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801 - フランスの切手

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801 - フランスの切手
ロレーヌ
図版博物館 vol.45
I
土地の記憶 20
Musée imaginaire philatélique
Région Lorraine au travers des timbres français
4e éd. 2013
【8-1-1 地域圏の構成】
ロレーヌ地域圏 Région Lorraine は、フランスの北東部でシャンパーニュとアルザス
の間に位置している。圏内に 4 つの県がある。人口および諸経済指標でみるとメス Metz を主
邑とするモゼル県 Moselle (103 万人)とナンシーを主邑とするムルト・エ・モゼル県 Meurthe et Moselle (72
万人)が大きく、ムーズ県 Meuse
(19 万人 県庁所在地バル・ル・デュク Bar-le-Duc)、ヴォージュ県 Vosges
(38 万人 県庁所在地エピナル Epinal)は小さい。ロレーヌ地域圏としての首都はメスである。4 県で 1
つの地域圏を構成するのは主として地理的隣接関係による。下の 2 つの地図を見てほしい。
色別でみたモゼルとムルトは 1790 年に定められた 83 県の内の 2 県であるが、1871 年普仏戦
争後のフランクフルト条約で両県にまたがって線が書き込まれた。線の北がドイツに併合され、南が
残った。残った部分をまとめて 1 つの県に再編、その西北部(Briey 郡)はモゼル県であった
ため、再編後の県名をムルト・エ・モゼルとした。他方、モゼル県は消滅した。第 1 次大戦後のヴェルサ
イユ条約でドイツ併合部分が返還されたが、1871 年以前の区分に戻さず、返還部分を新モゼル県
とした。第 2 次大戦中これらの旧併合地域は再度併合されたが戦後フランスに戻された。右の
図は現モゼル県の言語区分図である。このように県の南部はフランス語地域、北部はドイツ語系方
言地域である。後者では現在でもドイツ語がよく用いられている。堅苦しい説明が先行した
が、この地域においては切手を通して歴史や文化に接する場合でも、以上のことがらは前
提として知っていなければならないので、お許し願いたい。8-1-1
【8-1-2 紋章切手】
まず、3 種の紋章切手があるが、発行の時期・理由はそれぞれ異なる。
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1
左はナンシィ市の紋章だが、
〈POSTES FRANCAISES〉と記載されているようにドイツ支配下において
ヴィシィ政府郵政が 1941 年に発行したものである YT-526。 中央はメス市の紋章で〈RF〉とあ
り、施政と領土の両面での
解放を記念してストラスブール
との 2 枚組で 1945 年に発
行されたれっきとした記
念 切 手 で あ る YT-734 。
右は、1947 年に発行され
た戦後初の旧州紋章切手
4 点の内の 1 つである YT-757。
では、Région シリーズに登場するロレーヌはどのような切手か YT-2065。
左は 1979 年に発行された〈Lorraine〉で、
デザインも今一つと眺めていたら、おや、
と気がついたことがあった。「これは薊
だ」。とすれば、ナンシィのエンブレームではない
か。調べてみるとナンシィというよりもロレー
ヌのそれで、1420 年にロレーヌの女王イザベ
ラと結婚したナポリ王ルネ 1 世がロレーヌ公領の
紋章として持ち込んだものという。その
子ルネ 2 世がこれに花言葉を付けた。« Ne toquès mi, je poins »。現
代語に直すと« Ne me touche pas, je pique »(触るな、刺すぞ)。でも、このくらいでやめて
おかないとボロが出そうだ。この花言葉はのちに転意して今日では« Qui s'y frotte, s'y
