...

張良と太公望:漢六朝期受命思想における「佐命」

by user

on
Category: Documents
55

views

Report

Comments

Transcript

張良と太公望:漢六朝期受命思想における「佐命」
Nara Women's University Digital Information Repository
Title
張良と太公望:漢六朝期受命思想における「佐命」
Author(s)
保科, 季子
Citation
保科季子:寧楽史苑, 第59号, pp. 1-13
Issue Date
2014-02-10
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/4051
Textversion
publisher
This document is downloaded at: 2017-03-29T17:28:41Z
http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace
張 良 と太 公 望
は じ め に
■佐 命 ﹂1
保
科
足 を 以 て受 け、 笑 い て去 り、 良
五 日平 明、 我 と此 こ に会 さ ん﹂ と。 良
季
子
殊 に大 い に驚 く。 父
去る
之 を怪 し む も、 脆 き て応
こ と 里 ば か り に し て復 た 来 た り、 曰 く 、 ﹁濡 子 教 う可 き な り 。 後
父
ん と欲 す る も、 其 の老 いた るを 以 て、 乃 ち下 り て取 り脆 き て進 む 。
1 漢 六 朝 期 受 命 思想 にお け る
張 良 、 字 は子 房 。 前 漢 建 国 の功 臣 で あ り、 高 祖 ・劉 邦 を し て ﹁夫 れ
思 議 な老 人 ・黄 石 公 よ り ﹁太 公 兵 法 ﹂ を授 け ら れ、 後 に ﹁帝 王 の師 ﹂
皇 帝 暗 殺 に失 敗 し て お尋 ね者 と な り、 下 郵 に潜 伏 し て い た張 良 は、 不
ず。﹂ (﹃史 記 ﹄ 高 祖 本 紀 ) と 言 わ し め た 知 謀 の士 で あ る。 若 き 日、 始
の書 を 出 だ し て之 を 与 え 、 曰 く、 ﹁之 を 読 め ば 、 此 れ 王 者 の師 と
く、 ﹁当 に 是 く の如 く な る べか ら ず や !﹂ と 。 即 ち懐 中 よ り 一巻
こ に会 さ ん﹂ と。 凡 そ 三 た び期 し て良
怒 り て曰 く 、 ﹁何 ぞ 長 者 と 期 し て後 る る や 。 五 日、 更 め て我 と 此
已 に先 に来 た り、
と し て高 祖 ・劉 邦 の覇 業 を 輔 け る こと にな る。 ﹃史 記 ﹄ 留 侯 世 家 に初
為 ら ん。 後 十 三年 、 儒 子
往 くも、父
出 す る張 良 の授 書 伝 説 は、 後 世 、 歴 代 帝 王 の受 命 に ま つわ る瑞 祥 を 記
ち我 な り﹂ と。 旦 に其 の書 を視 れ ば、 乃 ち太 公 兵 法 な り。 良
じ て曰 く 、 ﹁諾 ﹂ と 。 五 日 、 良
載 す る ﹃宋 書 ﹄ 符 瑞 志 ・漢 高 祖 条 の末 尾 に 記載 さ れ、 高 祖 ・劉 邦 の受
石 篇 を 以 て他 人 の為 に説 く も、 皆 な省 み ず、 唯 だ高 帝 の み焉 を 説
箒 策 を帷 帳 の中 に運 ら し、 勝 を千 里 の外 に決 す る は、 吾 れ子 房 に如 か
命 諦 の 一つと し て認 識 さ れ て い る こ と が わ か る。 劉 邦 は ほ と ん ど登 場
ぶ。 良 曰 く 、 ﹁此 れ 殆 ん ど 天 の授 く る所 な り ﹂ と 。 五 年 にし て帝
黄
我 を濟 北 の穀 城 山 下 に見 ん、 黄 石 は 即
前 に至 る。 老 父 喜 び て 曰
し な い説 話 で あ る に も関 わ ら ず、 で あ る。
業 を成 す 。 後 十 三年 、 張 良 果 た し て穀 城 山 下 に黄 石 を 得 、 宝 と し
下 郵 済 水 の上 に遊 び、 老 父 の来 た り て、 直 ち に良 の
西 晋 の ﹁張 朗 墓 誌 ﹂ で も ﹁子 房 に還 び、 黄 父 書 を授 く。 高 祖 の龍 飛
初 め、 張 良
愕 然 と し て、 之 を 殴 ら
て之 を祠 り、 死 し て与 に合 葬 す 。 (﹃宋 書 ﹄ 符 瑞 志 上 )
下 り て 履 を 取 れ ﹂ と。 良
前 に至 り、 而 し て其 の履 を堕 とす こ と有 り。 顧 り み て良 に謂 い て
曰 く 、 ﹁儒 子
一
一
ユ
ユ は、 実 に良 誤 に頼 む こと 、 籍 に載 せ て焉 を 嘉 す 。﹂ と あ り 、 六 朝 期 に
お い て、 張 良 と言 え ば黄 石 公 の授 書 伝 説 を連 想 さ せ る ほ ど、 人 口 に瞼
第 一章
張良 と漢 受 命 伝 説
班 固 ﹁西都 賦 ﹂ と緯 書
後 漢 章 帝 時 代 の班 固 は 、 ﹁西 都 賦 ﹂ に お い て、 長 安 に都 す る こと を
第 一節
先 に、 筆 者 は前 漢 後 半 期 以降 の識 緯 思 想 の発 展 に と も な い、 帝 王 の
提 案 し た婁 敬 (
奉 春 君 ) と、 婁 敬 に賛 成 し て長 安 の優 位 を 解 き明 か し
災 し、 漢 王 朝 の受 命 神 話 と し て受 け入 れ ら れ て い た の で あ る。
受 命 に は、 天 か ら ﹁文 字 に書 か れ た﹂ 河 図 ・洛 書 が下 さ れ る、 と の思
た張 良 (
留 侯 ) を称 揚 し な が ら、 煙 び や か な長 安 の都 を謳 い あげ て い
や、 赤 帝 の子 (
劉 邦 ) が白 帝 の子 を斬 った断 蛇 の符 と い った瑞 祥 が語
は 以 て虎 視 す 。 大 漢 受 命 し て之 に都 す る に至 る に 及 ぶ や、 仰 ぎ て
是 の故 に六 合 を横 被 し、 三 た び帝 畿 と成 る。 周 は 以 て龍 興 し、 秦
想 が広 く行 わ れ た こ と を指 摘 し た。 前 漢 初 期 に は こ の よ う な思 想 は ま
る 。 (史 料 の 性 格 上 、 緯 書 は 原 文 の ま ま 提 示 す る 。)
ら れ る の み で、 漢 高 祖 自 身 に対 す る河 図 ・洛 書 の授 与 と い う伝 説 は形
は 東 井 の 精 を 膳 と り 、 傭 き て は 河 図 の 霊 に 協 い、 (
注 一又た河圖 に日
だ成 立 し て い な か った た め、 高 祖 ・劉 邦 の受 命 に際 し て は、 五 星 集 聚
成 さ れ な か った。 前 漢 後 半 以降 に河 図 ・洛 書 に よ る受 命 思 想 が確 立 さ
天授 図、地出道、 予張丘ハ
鈴、劉季起 。
﹂東 井、秦 の分野、 漢 は当 に秦 に代わり て関
く、 ﹁
帝劉季 、日角戴勝、 斗旬龍股、長七 尺八寸。昌光出珍 、五星聚井、 期之興、
と し て、 孔 子 が ﹁端 門 の血 書 ﹂ を 授 か り ﹃春 秋 ﹄ を 制 作 し た と す る
中 に都 すべきを明か にす。)奉 春
れ てい く中 で、 高 祖 に対 す る天 か ら の河 図 ・洛 書 付 与 の代 替 的 な神 話
﹁孔 子 の赤 制 ﹂ の思 想 や 、 獲 麟 の時 に漢 高 祖 の受 命 を 予 言 し た 書 を 得
し、 以 て皇 明を 発 す れ ば 、 乃ち 谷 み て西顧 し、 宴 に惟 に京 を 作 る。
﹁西 都 賦 ﹂)
