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2006 年( 平 成 18 年 )
1 月 1 日日曜日(毎月 1 日発行)
1 部 50 円(消費税込・送料別)
発行所/天台宗出版室
発行人 / 出版室長 工藤 秀和
〒520- 0113 大津市坂本4- 6- 2
天台宗務庁内
電話 077-579-0022(代)
E メール/ [email protected]
前には、一千二百年に亘っ
続けています。
て三つの﹁法の灯﹂が輝き
光つたへよ
法の灯﹂
み世までも
﹁あきらけく
後の佛の
ったのに、未来佛である弥
陽はすでに西に沈んでしま
ず﹂と﹁お釈迦様という太
れて、慈尊の月未だ照らさ
に安心を与え、勇気づけて
灯明﹂として、常に私たち
御 心 そ の も の で あ り、﹁ 法
です。それは、宗祖大師の
とって心の拠り所となる光
天台宗の宗歌でもあるこ
まだ出ていない﹂と嘆かれ
勒菩薩︵慈尊︶という月は
法の灯は、私たち宗徒に
の歌は、宗祖大師が十九歳
法の不滅を願われたのでし
その前に灯明を点ぜられ、
自ら薬師如来を刻まれて、
の根本中堂︶を建てられ、
宗祖大師は一乗止観院︵今
われたものです。その時に
ゆくようにという願いが込
照らし、人々を救い続けて
の教えが、後々の世までを
まになれるという法華一乗
法の灯には、誰でもが佛さ
この弥勒菩薩のことです。
て い ま す。﹁ 後 の 佛 ﹂ と は
も比叡山根本中堂ご宝前に
え ず の 灯 ﹂ と し て、 今 日
めています。法の灯は﹁消
を読誦して寺院護持につと
灯﹂のつもりで灯し、経典
は い つ も 比 叡 山 の﹁ 法 の
き、ご本尊様に捧げる灯明
私は、自坊で勤行すると
くれます。
で比叡山に登られた時に詠
た。
山 す る 時 に 誓 わ れ た﹁ 願
のご本尊である薬師如来宝
以来、比叡山の根本中堂
についても西郊内局の方針を
負を語った。︻三面に関連記事︼
宣布に努めていきたい﹂と抱
谷
晃昭 ︵たに・こうしょう︶
す。
あかあかと輝き続けていま
められているのです。
文﹂で﹁牟尼の日久しく隠
宗祖大師は、比叡山に入
暦寺副執行の小林祖承師、法
動総本部長の壬生照道師、財
受け継ぎ、お大師様のみ心の
昭和二十三年生まれ、五十七
の山本亮裕師、教学部長に天
台宗宗議会議員で関東の宗政
職。大正大学仏教学部卒。
︿宗
中新総長は﹁天台宗として、
て記者会見が開かれ、席上濱
親授式の後、宗務庁におい
住職。明治大学政治経済学部
歳。僧正。滋賀教区金剛輪寺
昭 和 十 四 年 生 ま れ、 六 十 六
濱中光礼 ︵はまなか・こうれい︶
運動総本部長
員、宗務所長、一隅を照らす
卒。︿ 宗 内 職 歴 ﹀ 教 区 議 会 議
寺住職。大東文化大学文学部
歳。権大僧正。信越教区隣政
昭 和 十 四 年 生 ま れ、 六 十 六
員、教区布教師会会長
卒。︿ 宗 内 職 歴 ﹀ 教 区 議 会 議
寺 住 職。 大 正 大 学 仏 教 学 部
歳。権大僧正。栃木教区龍泉
昭 和 十 七 年 生 ま れ、 六 十 三
源田俊昭︵げんだ・しゅんしょう︶
本部次長、宗議会議員三期
内職歴﹀一隅を照らす運動総
歳。僧正。群馬教区西光寺住
歴は次の通り 。 ︿敬称略﹀
濱中総長及び内局参務の略
会派新成会幹事長の谷晃昭
照らす運動総本部長に関西の
師会長の源田俊昭師、一隅を
宗政会派道興会会長の秋吉文
しっかり足下を見つめて四年
児童・主任委員会会長、教区
卒。︿宗内職歴﹀天台宗民生・
隆師がそれぞれ就任した。
間職責を全うしたい。一宗に
壬生照道 ︵みぶ・しょうどう︶
師、社会部長に栃木教区布教
事務局幹事、延暦寺副執行
務部長に前岡山教区宗務所長
人部長には前一隅を照らす運
新内局は、総務部長に前延
任期満了に伴い昨年十一月に行われた宗務総長選挙で選出された、
濱中光礼新宗務総長の新内局が、昨年十二月十二日発足した。滋賀院
門跡において新内局の親授式が行われ、渡 惠進天台座主猊下から濱
中総長と新内局に辞令が手渡された。任期は四年。
12
山本亮裕︵やまもと・りょうゆう︶
歳。僧正。九州東教区文殊仙
昭和二十四年生まれ、五十六
秋吉文隆︵あきよし・ぶんりゅう︶
議会議員、宗議会議員二期
は寺院運営上、苦労を重ねて
いる寺などもあり、教区とも
昭和二十一年生まれ、五十九
良く意志疎通を図り、全ての
小林祖承 ︵こばやし・そじょう︶
寺院住職が僧としての活動が
存分に出来るように支えてい
寺 住 職。 大 正 大 学 仏 教 学 部
宗議会議員四期
卒。︿ 宗 内 職 歴 ﹀ 教 区 監 事、
歳。僧正。岡山教区高福寺住
職歴﹀教区主事、教区宗務所
職。 叡 山 学 院 本 科 卒。︿ 宗 内
長二期
昭和二十三年生まれ、五十七
院住職。叡山学院専修科卒。
歳。大僧都。延暦寺一山止観
︿宗内職歴﹀祖師讃仰大法会
きたい。開宗千二百年大法会
月 日、滋賀院で親授式が行われた
写真左から小林総務部長、谷教学部長、壬生法人部長、濱中宗務総長、
源田社会部長、山本財務部長、秋吉一隅を照らす運動総本部長
12
第 34 号
平成 18 年1月 1 日 日曜日
毎月 1 回発行
(毎月 1 日付)
(平成 16 年 4 月 20 日第三種郵便物認可 郵業認第1号)
1
2
平成 18 年1月 1 日 日曜日
(第三種郵便物認可)
