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英國中世の外國貿易 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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英國中世の外國貿易 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
英國中世の外國貿易
Author(s)
重藤, 威夫
Citation
経営と経済, 32(1), pp.115-142; 1952
Issue Date
1952-09-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/27303
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
英 國 中 世 の 外 國 貿 易
重
藤
威
夫
英国の初期に於ける外国貿易の特徴は﹁受動的﹂であることである。輸入は殆んど例外な-外国商人により・外国船
で英国の海岸にもたらされ'輸出は外国商人によ-外国胎で行われた。りこれは中世時代の英国薗人が未だ海外事情に
くら-'外国眉易の経営に習熟していなかったからであ-'これと同様のことは明治初期の我国や現代の中国に於Sて
も見られる現衆である。
毎時の英国の都市商人は外国商人に封して極めて排他的であり'彼等の英国内に於ける活動を狭い制限内にとじこめ
ようとしていた。外国貿易は外国商人に委せるが'国内商業に対しては彼等の介入を一切排除せんとした。そのことは
次の外国商人に封する譜制限となって現われて5る.英国人自身の都市でのすべての取引に課せられた譜負担や譜制限
の他に'外国商人の場合には'四〇日を限って取引の目的のためにのみ在留を許された。叉宿屋に泊ることは禁ぜられ、
せんとするにあった。これは人質(hostage)の慣習と呼ばれている。外国商人は小売取引は禁せられ、卸売取引のみが
英国人の豪庭にのみ泊ることが許された。IJの目的は外国商人の活動を監視し,彼等の違法行為に封して証拠を明かに
許された。叉他の外国商人との取引も許されなかった。
他方に於いて'国王や有力な貴族階級は外国商人に味方した。彼等は大地主として大陸の商人達と直接に取引し,英
国商人の中間的利益を排除せんJJ.欲していた。その結果,政府から諸鐙の特権が外国商人に対して与えられたoその目
的は が只=3[-嘉に品J国への来川音. *-・>'I-'.ルがためで-r-:リ.りニi:/--,n・-:りしい国は、二1,uHi午しエドワ-'-I
世によって発布されたCartamercatoria(商人法)である。その規定によれば・をれはドイツ・フランス,スペイン・
経営と経済
一一六
ポルトガル、ナパ 1 ル、ロムパルディア、トスカ一一 1、プロパンス、カタロ一一ア、アキテ 1 ヌ、トウール 1ズ、クヱル
シ1、フテンダ 1 ス、プラパン及び他のすべての外国から英国に来る商人の平和と安全とのために与えられたものであ
伯仲
る。又その規定によれば、外国商人は附加関税 22REs-2 OB的)を支払う代償として、居住の明白及び場所に関す
る以前の・制限や商品が売却さるぺき相手方に関する制限定すぺて廃止した。又大多数の商品の小売はな沿英国市民が独
占を保持していたが、次第に重要注商品と怠って来た香料及び絹織物の小売は特に外国人に許された。都市当局は外国
人 に 討 し て 、 。RZBORms-ω によって速かに裁判すぺき義務を負わされ、又それは外国人の訴えを聴くために王室
判事が特別に任命さるぺきととを規定している。同時に厳格泣刑罰をもって、外国人に封し裁判をたすととを担む都市
当局を威嚇した。更に将来に於いて英国人と外国人との聞に生宇るよう泣訴訟の場合、陪審官の一半は問題と怒った外
若しこの法律が厳格に行われたならば、従来の英国都市の商慣習の多くは廃止されたであろう。しかし市民からの執
国人がやって米た都会の商人から成立つととを命じた。め
均且つ熱心注反封運動によって、との法律の規定の或ものは廃止されたり、或は無視されたりした。かくて数世紀の問、
英国の外国貿易の初期の歴史は、市民と外国人との問の利溢の筒突に基く不断の争に満たされて居り、その発展を妨げ
円
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88gw 回目的同04 。同開口m
gr ぐ0 F のrmw・X
られて来たと一一一口い得る。との抗争の過程については、ピ宮 opw 叶 FO開
初期の英国商業
一、英国民於ける外国商人の地位勾
に詳しく、その大要を以下紹介する。
(一﹀
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の記録文書は、ピリシグスヂ 1トで謀せら
第十世紀の後半に英国の海岸を訪れて来る海外からの商人は、既にかなりの数に上っていた。そしてその貿易を行う
O二
八
ことは法律によって承認されていた。ヱセルレ γド二世円九七八 l 一
H う沼や乾燥魚をもっ
れた取引税(件。ロとを規定し、英国に地歩を占め得た各種の外国商人の団体を列挙している。﹁ぷ こ
て来たル 1アン O商人は、舵一隻毎に六シリングの税金を支払った。フランダ i ス、ピカルデイのポントウ、ノルマン
、
ヂイ及びフランスからの尚人は、彼等の商品を示すべきで、且つ取引税を支払う義務があった。ヒュ l、リエ I Uュ
m
g
d宮問。即ち外国商人に探せられる取引税を支払っ
た。﹂英国と大陸との山に或程度の貿易が存在したことは、七九六年にシヤルマ l 一二大帝からメルシア(宮2江戸)の
及び一一 lプル (Z百丘町との商人は、との国を通過する場合には
と欲する巡礼者については、.彼等が平穏に旅をなし、あらゆる障害から免かれ、彼等の欲するものを入手し得るよろに
国王オファ (O止とに送った有名た手紙の中で示されている。﹁神の愛と霊魂の救済のために、聖徒一の管区を巡礼せん
許可を与えている。しかし彼等の中には巡礼者を装った商人が混っていることが発見された ο彼等は宗教上の奉仕をな
の取引税を支払わねば・ならない。貴下は貨国の商人について我々に報知すべきである。我々は昔時の商取引の慣習に従
すのでわなくて、利得主追求せんとするものである。若し彼等の問に商人が発見されたならば、彼等は正規の場所で一定
って規定された通りの保護を彼等に到して与えるであろう。万一彼等が不法な圧迫によって苦しめられた場合には、王
室か或は裁判官かに訴えることができる。我々は正義が彼等に均してなされるように命やるであろう。我国の商人に封
ととを許されんととを。かくて我々一向因。問に何等の不和も起ら泣いようにしたい。﹂との手統は英国の設も古い通商条
しでも同様の思惑が与えられんととを。万一彼等が貴国に於いて不法怠取扱を叉けた場合には、貴国の裁判官に訴える
(JJE
おお
0)
は、彼等が帆の使用を発明した七八九
(ZR各自
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) が侵入して来るまでは、英国の外国貿易は発展し泣かった。との時代のスカンジナピア諸
ザハカンジナピア民族の企業心
約であってフランク王国と英国との間の貿易関係を健全且つ親密怠基礎の上に訟くととを目的としたものであった。
(一一﹀
ノルマン人
民族は箸るしい企業心と品川動力とを現わしていた。北方海賊の時代
γトランドとアイルランドの海岸に根拠地を有し、それらの地方にノルウェーの鋳造貨幣を最初にもたらした。デ
年に始った。彼等の勇敢た胃険的た精神は、彼等が乗り越えた広い海によって示される。ノルウェー人 (228gg)は
スコ
一一七
m毛色g
) は、北はノずゴロドから市はド一一ヱプルにいたる地域に大スヱ 1デン王国を建設し
他方、スエ 1デン人 (
l ン人(ロ82﹀はノルマンデイとイングランドに侵入して来た。
英国中世の外間貿易
経営と経済
一一入
された。ヱリクの子リlフ (F
丘町﹀はアメリカ大陸を発見し、彼はそとをヴインランド門現在のノヴァスヨチヤ地方 u と '
た。アイスランドとグリーンランドが発見され、そとに植民が行われた。後者はヱリク(肘片山♂岳o何色)によって発見
し た こ と は 、 望 。 Z40 に献じられた諸教会が現在残っていることと地名とによって託され得る。特にリンカーンシヤ