周 、 秦 、 漢 と 三 代 の 都 と な った こ と 、 ま た 高 祖 が 長 安 に 至 った と き
の子、故 に佐命す、張良是れ なり﹂と。) (﹃後 漢 書 ﹄ 班 固 伝
者赤党。黄、 佐命。﹂宋衷 日く、 ﹁
此 の赤党 なる者、 漢高 帝を謂うなり。黄と は、火
(
中 略 ) ⋮ ⋮佐 命 は 則 ち統 を垂 れ、 輔 翼 は則 ち化 を 成 し、 大
演成す。天人合応
た物 語 な ど、 孔 子 が天 か ら河 図 ・洛 書 を与 え ら れ、 漢 の受 命 を 予 言 し
⋮⋮
策 を 建 て、 留 侯
てい た とす る伝 説 が創 造 さ れ て い った。 張 良 の授 書 伝 説 も、 漢 の受 命
漢 の 憧 悌 を 流 し 、 亡 秦 の 毒 贅 を 湯皿
くす。 (
注 一﹃
易乾繋 度﹄ に曰く、 ﹁
代
ヨ を予 言 す る物 語 と し て読 み替 え ら れ て い った と考 え ら れ る。
本 論 文 で は、 張 良 の授 書 伝 説 が漢 王 朝 の受 命 神 話 へと発 展 し、 張 良
自 身 が受 命 の仲 介 者 へと変 貌 し て い く過 程 を、 周 ・太 公 望 の伝 説 と の
関 わ り を中 心 に 明 ら か に し て い く こ と にす る。
﹃河 図 ﹄ の 、 ﹁予 張 兵 鈴 ﹂ の 解 釈 が
に 五 星 が 東 井 の 分 野 に 集 聚 し た 瑞 祥 と 、 ﹁河 図 ﹂ に 現 れ た 高 祖 受 命 の
ら 兆 験 に つい て語 る。 李 賢 注 が 引 く
難 し い。 ﹃詩 含 神 霧 ﹄ (﹃太 平 御 覧 ﹄ 八 〇 二 所 引 ) に、
一
一
兵鈴 の図命を受け、
聖人 受命、必順斗。 張握命図、授 漢宝。 (
宋均曰く、聖人、 高祖を謂 う
なり。天命を受け て王たる には、必ず旋 衡法 に順 う。故 に張良
以 て漢 に授 け、珍宝と為す なりと。)
第 二節
王充 ﹃論 衡 ﹄ に 見 え る 張良 伝 説
班 固 と ほ ぼ同 時 期 の王 充 ﹃論 衡 ﹄ に は、 張 良 が黄 石 公 よ り書 を 授 け
ら れ た こ と を漢 高 祖 の受 命 に、 よ り 明確 に関 連 づ け る 記述 が あ る。
書 を出 だ す 。 画
或 ひ と 曰 く 、 ﹁太 平 の応 、 河
図を出 だし、洛
と あ り 、 ﹁張 握 命 図 ﹂ の 部 分 を 宋 均 が ﹁張 良 受 兵 鈴 之 図 命 ﹂ と 解 し て
マ か ざ れ ば就 ら ず、 為 さざ れ ば成 ら ず。 天 地 之 を出 だす は、 有 為 の
漢 を佐 け て秦 を謀 さ ん と し、 故 に命 じ て神 石 を し
マ
お り 、 ﹁張 ﹂ は 張 良 を 指 す こ と が わ か る 。 注 に 従 っ て 敢 え て ﹃詩 含 神
ら る。 蓋 し天
験 な り 。 張 良 洒 水 の上 に遊 び 、 黄 石 公 に 遇 い、 太 公 の書 を 授 け
﹃西
命 図 を 握 り、 漢 に授 け て宝
霧 ﹄ の こ の 部 分 を 訓 読 す る な ら ば 、 ﹁張
と す 。﹂ と 読 め る だ ろ う 。 ﹃詩 含 神 霧 ﹄ の 宋 均 注 は 、 お そ ら く 前 掲
自 ら成 る。 (﹃論 衡 ﹄ 自 然 篇 )
て鬼 書 を 為 り人 に授 け し む 、復 た有 為 の致 と為 す な り ﹂ と。 曰く 、
﹃河 図 ﹄ の ﹁予 張 兵 鈴 ﹂ を 踏 ま え て お り 、 こ の ﹁張 ﹂ も
得 ん や。 天 道 は自 然 、 故 に図 書
都賦﹄注所引
﹁太 公 兵
此 れ皆 な自 然 な り。 夫 れ天 安 ん ぞ筆 墨 を 以 て而 し て図 書 を 為 るを
起 こ る 。﹂ と は 、 張 良 に 黄 石 公 が 兵 法 書
張 良 を 指 す こ と が わ か る 。 ﹁兵 鈴 ﹂ と は 兵 法 書 を 意 味 す る の で 、 ﹁張 に
兵鈴 を予え、劉季
秦 を 謀 す るた め で あ る と 、 ﹁或 る ひと 曰 く﹂ と し て述 べ て いる 。 同 じ
と あ り、 張 良 が黄 石 公 よ り太 公 の書 を授 か った の は、 天 が漢 を 援 け て
の 兆 験 で あ る こ と を 述 べ て い る の で あ る 。 ま た ﹃詩 含 神 霧 ﹄ は 張 良 が
く ﹃論 衡 ﹄ 紀 妖 篇 でも 、 ﹃史 記 ﹄ 留 侯 世 家 の授 書 諦 の部 分 を 引 用 し た
(
漢 高 祖 。 季 は高 祖 の字 ) の受 命
(
河)図﹂
法 ﹂ を授 け た こ と、 ま た そ れ が劉 季
得 た も の を ﹁命 図 ﹂ と 称 し て お り 、 ﹁兵 鈴 ﹂ 11 ﹁(
受)命 の
輔 と 為 る の祥 な り 。﹂ と の当 時
上 で、 張 良 が黄 石 公 に書 を 授 け ら れ た こと に対 し、 は っき り と ﹁曰く 、
将 に起 こ ら ん と し 、 張 良
の見 解 を 引 用 し、 王 充 自 身 は そ れ に対 し全 く反 論 を 加 え てい な いか ら 、
是 れ高祖
と な る 。 ﹁兵 鈴 ﹂ に つ い て は 、 次 章 で も 触 れ る こ と に な る だ ろ う 。
(
黄 石 公 と の関 連 か)
さ ら に ﹃西 都 賦 ﹄ 後 段 の ﹁佐 命 ﹂ に つい て 、 易 緯 を 引 い て 張 良 の こ
と と 解 釈 し て い る こ と が 注 目 さ れ る 。 黄 11 張 良
瑞 応 符 命 、 文 に非 ざ る者 は莫 し。 晋 の唐 叔 虞 、 魯 の成 季 友 、 恵 公
同 様 の 認識 を持 って い た と思 わ れ る。 ま た、
す る と あ る 。 張 良 の ﹁佐 命 ﹂ と は 、 軍 師 と し て 知 略 を 振 る って 高 祖 の
夫 人 号 し て仲 子 と 日 う、 生 ま れ な が ら に し て怪 奇 あ り、 文 の其 の
(11 赤 ) を ﹁佐 命 ﹂
天 下 取 り を 援 け る と い う よ り は 、 黄 石 公 よ り ﹁命 図 ﹂ で あ る ﹁兵 鈴 ﹂
手 に在 り。 張 良
が 五 行 相 生 説 で は ﹁火 の 子 ﹂ で あ り 、 そ れ 故 に高 祖
(11 ﹁太 公 兵 法 ﹂) を 授 け ら れ 、 ま た そ の こ と 自 体 が 漢 高 祖 の 受 命 の 兆
授 け、 卒 に留 侯 に封 ぜ ら る。 河 神 、 故 に図 を出 す 。 洛 霊 、 故 に書
書を
験 で あ った こ と を 意 味 す る と 思 わ れ る が 、 そ れ に つい て も う 少 し 論 証
を出 す。 (﹃論 衡 ﹄ 書 解 篇 )
当 に貴 た る べく、 出 で て神 と会 し、 老 父
が 必要 で あ る。 節 を改 め よ う。
一
一
ヨ
﹃論 衡 ﹄ は瑞 祥 や符 命 は必 ず人 が読 め る文 字 に よ って現 れ る と い う
ア 一貫 し た主 張 を持 って い る の だ が、 張 良 が黄 石 公 よ り得 た書 も ま た、
た周 受 命 に つい て も少 し く触 れ た と こ ろ が あ る が、 本 稿 で は張 良 と関
わ る点 に特 に注 目 し て述 べて い く こ と に し よ う。
太 公 望 が 溜水 のほと り で釣 り し て ﹁受 命 の書 ﹂ を 手 に入 れ る伝 説 は、
お そ ら く最 も原 初 的 な形 では前 漢 ・劉 向 ﹃説 苑 ﹄ の、 現 在 は侠 す る部
