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意気地のないことを余儀なく

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意気地のないことを余儀なく
卜L r l l l l
﹃中 国 の 思 想 ﹄ 改 訂 増 補 に あ た って
中国の思想﹄全十二巻を刊行してから、すでに十年近くの歳
われわれが、徳間書店の協力を得て ﹃
月を経 た。
初 版 の刊行 にあ た ってわ れわれが目指 した のは、古 典 を専門家 の独占 から解 き放 ち、本 来 のみず み
ず し い姿 に復 元す る こと、 それを通 じ て日本 人 の新 し い教養 の体系 づくり に資 す る こと、 であ った。
第 二期 の企 画 であ る ﹁史 記﹄ 全 六巻 の刊行も 、 ま ったく 同 じ志 から発 したも のであ る。
幸 いにも 、 このささ やかな試 みは、多く の読 者 の支 持 を得 て いく たびも版 を重 ね、原紙 型 が磨滅 し
ても はや新 たな需要 に応ず る ことが でき なく な った。 これ ほど の支持 を受 けた こと は、 わ れわ れに大
きな自信 を あたえ ると同時 に、改 め て責任 の重 大 さを痛 感 さ せた。書店 から版 を改 め てはし いと の要
請 が あ ったとき 、わ れわ れ は読 者 の期 待 に こたえ てより よ いも のに仕 上げ る機会 に恵 ま れた ことを感
謝 した。
改 訂 と は い っても 、 シリーズ全体 の眼日 は、初版 の序 文 に述 べた こと と変 わ って いな い。改 訂 の目
的 は、む しろ そ の 一層 の実 現 に置 かれ ている。 具体的 には、以下 の諸点 にとく に留意 した。
まず 、初 肝 では紙幅 に制 限 され て割愛 せぎ るを得 なか った部分 を でき るかぎり増袖 し、原典 の持 つ
J
幅 の広 さと奥 ゆき の深さを再現 す るように努 めた。 そ のためには採録部分 の橋 しかえをあえてした巻
既訳 の部分 に関 しては、訳文 を全面的 に再検討 し、誤 りを訂正するととも に、表現 の未熟 のために
も ある。
原典 の真意を生 かせなか った部分 を改 めた。注 ・解説も、より効果的 ならしめるよう配慮 した。
また、経読 の便宜を考 えて、日次 の体裁を詳 細なも のに改 めるととも に、巻 によ っては素引を付す
ことにした。巻 ことに多少 の差異があ った読 みくだし文 の方式も、全面 的に統 一した。
もとよりわれわれは、以上をも って完壁 とは考 えていな い。今後も、将来 三たび機会 をあたえられ
るときを思 い摘 きながら、なお 一層精進 してゆきたいと思う。
一九菫 一
一
生西 月 ﹃中 国 の 思 想 ﹄ 刊 行 委 員 会
﹃中 国 の思想 ﹄ 刊 行 にあ た って
ら か ころ各方面 に東洋 への還帰 、 ま たは東洋 古典 の再 興 と い った ムードがあらわ れ て いる。 あ る意
味 で これは、当然 す ぎ るほど当然 な ことであ る。 千数百年 にわ た って、 われわ れ の教養 の根幹 にな っ
て いるも のを、百年 そ こそ こで脱 ぎ棄 てるわ け には いか ぬからだ。技 術革新 が進 み、大衆 社会状 況 が
進 めば進 む ほど、人 間 の内 的充実 が それ に見合 って要求 され る。 そ の要 求 を充 たすも のとし て、 キリ
スト教 文 明だ け では何 とし ても片手 落 ち であ って、他方 に中 国古典 の支柱 が バラ ン スを保 たなく ては
なら な い。
そ れ にし ても 、旧套 のま ま では、 いか に深逮 な内容 でも 、 これを現代人 の生活 に適合 さ せる のは困
難 であ る。古 典 への郷愁 は 一部 ブ ー ム化 し ており、 注釈 書 は巻 にあ ふれ て いるが、 それ は みな専 門家
用 であ って、 いそが し いビ ジネ ス世界 の生活者 にピ タリと は いか ぬうら みがあ る。要 点 だ けを、現代
的感 覚 に盛 る試 みは、 まだ ほとんど なされ ていな い。 この欠 を補 う た めに、刻 下 の急 務 であ る新 し い
教 養 の体 系 づ くり の 一翼 を になうも のとし て、 こ こに ﹃
中 国 の思想﹂ 全十 二巻 を提供 す る。
以下 、本 叢書全体 の構成 、特色 など を凡例 がわり に述 べておく。
一、中 国 の古典 思想 は、 す ぐれ て政 治的 なと ころに特色 が あ る。 人間 と人間 と の関係 が主 た る関 心 の
的 であ って、造物 主 と人間 の関係 はやや附 随的 であ る。 この点 、古代 オリ エントや イ ンド の思想 と
は相違す る。本 叢書 では、 でき るだけ この特色を生 かす た めに、単 に主要 な学 派を網 羅す るば かり
でなし に、 それらを相 関的 にとらえ る配慮 から全体 の構成 を おこな った。 したが って時代 の先後 や
