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104 - フランスの切手

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104 - フランスの切手
ブルターニュ
図版博物館 vol.4
IV
土地の記憶 4
Musée imaginaire philatélique
Région Bretagne au travers des timbres français
4e éd. 2013
【1-4-1 ブルターニュの帆船】 ここで現代のブルターニュの海の話に戻る。この地域で建造され、また
この地域を根拠地として世界の海に向かったフランスの船舶・艦船の数は夥しい。切手になっ
たもののうちから、帆船、商船、軍艦という順でいくつか挙げてみたい。
左の 3 本マスト《ベレン》はフランスの帆船史の生き証人と
いってよいものである YT-3274。1896 年にナント Nantes
の造船所で建造された輸送船で、同港と南米諸地域
との間の物資の輸送に充てられた(船名はブラジルの
港町ベレンに因んだもの)。1999 年、フランス郵政が発行
した青少年向けの 10 枚シート《Armade du Siècle》(世
紀の大艦隊)YT-3269/78 に収められてその歴史が
人々の心に蘇った。この船は今、ブルターニュの軍港ブレストでフランス海軍(Marine Nationale
Française)に現存する唯一の 19 世紀帆船として保存されている。その 100 年の遍歴をここ
で辿ることはできないが、アイルランドのビール醸造王アーネスト・ギネス卿が 1921 年に巨額を投じて同
船を手に入れ、スエズ、パナマ運河を経てカナダでイギリスのジョージ 6 世の戴冠を祝うなど華々しい
世界一周の航海(1923-24)を行わせたこともあった。
時は移って 1970 年代、イタリアのある財団が船名を変えて所有していた同船をイタリア海軍が繋
留練習船として《1 リラ》で購入し改修を試みたが実用には至らずに終わった。他方、フランス
の古帆船保存協会の一人が偶然の機会にこれが在りし日の《ベレン》であることを突き止め
ていた。その後同船はイタリア海軍から再び《1 リラ》でナポリさらにヴェニスの造船所の手に渡った。
1977 年、この《ヴェニスの商人》は驚くべきことに 500 万フランでこれを売りに出し、それを知
ったフランスの保存協会は公的資金による購入を
働きかけるとともにヴェニスとの交渉を続け、
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1
1979 年、450 万フラン(当時のレートは 1 フラン=45 円であるので 2 億円余)で合意。トゥロン軍港を
経由して同年 9 月 17 日ブレスト港に曳航された。
次は 4 本マストである。切手 YT-1674 の左上に大きな塔が見える。右上の消印が示すように、
ブルターニュの港町サンセルヴァン Saint-Servan のソリドール Solidor の塔である。この町に「ホーン岬帆船博
物館」Musée international des Cap-Horniers がある。
《Cap-Horniers》とは、世界最大の難所
として知られる南米南端のホーン岬を経て太平洋に至る巨大帆船の総称で、19 世紀後半からパ
ナマ運河開通までがその時代であった。
レンヌのある郵趣団体が伝えるところによると、このホーン岬を通る帆船の乗組員はだれもが
耳たぶに金の輪をつけていた。遭難して遺体となって発見されたときその処理の費用に充
ててもらうという趣意である。転じてこの耳環はホーン帆船乗組員のステータスを表すものとなっ
た。さらに転じて、今日のイヤリングとなったという。男女を問わずやたらにぶら下げている
「今の若い者」は遺体処理費用のかたであったことをよもや知るまい。
ところで、上掲の 80 サンチーム
切手 YT-1674 の《アントワネット》号は
後に切手になるぐらいだから当
時も花形的な存在だったようだ
が詳細は分からない。これが改
めて注目されたのは、1971 年に
発行されたこの切手が同年の切
手デザイングランプリに輝いたから
である。これに気をよくしたフラン
ス郵政は 1972 年に 3 本マスト(左)
YT-1717、
73 年に 5 本マストと相次い