河図 ・洛 書 と同 列 の も の と考 え て い る こ と が わ か る。 こ こ で い う晋 の
唐 叔 虞 、 魯 の成 季 友 、 恵 公 夫 人 仲 子 の手 の文 字 に つい て は、 紀 妖 篇 で
即 ち分心り、 其 の衣 冠 を脱 ぐ。 上 に農 人 な る者 有 り、 古 の異 人
年 七十 にし て溜 渚 に釣 り し、 三 旦 二夜 魚 の食 む者 無 けれ ば 、
分 に見 え て い る。
望
呂望
﹁太 公 兵 法 ﹂ と と も に、 こう し た 刀 筆 に拠 ら な い神 秘 の文 字 が 、 気 の
象 る と こ ろ であ る と論 じ て い る。 王 充 は自 然 編 でも、
且 に興 ら ん とす る の象 な り。
な り 、 望 に謂 い て曰 く 、 ﹁子
書 を授 く る は、 亦 た漢
と述 べ、 張 良 が黄 石 公 よ り ﹁太 公 兵 法 ﹂ を授 け ら れ た伝 説 を 、 漢 受 命
し、 其 の餌 を芳 し く し、 徐 徐 に し て投 じ、 魚 を し て骸 か し む る無
黄石
神 話 の 一つと み な し て いた 。 ﹁太 公 兵 法 ﹂ が 河 図 ・洛 書 に類 す る書 物
か れ﹂ と。 望
姑 く復 た 釣 れ 、 必 ず其 の論 を 細 く
であ り (前 節 に引 いた 詩 緯 ﹃含 神 霧 ﹄ で は ﹁命 図﹂ と 表 現 さ れ る )、
を 得 た り 。 魚 腹 を 刺 し て 書 を 得 た る 、 書 の 文 に 曰 く 、 ﹁呂 望
其 の異 を知 る。 (﹃史 記﹄ 斉 太 公 世 家 ・正
其 の言 の如 く せ ば、 初 め て下 に鮒 を得 、 次 い で鯉
そ れ は天 か ら の受 命 の書 で あ り、 張 良 は漢 高 祖 の受 命 の仲 介 者 と い う
斉 に封 ぜ ら る﹂ と。 望
輔 と為 る﹂ や ﹁帝 王 の師 と為 れ﹂ と あ り、
こ と に な る。 ま た ﹁張 良
義 引 ﹃説 苑 ﹄)
﹃説 苑 ﹄ では太 公 望 の封 侯 を予 言 す るだ け で、 周 の受 命 には触 れな い。
天 は高 祖 の受 命 を援 け る た め に張 良 を軍 師 と し て派 遣 し た と考 え ら れ
てい た の で あ る。
旙 渓 に至 り 呂望 に見 ゆ。 文 王
命を受 け、呂
佐
之 に拝 せ ば、 尚 父 曰 く、
こ れ が前 漢 ・伏 生 著 と伝 え ら れ る ﹃尚 書 大 伝 ﹄ で は、
周文王
こ の 一連 の張 良 を 介 し た 漢 受 命 伝 説 にお い て、 張 良 が 得 た 書 物 が
﹁太 公 兵 法 ﹂ であ る と は、 いか な る意 味 を 持 って い る の であ ろ う か 。
望
来 た り て提 る﹂ と。 (﹃初 学 記﹄ 武 部 漁 、
廣 の刻 は ﹁姫 受 命 、 呂佐 施 、 徳 合 干 今 、 昌 来 提 、 撰 爾 維 鈴 、 報 在 斉 。
あ る玉 蹟 を得 た こ と に な って い る。 さ ら に緯 書 ﹃尚 書 中 候 ﹄ で は、 玉
む と、 太 公 望 が釣 り し て ﹁周 受 命 、 呂佐 検 、 徳 合 干 今 、 昌 来 提 ﹂ と刻 の
﹃太 平 御 覧 ﹄ 巻 八 三 四 他 引 ﹃尚 書 大 伝 ﹄)
今 に合 し 、 昌
釣 り し て玉 磧 を 得 た り 。 刻 に 曰 く 、 ﹁周
次 章 で は太 公 望 と周 の受 命 伝 説 に立 ち戻 って、 帝 王 受 命 を 仲 介 す る者
受命 における ﹁
輔﹂者
検す。徳
太 公望 伝 説
と し て の ﹁輔 ﹂ の問 題 を考 察 し て い く こ と に し よ う。
第 二章
筆者 は、先 に緯書 に見 える周受命伝説 を考察 した際、太公望を介 し
一
一
昌 用起 、 発 遵 題。 五 百 世 姜 呂 覇、 ⋮ ⋮﹂ (
﹃尚 書 中 候 ﹄ 維 師謀 ) と な り 、
周 (
姫 姓 ) の受 命 及 び太 公 望 の ﹁佐 検 ﹂ ﹁佐 旛 ﹂ を 予 言 し て いる 。
漢 代 にお い て、 兵 法 書 は多 分 に神 秘 的 な 側 面 を持 って いた 。 ﹃後 漢
書 ﹄ 方 術 伝 上 ・序 に、
乃 ち 河洛 の文 、 亀 龍 の図 、 箕 子 の術 、 師 嘔 の書 、 緯 候 の部 、 鈴 決
の符 に至 り ては、 皆 な 冥蹟 を探 抽 し 、人 区 を 参 験 す る 所 以 にし て、
注 目 す べき は、 ﹃尚 書 中 候 ﹄ の刻 文 に見 え る ﹁撰 爾 維 鈴 ﹂ の ﹁維 鈴 ﹂
であ る。 ﹃列 仙 伝 ﹄ (
前 漢 の劉 向 撰 と伝 え ら れ る が、 実 際 に は お そ ら く
時 に聞 く べき者 有 り。
曰 く 、 爾 ら の及 ぶ 所 に非 ざ る な り と 。 已 に し て、 果
南 山 に匿 れ、 渓 に釣 りす 。 三年 魚 を獲 ず、 比 閻 皆 な 曰 く、 已 む可
を預 見 す 。 村 の乱 を 避 け 、遼 東 に隠 る る こと 四十 年 。西 周 に適 き 、
呂尚 な る者 は翼 州 の人 な り。 生 ま れ な が ら に し て内 智 あ り、 存 亡
的 な内 容 を も つ割 り符 と思 わ れ る が、 こ れ が ﹁河 洛 の文 ﹂ や ﹁亀 龍 の
知 のと お り であ る。 ﹁鈴 決 の符 ﹂ と は兵 法 書 に記 載 さ れ る よ う な 軍 事
時 代 、 ﹁符 命 ﹂ が 天 帝 か ら の命 令 書 と し て偽 造 ・濫 発 さ れ た こと 、 周
は 軍事 上 の命 令 を執 行 す る際 の割 り符 であ り、 命 令 書 でも あ る。 王 葬
と、 ﹁鈴 ﹂ も ﹁決 ﹂ も兵 法 書 の タ イ ト ル に多 く 使 用 さ れ、 ま た ﹁符 ﹂
ね 六 朝 期 の成 立 と見 ら れ る) に は、
夢 に聖 人 を得 、 尚 を 聞 き、 遂
てい る。 張 良 や太 公 望 が得 た ﹁兵 鈴 ﹂ は、 受 命 の帝 王 の軍 師 と な る べ
な んじ
た し て兵 鈴 を魚 腹 中 よ り得 。 文 王
図﹂ と並 べら れ て お り、 神 秘 な知 恵 と か か わ る も の で あ る こ とを 示 し
地 髄 を 服 し、 二百 年 を具 し て亡 ぶ を告 ぐ。 難 有 り て葬 らず 、 後 子
き人 物 に対 し、 天 が与 え た兵 法 書 で あ り、 ま た帝 王 の受 命 を 補 佐 せ よ
しと。尚
に載 せ て帰 る。 武 王 の伐 村 に至 り、 嘗 て陰 謀 百 余 篇 を 作 り、 澤 芝
之 を葬 ら ん とす る に、 [
﹁無 く、 唯 だ玉 鈴 六 篇 の み有 り て棺 中 に在
では 、 太 公 望 は洛 水 よ り こ の書 を 得 て い るか ら 、 ﹁洛 書 ﹂ でも あ る。
と の天 か ら の命 令 書 でも あ る 。 そ れだ け でな く、 ﹃尚 書 中 候 ﹄ ﹁維 師 謀 ﹂
と、 太 公 望 が釣 った魚 の腹 中 よ り ﹁兵 鈴 ﹂ を得 た と あ る。 ﹃尚 書 中 候 ﹄
同 じ く ﹁太 公 兵 法 ﹂ と し て張 良 に伝 え ら れ た ﹁兵 鈴 ﹂ も ま た、 当 然
り し と 云 う。 (﹃列 仙 伝 ﹄ 呂尚 )
の ﹁維 鈴 ﹂ と は、 ﹁洛 水 か ら 得 た 兵 鈴 ﹂ か も し れ な い。 先 述 のよ う に、
太 公 望 と張 良 の 二 つの事 例 で は、 帝 王 本 人 に対 し て で は な く、 軍 師