pique »の意味で用いられるとフランス語の大辞典にあった。次にロベール仏和大辞典で〈se frotter〉
を引いたら「君子危うきに近寄らず」と訳されていた。その通りだ。8-1-2
【8-1-3 フランスへの併合】
YT-1483
ロレーヌ地方各県の都市や歴史遺産を訪ねるプロムナードを今
から始めるが、その前に紹介しておきたい切手がある。ロレーヌとバロア Barrois のフランスへの併合
200 年記念という切手である。バロアとは現在のムーズ
県にほぼ当たる地方であ
る。この話もポーランド継承
戦争が絡むのでかなり長
くなるがお許し願いたい。
ポーランド王アウグスト 2 世が
1733 年に死んだ。後継者を
めぐって、ロシア皇帝と組んだ神聖ローマ
帝国皇帝に対し、フランスは 1709
年にポーランドの王位を追われたスタニスラス・レシチニスキ Stanislas Leszczynski
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2
の復活を策した。ポーランド議会はこれを認めたが、その結果戦争状態となってスタニスラスはダンチ
ッヒで包囲され、動けなくなった。このような状況を打開するため 1737 年にフランスのフルーリ枢機
卿 cardinal Fleury のイニシアチヴによって関係列強間で到達した結論は(ごく単純化すれば)こ
うであった。1)ポーランド王位はアウグスト 2 世の子 3 世に継がせる。2)スタニスラスにはロレーヌ・バロア
両公領をその生存中に限って与える(用益権の付与)。3)ロレーヌ公フランソワ 3 世(のちの神聖
ローマ帝国皇帝フランツ 1 世)には代償としてトスカナ公領の承継を認める。このような合意によって
ポーランドの王位を断念したスタニスラスはロレーヌ公となり、そのロレーヌ公が 1766 年に死亡したのでロレー
ヌ・バロア両公領はフランスに完全な権利として帰属した(用益権の消滅)。1966 年に 200 年を
迎えたので、フランス郵政は「ロレーヌ・バロアの統合 200 年」と銘打った切手を出すこととし、そ
の図柄にスタニスラス・レシチニスキ氏にご登場を願ったという次第。
なお、以上の話と直接のかかわりはないが、ストネィ Stenay の併合 300 年を記念する切手も
1954 年に発行されている。ステネィはムーズ県にある人口 3
千弱の町であり、第 1 次大戦では彼我双方とも情報不
足で休戦協定発効の直前まで戦っていたということ
で有名だが、300 年前の併合についてはまだ調べがつ
いていない YT-987。フロンドの乱の時期にコンデ公が占拠
していたのを 1654 年にルイ 14 世が攻囲し、コンデ公を捕
虜にしてこの町を取り上げたというのが史実のよう
である。それから 300 年、私にはこのような小さい町の遣り取りを 3 世紀も経って切手に
することは理解し難いのだが、他方ではこの地方に限らず、ルイ 14 世以降の領土の拡大が好
んで切手で取り上げられていることにいまさらながら感嘆した。帝国主義のウイルスに一旦汚
染されるとその除去は難しいのである。8-1-3
【8-1-4 メス】 ロレーヌ地域圏首都のメス Metz から始める。まず、下の写真から。市内を流れるモゼ
ール河とサンテチエンヌ大聖堂である。サンテチエンヌ大聖堂は 13 世紀に定礎されたゴシク様式の伽藍である
が、現況で比較すれば屋根の一部を含めてガラスを多用している点で比類するものがない。
当然にヴィトロォ(ステンドグラス)の延べ面積も最大で 6500m2もあると言われている。その制作
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年次や方式も多様であるが、現代作家のデザインによるものもあり、中でも、1959 年にマルク・
シャガールが旧約聖書の題材に基づいて原画を描くことを承諾した周歩廊 2 面のヴィトロォは、ランス
のシモン・マルク工房の手で制作されてこの大聖堂の見ど
ころの 1 つとなっている YT-3498。ただ、シャガールの
作品には偏執的なマニアもいるようで、いくつかの美術
館と同様に、メス大聖堂でも 2008 年の夏の夜に「林