第 34 号
新年明けましておめでとうご
る ﹂ と し る し ま し た。﹁ 大 乗 円
精神こそ私たちの指針﹂とし
頓戒の真俗一貫自利利他兼済の
て、
宗徒・檀信徒一丸となり、﹁一
大法会事務局員等の関係者に深
天台宗並びに延暦寺で組織する
戒め、他を許し助けるとの大乗
澄上人のみ教に即して、自らを
の極みなり﹂との、伝教大師最
﹁己を忘れて他を利するは慈悲
より檀信徒総授戒、総登山運動に
恩に報い奉るべく、平成十五年度
私ども宗徒一同、宗祖大師の鴻
ると信じます。
により宗祖大師への報恩の道であ
は我々天台宗徒の勤めであり、な
人々に、強固な道心を育てること
れておられます。混迷する現代の
ま た、 総 授 戒 運 動 も、 す で に
甚の感謝を申上げます。
菩薩の道を進むことこそが、伝
には、一カ月間をかけて慶讃大法
邁進してまいりました。昨年十月
隅を照らすこれ即ち国宝なり﹂
さて、
年頭にあたり、
改めて、
教大師最澄上人への真の報恩感
二万三千人を超える人々が授戒さ
宗祖伝教大師最澄上人が立教開
謝になると思います。
謹んで新年のお慶びを申し上げ
宗の志を立てられた時のみ心を
ます。
拝察するに、この慶讃大法要の
した。魔事なき円成に安堵する
をいただいて盛大に厳修されま
有縁の二十六教宗派の慶祝法要
天台宗内の慶讃法要に加えて、
法要が、昨秋、十月の一カ月、
天台宗開宗千二百年慶讃の大
法華一乗の妙義に即して国宝的
示に﹁宗祖立教開宗の趣意は、
過日、宗内各寺院に配布の諭
が、大事であると考えます。
の布衍・実践に勤めることこそ
の心にしっかりと受け止め、そ
の求願されたみ教えをそれぞれ
ないでしょう。青年僧最澄上人
大円成をもって満足すべきでは
ようにお祈り申上げます。
共に、新年がより良い年となる
むことによって、世界の人々と
ょう。その示された道を日々歩
性を明示したものといえるでし
じる、人としての有るべき方向
ず、広く社会の全ての人々に通
の み 教 は、 天 台 宗 内 の み な ら
また、この伝教大師最澄上人
等々の奉納も頂き、大成功の裡に
慶讃の法要を勤修され、伝統芸能
し、二十六教宗派の方々が、報恩
王同妃両殿下の御参拝を忝のう
期間中、比叡山に秋篠宮文仁親
ございます。
したことは記憶に新しいところで
を比叡山で厳修させていただきま
す。
解とご協力をお願い申し上げま
これからも、皆さまの変らぬご理
を鮮明にしようとしております。
ルし、現代に生きる天台宗の姿勢
れ、国際社会に不殺生戒をアピー
ことを検討する委員会も設置さ
は、宗憲に平和の誓いを規定する
会の精華とも申すべき慶讃大法要 更に天台宗宗議会におきまして
とともに、その間法要にご登叡
人材を輩出し、この真俗一貫の
ざいます。
いただいた宗徒、宗内檀信徒の
菩薩衆による仏国土の建設にあ
とは、誠にご同慶に耐えません。
界の平和と仏法の興隆を提唱され
会の諸法要を統括され、内外に世
祈念して御挨拶といたします。
大法要を終わらせて頂きましたこ 本年も皆さまの変らぬご健勝を
方々をはじめ、各教宗派の諸大
ます。
受け継いでいることを誇りに思い
合
掌
徳、そして法要・行事を支えた
現するためには、皆さんの偉大な
お言葉にふれられ﹁世界平和を実
教師である最澄のこの慈悲の精神
台宗の歴史を、皆さまと共に精進
き締まる思いで新しい年を迎えま
務総長の大役を拝命して、身の引
いご支援を頂き、座主猊下より宗
す。旧冬、有権者の皆さまの暖か
明けましておめでとうございま
に天台宗は開宗されたのでありま
二十五︵八○六︶年正月二十六日
を な さ れ ま し た。 こ う し て 延 暦
目 指 し て、 時 の 桓 武 天 皇 に 請 願
立と法華一乗による人材の養成を
う誓願を起こされ、大乗戒壇の設
国土にしていかねばならないとい
るといわれておりますが、信仰を
取りまく環境は厳しさを増してい
社会構造の変革に伴い、寺院を
活躍を大いに期待申し上げます。
がご就任されましたが、今後のご
務総長の後任として、濱中光礼師
を全うして退任された西郊良光宗
した。どうぞ、よろしくお願いを
として慶賀にたえません。
世 界 を 導 く 真 理 を、 我 々 天 台 宗
ます。
しながら刻んでまいりたいと存じ 去る十二月十二日、四年の任期
ておりますこと、我が宗門の誇り
徒は宗祖伝教大師最澄上人より
が重要です﹂と述べられました。 新しい年を迎え、これからの天
千二百年も前に授けられ、連綿と
申し上げます。
につけ、宗祖伝教大師最澄上人が
め、総登山総授戒の諸行事も更に
と な り ま す が、 祥 当 法 会 を は じ
す。本年は開宗千二百年祥当の年
大師最澄上人が法華経の﹁すべて 私は、現代の国情の乱れを見る 明けましておめでとうございま
す。
ぬとの思いを新たに致しておりま 総登山総授戒を始めとする開宗
宗の御精神を敷衍しなければなら
の具現化をめざし、宗祖大師の開
た第二百五十五世渡
惠進天台座
主猊下には、益々ご健勝にて大法
春のご挨拶といたします。
て、更なる寺院の発展を期して新
千二百年慶讃大法会の展開によっ
です。
とした活動の展開こそ何より急務
千二百年前に示された﹁己を忘れ
基盤とした寺檀の結びつきを中心
の人が仏に成れる﹂という教えに
て他を利する﹂というご精神こそ
す。
よって天台宗を開かれてから、開
本年一月二十六日に、宗祖伝教