﹁洛 書 ﹂ であ り 、 帝 王 受 命 の兆 験 と し て全 く 不 足 は な い、 と いう こ と
を得 て お り、 張 良 の得 た ﹁兵 鈴 ﹂ は ﹁太 公 兵 法 ﹂ の こ と で あ る。 太 公
と な る べき人 物 に対 し て受 命 の書 が下 さ れ て い る。 受 命 の帝 王 が新 政
﹁兵 鈴 ﹂ と は 兵 法 書 の こ と であ る。 前 章 に掲 げ た ﹁西 都 賦 ﹂ 注 所 引 の
望 の得 た ﹁兵 鈴 ﹂ ﹁雛 鈴 ﹂ 等 が 、 天 か ら 授 け ら れ た兵 法 書 であ る な ら
権 を打 ち立 て る た め に は、 帝 王 自 身 の徳 行 ・才 覚 は も ち ろ ん だ が、 有
に な ろ う。
ば、 同 じ も の が黄 石 公 を 通 じ て張 良 に授 け ら れ た と い う、 周 か ら漢 に
能 な輔 弼 の臣 の存 在 が不 可 欠 で あ る。 太 公 望 や張 良 の伝 説 は、 天 が受
﹃河 図 ﹄ に、 ﹁張 に兵 鈴 を予 え、 劉 季 起 こ る。﹂ と 、 張 良 も ま た ﹁兵 鈴 ﹂
継 続 す る受 命 伝 説 の構 想 を想 定 す る こ と も可 能 で あ ろ う。
一
一
ら
命 の書 を与 え て軍 師 を指 名 す る受 命 伝 説 の 一形 態 な の で あ り、 受 命 の
誠 立 に し て敢 断 、 善 を輔 け義 を相 く る者 、 之 を充 と謂 う。 充 な る
子 を導 く に道 を 以 てす る者 な り。 常 に前 に立 つ、 是 れ周 公 な り。
者 は 、 天 子 の志 を 充 た す な り 。 常 に 左 に立 つ、 是 れ 太 公 な り 。
書 を受 け た軍 師 は、 帝 王 受 命 の仲 介 者 でも あ る。
張 良 が謎 の老 人 か ら兵 法 書 を授 け ら れ た と い う話 、 お そ ら く、 本 来
周 の成 王 に は、 天 子 の前 にた つ ﹁道 ﹂ (周 公 )、 左 に立 つ ﹁充 ﹂ (
太
(﹃大 戴 礼 記﹄ 保 傅 )
が周 の太 公 望 伝 説 と結 び つく こ と で、 天 が張 良 に対 し、 高 祖 ・劉 邦 の
公 )、 右 に立 つ ﹁弼 ﹂ (
召 公 )、 後 ろ に立 つ ﹁承 ﹂ (
史 侠 ) の 四人 の輔 弼
は張 良 の知 謀 を宣 伝 す る た め の説 話 だ った と考 え ら れ る が、 そ の伝 説
帝 王 の師 と な る べし と の命 令 書 を与 え た、 と い う伝 説 へと形 を 変 え て
者 が い た と さ れ る。 同 様 に ﹃尚 書 大 伝 ﹄ では、
が太 公 望 と す れ ば 、 ﹃尚 書 大 伝 ﹄ 式 の言 い 方 では 太 公 望 は ﹁輔 ﹂ に あ
の 左 側 は ﹁輔 ﹂ であ る と いう 。 ﹃大 戴 礼 記 ﹄ のと お り、 左 側 に立 つの
と、 四人 の輔 弼 者 は ﹁四輔 ﹂ で は な く ﹁四隣 ﹂ と な って い る が、 天 子
と 日 い、 右 を弼 と 日 う。 (﹃史 記﹄ 夏 本 紀 ・集 解 引 ﹃尚 書 大 伝 ﹄)
古 え天 子 必 ら ず 四隣 有 り、 前 を疑 と 日 い、 後 を 丞 と 日 い、 左 を 輔
い った の であ る。 高 祖 ・劉 邦 の視 点 で見 れ ば、 張 良 を 軍 師 と し て獲 得
でき た こ と が天 意 で あ り、 受 命 の 証 な の で あ る。
﹁
佐命﹂ と ﹁
輔漢﹂
﹁李 氏 為 輔 ﹂
第 三章
第 一節
た る こ と に な る。
王 芥 も纂 奪 直 後 に太 師 、 太 傅 、 国 師 、 国 将 の ﹁四輔 ﹂ の制 度 を 作 っ
受 命 の 帝 王 に と って 、 輔 弼 の 功 臣 、 と く に 軍 師 は 王 権 樹 立 の た め に
は欠 く べか らざ る存 在 で あ る。 周 に お い て は太 公 望 で あ り、 漢 に お い
てい る。 王芥 は儒 家 の理 想 政治 を 追 い求 め た か ら、 そ の 一環 であ った 。
謀 叛 に端 を発 す る。
焉 に謂 い て曰 く 、 ﹁新 室 位
﹁李 氏 為 輔 ﹂ の識 言 は、 そ も そ も は魏 成 大 サ の李 焉 とト 者 ・王 況 の
﹁劉 氏 復 起 、 李 氏 為 輔 ﹂ の識 言 が 広 ま った 。
そ の 一方 で、 王 芥 政 権 に反 発 し 、 漢 の復 興 を 希 求 す る 人 々 の間 で
て は 張 良 で あ った 。 こ こ で ﹁佐 命 ﹂ と ﹁輔 ﹂ に つい て 考 え て み よ う 。
﹃広 雅 ﹄ 繹 詰 二 に は 、 ﹁⋮ ⋮ 佐 、 輔 、 ⋮ ⋮ 助 也 。﹂ と ﹁佐 ﹂ も ﹁輔 ﹂
も 同 じ ﹁助 ﹂ の 意 で あ る と す る 。
帝 王 に は必 ず輔 弼 の臣 が存 在 す べき と い う の は、 中 国 古 代 に は よ く
あ る 考 え 方 で 、 ﹃大 戴 礼 記 ﹄ は ﹁四 輔 ﹂ と い う 四 人 の 補 佐 の 臣 下 を 挙
ト 者 王 況 と 謀 り、 況
に 即 き て 以来 、 民 の 田 ・奴 碑 は売 買 す る を得 ず、 数 しば 銭 貨 を 改
魏成 大サ李焉
明堂 の位 に 曰 く、 篤 仁 に し て好 学 、 多 聞 に し て道 慎 、 天 子 疑 えば
め、 徴 発 煩 数 、 軍 旅 騒 動 し、 四夷 並 び侵 し、 百 姓 怨 恨 し、 盗 賊 並
げ てい る。
則 ち問 い、 応 じ て窮 ま らざ る者 、 之 を道 と謂 う。 道 な る者 は、 天
一
一
ち
之 を厭 せ ん と欲 す れ ば、 乃 ち侍 中 掌 牧 大 夫 李 蓼 を 大 将 軍 、 揚 州 牧
の識 に、 ﹁荊 楚 当 に興 る べし 、 李 氏 輔 と 為 る﹂ と言 え る を 以 て、
火 な り。 当 に漢 の輔 と な る べし﹂ と。 ⋮ ⋮ (
中 略 ) ⋮ ⋮葬
﹁李 氏 ﹂ にな ろ う と し て、 若 き 光 武 帝 の決 起 を 促 し た。 李 通 は後 に更
欠 と の認 識 が あ った か ら であ ろ う。 李 通 は 予 言 さ れ た ﹁輔 ﹂ 者 た る
の予 言 が語 ら れ た の は、 当 時 、 帝 王 の受 命 に は ﹁輔 ﹂ 者 の存 在 が不 可
野 火 の ご と く広 ま る ﹁劉 氏 復 興 ﹂ の ス ロー ガ ンと と も に、 ﹁李 氏 為 輔 ﹂
王 葬 政 権 の失 政 続 き に、漢 王 朝 の復 興 を求 め る機 運 は 高 ま って いた 。
聖 を 賜 い て、 兵 を将 い て奮 撃 せ し む。 (﹃漢 書 ﹄ 王 葬
び起 こ る。 漢家 当 に復 た 興 る べし。 君 の姓 は李 、 李 の音 は徴 、 徴 、
と為 し、 名
始 帝 よ り柱 国 大 将 軍 、 輔 漢 侯 と さ れ た が、 こ の時 期 、 李 通 以外 に も郵
王況
伝 下 ・地 皇 二年 )
曄 ・干 匡 な ど、 漢 の ﹁輔 ﹂者 を 名 乗 って挙 兵 す る者 は 極 め て多 か った 。
是 の月 、 析 人 郵 曄 、 干 匡
王 況 の 理論 に よ れ ば、 李 焉 の姓 であ る李 の音 は徴 (チ) で あ り、 徴
は 五行 の火 に配 当 さ れ る か ら、 李 氏 は漢 の輔 と な る べき で あ る と。 王
宰
兵 を南 郷 に起 こす こ と百 余 人 。 時 に析
