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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title サン=テグジュペリに対するコラボラシオンの嫌疑について Author(s) 高實, 康稔 Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1992, 33(1), p.101-110 Issue Date 1992-07-31 URL http://hdl.handle.net/10069/15309 Right This document is downloaded at: 2017-03-31T06:26:27Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第33巻 第1号 101-110 (1992年7月) サン=テグジュペリに対するコラボラシオンの嫌疑について 高實康稔 Sur le Soupcon de 《Collaboration》 a l'egard de Saint-Exupery Yasunori TAKAZANE I誤解と偏見 亡命中の作家活動および1942年11月連合軍アフリカ上陸以後の従軍志願、そし て犠牲的な死へと至る一連の行動があまりにも英雄的なものであっただけに、サン -テグジュペリの亡命は-知識人の逃亡や避難とはみられていない。しかし、単に 「政治ざらい」や敗戦直後の「挫折」、 「絶望」が動機だという見方、1)さらにはヴィ シ-政府のまわし者ではないかという《コラボラシオン》 (対独協力)の嫌疑は早く からあったし、かれの死の謎と同様、 「謎」の部分を残してきた。 「国民的英雄」に 対する中傷を恐れて声高には語られなかっただけである。 最も詳しいとされる評伝を書いたマルセル・ミジョMarcelMIGEOは「ヴィシー派」 との嫌疑について次のように記している。 「サン-テグジュペリは、かれの名声と知性によってフランスの利益のために貢献 してほしいとの期待をこめて、ヴィシー政府が合衆国に派通したのだという見方が ある。 (中略)この説を主張する人々のなかには一流の人物も含まれているが、かれ らは一見もっともな根拠をあげて確信のほどを示している。すなわち、 《1940年8月 5日、サン-テグジュペリはマルセ-ユに上陸したが、文無しだった。ポケットには 3フラン50サンチームしかなかったらしい。それなのに、 11月5日、ヴィル・ダル ジェ号に乗船して北アフリカに渡り、 11日、リスボンに到着している。ポルトガル の首都に3週間滞在した上、合衆国行きの運賃も支払っている。アゲ-を出た後、ヴ ィシーへ行き、 1週間滞在した。これはなぜか。そこで札つきのコラボラトゥ-ル、 ドリュー・ラ・ロッシェルDrieulaROCHELLEと再会してパリまで車に同乗した。リ スボンに向かう前、北アフリカで過ごした数日間に、かれはテリーP.TH丘RY神父と 出会った-パリではモンジーMONZIEやヴェルトWERTHと連れだってよく神父を訪 102 高賞康稔 ねたものだ。神父の言によれば、サン-テグジュペリは「奉仕するというはっきり した意志をもって」アメリカへ発ったということだ。 1942年、 「従軍パイロット」 PilotedeGuerreの出版をドイツ軍は許可した。》というものである。2) ミジョはこの嫌疑に一つひとつ反論しているが、それについては後述するとして、 この疑惑は特にド・ゴール派に根強いものであった。サン-テグジュペリはいかな る党派にも組みせず、それが誤解や偏見を生む原因にもなったし、ド・ゴール派は 出版に対する弾圧すら辞さなかった。占領地において「ヒトラーはバカだ」という 一文のみ検閲・削除のうえ出版された「従軍パイロット」3)は、アフリカでは禁書と なった。また、サン-テグジュペリ自身、 「ヴィシー派」嫌疑に抗議はしたものの、4) そのために自説を歪めるようなことはなかった故に、かえって疑惑を深めたともい える。例えば、連合軍北アフリカ上陸の一カ月後にニューヨーク・タイムズ・マガ ジンに掲載された「フランス人への手紙」 LettreauxFrangaisの中で在外フランス人の 大同団結を訴えながら、ヴィシー派の良心的部分を次のように弁護している。 