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- 1 - 異文化の旅 チュニジアを行く1998
異文化の旅 チュニジアを行く1998-17 a070 チュニジア紀行7日 ドゥガ 古代ローマ劇場 キャピトル ユピテル ユノー ミネルヴァ 古代ローマトイレ 12 時半ごろブラ・レジアを後 にした。次はブラ・レジアから 南東に直線で 40 数 km の Dougga ドゥガを目指す。雨がパラパラ し出した。ワイン用のブドウ園 が広がる山を越えた。チュニジ アは年間降水量が少なく、地味 もブドウに適したようで、フェ ニキア人の持ち込んだワイン醸 造技術が根付き 、ポエニ・カルタゴの重要な交易品になったらしい 。 カルタゴを征服した古代ローマ人はさらにワイン好みで、領土拡大 のたびにブドウ園が切り拓かれたようだ。古代ローマ帝国首都のロ ーマでもチュニジア産ワインが盛んに飲まれたはずだ。しかし、北 アフリカ~イベリア半島を支配したアラブ人はイスラム教の掟によ り飲酒は御法度で、ワインづくりは衰退する。ワインづくりが息を 吹き返すのは 19 世紀後半、ワインにはうるさいフランスがチュニ ジアに侵攻してからである 。日本では馴染みが薄いかも知れないが 、 フランス人の眼鏡にかなったワインであるから、上質である。ディ ナーのたびに料理を引き立ててくれた。風景はその土地の暮らしと 文化をうかがわせる。 1 時半ごろ Teboursouk テブルスークという町に入った。小さな町 のようだ。ドゥガ観光の中継地となっているらしい。ここのレスト ランで昼食をとる。スープにメインは猪の肉、デザートはミカンで あった。断食中の地方の町であるからぜいたくはいえない。日本で も猪鍋=ボタン鍋を食べたことはあるが 、焼き猪肉は初めてである 。 くさみも感じないし、柔らかさもいい。イスラム教では豚も御法度 であるから、猪も家畜として飼われているのかも知れない。 2 時半ごろ、 Dougga ドゥガ に着いた。シキブさんによれば、ベ ルベル人は Dugga、 Tugga と呼んでいて、山の上のように高いとこ ろを意味したそうだ。標高 570m ほどの高台で、防衛にかなってい る。別の資料には thugga トゥッガは牧場を意味したとある。草地 が広がっているから牧場の可能性もなくはない。いずれにしても、 地味もよく防衛にも有利なことから紀元前 6 世紀ごろにはベルベル 人の町が出来ていたらしい。ドゥガはやがてヌミディア王国の支配 下に置かれた。ヌミディア王国は、ユバ 1 世(在位 BC60-BC46)の 父が古代ローマ元老院のポンペイウス( BC106-BC48)の支援を受 けて王位に就いたことから、ユバ 1 世はポンペイウス=元老院派と 手を結びカエサル( BC100-BC44)と敵対した 。カエサルは紀元前 49 年にルビコン川を渡ってローマに進軍し主導権を握った 。紀元前 48 年にはチュニジアに上陸しユバ 1 世を倒す。以来、ヌミディアはロ ーマの属州となった。ついでながらポンペイウスはエジプトへ逃げ たが、紀元前 48 年に暗殺される。カエサルも、紀元前 44 年 2 月に 終身独裁官につくが反カエサル派によって 3 月に暗殺されてしま う。その反カエサル派もカエサルの養子アウグストゥス ( BC63-AD14)によって成敗され、アウグストゥスはカエサルの望 みであった初代皇帝に就く。政治はいつも凄惨だ。 ドゥガはその後古代ローマ風のまちづくりが実施され、古代ロー マ帝国時代~ビザンティン時代に大いに栄えた。その後イスラム・ アラブ人が侵攻してきたがケロアンやチュニスから遠いことが幸い して放置され、古代ローマの都市景観がよく保全されたことから世 界遺産に登録された。 ときおり雨がパラパラするな か 、 ま ず は 入 口 に 近 い Theatre 古 代ローマ劇場を見る(写真 )。 168 年ないし 169 年の建造で、古代ロ ーマ帝国の五賢帝の時代になるか ら、属州アフリカも安定し発展し ていたころになる。