宗千二百年の節目の年を迎えま
継続されます。
して﹁あなたの中の仏に会いに﹂
本年九十六歳の嘉辰を迎えられ
重要であると存じます。前のロー
は、日本の宗教者を前にしてこの
マ 法 王 ヨ ハ ネ・ パ ウ ロ 二 世 聖 下 新春に当たり、宗徒、心を一に
す。
宗祖伝教大師最澄上人は、日本
全土を大乗の精神によって、浄仏
平成 18 年1月 1 日 日曜日
(第三種郵便物認可)
第 34 号
3
林が残り、マンリョウが咲き、丘から
わずかな面積とはいえシラカシの原生
所が横浜市内の県立四季の森公園だ。
あーと、想いを巡らせるには絶好の場
の原野はかつてこうだったのだろうな
乱開発の始まる前の武蔵野から相模野
いにしえ、といっても
った。
はかつて相模国の原野だ
筆者の住む横浜の郊外
十両。ついでながら一両はツルコウジ
カラタチバナが百両で、ヤブコウジが
も書くが、千両のほうが通りがよい。
れた名前が万両。センリョウは仙蓼と
品が紹介されている。そのころつけら
培熱が高まり、五十種類を越える園芸
代の天保年間にはマンリョウなどの栽
種が糞に混じり地上に落ちる。江戸時
とく見つけた野鳥がついばんだあと、
を葉に隠れるようにつける姿だ。めざ
野の花が枯れた冬の季節に真っ赤な実
にして、宗政を進めたい。
おり、宗祖大師のお心を大切
点で宗門を考えたいと思って
門出に当たって、新しい視
た。
き、濱中内局をスタートさせ
きたい﹂というお言葉を頂
の進むべき道を取り纏めて頂
とした世相であるが、天台宗
座主猊下より﹁非常に混沌
活躍できるのだ、という支え
う人々にも天台宗寺院として
影響を与えたと思う。そうい
そのことは私の人生に大きな
もなく、兼職で寺を維持して
選挙を通じて、檀家も信者
あることを目標にしてゆく。
聴しつつ、穏やかな天台宗で
い。皆さまの意見を充分に拝
繁殖した。マレー半島やインド、中国
かけるマンリョウの実はほとんどが栽
や鉢物としての需要が多く、正月に見
正月の床の間を飾る縁起物の生け花
より、どのようにすれば、よ
を踏襲してゆく。法要はもと
ついては、前西郊内局の方針
開宗千二百年慶讃大法会に
ていきます。
に、展覧会の魅力を紹介し
感じている。
を与えることが私の使命だと
いる住職の声を多く聞いた。
の伏流水が池に注いでいる。
という赤い実だ。
にもあって、我が国には江戸時代の初
培品だといってよい。
マンリョウはもともと暖かい地方で
めに渡来したらしい。
ことが出来るかを模索中であ
り宗祖大師のみ教えを広める
植物学上の分類ではマンリョウはヤ
ブコウジ科、一見よく似ているセンリ
では、東京上野・寛永寺の
を見直して四年間仕事をした
背伸びせず、力まず、足下
る。
ョウはセンリョウ科の植物だ。
七月に花弁の先がとがった小さな白
い花が咲くがマンリョウの真骨頂は、
薬師如来像をはじめとし
て、岩手・中尊寺や栃木・
より、展示品の解説を中心
物を多数展示します。次号
関東・東北地方の秘仏・宝
会場では出展されなかった
葉・松虫寺などから、京都
輪王寺、埼玉・慈光寺、千
いの﹂と抗議された住職
う。
﹁ あ れ、 違 う ん じ ゃ な
場でも、総本山比叡山延暦
工藤
秀和
のようにこれで消えてしま
本年は、桓武天皇の勅許
院に伝わる仏像や仏
寺をはじめ天台宗関係寺
前天台宗出版室 長
うわけではありません。ま
さん、もっと勉強しますか
を受けて天台宗が開宗して
窓の雪
を書いています。任期満了
送別会の日に、この原稿
た、 機 会 が あ れ ば、 書 か
から、ちょうど千二百年に
蛍の光
で、故郷の山形に帰ること
ら、お許しを。
一堂に展示します。
送別会を開いてくれた出
天台宗の幅広い信
せて頂くこともあるでしょ
国立博物館、天台宗、比叡
う。読者の皆さま、どこか
山 延 暦 寺、 天 台 宗 京 都 教
を堪能していただく
仰が育んだ美の世界
になりました。このコラム
いわれて、久しいけれど、
区、読売新聞東京本社は、
と共に、これら名品
を西郊前総長から引き継い
真剣にやればまだ捨てた
﹁最澄と天台の国宝﹂と題
の 数 々 を 創 り 上 げ、
の宝物約百七十件を
ものじゃなかったことは、
し、天台宗の仏教美術展を
画、経典、書跡など
ある、諸行無常の教えの通
出会いがあれば、別れが
月々の反響から体で感じま
開催します。本展は、昨秋、
あたります。この節目の年
読下さった読者の皆さまに
りですが、責任を果たして
したよ。
版室の諸兄弟諸令嬢、頑張
心から御礼申し上げます。
ホッとしていることも、ま
次号からは、新しい出版
で、お目にかかったら気楽
四年間天台宗務庁に勤務
た実感です。後に続く人の
人たちの真摯な想い
祈りを捧げてきた先
で、十九回連載させていた
させて頂き、色々な思い出
ために井戸を掘ることが出
京都国立博物館で開催さ
を感じ取っていただ
を記念して、この春、東京
が出来ました。天台宗の広
室長が、鬼手仏心を担当し
れ、約八万二千人もの入場
ければ幸いです。
れ。文字離れ、活字離れと
報紙として本紙の創刊に拘
来たのだとしたら、少し良
ます。より一層のご支援、
者を記録し好評を博した同
に声をかけて下さい。
わったことは、有り難いこ
い気持ちで自坊に帰ること
ご愛読をお願いします。
さらに、東京会場
だきました。ご支援、ご愛
とでした。
ができます。
題の展覧会の巡回展です。
﹁蛍の光