名 づ け た 。 ィ ン グ ラ ン ド で は 、 ヌ ル マ ン 人 は ノ 1サンプリアとミッドラン'ドの諸地域を占拠した。彼等の植民地が永続
ーには彼等の占拠の記録が多い。イングランドのデ l y人が居った地域には一三七三に上るスカンジナピア的危地名が
残っている。その中の六O四 は 語 尾 が 写 で 終 っ て い る 。 例 え ば 、 UOHS
‘
巧 Z号可等。リンカーンシヤーには古川尾が
デ1 ン人の影響の重要性
芝で終る都市が二一二存在する。
︿二一)
デ l ン人による英国の征服は、初期の英国の尚業史に於ける故も重要注出来事であった。北方の海賊は舶来だけでた
く商人でもあった。彼等は海賊であると同時に商人であった。彼等の墓には秤皿と共に戦斧と創とがゐかれている。彼
の通商路を発見し、又コンスクンチノ 1プルやアジアとも通商関係主樹立した。来印度への海路の発見やイタリア諸都
等は英国の・海岸に欧洲の北方と西方地域との産物並に東洋の特産品をもたらした。彼等は黒海及びカスピ海沿岸地方へ
かれていた。かくてスカンジナピアは、アラビアの産物とカスゼ海沿岸諸国の商品の主なる集散地となった。英国が銀
市の日勤より、もっとけ十い時代に、パルト海とアラビアとの同にロシアの大河(ドニヱアル河等)に沿って通商路が閃
貨ど鋳造するために佼った求方からの銀は、スカンジナピア経由であることは明かである。
英国とノルマン地万 2ZZ2岳)との問に外国貿易が盛んに行われたことは、ゴlトランドハのopgE現代のスエ 1デ
シの沼郡地方 uにかたりの萱の初期の英国貨幣が発見されたことによって実証され得る。デlン人の移住民が英国の貿易
に与えた功績の中で故も価似あるものは、新しい通商路主附いたとゅうととよ・0も、むしろ従米英国人が知らたかった
船乗としての智識と熟練とを彼等に伝授したことである。アングロ・サクソン民政白身は本来航海に到しては殆んE興
味を示すことがなかったのであって、結束生活については不慣れであった。事実、アルフレヲド大王が海軍を制定した
によって、海を越えて三度情海した商人は豪族ペ岳ぬロroofの地位に列せしめるとゅう国王の勅命は、その当時悦海に
(時に、その釆組員は少くともフリーズランド人ハフリーズ一アシドはオランダの北部up一使わねば危年りたかった。自らの資力
ついての功絞が如何に高く評価されたかを示すものである。スカンジナピア民族が造船技術上にもたらした諸革新は、
彼等をして近代造胎術の建設者として仰がしむるに足るものがあった。彼等によって尽の時や荒海の坑海に堪え得る姑
.舶の辻造が可能と怠った。かくてデ I ン人の移住は英国の造船・菜に刺戟を与えたのみならや、英国民に堅忍不抜た且つ
早川気ある要素を導入した。かかる要素は海上 C活動に沿いてその精力のはけ口を見出したのである。かかるやり方で、
カヌ1 ト玉︿イシグラシド玉及びデシマーク玉、九九四?l 一
O一ニ五﹀
デ l ン人は商業上並に海上の回大国としての英国の偉大さの基礎を形成するに貢献した。
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四
﹀
ノルマン人の移住の結果として、英国の外国貿易は急速に発展し始めた。それまでは外国貿易は大陸の最も近い近隣
地方に限られていたが、今や貿易関係はスカンジナピア地方ゃアイスランド、グリーンランドとさえも閃かれ、間接的
にはアラビアや極東地方とも問かれた。カヌ 1ト王は英国商人が海外旅行をなす場合の安全を確保するために色々の手
マの貴族連に均して、私の臣民である英国人やデンマーク人の希望がかなえられるように交渉した。即ち、臣民達がロ
段をめぐらした。彼は臣民に討する一文書中で次のように書いている。﹁私は来フランク王国皇帝やロ l マ法王やロー
ーマに行く旅行に於いて、より以上の公平な正義とより以上の安全性とが与えられんととを要望し、又彼等が途上での
多くの障害や不当の税金(件。口白)によっ℃苦しめられるととがないととを要望した。﹂
いたら、それは明かに不運であった。何となれば、スカンジナピア民放が発揮した輝かしい活力は問も友く消耗され、
若しカヌ 1ト玉が必設した大デンマーク王国が永続したならば、英国は永久的にその運命を北方ヨ 1 ロヅパと共にし
たであろう。そして南方ヨ 1 ロヅバ勢力と商業活動とから、多くの世犯にわたって孤立したであろう。若しそうなっ℃
全く消え去ったからである。しかも将来の運命は南方ヨーロッパと結びつけられていたからである。ノルマン人の没落
一一九
と運命を共にするととから英国を救ったものは、ノノルマン征服 (ZOHBgn。
25伯仲)であった。そのととはロ 1 マ帝国
英国中世の外国貿易
経営と経済
英国に於ける外国商人
一
一
一
が西欧諸国に遺産として伝えた大なる文化の華を英国も享石ずることを可能ならしめた。
(五﹀
O
中世の一初刊切には英国貿易の支配権は主とし℃外国商人の子中にあった。彼等は英国に永住するためにやって来たので
わたくて、英国と諸外国との問の中間商人として来往した。しかし乍ら、彼等の歴史は英国の都市行政当局と長期にわ
たる不断の闘争の記録である。市民連は彼等が英国の諸港に来るのを妨げようとはしなかった。何と怠れば、英国人が
輸出入貿易業を営み得るようにたるまでは、英国の物産を外国商品と交換し得る方法が外に泣かったからである。しか
し市民達は外国商人を特定の許可を得た英国商人(
g骨ちの宮白色可包 Oと
H との問の卸売取引にのみ制限した。そして彼
等を英国商人の問で取引するを許さ宇、且つ英国の消費者との問。小売収引を詐さたかった。換一一一一目すれば、園内商業は
等は大地主として大陸の商人と直接に取引し、自国の物産を彼等に売り、その代りに輸入品を彼等から購入することに
英国人む手中に握り、外国貿易のみを外国商人に詐さんとするにあった o との政策は国王や貴族の利益と街突した o彼
る国王の返答によって一不されている。彼等は国玉に到して次のように訴えた。外国商人はロンドンでの取引によって、
よって、英国商人の中間的利益を排除せんと欲していた。との利益の筒突は一二九O年のロンドン市民の請願書に討す
本国商人よりも多くり利益をあげている。何となれば本国商人は彼等や一貧困に陥れるととろのすべての財政上の主荷を
負姐せねばならないからである。外国商人は問。日以上英国に滞在すべきでわ泣く、又市民に到してのみ売るべきでb
る。かくて彼等がすべての利益乞英国から持ち去ら怠いようにし泣ければたらたい。それに封ずる国王の回答は英国商
らである。
人に不利であった。国王は彼等を排除するととに同意したい。何とた札ば彼等は交族階級にとって便利で且つ布川だか
幾世紀の問、英国の商栄は市民と外国人との問の利害の街突に基く絶えざる争によって、その発民主妨げられてたた。
小売商栄の独占権を確保し又外国商人と消究者との也接の接触を妨げんがために、市民は一定の法泌を制定することに
努めた。即ち、外国商人は凶O 日より長い期間英国に滞在しτわ怠らたい。そして英国人の病舎に泊らねばたらぬ。そ
の宿の主人は外国商人の商取引をすべて監視したければたらぬ。外国商人は小売取引を許され宇又他の外国商人との以
三00年にエドワード一世が外国商人の状態に関して報告を求めた時に、ロンドンの市川町は次のように宣一一目した。外国
引も許され泣い。既に十二世紀の前半に、外国商人は小売販売や伺一都市に問。日以上滞在するととを禁止された。一
されていたい。彼等は市民の家屋に居住せねばたらや、その期間は問O 日を越えてわなら泣い。その期間内で商品を売
商人はその商品を貯蔵するために借入れた家屋に住むことは詐されやノ、又その家屋に他の外国商人を泊らせるととも許
るべきである。
ngHZ吋)中に自治権に関する条文を挿入した。一一八八年のプリストル二
長一初市民の主校は成功し、都市の特許状 (
一九二年のダプリン、一二三二年のウォーターフォード、一二五三年のドロググの各都市の特許状は、外国商人は問。
日以内に商品を売さばくべきことや、年市(同巳2) を除いて、小売で布同却を売るととを禁宇るとと f、市民でたい者か
Jb
多く外国人が集中していたのはロンドンであった。
ら獣皮、穀物、羊毛を買っτわ訟ら訟いことを命令る条文を匂合している。かくてロンドンのみが外国商人に釘して、
取引の自由を制限していたわけでわ泣い。その当時、英国内で故
(六) 外国商人代対するエド 7 1ド一世の政策
γチは一二八六年に、アミアン及び共
外国商人。滞在期間についτは、時々特定の外国都市からの商人に有利なように例外規定が設けられた。ハンザ同盟