後 世 から の評 価 にとらわれ る ことなく、ま た儒家 だ けを別格 にあ つかう ことも し なか った。師承閲
係も 重 んじ て いな い。 それ ぞれ の巻 が独 立 の思想体系 であ って、 しかも相 互 に対立 と依存 を保 つと
いう構成 であ る。読者 はお のれ の好 むまま に、ど の門 から入 るのも自由 であ る。
二、古代 思想 の常 とし て、 いず れ の書物 も特定 の著述家 の手 に成 ると は断 じが た い。著 述家 が不明 の
場合 も あ るし、複数 の場合 も あ る。時 には後世 の偽作 と疑 われ ている部分も ある。本叢書 では、 そ
うした考証 の領域 に は深 くは立ち入らな か った。 それぞれ の学 派 の代表 的著作 と目 され るも のに つ
いて、 そ の主 眼点を抽出 す る ことを目標 とした。 これ は思想を思想 とし て、 あ るがま ま の姿 でとら
え、現代 に生 かす ことを目的 とした本 叢書 のよう な立場 では、当然 の用意 と いう べき であろう。 く
わし い考 証 や史 的研究 は、 それ専門 の書物 にゆだ ねるほ かな い。
三、訳文、原文 、読 みくだ し文 と いう 二部構成 にな って いるが、む ろん、眼目 は訳文 にあ って、 これ
を現代 日本 語 とし て通 用す るも のに仕 上げ る ことを最大 の努力 目標 とした。訳文 が本 文 な のであ る。
原 文 と読 みくだ し文 とは、 そ の補足 とし て、 ある いは参考 とし て見ら れた い。 日本 人 の伝統 の漢 文
教養 を今 日まだ無視 でき な いゆえ に、 この重複 をあ え てした のであ る。 ただ し原 文 には、句読点を
つけただ けで、かえり点やおくりがなは つけなか った。す でに読 みくだし文がある以上、必要がな
いと考えたから である。字体も適用 のも のを採用した。宇体 は時代 によ って変遷があり、字体 にこ
だわるのは学問的 にも意味 が乏 しいから である。
四、採録部分をえらぶ標準 は、各巻 によ って 一様 でないが、それぞれの思想 の核心部分を のがさない
という配慮 のほかに、有名な故事 や成語 に関する項目はなる べく採用す る方針をと った。われわれ
の教養 の源泉を知 るのに役立 つし、読 みも のとして興味を増すからである。
五、なる べく、訳文だけで意味が理解 できるようにして、注は必要最小限 にかぎ った。解説 の部分は、
歴史的背景 の説明 のはかに、現代生活 への適用にヒントとなるような寸評を加えることにした。 こ
の部分 はあるいは蛇足と感じられ る向きがあるかも しれない。漢文 になし みのうす い世代 への配慮
であるから、博学 の士は目を つむ っていただきた 、。
大、各巻 に訳者名 がかかげ てあるが、 これは最終責任をあきらかにす るためであ って、実際 の訳業は、
むしろ全訳者 の共同作業 と いう ことができる。むろん監修者も共同責任 を負う。力足らず して誤り
を犯したところ、時間にせまられて未熟 さが訂正 できなか ったところが随所 にあるかと思う。読者
諸賢 のはげましによ って、将来機会あることに改 めてゆきた い。
﹁中 国 の思 想 ﹄ 刊 行 委 員 会
■中国の思想2 職目策/目 次
解 題︰
/ m 呂不車 の先物買 い/m
して天下 に勝 つ﹂
られた宣王/田 蛇足をえがく/” へたな横 ヤリ/鶴
こ
め
の
諫
妻 の身 ぴ いき、客 のおせじ/ 2 一救援 のタイミ ング/“
三 や
字 り
臣下 に屈
3 策士と策 士/2 息壌 の誓 い/■ 遠交 近交/ ” ﹁
/認 誘 いに乗 る女 は妻 にでき ぬ/
﹁
貧窮なれば 、父母も子とせず ﹂
秦た
斉よ
⋮&
言/“ 食客 の お か え し/Ш 孟嘗君をめぐる説客 たち/鵬 食
0 本末瀬倒/W
0 田単 と紹勃/3
2
客 ・濡譲 のはかり こと/ 1
1
こむ/鵬
虚 の威 をかる狐/″ 資金調達法/鵬 相手 の弱味 に つけ
二段がま えの保身術/圏 食客 の売り込 み/H
女 の復爆/H 一
され いことo では
/鵬 政治は ,
﹁
士は己れを知 る者 のために死す﹂
な い/螂 ひとふり の名剣よりも 二十万 の大軍/躙 かわ いい子 に
し
は苦労さ せよ/硼 長平 の戦 いおわ って/m 臣下 を信頼 た王/
独 趙滅亡 の前夜 /翻
【
67
そ
楚
趙:
ぎ
魏
こと を あ や
4
ム チ ャな 話 / 犯 策 士 の 保 身 術 / ︲
2 派 兵 要 請 の使 者 / ″ 韓 攻 撃
は 是 か 非 か / 加 努 力 す る ほど 失 敗 す る/ 劉 信 陵 君 、
ま る/ 躙 士 の怒 り / 閣
し﹂
/為
刺客 ・衰政 とその姉 の死/額 ﹁
むしろ鶏 口となるとも 牛後となる
なかれ﹂/鳩 ﹁
禍 を造し て福を求む﹂/η ﹁
唇掲 くれば その 歯寒
韓カ
酎馳・
難尉・
宕・
鵜雌
徹。
蘇秦 の申し開き/邸 伯楽 の 一願 /鋼 漁夫 の利/獅 ﹁
まず映よ
り始 めよ﹂
/狙 ﹁
壮 士ひとたび去 ってまた還らず﹂