窓の雪﹂とい
京都会場と同様、東京会
てるじゃない﹂と言ってく
﹁ 今 月 は、 い い こ と 書 い
朝は別れゆく∼﹂
。
それでは﹁明けてぞ、今
うところでしょうか、故郷
れ た お 婆 ち ゃ ん、 有 り 難
の雪に思いをはせていると
ころです。といっても、雪
平成十六年十月二十三日に起こった新潟県中越地震から、一年以上が過ぎた昨
されることはないが、現地では今も余震が続き、なお仮設住宅暮らしを余儀なく
年 十 一 月 に、 被 害 が 深 刻 だ っ た 川 口 町 と 小 千 谷 市 の 寺 院 を 訪 ね た。 あ ま り 報 道
されている住職もいる。道路などのインフラもようやく応急処置が終わった段階
で、本格的な復興は、今年からになりそうだ。地域住民が励まし合って、明日に
ている。家屋などの復旧建設工
規制をして震災復興工事が続い
も長岡から六日町までは一車線
時のままである。関越自動車道
割れや崩れなど、多くは震災当
急処置はなされているが、ヒビ
口町では、生活道路などは、応
被害が大きかった北魚沼郡川
分の足で立ちたいと思っ
誰もができることなら自
と分析する人もいるが、
ようとする気風がある﹂
人に迷惑をかけずに生き
国の人は、できるだけ他
う と し て い る の だ。﹁ 雪
もある。みな、自立しよ
そのまま教区に返す寺院
つなげようとしている。
事 は、 工 事 関 係 者 の 人 出 不 足
なぐ人ばかりではない。
だが、未来に希望をつ
ているのだ。
ある。道路には、青森や千葉、
で、半年から一年待ちの状態で
山形といった他府県ナンバーの
マスコミでは、もうほとんど
する新しい命の誕生である。
報道されることもないが、現地
いている。小千谷市岩沢町の龍
ではまだ震度三程度の余震が続
道は、まだ崖崩れで抉れたまま
覺院︵渡辺覺忍住職︶へ至る山
になっていた。渡辺は﹁正月行
ましたが、雪がひどくて四㍍ぐ
事は、それなりにさせてもらい
リをしました﹂という。半寺半
らい積もった。十回ぐらい雪ホ
農で、田んぼもやっているが、
継者がいないところに、震災で
日に地震被害にあった十日町・
明るい話題もある。結婚式当
守り、村人と共に仏を護ってい
それでも、元気なうちは寺を
疎の村で四件は、こたえます﹂。
災 で 信 者 四 件 が 村 を 出 た。﹁ 過
の苗がダメになったという。震
地震で地面にヒビが入り、半分
ダ メ を 出 さ れ た。﹁ 寺 院 解 散 届
本城院の服部諦圓・昌子夫妻に
信越教区のある非法人寺
善 照 は、 今 も 仮 設 住 宅 で 暮 ら
は昨年十一月に男の子が生れ
トラックが走り回っている。
す。朝と夕方に寺を見に行くが
けが出されました﹂と信越教区
た。震災を乗り越えていこうと
院は、住職が高齢で、後
復旧にとりかかれるのは、平成
宗務所長の小山健英は肩を落と
安全祈願、地鎮祭やご祈祷など
が、主な依頼は、車のお祓いと
っ た 御 本 尊 は、 一 階 に 移 し た
きないからだ。二階に祀ってあ
帯は、瀟洒な建て売り住宅が新
ている仮設住宅が並ぶ。その一
きない山古志村の人々が入居し
は、未だに故郷へ帰ることので
長岡市の国営越後丘陵公園に
願いするのは最も
害がないようにお
んの仕事。村に災
守るのもお地蔵さ
の仕事。子どもを
うのはお地蔵さん
く。
す。
﹁外回り﹂に限られる。復興が
適していると思っ
た。一度死んだ木
興住宅地を形成し、複雑な対比
だけれど、仏さま
古志村の人は、みな素朴で優し
ください﹂と頼むのである。山
思うにまかせないために仮設で
京都の仏師・松本明慶が彫った
ここには、平成十七年三月に
にすれば長生きの木になる﹂。
震災で地形が変るほどの被害
同じ震災にあった人と木であ
を見せている。
取 ら れ て い く こ と も あ る。
﹁そ
ら、淋しいもんネ﹂
。
家族からの要望で、信者が他
府県に引っ越してしまうことも
せてくれますので、毎日お参り
れるのがお地蔵さん。心を和ま
上げた写真に﹁一緒に村に帰ろ
成したお地蔵さんを村民が抱き
マスコミの報道でみると、完
る私の気持ちを落ち込ませる。
のことが、ますます部外者であ
く礼儀正しく迎えてくれた。そ
できる方はお参りしてあげてく
を受けた山古志村で、倒れた三
倒れた杉の樹齢はおよそ二百
ださい。頭をなでてあげてくだ
ある。古田島は、今、今日一日
年だった。松本は、震災直後に
﹁地獄の底にいても助けてく
と何もできない﹂
。
周りの寺や、
立ち入り禁止だった村に、村長
けられていた。だから、御利益
うね﹂というキャプションがつ
本の杉の木から、松本が彫り出
他宗派が法事に呼んでくれるこ
さい。必ず自分にも笑顔と元気
が無事に過ごせればいいと考え
ともある。震災当時からの消防
の特別許可をもらって入った。
したものである。
団 活 動 は 今 も 続 け て い る。
﹁地
がもらえるはず。末永く大切に
を念じて、なで回され、お地蔵
してもらえるようお願いしま
仮設住宅には、洗濯物が干さ
菓子が供えてあった。それは、
られ、花と水があげられて、袋
も、お地蔵さんは、ちゃんと祀
のばかりと思っていた。けれど
さんはつるつるに光っているも
れ、 制 服 を 着 た 中 学 生 た ち が
心温まる風景だった。
山古志村出身の、ヘアーワール
そして、お地蔵さんの上には
ドグランドスラム世界チャンピ