で発行し、さらに 75 年に練習艦
船 Frégate 《La Melpomène》を図柄として 90 サンチーム切手(右)YT-1862 を出したのである。
72 年の 3 本マストは、北米ニューファウンドランド沖で鱈漁をする漁船《Eméraude》で、この切手もま
た同年のグランプリを獲った。73 年の 5 本マストは素晴らしい切手[YT-1762]であるが、船籍がブ
ルターニュ地方ではなく、かなり南のシャラント・マリチム県であるので、同県 La Rochelle 港について述べ
る【ポワトゥーシャラント 1】に譲ることにしたい。
次は、客船と行くべきであるが、戦前切手の《Normandie》号 YT-299, YT-300、
《Pasteur》
号 YT-502、戦後切手の《France》号 YT-3473、さらにはイギリス最大の客船《Queen Mary 2》
号 YT-3631 とフランス造船界が誇る豪華客船のすべてはブルターニュの南隣 Pays-de-la-Loire 地域圏の
サン・ナゼール市 Saint-Nazaire(ロワール・アトランティク県)で建造されているので、ブルターニュ切手とは言
えない。よって、これらも一括して【ペイドラ・ロワール 2】に先送りすることとする。1-4-1
【1-4-2 ヨット・ヨット競技】
ここで、ブルターニュではヨットも盛んなのではないかと探したところ該当
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2
する切手が一つだけあった。「1989-90 年(単独無寄港)世界一周競技」を記念した《ラ・ポ
スト》号の切手 YT-2648 (右)でモルビアン県ロリアン港局が初日印
(1990.6.7)を押して販売している。ところで世界一周競技はペ
イ・ド・ラ・ロワール地方ヴァンデ県のレサブルドロンヌ Les-Sables-d'Olonne 港
で 1989 年から行われている(同年は 11 月 26 日出航)ものであ
るが、その年次の優勝牌 Vendée Globe は 109 日で世界を回って
帰ってきた Ecueil d’Aquitaine 号の Titouan Lamazou に与えられ
ており、ラ・ポスト号なるものはエントリーすらしていない。推測される
のは、フランス郵政がスポンサーの一つであり競技終了 3 カ月後にこの切
手を発行して協賛したということだ。因みに、フランス郵政は第 2
回に当たる 1992-93 年の競技(1992.11.22 出航
優勝タイム 110 日
1993.3.12 帰港)の際、競技途中の 2 月 8 日に第 1 種書状用の 2.50 フラン切手(下左)YT-2789
を発行し、マンシュ県シェルブールで初日販売をした。この切手は郵便料金の改定によって同年 9 月
10 日に販売停止となり、同月 26 日に 2.80 フラン切手(下右)YT-2831 が発行された。この時
期に同様の扱いを受けた 2.50 フラン切手は他に見られない。競技終了から 6 カ月も経過した
のちに同一図案で金額のみを改定して再発行し、10 日後には窓口から引き上げた郵政の意
図は必ずしも明らかでない。初日消印局はブルターニュ地域圏外であるが、上にあげた 1990 年
切手 YT-2648 との関連で例外的にここに掲げておく。1-4-2
YT-2789 初日 1993.2.8 販売終了 1993.9.10
【1-4-3 軍艦―戦前】
YT-425
YT-2831 販売開始 1993.9.26 販売終了 1993.10.7
船舶切手の最後は軍艦
である。この分野では、サンナゼール市(客船)とは対照
的に、軍港であり広大な造艦施設を有したブレストの存
在感は圧倒的である。まず、右の戦艦 cuirassé
《Clémenceau》90 サンチームの切手は、軍艦の左上に第 1
次大戦の前後首相を務めた急進社会党の政治家で
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「虎」と綽名されたジョルジュ・クルマンソォ Georges
Clemenceau の肖像を配した。郵政当局も今日の
切手カタログもすべて、戦艦クレマンソォの雄姿として
いる。この切手は同艦の完成前に企画され,当時
すでに優れた彫刻者として認められていたドカ
リス Albert Decaris に作画・彫版が委ねられた。切
