...

「童謠」と熒惑星伝説の基礎的研究 −後漢以後における讖緯説の

by user

on
Category: Documents
15

views

Report

Comments

Transcript

「童謠」と熒惑星伝説の基礎的研究 −後漢以後における讖緯説の
「童謠」と熒惑星伝説の基礎的研究
−後漢以後における讖緯説の展開
The Relationship of Prognostication in “YAO" to Chinese Culture
目次
はじめに
予言と「謠」
熒惑星
「童謠」と熒惑星
おわりに
注
資料:『史記』『漢書』
『後漢書』『三國志』『晉書』
はじめに
人間は人間的努力によって本来的に持てる徳を治めることで天に近づくことができると
する孟子のように、天道(自然)と人事は互いに感応し合うとする天人合一思想は中国古
代の世界観であった。自然現象の中に天の意志を忖度する天人相関思想もその延長線上に
ある。この自然観は、対立する陰と陽の二気が和合循環して万物を生成するという陰陽思
想、基本的な生活素である木・火・土・金・水の五元素から万物を説明して五惑星(木星・
火星・土星・金星・水星)の運行をもとに類推する五行思想という独特の世界観を生み出
した。二つは後に一体化し、様々な自然現象を解釈する陰陽五行説として大成される。
春秋戦国時代に隆盛したこれらの考え方は、漢王朝になって一大飛躍を遂げることにな
る。その立役者が董仲舒である。
前漢、武帝の時、董仲舒は国家の統一原理を儒教として君主権の強化をはかり、それを
バックに専制国家の確立を提言した。所謂「賢良対策」である。ここに儒教を国教とする、
天子を中心とした専制国家体制が確立し、天子の権威は絶対的なものとなった。しかし、
前の秦始皇の例に見られるように、天子の権力が無限に強大化して専制君主の横暴につな
がることを恐れた董仲舒は、同時に天人相関思想・陰陽五行説を基盤にして君主権を抑制
するために「災異説」を説いた(1)。
災異とは今でいう天災地変で、小なるものを「災」、大なるものを「異」と定義される。
自然科学の発達した今日では日食や月食がどのようにして起こるか、また、次の日食や月
食が何時何分から何分間観察できるかまで分かるが、古代にあっては恐るべき不思議な現
象と考えられた。古代人が自然界の日食や月食、彗星や隕石、あるいは地震や河川の氾濫、
季節外れの霜や雪や雹や雨、更には寒暑の変調など、様々な自然の異常現象に対して脅威
を抱いたことは中国に限らない。恐るべき自然の災害や異変、時には理不尽とも言える自
然の脅威をいかに理解すればよいのかというところに、中国人は天人合一思想を基盤にし
て考えた。そして、災異は単なる自然現象ではなく、人間社会と何らかのかかわりがあっ
て起こると考えた。すなわち、災害も異変も天の意志によってもたらされるもの、人も社
会も、そして国家の命運さえも天の意志に左右されると考え、災異の発生の原因を人間社
会に求める神秘思想が生まれた。自然の災異が現実の人間社会に働きかける天の意志であ
るとするとき、そして、災異が天の現実政治に対する審判の役割を担うとき、災異は現実
の政治が正しく行われているかどうかのバロメーターとなる。当然、為政者は災異に対し
て無関心ではいられない。ここに董仲舒は天人相関思想を陰陽五行思想と抱合させて災異
思想を体系化したのである。
この災異思想は前漢思想界に定着したばかりではない。人君が天の意志に反する行為を
犯せば天はまず災を下して譴責し、それでも人君が失政を改めず背徳を働けば、次に異を
下して威嚇し、依然として悔い改めることがない場合は天はついにその国を滅ぼす。君主