況 は李 焉 の ため に識 書 を偽 造 し て蜂 起 を図 るが、 露 見 し て失敗 に終 わ っ
て 曰 く 、 ﹁劉 帝 已 に立 つ、 君 何 ぞ 命 を 知 ら ざ る や ! ﹂ と 。 宰
自 ら輔 漢 左 将 軍 を 称 し、 匡 は
宰 に謂 い
た。 し か し 、 王 葬 が こ の識 書 を 気 に病 ん で厭 勝 し よ う と し た り、 ﹁劉
降 る を請 い、 尽 く其 の衆 を得 。 曄
兵 数 千 を将 い て郭 亭 に屯 し、 武 関 に備 う。 曄 、 匡
氏 復 た起 こ り、 李 氏 輔 と為 る﹂ の識 言 は 一人 歩 き し て広 ま って い き、
右 将 軍 と な り、 析 、 丹 水 を抜 き、 武 関 を攻 め れ ば 、 都尉 朱 萌 降 る。
進 み て右 隊 大 夫 宋 綱 を 攻 め 、 之 を 殺 し 、 西 のか た 湖 を 抜 く 。 葬
後 に李 通 ら に利 用 さ れ、 光 武 帝 の決 起 に つな が って い く。
葬 末 、 百 姓 愁 怨 し、 通
愈 い よ憂 い、 出 だす 所 を知 ら ず。 (﹃漢 書 ﹄ 王 葬 伝 下 ・地 皇 四年 )
素 よ り守 (
筆 者 補 "李 通 の父 李 守 ) の識
を説 き て ﹁劉 氏 復 た興 り、 李 氏 輔 と為 る﹂ と 云 え るを 聞 き、 私 か
劉 永 は、 東 海 郡 の董 憲 を翼 漢 大 将 軍 に、 張 歩 を輔 漢 大 将 軍 に拝 し て東
こ の他 、 梁孝 王 (
景 帝 の弟 ) 八世 の子 孫 で父 の代 ま で梁 王 で あ った
以 て吏 と 為 る を楽 まず 、 乃 ち自 ら免 じ て帰 る。 (﹃後 漢 書﹄ 李 通 伝 )
方 を 支 配 下 に置 き、 更 始 帝 敗 死 後 に は 天 子 を 称 し た (﹃後 漢 書 ﹄ 劉 永
に常 に之 を懐 う。 且 つ家 に居 て富 逸 し、 閻 里 の雄 と為 れば 、 此 を
図 識 を 以 て光 武 に説 き て云 え ら く、 ﹁劉 氏 復 た 起 こ
更 始 の立 つる に及 び 、 豪 傑各 お の其 の県 に起 こり て以 て漢 に応 ず 。
宛人 李通等
独 り念 え ら く、 兄 伯 升 の素 よ り軽 客 と結 び、 必 ず 大 事 を 挙 げ 、 且
南 陽 の人 宗 成 、 自 ら ﹁虎 牙 将 軍 ﹂ を称 し、 入 り て漢 中 を 略 す 。 又
伝 )。 ま た 成 都 に拠 って光 武 帝 と 覇 を 競 った 公 孫 述 も 、
つ王 葬 の敗 亡 已 に兆 し、 天 下 方 に乱 れ ん とす と。 遂 に与 に謀 を 定
た商 人 王 峯 も亦 た兵 を雛 県 に起 こ し、 自 ら ﹁定 漢 将 軍 ﹂ を 称 し、
り、 李 氏 輔 と為 る﹂ と。 光 武 初 め敢 え て当 た らず とす 。 然 れ ど も
め、 是 に於 い て 乃 ち兵 弩 を市 う。 十 月 、 李 通 の従 弟 軟 等 と宛 に起
王 芥 の庸 部 牧 を殺 し て 以 て成 に応 じ、 衆 数 万 人 を合 す 。 述
之を
こ る、 時 に年 二十 八。 (﹃後 漢 書 ﹄ 光 武 帝 紀 )
一
一
ア
横 す 。 述 の意 に之 を 悪 み、 県 中 の豪 桀 を 召 し て謂 い て 曰 く、 ﹁天
聞 き、 使 を遣 し て成 等 を迎 え し む。 成 等 の成 都 に至 る や、 虜 掠 暴
記﹄ 巻 三 ﹁王 葬 時 起 兵 者 皆 称 漢 後 ﹂)
こ と 、 天 下 を 挙 げ て謀 ら ず し て同 じ う す るを 。 (趙 翼 ﹃廿 二史 筍
ば、 即 ち輔 漢 を 以 て名 と為 す 。 見 る可 し、 是 の時 人 心 の漢 を 思 う
と は、 清 人 の趙 翼 がす でに指 摘 し て い る が、 漢 王 朝 再 建 の ス ロー ガ ン
下 同 に新 室 に苦 し み、 劉 氏 を思 う こ と久 し。 故 に漢 将 軍 の到 るを
聞 き、 馳 せ て道 路 に迎 う。 今 、 百 姓 無 皐 に し て婦 子 係 獲 し、 室 屋
が叫 ば れ る中 、 ﹁輔 ﹂ が 特 別 な 意 味 を 持 って いた と 思 わ れ る の であ る 。
輔 と為 る の祥 ﹂ と あ る が、 張
良 を 劉 邦 の ﹁輔 ﹂ 者 と す る のは字 義 ど お り に解 し て問 題 な い。 しか し 、
先 に引 い た王 充 ﹃論 衡 ﹄ に も ﹁張 良
焼 播 せ ら る。 此 れ憲 賊 に し て、 義 兵 に非 ざ る な り。 吾 れ郡 を 保 ち
自 ら守 り、 以 て真 主 を待 た ん と欲 す 。 諸 卿 力 を井 せ ん と欲 す る者
は即 ち 留 れ 、欲 せざ る者 は便 ち去 れ ﹂ と。 豪 桀 皆 な 叩頭 し て 曰く 、
﹃宋 書 ﹄ 符 瑞 志 に見 え る、 孔 子 が 獲 麟 の際 に漢 の受 命 を 予 言 し 、 ﹁天 下
是 に於 い て人 を し て詐 り て漢 の使 者
﹁願 く ば 効 死 せ ん﹂ と。 述
已 に主 有 る な り、 赤 劉 為 り、 陳 、 項
井 に入 り て歳
東 方 よ り来 た る と称 し て、 述 に輔 漢 将 軍 、 蜀郡 太 守 兼 益 州 牧 の印
星 に従 う﹂ と述 べる 一文 (
孝 経 緯 か ら の引 用 と み ら れ る) で は、 陳 勝
輔 と為 り、 五星
綬 を仮 さ し む。 乃 ち精 兵 千 余 人 を 選 び、 西 の か た成 等 を 撃 つ。 成
や、 さ ら に は劉 邦 と死 闘 を演 じ た項 羽 を も って劉 邦 の ﹁輔 ﹂ 者 と し て
お り、普 通 の ﹁輔 ﹂ の意 味 では解 釈 しが た い。 緯書 や受 命 思想 に関 わ っ
お 都 に至 る比 い、 衆 数 千 人 、 遂 に成 を攻 め、 大 い に之 を 破 る。 成 の
将垣 副
て ﹁輔 ﹂ が登 場 し た場 合 、 少 し く特 殊 な、 よ り受 命 に特 化 し た意 味 を
成 を殺 し、 其 の衆 を 以 て降 る 。 (
注 一束観記に曰く、﹁
初め、副
漢中亭長を以て衆を聚め成に降り、自ら輔漢将軍を称す﹂と。) 二 年 秋 、 更 始
﹁輔 ﹂ と 禅 譲
持 ってい た と思 わ れ る。
其 の地 の険 にし て衆 の附 す る を侍 み、 自立 の志 有 り 、
第 二節
柱 功 侯 李 宝 ・益 州 刺 史 張 忠 を遣 し、 兵 万 余 人 を将 い て 蜀、 漢 を 御
え しむ 。 述
乃 ち其 の弟 恢 を し て綿 竹 に於 い て宝 ・忠 を撃 た し め、 大 い に之 を
王 芥 時 代 に ﹁輔 漢 ﹂ と言 え ば劉 氏 を援 け て王 葬 政 権 を 打 倒 し、 漢 を
再 興 さ せ る こ と で あ った。 し か し、 漢 王 朝 が存 在 し て い る と き の ﹁輔
益 部 に震 う。 (﹃後 漢 書 ﹄ 公 孫 述 伝 )
と、 起 兵 時 に ﹁輔 漢 将 軍 、 蜀郡 太 守 兼 益 州 牧 ﹂ を詐 称 し、 自 称 ﹁虎 牙
漢 ﹂ と は、 非 常 に皮 肉 な こ と に禅 譲 を連 想 さ せ る よ う な場 面 で登 場 す
破 り走 ら し む。 是 れ由 り威
将 軍 ﹂ の宗 成 と自 称 ﹁定 漢 将 軍 ﹂ の王 峯 を破 る。 宗 成 の配 下 の将 ・垣
る。 そ の嗜 矢 は前 漢 哀 帝 の寵 臣 董 賢 で あ る。
て曰 く 、 ﹁朕 天 序 を 承 け、 惟 に古 を 稽 み て爾 を 公 に建 て、 以 て漢