/a
燕究
︲
言 い逃れ の コツ/鰤 弱者 の知恵/翻 水争 い/m 板ばさ み/0
3
チ ャンス/鰤 小 国 の延命策/ 鰤 進言 のき つかけ/躙 背手を処
︲
/3
︲
理す る法/W ﹁
怨は深浅を期 せず﹂
一、本書 は劉向編 ﹁
戦国 策﹂十 二国 のうち、ま とまり のある説話を ぬきだ したも ので、有
名 な故事 はほとんど集録 した。
一、横 田惟孝 ﹁
戦国策正解﹂を底本とし、諸本を参照した。
一、各章 の見出 しは原文 にはな い。訳者が付したも のであ る。ま た、見出 しと本文 の間 に
小 さな活宇 で摘入され ているも のは、 これも一
踪文にはなく、理解 の便をはか って訳者が
付 したも のであ る。
一、簡単 な注は本文中 に ︵
︶ で橘入したが、 いささか説明を要す るも のは 中印を付し、
各本文 のあとに記した。
一、 乱 世 に 生 き る説 客 た ち
題
し ているが、
一旦有事 の際 にはそ の報 恩を期待 された のであ る。
、
一方 、氏族制度 の解体 ととも に、社会階級 に分化が生 じ 各 階層 から政治参加を望む 一群 の人 々が
、
、
玩わ れた。 かれらは、それぞれ に、新 しく生 した政治危機 に対処 す る解答 を ひ っさげ 大臣 宰相 の
。
夢 を胸 に抱 いて、各 国 の王にま みえ る。 これがすなわち説客︱︱ 遊説 の士 である
、
さら に戦 国中期 になると、人材 を求 める気風 は高ま るば かり で 各国 の大臣 は 一芸 に秀 でた人物 を
、
食客 として養う よう にな る。食客 と は 一カ所 に定着 した説客 で ふだんは生活を保証 され てゴ ロゴ ロ ︲
り切 るため、争 って人材 を招 いた。
物 コ写 あ る。
、
世 はまさ に戦 乱 の時代 、社会制度 の大変革期 であ った。各 国 とも 富国強兵 を図 って政治危機 を乗
﹃
戦国策﹂は、主として戦国時代における説客たちの権謀術数を書きとどめた記録文学であり、歴史
解
ひとくちに説客 と い っても、そ のあり方 はさまざま であ る。甘茂 や苑唯 のよう に 一躍 して 一国 の宰
相 とな った幸 運児。蘇秦 や張儀 のよう に舌先 三寸 で国際情勢 をゆさ ぶ った大物策士。 ある いはまた、
戦 国時代 ︵
前四9 一
一
︱壬 二 年︶
は、そ の前 の春秋時代 ︵
前七七〇︱四〇四年︶
ととも に、 ″
弱痢強食 ″の時
代 として理解 され ている。 た しか にそ のとおり にちが いな いが、 この時代 は、単 に強国 同士 の食 い合
いと いうだ けでなく、史 上ま れに見 るほど の大きな変革期 であ った。
二、 変 革 の時 代
荊輌 や覇政 のよう にヒ首 一本 にす べてを託 し て敵地 に乗り込む刺客。斉貌弁 や渦援 のよう に権門 に寄
食 し、お家 の大事 と みれば敢 然と立ち上が ってそ の恩義 に報 いる食客 たち。
波 乱 に富 む戦 国時代を背景 に、 このような人物 たち の織り成 す エピ ツード の数 々、それが ﹃
戦 国策﹄
の内容 であ る。説客 たち の奇想天外 な発想、意表 を つく論理、多彩な レトリ ック、男 の意気地、 は っ
たり、ほら話、 いず れをと っても、 せせこま し い現代 を生きるわれわれ にと って、
一服 の清涼剤 とな
ろう。また読 みよう によ っては、そ の中 から、今 日を生き る勇気、自信 、し ぶとさなどをく みと るこ
とも でき るはず である。
では、かれら の生きた時代︱︱ 戦 国時代 とはど のような時代 であ った のか。
国 策
戦
、
。
こころ みに、紀 元前 三百年 のある日、斉 の都臨酒 の 一角 に立 ったと しよう いま でいえば 山東半
、
。
島 の青島市 から済南市 に向かう鉄道 の沿線、南 に魯 山が眺望 され る地点 であ る そ こに見 るも のは
次 のような光景 であ った。
、
、
、
﹁臨消 は⋮⋮七万戸 ⋮⋮甚だ富 みて実 てり。 そ の民 は、竿 を吹 き、悪を破 し 筑 をうち 琴を弾 じ
、
車軸︶
けまり︶せぎ るも のな し。臨澄 の途 は、車殺 ︵
すころく︶
路鞠 ︵
鶏を聞わし、大を走ら せ、 六博 ︵
撃 ち、人肩摩 し、社 を連 ぬれば帷 となり、袂 をあげれば暮 となり、汗を揮 えば雨とな る。家 は敦 くし
。 まさに、二十世紀 における自動車 の洪水を思 わせる。
て富 み、 志 は高くし て揚 がる﹂ 翁戦国策﹂斉︶
、
これは当時、臨漸 を訪 れた策 士蘇秦 のことばだが、 いま漸河 のほとり に残 る遺跡 は それが決 して大
、
げ さでな いことを示 している。 そ の残 された城壁を つなぐと周囲 は 二十キ ロに及び 高 さは八メート
ルに達す る部分も あ る。美 し い瓦も発掘 されて いる。
一九 二八年 、全面的 に発掘 されたと ころによ
河北省易県 に残 る燕 の下都 は これよりさらに大きく、
ると、長方形 の城壁 は東西 八 ・三キ ロ、南北 四キ ロに達す ると いう。