景だ。違うのは、被災者が住ん
住宅で、誰もがその日常を望ん
あった。
﹁どんなにきびしい/冬だっ
オン・田中トシオの詩が架けて
に吹かれて、仮設住宅の道路に
が芽を出して/カタクリの花が
ていつか雪は溶け/ふきのとう
でいないということである。日
佇んでいると、自分が何もでき
松本が彫った九体のわらべ地
立ち直れる/春を信じて﹂
らこれからも/耐えていける/
/春を信じて耐えてきた/だか
咲く/山古志の人は耐えてきた
蔵は、山古志村にもあるが、多
被災者の老婆が言った。わらべ
で、大事にしてるんですよ﹂と、
地蔵は村の一員になっていた。
﹁ こ の お 地 蔵 さ ん は、 み ん な
の写真を撮らせてもらうこと
尊いことだった。
れの集会所に祀られている。そ
は、気の重い仕事だった。各集
緒に早く村にかえれますよう
﹁ み ん な が、 お 地 蔵 さ ん と 一
文・出版編集長
横山和人
︵文中敬称略︶
に﹂と手を合わせた。
人々に訳を話して撮影の許可を
れた地蔵さんの写真を撮らせて
みませんが、京都の仏師が作ら
そ 行 き の 言 葉 は 使 え な い。﹁ す
も ら う。﹁ 取 材 ﹂ な ど と い う よ
会に集まっている山古志村の
の集会所を訪ねて、お地蔵さん
くは、この仮設住宅街のそれぞ
が身にしみる。
ない、無力なよそ者であること
本海から吹き寄せてくる荒い風
でいるのがバラック建ての仮設
見れば、どこにでもある日常風
﹁家﹂に帰ってくる。それだけ
言った。
す ﹂。 引 き 渡 し の 時 に、 松 本 は
その時は、二㍍を超える雪が積
﹁最初からお地蔵さんを作り
もっていた。
ば﹁また、
一から出直しです﹂
。
た い と 思 っ て い た。 鎮 守 と い
域 は、 み な 共 同 で す ﹂
。建設業
て い る。
﹁あとのことを考える
る。
﹁復興わらべ地蔵﹂がある。
励ましあった人々が親戚に引き
要は出来ない。安全性が確保で
とか、倒壊はまぬがれたが、法
寺は二㍍近い雪で埋まった。何
震災の冬、半壊していた大廣
う。
まし合って暮らしている﹂とい
十八年の春からになりそうだ。
川口町・大廣寺住職の古田島
震災後の状況を語る、
渡辺覺忍・龍覺院住職
仮設
設住
住宅
宅の
の各
各集
集会
会所
所に
に祀
祀ら
ら
仮
れている 「「 復興わらべ地蔵
復興わらべ地蔵 」」
れている
﹁仮設の人々や、信者さんと励
仮設住宅に住みながら寺院復興に夢
をつなぐ古田島善照・大廣寺住職
者の手配がつき、寺を建て直せ
復興支援金を、受け取らずに
今も避難生活を余儀なくされる旧山古志村の仮設住宅(長岡市内)
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平成 18 年 1 月 1 日 日曜日
(第三種郵便物認可)
第 34 号
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去年今年
貫く棒の
又贖罪すべきであります
ん犯人は厳しく断罪され、
とまがありません。もちろ
す。人のミスを踏み台に数
かり平気で買ったわけで
される株などありませんか
潮が蔓延し、人間が人間で
見しなければいいという風
知りながら、一攫千金とば 利潤追求を至上とし、露
ら、多くの投資家が誤りと
あるための心の砦である倫
のではないでしょうか。
分を貶めることにすらなる
日、兵庫県明石市の戒光院に
去る平成十七年十一月十二
おとし
如きもの︵高浜虚子︶
が、それだけでは問題の解
秒で何千万円も儲けた輩が
こ ぞ ことし
新年を迎え今年こそ
決にならないところまで来
事件が起きました。それら
昨年は本当にいろいろな
ん。
年に臨むことはできませ
りと切り捨てて、白紙で新
ます。昨年のことをすっぱ
が大きく影響を及ぼし
には、去年の過ごし方
した良い年にするため
いて取り消しましたが、今
です。すぐに誤りに気がつ
ンピューターへの入力ミス
しまったのです。単純なコ
六十一万円で売りに出すと
にある会社の株式を、一株
う会社が、東京証券取引所
りました。みずほ証券とい
う な 事 件 が、 年 末 に 起 こ
しかし、今年を充実 今 の 社 会 を 象 徴 す る よ
のですから、お釈迦さまも
させて導くことを意味する
見極め、自分の機根を投合
語で、弟子の機根を師匠が
六十一万株を売りに出して もともと投機とは仏教用
ころを、誤って一株一円で
びっくりです。いくら合法
ものです。
致して、はじめて成立する
売り手と買い手の思惑が一
割り切れません。投機とは
出たわけです。現行法では
検し直すことが肝要です。
れそうな自分をきちんと点
す。即ち時代の風潮に流さ
仏探しをしてほしいもので
けとめ、本当に自分の中の
僧侶や檀信徒が主体的に受
います。この授戒の意義を
に、総授戒運動を展開して
仏に会いに﹂をスローガン
を記念して﹁あなたの中の
しいのですが、なんとなく わが宗では開宗千二百年
合法的な取引ということら
そうでないと暦の上だけ新
います。
理観が、風前の灯となって
︻東海・浄土寺︼尾関大全師
喜参列。厳かな雅楽がながれ
はじめ、数多くの檀信徒が随
本堂には来賓、同寺法縁寺院
本堂にて辞令伝達があった。
やかな稚児行列があった後、
当日は総勢四百名に上る賑
執り行われた。
て、藤井祐朋住職の晋山式が
延暦寺一山弘法寺住職を迎え