は特権的地位を享有した。ヘンリ 1一二世時代にロンドンは一二三七年に、ノルウイ
たると英国人たるとを問わ宇、何人にもその大青染料を売るととができるようにした。再びへンリ l三世は一二六O年
他一・この都市の大青染料。商人と協約を結び、彼等が欲するだけの矧問、都市に滞在するととができ、且つ外国人
にドウヱハロ0 5 C C人々におして、彼等がその商品を輸入することができ、関税を支払った上で、自由に英国に来住
にもブドウ泊をもたらすための安全通行証を与え、同時に(一二三六年)彼等のブドウ泊を国王自身の使用のために取
し、滞在するととができるように許可を与えた。彼は又商人選が従来の関税を支払うことによって、英国の如何怒る港
り上げ泣い旨を約束した。又他の人々がそれと同じことを注すのを許さ伝い旨を約束した。しかしエドワード一世は特
英国中世の外同貿易
経営と経済
‘四国亀
U
の管理の下に公かれ、立法院会Z
Oえ丘52) は Zo
言
。日以上滞在するととを禁止し、又ガスコ 1 一一ユの商人が、他の外国商人にプドウ沼を売ったと C理由で、そのプドウ
(Z2岳)にガヴェストン門人名︺を救援するために引を進めている数坪・問に、市ほんは玉の不在を利用して、外国人が問
然と苦かれたととは明かであるが、ロンドン市民はその意味を明確に知っていた。エドワードがスコットランド地方
新関税制度)を非難し、外国人は﹁古来の慣習に従って﹂支配さるぺきととを命じた。この文一一一口は故意に漠
一二一一一年に王権は諮問会︹アンドレ・モロア英閏史上ご五一頁
。52BP(
エドワード二世は父王の政策を、父王の上うに強力に遂行するととは彼の力を以てしては困難であるととを知った。
(七) エドヲ1 ド二世の政策
の新しい税関吏の任命を拒否するととによって彼等の不満を表明した。
し、叉彼等が欲するところは何処にでも居住す右ととを許した。とのととはロンドン市民の嫉妬心を刺戟し、彼等は市
を定め、同・時に外国人に釘して、英国人たると外国人たるとを問わや、それらの人々との問に卸売取引を結ぶととを許
えた。彼の治世の末期に、外国人と王室との問に新しい金融関係の基礎を樹立した。有名訟の常Z 冨2ggユ"は関税
わたって、ロンドンの自由権を停止した。それを後で復活したが、その機会に外国人に到して大怠る程度の自由を与
れた。又彼の即位後、彼等は国王に封し℃金を貸した。二一八五千に彼はロンドン市の支配権を掌握し、十三年間に
人は彼の好意に封して代償を支払わねば注らたかったのであって、その金額についてフランスの国王から抗議が発せら
年に彼等をその保護の下に語いた。しかしエドワードの行動は全く私心がたいわけでわ泣かった。何とたれば、外国商
の好意を示した。父へンリ l三世 C在世中にずら、エドワードは外国商人に封ずる彼の関心を示した。そして一二六六
レアノ l ル女王の処置に封ずる反感によって或程度動かされて、ロンドンの諸特権を停止し、外国商人に封してかなり
﹂しかし国王はヱ
拾わせた。チ 1プハ地名︺の一方の側の溝渠には白プドウ沼が流れ、他の側には赤プドウ沼が流れた o
彼の即位に討してロンドン市民は大たる喜びをあらわした。﹁市民は窓から金や銀をばらまき、誰でも欲する者には
格的都市の独占権を破ろうと熱心に試みた最初の国王であ・った。
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沼ヂ一波牧した。一三二二年に議会はエドワードの下に王様を復活させ、又 Z04
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52gp は復活した。彼は治世の最
後の年に新しい産栄汁画に乗り出した。しかし彼の計画の遂行に当つては、外国商人は英国への出入国については国王
エド7 1ド 三 世 n一
一
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︼ の政策
の保護を交け、且つ何人ら彼等に生口を与えるととを禁止する旨を宣告した。
(八)
エドワード三世の治世は英国の商工業の歴史に重要注地位を占めている。その時代は政治上並に商業上の多数の実験
によって満ちている。その時代は長い破滅的危百年戦争を開始したが、英国貿易の発展.に著るしい足跡を残している。
政治家の忠忽が彼の行動によって判断され得る限り、エドワード三世は後代の重商主義の政治家達に北ぺて、比較的門
国と向型炉一結び且つ大陸にまで英帝国を拡大せんとする彼の政策を有利たらしめんがためであり、他国に於ては物資を
戸開放政策的危出栄政策を採用したように忠われる。彼は外国人に封して奨励を与えたとゅうのは.一一回に於ては諸外
彼の治世の最初の年に議会は外国人に不利伝詰願をした。そとでエドワードは外国人は問O日以内にその商品を売り
豊富にし、且つ廉価伝らしめんがためである。
且つ英国人の宿に滞在すべきととを命、下る特許状をロンドンに与えた。しかし一三五五年に一の法律が発布され、商人
は特許地たると否とを間一わ宇、すべての場所で自由に取引し得るのであって、それに反するすべての﹁特許状や慣習﹂
わらや、その特権を保護する特許状を得た。それにもかかわらやエドワードは、外国人は輸出入貿易のために必要であ
は無視して差支えたい旨を規定した。然るに二年後にはロンドンは﹁市の自由と慣習とを害する﹂法律の存在にもかか
るばかりで伝く、国内の資源開発のためにも必要であるととを確信していたととは明かである。彼は外国の織物工の来
住を奨励した。又外国の時計エも招聴した。一三四七年には外国人である FヨロZHmF のティドマンがコ 1 ンウオール
で錫の売買の独占格をもっていることが不平の根拠とたった。四年後(一三五一年)に一三三五年の法令が更新され、
。土地に移位し・泣ければたらたく怠ったことを繰返し訴えた。一三六七年に国王は外国人の小売取引を禁止するととに
A えられた。ロンドンは市民が特権を喪失したために、多くの人が市を立退いて他
取引の完全紅白山がすべての尚人に Lゴ
英国中世の外国貿易
経営と経済
一一一四
同意させられたが、その翌年に彼はロンドンの奉行(回ZZ止)に一三五一年の法律を遜奉するように布告を発するとと
を命じた o とのととを奉行は敢えてなし得たかった。ロンドン市民の怒は械度に達し、或る男が外国商人は市民と同様
に自由に取引するととを許されたとの誤った報知を弘めたとゅう理由によって、曝台に立たされる処罰を一党けたほどで
gg
あった。
同(善良議会)に於いて到来した。その時エドワード三世がつくり上げ
彼等の好機会は一三七六年のの 0弘
0 吉長
た政府の組織が崩壊し、国内のすべての不平分子はその不平のはけ口を見出した o彼等はロンドンが貧困化されつつあ
って、愛国的見せかけの下に彼等の目的をカ今ラージュぜんとしたものである。しかし彼等はその目的を達した。一
り、且つ外国のスパイによって英国の秘密が曝録されつつありと主陀抗した o とれは明かに単怒る口実にすぎたいのであ
の特許状が彼等に与えられた。そして彼等の敵であるジョン・オプ・ゴ1シトの影響の下に選挙された一三七七年の議
1 ド二世下のロ
η
ノチヤ
yド yの内託
会でさえ、彼等の独占権については何等触れることが泣かった。
(九)
リチヤード二世の即位と共に混乱した且つ面倒訟関係が生じた。政府の政策は年一年時鈍化したように忠われる。しか
しとの時代の中心点は明かに次の事実である。即ち、との時代を通じてロンドン市民間の党派的闘争は国民的性格を帯
びて居り、しばらくの問、議会の行動の方針を決定したことである。リチヤードの治世中には、ロンドンのギルド問の
争と議会の政策とを結びつ庁ない訳にわ行か友い。食料品のギルドは国王の味方であり、他方非食料品のギルドは自由
於いて、その時代の勤格常泣き政策を理解するととができる。一三七七年の九月に食料品商人の指導者であるプレムプ
商業を主張し、ジョン・オプ・ゴ1ントが率いる国王の反封党と結びついていた。彼等が覇権を獲得ぜんとする闘争に
ルが市長であった時に、その商人達は国王に金銭を貸付けた。そのために十二月に国王はロンドンとノルウイヅチとの
マ腕に応じて、外国人主小売商業から除外した。これらの特許事項を確保せんがために色々の千段がとられた。市内に
商品をもって来た商人を取調べ且つロンドンの諸特権が彼等のために侵害され訟いように監視するために冨52宮 が
住命された。しかし数ヶ月後、一三七八年の九月にゴ l ントがロンドンからはたれた場所のグロ1スターで議会を開い