舞台長さは 30-40m ほどでブラ・レジアより少 し大きいていどだが、舞台背景の列柱がよく残っているうえ、観客 席は丘の斜面を利用して高さ 15m ほど、かぶりつき 5 段+ 22 段も あり、 3500 人を収容できる。当時のドゥガの住民は 5000 人との説 があり、子ども、病人を除くとほとんどすべての住民が楽しめる大 - 1 - - 2 - きさである。古代ローマ人の劇場建設などに地形を巧みに利用する 技術はたいへん優れている。広大な領土を治めることができたのも 古代ローマ人の優れた土木技術に裏打ちされていたからであろう。 同時に、ローマ市民であれば誰もが等しく劇場などを利用できる考 え方が古代ローマを強力な国にした理由になろう。 観客席の石組みは 1900 年もの歳月に加え戦禍もあったろうが少 しの狂いもない。へこみやの割れもほとんどない。オーダーを載せ た列柱もプロポーションがよく、身じろぎしない安定感がある。観 客席に腰掛け、舞台をジーと眺めていると、いまにも袖から古代ロ ーマのなりをした戦士が飛び出してきて演説しそうな錯覚にとらわ れる。それほど劇場の様子をよくとどめている。実際、フェスティ バルではここで演劇が行われるそうだ。 劇場の右手の道をのぼった先 に Capitol キャピトル が建つ(写 真、手前左手の遺跡はマーキュ リー神殿跡 )。この隣には Forum フォーラムもあり、かつての町 の中心であった。キャピトルは 166-167 年の建設で、古代ローマ 帝国 16 代皇帝のマルクス・アウ レリウス( 121-180)と共同皇帝ルキウス・ウェルス( 130-169、病 死)に捧げられたそうだ。ちなみにマルクス・アウレリウスは五賢 帝最後の皇帝である。 キャピトル側面(上写真)を見ると、左 手が吹き放しの前室?、右手が石壁で覆わ れた至聖所?になる。屋根はすべて抜け落 ちているからたぶん木造の切妻だったと思 う。左手の切妻型のペディメント=妻壁だ けが残っている。 正面に回る(写真 )。 11 段の上にコリン ト式オーダーを載せた細身の円柱が前面に 4 本 、奥の左右にそれぞれ 1 本立っている 。 円柱の高さは 8m ほどで、 11 段の上に立ち 上がっていて 、幅が狭いため 、見る人を圧倒する 。内部にユピテル 、 ユノー、ミネルヴァの 3 神を祀ってあったそうだ。 ユピテル =ユー ピテル= Jupiter = Juppiter はローマ神話の主神で、古代ローマの都 市の中心部には必ず祀られた。ローマ神話がギリシャ神話と混交し てからはギリシャ神話のゼウス Zeus と同一視された 。ユノー = Juno はローマ神話の最高位の女神で、ユピテルの妻であり、女性の結婚 生活を守護する女神でもある 。ギリシャ神話のヘーラー=ヘラ Hera =ゼウスの正妻に同一視される。 ミネルヴァ =ミネルウァ Minerva は知恵 、詩 、工芸 、発明 、商業などを司るローマ神話の女神である 。 ローマ神話の主神が祀られていることからもキャピトルの重要性が うかがえる。が、いまはがらんどうである。 壁は、縦に石を積み上げた柱と、柱のあいだに平石を積み込んで つくられている。こうした積み方はほかでは見かけない。耐力が増 すと考えられたのだろうが 、やがてもっと合理的な積み方に発展し 、 この工法が採用されなくなったのかも知れない。 正面に戻り、三角形の妻壁=ペディメントを見上げる(前頁下写 真 )。彫刻が傷んでいてはっきりしないが、古代ローマ帝国 15 代皇 帝アントニヌス・ピウス( 86-161)を彫ってあるらしい。ピウスは 慈悲深いという意味の称号で元老院から授けられた。五賢帝の一人 であり、 16 代皇帝マルクス・アウレリウスの叔父に当たる。この 神殿の建立者は、マルクス・アウレリウスに捧げる神殿の正面だか ら叔父であり 15 代皇帝である慈悲深きアントニヌスの像がふさわ しいと考えたのであろうか。 