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1502 - フランスの切手

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1502 - フランスの切手
アキテーヌ
図版博物館 vol.90
II
土地の記憶 43
Musée imaginaire philatélique
Région Aquitaine au travers des timbres français
4e éd. 2013
【15-2-1 ラスコォの洞窟絵】
フランス郵政は、1968 年 4 月 16 日、1961 年以来好評を博して毎年発
行してきた大型の美術切手シリーズの 1 点とし
て、ラスコォ Lascaux の洞窟内壁に描かれた旧石
器時代後期 Paléolithique supérieur の動物画
を選び、「ラスコォの先史時代の洞窟」と題して
発行した YT-1555。同シリーズは、近現代の名
作絵 画を中心に しながらも 、時にウ ゙ィ クス
Vix(ブルゴーニュ地方)で発見された紀元前 6 世
紀の壺の文様を取り上げたこと YT-1478 も
あったが, それにしてもすべて有史時代の
文物であって、15000 年前と推定される壁
画を「芸術作品」Ouvrages d’art として採用
するとは一般に予想されなかったことであ
った。発行後、この選択に異を唱えたものは
いない。まずは、「作品」として見た場合の
見事さであり、有史以来の人類の誰もが知ら
なかった豊かな「先史」の存在による驚きで
ある。ここでは、壁画のいくつかを掲載する
ことしか為し得ない。ただ、洞窟が保存のた
めに非公開とされる前年(1962 年)に訪ねた
ときの記憶はいまだ鮮明であるので、その地域と発見の経緯などを書き添えておく。
洞窟のある場所は、ペリグーから国道 89 号線
を東に 50km ほど行き、ドルドォニュ河の支流ヴェ
ゼル河に出会って河とともに下り、モンチニャク村
Montignac(写真 上と左)から左手の丘へ上が
ってほどなくである。
この洞窟が発見されたのは、1940 年 9 月のこ
©bibliotheca philatelica inamoto
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とであった。同年 7 月議会両院が合同してペタン元帥への授権を定めたのちの虚脱状態が国
の全体を蔽っていたとき、ドルドォニュの山の中から信じられぬニュースがとどいた。
自動車修理工見習いのマルセル・ラヴィダ少年が、丘の中腹で、ラスコォの荘園につながっていると
言い伝えられた狐穴を探検しようとしたが果たせず、4 日後の 12 日に村の仲間 3 人ととも
に中に入って洞窟の一部とそこに描かれた画を発見し、さらに翌日 8m の竪穴を下りて野
牛と戦う人の絵に出会ったのであった。彼らの知らせを受けた学校の教師レオン・ラヴァル Léon
Laval も 18 日にこの事
実をみずから確かめ、
おりよくパリを逃れて
ドルドォニュにきていた
「旧石器の父」アンリ・ブ
ルウュ Henri Breuil(【ノル
マンディ 10】)もまた 21
日に現地を訪れ、世紀
の大発見を確認した。
その時の貴重な写真
がフランス文化省の公式サ
イトで公開されている。
15-2-1
左から、教師ラヴァル、少年ラヴィダ、ジャク・マルサル、アンリ・ブルウュ
©bibliotheca philatelica inamoto
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【15-2-2 ルフィィニャクの洞窟絵】
フランス郵政は、2006 年にも美術切手の一つとして、ラスコォと並ぶ
ルフィニャク Grotte de Rouffignac の洞窟壁画を取り上げた。YT-3905 この洞窟は極めて長大で、
その規模ではヨーロッパ屈指のものといわれている。全長 8km で現に公開されている部分まで
でも徒歩では時間がかかりすぎるため,洞窟内にミニトロッコ電車を走らせ、往復 4km の洞窟の旅
を楽しめるようにしている。この洞窟は、ラスコォ洞窟の入り口モンチニャクからさらにヴェゼル河を
15km ほど下って、左手の林地に入り 20 分ほど進んだところであったと記憶している。
洞窟自体は 16 世紀の文献にも出てくるので、その発見は新しいものではない。しかし、
かなりの奥部にマンモスを中心とした多数の壁面があることが最終的に確認されたのは 1956 年
洞窟の入り口と概念図