た時に、そとでロンドンの独占権が廃止された。﹁多くの理由によって、外国商人が王国内に来往するのは極めて有利
である。﹂との理由にもとづいていた。外国人はあらゆる種類の商品を卸売で売買する白山と、小さい商品と食料品と
一三八一年と一三八二年にプレムプルの敵手であるノ1ザムプトンが市長になった時に、議会は再び外国人の諸特権
を小売で売買する白山を許された。又外国人同志互に取引するととも許された。
ととによって推測され得る。彼等は市内に叛乱をひき入れたととによって告発されさえした。‘外国人を有利に取扱うこ
を確認した。魚煩商の憤怒の大さは、一三八一年の恭勤の時に、魚類商の指導者中の或者が、ーその暴動を暗に奨励した
とは、市内に大き伝動格を捲き起した。その反針運動の閉さは、談会に提出された詰願書がそれを証している。下院は
市民の聞に平和が回復するために、ロンドンがその特権を完全に回復すべきことを願った。議会からの返答は与えられ
た。即ち、市民はその特権を保持すべきであるが、市長の支配に股さねば伝らない。但し、外国人に封ずる諸自由権は
除かれる。ノ1ザムプトンが二年間その地位を保った後に失脚し、一三八三年九月にプレムプルが市長に選ばれた。そ
して彼の地位を﹁ロンドンの或程の子工業者の強い千によって﹂維持した。その直後、十一月にロンドン人は新しい特
許状によってその独占権を回復した。
rovpEE印刷よユZB02 は、プレムプルや国王覚員の数人を処罰したが、外国人に討する諸特権を回
一三八八年に円
復した。それにもかかわらや、風汐は外国商人に逆汐に向い始めた。一三九O年に詰願寺が提出された。それは英国に
来る外国商人は、英国商人が外国で取扱われるのと同じ待記を一父くべきであると主民するものであった。とれは十五世
τ不利であった。外国商人は﹁よく丁
紀を通じての排外党の以誇であった。しばらくの問、国王の回答は排外先にとっ
寧に且つ正しく辺せらるべき﹂であるとした。それ故、彼等は英国により勇んで来たであろう。しかし一三九三年に国
王は外国人に有利忽以扱を廃止する自信をもち、彼等に到して一件び昔の諸制限を加えた。ロンドンの商人は十四世紀ο
央以後、宮と勢力とを次第に増大しつつあった。彼等は国王の特許状を得るととによって、その社会的地位を高め、強
一
一
一
五
間訟ものにした。今や彼等は事態が示しているように、闘争を彼等に有利伝ように展開し、国王に討して彼等の希望を
英国中世の外周貿易
経営と経済
-YYカ ス タ1王朝の政策
強制し得る地位に達した。
(
十
﹀
一
一
一
六
ヘンリ 1四世は財政困難のためにその権力を弱め、商人階級の要求に到して抵抗することができたいようにたった。
r 。四年に、外国商人は英国商人が他の国々で受けるのと同じ取扱を交くべきととが立法化された。彼等は彼等相互
一問
の問で商品を売買することを禁止され、入国後三ヶ月以内に商品を売ることが要求された。又彼等が儲けた金は英国口問
を買うために究さるぺきことが要求された。しかし、その翌年に、三ヶ月以内にその商品を売るぺしとゅう規定は、イ
タリア商人の詰腕によって廃止された。ヘンリ l五世は党玉の政策を遂行した。そして一間一三年と一四一六年に外国
人を排斥する政策が確実にさ,れた。しかし次の治世には、外国人を排斥する法律が実行され泣いとゅう不平を訴える請
願首の長い流れが見出される。一間二七年に下院は、外国人に関係ある諸法律がよりよく守らるべきととについて、強
い抗議をした。.
後期のランカスタ I王朝の統治の不人気の原凶の一は、外国商人を排斥する法律を実行するのを怠ったからである。
MM u
。
。
町
何
回 Mmgr
その政策は商人階級を王室から離同せしめ、ロンドン市の王室に到する愛渚を弱くした。叶roHLro。吉宮は十四世紀以来、繰り返し不平を述べている。そしτ海外の英国人は英国内の外国人よりも悪い待迎を叉け、
たととを示している。﹁第二一の条項であり、嘆くべきことは次のことである。イタリア商人やハンザ商人等は長い間滞
プラパンでは英国高人は十四日以内にその商品を売り、物資を買入れねばたらたいととを嘆いている。一四五二年に出
版されたヨ lク王朝時代のバンフレ γト のOBgRa己のユぬぐg g回は、商業問題が既に政治問題に影響するように怒っ
リチヤード三世は人気を得んがために努力を惜ま泣かったが、一つの法律令一通過させた。それは外人に討する小売取
在することが許されて庇り、又彼等が欲するままにその商品を売るととが詐されているととである。﹂
外国人が他の外国人に到して売買を禁やる旨の特許状をロンドンに与えたけれども、たの法律を廃止した。十六世紀を
引や滞在期間についての以前の制限を復治した。この場合、期間は問。日から八ヶ月に拡張された。ヘンリ l七世は‘
通じて、外人民封する不平の戸は絶え宇存在した。一五一四年の商人及び手工業者からの請願書は、外国人は英国に一
ヶ月だけ滞在すべきととを要求している。ロンドンの靴工は、彼等の競争相手である外国人の靴工を次のようたばかば
かしい理山で攻撃している。﹁との王国内のすべての人民がまやかし物の靴を使用して、大なる損をしているのを見る
のは甚だ憐むべきととである。﹂
(十一) 外国人の宿合
外国人に反討する法律。立法に封して運動するととは市民遠の計画の一部分にすぎ伝かった。他の部分は外国商人を
英国人の宿主の管理の下に訟くととによって、排外的訟法律を実行せんとするものであった。その宿主は客人に封して
て庇視すべきとと﹂を宣誓した o
、
責任を有し、彼等の向取引の全部について立会った。宿主は﹁宿泊している外国商人がもっているすべての商品につい
との制度は古いものであった。何と怒れば、十二世紀にへンリ1二世はセント-オマ l(pogR)の市ほんに封し
て、彼等がロンドンの宿を自由に選択でき旦っそ O商品を役人の監視を受けるととたく自由に販売し得るととを、例作
る法活は、彼等がロンドンの市壁内で自由に欲するととろに宿泊し得ることである。﹂しかし、とのととは実行するの
的危特権であるとして許可した。叉ドイツ商人にとって有利訟例外的特権が与えられた。﹁ドイツ皇帝の人民に共通す
が困難であった。既に一二六九年に二O人の商人が、彼等が彼等自身の秤を使用したとゅう理由や市ほんむ住宅に泊ると
000ポンドの罰金を探せられた。一二八五年に外国人 220門
官2ろ は 、 市 民
とを担んだとゅう理由によって、一、
oENgω) や外来人 (2Hggg) むために宿屋 C主人にたるととを法律によって禁止された。
(品
(十二) 右の制度の実施の困難
ロンドンは宿舎の制度を強制的にたさんと欲し、外国商人に封して、﹁今より後は、彼等自ら旅宿を経営するを禁じ、
一
一
一
七
g
) の宿にのみ泊るべきであって、然らざる場合には、彼等の不動産全部を淡牧すべきとと﹂を命
且つ自由市民 280自
英国中世の外国貿易
経営と経済
一
一
一
八
ρ初期(一四
じた。一三七七年に他の請願者は﹁外国人は王国内に旅宿を持つべきでないとと﹂を主訟した。十五世紀
ぜるととによって、との制度を有効な基礎の上に確立十んとする熱心な試みが+ほされた o 外国人は﹁或る有名な家﹂
O四年)に、外国人が来住ぜんとする各都市の行政当局に、それらの外国人を受容すぺき宿主を選定すべき義務を負ね
(8goggrzZ50) に、但しその家主の承諾があった場合に、宿泊すべしとする要求は、一間一一年、一四一三年
及び一四二O年の詩願書で繰返し主張されたととろの主旨であった。
一方、一四二五年には﹁すぺての外国商人は、到涜後十五日以内に且つその商品を販売する以前に、宿主を定むべき
こと﹂が要求された。又宿主の下に来てから問OB以内に、その商品を販売しなければならなかった。市民速のかかる
に釘して、彼等の管理下にある外国商人が自由な行動をとることを許した場合には、外国人一人につき六0 ポンドの割
。sggm﹀は、市長 (gas) や役人ハ宮山一片岡)
r
o。
努力のすべてが夫放に帰したために、'一一四三二年に英国議会。下院 2
月に拡張し、罰金主減額した。即ち、ロンドンの市長は監督不行届に到して四0ポンドの罰金を、他の都市の市長はそ
合で罰金を課する旨の威嚇をなすにいたらしめた。とれはあまりに行き過ぎであった。翌年に議会は滞在の期間を三子
の半額を課せられることになった。しかし政府は依然として譲歩するととを担否し、それに封する返答は常に﹁国王は
ミURとであった。多くの犬敗の後に、執劫な努力の給公、一四三九年に下院は成功を牧めたよ
敢て行う﹂ (FOBZ.
