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Vol.45 , No.2(1997)016林 智康「『教行信証』と『弁正論 - ECHO-LAB
平成九年三月 ﹃教 行 信 証 ﹄ と ﹃ 弁 正 論﹄ 印度學 佛教學研究第 四十 五巻第二号 一 (1 ) 親 鸞 の 主 著 ﹃教行 信 証 ﹄ 化 身 土 巻 ( 末)に 唐 僧法 琳 の ﹃弁 たやす 正 論 ﹄ が 引 か れ て いる 。﹃六 要 紗 ﹄ 第 六 に ﹁お よそ こ の論 文、 一 一の文義 、 轍 く解 す べ か らず ﹂ と、 存 覚 は こ の ﹃弁 正 論 ﹄ の 文 の意 味 は 理解 す る こ とが 難 し い と 述 べ て い る。 確 か に ﹃教 行 信 証 ﹄ 所 引 の ﹃弁 正 論 ﹄ に は誤 字 ・脱 字 が 多 く 引 用 の 意 味 も 理 解 しが たく 、 他 の諸 文 の 引 用 と は か な り趣 が 異 って いる 。 親 鸞 は、 一字 一句 に 心 を 込 め、 引 用文 にも 自 己 の考 え を 示 そ う と し て、 原 文 を 訓 み換 え た り 省 略 さ れ て い る の に、 ﹃弁 正論 ﹄ の 筆 写 の時 に は 肉 体 的 な 衰 え が 影 響 し て い る の で (2 ) は な いか と いう 老 毫 説 や 弟 子 な ど の別 筆 説が あ るが 、 いず れ も 肯 首 し が た い。 (3) 林 智 六八 康 三 歳 頃 より 以 前 の坂 東 本 染筆 時 、 す な わ ち 前 期 筆 跡 であ る。 と、 ﹃弁 正 論 ﹄ の引 文 は親 鸞 六 十 三 歳 頃 よ り 前 の坂 東 本 染 筆 時 、 前 期 筆 跡 で あ る と 述 べ て い る 。 ま た 藤 場 俊基 氏 は、 ﹃顕 国 浄 土 方 便化 身 土 文 類 の研究 1 ﹃弁 正論 ﹄1 ﹄ に お い て、 赤 松 俊 秀 氏 の ﹁教 行 信証 の成 立 と改 訂 に つい て﹂ ( ﹃親鸞聖 人真蹟 一行 氏 の ﹃教行 信 証 の研究 ﹄、 等 の書 誌 学 的 研 究 を ふま え て、 (4) 宝 顕浄 土真実教 行証 文類影印本解説﹄所収、東本願寺刊) や重 見 し たが つて、 坂 東 本 執 筆 当 初 の形 で は ﹃弁 正 論 ﹄は第 二 分 冊 ( 化 土 巻 の末 巻 ) の大 半 を占 める 中 核 的 な 引 文 であ った わけ で 、第 二 の教 誠 (﹁ 外 教 邪 偽 の異 執 を 教 誠 せば ﹂) の主 題 は主 に ﹃ 弁正論﹄ に託 され て い た と い え る。 そ し て 、 ﹃大 集 経 ﹄ はそ の補 追 と し て 主 題 を 明 確 に読 み取 る こと が で き であ ろう 。 ( 括 弧 内 の文 は筆 者 ) 後 か ら 加 え ら れ た と いう 観 点 か ら 見 る こと に よ って、 さ ら にそ の と 述 べ て い る 。 こ のこ と から 前 記 の老 毫 説 や別 筆 説 は成 立 し ないと思われる。 ﹃弁 正 論 ﹄ の著 者 で あ る 法 琳 ( 五七二- 六四〇) は、 河 南 省 重 見 一行 氏 は ﹃教 行 信 証 の研 究 ﹄ に お いて、 ﹃月 蔵 経 ﹄ 忍 辱 品 後 半 部 分 ﹁又 言 両 時 復 有 一切 天 龍 乃 至 ⋮⋮ ﹂ の頴 川 で生 まれ 、 若 く し て出 家 した 。 一時 道 教 に転 じ たが 、 えいせん から ﹃首 榜 厳 経 ﹄ 等 の ﹃諸 経 論 ﹄ や ﹃弁 正 論 ﹄ の引 文 は、 親 鸞 六 590 後 に 仏 教 に復 帰 し長 安 済 法 寺 に住 し た。 中 観 ・三論 を学 び 、 儒 教 .道 教 にも 通 じ て い た 。 武 徳 四 年 (六一コ )、 太 史 令 ( 天 ふ えき ﹃弁 正 論﹄ は 八 巻 十 二篇 よ り 成 り、 法 琳 の弟 子陳 子 良 によ って注 解 さ れ て い る 。 