手の上部にはクレマンソォの名と 1939 年 1 月 17 日の
日付がある。これだけでは何も異常は見られな
い。しかし、この切手が発売された 4 月 18 日
には、戦艦クレマンソォは既に存在しなかった。艤装
前にドイツの爆撃によって造船所域内で破壊さ
れていたからである。当時防諜の必要から、ま
た高度な艤装設計に多大な時間を要したこと
から、ドカリスは戦艦クレマンソォの姿図を受け取って
いなかった。彼はやむなくすでに進水して役務についていた他の戦艦を見ながらこの切手
を作る以外になかったのである。研究者のほぼ一致するところ、それは戦艦ダンケルク
Dankerque であった。研究書からその挿し絵を転写する。切手の絵との対比から結論は明白
であろう。フランスの郵趣家はこの点については寛大である。エラー切手ではない、これが「クレマン
ソォ」だ、たとえ幻であっても、と考えているのである。なお、小さいことだが、人名は
Clemenceau だが、艦名は Clémenceau, 発音もクルマンソォとクレマンソォの違いがある。1-4-3
【1-4-4 デュゲィ・トルアン】
Duguay-Trouin
1673-1736
YT-1874
次の切手にも軍艦が配さ
れている。左は巡洋艦 Duguay-Trouin(1926), 右はフリゲート艦(対潜護衛艦)Duguay-Trouin
(1976)である。いずれも実在の艦船であるが、同
名でありながら、年次には
50 年の開きがある。この
切手は、海軍予備役将校全
国協会 ACORAM の 50 周
年を記念し設立当時の最
新鋭艦と今日のそれとを
掲げたものであって、50
年前に巡洋艦が果した役割を現在ではフリゲート艦が担っていると
いう含意もある。艦名のデュゲィ・トルアンは 1673 年にサンマロに生れ、若
くしてイギリス、オランダに対する私掠船(公認海賊船)長として名を
挙げ、のちに海軍に任官してルイ 14 世のもとで海軍総司令官まで出世した武将である
YT-1748。 フランス海軍は験を担ぐように相次いで重要な艦船に彼の名を付した。その数、10
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隻。50 周年を祝うに上記両艦を掲げたことはむべなるかなである。1-4-4
【1-4-5 海軍士官学校】 YT-2170 ブレストは、艦船の生れ故郷であるだけでなく、海軍士官の
揺り籠でもある。海軍士官学校 Ecole navale の本営地は、ブレスト湾の錨泊地の向かいの町ラン
デヴネク Landévennec(【ブルターニュ 2】)にあり、1981 年に 150 周年を迎えた。この記念日のため
につくられた初日印を見てほしい。女性の海軍士官見習いが同期の桜と錨、今はどの国の
軍隊でも同権法が施行されて戦争がやりにくくなった。「女に政治がわかるか」「女には戦
争のつらさがわかる」
(アリストパネス「女の平和」)。
Le Bagad と呼ばれるバグパイプの集団演奏がブルターニュの西部を中心として盛んに行われて
いる。スコットランド起源の民俗音楽であるが、海軍士官学校のそれは華麗にして勇壮、人気が
YT-3655
高い。地元の伝統的な祝祭に国の軍隊――といっても、とびきり素敵な水兵さんたちだが
――が溶け込んでともに楽しむ、士官学校 150 年のお祝いもこのようにして盛り上がった
に違いない。軍艦の話に戻ろう。1-4-5
【1-4-6 軍艦―戦後】 今日の海軍はまるで様変わり、主力艦船は航空母艦と潜水艦となった。
いずれも必要な動力はす
べて艦内の原発から取り
出している。フランスもこの
点ではアメリカやロシアと同じ
で、軍事大国である以上
原子力の軍事利用や核武
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装は当然という意識が感じられる。
フランスは戦前すでに航空母艦を有していた。それは 1920 年進水の戦艦 Béarn 号を 1928 年
に空母に改装したものであった(1945 年退役)。戦後は、長らく主力空母を有しなかったが、
1961 年に《Clemenceau》号(前頁左)を、1963 年に《Foch》号(右)を完成させて配備した。
前者は既にみたように、1939 年、完成前に破壊された戦艦と同名であるが、Clémen….で
はなく Clemen….とアクサンを外して進水させた。後者は第 1 次大戦の功労者フォシュ元帥の名をと