われわれは異口同音に、独仏協調をとなえる精神を糾弾してきた。しかし、われ われのあるものは、フランスに裏切りの罪をおわせ、他のものは、フランスの立場 に、絶対的恐喝の結果だけを読みとろうとした。たしかに、フランスの破産管財人 は、鉄道客車につかう潤滑油を、いくらかフランス側に譲渡してくれるようにと、征 服者と交渉しなければならなかった。 (いまではフランスには、その町々を維持する ためのガソリンも、馬さえも、自由にはならない。)いずれ休戦委員会の将校が、い つまでもつづくその残虐な恐喝について、語ってくれることであろう。食糧の引渡 しは四分の一にけずられ、六カ月の間に、さらに十万の幼児が死ななければならな かった。人質が銃殺されるとき、その犠牲は栄光に輝く。その死はフランス統一の きずなとなる。だが、ドイツ人が脂肪についての協定をただひきのばすだけで、十 万におよぶいたいけな人質の命が奪われていくとき、なにものもこの沈黙にとざさ れた緩慢な出血を埋めあわせてはくれないのだ。子供たちの死を容認することの代 償とはなんであろうか。そして、子供たちを救うために、どこまで譲歩することが ゆるされるのだろうか。だれかこたえられるものがあろうか。5) これは、対立にのみ目を奪われたり時流に流されずに思想を貫いて歴史の判断を 仰げば良い、完壁な人間がどこにいるのかというサン-テグジュペリの信念に基づ く表白に外ならないが、ヴィシー政権に対する甘い見解という非難は避け難く、 《コ ラボランオン》の疑いを深めたに相違ないのである。 サン-テグジュペリに対するコラボラシオンの嫌疑について 103 Ⅱレジスタンスの状況(40年後半) サン-テグジュペリは敗戦からおよそ5カ月後に亡命の旅に出発した。ド・ゴール との合流でもない限り、国内レジスタンスの道を逸速く放棄したものとの批判も甘 んじて受けるべきかもしれない。レジスタンスの動向が未だ未成熟な段階にあった とはいえ、意識ある者にはその萌芽はすでに十分にみてとれたし、このこともまた 早期亡命と《コラボラシオン卦の関係を疑わせる原因であったと思われる。ミジョ の解説においても、疑惑を主張する人々の口調には早い決断そのものに対する疑念 と不快感が漂っている。そこで、本節では、 《コラボラシオン》の嫌疑に対する考察 の極めて重要な側面として、サン-テグジュペリの亡命当時のレジスタンス状況を 概観するとともに、嫌疑の不当性についても前もって若干の指摘を加えておきたい。 ド・ゴールによるロンドンからの戦闘継続の呼びかけ(6月18日)に先立って、シ ャルトルにおけるジャン・ムーラン(知事)の抵抗がすでに始まっていた(同14日) ように、ナチス・ドイツに対するレジスタンスはいわば自然発生的なものであった。 独ソ不可侵条約(前年8月23日)のあおりを受けて、共産党の本格的な抵抗運動の 開始は独ソ開戦(翌年6月22日)を得たねばならなかったし、 「占領の当初、ドイツ 軍は疑いもなく好感をもたれていた。 《対独協力》には人気があった」6)という事実、 「レジスタンス自体は、けっして最初から光と闇がそれほど鮮明に区別できる世界で はなかった」7)という事実を否定できないにしても、 7月の段階で早くも一部の知識 人(パリ人類博物館のボリス・ヴィルデ、ポール・リグェ教授、ベチューンのシモ ネ夫妻等の教授グループ)や左翼党員(共産党のオーギュスト・アヴェ、社会党の ダニエル・マイエル等)、軍人(マルセ-ユのアンリ・フルネ大尉)などが抵抗組織 の形成に乗り出し、宣伝活動や武器の収集に努めたりし始めたのもまた歴史的事実 である。 「占領下の人への勧め」 (社会党員ジャン・テクシエ著)が地下刊行物とし て書かれたのも7月である。 8月には移民労働者組織MOIも地下組織の形成に着手 し、 「9月中、あらゆる地域で種々の階層のなかで徐々に小規模ながら抵抗グループ が形成されてゆく。カトリック、自由主義者、社会党員、極右、学生」8)というよう に、レジスタンスの基盤は着実に拡大していく。 10月、共産党員の大量検挙や労働 組合活動家の逮捕が相次ぐ中で、極右の「レジオン・デ・コンパタン」 (戦士の師団) と共産党のOS (特殊組識)という左右二つの武装抵抗組識が誕生した。ヒトラー・ ラヴァル会吉炎(10月22日)、ヒトラー・ペタン会談(同24日)が行われる状況下、 「アカデミー・フランセーズにあっては、フランソワ・モーリアックを除くほぼ全員 がペタンを支持していた。