おいて、本山特使に清原恵光
平成 年
光永
澄道師
った。
ていただきたい﹂と祝辞を贈
て更なる檀信徒の教化に努め
清原師が﹁前住職を規範とし
来賓、法縁寺院を代表して
俊師より法脈が相承された。
が伝達され、前住職の藤井亮
る中、清原本山特使から辞令
いっかくせんきん
と張り切っている人に
ています。
の特徴は、社会全体が病ん
とはいえ、相手のミスに乗
︻兵庫・延命菴︼郷司泰静師
しょくざい
は、いささか水を差さ
でいるのではないかと思わ
せず、すべて売買が成立し
度はコンピューターが作動
︻四国・藥師寺︼青峰良陽師
まんえん
されるような句です。
せるものが、少なくありま
とはいえないでしょう。
年になっても、本当の新年
月
日遷化
︵報告=小杉映道通信員︶
せ ん で し た。 J R 脱 線 事
じることは、著しく商道徳
平成 年
月
日本葬儀執行
滋賀教区伊崎寺住職
30
ている。
とが望まれ
用されるこ
な場面で活
ても、様々
寺院におい
けでなく、
で、 教 区 だ
れているの
所に提供されるが、このDVDの複製は許さ
コンパクトにまとめられている。各教区宗務
で、入堂から退堂までの作法が四十四分間に
場の坐禅止観作法を採用して作成されたもの
このDVDとビデオは延暦寺居士林研修道
比叡山延暦寺︶を発刊した。
禅止観︱指導の手引き﹂
︵企画
天台宗務庁・
大法会を記念して、
DVDとVHSビデオ﹁坐
天台宗では、このほど、開宗千二百年慶讃
4
日∼平成
11
12
月
18
日
法人部調︶
17
17
年
11
に欠けるばかりでなく、自
月
11
︵平成
年
30 17
てしまいました。
賞﹂が、淑徳中二年堀場瑠莉
年堀部真未さんに﹁天台座主
= 栃木教区・清原行院長講師に =
故、幼女殺害事件、違法危
本尊薬師如来大縁日にあたる
さん、千秋中一年長谷川高資
昨年十一月三十日に栃木教区宇都宮部の智
音寺(鹿沼市・矢島貞昌住職)において栃木
教区法儀研修会「布薩研修会」が開催された。
険建築事件等々、枚挙にい 常識では一株一円で上場
事から営まれたもので、関連
君 に﹁ 天 台 宗 書 道 連 盟 会 長
17
研修会は延暦寺一山弘法寺住職の清原恵光大僧
正(比叡山行院長)を講師に迎え、教区内住職、
法嗣等四十四名が参加して行われた(写真)
。
同日は午前九時三十分より開講され、旭岡聖順
同教区宗務所長の挨拶に続き「布薩について」と
題して清原師の講義があり、
午後には「布薩作法」
実習が二度に亘り行われ、参加者たちは熱心に取
り組んでいた。 (報告 = 本橋亮成通信員)
高田寺は、平安時代の三蹟
のひとり小野道風が、眼病平
癒と書道上達を祈願した御礼
に、古筆と﹁医王山﹂の扁額
を奉納したと伝えられている
道風ゆかりの寺である。
回わんぱく子供相撲大会﹂や
関 連 行 事 で は、
﹁第二十五
﹁生け花展﹂などの奉納が
行 わ れ た。 特 に 開 宗 千 二 百
﹁第二十二回高田寺道風公献
年慶讃記念として開かれた
千七百二十点もの作品が寄せ
︵愛知県西春日井郡・柴田真
東海教区の医王山・高田寺
行事も種々開催され、同寺境
賞﹂が贈られた︵写真︶
。
DVD 版「坐禅止観」
書 展 ﹂ で は、 東 海 三 県 か ら
ら れ、
﹁筆供養﹂に続いて行
われた表彰式では、堀沢祖門
成住職︶で昨年十一月十三日
わいを見せた。
内は大勢の参拝者で終日大賑
叡山学院院長より、熊野中三
に大護摩供法要が厳修され
こうでんじ
た。この法要は、
同日が国宝・
教区法儀研修会を開催
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平成 18 年1月 1 日 日曜日
(第三種郵便物認可)
第 34 号
平成 18 年 1 月 1 日 日曜日
(第三種郵便物認可)
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わ で ん じ
兵庫教区の和田寺︵篠
歴史を誇る古刹である。
◎祖山参拝研修会を開催
十 一 月 二 十 八・二 十 九 日 の
午後には丹波市のコーラスグ
ループ﹁やまびこ﹂のメンバ
十 一 月 十 一・十 二 日 の 二 日
め﹂と題した講演が行われ、
教 授 を 講 師 に﹁ 教 学 の す す
研修会は、大正大学多田孝文
した。
から約四十名の檀信徒が参加
参拝研修会が開催され、全国
第三十四回天台宗檀信徒祖山
両日、延暦寺会館を会場に、
九十名の布教師が参加した。
ーによる慶讃聖歌の奉納が
◎中央布教研修会を開催
内 は、 両 日 共 に 檀 家 の 人 々
間、大正大学︵東京・巣鴨︶
併催されている教学大会教学
あ っ た。 紅 葉 に 彩 ら れ た 境
や、
参拝客で大賑わいだった。
において、平成十七年度中央
当初、天台宗開宗千二百年
︵報告=赤松善彰主事・鷲尾
山市・武内普照住職︶で
を記念して歴代住職らの墓地
布教師六名が布教部門で発表
部門の聴講、翌十二日には、
は、一昨年の台風で被害
の改修を計画していたが、台
を行った。
布 教 研 修 会 が 開 催 さ れ、 約
を受けた本堂の改修工事
が大きな被害を受けたため、
風のために本堂の銅板大屋根
が贈呈され、師走の天台宗務
れの部課の女子職員から花束
た。去る人、来る人にそれぞ
の交代と引き継ぎが行われ
十二月十二日は、新旧内局