った巡洋艦が 1942 年にトゥロン港で自沈させられたことを意識したもので、名誉回復のために
新主力母艦に再度その名を冠したということだが、フォシュ元帥ご自身の持論「飛行機は戦争
に役立たない」のほうは顧みられなかった。
時を経てこの 2 艦も新世代の空母にその座を譲ることになろう。1986 年, 原子力空母の図
面が引かれ、リシュリユー Richelieu と命名された。しかし、このフランス革命前の宰相の名は新空母
のスペック(原子力推進と核兵器装備)になじまないので
はないか。当時の首
相ジャク・シラク Jacques
Chirac はこれをシャルル・
ドゴォル Charles de
Gaulle に改める、と
宣言した。1994 年ブ
レスト港で進水、2001 年に艤装完了、トゥロン軍港を母港としてフランス海軍に配備された。旧式空
母《Foch》は 2000 年ブラジル海軍に売却、《Clemenceau》は 1997 年に解体処分が決定され
た。2015 年を予定し
て原子力空母第 2 号
(PA2)が完成する
まで、《Charles de
Gaulle》がひとりこ
の国を守ることと
なる YT-3557。
航空母艦より出番
が多いのがヘリコプタ母艦である。小回りが利くだけ
でない。ヘリが救出と攻撃の両面で重要な戦力とな
った(とくに旧植民地での紛争など)20 世紀後半
に颯爽と登場したのがジャンヌダルク号である。はじめ、
ブレスト軍港で建造されたときは《la Résolue》(果断)
号と言ったが、進水の 3 年後なんと《Jeanne d’Arc》
号と改名した人気艦である。2010 年に 49 歳で退
役するまで、同艦のヘリで救出された兵士や市民は多数に上る。軍事面でも攻撃用ヘリ《ガゼル》
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号(【ミディピレネ 2】)を出撃させて戦果をあげたようだが、詳しくは資料がない。フランス郵政は引
退の前年、水兵さんや男女機会均等士官(【ブルターニュ 2】参照)の顔絵を添えた連刷の切手
YT-4423/24 を発行してその栄を讃えた。
残るのは潜水艦だが、実はその建造はブレストとは限らない。これまでのところ原子力潜
水艦の主たる建造地はマンシュ県のシェルブール Cherbourg である。第 1 号潜水艦 Le Redoutable (直
訳すれば、恐るべきもの)は、この地で
「雨傘」の映画が封切られた 1964 年に
竜骨が取り付けられた。したがって、れ
っきとしたノルマンディ生れではあるが、こ
の原潜を他の艦船とともにブルターニュの巻
で取り上げる理由がないわけではない。上の写真を
見てほしい。この第 1 号原潜が 1971 年に配置された
基地はブレストの軍港なのである。第 1 号に続いてこれ
まで、同型の原潜が 6 隻建造され、主たる軍港ない
し軍事上の要所に配備された。その寿命は通常の艦
船よりも短く、平均して 20 年で解体処理されている(ル・ルドゥタブルは 1991 年に退役となっ
た)。左上の 70 サンチームの切手 YT-1615 はシェルブールでの艤装の過程で 1968 年に発行された。下
部には《核推進ミサイル搭載潜水艦》(=原潜)と明記されている。フランスの新聞などは《SNLE》
と略して表示しているが、日常会話の中でもこの略称が普通に用いられている。1-4-6
【1-4-7 科学技術―通信】 フランスの科学技術は、
他の先進国と同
様に軍事・防衛戦
略と深く関わり
ながら発展して
きたが、近年では
その平和的利用
の諸面が強調さ
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れ、切手の発行政策もその傾向を反映している。ブルターニュはフランス南西部とともに、国内にお
ける大型施設の立地の観点からも注目されてきた。前頁左の 2 点セット大型切手 YT-1360,
YT-1361 は、1962 年にテレビ中継衛星への発信施設としてプルムール・ボドゥ Pleumeur-Bodou 村に
設けられた宇宙通信センターを記念するものである。
右上の 60 サンチームの切手 YT-1451 は、1965 年に国際電気通信連合の 100 周年を記念して発
行された。図柄の右下に宇宙通信センターが描かれ
ている。モールス信号機から 100 年を経て衛星通信
の時代を迎えたことを示している。ブルターニュはか