はすぺての取引について立会うべきであるとした。との法律は大なる注目を浴びた。それは八年間はよく保たれたが、
うに恐われる o下院は法典築の中に一四三九年度の次のような一法律を収めるととに成功した。それによれば、外国人
は八ヶ月以内のその商品を売らねばならないのであって、しかも、英国人の宿主の管理に服さねばならない。その宿主
その時代の人々はその法律が実行されたかったととを等しく認めている。年代記編者ベlルは﹁諸法令は何等の効果を
もあげ得たかった﹂旨ω証言を書き加えている。強制的宿主の制度はヨ lク王朝ハ一四六一 l 一四八五 uとチユ1ドル王朝
門一四八五 i 一
六O u の下でも残存し℃いた。何と怠れば、ノルウイッチは一間七五千に、イプスウイッチは一同八二
0
・
一
年に、ヤ 1 マウニ
スは一間九一年にそれぞれ、外国人は他の地方から来た外来者を病泊せしめては友らたい旨を命令して
いる
(十三﹀
外国人への課税
英国に居住している外国人の数は者るしい数に上っていた。エドワード三世の一三間三年に‘外国人にも課税すべし
との提案がたされた。との方法は反外人政策に一設するものであったが、外国人にも国家財政の重荷を負強さすぺしと
泣す国民的感情によって促進された。一四三九年に英国に滞在している外国人に封して、一ヶ年十六ペンスの税金が探
スが探せられた。一四五三年には、英国民居住している外国人は毎年間0 シリング、六週間滞在しているにすぎたい者
E
F丸々)として、外国商人に到して六シリング八ペンス、そのす一同誌に二0 ペン
せられた。それから十年後には特別税 (
はこ0 シリング、帰化した外国人は一 0 マルクが課税された。
(十四) 金銀の輸出
外国商人が英国から金を流出させ且つ品位の低い貨幣を流通させることによって、通貨の価値を減少さしているとゅ
う攻撃が、彼等におして向けられるようにたった。その不可避的危悪い結川市は、既に一二九八年当時人々が英国内の通
たワた。一二九九年の∞SEE自 営 句 とg 足802は、エドワード二世時代のものと称される一つの法律によって補充
貨を受取るととを担否し始めたことによって認められるようにたった。そとで政府は何等かの釘策を立てねば怠ら泣く
されたが、それは何人も外国貨幣を輸入するのを禁宇ることによって、右の弊害の根源を除かんとするものであった。
マーカンテ fリズム
しかし、政府の主捻る目以は貨幣が英国から去るのを防がんとするにあった。エドワード三世は鋳貨の輸出を防ぐ手段
彼の行動は、財宝の出品同積は国官の基礎であり、その象徴であるとする後代の重商主義思想と何等関係が訟か
G
った。英国は交換の千段として使用されるととろの賞金属。蓄積が次第に失われて行くとゅう,予忽によって驚いた。何
を待じた
スターリング
とたれば、アメリカの発見までは、中世期を通じて黄金属の供給が不足していたからである。
一三三五年に一法律は次のように規定した。何人も﹁英国から金貨を持ち出してわたら泣い。﹂又、﹁如何怠る旅行者
一
一
一
九
もド l パ l経由以外の方法で、王国から退去してわ伝ら訟い。然らざる場合には‘一ヶ年の懲役に処せられる。﹂と。
英国中世の外国貿易
経営と怒¥涜
一
一
一
一O
その目的は彼等が金を国外に持ち出さ泣いようにするためである。かかる法律の存在にもかかわら‘ず、貨幣 O流出は中
絶すること泣く続けられたことは明かであった。そのことが一三五一年にたされた抗議の根拠であった。一三六四年に
他の法律が通過したが、リチヤlド二世治下の一三七九年に、国内で通貨が空にたりつつあるとの風評が一件び新にされ
た。三年後に、.通貨が国外へ流出して居り、国内に残された通貨は品位が劣悪化しつつある ovb
し針策が待ぜられなけ
u
L
o
m
z
q の忠告は次の上うであった。英国から輸出される商品が良く正しく統制され
造局の役人が与えた。岡山岳民仏﹀
れば﹁五シリング持って居ると思っている時に、実際は四シリングも持たたい結果にたるであろう o
﹂との昭一台を貨幣鋳
る突国商品の価額よりも、多量に輸入すぺきでわないとした。それに応じて、一三八二年に金銀の輸出を禁止する法律
るたらば、国内にある通貨は保持され、海外から多量の通貨が流入するであろう。即ち、外国商品は、国外に輸出され
が通過した。リチヤlドの封策の動機は、流通のために克分たる通貨の供給伊一得んとするにあった。
通貨の輸出を禁宇ることは容易であるが、それ乞防ぐことは困難であった。一三九O年に一の安協策がとられた。即
ち、外国人は、彼が収得した貨幣の半分は英国商品の購入に費やし、他の半分は国外に持ち出してよいと定めた。ヘン
リl四世門一三九九 l 一四二ニ︺は最初はこの計回を採用したが、後では、外国向人が英国内で叉取った貨幣は、すべて
英国品の鯨買に費消すぺしと主張した。ヘンリl五世の一四二O年に、下院は再び貨幣の国外輸出禁止を訪腕した。ヘ
ンリl六世の治下、数ヶの機会ハ一四一一一一一、一回二九及び一四四九年)を通じて、禁令が公布された。そして外国商人は金
による支払を強制されや又銀による支払を担絶してわならないととや彼等は金設を英国から持出さ危いととについての
保証人(回口同o
q
) を立つぺきととを命ぜられた。その後の治世・(一四六五、一四七八、一四八九、一五一 O、一五二一)にも
右の禁令は反覆された。ヱリザペス女王の治世に於い,てすら、外国商人が与えられた三ヶ月以内に、金銭を突って了う
外国人に対する迫害
ととが必やしもできるものでわないとの不平を訴えたととが知られている。
(十五﹀
外国人に封する敵意は多数の暴動や騒援となっ、てあらわれた。それらの暴動は主として利害の封立する敵手によって
。
ZEω) が襲撃された。そして農民叛乱(司oSSE-MNodBF)の
行われた。一三五九年にロンドンでイタリア商人(FE
当時には、ロンドンや全国いたるととろで作国商人は虐侍された。ロンドンの一年代記作者が記録するととろによれば、
88 と一一一口えないで、回同 O仲 や のg
﹁多く 0 フラン、ダ l ス商人がその当時首をはねられた。即ち、回同 O島
oと一マ一日う者
P やめF
タ l王朝の治世、外人を排斥する請願書が去びただしい数に上ったので、注意が喚起されていたが、その外人に封する
は命を犬った。﹂ハンザ商人は、堅固な壁によって暴徒の悪行に封して守られ、僅かに破壊から免れ得た。後期一フンカス
反山桃山は有名な一四五六年と五七年との暴動に沿いて爆発した。第二の暴動の後、ヴェニス、ゼノア、フローレンスから
の商人達は、ロンドンから退去するととを決心し、ウインチヱスタ lp一新しい商業の中心とすることを提議した。それよ
り一世紀も平く、外国商人に到する執劫た敵意のために、ロンドンを放案しようとする計画が進められたととがある。
ゼノアの一向人がサザムプトンを取引の中心とするととを勧説したが、ロンドン商人によって、彼に封する反感から、
殺害された。ヴェニスの元老院は右の抗議に賛成して、ヴェニスの商人がロンドンに集るととを禁止したが、結局はイ
J
タリア商人は叫びロンドンに復帰した。一五一七年に他の暴動が起った。﹁との年のメ l ・デ I は 患 メ 1・ ア1 ( 巴-
ζ ミロミ)と呼ばれているが、ロンドンで外人におする若者逮の暴行が行われた。外人中の若干の人々が死刑にされ、
残った者逮は首に綱をかけられ、ウエストミンスターに引っ脹られて来た。彼等はそこで釈放された。﹂ロンドンだけで
なく、いたるところで市民と外国人との問。援乱を見ることができる。十四世紀 O初期に、ノルウイ γチで暴動が起り、
一什に挙げた数々の不仏国快な事件にもかかわらや、英国に居住している外国商人は、ロンドンの市民生活に融合し、国
外国向人は市から放逐された。
民的混勤や祭礼や行列の時には、それぞれ参加した。ヘンリ 1六世がバリ 1で戴冠式を挙げた後でロンドンに帰還した
時に、市民は歓迎。ために彼を行列して出迎えた。その行列でロンドン市長の後につづくものは、先づゼノア人であり、
続いてフローレンス入、ヴェ一一ス入、ハンザ同盟の人達であった。彼等はそれぞれ自国の風習に従った服装をつけてい
た。メアリ 1女王がロンドンに迎えられた時に、外国人であるゼノア人、ハンザ同盟人及びフローレンス人 C行列が﹁貝原
も立派であった﹂と一年代記作者は書いている。
英国中世の外国貿易
一
一
一
一
一
経営と経済
二、イタ9 1貿易、 ザ
ハ
ア1 プ Y商人、
イタリー及び東方貿易
戸
yザ同盟共他
英国では比較
0.