都市国家″とも いう べきも のであ った。国 と い っても、
もともと、 これに先立 つ段周時代 の国家は ″
それぞれ城壁 で囲ま れた都市 であり、城壁外 の邑 に住 む農民 を支配 していた。国を構成す るのは血縁
、
で結 ばれ祭祀を共 にす る氏族 であ った。紀元前十 二世紀 、周王朝が段王朝をほろばした ころには こ
つまり諸侯 の数 は八〇〇あ ったと いう。周 王朝 と い っても、それは都市国家 の連合体 のい
う した国、
わば盟主 にすぎなか った。諸侯 は周 王から分封 された自分 の領地を支配 し ていた。中国 のいわゆる封
また、戦国時代を経 て最後 に秦 が天下 を統 一した のは、従来 の氏族制的 な支配様式を捨 て、新 しい
管理方式を採用 したから であ った。
斉 の臨滞があ のような繁栄を はこ った のも、
、
紀
、
元
前
七
世
紀
海
岸
と
い
っ
う
地
理
的
条
に
件
て
よ
名
宰
相管仲 翁管子﹂の著者と伝えられる︶が製塩業 や漁業を お こし、 あるいは威王 奪焦μ・前二五七主 ≡ 一
、
〇年︶
前三 一九︱一
宣 王︵
5 一年︶が、血縁 にこだわらず天下 の人材 を集 めたから である。
一
のも のが滅ん でい った。
春秋戦 国時代と は、 こう した時代 であ った。 そ の新 し い条件 に応 じ得 るも のが残り、固 定 し
たまま
き てきた。
金属製 の農具 が普 及し て生産力 は高 くなり、地主階級 が新興勢力と して発生 してきた。商 工業も
お
だ した。
氏族 の内部 にも早 くから変化が はじま って いた。 いまま で血縁 の つながり で保 って いたも のが崩 れ
と ころが、紀 元前 八世紀 、春秋時代 の初 めごろから、 しだ いにもようが変わ ってきた。膨張す
る氏
族 をかかえて、諸侯 は領地 の争奪 をはじめ、周王朝 の統制力 はおとろえてく る。点だけを支配 してい
た諸侯 の都市国家 は、拡 がりをも つ領土国家 へと変貌 してく る。
建制度 が これ であ る。
国 策
戦
解
三 、 戦 国 の 七雄
このような流れを背景に、戦国諸侯の興亡をたどってみよう。
、
周 のはじめ約 八〇〇あ った諸侯 は、春秋時代 の初期 には約 一四〇 に統合 され る。弱小 国が淘汰 され
。
斉 の桓公、晋 の文 公、楚 の荘王など いわゆる春秋 の覇者が次 々と台頭 し て天下 に号令 す る かれらは
一応 は周 王朝 をおし いただ いている。 しかし、 それは名目だけ のことで、時代 はす でに実力主義 の時
代 へと大きく転回 し つつあ った のだ。
たとえば、 こう いう話 が ある。
鼎 の軽重を問う﹂と いう有名 な故事が の って いる。
幕秋時代 の歴史を書 いた ﹃春秋左氏伝﹂ に、﹁
鼎 とは、 日本 の三種 の神器と同 じよう なも ので、帝 王 の位 を象徴 するも のであ った。 それが、周 の
〇七︱五八六年︶のとき、当時朝者 として勢 威を ふる った楚 の荘王 から、鼎 の経 重を間
ハ
定 王 斧極 。前一
われた のであ る。 このことは楚 王に帝 王 の位をな う意志が あ った ことを意味 して いた。
いま や伝統的な権 威 は大きくゆらぎ出 した のである。
。
この傾向 は、春秋も末期 にな るに つれ て、 い っそう露骨 にな る。 そ の特徴的な事件が晋 の分割 であ
ワつ
国 策
晋 は、もと山西省南部 に封ぜられた国 であ るが、次第 に北方 に領地を拡張 し、文公 ︵
在位 。前杢 三ハ
ーエ
ハ一
一
八年︶の時代 には、覇者 として中原 ︵
黄河流域︶諸侯 の間 に重 きをな した、 いわば名門 である。そ
の名門も、 いま や実力主義、下剋 上 の風潮 には勝 てず、実権 は早くから、幹 、魏 、超、知、池、耐衝
人の家老職︶の手 に移 っていた。 春秋末期、
と いう 六卿 全ハ
この六卿 が互 いに激 し い権力争 いを展開す
る。 そ の結果勝 ち残 った韓、魏、趙 の三卿が、晋 を三分 して独立 し、周 王から諸侯 とし ての地位を認
められた。 いや、認 めさ せた のである。
時 に前 四〇 三年、 これが戦 国時代 の幕 あけとな る。
こう して戦国時代 に入ると、以上 の三カ国 に北 の燕 、東 の斉 、南 の楚 、西 の秦、 この四カ国を加 え
て、 いわゆる戦 国 の七雄 の対立抗争時代を迎 える。
七雄 の中 でまず頭角 を現わした のは魏 である。魏 は文侯 ︵
在位 ・前四四五■ 一
一
九六年︶の時代 に、法家
められ、威王 ︵
在位 。前一
一
五 六上 二 一
〇年︶の時代 に椰忌を宰相 に抜櫂 して 内政 の改革 に乗り出 した ︵
斉
。 次 の寅 王 ︵
参照︶
在位 。前三 一九二 二〇 一年︶の代 にも この政策 は 受 け継 がれ、
この 二代 にわたる治政
斉 は、春秋末期から権臣田氏 の手 に権力が移 っていたが、前 三八七年、 側氏が正式 に諸侯として認
く る。
の祖 と いわれ る李樫そ の他 の人材 を宰相 に登用 し、 いち早 く中央集権体制 を つくりあげ て、他 の諸国