つて僻地と見られたが、今では科学技術の新た
な拠点を擁する先進的地域へと変わりつつある
ようだ。左は、首都レンヌに本拠を置いた国立高等
電気学校 Ecole supérieure d’éléctricité が 100 周年
を迎えたことを祝賀して発行された(1995 年)。
YT-2937
1-4-7
【1-4-8 陸軍士官学校】 さて、今回も海の側からブルターニュを見てきた。したがって、軍隊に
ついても海軍の話だけをしてきたが、フランス陸軍はどうなのか、ということはお叱りを受け
る前から考えている。事情が少し違うことをお断りした上で、海軍士官との均衡で陸軍の
幹部学校についても----その所在地の 1 つがここブルターニュであるので----取り上げておきた
い。事情が多少異なるのは、1/ 陸軍の場合、第 2 次大戦での対独戦で勝利した将官の栄
誉を顕彰することが内外両面で重視される。しかし、将官だけでシリーズを構成することは無
粋であろう、従って解放 XX 年記念に織り込むか、生誕 XX 年として個別に記念するか、と
なる。前者の場合は全国マタ-で地方との関係では企画=規格外、後者の場合は出身地に依拠
したローカルマターでそれぞれの地方で取り上げるだけである。もっとも、海軍の場合にはドイツと
ほとんど戦っておらず、降伏前に戦力潰滅状態であったということもあって、大戦中につ
いては切手も何もない、という状況ではあった。2/ 陸軍の場合、艦船や飛行機に相当す
る「絵」になる兵器がない。パレードに戦車は出てくるが、空軍のデモンストレーションや、海軍の「見
よ堂々の….」艦隊行進にはおよそかなわない。
そこで間違いなく海軍と比肩できるのはと探すと、それは歴史
のある士官教育である。陸
軍士官学校は 1954 年に 150
周年を迎えたが、ここでは
戦後に限ることとしよう。
← YT-996
Saint-Cyr 士官学校
YT-2140 Saint-Maixent 下士官学校
→
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陸軍の場合はとくに、士官と下士官の役割は平時・戦時を問わずはっきりと異なるのであ
って、学校も、その名称も、採用方法も違う。モルビアン県ゲル Guer 村のコエキダン Coëtquidan に
はサンシル陸軍特別士官学校 Ecole spéciale militaire de Saint-Cyr YT-996 が、またドゥセヴル県サンメク
サン Saint-Maixent にはサン・メクサン陸軍士官学校 Ecole militaire de Saint-Maixent YT-2140 がある。
前者について。まずその名称だが、1802 年にナポレオンによって創始され、はじめフォンテーヌブロォ
城に、のち 1806 年にパリ郊外(イヴリーヌ県)の Saint-Cyr-l’Ecole にあるサン・ルイ王宮 Maison royale
de Saint Louis にその本拠を置いたことに由来している。1945 年の再出発にあたって暫定的
にコエキダンに設営し、サンシルへの復帰が待たれたが、かつての歩兵と騎兵の陸軍ではなくすべ
てが機動化されている以上サンシルに演習場の余地はなく名前だけ復帰してモルビアン県に定着す
ることとなった。このサンシルの「陸軍特別士官学校」はその下にリセ・ミリテール(幼年学校)をも
つものの、公募によって入学者を決定する狭義の士官養成学校であるのに対して、サン・メクサン
の「陸軍士官学校」はすでに陸軍兵士である者の中から入学者を選ぶ下士官養成学校であ
る。時期はかなり違うが 2 枚の切手と関連する写真を見よう。ともに 7 月 14 日のシャンゼリゼ
でのパレードのものである。左はサンシルの士官学校、右はサンメクサンの下士官学校生徒の行進であ
る。このパレードの機会に収集した士官学校関係の写真も掲げておこう。左下は特別士官学
校教育部長の大佐でパレードの隊
長、中央は先頭に立つ旗手(総
代)、右は「休め」の号令がかか
った直後のスナップ。なお、水兵さんや海軍士官学校も出てくると言うが、まだ一度も見たこ
とがない。お断り:下士官学校はポアトゥ・シャラント地域圏のドゥセヴル県にあるが、士官学校との関連で【ブルターニュ編】で紹介
した。1-4-8
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