檎をもったイヴ」のヴィトロォが壊される事件があった、
と報じられている。
ところで、これだけの歴史のある都市でありながら、これまでメスを正面から取り上げた
切手はなかった。ようやく、2011 年にフランス郵趣協会連合 FFAP の 84 回大会の開催を機にタ
ブ付きの切手が発行された。ナンシィに遅れること 6 年、切手の大きさも 3 割方控えめである
うえ、デザインがいま一つ芳しくない、というのがメスのフィラテリストの嘆息のようだ YT-3498、
YT-4554。
最後に、教会とは直接のかかわりはないが、フランス郵政は
クリスマス切手(赤十字付加金)として 1993 年に聖ニコラの絵に
〈Image de Metz〉と入れた 2.80 フラン(+60 サンチム)の切手を発
行しているので、これについても調べてみなければならな
い YT-2853。なお。のちにヴォージュ県を取り上げる際に紹介
するエピナルの版画 imagerie d’épinard を集めた美術館には、
その目玉の 1 つとしてサン・ニコラの図があり、絵柄もよく似て
いるのでそれとの関係も調べる必要があろう YT-904 。
8-1-4
【8-1-5 チオンヴィル】 YT-3952
メスから北上してリュクサンブー
ルとの国境に近いところにチオンヴィル Thionville の町があ
る。ドイツ語では Diedenhofen という。19 世紀の産業革
命期以降急速に発展した工業都市であるが、1970 年
代以降停滞し人口減も見られた。近年では町自体の再
生とは言えないが、リュクサンブール市が経済・政治・観光
の諸面で脚光を浴びていることの恩恵を受けて活気
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が見られるようになった、とは新聞の解説である。
それはともかくとして、最近、色合いの良さで息をのむチオンヴィルの切手が発行された。 ク
ウロネ・デュツの水門橋 pont-écluse du Couronné d’Yutz である。モゼル河右岸が頻繁に洪水に見舞
われるため、王国築城総監アスフェル子爵の命によってルイ・ド・コルモンテーニュ Louis de Cormontaigne
がチオンヴィルに派遣され、24 年後の 1752 年に放水路を完成させた。取水口と放水口に水門が
建設されている。屋根付きの 2 層の橋で下層は非常用の備蓄倉庫、上層は通路と平時用の
倉庫として建造されている。ルイ・ド・コルモンターニュは軍人で中尉として赴任し、メス、チオンヴィル、ビッ
ツでの築城・造営事業に携わり、順調に昇進して最後は陸軍少将となった。
モゼル県の切手
としては、1996
年に観光切手と
して発行された
ビッツ Bitche があ
る。モゼル県の東
北端でドイツとの
国境に近い人口 6 千人弱の町で、市役所の写真を見ても
ビッツ市役所
わかるようにドイツの町の雰囲気である。普仏戦争でドイツ領、第 1 次大戦でフランス領、第 2 次
大戦下では 1940 年にザール、パラチナと統合されて Westmark 州とされ、住民はシャラント地方(現
ポアトゥ・シャラント地域圏)の移住を強制された。切手 YT-3018 の図柄は、サント・カトリヌ教会を中心と
する市街地と丘の上の城塞を描いて、静かな佇まいである。8-1-5
【8-1-6 ナンシィ】 つぎに、ムルト・エ・モゼル県に移ろう。モゼル県と違ってこの県はドイツ支配下(第 2
次大戦)におかれたことはあっても、基本的にドイツに併合されていない。先に述べたよう
に、旧ムルト、モゼル両県でドイツに併合されなかった部分をまとめてムルト・エ・モゼル県としたという
いきさつがある。中心都市ナンシィ Nancy は、フランス東部ではストラスブールに至る要路にある大都市
だが、人口は意外に少なく 10 万人ほどだ。
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まず、ナンシィといえばこの広場といってよいスタニスラス広場
Place de Stanislas がある。これ
は言うまでもな
く, 先述のよう
にロレーヌ公となっ
た元ポーランド王ス