隆円通信員︶
が完成。昨年十一月二十
月より行っていた。
併せての大改修を一昨年十二
六、二十七日に﹁本堂並
びに寺墓地大改修落慶慶
から、本堂までの参道で稚児
二十六日は午前九時三十分
讃本尊開帳法要﹂を厳修
︵写真︶
、約三百年ぶり
行列が賑やかに行われ、続い
にご本尊の﹁千手観世音
菩薩﹂を一般公開した。
た。 午 後 は、
﹁歴代住職住侶
てご本尊開扉法要が営まれ
墓地大改修竣工開眼法要﹂が
同寺は六四六年に法道
八二〇年に天台宗に帰
修された後、同寺福聚教会会
仙人が開いたといわれ、
属、一三〇〇年を越える
員によるご詠歌・舞踊の奉納
があった。二十七日は午前十
時からご本尊・千手観世音菩
庁は時ならぬ花の香で包まれ
参拝する旅でもあった。別院
バーと初めて総本山延暦寺に
の ポ ー ル・ ネ エ モ ン 住 職 が、 今回の来日は、信者のメン
て ブ ッ ダ に 成 り 得 た の か、
シッダールタは如何にし
り得たことである。
章﹁ブッダの前世物語﹂で知
う。以上のことは、本書の序
話などにも影響を与えたとい
を紹介する。見開きの半ペー
ット仏教などの仏教伝播の道
教、日本・中国と仏教、チベ
教えと、大乗仏教と上座部仏
皆苦、諸行無常、輪廻などの
﹁ブッダの教え﹂では、一切
と考える。天台宗の出版をお
いうのは長いのか、短いのか
真︶●それにしても、四年と
な が ら 宗 務 庁 を 去 っ た︵ 写
とう!﹂と大音声で手を振り
郊前総長は﹁四年間、ありが
い﹂と静かに決意を述べ、西
協 力 を 得 て、 宗 務 を 行 い た
薩の開帳法要が執り行われ、
十一月二十日、同別院の堂衆
の行者、長者、国王などに転
ジが地図、イラスト、写真、
た。濱中新総長が﹁皆さまの
︵ 僧 侶 ︶ ら 九 人 と と も に、 天
で八年修行したという同行の
﹁もっとも優れた牛﹂が﹁目
図表になっており、大いに理
い﹂と抱負を述べた。
台宗務庁と総本山延暦寺を訪
堂衆の昇真師
︵サンドラ・ジー
そして何を伝えようとした
天台宗ニューヨーク別院
れ、本堂完成の報告と天台宗
のか
地であり、天台宗発祥の地で
初めて伝教大師が修行された
は﹁シッダールタ﹂である。
ータマ﹂
、
﹁目的を達成する﹂
﹁もっとも優れた牛﹂は﹁ゴ
ジャータカはインドの昔話
ら、真偽のほどは別だが。
過去世物語に出てくる話だか
生 譚 ﹂︵ ジ ャ ー タ カ ︶ と い う
だろう。もっとも、これは﹁本
の 誕 生、 樹 下
いる。ブッダ
らせてくれる内容を持って
の世界観を簡潔かつ平明に解
か ら そ の 教 え ま で、﹁ 仏 教 ﹂
高瀬広居監修・青春出版社刊
解の手助けになっている。
谷、藤、西郊の三師にご指導
手伝いしてから、これまで杉
本書はブッダの生涯
―
も同様に知られていないこと
生して修行を重ねたことなど
ネエモン住職は﹁本堂が落
ある比叡山にお参りできて感
けだが、案外知られてないこ
仏教の祖ブッダの名であるわ
と語り、更に今後は﹁ア
されることは有り難い﹂
ミュニティーとして利用
ることも多く、地域のコ
集会や会議などに使われ
子、竜王、夜叉、或いは人間
猿、鹿、馬などの動物や、獅
生まれ出るまで、亀、兎、烏、
シッダールタとして人間界に
慧︶という青年で、ゴータマ・
ッダが過去世でスメーダ︵善
とかも知れない。さらに、ブ
ト、イソップ物語、グリム童
に伝わり、アラビアン・ナイ
ラビア語などに訳されて西方
る。これらの話はその後、ア
教の聖典に共通の説話があ
ら、ヒンドゥー教やジャイナ
や民話を題材としているか
どり、第二部
の生涯﹂をた
部で﹁ブッダ
滅 な ど、 第 一
ダの供養と入
出遊、チュン
の瞑想と四門
を考えている。
と、これまた昨年と同じこと
せめて、もう少し精進しよう
い。新年を迎えるにあたり、
資格などないのかも知れな
た者で、四年の長短を考える
ば、自分は十年一日で過ごし
頂くことになる。考えてみれ
総長で四代目の内局に教えを
を頂いて十余年が過ぎ、濱中
慶したことで、地域から寺院
激している﹂と語った。
パでも布教を展開した
メリカ全土や、ヨーロッ
が増えた。また町の平和
であることが認められ、信者
た。
的を達成する﹂
。これは人の
毘沙門堂探題大僧正 戒弟116名
名前である。
石塔寺 12月4日
皆 心 か ら 親 切 に し て く れ る。
◆滋賀教区
ン ︶ は﹁ 日 本 は 美 し い 国 で、
圓教寺已講大僧正 戒弟311名
開宗千二百年慶讃大法会の報
青岸渡寺 11月28日
恩の誠を捧げる法要を行っ
◆近畿教区
おのれこそ
おのれのよるべ
おのれを措きて
誰によるべぞ
よくととのえし
おのれにこそ
まことえがたき
法句経
一六〇
よるべをぞ獲ん
第十二章﹁自己﹂
阿難尊者が﹁私が、これから
が い ま す。﹁ 自 分 の す る こ と
世の中には、自信過剰な人
るのであります。
法が﹁おのれのよるべ﹂にな
ありません。このときに、仏
言葉を、気軽に使います。特
私 た ち は、﹁ 自 由 ﹂ と い う
に間違いはない﹂と大言壮語
する人は、破滅の道を進むこ
だ明らかでない。それなのに
とが多いものです。
進むべき道、教えも私にはま
のかと心配でしたが、これで
お釈迦様は、涅槃に入られる
お釈迦様は﹁私に何を期待す
ません。そうすれば、たとえ
生きるということにほかなり
いうことは正しい道に従って