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59 年から公開され、79 年にはラスコォとともに「ヴェゼル河渓谷彩色洞窟先史遺跡」としてユネ
スコの世界遺産に登録された(このほか、クロマニョン Cro Magnon、ムゥチエ Moustiers などの近在の遺
跡も指定に含まれる)
。
リュフィニャクの洞窟は先史時代のうちどの時期のものか。時代の測定という点では研究が進み、
ラスコォよりも新しく 13000 年前頃で、人類学的にはクロマニョン人によるものと推認されている。
洞窟から一挙に天上の町と城へ。ここからはドルドォニュの城めぐりだが、山城だ平城だ
などと言っていられない新天地がこの地方にはある。15-2-2
【15-2-3 ベイナク】 ドルドォニュ河は、マシフサントラル西麓の水を集めて南西方向をとり、スゥイヤク Souillac
という町を過ぎるころから県南の地方を西へ流れる。スゥイヤクからイ
ール河と合流するリブルヌ市まで数多くの湾曲蛇行を重ねながらゆっ
くりと下っていくが、直線距離にして約 150km ほどの間にサルラ
とベルジュラクの町がある。ともに地域の農産物の集散地であったが、
戦後 60 余年の間にサルラはフォワグラとコンフィ(鳥獣肉の塩煮漬)を看
板にした美食と観光の町に、ベルジュラクはエドモン・ロスタンのシラノ所縁の
町からタバコと商工業の町に変わった。スウィヤクからベルジュラクまでは
直線距離で 80km、その間ドルドォニュ河の姿はときにからくり仕掛
けのように変わる。ベイナクは、通常コミュヌの名に従って
Beynac-Cazenac と表記され、切手 YT-1127
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面でもそうなってい
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るが、ここでとりあげる城はドルドォニュ河上に聳えるような位置にあり、その名は単にベイナク
城が築城された。河側の断崖(高さ 150m)はもちろんとして、反対側には 2 重の堀が張り
巡らされてもいる。城の中で最古の部分はロマン様式の角柱型のドンジョンである。
この城は非常時の避難と
防衛を目的としたものでは
なく、まさに居城として平
時の領民統治のための施設
として設計され、不断に改
築・増築されてきた。内部
には「諸身分の部屋」salle
des Etats もあれば,ふんだ
んに良材を用いた豪華なア
パルトマンもあり、ピエタや最後
の晩餐を描いたフレスコ画で飾
られたオラトワールなどもあって、
それらが今日でも大変良い
状態で保存
され、公開
されている。
このように
してドルドォ
ニュ観光の屈
指の場所と
なったベイナ
クは、もとも
とが狭い急
傾斜の石畳
道の両側に
建物が張り
付いたよう
な街であるから、5 月の連休にツアーで訪れた某青年が HP で嘆いていたように、
「渋谷か原宿
並みの混雑でそれもわが同胞ばかりだった」らしい。ここでしばらくご無沙汰していたレンヌ
の閑人がかつてこう言っていたことを思い出した。フランスでも《Semaine d’or》は旅行を避け
る人が多くなった、ただ無頓着なのはドイツ人で、800 キロもバスに乗ってモンサンミシェルにビールを
飲みに来た連中がいて「今元気なのは日本とドイツだ」と上機嫌だったよ、とのことだ
った。この老境の男は、フランスはダメになったがドイツよりはましだ、という偏見をいまだ
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持っている。日本の GW が漫画やポップスとともに有名になって、上掲のように言われ
ていることを初めて知った。15-2-3
【15-2-4 ロク・ガジャク】
ロク・ガジャク Roque-Gageac も目のくらむような岩壁がひとびとを圧倒
する所である。場所もベイナクのすぐ近くで直線距離で表現すれば 7-8k 南東にあたる。河の
方はかなり蛇行しているが、同じ右岸でベイナクより上
流に位置して
いる。切手
YT-3809
は
2005 年の発
行で凹版仕立
てであるが
あまり趣がな
いように思われる。この画面からわかるよ
うに、河辺に密集した家並の水平のラインと
直角にそびえるその名(ロック)の通りの岩
山のコントラストがここの景観を決めている。
ベイナクとの最大の違いは、岩山上に現実に
城が存在しないことだ。存在するのはかつ
ての城塞の遺跡である。そこまでの桟道の
ような道と、遺跡の高さからみる景観が観
光資源なのだが、人によっては、川筋の街並みの方が観光客を呼び寄せているという。