タニスラスがこの町
を整備したこと
に因んだ命名で
ある。近くと遠くから
の 2 枚の写真でスタニスラ
ス広場の様子がわかる
だろう。この広場は戦
後初期の切手の画材
として繰り返し用い
られた。最初は 1947
年 2 月で 72.8 百万枚
発行され、次は 1948
年 12 月で 8 百万枚で
あった。これは郵便料金の改定によるものではな
く(額の変更なし)、高額の切手であったため偽
造を防止する目的での改造であったという。紺色
の 25 フラン切手の上下マージンにはそのための線刻模
様が入っているのだが、コピーではわかりにくい
YT-778 (1947)
YT-822 (1948) 。
シャルル公
ナンシィの戦い 500 年
ところで、ムルト・エ・モゼル県とくにナンシィ市は切手趣味人の多い
ところのようで、フランス郵趣団体連合の大会を誘致することに熱
心である。郵政もその熱意を認めているようだ。1986 年の 59 回大会の際の記念切手はスタニ
スラス門を図案にした比較的おとなしい図柄であった YT-2419 が、2005 年に 78 回大会を開催
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したときは超横長のパノラマ切手にタブを付けるサービスぶりであった。郵趣協会のナンシィ支部は大
いに喜んだという(メスとは違う!)。描かれるのはいつもスタニスラス広場であるが、それがナンシィ
っ子の誇りなのだから文句の出ようもない YT-3785。
このほかにナンシィに係わる切手はないかと探してみたら、3 つあった。 第 1 は 1977 年に発
行された「ナンシィの戦い」500 年の記念切手(上掲 YT-1946 である。1477 年 1 月 5 日にナンシィの
郊外で起きたブルゴーニュ公シャルル(無謀王)とロレーヌ公ルネ 2 世の間の戦いで、シャルルが殺害され 1
日の内にフルゴーニュ軍が敗退して決着した。
ロレーヌとブルゴーニュの間の多年にわたる抗争はこれによって終結し、フランス国王ルイ 11 世は、ブ
ルゴーニュ公国の一部を手に入れることとなる。他方、勝利したロレーヌ公はナンシィを確保し、フランス
国王との関係でもなおしばらく独立の地位を保
持することとなった。
第 2 は、ナンシィールネヴィル間の航空郵便 80 年を記
念した 1992 年の 2.50 フラン切手である。1912 年 7
月 13 日にナンシィ西郊のジャルヴィルから県東のリュネヴ
ィルまでアンドレ・ニコォ中尉が郵便行嚢 3 個を飛行機
で運搬したのがフランスにおける航空郵便の始まり
であった YT-2778。
8-1-6
【8-1-7 ナンシィ派美術館】 第 3 は、ガラス工芸の第一人者エミール・ガレ Emile Gallé を中心とする芸
術家集団「ナンシィ派」Ecole de Nancy
の芸術活動から
1 世紀を記念する 3 フラン切手である。
YT-3246 。 図柄
は、ガレのガラス
作品。
「アール・ヌヴ
ォ」と呼ばれるこ
のグループの作品
は、今日ナンシィの
Musée de l’Ecole
de Nancy に収集・展示されている。このグループの熱心な
支持者であったジャン・コルバン Jean-Baptiste Eugène Corbin の
私邸(上)を蒐集品とともに美術館としたもので、作品と建
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物、調度のすべてが一体となってこの時代の趣きを表現しているようだ。ガレの名が有名な
のでアール・ヌヴォといえばガラスを思い浮か
べるが、建物や庭園を含めて丸ごと美術
品であるこの館では様子がちがう。たと
えば、建築家であって木工職人であった
ウジェヌ・ヴァラン Eugène Vallin の木扉はこ
こに収められてなるほどと思わせるし、
大胆なカットの背もたれの椅子の説明を見
ると、このデザインは「コーカサスの花独活」
berce du Caucase を写したものだとあるが、庭園に出るとその「花
独活」が茂っていたり(下右)、という具合である。今日では TGV
でパリから 1