後では特に十字軍時代にはその貿易は東部地中海沿岸諸国にまで荘一ぴて行った。それらの地方では、ヴェ-一スはギリシ
ヴェ一一スが輸出する商品の積績は特に多種多様であった。ヴェ一一スの繁栄はアドリアチヲク海沿岸の貿易と共に初る。
(一)
ザ同盟の諸都市、フランダ I スの諸都市、イタリーの諸都市、特にヴェ-一スとの聞の貿易であった。
地方、スペイン、ポルトガル、イタリーの各王国との問に給ばれていた。とれらの中で設も重要なのは北ドイツのハン
貿易関係は、英国とスカンジナピア諸国、北ドイツ、南ドイツ、ネ lデルランド、フランスの来北部、西北部、南部
される原料品や工業製品を多く輸入しなければならなかった。
穀物、塩、肉類、酪農製品が輸出された。英国の工業はよへ陸の多くの国々より逢かに遅札て居ったので、諸外国で産出
れた。錫と鉛とは、その当時大部分英国の特産品として有名であったが、それらの産物と共に、生産豊富な年に於ける
と同様に定期市や都市にもたらされ、外国商人によって購入された。羊の皮や生皮や採皮も或湿の粗布と同じく輸出さ
有していたが、そとでは通常牧羊が行わ札た。とれらの北部と西部地方の牧場の生産物は‘直領地や班園の徐剰生産物
よりも一一層広範囲に羊毛の生産をあげることができた。多数の修道院、特に北部と西部地方の修道院は広大な原野を所
的国内の秩序が良好であり、又内乱で妨害されるととが少なかったので、敵国の軍隊の来一往の度毎に劫掠を交けた国々
は羊毛であった。英国で産出する羊毛の品質と数量とは中世期を通じて欧洲全体に於いて有名であった
及びスペインの諸都市からさえも商人達が貿易のために英国にやって来た。英国の生産物の中で最も需要が多かったの
業心や資本をもっていなかった。外国人の万が企業心が旺盛であった。フランダース、フランス、ドイツ、イタリー、
れて来た。十四世紀にいたるまでは、英国の商人は輸出入貿易に関して、大陸の諸都市にまで進出するだけの能力や企
英国の北方都市と又カンタナピア諸国との問の貿易を除けば、英国の外国貿易は、殆んどすべて外国人によって行わ
一
一
一
一
一
にいたる地域。島々の都市やそれらの沿岸諸都市の問に、半貿易的、半政治的帝国をつくり上げた。とれら地域から、
アの帝王から資易上の応留地の特権を与えられ、イオ-一ア海、グ lグネルス海峡沿岸川マルモラ海、及び最後には黒海
a
ヴェ一一 スの商人は来部地中海沿岸地方の特産物であるプドウ酒、砂糖、乾燥果実、胡桃、綿花、薬品、染料、皮革及び
ヴェニスは遂に、来方貿易の支配者となった。アラビア、ベルシヤ、インド、来イン下諸島及びシナの生産物は古代
兆他の製造品をもたらした。
と同様に中世時代を通じて、欧洲の西方諸国にいたるまでに、極めて長い且つ困難な通路を経なければならなかった。
綿糸及び綿織物、生糸、絹織物、藍玉及び北ハ他の染料、脊料、ゴム、麻酔剤及び薬品類、真珠、ルピl、ダイヤモンド、
サファイア、トルコ石及び共他の宝石類、金、銀、特に食用薬味類、としよう、しようが、肉桂、丁字等はアジアに於
てのみ得られた。とれらの商品が欧洲にもたらされるためには、三大通商路があった。第一のものは、紅海に沿って、エ
ジプトを横切る大陸経由のもの。第二は、ペルシャ湾をその奥まで上り、それからユlフラテス河に沿っ℃遡り、ラク
ダの隊商の通路を経て、シリアの沿岸に行くか、或はチグリス河に沿って上流まで遡り、トレピゾンドから陸路を経τ
黒海に行くもの。第三はラクダ隊隊商路によってアジアを横断し、それからカスゼ海を横切って後、再び陵地を越え黒
海に行くか或はロシアを通ってパルト海に出るもの。との貿易の大部分の商品は、地中海或はそれに隣接する水域の諸
法で、イタリー諸都市、特にヴェ-一スの商人によって集荷された。そのために、ヴェニスは自己の生産品の他に、その
当時知られていた世界全体の商品を一千に集め、そ札らを輸出することができた。ヴェ一一スの法律は精密に商業につい
J
て規定している。ヴェニスの商人によって牒入されたすぺての商品は、 通則として、先づ市に漣ばれ、市の倉庫に貯蔵
さ札ねばならなかった。陸路或は海路に上る輸出について・或程度の自由が許されていたが、大部分の商品につい℃は、
ヴェ一一ス政府の管理の下に去かれτいた。諸事情が有利であると認められた場合には、元老院は特定の航海のために、
数受の政府のガリl舶を出航せしむべきととを議決する。との航海の目的地は数ケ所であったが、その一は英国とフラ
ジ グ l スであるととを常とした。とれらの国々に派遣される商船隊は、﹁フラング 1 ス商船隊﹂ (ES含 目 白83 とし
て知られている。この航海は、通常、年に一回企てられ、商船隊は二住民乃至五隻のガリ l般によって構成されていた。
英国中世の外国貿易
、
経営と径済
一
一
一
一
四
との商船隊は一人の提督の指揮の下になかれ、悦海.長や漕予の隊員や武装兵が乗組んで居り、商品を般に積込んでいる
が定められ、又碇泊地点は次のように定められた。カポ-ディストリア、コルフ、オトラント、シラキェ 1ズ、メシナ、
商人達がすべての費用を負担した ω政府によって商船隊に泊して厳重な規則が認せられた。たとえば、その碇泊の期限
L
ス、ミドルプルク、或はアントワ lプに行き、他は英国のサ
ネlプルス、マジョルカ、特定のスペインの諸港、リスボン、それからピスケl湾を横切って、英国の南海岸にいたる。
そこで船隊は二つに分れ、一部はネ lデルランドのスリ
ザムプトン、サンドウイッチ、ロンドン及びその他の諸港に行く。英国の市部の一つの港に帰航のために商船隊は再び
集合したのであるが、往洲、復怖を合めて、一坑海に一年砂一要するのが活川市であった。
商結隊と共に英国に渡来した貿易商人は、英国の南部の諸都市ヤ定期市でその南口mp一売却し、羊毛や北ハ他の商品を買
7ア ン ダ ー ス 貿 易 と ラ ア1 プ Y
諸都市特.にぜノアやフローレンスで行われた。これらの諸都市での貿易は十四世紀よりも十五世紹で一一周広く行われ
h
入れて、それらをヴェ一一スにもって帰るか、或は帰 刈のみ山中の諸港で売却したりする。同様の貿易が兆他のイタリーの
た
。
(一一)
イタリーから活ばれる物資を合まなかったにせよ、数量のより大なる点とその主要性との点で、英国貿易にとって重
きをなすものは、フランダ 1 スの諸都市との貿易であった。フラング 1 スとの貿ゐは、他の場合よりも、英国の羊毛生
産と一層密接に結びついていた o p lント、プルージュ、ィ lプル、クウトレ、アラスを始めとして、フラン、ダ 1 スの
多数の都市及びフランダ l スに近接するネ lデルランド及びフランスの諸地方は、織物工業に上って、人口多く宜つ宵
み栄えていた。彼等の高級織物製造のために、英国の羊毛が良川要され、その代りに、それらの地方で製造される高級織。
物製品が、英国のんけ m
裕階級の消究のために送られていた。その当時の英国の織物技術は、粗末で使い織物しか絞ること
b
a共及びネ Iデルランドへの貿易の際に得ら
の産物であった。その他の高級製造品、例えば甲由円十武器、ガラス製品、 -
ができなかうた。美麗な織布、リンネル、金巾、金糸・銀糸一父りの織布、綴紙、壁材等は、フランダ l ス諸都市の織機
れる諸物品は、すべてフランダ l スから英国へ向けて輸出された。
同
英国との貿易に常に従事しているフランダ 1 スの商人は、彼等の問に一つの団体主組織した。それは 205ur 民自8
0 Fozoロとして知られている。多数の都市がかかる団体をもつようになり、それらの市民ば貿易に参加し、その団体
g) の規則を守り、
の利溢と作権とに与るととができたが、それらの都市の如何なる市民もその団体即ちハンザ(国g
ω)
として知られて居り、羊毛、羊皮、柔皮、錫、鈴等誌も広く輸出される商品
主要な (mEMu-o)輸出商品を、英国或は海外の特定。諸都市に集荷する習慣があった。これらの諸都市は、ステ lプル或
団体への負担金主支払うので友ければ、英国との貿易に従事するととができなかった。英国からフランダ l スへの輸出
貿易は、英国の側からステ lプル (mZ10) として知られている制度によって統制さ札た。英国では古くから、英国ο
4司ロ
はステ 1プル市 (mgzorms-o叶0
は、ステ 1プル商品(寄与Fmoo-ろと呼ばれた。更にひきつづいて政府はその問題について統制を加え、英国からフ
ぺきことを定めた。その都市は殆ど常にプルゥジユであった。しかし政治的考慮から次第にそれをプラパント、特にア
ラング 1 ス向けにステ lプル商品が輸出される場合には、それは先づ第一にフランダ 1 ス内の指定された都市に送らる
ントワ lプに移すようにした。の後では英国内の特定の諸都市がステ lプル都市として指定された。伝に挙げた程演の
一三五問年に英国のステ lプル都市に、一つの機関が組織された。一 Oか或は十二に上るステーブル都市に、一の市