桟道と言っても、片側が河崖に開かれた洞門のような箇所が多い。下の写真は、下の街す
じから岩山を目指して登り始めた辺りの光景だ。次の写真は城塞の遺跡まで僅かとなった
高見から真下に桟道を見たものだ。このような険路が川岸から岩壁の頂上までつづいてい
る。岩質はこのあたり一帯に多い石灰岩であって、一般にその堅固さで知られているが、
1957 年 1 月 17 日に突如崩壊し、死者 3 人、建物の壊滅 6 件という惨事をもたらした。
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この町も
この町もベイナクと同様に「フランスの美しい集落」Les plus beaux village de la France
に指定されてい
る。とくにローズ
板石 lauzes で葺
いた屋根や壁の
美しさという点
ではこの町が一
番だ、と言われて
いる。
ところで、この
坂ばかり続く道
にふさわしい建
築物がある。それ
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は、タルドの家だ<前頁右)。ジャン・ガブリエル・ド・タルドは著名な犯罪社会学者
で法学者である。彼は 1843 年サルラで生まれ、この地に住居を有し、この
町を愛した。岩壁にしがみ付くようにして建てられたこの建物は、今日
観光の名所の 1 つになっているようだ。タルドの業績をたたえて、1972 年
に「ガブリエル・タルド」賞が設けられた。すぐれた犯罪社会学の業績を挙げた
者に 2 年おきに与えられている。15-2-4
最後にドルドォニュ県の美しい城を 2 つ紹介しよう。
【15-2-5 オォトフォール城】 ペリグーからすでにおなじみの国道 89 号線を東に 40km ほど行くとミュ
ゲという小村がある。そこを左折して 15km も行くと、
右手の丘の上に驚くほど美しい城が見える。昔の山城
の跡地に 16-17 世紀に建てられたオォトフォール城 chateau
de Hautefort である。建てられた時代からして容易に
想像がつくが、サントル地方でみたロワールの城と共通すると
ころが多い。著名な城館の建築家ニコラ・ランブールが金持ち
のオォトフォール侯爵の命で建造したもので、立地の条件を
生かした「景観としての城」とでもいうべき傑作である。これに対して庭園とは反対側か
ら描いた上掲の切手 YT-1596 は凹版であるにかかわらず迫力に欠けるきらいがある。
城主のオォトフォール侯爵は金持ちではあるが大変に慈悲深い貴族であったようで、地元住民の
信望を集め、またそれに応えて、住民のための施療院を居城中央の丸天井と同じ形でつく
らせた。こうなると強い絆も生まれるようだ。革命期に国民公会軍がやってきて封建制の
シンボルであるオォトフォール城に攻撃を仕掛けたとき、住民は銅器などを持ち寄って武器を製造し、
革命軍に打ち勝ってしまった。時は過ぎて 20 世紀の初頭、この城はみじめな状態となって
いた。家具動産類は奪われ、空き家同然となった。1929 年という経済の変動期にバタール男爵
夫妻 baron de Bastard が買い取って修復に努めた。しかし、不幸なことに 1968 年に火災で壊
滅し、城壁も黒こげで無残な姿となった。男爵夫妻が再度の再建に立ち上がれたのは、全
国からの支援と住民の力であった。男爵なき後、夫人はこの事業にすべてを捧げ、1999 年
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に死亡した。城はほどなく、見事に復元された。3 世紀以上も前の善行が国民を動かしたと
なると、我ながら熱い気持ちとなった。
ところで、先にこの切手は迫力に欠けるきらいがある、と言った。私としてはただそう
感じたからだが、そのように書く以上は調べなければならぬ。まず、制作者は原図・彫版
ともに Claude Durrens である。彼
は第一級の彫刻家で 1952 年にローマ
賞(彫塑部門)に輝いた人だ。フラン
スではわが国と異なって一流の彫
刻家で美術館や公共施設が競って
委嘱する有名作者が切手の微細な
彫版を引き受ける伝統があるが、
デュランはまさにその一人で、数えて
みると彼の手による切手は 179 点
にのぼった。オートフォール城は 1969 年
の作品だが、なにかおかしい。城の姿を大きくデフォルメして原画を描いたのではないか。人
の目と同じ視角の写真を掲げよう。切手には現実には存在しない塔が 1 つ右端に書き加え
られていることだ。この点についてはレンヌの閑人は手厳しい。デュランは現地に行っていない、