仏 道 先 後 篇 第 三、 釈 李 師 資 篇 第 四 巻 三、 巻 四、 十 代 奉仏 篇 第 二 巻 一、 巻 二、 三 教治 道 篇 第 一 に よ り 、 道 教 と仏 教 の間 に論 争 が 生 じ 、 法 琳 は 武徳 五 年 ( 六 巻 五、 十 喩 篇 第 五 、 九 箴篇 第 六、 気 為 道 本 篇 第 七 文 .星暦 の長官)の傅 変 が 排 仏 十 一力条 を 高 祖 に 上奏 し た こと 二二)、道 教 を 破す る た め ﹃破 邪 論 ﹄ 二巻 を著 わ した 。 武 徳 八 巻 六、 信㎜ 致山 父〃 報雌 扁第 八、 部 叩藻 衆 書 雌 扁鉢 第九 しん 年 ( 六二五)、 高 祖 は道 教 ・儒 教 は 中 国 古 来 から あ る も の であ 由 巷七、 る と し て、 道 教 .儒 教 ・仏 教 の順 と す る 詔 勅 を 下 した 。 出 道 偽 謬 篇 第 十、 歴 世 相 承 篇 第 十 一、 帰 心 し りぞ あら が ﹃摩 詞 止観 部決 ﹄ 巻 三 の 四 に ﹁李 仲 卿 十 異 九 迷 を 著 わ し て と 述 べ て い る 。 そ し てそ の 理由 と し て、湛 然 (七 一一ー七八二) 第 五 ﹂・﹁九 箴 篇 第 六 ﹂・﹁気為 道 本 篇 第 七﹂ の三 篇 だ け であ る 恐 ら く 一時 の作 で はな く 、 李 劉 二道 士 に答 え た のは ﹁十 喩篇 全 書 を 通 覧 す る と 必 ず しも そ う で は な く、﹃弁 正 論 ﹄ 十 二篇 は 卿 と 劉 進 喜 と に対 す る反 論 と 記 さ れ て い るが 、 武 内 義 雄 氏 は 右 の十 二 篇 に つい て、道 宣 の ﹃続 高 僧 伝 ﹄に はも っば ら李 仲 有 地篇 第 十 二 巻 八、 ちゆうけい 武 徳 九 年 (六二六)、 傅 変 の弟 子 で あ る 李 仲 卿 が ﹃十 異 九 迷 りゆ うし ん き 論﹄ を 、 ま た劉 進 喜 が ﹃顕 正 論﹄ を 著 わ し、 傅 変 と と も に 仏 教 を 批 判 し た た め に、 法 琳 はた だ ち に ﹃弁 正 論 ﹄ 八 巻 を 著 わ し ん せいえ い し て反 論 し た 。貞 観 十 三 年 ( 六三九)、 道 士 の秦 世 英が ﹃弁 正 論 ﹄ は国 を 誹 諺す るも の であ る と 太 宗 に上 奏 し た た め に、 法 琳 は 囚 禁 さ れ た。 そ の後 二 百 余 条 を あ げ て反 論 し た た め つい に 極 刑 を 宣 言 され た 。 し か し 刑 は 執 行 さ れず 赦 免 され 、 翌貞 観 十 四 年 (六四〇) に病 没 し た。 法 琳 が 生 き た 晴 か ら 唐 の時 代 は、 中 国 仏 教 の成 熟 期 であ った 。 ま た皇 帝 の初 代 高 祖 ・二代 太 宗も 仏 教 寺 院 を建 立 し て 八 ・九 の 二篇 は ほぼ 関 連す べき 文 であ る が 、 最 後 の 三 篇 は こ わす ﹂ と述 べ た 文 を 引 く。 さら に十 二篇 中 、 最 初 の 四 篇 と第 も って仏 法 を斥 け る 、南 山十 喩 九 箴 を 作 って用 い て 邪 説 を形 間 に は厳 し い論 争 が あ り、 法 琳等 が 矢 面 に 立 ったが 、 仏 教 が れ ら と別 に書 か れ、 後 に今 の ﹃弁 正 論 ﹄ と な った述 べ、 弟 子 お り 、 太 宗 時 代 に玄 は 訳経 事 業 を開 始 し た 。道 教 と 仏 教 の 全 面 的 に受 難 の時 代 であ った の で は なく 、 む し ろ国 家 の保 護 六九 二篇 、 二百 余 紙 、 繹 老 の教 源 を 窮 め、 品 藻 の名 理 を 極 む る こ の陳 子 良 が ﹃弁 正論 ﹄ の 序 に書 いた ﹁こ の論 お よそ 八 巻、 十 った。 (5 ) のも と に安 定 した 位 置 にあ り、 教 勢 も 伸 び て い た。 そ れ が 道 教 側 の不 満 を起 し 、 道 教 と 仏教 の対 立 に 至 ﹃教 行 信 証 ﹄ と ﹃弁 正論 ﹄ ( 林) 591 七〇 論 ﹄ を示 す 。 外 論 に は、 老 子 は神 (たましい)を 絶 妙 な る仙 女 ﹃教 行 信 証 ﹄ と ﹃弁 正 論 ﹄ ( 林) と、修 述 多年 な り 、よ って いま だ 流 布 せず ﹂ と いう 文 を 引 き 、 に宿 し、 左 の腋 を割 いて 生 まれ たが 、 釈 尊 は摩 耶 夫 人 の胎 内 さロ ﹁修 述 多 年 ﹂ の四 字 によ って、 そ の成 立 は 一時 では な い と 述 に宿 って、 右 脇 を開 いて 生 ま れ た 。す なわ ち道 教 を 賞 揚 し て (10 ) ② 四 異 四 喩 の文 - 化 縁 の広 狭、 老 子 と 釈 尊 の時 代 と 地 位 の な わ ち、 左 は 邪 道 であ り 右 は 正 道 で あ る こ と を示 す 。 生 滅変 化 の理 に し た が って右 脇 か ら 生 まれ たと し て い る。 す は玉 女 で な く牧 女 で、 通 常 と は 逆 に 左脇 から 生 ま れ 、 釈 尊 は おと し べる 。 そ し て ﹃弁 正論 ﹄ の撰 述 は、 武 徳 九 年 (六二 六) から (6) 貞 観 十 三年 (六一 二九) ま で の十 四年 間 であ ろ う と 言 わ れ る 。 仏 教 を既 め て いる ので あ る 。 こ れ に対 し仏 教 で は、 老 子 の母 二 化身土巻 ( 末) に、 まず ﹃弁 正論 ﹄ 巻 六 の ﹁十喩 篇 第 五﹂ (8) と ﹁九箴 篇 第 六 ﹂ が 引 か れ て いる 。 優劣論 ﹁十喩 九 箴 篇 ﹂ は ﹁十 喩 篇 ﹂ と ﹁九 箴 篇 ﹂ であ り 、 ﹁九 述 ﹂ 周 第 十 五 代 の荘 王 ( 在位紀元前 六九 六ー六八二) の 時 代 、 は る の時 代 で、 最 も 隆 盛 を極 め た周 王朝 の国 師 であ った 。 釈 尊 は 外 論 に は、 老 子 は周 王朝 を 開 い た文 王 ( 紀元前十 一世紀頃?) 内四喩曰く。 は ﹁九 迷 ﹂ の こと であ る 。 李 仲 卿が 著 わ し た ﹃十 異 九 迷 論 ﹄ か西 方 にあ る 厨 賓 国 ( 中 央アジ ア の地名) の教 主 にす ぎ な い。 外四異曰く。⋮⋮ は十 力条 の老 子 と 釈 尊 の優 劣 と 九 力 条 の仏 教 の 迷 失 を 挙 溺 仏 教 で は、 老 子 は官 職 は低 く 小 役 人 であ り 、 文 王 の時 代 に存 いは ﹃弁 正 論 ﹄ 法 琳 の撰 に 曰 く 。 ﹁ 十 喩 九箴 篇 、答 す 、李 道 士十 異 九 ジュツ 述。 て、 仏 教 を批 判 し た も の であ る 。法 琳 は そ れ に対 し ﹁十喩 ﹂ 在 し て いな く 国 師 でも な か った 。 釈 尊 は出 家前 は王 位 を 継 ぐ ノブ と ﹁九箴 ﹂ で反 論 し て いる 。 ﹁喩 ﹂ はさ と す こと 、 ﹁箴 ﹂ はデ けいひん 針 の こと で、 正 し い論 理 が 腫 れ も の を刺 す ご とく 、 相 手 の隔 べく 太 子 であ り、 出 家 し て尊 いさ と り を得 ら れ た。 そ し て 周 劣論 (11 ) ③ 六 異 六喩 の文 - 化 の先後 、 老 子 と釈 尊 の時 代 の前 後 優 の教 主 であ る 。 全 盛 期 であ る 。 ま た 小 国 の教 主 でな く 、閻 浮 提 と いう 全世 界 えん ぶ だい の第 四代 昭 王 (紀元前 一〇世紀前後、第五代穆王は子 にあ たる)の ぼく 点 を 突 く意 味 であ る 。 ま ず ﹁十喩 篇 ﹂ の文 を見 て み よう 。 (9) 論 内 一喩 曰 く 。 ⋮ ⋮ ω 一異 一喩 の文 ー 従 生 の勝 劣 、 老 子 と釈 尊 の出 世 上 の屡 劣 外 一異 曰 く 。 ⋮ ⋮ ﹁内 ﹂ は内 道 の意 味 で仏 教 を 示 し、 ﹁外 ﹂ は外 道 の意 味 で仏 教 以 外 の教 え、 こ こで は道 教 、 す な わ ち李 仲 卿 の ﹃十 異 九 迷 592 から インド に至る間 の砂漠) に向 か った。 そ の後 の こ と も 測 り 知 れ な い し、 ど こ へ行 った かも わ から な い。釈 尊 は 西方 の印 内 六喩 曰く。 ⋮⋮ 前 の② と同 様 に、 老 子 と釈 尊 の 生 没 に関 す る 記 述 であ る 。 度 に生 まれ 提 河 ( 中イ ンド のクシナガラ近く にあ る河)で命 終 し 、 外六異 曰く。⋮⋮ 外 論 に は、 老 子 の降 誕 は 周 の文 王 の 時 代 で 孔 子 ( 紀元前五五 弟 子 が 胸 を打 って悲 し み、 多 く の人 々が 大 声 をあ げ て泣 き 叫 仏 教 では、 老 子 は周 の 第 十 四 代 桓 王 ( 在位紀元前 七二〇1 六 す な わ ち束 縛 か ら 免 れ た 形 体 に責 任 が あ る と非 難 さ れ た 。 釈 った ﹁秦 秩 の弔 ﹂ の話 で 明 か で あ る 。 秦 侠 から ﹁遁 天 の形 ﹂ 椀里 ( 周 の犬丘邑 、陳 西省 興平県 の東南)に葬 られ た 。 友 人 で あ ら いけ い 一-四七九)の時 代 に 亡く な って い る。 釈 尊 は初 め は浄 飯 王 の ん だ 。 仏 教 で は、 老 子 は頼 卿 ( 河南省鹿邑県 の東) に 生 ま れ、 九 七)丁 卯 の年 ( 紀元前七 一四) に生 ま れ て、 周 の第 二 十 四 代 尊 は 王宮 に出 生 し 、 鵠 樹 ( 沙羅樹林、釈尊が 入滅され た時 に、樹 かい り 家 に出 生 し て 荘 王 の時 代 にあ た って いる 。 景王 ( 在位紀元前五四四-五二〇) の 壬午 の 年 ( 紀元 前 五 一九) がす べて白変 し、白鶴 のご とく であ ったと いう 逸 話 に よ る) の下 し んい つ に命 終 した 。 孔 子 の時 代 に 亡く な って い るが 、 文 王 の時 代 に で 入 滅 さ れ た。 後 漢 の明 帝 ( 在位 五七- 七五) の時 代 に経 典 に じんし ん じんご は い な か った 。 釈 尊 は周 の第 四 代 昭 王 の甲 寅 の年 (紀元前 一〇 て いぼ う 二七)に降 誕 され 、 周 の第 五代 穆 王 の 壬申 の年 ( 紀 元前九四九) よ って伝 え られ 、 宮 中 の書 庫 であ る 蘭 台 に秘 蔵 さ れ て い る。 こく じ ゅ に命 終 され た 。 浄 飯 王 の子 であ り、 第 十 五 代 荘 王 の前 に世 に さき こく ﹁秦 侠 の弔 ﹂ は ﹃荘 子 ﹄ 養 生 主 篇 第 三 に あ る。 向 に吾 入り て弔 す 、 老 者 これ を 契 す る こと そ の子 を 契 す るが ご 出 られ て い る。 孔 子 は魯 よ り 周 に赴 いて老 子 に会 い ﹁礼 ﹂ に つ いて 問う た こ と は ﹃史 記 ﹄ に詳 し く記 さ れ て い る。 し か し と く 、 少 者 こ れ を 芙す る こ と そ の母 を 突 す るが ご と き こと あ り 、 そむ もと め 文 王 の師 であ った こと は根 拠 が な い。 老 子 は周 の時 代 の末 に かれそ のこれを会す所以 は必ず 言を斬 ずして言 い巽を斬ず して契 のが ﹃弁 正 論 ﹄ では ﹁遁 天 の形 ﹂ と 換 え て あ る 。 そ し て ﹁形 は身 ﹁遁 天 の刑﹂ は天 理 に背 い て 受 け る 刑 罰 の こと で あ る が 、 る、 古 に これ を 遁 天 の刑 と い ふ。 