遂に (
董 ) 賢 を 以 て (丁) 明 に代 え て大 司 馬 衛 將 軍 と為 し、 冊 し
副 は宗 成 を殺 し て公 孫 述 に降 る が、 そ の垣 副 も ま た自 称 ﹁輔 漢 将 軍 ﹂
であ った。
諸 そ事 を起 こす 者 を歴 観 す る に、 劉 氏 の子 孫 を自 称 す る に非 ざ れ
一
一
と あ り、 ﹁言 居 東 、 西 有 午 、 両 日並 光 日居 下 。﹂ と は魏 の都 ﹁許 昌 ﹂ を
反 為 輔 。 五 八 四十 、 黄 気 受 、 真 人 出 ﹂ と。 (﹃一
二国 志 ﹄ 魏 書 ・文 帝
て將 を 以 て命 を と為 し 、 兵 を 以 て威 を 為 し、 慎 ま ざ る べけ ん や! ﹂
分 解 し た も の、 ﹁其 為 主 、 反 為 輔 。﹂ と は 、 ﹁主 ﹂ であ る漢 と ﹁輔 ﹂ で
輔 と為 す 。 往 に爾 が心 を悉 く し、 元 戎 を統 辟 し、 折 衝 緩 遠 し、 庶
と。 是 の時 、 賢 年 二十 二、 三公 と為 る と難 も、 常 に中 に給 事 し、
あ る 魏 が 立 場 を 替 え る こと 、 ﹁黄 気 受 ﹂ と は 、 赤 であ る漢 に代 わ り、
紀)
尚 書 を領 し、 百 官 賢 に因 り て事 を奏 す 。 (﹃漢 書 ﹄ 倭 幸 伝 ・董 賢 )
黄 であ る魏 が受 命 す る こ と を言 う。 赤 (
火 徳 ) か ら黄 (
土 徳 ) への交
事 を匡 正 し、 允 に其 の中 を執 れ。 天 下 の衆 、 制 を 朕 よ り受 け、 以
舜に
身 も宴 席 で董 賢 に対 し て ﹁吾 れ尭 の舜 に禅 る に法 ら ん と欲 す る が、 何
禅 る の文 、 三公 の故 事 に非 ず﹂ (﹃漢 書 ﹄ 董 賢 伝 ) と評 し、 ま た哀 帝 自
し て補 う。)
五行 篇 に、 (テキ ス ト に乱 れ が 多 い の で、 ︹
︺ 内 は盧 文 招 の校 訂 に依 拠
代 は 五行 相 生 説 に 則 って い る。 漢 代 の 五行 思 想 に関 し て は ﹃白 虎 通 ﹄
こ の 冊文 の ﹁允 執 其 中 ﹂ の文 言 に対 し、 薫 威 は ﹁此 れ 乃 ち尭
如 ? ﹂ と 、 冗 談 め か し て董 賢 へ の禅 譲 を 持 ち か け て い る。 (但 し 剛 直
五行 の更 こ も王 た る所 以 は何 ぞ。 其 の韓 た相 い生 ず るを 以 て、 故
金を生じ、
な臣 下 に、 ﹁天 下 は乃 ち 高 皇 帝 の天 下 、 陛 下 の有 には 非 ざ る な り 。﹂ と
土を生じ、土
に終 始 有 れ ば な り。 木
木 を生 ず。 是 を 以 て木 王 た れば 、 火 相 た り、
火 を生 じ、 火
こ っぴ ど く諌 言 さ れ て実 現 は し な か った。 ﹃漢 書 ﹄ 倭 幸 伝 ・董 賢 )
水 を生 じ、 水
土 死 し 、 金 囚 わ れ、 水 休 す 。 王 の勝 つ所 の物 は 死 し 、 ︹
王 に勝 つ
金
(ま た は曹 公 ) 輔 漢 故 事 ﹂ と いう の は、 施 頭 ・鍾 虞 と い った 儀 杖 や、
者 は︺ 囚 れ、 ︹
王 の生 む所 の者 は相 た り、︺ 故 に ︹
生 む ︺者 は休 す 。
こ れ が 後 漢 末 の曹 操 に な る と 、 も は や 冗 談 で は済 ま な い。 ﹁魏 武
夫 人 が ﹁王 后 ﹂ と称 す る等 、 諸 侯 王 以上 の地 位 を 明 ら か にす る、 漢 朝
(﹃白 虎 通﹄ 五行 篇 )
なぜ ﹁輔 漢 ﹂ が禅 譲 ま で秒 読 み段 階 の殊 礼 を意 味 す る の か。 前 漢 を
金 死 す 。 六月 は則 ち 土 王 た り、 金 相 た り火 休 み、 木 囚 わ れ水 死 し 、
金 囚 わ れ土 死 す 。 夏 は 則 ち火 王 た り、 土 相 た り木 休 み、 水 囚 わ れ
五行 の休 王 を体 す る者 は、 春 は 則 ち木 王 た り、 火 相 た り水 休 み、
と あ る。 時 代 が下 る が ﹃五行 大 義 ﹄ に は、
め か ら曹 操 に対 す る特 別 待 遇 の こ と で、 曹 操 を前 例 と し て、 六 朝 期 に纂
奪 を目 論 む権 臣 が禅 譲 への途 上 に 通過 す る官 位 ・殊 礼 を ひ っく る め て
む 纂 奪 す る直 前 の王 葬 が ﹁安 漢 公 ﹂ を名 乗 った こ と と通 じ る の か も し れ
秋 は 則 ち金 王 た り、 水 相 た り土 休 み、 火 囚 わ れ木 死 す 。 冬 は則 ち
こ う呼 ん だ の で あ る。
な いが 、も う少 し思 想的 に踏 み込 ん でみ ると、 曹 魏 の纂 奪 直前 に広 ま っ
水 王 た り、 木 相 た り金 休 み、 土 囚 わ れ火 死 す 。 ⋮ ⋮ (
中略) ⋮⋮
凡 そ王 た る の時 に当 た り、 皆 な子 を 以 て相 と為 す 者 は、 其 の子 方
た緯 書 に、
易 運 期 識 に曰 く 、 コ三口居東 、 西 有 午 、 両 日並 光 日居 下 。 其 為 主 、
一
一
に壮 た り て、 能 く治 事 を助 く る を 以 て な り。 父 母 の休 と為 る者 、
其 の子 當 に王 気 正 盛 に し て、 父 母 衰 老 し、 事 を治 む能 わざ るを 以
て な り 。 尭 の老 い て舜 に委 ぬ る に国 政 を 以 てす る が 如 き な り 。
め お わ り に
張 良 の授 書 伝 説 や周 ・太 公 望 の伝 説 は、 漢 や周 の受 命 神 話 と し て受
け入 れ ら れ、 受 命 の帝 王 の ﹁輔 ﹂ 者 と し て、 の張 良 や太 公 望 は単 な る
軍事 上 のブ レ ー ンで はな く 、天 か ら の受命 の仲 介 者 と 認 識 さ れ て いた 。
(﹃五行 大 義 ﹄ 巻 二 ・論 四時 休 王 )
と、 た と え ば火 徳 (
赤 ) が王 であ る と き は、 子 であ る土 (
黄)を相 と
曹 操 の萄 或 に対 す る ﹁吾 が 子 房﹂ 発言 は、曹 操 の天下 取 り の野 心 を は っ
れ てい わ ゆ る汲 家 竹 書 が出 現 し た。 そ の う ち の ﹃周 志 ﹄ に は、 周 文 王
西 晋 が呉 を滅 ぼ し て 三国 統 一が完 成 し た直 後 、 汲 郡 の古 墓 が盗 掘 さ
き り と示 す も の と言 え る であ ろ う。
レ し て治 事 を委 ね る と あ る。 ま さ し く前 掲 の ﹃西 都 賦 ﹄ 李 賢 注 が引 く
易 乾 墾 度 に曰 く 、 ﹁代 者 赤 党 。 黄 、 佐 命 ﹂ と 。 宋 衷 曰 く 、 此 の赤
免 な る者 、 漢 高 帝 を謂 う な り。 黄 者 、 火 の子 、 故 に佐 命 す 、 張 良
是 れ な り。 (﹃漢 書 ﹄ 班 固 伝 ・西 都 賦 )
な る。 禅 譲 を王 か ら輔 者 への (つま り、 五行 に お け る父 か ら子 への)、
い ず れ補 佐 し て く れ た黄 (
土 徳 ) に王 位 を禅 譲 せ ねば な ら な い こ と に
政 を委 ね た こ と に た と え て い る こ と で あ る。 だ とす れば 赤 (
火徳) は
を 服 し て 以 て令 狐 の津 に立 つを夢 む。 帝 曰 く、 旨 、 汝 が望 を 賜 わ
坑 儒 の前 八 十 六 歳 に 当 た る。 其 の周 志 に 曰 く、 ﹁文 王