をリードする。 しかし、魏 の優 越も長くはなか った。 やが て、東から斉、西 から秦 の勢力が台頭 して
戦
で、斉 の国力 はと みに充実 す る。
ま た秦 は、 辺部な西方 にあ って政治、経済 、文化、す べての面 で立 ちおくれ ていたが、前 二五六年、
魏 から亡命 してきた商峡を宰相 に起 用 し、
商鉄のこと︶の変法″を実施 して、 強力な
いわゆる ″
商君 ︵
中央集権体制 の礎石をおく こと に成功 した。
前 三四 一年 、魏 は斉 とV口で戦 いヽ斉 の軍師確鹿 の計略 にはま って惨敗す る。 しかも そ の翌年 には、
商 君 の率 る秦 の軍 にも破 れ て、魏 の勢力 は大きく後退す る。
そ の後、斉 の勢 いが徐 々にふるわなくな った のに対 し、葉 は着 々と勢力 を伸長 し て、他 の諸 国 に重
圧 を加 えるに至 る。
こう した情勢 の中 から、縦 の連盟 であ る合従 と横 の連盟 である述棋 ︵
連衡︶と いう、 二 つの外交戦略
が生 み出 されたわけだ。
合従 とは、韓 ・魏 ・趙 ・燕 ・斉 ・楚 の諸 国が連合 して、強国 の秦 に対抗す る こと、連横とは、 これ
ら の諸 国がそれ ぞれ に秦 と手 を結 ぶことを いう。
合 従 の立役者 は蘇秦 であ る。蘇秦 の活 躍 で 一度 は六カ国 の合 従 に成功す るが、かれ の死後 、秦 の宰
相 とな った張儀 の奔走 によ って、再 び破 れ る。 これ以後 、部分的 な合従 は行 な われ ても 六カ国 の合従
は 三度 と実現 されなか った。
秦 は張儀 の連横諭 によ って諸 国 の合従 を粉砕 しながら、各 個撃破 で着 々と領 土を拡張 してゆく。関
国 策
戦
前二七0年︶では、趙 の名将 趙 奢 ︵
趙 一八 一頁参昭じ のために 一敗 地 にま みれ るが、
前 二六六
与 の戦 い︵
年、宰相 に起 用 した池唯 の遣 百によ って、
速交近攻 全遂国と仲良くして近隣を攻める︶を国是と してから
は、秦 の優勢 はさら に決定的なも のとなる。
前 二六〇年 の長平 の戦 いでは、名将自起 の活躍 で趙兵 四十余万 を穴埋 めにすると いう大勝利を おさ
魏 ・楚 の連合 軍 に打 ちま か され て
める。実 に この戦 いは戦国時代最大 の決戦 で、勝 った秦 の損失 も少 なくなか ったが、敗 れた超 は壮丁
の大部分 を失 った のであ る。
そ の後 、邸 耶 の包 囲戦 では、自 起 の抗 命事 件 なども あ って、趙
す る。 時 に前 二二 一年 の こと であ
後 退 を余 儀 なく さ れ る。 が 、 ほどな く勢 力 をも り か え し、前 二三 年 に、 まず韓 を滅 ぼ した のを手 は
︱ で次 々 に六 カ国 を滅 は し、 ついに天下 を統
︱
じめ に、 わず か十年 ︱
︱
2
つ。
近代化 ″さ せること に成功 した商 君 の変法は、前後 二口 にわた って行 なわ
商君 の変法 秦 を ,
れ て いるが、前 二五 六年 に行 なわれた第 一回日 の改革 は、次 のような内容 であ った。
1、戸籍 の整理と連座制 の実施
、十家を ″
伍″
什 ・ と定 め、 什伍 のなかで法を犯した者 をかくまえ
戸籍 を整理し、五家を ″
ば、什伍 の全員が降敵と同様 の重罰 に問 われ るよう にした。 この連座制 は、人民 の反抗 に予
防措置を講 しておく意味 と、人 民を貴族領主 の極 格から解き はな って国王 に直属 させると い
解
う 二 つの側面 を持 って いた。
2、労働力 の強化
一家 に 二人 の子がある場合、そ の子が 一定 の年 齢に達すれば、分家独立さ せなければ ならな
いことにし、 この規定 に従わな い家 には、 二倍 の賦税 を課す ことにした。 この改革 のねら い
は、小家庭単位 の土地財産所有 制を確立し、生産力 の増強 をはかろうとし た点 にあ った。
3、軍功 の奨励
戦争 で功績 をあげ た者 には、その功績 に応じ て賞賜 を与 え、私的な争 いには重罪 をも って臨
むようにした。秦 の爵位 は 二十等級 に分かれ ていたが、敵 の首級 一個 をあげ た者 には、爵 一
等級 を与 えるか、または官位 を望む者 には俸禄 二十石 に相当す る官位 を与 えることにした。
こうし て軍功 を奨励した のである。
4、農業生産 の奨励と商業政策
H府 の
生産 に励 んで平均以上 の生産高 をあげ た者 には鶴役 ︵
公用 のため義務 とし て課される使役︶
を免除する ことにした。
一方 、商人 や遊民 には弾 圧政策 をも って臨 み、妻子とも ど
,
奴婢として使役す ることにした。 この商業政策 のねら いは、商人 や高利貸資本 による
土地 の
兼併 を防 いで自営農民を保護する意味と、国 の手 で商業 を独占 し、国力 の充実 をはかろう と
した点 にあ った。
5、貴族領主 ︵
宗室︶ の特権剥奪
戦 国 策
軍功 のな い宗室から爵禄 を剥奪 し、新 た に軍功 に応し て爵禄 を与 え、爵禄 の等級 に応して日