そむ 出 た のであ って、 そ の こと は周 の初 め時 代 を調 べ な け れば な す る こと あ る は 、 こ れ 天 に遁 き 情 に倍 い て そ の受 く る と ころ を 忘 ゆ え ん ら な いが 、 歴 史 の書 に は載 って いな い。 (12 ) ㈲ 七 異 七喩 の文ー 遷 謝 の顕 悔 、 老 子 と 釈 尊 の終 焉 に関 す る 優劣 論 内七喩 曰く。 な り ﹂ と し て ﹁遁 天 ﹂ を ﹁免 縛 隠 形 ﹂( 束 縛を免 れ身 を隠す) と 外七異 曰く。 ⋮⋮ 老 子 と釈 尊 の死 に関 す る伝 承 に基 づ く 内 容 であ る 。 外 論 に 解 釈 し て い る。 化 身 土 巻 で は ﹁免 縛 隠 形 の仙﹂ を ﹁免 縛 形 の 七 一 は、 老 子 は 初 め周 の時 代 に 生 ま れ て、 晩 年 は流 沙 ( 中国 西部 ﹃教 行 信 証 ﹄ と ﹃弁 正 論 ﹄ ( 林) 593 七二 ⑩ ﹁九 箴 篇 ﹂第 六 の五ー 内 教 為 治 本 指 の文 。正 法 が 世 に行 ﹃教行 信 証 ﹄ と ﹃弁 正 論 ﹄ ( 林) 仙 ﹂ と ﹁隠 ﹂ の字 を 略 し て い る。 ﹁隠 ﹂ の字が な い た め ﹁身 な わ れ ば 人 民が 栄 え、 邪 法 が 行 な わ れ ば 人民 が 衰 退 す る (18 ) を 隠 す﹂ と いう 意 味が な く な り、 ﹁身 を 縛 ら れ る こ と を免 れ さかり こ と を明 かす 。 しよう (19 ) 偽 経 の所 説 をあ げ 、 そ の妄 誕 を 知 ら しむ る。 君 子 曰 く 。道 士大 宥 が 隠 書 ・元 ( 無 ) 上 真 書 等 に云 く。 ﹁出 道 偽 謬 篇 ﹂ ( 道 の偽 謬 を 出 す の篇 ) 第 十 の ﹁諸 子 為 道 書 (2 0) な 謬﹂ ( 諸 子 を道 書 と為 す の謬 )1 道 経 曜 目 録 の 誤謬 を 指 摘 し、 けい 道 士 の上ぐ ると こ ろ の経 の目 を案 ず る に、 皆 云 く、 あ 真 妄 説 を 難 破す る。 に 入流 せ よ とな り ﹂ の文 は、 武 帝 の第 六 子郡 陸 王 の ﹁啓 奉 勅 十 一日 の 日付 が あ る 。 最 後 の ﹁老 子 の邪 風 を 捨 て て法 の真 教 勅 文 ﹂( 道を捨てるの勅文) か ら 引 か れ 、天 監 四 年 ( 五〇五)四 月 ㈹ の大 半 の 文 は、 梁 の 武 帝 ( 在位五〇二ー五四九) の ﹁捨 道 又 云 く。 ﹁大 経 の中 に説 か く 。 道 に九 十 六種 あ り。 外 道 を 捨 て て仏 法 に帰 依 す る こと を 勧 む る。 (21 4 03 ﹁帰 心 有 地 篇 ﹂ (心を 帰 す る に 地 あ る の篇 )第 十 二 ー 終 り に ⑫ ⑪ ﹁気 為 道 本篇 ﹂ ( 気 は道 の本たる の篇)第 七ー道 教 の伝 え る 正法念経に云く、人戒を持 たざ れば 諸天滅少 し、阿修羅盛 なり。 たも た 仙 人﹂ と いう 意 味 に な って いる 。 (13 ) ( 仏教) の優劣 論 以下 、 紙 数 の関 係 上 項 目 だ け あ げ て おく 。 ⑤ 第 一異 喩 の 文 ー 左 (道 教 ) 右 内 十 喩答 外 十 異 。 外 生 よ り 左 右 異 一。 内 生 よ り 勝劣 あ り。 ( 14) ⑥ 第 三 喩 の文 ー 釈 尊 の独 尊 を 示 す 。 お (15) それ釈氏 は、天上天下 に介然 としてその尊 に居す、 三界 六道卓 両 と し てそ の妙 を 推 す 。 内喩 に曰く。⋮⋮ ⑳ 第 十 異 喩 の文 ー 怨 親 平 等 の仏 教 の 真 義 を 述 べ る 。 外 論 に 曰く 。 ⋮ ⋮ 三 続 い て ﹁九 箴 篇 ﹂ 第 六 の 一、 第 六 の二、 第 六 の五 、 ﹁気 為 道 本 篇 ﹂ 第 七 、 ﹁出道 偽 謬篇 ﹂ 第 十 、 ﹁帰 心有 地 篇 ﹂ 第 十 二 の 諸 文 を挙 げ て み よう 。 (16 ) ⑧ ﹁九 箴篇 ﹂第 六 の 一= 周 世 無 機 の文 。 周 の世 に仏 を 信 ず すべ る⋮ 機類 が な い こと を 述 べ る。 捨 老 子 受 菩 薩 戒 文 ﹂( 勅を奉じ老子 を捨 て て菩薩戒を受く るを啓す 二皇統 て化 して [須弥 四域経 に云く、応声菩薩を伏義とす、吉 祥菩薩 を女 蝸とす るな り] るの文)に よ ってお り 、 これ も 同 年 四 月 十 七 日 の日付 が あ る 。 引 かれ る 文 であ ろ う。 し たが って 詳 しく 論 述 した い。 親 鸞 が ﹃弁 正 論 ﹄ を 通 し て 最 も 主 張 し た い内 容が 、 こ こに ⑨ ﹁九 箴 篇 ﹂ 第 六 の 二= 内 建 造像 塔 指 の文 中、 外 論 細 末 註 (17 ) 文 、 仏 教 流 布 の奇 瑞 を 述 べる 。 お 内には像塔を建造す、指 しふる二 594 大 経 の中 に説 か く 。 道 に九 十 六種 あ り 、 唯 仏 の 一道 な り 、是 れ 正 道 な り 、 そ の余 の九 十 五種 に於 て は、 皆 こ れ外 道 な り と 。 (22 ノ ﹃六 要 紗 ﹄ 第 六 に ﹁﹁大 経﹂ と 言 ふ は、 ﹃浬 繋 経 ﹄ を 指 す 。 天 台 の学 者 多 く 彼 の経 をも っで大経 と 称 す な り ﹂ と 述 べる 如 ノ ナリ テ ハ ナリ ノ ノ ニ く 、 ﹁大 経 ﹂ は ﹃浬 盤 経 ﹄ を指 す が 、 ﹃大 般 浬 繋 経 ﹄ に は同 じ 文 が な い。 ま た ﹁唯仏 一道 、 是 於 二正 道 其 余 九 十 五 種 ↓皆 是 る。 次 に、 老 子 ・周 公 ・孔 子 等 、 これ 如 来 の弟 子 と し て化 をな す と い へど (24 ) も す で に邪 な り 。 た だ これ 世 間 の善 な り、 凡 を隔 て て聖 と 成 る こ と あ た はず 。 と いう 文 は、 原 文 で は 左記 の如 く 訓 まれ る 。 訓 む が 、 親 鸞 は あ え て ﹁唯 仏 の 一道 これ 正 道 な り﹂ と ﹁於 ﹂ 外 道 ﹂ の ﹁是 於 正 道 ﹂ は、 ﹁於 二正 道 こ ( 正道 に於 て) と通 常 原 文 の意 味 は、 老 子 ・荘 周 ( 荘子)・孔 子 等 は如 来 の弟 子 で め て聖 と成 す こ と 能 はず 。 かも 化 を為 す こと 既 に邪 な り。 ただ 是 れ 世 間 の善 にし て、凡 を 革 あらた 老 子 ・周 公 ・孔 子 、 等 は、 是 れ 如 来 の弟 子 ( な り) と 雄 も 、 而 を 飛 ば し て 訓 み、 無 理 な訓 み 方 にな って い る 。 こ れ は 親鸞 が あ る と 認 め な が ら 、 教 化 を な す こ と に は問 題 が あ る と解 さ れ ナリ 九 十 五種 の 外道 に対 し て、 た だ 仏 の 一道 の みが 正道 であ る こ るが 、 化 身 土 巻 の引 用 文 で は、 仏 弟 子 で は な い にも か か わ ら 人 を 変 革 し て聖 人 と 成 す こと はで き な いと解 さ れ る が 、 化 身 ず 、 仏 弟 子 と し て教 化 を な す と 解 さ れ る。 ま た原 文 で は、 凡 と を強 調 し た いた め に 、 こ の よう に加 点 し た と 考 え ら れ る 。 (23 ) 唯 だ 仏 の 一道 の み 、是 れ 正 道 に於 て す 。 其 の余 の 九十 五 種 は 、 ﹃国 訳 一切 経 ﹄ に は 、 土巻 で は、 凡 人 と 隔 絶 し た と ころ で 聖 人 と成 る こと はで き な いと 解 さ れ る 。 す な わ ち、 凡 人 と か け は な れ た と こ ろ で聖 人 皆 な 是 れ外 道 な り 。 