盗 有 り て家 を発 し て竹 策 の書 を得 た り。 書 蔵 せ ら る る の年 、 秦 の
大 晋 受 命 し、 呉 会 既 に平 ぎ、 四海 一統 す 。 大 康 二年 、 県 の西 偏 に
と太 公 望 が天 帝 の夢 の仲 介 に よ って出 会 う場 面 が描 か れ て い た。
権 力 移 譲 と見 なす こ と で、 権 臣 の纂 奪 を 五行 思 想 に託 け て正 当 化 し て
ん。 文 王 再 拝 稽 首 し、 大 公 後 に於 い て亦 た稽 首 す 。 文 王
の こと であ る。 注 目 す べき は、 ﹃五 行 大 義 ﹄ が 五 行 転 変 を 尭 が 舜 に国
い る の で あ る。 当 初 は天 命 を 受 け て帝 王 の受 命 を 輔 佐 し た ﹁佐 命 ﹂
み る の夜 、大 公
大公を見、
之を夢
天帝玄穣
﹁輔 ﹂ が、 やが て帝 王 の位 を 奪 い新 た な 王 朝 を 樹 立 す る 存 在 へと 、 換
而 し て之 に叫 ば わ り て 曰 く、 而 が名 は望 為 る か と。 答 え て 曰 く、
之 を 夢 み る こと 亦 た 然 り。 其 後 文 王
骨 奪 胎 さ れ て し ま った の で あ る。
唯 、 望 為 り と 。 文 王 曰 く 、 吾 れ 汝 を 見 る所 有 る が 如 し と 。 大 公
其 の年 月 と其 日 と を言 い、 且 つ尽 く其 の言 を道 う、 臣 此 を 以 て見
ゆ る を得 た る な り と。 文 王 曰 く、 之 有 り之 有 り と。 遂 に之 と與 に
帰 り以 て卿士 と為 す ﹂ と。 ⋮ ⋮秦 の滅学 に先 んじ て丘墓 に蔵 され 、
天 下 平 泰 に し て、 其 の潜 書 を発 す 。 書 の出 ず る所 は正 に斯 の邑 に
一
一
10
在 り。 量 に皇 天 の先 哲 を章 明 し、 其 の名 号 を著 ら か に し、 百 代 に
光 か せ て無 窮 に垂 示 す る 所 以 の者 な ら ん か 。 (﹁斉 太 公 呂 望 表 ﹂
﹁為 宋 公 修 張 良 廟 教 ﹂)
劉 裕 は桓 玄 討 伐 や北 伐 に成 功 し た実 力 者 では あ る が、 先 に禅 譲 を 成
氏 ﹂ ブ ラ ンド を も最 大 限 に利 用 し、 漢 高 祖 ・劉 邦 を モデ ルに自 ら の受
し遂 げ た曹 氏 、 司 馬 氏 と比 べて格 段 に卑 賎 の出 身 であ った。 彼 は ﹁劉
汲 家 竹 書 の発 見 の学 術 上 の意 義 は さ ら に述 べる ま で も な い が、 呉 の
命 神 話 を 演 出 し て い った 。 張 良 廟 を改 修 し 、 ﹁劉 氏 ﹂ の受 命 を 補 佐 し
﹃金 石 華 編 ﹄ 巻 二 五 )
滅 亡 に呼 応 す る か の よ う に古 代 の書 物 が発 見 さ れ、 加 え て太 公 望 の伝
た張 良 を 意 識 し、 漢 高 祖 の再 来 と自 ら を位 置 づ け んと し た の であ ろう 。
そ の西 晋 王 朝 も南 渡 し、 東 晋 王 朝 の命 運 も劉 裕 の前 に風 前 の灯 と な
り で ﹁此 の地 寧 ぞ復 た 呂望 有 ら ん か ?﹂ と ﹁太 公 望 ﹂ の よ う な賢 人 を
そ の前 年 、 義 煕 一二 (四 一六 ) 年 に は や は り北 伐 の途 上 溜 水 の ほ と
説 ま で含 ま れ て い た こ と は、 西 晋 王 朝 に と って学 術 的 な価 値 以上 の意
張 良 廟 の改 修 は、 劉 裕 の禅 譲 工作 の 一環 であ った。
る。 纂 奪 を目 前 に し た義 煕 一三 (四 一七 ) 年 、 劉 裕 は北 伐 の途 上 に留
得 た い と嘆 い て い る (﹃南 史 ﹄ 鄭 鮮 之 伝 )。 禅 譲 革 命 を成 し遂 げ る た め
お 味 を持 って い た と思 わ れ る。
の張 良 廟 の改 修 を命 じ た。
に、 張 良 や太 公 望 の よう な ﹁佐 命 ﹂ の功臣 を 必 要 と し て いた の であ る。
な
綱 紀 。 夫 れ盛 徳 は混 び ず、 義 は祀 典 に存 り。 管 微 か り せば の歎 、
本 稿 で は、 張 良 の授 書 伝 説 が漢 受 命 伝 説 へ発 展 し、 張 良 や太 公 望 ら
ほろ
道 は黄 中 に亜 し、 殆 庶 に 照
隣 す 。 風 雲 玄 感 し、 蔚 と し て帝 師 と為 り、 項 を夷 らげ 漢 を 定 め、
の関 わ り に つい て考 察 を進 め て き た。 漢 代 に お い て は半 ば 伝 説 にす ぎ
の功 臣 を仲 介 者 と し た受 命 思 想 に つい て、 さ ら に ﹁輔 ﹂ 者 と禅 譲 思 想
事 を撫 す る こ と彌 い よ深 し。 張 子 房
大 い に横 流 を極 い、 固 よ り 以 て軌 を伊 、 望 に参 じ え、 冠 徳 は仁 の
な か った 禅 譲 革 命 は、 後 漢 の末 以 降 、 漢 (劉 氏 ) か ら 魏 (
曹 氏 )、 魏
たい
如 し。 乃 ち神 と妃 上 に交 わ り、 商 洛 に道 契 す る が若 き は、 顕 黙 の
か ら 晋 (司 馬 氏 )、 晋 か ら宋 (劉 氏 ) へと 、 実 際 に繰 り 返 さ れ て い っ
はら
際 、 脊 然 と し て究 め難 く、 淵 流 淵 溢 と し て、 其 の端 を 測 る莫 し。
た。 禅 譲 革 命 を目 の当 た り に し て、 禅 譲 と受 命 の思 想 は漢 代 と は異 な
とと
塗 に 旧浦 に次 ど り、 駕 を留 城 に停 む れ ば、 霊 廟 荒 頓 と し て、 遺 像
る変 化 ・発 展 を遂 げ た に違 い な い が、 そ れ に つい て は爾 後 の課 題 と し
や
は陳 昧 し 、事 を撫 し人 を 懐 い、 永 歎 官疋に深 し。 大 梁 を 過 ぎ る者 は、
なぞ ら
た い。
か
或 は想 い を夷 門 に停 む。 九 京 に游 ぶ者 は、 亦 た随 会 に流 連 す 。 之
を 若 く ご と き 人 に 擬 う る も 、 亦 た 以 て云 う に足 れ り 。 棟 宇 を 改
の
構 し、 丹 青 を脩 飾 し、 頻 藥 行 澄 も て、 時 を 以 て致 薦 す べし。 懐 古
の 情 を 拝 べ、 不 刊 の烈 を 存 せ ん。 主 者 施 行 せ よ 。 (﹃文 選 ﹄ 傅 亮
一
一
11
(1 )
註
﹁
晋 故 浦 国 相 張 君 之 碑 ﹂。 趙 超 ﹁漢 魏 南 北 朝 墓 誌 彙編 ﹄ (
天津古籍出版社、
﹁
受 命 の書 - 漢 受 命 伝 説 の形 成 1 ﹂ (
﹃史林 ﹂ 八 八- 五、 二 〇〇 五)。
一九 九 二)。
(2 ) 拙 稿
以後 前 稿 と称 す る。
参 照。
﹃河 図 ﹂ の こ の部 分 を 、 斎 木 哲 郎
﹃秦 漢 儒 教 の研 究 ﹂ (汲 古 書 院 、
つい て は、 安 居 香 山 ﹃緯 書 と 中 国 の神 秘 思 想 ﹂ (平 河 出版 社 、 一九 八 八)
に よ る ﹃重 輯 緯 書 集 成 ﹄ の リ プ リ ン ト版 ) に よ る。 緯 書 史 料 の性 格 に
緯 書 史 料 の引 用 は安 居 香 山 ・中 村 璋 八 編 ﹁緯 書 集 成 ﹂ (河 北 人 民 出 版 社
(
岩 波 書 店 、 一九 九 四)。
(3 ) 前 稿 。 漢 代 に お け る 孔 子 の神 格 化 に つい ては 、 浅 野 裕 一 ﹃孔 子 神 話 ﹄
(4 )
(5 )