権の絶対化を諮って国家の指導原理とした儒教であるが、そこには肥大化する君主権を抑
制して政治の横暴を責め、君主の放埒を監視する理論が内包されていたことは、自然と人
事とは感応するというそれまでの自然観が災異説として生まれ変わったことの最大の意義
である。すなわち、董仲舒の災異説は漢王朝の体制を保守する儒教一尊理論のアンチテー
ゼとしての、体制を批判する抵抗の思想を用意していたのである。したがって、
「夫の災異
の象を前に推し、然る後に安危禍亂を後に圖る者を惡む。春秋の甚だ貴ぶ所に非ざるなり」
(『春秋繁露』二端篇)、
「其れ大畧の類、天地の物、常ならざるの變有るは、之れを異と謂
う。小なる者、之れを災と謂う。災は常に先に至りて、異は乃ち之れに隨う。災は天の譴
なり。異は天の威なり。之れを譴して知らざれば、乃ち之れを畏すに威を以てす。詩に云
う、
『天の威を畏る』と、殆ど此の謂いなり。凡そ災異の本、盡く國家の失に生ず。國家の
失、乃ち始めて萌芽し、而して天、災害を出し、以て之れを譴告す。之れを譴告して變を
知らざれば、乃ち怪異を見して以て之れを驚駭す。之れを驚駭して、尚お畏恐を知らざれ
ば、其の殃咎
乃ち至る。此れを以て天意の仁を見、而して人を陷れざるなり」とあるよ
うに、董仲舒の災異説はもともと現実社会のありようを問い現実政治に対する譴責であっ
て、災異を根拠に将来を予言することを戒めるものである。ところが、体制を批判する抵
抗の思想としての災異説は、災異は未来に起こるであろうことへの予兆・予告であるとの
予言に変容してしまった。これが前漢末ごろから流行し始めた讖緯思想と結び付き、災異
説の予言化は決定的となる。後漢建初四年(七十九)、章帝は北宮の白虎觀に諸儒を集めて
五經の異同を論議させたが、その結論を整理した『白虎通義』には次のようにある。
天の災變有る所以は何ぞや。人君に譴告するに、其の行いを覺悟し、過を悔い徳を修め、
深く思慮せしむる所以なり。『援神契』に曰く、
「行い點缺有れば、氣、天に逆し、情感變
出して、以て人を戒む」と。災異とは何の謂いぞや。『春秋潛潭巴』に曰く、「災の言は傷
なり。事に隨いて誅す。異の言は怪なり。先に發して之れを感動するなり」と。
(『白虎通
義』災變)
董仲舒が自然界の異を災に引き続く現象と定義して、災異と人事との応験、ないし災異
による自戒を説くだけであるのに対して、『白虎通義』は、
「災の言は傷なり。事に隨いて
誅す。異の言は怪なり。先に發して之れを感動するなり」と、災異の予占化を明確に打ち
出した。そして後漢になると何休は、
「災とは人物に害有り、事に隨いて至る者なり」
(『春
秋公羊傳』隱公五年)、
「異とは常に非ずして怪しむ可く、事に先んじて至る者なり」(同、
隱公三年)と、災異を定義し、隱公三年の異(日食)は、衞の州吁による弑君(隱公四年
二月)、諸侯の僭上(隱公五年秋)、隱公が鄭に囚われの身となること(隱公六年)、隱公の
弑殺(隱公十一年)と、立て続けに起きる失態・不祥事の予言であるとする。そして定公
元年では、
【經】冬、十月、霜霣ち菽を殺らす。
【傳】何を以て書す。異を記すなり。此れ菽に災あるなり。曷爲れぞ異を以て書す。
異は災より大なればなり。
【注】異とは人の爲に戒む所以なり。異を重んじて災を重んじざるは、君子、教化を
貴びて刑罰を賤む所以なり。
と、事後に反省を促す「災」よりも事前に予告する「異」を重視するに至るのである。
ここに災異思想は、天が災異によって為政者の行為や現実の政治に対して評価を下すと
いうこと、すなわち専制君主のチェック機能という本来の使命を放棄し、次第に将来発生
すべき事態を予占することを専らにするようになる。
しかし、実際には災異説の予言化の傾向はすでに元帝の時の劉向・劉歆・夏侯勝・李房・