なかでもポール・ヴァレリーとクローデルは、ペタンの 最大の崇拝者となっていた」9)という反面、ポール・ランジュヴァン(ノーベル物理 104 高富康稔 学賞受賞者)の逮捕(同30日)がフランスの社会全般に大きな衝撃を与えたのもこ の頃であった。ナチス・ドイツに対する当初の「好感」は急速に薄れ、強要される 物資・食糧の増大に起因する生活難がこれに拍車をかけた。スパイや密告がゲシュ タポの弾圧を容易にするといった一面もなお残されてはいたけれども、以後ますま す抵抗組織が質量ともに充実・拡大していくのは自然の成り行きであった。 サン-テグジュペリが祖国を発った6日後の11月11日には、パリのシャン・ゼリ ゼ大通りで、ガリア(Gaule)とド・ゴールを暗示する釣竿(gaule)デモが学生たち によって行われた。そして、11月から12月にかけて、クレルモン・フェランでは《リ ベラシオン》、リヨンでは《フラン・ティルール》の母体組織、マルセーユでは《コ ンパ》の母体組織が結成され、 「こうして1940年末には、後に南部レジスタンスの 主要な勢力となる三つの大きな運動はすでに存在していた」10)のである。また、北部 の占領地帯においても、 《OCM》 (民事軍事組織)、 《ス-・ド・リベラシオンCeuxde Liberation》や≪リベラシオン・ノール》の母体グループなどが形成されていたこと を見逃すことはできない。 サン-テグジュペリが国内のこうした抵抗運動の萌芽と成長に無知、無関心であ ったとは考えられない。情報重視の姿勢はかれの著作から十分に読みとれるからで ある。ナチスとヴィシーの宣伝網を突き破るように、其の情幸酎ま耳から耳へと運ば れたばかりではなく、かれ自身、 《城砦》を執筆しつつもあらゆる情報の収集とそれ に対する分析・判断を怠ることはなかったに違いない。無残に敗れた戦闘の悲痛な 記憶を背負いながら、世界情勢に対しても、寄せられるさまざまな情報に対しても、 楽観主義や幻想を排して懸命に考察・検討を加える中で自己の歩むべき道を模索し、 「留まるべきか、亡命すべきか」を日夜悩みぬいたといって過言ではあるまい。それ はまさに「人質」をめぐって二律背反する苦悩の選択であった。11)後述のように、サ ン-テグジュペリの亡命はかれの党派性を超えた思想と行動の原理から導き出され た一つの帰結であって、仮に国内に留まっていたとしても党派性の超克という原点 を逸脱することはありえなかったであろう。例えば、左右の大同団結という性格を 堅持しつつも本来的に共産党の提唱・主導下にあった《解放独立国民戦線〉 (41年5 月結成)の一組織《国民作家委員会ComiteNationaldesEcrivains〉の中に、モーリア ック、サルトル、カミュ、エリュアールらと並んでサン-テグジュペリの姿も兄い 出しえたかもしれないが、12)それはあくまでも大同団結を前提とするものであって特 定の党派に組みすることなどありえず、 「抵抗もまたひとつの政策協定という側面を 持ち、しかもそれは等閑視し得るものではなく、まさしく抵抗の本質的構造をなす ものであった」13)が故に、滞米中の苦悩に劣らぬ苦悩をなめさせられ、あらぬ嫌疑を 受けたかもしれないのである。サン-テグジュペリの亡命を対独協力の現れとみる サン-テグジュペリに対するコラボラシオンの嫌疑について 105 のはかれの人間的本質を知らない邪推に外ならない。抵抗の炎の兆しを前にして、真 に超党派の人間的な解放のために血を流すであろう多数の人質たちを予感するとき、 亡命の選択は最も鮮明な二律背反の速巡にかれを陥れたと思われる。 Ⅲミジョの見解 サン-テグジュペリの優れた伝記を著したシュヴリエPierreCHEVRIERの、 ①著作 とそれによる本人および家族の生活費をかせぐため、 ②祖国解放軍ができた暁には それに参加するため、という見方を紹介して、前者はともかく後者を亡命の動機に 数えるのは予見性の上から無理があろうと述べ、次いで、ヴィシーの派遣者との主 張について、 「サン-テグジュペリは抗議した。こうした申し入れはありえないこと ではないが、あったとしてもかれは断ったに違いない」として、主張者たちの論拠 に反論を加えている。