宅 の大き さ、臣姜 の数 を定 めた。 この措置 によ って軍功 のな い宗室 は 一挙 に世襲特権を失 い、
軍功 のあ った宗室 でも新 し い等級制度 に組 みこまれ て従来 の特権 を大きく失 う ことにな った。
それから九年後 の前 三五0年、商君は追 いうちをかけ て第 二次改革 に一
米り出 した。 その内容 は
次 のようなも のだ った。
1、町 や村 を合併 して県 に昇格 させ、県 ことに県令 を任命 して県 の政治を担当 さ せた。 これは、
貴族領主 の残存権力 を創奪 し、中央集権 を慣徹 さ せることがねら いだ つた。
2、日地 の区画整理を行 な って所有権 を確定 し、各人 の田地面積 に応 じて賦税を課した。
3、統 一的 な度量衡制度 を制定 した。
4、たとえば父子 兄弟 が同じ部屋 に起居す ることを禁止するなど、戎秋 ︵
異民族︶ の古 い風俗
を改 めた。 これも、 ″
近代化 ″政策 の 一つと見 ることが できよう。
二度 にわたる商君 のこの改革 は、秦 を強力な中央集権 国家 に生まれかわら せることに成功 し、
やが て、始皇帝 による全国統 一の威業 に道 を拓 いた のである。
四、社 会 制 度
戦 国時代 には、各諸侯とも、激 しい生存競争 に勝ち抜 くため、争 って富国強兵策 を採用 した。 その
推進役 とな った のが法家 の思想 である。 たとえば魏 の李憚、韓 の中不害、楚 の只起 、秦 の 商 快など、
いず れも法家 である。他 の諸侯も かれら のやり方 をまねた ので、そ の結果 、社会制度 の全般 にわた っ
て改革が行なわれ、大 きな変動が生 じた。む ろんそ の過程 にお いて領主、貴族 など伝統主義者 の激 し
い妨害 が行 なわれた。妨害が強く て改革が中途 で挫折 した楚 はい つま でも後進国として取り残 され、
それが徹底 して行 なわれた秦 が、 やが て次 の時代 のチ ャンピオ ンの座 に つく のである。
改革 とその結果引き起 こされた変動 は次 のようなも のだ った。
1、郡 県 制 度
周代 の封建制度 は、春秋時代 にも受け つが れていたが、局 王朝 の権威失墜 ととも に機能 を失 って い
た。 それ に代 わ った新 し い管理方式が郡県制度 である。 これ によ って領主 の封建的な割拠性 が打破さ
れ、王 の行政権 が直接国 の末端 にま で及 ぶよう にな った。
県 はも とも と徴兵 のための地方単位 として杏秋時代 からあ ったが、郡 は、春秋末期、未開発 の僻地
や国境地帯 に国防 の必要 上設 けられた。 そして開発が進 み、人 口が ふえるに つれ て、 い つしか県 の上
そ のねら いとす ると ころは、 いず れも中央集権 の強化 にあ った。
うす ることによ って王 の命令系統 を統 一したのである。
れたも のであれば、ただち に免職された。 つまり こう して査定が行 なわれた のである。
また、官吏 の任命 や公文書 の授受 は、官印 で行な われ、軍隊 の動員 には ″
虎符″が用 いられた。 こ
地方長官 の平時 における 一番大きな仕事 は租税 の取り立 てだが、かれら は年 の始 めにそ の年 の取り
立 て予定額を王に報告 しておく。そして年 の終りにその年 の成績 を申告す る。 それが予定額 とかけ離
くに功があ ると、それ に対す る報癸とし て黄金などが与 えられた。
封建制度 は領主 。貴族 の世襲制 の上 に成り立 っていたが、郡県制度 の下 では、 王から直接任命 され
た官吏が、そ の行政管理 のために派遣された。かれらはそ の地位 に応 じて 一定 の俸禄 を受 け、またと
2、官 僚 制 度
県令︶
県 の長官 ︵
には文官 が任命 されたのに対 し、郡 の長官 ︵
守または太守︶には武富 が任命 された。
こうし て、国 ・郡 ・県 ・郷 を結 ぶ統治系統が確立 したのである。
県 の下 には、さら に郷、里、衆と いう統治単位があ った。
級単位とな って い った のである。
国 策
戦
楚では上柱国︶
楚では令チ︶、武官 と し ては将 軍 ︵
こ の官僚 制度 の頂点 にあ った のが、文官 と し ては宰相 ︵
であ る。
楚では執珪︶・大 夫 は、
な お春秋時 代 、氏族 の有 力者 であ る ことを示 すも のであ った爵 位 の名称 、卿 ︵
そ のまま受 け つか れ て いる。
五、徴兵制 と戦争
春秋時代 には、領主 。貴族 はそれぞれに特殊 な主従関係 によ って支配 される独立 した軍隊をかかえ
て いた。
一国 の軍隊 と い っても、かれら の軍隊 で構成 された混成軍 にすぎなか った。
と ころが封建制度がくず れて郡県制度が確 立されると、それに対応 して軍事組織 の上でも国民皆兵
の徴兵制度が布 かれるよう にな った。
。
郡県制度 の 一番大きなねら いは租税 の徴集だ ったが、広 い意味 の租税 の中 には軍役も含 まれ る し
たが って郡県制度 はまた徴兵を行 なう ための地区単位 でも あ ったわけだ。
その多くは農民で、ふ?
