹂ (慈 烏 は 乱 飛 し て 鳴 き 、 猛 獣 も 亦 以 て 跨 む ) と あ る 。
ひ
(12 ) ﹃易 ﹄ 序 卦 伝 に 、 ﹁物 不 可 以 荷 合 而 已 、 故 受 之 以 責 。﹂ (
物 は以 て荷 も 合 し て已 む可
か ら ず 、 故 に 之 を 受 く る に 責 を 以 てす 。) と あ る 。
る か ら 、 そ れ 以 前 の こ と であ る 。
(13 ) た だ し 李 璃 は 天 宝 一五 載 に は 玄 宗 に 従 っ て 漢 中 ま で 行 き 、 漢 中 王 に 封 じ ら れ て い
(14) 宋 代 以 降 に な る と 、こ の表 現 は 書 簡 や墓 誌 銘 な ど に し ば し ば 見 ら れ る よ う に な る 。
(15) 杜 甫 に は こ の 詩 の ほ か に 、﹁
王 十 五 司 馬 弟 、出 郭 相 訪 、遺 営 草 堂 貨 ﹂ (﹃
詳 注 ﹄ 巻 九 )、
﹁送 王 十 五 判 官 扶 侍 還 贈 中 、 得 開 字 ﹂ (﹃
詳 注﹄ 巻 = 一
) が あ る。王 十 五司 馬 は杜 甫
の 表 弟 に あ た る が 、 王 十 五 判 官 と こ の詩 に 言 う 王 十 五 と 同 一人 物 か ど う か は は っき
り し な い。
膳 を 石 上 の 閣 に 設 け 、 札 を 致 し て 輿 を 迎 え 、 井 せ て童 稚 を 露 す は 、 意 思
う るお
井 露 童 稚 、 意 思 款 曲 如 此 、 故 詩 以 誌 之 。﹂ (雨 収 ま り 風 細 や か な る の時 に 当 た って 、
(16 ) ﹃読 杜 心 解 ﹄ 巻 一五 に も 、 ﹁当 雨 収 風 細 之 時 、 王 君 設 胸 石 上 之 閣 、 而 致 札 迎 迎 輿 、
王君
曲 な る こと 此 の 如 し 、 故 に 詩 あ り て 以 て之 を 誌 す 。) と いう 同 趣 旨 の 指 摘 が あ る 。
(七 五 四 ) に 進 士 に 登 第 し た 韓 翻
(17 ) ﹃読 杜 心 解 ﹄ 巻 三 も 黄 生 の 注 を 引 き 、 ﹁愚 按 、 此 解 最 妙 。﹂ (
愚 按 ず る に、 此 の解 は
最 も 妙 な り 。) と 評 し て い る 。
(18 ) 杜 甫 と ほ ぼ 同 時 代 の詩 で は 、 例 え ば 天 宝 = 二載
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