すなわち、 ①渡航費の件は、その気になれば友人から借りる ことも印税の受取りや前払いさえもできることで、大金を所持していなかったこと は確実、 ②出発前のヴィシー行きは、パスポート取得に奔走する必要があったから だ、③ドリュ-・ラ・ロッシエルとの出会いは偶然であって、他にも多くの友人と 会っている、 NRFを通して旧知の間柄で、パリまで同乗させてもらったのにすぎな い、 ④ 「奉仕の明確な意図」とは、米国民に祖国の状況、戦争においてフランスが 払った犠牲を認識させたい熱意以外にはなく、 「従軍パイロット」の出版と内容がそ のことを実証している、 ⑤同書の検閲パスに特別の意味はなく、ドイツ軍にとって は対独非難文書でない限り、フランスの失態と無益な犠牲による幸運な勝利を暴露 したものであろうと一向に不都合ではなかった、米国の参戦と同時に禁書となった のは著者の従軍を予測してのことだ、 ⑥そもそもヴィシーはスペイン通過証の発行 を拒否し、それ故にモロッコ経由でポルトガルに入る不便を余儀なくされたではな いか、というものである。 《コラボラシオン》の疑惑をこのように否定した後、ミジョはサン-テグジュペリ の亡命の意図と決断の苦悩についても考察している。概略を述べよう。ドイツ軍の 猛攻撃に多数の戦友を失った敗戦に動転させられ、一切希望のもてない世界情勢を 見つめながら、故郷アゲ∼で二カ月を過ごしたが、移住癖のあるかれにとっては長 すぎるこの二カ月間に「立ち直り、行動の欲求を再発見」して、 「書きながら生きる」 ためには米国亡命しか道はなく、 「祖国の町の暗い夜」を離れるべきか否か思案した。 米国では「夜間飛行」、 「人間の土地」の出版以来知名度も高く、エディターとも親 しい。アゲ-でもヴィシーでもドイツ人を見ることはほとんどなかったが、境界線 を越えパリに入ると首都を汚す軍靴の音に耐えられず、 「占領下のフランスで暮らす 高音康稔 106 ことはもはやできない」と痛感して最終的に亡命を決意した。しかし、食糧不足の 中、妻コンシュエロと老いた母を残して旅立つことに「精神と物質の衝突からくる 矛盾には慣れている」かれも苦悩したに違いない。故に3週間いたリスボンで多数の 逃亡者を目撃したとき最後の躊曙にとらえられ、例の親密なる女友だちに「引き返 すべきだろうか」と手紙を書き、決行すべきだというかの女の後押しが決め手とな ったのだ。14) 以上がミジョの見解であるが、要するに、一種の絶望を体験した行動作家が「書 きながら生きる」15)ために母や妻を残してあえて亡命し、そこで「従軍パイロット」 を書くことによって祖国に奉仕しようとしたというものである。ただし、米国の傍 観者的態度に対する批判や参戦の訴えについては幻想も楽観も抱いてはいなかった とつけ加えている。 Ⅳ党派を超えたイデー:コラボラトウールとの異次元性 ミジョの見解は、単に亡命の疑問に答えているだけではなく相当に説得力があり、 とりわけ敗戦直後の《衝撃》を短絡的に亡命の動機とみる誤解は十分に解いてくれ る。しかし、サン-テグジュペリの人と思想が亡命という行為の選択に深くかかわ っていることを思えば、なお表面的な推理の域を出ないように私には思われる。 「書 きながら生きる」という意図、ドイツ軍による探欄に「占領されたフランスで暮ら すことはもはやできない」16)という動機、飢餓の脅威にさらされた祖国に愛する家族 を置きざりにする苦悩などは同情的、通俗的で底が浅く、出版の意図にしても内容 に照らしてより深刻に受けとめる必要があると考える。 1940年後半の政治状況が 「絶望」の一語で片づけられているのも問題であろう。17)そこで、亡命の真意を人と 思想の両面からとらえる探求を試みる必要があるが、 「挫折・絶望」という見方や「飢 餓の脅威」といった見方18)の誤り、さらには苦悩の末に到達した「亡命の決断」等 については稿を改めて論述することとし、本稿では、最も不名誉な「謎」の部分、す なわち《コラボラシオン》の嫌疑について、その不当性を明らかにすることとした い。 第二節で概述したように、敗戦直後にもすでに抵抗の萌芽は見えていた。ロンド ンに亡命したド・ゴールの呼びかけもあった。サン-テグジュペリは国内レジスタ ンスに身を投ずる道を選択しなかったし、亡命後も「自由フランス」に組みするこ とはなかった。ヴェルトが言うように「サン-テグジュペリの言葉は、互いにけな しあっていた諸党派やグループのどれかひとつの言葉ではなかった。