時間半、お出
かけになっ
てみてはい
かがだろう
か。8-1-7
ルイ・マジョレによる寝室調度
【8-1-8 ポンタムソン】 次に、ポンタムソン Pont à Mousson のプレモントレ大修道院を訪ねよう。ポンタムソン
は、ナンシィから北上してメスに至る街道の途中でモゼル河に接する人口 1 万 4000 人ほどの都市
である。昔からロレーヌ鉄工業地帯
sidérurgie lorraine として知られてい
る地方で、それを表象する産業切手が
1995 年に発行されている YT-2940。
その中心地の 1 つであるポンタムソンには
大製鉄会社サンゴバン Saint Gobin の工
場がある。このような鉄鋼の町にプレ
モントレ大修道院 Abbaye des Prémontrés
が あ り 、 1977 年 に 切 手 と な っ た
YT-1947。次頁の写真で河の向こうに
見える双塔の建物が同修道院だが、その正面入り口は大層厳めしい。それだけでなく正面
からは後ろの双塔が完全に隠れるように設計されている。18 世紀の建築だが、革命期にプ
レモントレ修道会は追放され、建物は 1906 年にポンタムソン市が取得して病院として使用していた。
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しかし、第 2 次
大戦末ドイツ軍
の拠点とされ
ていたため米
軍の爆撃によ
って壊滅、1957
年から 17 年を
かけて再建され、現在ではロレーヌ地方観光局など、公共
団体諸部局の事務所として使用されている。8-1-8
【8-1-9 サンニコラ・ド・ポール】 ムルト・エ・モゼル県の最後に、サンニコラ・デ・ポール Saint Nicolas de Port を訪ね
る。ナンシィから国道 4 号線を東へ 13kmほ
ど行ったムーズ河沿いの人口 8 千弱の町だ
が、そこのサンニコラ・バジリカ聖堂は 16 世紀
のフランヴォアイアン・ゴシク建築の傑作として知
られている。まず、正面の両塔は
85m,87m で均整が取れ、中に入れば身廊
の高さは 30m、それを支える円柱の高さ
はフランス随一の 21.5m という YT-1810。
このような美形の教会も第 2 次大戦初
期の 1940 年 6 月の爆撃で甚大な被害を
受けた。この町出身の女性でニューヨークの大富豪と結婚したカミーユ・クルエ=フリ-トマンは、このことを知
って膨大な財産をサンニコラの修復に使って下さいと遺贈した。町にとっても教会にとっても願
ってもない話で、文化財保護の拠金となれば税金もわずか、ふんだんな資金を惜しげなく
使って外観・内装を全面的に修復する事業にあてた。夫人の死去(1980 年)後僅か 3 年で
着工したが、完成には 15 年を要したようだ。
最後に、町名について。この町は数百年にわたってただ「サンニコラ」と称してきた。バジリカ
聖堂の名がそのまま町名であった。しかし、この聖人は甚だ人気があって、全国で千余の
教会施設がサンニコラの加護を願ってその名を称しているため、場合によって紛らわしい。また、
聖人の名だけの市町村名もいかがなものかと言うことになって、1961 年にサンニコラ・ド・ポールと
付け足した。ムーズ河の港と言う意味でもあろうが、住民は昔からポルトワと呼ばれていたよう
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だから由緒ある地名でもあるのだろう。正確なところはまだ調べていない。なお、切手の
左端に描かれているのはサンニコラだが、この聖人は 8-1-4 に掲げた切手のそれのように、いつ
もしなやかに踊っているようで面白い。8-1-9
【8-1-10 ロレーヌの植物・味覚】
2009 年にロレーヌを代表する植物として選ばれたのは:ミラベル
2010 年にロレーヌを代表する郷土
料理として選ばれたのは:ミラベルのタルト
mirabelle
YT-AA292
Tarte aux
mirabelles
YT-AA446
8-1-10
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