気ままに振るまえることだと
とは、何の束縛もなく、勝手
きです。その人たちは、自由
に、若い人たちは自由が大好
るのか。教えはすでに説いて
と
」
お釈迦様は、なくなる直前
いる。私がいる、いないにか
お
「 のれをよく整える
に、最後の教えである﹁自灯
安心です﹂と言うのを聞いた
明法灯明﹂を示されました。
明とせよ﹂という意味です。
自由とは、自らに由るとい
な単純な言葉でしょうか。
思っています。果たしてそん
﹁大パリニッバーナ経﹂に
うことです。由るとは﹁依り
﹁ 自 ら を 灯 明 と し、 法 を 灯
は﹁この世で自らを島とし、
従う﹂
という意味があります。
正しい教えを頼りとしなさ
かわらず、自分を頼りとし、
な状態になっても、自分を揺
大海の中に放り出されたよう
従うということなのです。
つまり、自由とは自らに依り
よ
自らを頼りとして、他人を頼
よりどころとして、他のもの
りとせず、法を島とし、法を
自由に生きるというのは、
現代人にとってひとつの理想
るぎない島と感じることがで
きます。さらにその拠り所に
い﹂と諭されたのです。
自分の人生に責任を持っ
とは﹁よくととのえし
おの
です。そして自由に生きるこ
固な島があるのです。
は正しい道 仏
(法 と
) いう強
性を説かれたものですが、そ
て、自立して歩むことの重要
をよりどころとせずにあれ﹂
︵ 中 村 元 訳﹁ ブ ッ ダ 最 後 の
お釈迦様は、説法の旅の途
旅︶とあります。
れのよるべ﹂によってのみ可
ンディだって、親を責める言葉を
自分が、より正しく、より
幹夫からひと言も聞いたことがな
の裏付けになるのは﹁よくと
三年になったとき、トップの孤
い。むしろ経済的にも大変な境遇
中で死病に倒れられますが、
独を覚悟の上で、生徒会長のポス
のなかで懸命に生きている母親の
より
トについてしまった。ときには、
苦労を尊敬の眼差しで見ている。
能なのです。
くたびれてうつむき加減になるこ
お母さんの背中が大きく幹夫の目
善く生きようとするならば、
とがある。大丈夫?と聞けば﹁お
に映っている。それがとてもステ
規範なしに生きられるはずは
かん︵お母さん︶の苦労にはかな
キだ。
とのえし
おのれ﹂というと
わない﹂と言ってはばからない。
ころです。
﹁やってみなきゃ分からんもんだ
一時は回復して小康状態を得
るクラス﹂で対等に付き合い、話
よね﹂お母さんの話のなかによく すごい母子に出会ったものだ。
られます。その時、若い弟子
幹夫は二年生から受けもった子
し合いたいということを彼は期待
彼のこれからを私はじっと見守る
である。彼はいつも自分が納得し
ながら生きることを大切にしてい
だけである。
から、くじ引きでなく話し合いで
は心を寄せる。仲間の気持ちを大
い。言葉足らずでも率直な発言に
めの議論を好んでいるふうでもな
いの機会を公平均等にという観点 議論ずきではあるが、議論のた
が煮詰まるのを待って一つの道筋
うこれしかない﹂ところまで本人
夫が納得するまでじっと待ち、﹁も
きく信じながら、良さも悪さも幹
出てくるフレーズだ。わが子を大
決めようという彼の提案だった。
を指し示す。だから母子家庭のハ
したのだろう。
た。そのせいか彼の口をついて出
る言葉には妙に説得力があった。
たとえば、席替えは生徒たちに
とって最も関心のあるテーマだ。
時期尚早でこの案は見送られた
切に思う柔軟さがある。
出発したばかりのクラスには出会
が、
﹁すべての人が自分を出し切
カット・伊藤泰三「風車」
(アトリエ・ウーフ)
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平成 18 年1月 1 日 日曜日
(第三種郵便物認可)
第 34 号
花は小さいほうがよがっぺ
なんでだって?
しぼ
そりゃ
きまってるがな
いが
萎んだ時のこと考えでみろや
しあわせ
こ つ ぶ
大え花は
悲しみもまた大えからよ
幸福も
やっぱり小粒がよがっぺ
なんでだって?
そりゃ
きまってるがな
うちょうてん
大え幸福
つかんでみろや
有頂天になっちゃって
おらの目ん玉さ
他人の涙が
見えなく
なっちゃうからよ
あしょ
高野つる著﹁足んこの歌﹂より
らくだ出版
刊
んの経歴を見ました。そこ
にはこうありました。
る。父親の不時の出奔によ
﹁八十年房総の地に生き
によって育てられた少女時
り、 母 と 祖 母 の 二 人 の 力
んは、高野さんに、大きな
代 ﹂。 そ の 中 で、 お 祖 母 さ
もしび﹂の読者で、八十歳。
詩集になるとお手紙をいた
涙が見えなくなる、と言わ
幸福をつかんだら、他人の
ました。
たくて引用させていただき
の会員の皆様に読んで頂き
全国の一隅を照らす運動
れたのです。
﹁ 亡 き 母 の 七 年、 夫 の 十
引かれて、高野さ
ているのに興味を
イトルがつけられ
と﹂というサブタ
ちゃんがいったこ
年 生 の 時、 ば あ
﹁ 私 が、 小 学 四
あります。
ともいえない味が
がいい﹂には、方言のなん
特に、この﹁小さいほう
です。
どの詩も心うたれる内容
と書いておられます。
七年供養の足しになれば﹂
だきました。
この﹁足んこの歌﹂が第三
本紙の姉妹誌である﹁と
らす運動会員です。
香取郡の徳星寺の一隅を照
高 野 つ る さ ん は、 千 葉 県
Wonderful Words
Fly UP