にな る 道 を 求 める こと は世 間 の善 に す ぎず 、 そ の意 味 で老 子 ( 末 ) に ﹁真 ・仮 ・偽 ﹂ の 三 重 判 と訓 ん で い る 。 親 鸞 は信巻 七三 尽 き 、 信 は是 れ 信 正 に し て邪 なら ず 、 故 に清 信 と 言 ふ 。 仏 弟 子 、 清 信 と 言 ふ は、 清 は是 れ表 裏 倶 に浄 にし て 、 垢 稼 と 惑 累 と 皆 な とあ る文 は、 原 文 で は 左 記 の如 く 訓 まれ る 。 (25 ) れ 正 を 信 じ て 邪 な ら ざ るが 故 に、 清 信 の仏 弟 子 と 言 ふ 。 清 と 言 ふは 、 清 は これ 表 裏 倶 に浄 く 、 垢 械 惑 累 皆 尽 す 。 信 は こ 等 は如 来 の弟 子 と は言 え な い と指 摘 し て いる 。 次 に 、 を 述 べ て い る 。 す な わ ち 仮 偽 弁 釈 の ﹁偽 ﹂ に つ い て 、 偽 と 言 ふ は 、 則 ち 六十 二 見 、 九 十 五 種 の邪 道 これ な り 。 ﹃浬 盤 経 ﹄ に 言 く。 ﹁世尊 常 に説 き た ま は く 。 一切 の外 は九 十 五 げん ( 法 事 讃 巻 下) の 云 く 。 ﹁九 十 五種 皆 な 世 を 汚 す 。 唯 仏 種 を 学 び て、 皆 悪 道 に趣 く と 。 光明師 ひと の 一道 独 り 清 閑 な り と 。 と 述 べ る 一連 の文 を 対 照 す れ ば、 前 述 の訓 み 方 が 理 解 さ れ ﹃教 行 信 証 ﹄ と ﹃弁 正論 ﹄ ( 林) 595 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ と ﹃弁 正 論﹄ ( 林) 七四 ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ 二 巻 、 四 三 五頁 ( 以 下 真 聖 全 と略 す ) でな く 、 阿 弥 陀 仏 か ら の呼 び か け の意 であ り 、 親 鸞 が 如 来 の 星野 元豊 著 ﹃講 解 教 行 信証 ﹄ 第 五 巻 二 一九 七 頁 原 文 で は、 信 は 信 正 で あ って邪 でな い と 訓 ん で、 ﹁正 ﹂ と 1 教勅 を ﹁聞 信 す る ﹂ 立 場 と し て述 べ ら れ たも の と思 わ れ る 。 2 で は 明 ら か に ﹁清 信 の仏 弟子 ﹂ と 不 可 分 の表 現 を と っ て い にあ って ﹁仏 弟 子 よ ﹂ と いう 呼 び か け の語 であ るが 、 引 用 文 14 12 13 11 10 9 8 真 聖 全 二 巻 一九 八 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 三 二 頁 b 真 聖 全 二 巻 一九 七 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 三 〇 頁 b 真 聖 全 二 巻 一九 五 - 一九 六 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 八 頁 a 真 聖 全 二 巻 一九 六 - 一九 七 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 三〇 頁 a 真 聖 全 二 巻 一九 五 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 七 頁 c 真 聖 全 二 巻 一九 四 ︱ 一九 五 頁 、 大 正 蔵 五 二 六 頁 a 真 聖 全 二 巻 一九 五 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 六頁 b 真 聖 全 二 巻 一九 四 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 五頁 c 