かれはけっし サン-テグジュペリに対するコラボラシオンの嫌疑について 107 てカェルの沼やカニかごにたいする嫌悪をかくさなかった」19)のである。そして、こ の態度がときとして不和を招くことにもなった。 「それはかれらの出発点、かれらの 落下点が、けっしてかれのものではない貧しい世界に属していたからであった」20)と ヴェルトはきっぱり言っている。サン-テグジュペリはなぜ党派を嫌い、ド・ゴー ルとも連帯しなかったのであろうか。アルベレスR.-M.ALB丘R主Sが言うように「か れは政治を知らない」21)のではない。 「出発点」、 「落下点」が違うのである。レジス タンス時代の左右大同団結の求心力はいうまでもなく《パトリオチスム》であった し、それは《ェスプリ・フランセ》の偶像でもあったが、マルキストでさえもほと んど疑問を感じなかった。しかし、サン-テグジュペリは敗北を認めようとしない 《フランスの栄光》にも熱狂的な愛国心にも、急場の貧弱な発想と熱病のような危険 性を見抜いていた。 「個々人を通して見つめられてきた《神unPrince》への尊崇と、そ の上に築かれるべき人間関係の高貴性を救うために、私の文明はこれまでも相当な エネルギーと精神を費やしてはきた。 《ヒューマニズムHumanisme》の努力はことご とくこの目的に向けられた」、22)しかし、今や、 《普遍的人間Homme》が払うべき犠 牲をなおざりにし、 「石材の総量を大聖堂と取り違える」23)ほどにまで「私たちは、次 第に祖先からの通産を失うに至った」24)と言うとき、サン-テグジュペリは《エスプ リ・フランセ》の危機とそれを招いた自己の責任を自覚している。すなわち、死者 に死者の位置を与えて生者との関係を築き直すように、敗北を敗北と認めて再生へ の契機を探る必要を説いている。また、 「愛国心の中にある種の文明的価値を擁護す るのは当然だと思う」25)が、しかし、移民を排除したりする「20世紀のこの愚かな 愛国心は、もはや下らぬチーム根性にすぎず、其の血縁を顧みることなく同色のジ ャージーに支配されたチームの熱狂と変わるところがない」26)、 「祖国とは精神の世襲 財産」27)であり、 「私は人類espとceを愛しているのだ」28)と、愛国心には二義的な価 値しか与えていない。 レジスタンスのイデーを一般的に要約すれば、 《フランスの偉大さ〉や《屈辱の拒 否》29)は筆頭に置かれるものであるが、サン-テグジュペリのレジスタンスのイデー は、これらを超える、より深い責任の理念に根ざしていたのである。 さらに、党派的活動に対する嫌悪感については、 「党派を維持したいというかの無 分別な欲望は控えるがよい、なぜなら党派なるものは衰微deg6n6rescenseに外ならな いからだ。フランスの愛国者がヒトラーを擁護し、しかもかれから殺される羽目に なるのも党派精神のせいだ」30)という本質的な指摘をはじめ、随所に語られている。 そして、 「フランスの民主主義的な小市民はおそろしく孤独だ」、31) 「大衆masseはエ リートよりも優先されるべきか。否。物質や生活水準は精神よりも優先されるべき か。否。論理は人間のある種の非合理的なものuncertainirrationnelよりも優先される 108 高賓康稔 べきか。否、断じて」32)とも「手帳」 Carnetsにとどめているように、かれの党派性批 判には、市民、大衆、民主主義といった概念や制度を「人間そのものがその個々の 思想以上に専敬されるべき文明」33)にとって絶対的なものとは認めていなかったこと が根底にあるであろう。その上、ルポルタージュ「モスクワ」 (1935年)の執筆者サ ン-テグジュペリは、方々でマルクシズム批判を展開しているが、その根本的理由 は人間の否定・抹殺-事物の神格化ということであり、一言でいえば、 「われわれ人 間は肥育される家畜ではない」34)という全体主義に対する痛烈な批判である。 「ある 者は大衆を愛するが故に左翼である。が、私は大衆を愛さないが故に左翼なのであ る」35)とも記している。これは『私は右菓ではない』といったニュアンスにしか受け とれないが、ヒトラーとスターリンを同類とみなして批判するほど左右の全体主義 には手厳しかった。