翼奉らに準備されており、哀帝から平帝のころの李尋・解光・夏賀良・丁廣世・郭昌らに
よる讖緯説の出現によってほぼ定着していたのである。その後、王莽の符命による漢王朝
簒奪、そして光武帝の讖緯による漢王朝復興を経、何休により加速度的に強化された災異
説の予言化は、専ら天子の正当性を強調してそのカリスマ的権威を確立するためのものと
なり、本来の災異説の意味を喪失してしまったのである(2)。
おわりに
漢代は熒惑の神秘化と同時に、それまでの様々な「謠」が「童謠」に集約される時期で
もあり、一括して「五行志」にまとめられる。その神秘性はすでに、
「君、炕陽にして暴虐
なれば、臣、刑を畏れて口を柑み、則ち怨謗の氣、謌謠に發す。故に詩妖有り」
(『漢書』
五行志中之上)や「五行傳に曰く、
『攻戰を好み、百姓を輕んじ、城郭を飾り、邊境を侵せ
ば、則ち金は從革せず』と。金、其の性を失して災を爲すを謂うなり。又た曰く、
『言の從
わず、是れを不乂と謂う。厥の咎は僭、厥の罰は恆陽、厥の極は憂。時に則ち詩妖有り、
時に則ち介蟲の孽有り、時に則ち犬禍有り、時に則ち口舌の痾有り』と」(『續漢書』五行
志一所引「五行傳」)のように、「謠」を災異思想の一形態と考えられていた。それが後漢
末期には熒惑の神秘思想と合体し、予言化の道を突き進む。これは災異思想がその本来の
思想を喪失していく過程、讖緯説の過剰なまでの流行と一致する。
かつて君主権を抑制し自己批判として機能した災異説がその本来の機能を喪失し、次第
に予言化して統治者の正当化や権力機構の権威付の具と化し、讖緯説がイデオロギーとし
て定着すると、権力機構が自己の正当化に利用した「予言」を、反体制知識人は「謠」と
いう形を変えた「予言」によって災異説が担った現実政治批判を肩代わりして流行させ、
体制に対抗した。
一方、天の譴責の顕著な占星術の中で特に不吉な惑星−地上から肉眼で目にすることが
でき、一見して不気味な、しかも天文観測において予測不可能な運行をするために禍敗の
熒惑星として恐れられた熒惑が、譴責を担った「童謠」と合体する。そしてそれまでの各
種各様の「謠」は「童謠」として定着したのである。中元元年(五六)、光武帝が図讖を宣
布してより緯書に翻弄された後漢王朝、永下九年(九七)、張衡が圖讖の禁絶を上奏したこ
ろ、
「童謠」はもっぱら「童謠」の政治・社会批判は、まさに権力機構にとっては反逆的行
為であった。
その後、晉の武帝・後趙の石虎・前秦の符堅らは星辰讖緯の学を禁止したが、卷末資料
『晉書』「五行志・詩妖」に明らかなように、「童謠」は「詩妖」としてますます盛んにな
る。確かに、災異説が讖緯説に取って代わられたのと同様、神託に変容した「童謠」が時
に権力機構に取り込まれて権力擁護・体制保持の代弁者として利用される形跡も見られる
が、「童謠」が讖緯説と違うのは、「謠」の本来の性質−自然に人口に膾炙して憂いや恨み
を共有する人々の間に流行するものであって、権力機構が作為的に流行させたり禁止した
りすることが極めて困難なものであったという点である。それ故、
「童謠」は以後も反体制
知識人の武器として滅びることはなかった。
これは漢代、殊に後漢末期に流行した災異説・讖緯説のひとつのバリエーションとして
位置付けることができると考えられ、以後、『三國志』や『晉書』(紙幅の関係で『宋書』
は割愛した)では更に激化するが、反体制・権力批判としての「予言」
・
「謠」
・
「熒惑」は、
かつて災異説がそうであったように、その予言性の故に体制擁護・権力の正当化のために
利用される傾向が強くなる。これは漢代、殊に後漢末期に流行した災異説・讖緯説のひと
つのバリエーションとして位置付けることができると考えられる。
Fly UP