真 聖 全 二 巻 一九 四 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 五 頁 b 真 聖 全 二 巻 一九 三 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 五頁 a 真 聖 全 二 巻 一九 三 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 二 四頁 c 真 聖 全 二 巻 ・四 二 六頁 武内 義 雄 氏 ﹁教 行 信 証 所 引 弁 正 論 に就 い て﹂ ( ﹃大 谷 学 報 ﹄ 第 ﹃同 書 ﹄ 三 三 ︱ 三 四 頁参 照 重 見 一行 著 ﹃教 行 信 証 の研 究 ﹄ (二 九 六、 三二 六頁 ) 藤 場 俊 基 著 ﹃顕 浄 土 方便 化 身 土 文 類 の研 究 ︱ ﹃弁 正 論 ﹄︱ ﹄ 一 6 一八 頁、 5 3 4 ﹁邪 ﹂ が 対 立 概 念 であ り 、 ﹁信 ﹂ に ﹁正 信 ﹂ と ﹁邪 信 ﹂ の二 種 類 が あ る。 す な わ ち 清 信 と いう 場 合 の信 は正 であ って 邪 で な い と いう意 味 で あ る が 、 化 身 土巻 の引 用 文 は、 ﹁清信 ﹂ と い う 熟語 の説 明 で な く 、 ﹁清 ﹂ と ﹁信 ﹂ は そ れぞ れ 独 立 し た 表 現 に な って い る 。 す な わ ち ﹁信 ﹂ は ﹁正 を 信 じ る﹂ こと で あ って ﹁邪 で は な い﹂ と す る。 これ は前 述 の ﹁唯 仏 の 一道 これ る。 こ の ﹁清 信 の仏 弟 子 ﹂ は老 子 等 の ﹁偽 の仏 弟 子 し に 対 し 15 16 真 聖 全 二 巻 一九 八 - 一九 九 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 三 六頁 b 真 聖 全 二 巻 一九 九 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 四 六 頁 c 十 二 巻 第 一号) 二 ︱ 四 頁 参 照 、 7 て ﹁真 の仏 弟 子 ﹂ の意 を 示 され た も の であ ろ う 。 最 後 に、 17 ﹃国 訳 一切 経 ﹄ 三 三 〇 頁 真 聖 全 二 巻 一九 九 - 二 〇 〇 頁 、 大 正 蔵 五 二 巻 五 四九 頁 c 真聖全二巻四三五頁 正 道 な り﹂ の 意 と 深 く 関連 し て い る。 そ し で 原 文 で は、 ﹁清 老 子 の邪 風 を捨 て て 、流 法 の真 教 に入 ら せ よ と な り。 18 ﹃国 訳 一切 経﹄ 三 三 二 頁 信 ﹂ と ﹁仏 弟 子 ﹂ が 分 離 し て お り 、 ﹁仏 弟 子 ﹂ は次 文 の最 初 とあ る 文 は 、 原 文 で は次 の如 く 訓 ま れ る 。 19 20 ﹃国 訳 一切 経 ﹄ 三 三 〇 頁 、 24 法 ﹂ と 入 れ 換 え ﹁真 教 に入 ら せ よと な り ﹂ と 命 令 形 で訓 まれ 入り ます と 解 さ れ る が 、 化身 土 巻 引 用 文 で は、 ﹁法 流 ﹂を ﹁流 原 文 で は、 郡 陸 王 が 私 は老 子 の邪 道 を 捨 て て法 流 の真 教 に (26 ) 老 子 の邪 風 を捨 て て 、法 流 の真 教 に入 る。 21 22 ﹃国 訳 一切 経 ﹄ 三 三 〇 頁 、 26 ( 龍 谷大学教授) ﹃教 行 信 証 ﹄、 親 鸞 、 ﹃弁 正 論 ﹄、 法 琳 、 老 子 23 <キ ー ワ ー ド > 25 て い る 。 坂 東 本 で は、 ﹁流 ﹂ を ﹁入﹂ に つけ て熟 語 と し 、 ﹁法 の真 教 に 入 流 せよ と な り﹂ と 訓 ま れ て いる 。 こ の よう な命 令 形 は、 親鸞 が 他 者 に対 し て ﹁こう しな さ い﹂ と いう 命 令 の意 596