写真をみて描いたが、平凡・単純なフォルムで気に入らない。そこで芸術的にデフォルムしたとい
うのが彼の説である。これは詐欺だが、芸術とはそのようなものさ、そもそも原画を示さ
れた郵政官僚のだれもこの城を見ていないのではないか、官僚とはそのようなものさ。私
はその気持ちはわかるが、と返事をしたが、切手の制作を引き受けたころすでにこの城は
火災で壊滅していたはずだ、となると、改めて現地に行かなければ私に真相が分かるはず
がないと気がついた。おそらく、この城が焼失する以前には右手に塔があったのだろう。
再建するにあたってその部分は割愛して写真のような城としたのであろう。そのように考
えると、現在の姿のほうが端正でよいように思われてきた。15-2-5
【15-2-6 ビロン城】
ドルドォニュ県の南端で色分けでいえば「紫のペ
リゴール」、すでに見たところとの位置関係でいえばモンパジエの南、
直線距離で 6km ほどのと
ころにある。地方のやや大
きめな集落の中にある城
だが、もともとが山の頂上
部分を敷地としたのでそ
の利用の仕方ないし限ら
れた空間にどのように城
館や付属施設を配置して
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いくかは難問であっただろう。領主は 800
年続いたビロンの男爵ゴントォ家
Gontaut,
baron de Biron で、歴代当主が城造りに示し
た関心は後世から見て非常に興味深い。切
手 YT-2763 の絵は、版面を縦に、かつ、斜
め上から見た構図になっているので写真と
つきあわせてみるとよいだろう。全体を構
成する種々の建物はそれぞれが位相を変え
ながらも並列的に配置された要素からなっている。いまだ完成図が見えないながら全体と
しての進化に一定の準則があるように見える。このような多様でかつルールに従った建物群か
らなる城は他に例を見ない。
ところで、ペリゴールの 4
大男爵家として 14 代 800
年の歴史をもつゴントォ家で
はあったが、16 世紀後半、
当主が国王アンリ 4 世による
特別の厚遇に浴しながら再
度にわたって王国の転覆を
企てるという前代未聞の不
祥事が起きた。シャルル・ゴントォ
Charles Gontaut は、はじめ
は国王つきの副官のひとり
であったが、提督から元帥
へ、大元帥すなわち陸軍総
司令官へと昇進し公爵位を授与されても野心は収まらず、
サヴォア公爵やデュミラネ・スペイン総督などと王権を覆そうとす
る陰謀をたくらんだ。これがばれて一切を失うべきとこ
ろ、国王アンリ 4 世の赦免状によって救われたが、またや恩
人たる国王に対して反逆に走り、これも明るみに出て国
王の前に引き出された。国王は再度罪を認めたら赦そう
と言ったが、ゴントォは不遜・強情の態度を貫いた。その
結果バスチーユの刑場で斬首され、公爵位は取り上げられた。
YT-2763
この事件があったのち、ビロン男爵家は本拠をパリに移し、
城は長期間空き家の状態で放置された。その後の当主た
ちもビロンの城には関心が薄く、18 世紀に王家の計らいで
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復帰が許されたのちも修復がはかどらず、逆に競馬場やカジノなどの遊楽施設の経営に資産
をつぎ込んだため男爵家財政は困窮し、城にあった絵画・家具・調度などが海外に流出す
るまでに至った。ビロン城の所有権は曲折を経てパリの弁護士の手にわたり、新たな所有者の
もとで戦後ようやく復旧のめどがつきかけたが、不幸にして 1,970 年代に火災で壊滅的な被
害を受けた。その後最終的な引き受け手がないまま、県が所有権を取得し、ビロンのコミュヌの
手で修復事業が進められ一部は公開されているという。
このビロン城と先に述べたオォトフォール城とはそれらの運命において好対照であった。オォトフォール
城も管理が行き届かないまま盗難などで家具・動産を失い、さらに火災で再起困難な状況
に陥ったことがあったが、その後全国の支援と住民の力に支えられて見事再建を果し、当
主未亡人も念願を果たした。このように考えると、人間は目先の利益で動いてはならず、
まして悪事に走らず、見返りを求めることなく善行を重ねれば報いられるということか、
と多少気弱になったが、ここでレンヌの閑人だったらどういうだろうか、
訊ねてみたいもの
である。
以上でドルドォニュ県の風物・文物と切手の話は終わりである。ミシェル・ド・モンテーニュなどドルドーニ
ュが生んだ偉人、大人、奇人などについてはのちに改めて取り上げることとする。15-2-6
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