例えば、 「スターリン的な-もしくはナチズム的な一正義に従え ば、社会的に損失となる人間は抹殺される」36)という「手帳」の一節は、サン-テグ ジュペリがスターリニズムとナチズムとを同一視(西欧的正義との対比において)し ていたことを端的に示している。ジッドに劣らぬこの憲眼もまた国内レジスタンス の道からかれを遠ざける結果となった奥深い背景をなしていると思われる。 以上みてきたように、国内レジスタンスに留まらなかったことやド・ゴール派に 組みしなかったことは、かれ独自の高いイデーを基盤とする必然的な分岐であり、そ れは《コラボラシオン≫とは全く次元を異にする、いわば思想的分岐であった。嫌 疑そのものが笑止の極みという外はない。しかし、それ故にこそ、この不当な嫌疑 は、ファシズムの打倒と人間の尊厳の回復という共通の目的をめざしてたたかう亡 命中のサン-テグジュペリを深く傷つけ苦しめたのである。私たちは、かれの耐え がたく痛む当時の心情を、親友ヴェルトに宛てた「ある人質への手紙」の中に、次 のような控え目な表白として兄い出すことができる。 ぼくがもしも何らかの党派的情熱に閉じこもるとすれば、それは一つの危険をお かすことになる。つまり、政治というものはある精神的な真理のために役立ってい る場合に意味があるのにすぎないということを忘れるかもしれないのだ。 …ぼくたち は人間の尊重を築きたいと願っている。なのに、なぜぼくたちは同じ陣営の中で憎 みあったりするのだろうか。...ぼくも自分が選んだ道のために、他人の選んだ道と争 うかもしれない。他人の理性の歩みを批判するかもしれない。理性の歩みは不確か なものだ。しかし、その人が同じ星をめざして苦労しているのならば、ぼくは《精 神卦の面においてかれを尊重する義務がある。 …論戦や排他主義やファナチズムには もううんざりしている!…きみのそばでなら、身のあかしを立てる必要なんかない、 弁解する必要もない、証明する必要もない。 …あるがままのぼくを受け入れてくれて サン-テグジュペリに対するコラボラシオンの嫌疑について 109 ありがとう。ぼくを裁く友だちには、いったいどうしたらいいのだろう。37) 註 1) 「ある人質への手紙」の印象や伝記類の表面的な解説からくる誤解。高音「サン-テグジュペリの亡命 における二律背反の不可避性について」 (長崎大学教養部紀要Vol. 32, No. 2,pp. 11ト123)参照 2 ) Marcel MIGEO, SAINT-EXUPERY, Flammarion, 1958, p. 222 3 ) Luc Estang, SAINT-EXUPERY, Seuil, 1956, p. ll -.Le livre parait en France la msme annee avec seulement quatre mots censures : 《Hitlerest un idiot≫. 4 ) MarcelMIGEO, op. cit,, p. 222 5)サン=テグジュペリ著作集6 「人生に意味を」 (渡辺-民訳、みすず書房1968)pp.209-210 6)海原峻編「レジスタンス」 (平凡社、 1973)p.9.なお、本節のレジスタンス概観は、この書の「解説年 表」に拠っている。 7)同上書p.12 8)同上書p.10 9)同上書p.ll 10)同上書pi2 ll)前掲拙論および高賓「サン=テグジュペリの亡命に関する一考察」 (九州フランス文学全「論集」 1992) 参照 12) Jacques Deb凸-Bridel, la Resistance Intellectuelle, Julliard, 1970, p. 59.この委員会には、他に、 Jean Paulhan, Jean Guehenno, Charles Vildrac, le R. P. Maydieu, Jacques Deb凸-Bridel, Andre Rousseaux, Raymond Queneau, Jean Blanzat, Pierre Seghers, Andre Frenaud, Jean Lescure, George Adam, Roger Giron, Raymond Millet, Pierre Leyris, Claude Morganなどの顔ぶれがそろっていた。 13)海原峻編前掲書p.330 14) MarcelMIGEO,op. cit.,pp.221-225.