キャピトルの正面右隣は Temple de Mercure マーキュリー神殿に なる。ローマ神話ではメルクリウス mercurius、ギリシャ神話のヘ ルメス=ヘルメース hermes で商業の神である。ガイドブックの地 図にはコンコルディア concordia =ローマ神話の協調・相互理解・ 婚姻の調和の女神=ハルモニー harmonia =ギリシャ神話の女神、 サターン Saturn =サートゥルヌス Saturunus =ローマ神話の農耕神 、 カエレスティス caelestis =ユピテル神の別称、テスル Tellus =テラ Terra =ローマ神話の大地の女神など、神話の神々を祀った神殿の 遺跡が点在していて、本国ローマに引けをとらないまちづくりが成 されたようだ。 - 3 - - 4 - キャピトルからフォーラム、 風のバラの広場、マーケット、 神殿の遺跡を見ながら下ると、 古代ローマ人の住宅街になる( 写 真 )。 ブ ラ ・ レ ジ ア で 見 た 住 居 と同じようなつくりだがこちら の方が密集している。なかにデ ィオニソスとユリシーズと名付 けられた住居跡がある。ディオ ニソス Dionysos はギリシャ神話の豊穣・ブドウ酒・酩酊の神で、 ローマ神話ではバッカス bacchus になる。ユリシーズ ulysses はギリ シャ神話のオデュッセウス odysseus でホメーロス( 紀元前 8 世紀末 ) の叙事詩「オデュッセイア」の主人公として知られる。この住宅か ら発見されたモザイクにディオニソスとユリシーズが描かれている ことからこのが付けられた。が、モザイクはチュニスのバルドー博 物館に展示されている。このほかにもドゥガで発見されたモザイク の多くがバルドー博物館に展示されているというからバルドー博物 館訪問が楽しみになる。しかし、せっかくドゥガに来ているのだか ら神殿なり、住宅なり、実際にモザイクが貼られ、彫刻が置かれて る状態の方がもっとリアリティがあり、当時の様子を実感できる。 管理しにくい、あるいは首都チュニスの方が大勢の来館者に鑑賞し てもらえるというのであれば、コピーや模造品で補えばいいのでは ないか。説明版の不足とあわせ、古代ローマの町を実感させる努力 に欠けている。世界遺産に登録された意義が半減である。 駐車場に向かって戻る途中に Thermes des Cyclopses = The Baths of the Cyclopes キクロプス の浴場がある。ほかにも浴場が いくつかつくられている。古代 ローマ人はよほど風呂好きだっ たようだ。この浴場に付設の 古 代ローマトイレ がある(写真 )。 このスタイルはほかの国に残る古代ローマ遺跡でも見たことがあ る 。この当時 、現代のような浄化システムはまだ開発されていない 。 住宅などに個別にトイレを設置すれば、万が一どこかで伝染性の病 原菌が発生した場合、下水道システムを経由して町中に蔓延してし まう。そもそもかなりの水を流さないと残った汚物のにおいがきつ い。逆に浴場のそばに共同トイレを設置すれば、においも万が一の 病原菌も一ヶ所に留められ、浴場の排水を再利用するから大量の水 でただちに排除できる利点がある。これも古代ローマ人の合理的な 知恵だ。ずらりと便器を並べて顔を会わせながら用を足すというの は現代人には想像しにくいが、そういう社会であれば慣れてしまう のかな?。いつの間にか雨が上がった。晴れあがっていると気づき にくいが、先ほどまで雨がぱらついていて雨は少なくないから木造 の簡易な屋根はかかっていたはずであろう。古代ローマ人の技術か らすれば個室化するのもさほど難しいことではないから、顔をあわ せ雑談しながら用足しするのは当たり前の暮らしだったようだ。異 文化はときに想像を超越する 4 時ごろドゥガを出て、チュニスに住むシキブさんのお宅訪問に 向かう 。( 9812 現地、 2014.2 記) - 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