商品はすべて輸出する前に、ステ 1プル都市で登録され、計量され、課税されねばならなかった。
彼等の服務は多くb ったが、国王や国内の利益を計ったり、或は外国商人の利溢のために働いたりした。又一品目き秩序や
Z10) によって選出された。
長(宮品。同)と二人の検在官 (ngmgzom) とが、ステ lプル商人(自民nrgzo同岳 O ∞
正義が紘持されるようにつとめた。商人法が裁決の基礎となったが、外国人の保護と同時に、政府の財政牧入の確保の
ためにあらゆる努力がなされた。しかし政府の政策は決して一貫したものではなかった。との当時、ステ lプルの全体
の組織が、しばしば当庄の問廃止されたり、ステ 1プル商品の取引はすべて開放されたりしたととがある。ステーブル
一
一
一
一
五
うになった。それは百年戦争の初期、一三間七年に英国平がカレーを占領したととに基く。カレーは海外に存在し、そ
市は英国から大陸に移されたが、後再び英国に反された。最後に、一三六三年にステ lプル市はカレーに設立されるよ
英国中世の外国貿易
経営と経済
﹁
一
二
六
れ故外国市場に近いという利益と英国領土内の市場であるという利益とを兼備していた。又新領土のためという明白な
六三年に永久にここに決定されるようになった。それは英国がカレーを失った一五五八年まで継続した。町又すべての
政治的理由もあった。従ってステ lプルは幾度も短い期間カレーに設位された後、リチヤード二世の治世の央頃、一三
ステ 1プル商人は、彼等の商品を直接にカレーに向けて輸出すぺき誓約を在さしめられた。
羊毛がカレーに着くと、外国人の買主は或る金額を現金で支払い、残りの分には千形を振出すのが普通であった。又
P
のカレーのステーブルを通して輸出さ
彼等の問には手形を譲渡したり、振替えたりして割引するととも一般に行われた。従って一依権者から、他の債権者へ
手形を流通させる商業上の慣習は、少くとも五百年の昔から存在する訳である
れるイングランド商品の大部分は羊毛であった。しかし毛織物が、不断の進出を示し、遂にはチユ 1ドル王朝時代門一四
八五l 一
六Oロ一︼には、毛織物輸出が羊毛の輸出を謡選させた。しかしチヨ 1 サl m一
一
一
一
四Ol一
四OOU の時代、またそ
の後永い問、国王に貨幣を貸したのは大抵、羊毛主輸出して'外国の織機に原料を供給したステ lプル商人であり、また
ρyザ同盟
ステ 1プルで徴収される輸出羊毛に課せられた関税は国王牧入の大きな源泉であった。わ
(二一﹀
との時代のドイツとの貿易は、殆んど多数ο都市の集合団体であるドイツ・ハンザ或はハンザ同盟との問に行わ札℃
いた。とれは北部ドイツの多数の都市の同盟であって、その中には同盟の盟主の地位にあるリユIペヅクを始めとして、
ハムプルグ、プレ}メン、ダンチッヒ、プルン'スウイヅク等の外に六O乃至八O に上る都市が合まれていた。これらの
都市は多数の条約によって一の密接な協同体を組織し、貿易上の目的のために攻守同盟を結んでいた。段初は商栄上の
同盟として成立したが、後では一大政治的国家にまで発展し、欧洲の北方を支配し、或時はデンマークを同盟に服属せ
しめたことがある。彼等は諸外国で貿易上の大なる特権を得た。そしてノルウェーのペルゲン、ロシアのノヴゴロド、
あった。
低部諸国のプルージュで居留地を与えられていたが、英国に於ける彼等の地位は、他の国に於けるよりも一一周特権的で
これらの都市の商人は既にアングロ・サクソン時代から英国に来往して居り、ハンザ同盟の成立以前に免税の特権
(ggg古宮)を得ていた。との時代にコロ l ニユ(。。目。官。)はドイツで設も重要な商業都市であったが、一一五七年
に ロ ン ド ン で 組 合 の 居 留 地 宇 田28ZFoEoロ)をもっていた。彼等の免税権は二二三年にジョン王によって確認
され、他方へンリ1三世は一二三五年に、関税や北ハ他の租税と同じく、彼等がロンドンの彼等の組合会館(の広島玄ロ)の
地代として毎年支払っていた二シリングを免除した。ヘンリ I三世は更に彼等に釘して、王国内いたるととろに安全に
にも及び一二五七年にリユ 1ベ γク、プルンスウイ γク、及びデンマ}クの商人は同様の特権を与える特許状を得た。ハ
往来する自由を与え、年市(玄2) に集り、一ロンドン及び各地で売買する権利を与えた。かかる特権は次第に他の都市
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ンザ商人のこれらの特権はエドワード一世とエドワード二世によって確認された。
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ン市でさえも、ハンザ同盟の特権に封して殆んど異議を唱えなかった。 ω
英国中世の外国貿易
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特権を保護するために除外例を認めていた o自己の特権を守るために反外人的立場をとって容易に譲らたかったロンド
彼等が欲する場所には何処にでも行くととを得、しかも滞在期間に何等制限はなかった。反外人法は常にハンザ商人の
除名した。更に彼等は外国商人に封する小売取引禁止の法律にもかかわら宇、特定。商品を小売で取引する権利を有し、
彼等はその特権を維持するために汲々たるもので、或時ハンザ同盟は通常の税率より高率の関税を支払った一商人を
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経営と経済
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ハンザ商人はパルト海沿岸諸国む産物、即ち、木材、タール、塩、鉄、銀、塩干魚、帰服製魚、毛皮兆他の雑貨等ゃ、
彼等が遠隔地との貿易によって手に入れた美術織物品、武器共他の金属製品等をもたらした。又彼等はロシアの大きな
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フランスの北西地方との貿
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て、広い範囲にわたって輸出入貿易に従事した。英国の本位貨幣に適用される伯仲 ユ
年市で干に入れた香料共他の来方の産物をすらもたらした。ハンザ諸都市は英国政府と各種の条約を結び、諸特権を以
フランスの北古川地方の諸都市との貿易は、フランダ l スの近隣諸都市の貿易と似ていた
来したもので、乙れはハンザ貿易に従事している各国の商人を夫示する訴である。
易は、特に塩、帆布、プ'ドウ沼によって成立していた。ポアトウ、ガスコ 1 一三、ギェイヱンヌとの貿易はそれらの地
方が嘗って﹂長い問、英国の領土であったとゅう事情を反映して、一周広範囲にわたっていた。南部フランスから英国へ
の主なる輸出品は、プドウ沼であり、その他、果物や各位の製造品が含まれていた。英国とイペリア半島諸国との問に
も極めて広範囲にわたる貿易が行われていた。すべてとれらり諸国との貿易は、主として十四世紀の後半と十五世紀と
の聞に増大したのであるが、その基礎は十四世紀の前半に沿かれた。すぺてとれらの国々からの舶舶は、英国の諸港に
度々婆をあらわしたが、それらの商人は政府の保護と英国の多数の都市や年市の支持とによって取引した。
(四) 英国代来住せる外国商人
英国の外国貿易の殆んどすべてが外国人の子中に握られていたために、多数の外国人が一時的にか或は永久的に英国
に来往するようになった。英国人が大陸諸国の商人に比べて、商栄上の智説、熟練及び資本の点で劣っていたので、外
国人は英国内でその金融、貿易ぜ工業上の能力を抑い、利益を得ぺき好適の場を見出した。十三世妃の終頃から、十四
工業都市であったのみならや、当時の金融業の中心であった。パルディ、ベルッツイ、アルベルテイ、プレスコパルデ
世組の初にかけて、とれらの諸外国人の問で設も顕著であったのはイタリアの金融業者であった。フローレンスは大商
イ及び共他の銀行は、フローレンス及び共他のイタリア諸都市の市民から涙金を集め、それらの金を自己の資本金と共
に、諸外岡の政府、大貴族、教会等に貸付けた o 一二九O年にエドワード一世は英国在住のユダヤ人全部左追放した。
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ahる十字年の失敗の結果、国民の聞には、報復の千のぽくところに居る、しかも自衛千段をもた泣い異教徒たちだ
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を一挙にして厄介払するととを望んだ。エドワードは国民の問のかかるユグヤ人に討する反応によって動かされたので