なお、最後の決断の後押しをした女友だちとは、 ReneeZellerのペ ンネームで後日《La Vie Secrete d'Antoine deSaint-Exupery》 (Alsatia)を著わした女性である。 15) Marcel MIGEO, op. cit., p. 224. Mais ll fautvivre. Vivre en ecrivant. 16) Ibid.,p.224 17) Ibid., p. 223. Si, en 1940, Saint-Exupery quitte la France pouraller aux Etats-Unis, c'est bien parce que la defaite I'a bouleverse, et aussi a cause du doute qu'elle a mis dans son esprit. Nous sommes battus et il a peu d'espoir, alors, dans un retoumement de la situation. 18)ミジョは「飢餓の脅威」を亡命の主要な動機とはみていないが、 P.CHEVRIERは、飢餓の歴史的事実 や、サン=テグジュペリ自身の言葉r隷従の陰欝な雰囲気と飢餓の脅威J'avais connu, deretourchezmoi, /a morne atmosphere de I'esclavage et la menace de la famine (SAINT-EXUPERY, (Euvres, B. de la Pleiade, Gallimard, 1959,p.391,LettreムunOtage)Jを根拠として、主要な動機に数えている0 19)サン-テグ'ジュペリ著作集別巻(みすず書房1969):レオン・ヴェルト「わが知れるままの」 (山口三夫 釈) pp. 261-262 20)同上書p.262 21)アルベレス著「サン=テグジュペリ」 (中村三郎訳、白馬書房1970)p.187 22) A. DE SAINT-EXU沌RY, auvres (B. de la Pleiade), Gallimard, 1959, pp. 376-377 (Pilote de Guerre) (本書は 以下auvresと略記する) 23)ォ24) Ibid., p. 378 (PilotedeGuerre) 高音康稔 110 25) A. DESAINT-EXUPERY, CARNETS, Gallimard, 1975, p. 155 (本書は以下CARNETSと略記する) 26) Ibid.,p.251 27) Ibid., p. 180. Patrie, c'estpatrimoine spirituel. 28) Ibid.,p.251 29) H. MICHEL et B. MIRKINE-GUETZEVITCH, LES IDEES politiques et sociales DE LA RESISTANCE, PUF, 1954, p. v. Un esprit de ref us : refus du d&shonneur, …Un acte de foi : lafoi dans la grandeurfrangaise, ‥ 30) CARNETS.p.35 31) Ibid.,p.67 32) Ibid.,p.43 33) Ibid., p. 250. Je dis : une civilisation de I'homme est respectee au-dela de ses idees. 34)旺uvres, p. 402 (Lettre a un Otage). Mais nous ne somtnespas un betail a I'engrais. 35) CARNETS,p.251 36) Ibid.,p.228.続けてサン-テグジュペリは「船の水先案内人だって消される。けれども西欧的正義に 従えば、かれの内面の祖国、かれの船のよき特質、夕食のテーブルにおけるかれの君臨などに免じて、か れは釈放される。人間はその重さも長さも測れるものではないからだO荊者(スターリニズムやナチズ ム)の誤りは人間を測定できると考えるところにある」と記している。 37) CEuvres, p. 404-405 (Lettrea un Otage)より抜粋。 (1992年4月30日受理)