図 を授け、 地
道を出 し、張
二 〇 〇 四) 第 四 章 第 二節 ﹁西 漢 後 期 の宗 教 意 識 と 儒 教 ﹂ で は ﹁期 (
漢
の 運 期 の意 か) の興 ら ん と す る や、 天
丘ハ
鈴 (丘ハ
法 を 記 し た天 書 の意 か ) を 予 え 、 劉 季 興 る﹂ (五 四 五 頁 ) と 解
釈 す る。
(6 ) ﹃論 衡 ﹄ の テ キ スト は 、 黄 暉 ﹃論 衡 考 釈 ﹂ (
中 華 書 局 ) に拠 る。 洒 水 は
氾水 の誤 り。
(7) 山 口円 ﹁﹃論 衡 ﹄ に お け る 河 図 ・洛 書 に つい て﹂ (﹃中 国 思 想 史 研 究 ﹂ 第
(11 ) ﹃尚 書 中 候 ﹂ 維 師 謀
王 即回駕水畔、 至旙難 之水、 呂尚釣於圧 、王下趨 拝日、 切望公七
年 。 乃今見光景於斯。尚立変 名答日、望釣得玉蹟 、刻日姫受命、
呂佐検、 徳合於今、昌来提、 撰而維鈴、報在斉、昌 用起、発遵題、
五 百世、姜 呂覇世、遵 姫播、 号日師尚父。 (
﹃文 選 ﹂ 任 肪 勧 進 今 上
箋注他所引)
﹃緯 書 集 成 ﹂ は ﹃孝 経 右 契 ﹂ の文 と す る (
出 典 に は緯 名 無 し ) が 、 出 入
(12 ) 丘ハ
法 書 に ﹃玉 鈴 篇 ﹂、 ﹃玄 女 六 鱈 要 決 ﹂ など があ る。
(13 )
り はあ るも の の ﹁孝 経 援 神 契 ﹂ にも ほ ぼ同 文 があ る。
魯 哀 公 十 四年 、 孔 子 夜 夢 三 椀 之 間 、 豊 、 浦 之 邦 、 有 赤 煙 気 起 、 乃
呼顔 淵、子 夏往視之。 騙車到楚 西北萢氏街 、見劉 見摘麟、 傷其左
前 足 、 薪 而 覆 之 。 孔 子 日、 ﹁
見 来 、 汝 姓 為 赤 諦 、 名 子 喬 、 字 受 紀 。﹂
孔 子 日、 ﹁汝 山
豆有 所 見 邪 。﹂ 児 日 、 ﹁見 一禽 、 巨 如 焦 羊 、 頭 上 有 角 、
其 末 有 肉 。﹂ 孔 子 日、 ﹁天 下 已 有 主 也 、 為 赤 劉 、 陳 、 項 為 輔 、 五 星
入 井 從 歳 星 。﹂ 見 発 薪 下 麟 示 孔 子 、 孔 子 趨 而 往 、 麟 蒙 其 耳 、 吐 三 巻
図 、 広 三 寸 、 長 八 寸 、 毎 巻 二十 四 字 、 其 言 赤 劉 当 起 、 日 、 ﹁周 亡 、
赤 気 起 、 大 耀 興 、 玄 丘 制 命 、 帝 卯 金 。﹂ 孔 子作 春秋 、 制 孝 経 、 既 成 、
使七 十二弟子 向北辰星 馨折而立、 使曾子抱 河、洛 事北向。 孔子齋
戒 向 北 辰 而 拝 、 告 備 干 天 日 、 ﹁孝 経 四 巻 、 春 秋 、河 、 洛 凡 八十 一巻 、
謹 已備 。﹂ 天 乃 洪 諺 起 白 霧 摩 地 、 赤 虹 自 上 下 、 化 為 黄 玉 、 長 三 尺 、
上 有 刻 文 。 孔 子 脆 受 而 読 之 日 、 ﹁宝 文 出 、 劉季 握。 卯 金 刀、 在 珍 北 。
二 五 号 、 二 〇 〇 二 )。 ﹁王 充 に と って、 河 図 ・洛 書 は 倉 頷 の作 った 文 字
字 禾 子 、 天 下 服 。﹂ (
﹃宋 書 ﹄ 符 瑞 志 上 )
﹃
尚 書 中 候 ﹂ の テ キ スト は、 皮 錫 瑞 ﹃
尚 書 中 候 疏 証 ﹄ に拠 る。
﹃
尚 書 大 伝 ﹂ の テ キ スト は、 皮 錫 瑞 ﹃
尚 書 大 伝 疏 証 ﹄ に拠 る。
は、 石 井 仁 ﹁虎 責 班 剣 考 - 漢 六 朝 の恩 賜 ・殊 礼 と 故 事 1 ﹂ (
﹃東 洋 史 研
二 一九 頁 参 照 。 な お、 魏 晋 六 朝 期 の輔 政 の功 臣 に対 す る 殊 礼 に つい て
石 井 仁 ﹃曹 操 - 魏 の 武 帝 1 ﹂ (
新 人 物 往 来 社 、 二 〇 〇 〇 )、 二 一七 ∼
で書 か れ た も のと 同 じ性 質 のも の 、 つま り 人 が 読 解 でき る も のと 考 え
(14 )
ら れ て い た こ と が う か が え る の で あ る。﹂ (三五 頁 )。
(9 )
(8 ) 前 稿 。
(10 )
一
一
12
究 ﹄ 五 九 - 四 、 二〇 〇 一)、 菊 地 大 ﹁曹 操 と 殊 礼 ﹂ (﹃東 洋 学 報 ﹄ 九 四-
還 家 、 亦 至 此 逆 旅 。 逆 旅 姫 日、 ﹁劉 郎 在 室 内 、 可 入 土ハ
飲 酒 。﹂ 此 門
取 之 。﹂ 帝 入 室 、 飲 於 央皿側 、 醇 臥 地 。 時 司 徒 王 誼 有 門 生 居 在 丹 徒 、
生 入 室 、 驚 出 謂 娼 日 、 ﹁室 内 那 得 此 異 物 ? ﹂娼 遽 入 之 、 見 帝 已 畳 。
一、 二〇 一二)。
﹃白 虎 通 疏 証 ﹂。 ﹃白 虎 通 ﹂ 五 行 篇 は テキ スト に乱 れ が あ り 、 陳 立
娼 密 問 、 ﹁向 何 所 見 ? ﹂ 門 生 日 、 ﹁見 有 一物、 五采 如 鮫 龍 、 非 劉 郎 。﹂
(15 ) 陳 立
の疏 証 が 引 く盧 文 招 の校 訂 (
盧 日、 囚 字 上 似 脱 ﹃勝 王 者 ﹂ 三字 、 又 似
門生還以白誼、誼戒使勿言、而與結厚。
院 、 一九 九 八 )。
武 帝 紀 中 ) と あ り、 ﹁
龍顔﹂ ﹁
天 授 ﹂ と も に劉 邦 を 表 す る言 葉 であ る。
咬然斯在。 加以龍顔英特、天授殊 姿、君人之表、換如 日月。
﹂ (
﹃宋 書 ﹂
の 二番 煎 じ であ る。 こ の ほ か、 劉 裕 への禅 譲 の璽 書 に は、 ﹁図 識 禎 瑞 、
老 婆 の酒 屋 で酔 って 眠 って い た ら 龍 に変 化 し た と い う 話 な ど、 劉 邦
脱 ﹃王 所 生 者 相 ﹂ 句 。 案 此 春 秋 説 也 。 ﹁故 王 者 休 ﹂、 当 作 ﹁故 生 者 休 ﹂。)
に従 い ︹
︺ 内 を 補 い改 め た。
﹃三国 志 ﹂ 萄 或 伝
(16 ) ﹃五 行 大 義 ﹄ の テ キ ス ト は中 村 璋 八 ﹃五 行 大 義 校 註 ﹂ (
増訂版、 汲古書
(17 )
(
萄) 或度 (
衷 ) 紹 終 不能 成 大 事 、 時 太 祖 (11曹 操 ) 為 奮 武 将 軍 、
在 東 郡 、 初 平 二 年 、 或 去 紹 従 太 祖 。 太 祖 大 悦 日 、 ﹁吾 之 子 房 也 。﹂
以為 司 馬 、 時 年 二十 九 。
﹁汲 家 書 発 見 前 後 ﹂ (﹃東 方 学
京 都 ﹄ 七 一、 一九 九 九 ) 参 照 。 な お 発 見 年 次 に つい ては 威 寧 五
(18 ) 汲 家 書 発 見 の事 情 に 関 し て は、 吉 川 忠 夫
報
(二七 九 ) 年 説 、 太 康 元 (二 八 〇 ) 年 説 、 太 康 二 (二 八 一) 年 説 と 諸 説
あ る。
﹃
宋書﹂符瑞志上
と い う太 公 望 の子 孫 だ った こ とも あ る。
汲県に ﹁
太 公望碑﹂ が建 てられた背景 には、 たまたま汲県令 が盧無忌
者、大得古書、皆簡編科斗文字。
意、 脩成春 秋釈例及 経伝集解、 始詑、 会汲郡汲 県、有発 其界内 旧
大康 元年三月 、呉憲始 平、余自 江陵還嚢 陽、解 甲休兵、 乃申拝 旧
た杜 預 は、 ﹃春 秋 左 氏 経 伝 集 解 ﹄ 後 序 で汲 家 書 の発 見 に触 れ て い る。
(19 ) 呉 の滅 亡 は太 康 元 年 の 三月 であ る 。 鎮 南 大 将 軍 と し て呉 の征 伐 に赴 い
(20 )
少 時 誕節 嗜 酒 、 自 京 都 還 、 息 於 逆 旅 。 逆 旅 娼 日、 ﹁室 内 有 酒 、 自 入
一
一
13
Fly UP