こう して 一国 の軍隊 は、郡県制度 の網 の目を通 して徴集 される全国 の壮丁 ︵
,
十五︱六十歳︶で構成 されるよう になり、機構 の上 で王 に直属することにな った。
このほか、常備兵制度も設 けられ ていた。常備兵 は、人民 の中 から選抜 され て、 ふだんから射撃 な
国 策
ど の軍事教練 を受 け、
一旦有事 の際 には軍隊 の中核 として出陣 した のである。
戦争 のやり方も大 きく変化 した。まず、動員される兵力 の増大 である。春秋時代 は多く ても せいぜ
い二、 三万 にすぎなか ったが、戦 国時代 には十万単位 の兵 が動員 され るようにな る。中 でも秦 と趙 と
の間 で戦 われた長平 の戦 いでは、両軍合 わ せて百万近 い大軍が動員され ている。 これは徴兵制度が普
及した必然 の帰結 である。
十万単位 の兵 が常時動員されるよう にな ってから、戦闘形式も当然変 わ ってきた。
といっても馬にひかせた車︶で整然たる密集隊形を組 んで交戦 し、
春秋時代 には、戦車 ︵
一、 二月で勝
が左右 された のである。
り でなく、そ の国 の政治、経済、人 口の多寡、さらには戦意 の高低 など、総合的な国力 によ って勝敗
こう して行 なわれた当時 の戦争 は、まさに現代 の総力戦 に近 いも ので、単 に兵器 や兵力 の優劣ば か
のである。
には鉄製 とな って、格 しく破壊力 を増 した。そ のう えち の発明は破壊力 の増大 に い っそう輸をかけた
武 器は矛、剣 、弓矢 などが主 なも のである。本秋時代 には銅製 であ った これら の武器が、戦国時代
弩 が発 明され て密集隊形が不利 にな った ことなどから、歩兵 を主力 とする野戦、または包剛戦が支配
的 とな る。 そして、も っぱら持久戦 となり、何年間も にら みあ ったまま容易 に勝負が つかなくな った。
負 のケリが ついた。 と ころが、戦同時代 にな ってから は、農民兵が戦車 を乗り こな せなか ったこと、
戦
六、社 会 生 活
、米 翁芳 ︶
、麦、豆、麻 の実 など で、
北方︶
社会生活はどう か。当時 の常食 は、 アワ、トウ モ ロコシ︵
現在と ほとんど変 わらな い。衣類 は、麻 と納 が主なも ので、木綿 はまだなか った。綱 は高価な ので、
一般人民 はも っばら麻を使用 した。
鉄製 の農具が使 われはじめ、農業生産力が飛躍的 に高ま った。 それにとも な って各地 の産物 を交 換
す る商品経済も発展 した。 こう して大都市 には常設 の市が盛 え、大商人 や高利貸ま で出現す るよう に
な る。
都市 の人 口は、農村人 口の流 入でふくれあがり、春秋時代 には、大きな町 でも せいぜ い 一万程度 の
人 口にすぎなか った のが、戦 国時代 にな ると人 口数万 の町など珍 しくもなか った。
したが って人口は四、五十万になろう︶と称 され、道
たと えば、斉 の都 の臨蘭は前述 のよう に戸数 七万︵
を往来 す る車 と車が ぶ つかりあ い、行 き かう人 々の流す汗が雨 のよう であ ったと いう し、楚 の都 の部
郭も、人 ごみで押 しあ い へしあ いす るので、朝着 て出 かけた衣服が夕方 にはすり切 れるほど のにぎわ
いであ ったと いわれ ている。
、 趙 の椰耶、商 、離石、数 の大梁 ︵
今の開
の北京付近︶
このほか、当時 の大都市としては、燕 の繭 父■
国 策
、 靭、斉 の即墨、藤、楚 の宛、衛 の淮陽 、棄 の成陽などがあ った。
封︶
この時代 はまた中国思想史 の上から見 ても、最も活況を呈した時代 であ った。
以上述 べたような激 しい政治 、経済制度 の変動 の中 から生 じて来 るさまざまな問題 に対 して、儒家 ・
墨家 ・道家 。法家など の思恕家 たちが、 それぞれに解決策 を捉示 し、自派 の優位性を主張 して競 いあ
百家争鳴︶のだが、各派 の主張内容、 およびそ の生成発展 に ついては、本 シリーズ各巻 の解題 にま
う︵
つことにして、 ここでは省略 した い。
七 、 ﹃戦 国 策 ﹄ の成 立 と内 容
中国古代の大歴史家 ・司馬遷が ﹃
史記﹄を書くにあたって、戦同時代に関する事件、人物の事跡は、
年︶である。
︱一
ハ
そ の錯乱を正 し、現在 ある形 に編集 しな おして ﹁
戦国策﹂ と命名 した のが、前漁末 の 劉 向 ︵
前七七
戦国策﹄の原著者は明らかでない。おそらく、当時の口承の類、記録 の断片などがまとめられたも
﹁
、あるいはまた ﹃
のであろう。書名も、﹁
国策﹄とか ﹃国事﹄
短長﹄﹃
長書﹄などと呼ばれ、一定しなか
った。
戦国策﹄から多くをと ったといわれている。
﹃
戦
ちな みに、﹁
戦 国﹂と いう ことば は、も ともと ﹁天下 の戦 国七﹂ ︵
戦国策︶
などと いわれたよう に ﹁大
国﹂ と いう意味 であ った。
古 くは、歴史書 の中 に分類 され て いたが、 のちに、子部 の 従 横家 の中 に入れられ るよう にな った。