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けに討すろ憎しみが 再発した。人々はこれらの兵教徒にあらゆる罪をきせた。借金をした貴族階級は、債権者と債務と
あろう。ユダヤ人はその後クロムウエル時代円一六四九 1六OVに英国に戻って来たが、一二九O年当時には英国人の問
ンパルデイア生れの而特尚人速は、その名前をロ μドンのロンパIド符に与えるととになった。そとは彼等が底を開い
には充分な資本が者続されていなかったので、英国政府が現金を借り得る唯一の源泉はイタリアの銀行家であった。ロ
派税が滋会によって承認され、しかもその徴税には一年或はそれ以上の時日を要する場合には、フ
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ローレンスの銀行家は代税後に償還をえける保証を得て、徴税額に相当する金額を即座に提供した。コーンウオールの
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期間巾・毎日フローレンスの銀行家によって一定の金額が提供される旨の契約が締結された。国王が急に金を必要とする
錫鉱山のようた政府の独占引業が、その金額に到する担保として銀行家に提供された。戦争や国王の巡白幸の場合、その
スの銀行ハ永からの位入金によって支弁された。海外への支払はそれらの銀行を通じて為替手形の方法で決済された。直
場合には、数ヶ月後に償還する約束で銀行家から借りるのを常としていた。百年戦争の初期の戦費はすべてフロ l レシ
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rg 出SEg--02)[町一色一伽和一同献が附一]は、パルデイ銀行に討して八四八ポンド五ペンスを、ベルヲツイ銀行に封
イタリーの銀行家が国王以外の人々にも金融したととは明かである。一三二七年に英国のホスピタル修道騎士会
や、注法でb ったが、往々の名目の下に利子の間接的な支払方法等によって報酬を得τいた。
接的な利子の五払は、法律で禁止されていたが、その代りに彼等は政府から与えられる種々の特権や、両替による利益
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して五五一ポンド一二シリング一一ペンスを償還している。彼等は国王に到して自由に金融を継続した。遂に一三四八
できなくなったので、イタリーの諸銀行は窮境に陥れられた。又他の国々では銀行自身の不始末によって、右の諸銀行
年にはエドワード三世は一の銀行からだけでも五万ポンド以上の負債を負っている。かくて国王は遂に償還するととが
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中の或るものは、破産した。十四世紀の後半から十五世組を通じて、彼等の中には銀行家、金融業者としての地位を送、一
実問中世の外国貿易
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あったが、十四世紀の央以後からは彼等の勢力は次第に衰えて行った。多くのイタリア商人が英国に定住
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したが、彼等は銀行家でなく、ヴェニス人とゼノア人とが多かった。彼等の地位はイタリアの銀行家のように顕著なも
ハンザ尚人はロンドンに彼等の居留地をもっていたが、それはpgq阻止或は、。庄一宮口
85色)がそれを彼等に設波してからである。そとには慢員として一名の長老
国 0 5 0 として知られていた。その居留地の超源は一三二O年に遡り得るが、彼等がその居留地の実際の所有者になっ
たのは一間七五年に市会(件志向山々
(mE058) と数名の助手 222ZロZ) が居ったが、彼等は・前人法によって行政を支配していた。十五世紀にそり長老
は、ハンザ商人自身の要求に上って、国王が指名した。どれはハンザ商人と英国人との聞の親密な関係のあらわれであ
った。十三世紀に於いてすら、ハンザの長老であるアルナルドは市政上の長老(己主の巳島O
HBS) となり、一三八一年.
にロンドン市長のなイリアム・ウオルウオ l スはハンザによって、ハンザの長老としても選挙された o恥ハンザ商人は
彼等が英国内に自らの財産を所有し、しかも英国人の家に宿泊するとゅう従来の慣習に反して、自己の邸宅に居住じ
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得る特権は国王から与えられたものである。漸を追って、彼等は故初の邸宅の同囲に大なる土地を購入し、遂に一の大
きな建物の集団を形成した。その中には集会所、食堂、塔、炊一品川切、納屋、事務所、倉時及び多数の住宅が合まれて居
り、それらの阿国は壁と垣とでかこまれていた。その場所はロンドン栃のすぐ.上手で‘テムズ河に臨んでいたので、彼
等の胎舶は局留地の波止場で積荷をゐろすことができた。ハンザ商人やその代理人は厳格な規律の下に服して居り、居
留地の門は夜鬼時には仙ヤ閉鎖され、彼等の問のすべての違法行為は、得口具によって処罰された。彼等の貿易は関税を
支払うととによって、国王にとって大なる財源となった。イタリアの銀行家が没落した後では、スチール・ヤードの商
人は英国政府に封して巨額の金を貸付けた。一三凶三年にエドワード三世が、輸出される羊毛の一袋毎に問0 シリング
ン・ファン'ウオルドとから前借りした。同様に、一三間六年には、ハンザ商人はエドワードに封して、国王の第二の
の輸出税を課税した時に、その輸出税の価額に相当する金を、ハンザ商人のティ 1デマン・ファン・リムベルクとヨハ
王冠を担保として、三年同にわたっ℃金を貸した。彼等は或場合には、フローレンス人のように、コ T ンウオール錫鉱
山を担保にとったことがある。彼等は一般の外国人に封しては許されないような多くの特権を得たが、それらは市民や
ロンドン市の当局に到して極めて不評の程となった。共他若干のドイツ人が英国に居住していたが、彼等はスチール・
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ヤードのハンザ商人むように説者でもなく、有力でもなかった。
フランダ l スとの貿易によって、フランダ 1 スの商人は一時的に英国に居住したが、彼等は居留地をつくったり、或
は一つの土地に永久的に肘位したりし左かった。他方、フランダ l スの職人は、古い時代から英国に移住し、数個む都
励し、技術的に立ち遅れている英国人に優秀な技術を伝授させるととを豆要注国策となした。フランダ l スの政治上と
市や村に散在して居住した。十四世紀C初期に、エドワード三世はフランダ l スの織物工や共他の手工業者の移住を奨
経皆上の不安によって、織物版人の国外への移住が多く伝った。一三
ろ毛織物工に保護と特権を与える特許状を与えた。同時に英国に来住せんとするすべての織物工、染色工、漂白工に封
して同一の保護と特権とを与えた。一三三七年には、同様む特許状がゼ Iランド[野一一釘巴やプラパンから英国に来
住せんとする織物工に与えられた。とれらの絞物工、染色工、漂白工がロンドンやヨ Iク、ウインチェスク}、ノルウ
が来住し、ョIクに住んでいた。彼等は市の自由民聞に記録されている。一三七九年の人頭税の報告によれば、彼等は
イッチ、プリストル、アピングドンに居住していたととが知られている。又この時代にネ Iデルランドから多数の移民
ヨ1クシヤーのウエストライディングにあまねく居住していた。均彼等は英国人の徒弟を傭って、英国の製造工業に大
向、その他に諸外国人、特に南フランスのガスコ l ニュ人やスペイン人が英国に来往したが、十三世紀と十四世紀の
なる改良をもたらした。彼等は極々なる股菜、或る場合には農業にすら従事したととが記録に残されτいる。
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人、手工業者として活動した。
外国人人口の主なる部分はイグリア人、ハンザ同盟のドイツ人、フランダ}ス人であった。彼等は主として銀行家、商
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s- 徳増栄太郎訳、英国経済組織の史的考察、 MM・。∞kpFrヨ 開 。opoEoOHmsp"に
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S・野村兼太郎訳、アジュレ 1英国括償史及学説、 Mrs・
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