従 横家 とは、蘇秦 、張儀 の合従、連横から名をと ったも ので、戦 国時代 に、外交戦略を説 いた学派を
いう。む ろん学派とは い っても、儒家、道家など のよう に、整然 たる思想体系 は持 っていな い。
全篇 こと ことく、 いわゆる策士、説客 の権謀 術数 の言論、行動 でうず められて いる。
乱世 の戦 同時代 ともなれば、道学者 の金科玉条 とする伝統的な規範、道徳 は、用をなさな い。 そし
てそれに代 わ って新 し い時代 にふさわし い規範 、生き方 が求 められ る。時代 に適応 したも のは生き残
り、それ に失敗 したも のは滅 びる。 この理屈 は、今も背も変わり な い。
各 国とも あらそ って富国強兵 をはかる 一方、国力 の損耗を最小限 にく いとめるため、兵 を動 かさず
に、も っばら外交交渉 にう ったえて、事態 の収拾 をはかろうとす る。
こうした時代 の要求 にこたえ て、国際紛争 の解決 にあた った ″
移動大使″が、すなわち従横家と称
される 一群 の説客 たち である。
かれらは大臣 ・宰相として、
一国 の存亡を双一
月ににな って外交 の秘術を つくす。 ある いはまた自己
の売り込 み、保身 に、機知 を ふる い、詭弁を丼す る。
一歩 あ やまれば、国 の滅亡、身 の破滅を招 くだ
けに、真剣 そ のも のだ。 その弁説 にはかれら の命 がかか っていた。
それだ けにかれら の弁説 には、処世 の知恵、乱世 の英知が こめられ ている。現実 に密若 した思想、
と述 べて いる。
に喪 うを見ば、悔悟懲創 の心生ぜん﹂
すますも って明らかなり。小 人 のこの書 におけるや、そ の始 めに利あ って終り に害 あり、小 に得 て大
﹁君子 のこの書 におけ るや、事変を考 え、情偽 を究むれば、すなわち、守ますますも って堅 く、知 ま
ま た、元代 の呉師道 は、
からぎ るを知 らしめ、 しか る後も って戒となさば、すなわち明らかなり﹂
う べからぎ るを知ら しめ、しか る後も って禁ずれば、すなわち斉 る。後世 の人を して、皆 そのなす べ
﹁君子 の邪説を禁ず るや、固 よりその説 を天下 に明らか にせんとす。当世 の人 を して、皆 そ の説 の従
在 価値 を こう評価す る。
かれは、﹃
戦国策﹄ の内容 を ﹁流俗 に惑 い、自ら信ず るに篤 からず﹂と批判 しながらも、そ の存
が、
戦国策﹄ をも と の形 に編集 しなおした人物 である
唐宋 八家 の 一人曽輩は、劉向以後再 ぴ散 供 した ﹃
言 でな い。
しかし、﹃
まさに道学者流 のひんし ゅくをか った、そ の点 にあると い っても過
戦国策﹄ の面白 さは、
戦 旧策﹂を日して、内容浅薄、思想低劣 として、層をひそめた。
古来 、融通 のきかな い道学者 は、﹃
行動 に根ざ した思考がある。
国 策
戦
この二人 は、儒家 の立場 にた って、逆 の意味 での教育的な効果、 つまり現代中国 のことばをかりれ
ば、″
反面教師 ″を期待 したのである。
ま た、宋代 の李格非 は、
﹁戦 国﹂策 の載す る所 は、
た いていみな 、
従横神 関 の議謝、相軋傾奪 の説 なり。 その事 、浅隔 にして道
う に足らざ れども、 これを読まば、必ず そ の説 の工なるを尚 び、そ の事 の晒 なるを忘れん。文辞 の勝
これを移す のみ﹂
明代 の王党も こう いう。
﹁義理 の存 する所 にあらぎれども、窺麟掟計 にして、また文辞 の最 たるも のなり﹂
つまり こ の二人 は、内容 はとも かくとし て、そ の文辞 に ついては 一流中 の 一流だと評価 し ているわ
け であ る。
これが ﹃戦国策﹄ を最初 に編集 した劉向とな ると、さすがに違う。道学者流 の偏見から完全 に免れ
て いる。
﹁みな、高才秀士 にして、時君 のよく行 なう所を度り、奇策 異智 を出 し、危 を転 じて安 とな し、亡を
運ら して存 となす。ま た喜 ぶべく、 みな観 る べし﹂
宋代 の蘇洵 は、 い っそう積極的 に評価す る。
﹁少年 の文字なり。ま さに気象 をしてけ疎なら しむ べし﹂
国 策
気象を岬檬ならしむとは、気持をふるいたたせる、やる気を起こさせる、というほどの意味である
戦国策﹄が読みつがれてきた秘密がかくされているのかも知れない。
が、あるいはこの辺に、古来、﹁
戦国策正解﹂、安井息軒の ﹃
戦国策補正﹄等 の注釈書がある。
日本には、横田惟孝の ﹃
﹁
戦国策﹄ の構成は国別に 分かれている。 すなわち、 西周 。東周 ・秦 ・斉 ・楚 ・趙 ・魏 ・韓 ・燕 ・
一章におさめた。
。ここでは、歴史的に大きな影響をも
士二
一
一
篇︶
宋 ・衛 ・中山の十二国である2 国をさらに数篇に分け計一
ち、説話としても興味のある七日を重点的にとりあげ、西周 。東周 。宋 ・衛 。中山の小国はまとめて
戦
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