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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
有機体説と弁証法 (二)
Author(s)
川田, 俊昭
Citation
経営と経済, 49(4), pp.169-198; 1970
Issue Date
1970-01-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/27788
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
有機体説と弁証法︵二︶
川
田
俊
昭
﹃国民経済学史﹄の著者J E・ザ--ン(Salin,GeschichtederVolkswirtschaftslehre,2Aufl︰1929.高島
善哉訳)によれば、マルクス経済学は'﹁社会主義と歴史主義 - 進化主義的科学﹂(同書'第三章題目)とし
て ー換言すれば、/r発展﹂を志向する﹁進化主義﹂(進化論・生物進化論)の一類型として - 歴史学派経済学
ヽ
ヽ
(或はコント、スペンサー等を含む所謂﹁有機体説﹂)と併置される.時∼恰も十九憧紀であるo ザ--ンの云
う、﹁斯-して、我々の所謂﹃発展﹄の思想が道標として、サン・シモンやマルクス流の社会主義的図象や概念の背
後に控え、-ス-,ヒルデブラン-、シュモラーの歴史主義の背後に控え、コント並びにスペンサーの社会学の背後
に控えていることが示される-﹃進化主義Evolutionismus﹄こそは、恰もそれが哲学又は生物学の指導原理を表
しているのと全く同様に、この時期の全経済及び経済学説の統一的目印である。--我々は先づ、それが社会主義学
^.,,レーニンも、その論文﹁カール・マルクス - マルクス主義への手引き -﹂(一九一四)において、斯
乱に表現された有様を追求する﹂、と。
かる事態を是認する。(もっとも、マルクス・エンゲルスの優越において、ではあるが。)レーニンの云う'﹁今日
経営と経済
一
七O
では、発展、進化の観念が全んど余すととろなく社会的意識に入り込んでいる。:::しかしマルクス及びエンゲルス
がへ!ゲルから出発してこの観念に与えた定式化においては、乙の観念はありふれた進化論よりも遥かに包括的で
あり、遥かに内容豊富である。:::最も包括的な、最も内容豊富な、そして最も深遠な発展論としての.へ lゲルの弁
一面的で内容貧弱であり、自然及び社会における(屡々飛躍・崩壊・草命に於て自己を貫徹す
証法のうちに、 マルクス及びエンゲルスは、古典的ドイツ哲学の最大の業績を認めた。発展・進化の原理の他の一切
の定式化を、彼等は、
る)発展の現実の経過の曲説であり、歪曲であると考えた。﹂
が、そのへ lゲルについては、,││各人によって多少の見解の相異があるとは云え││彼が、いわば、カントの申
し子、そしてドイツ浪漫派の一人であると共に、歴史学派(の方法論)の生みの親l i強力な有機体説論者(哲学的
111
苦は花によって否定される、と。同様に果実によって花は、植物
・生物学的)でもあったことをも、併せて銘記さるべきなのである。弁証法と有機体説との一致!﹁苦は花が開く
ことによって消える。人は云うことが出来よう
の虚在と宣告される。そして、植物の真相として、花の代りに果実が現れる。これらの諸形態は、自己自身を区別す
るばかりでなく、相互に両立し難きものとして排斥し合う。だが、それらの流動的性質は、それらを同時に有機的統
一の契機たらしめ、 そとではそれらは闘争し合わないばかりか、何れも等しく必然的なるものである。そして、
同等の必然性が始めて全体の生命を形成するのである口﹂(へ lゲル、﹃精神現象論﹄、序言)
こ
態の性格を生の概念によって規定している。生とは、彼にあっては、部分が全体と切り離されては存在もし得ない
人間・社会を含めて)に備わる一実質である。﹁ディルタイは、青年期のへ lゲルに関して、﹃へ lゲルはすべての現実
E B円包各としての全体の構造は、単なる形式論理でなく、有機体(
弁証法における﹀ロ巳各│豆町包各 l﹀ロロ
の
し、又、考えられもし得ないような、全体と部分どの関係である。
一つの多様的なるものが現存するが、しかもそれ
は右の如き結合においてのみ全体における部分の総体として存在し、又理解し得られると乙ろに、生の性格があるの
である。多様性を統一において捉えると乙ろの、全体としての生のこの根本概念からして、全体、部分、統一、分離、
﹁浪漫的有機的社会
仏o
対 立 、 粘 合 の 諸 概 念 が 当 時 の へ lゲ ル の 思 惟 を 支 配 す る と と に な る ﹄(
gpF3wEOEmgm
szsz 出o
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o
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-
と云っているが、 正に斯かる生の関係乙そ、﹃有機的﹄と称された関係である。﹂(福井孝治、
観と強力国家思想﹂、﹃経済学の基礎にあるもの﹄、昭和コ一三年、所収)
一サンプルll即ち、生物有機体(この場合、植物)に拠った・弁証法 H有機体の論理といった・掬すべき一サンプル(一
見、通俗を軸としながらも、その実、極めて重要な合意と展開をもっ 1 1本稿の前・後記に直ちに密着・必然の11) を、お
自にかけよう。
じねんことわり
﹁木に花の咲くときは、その極は土中に溶けて姿を失うが自然の理。﹂(有吉佐和子、﹃出雲の阿国﹄ ):-illt先稿﹁有機
体説と弁証法﹂(経営と経済、第一一七号)中、カント、へ lゲルにおける植物又は樹木の除えに集約・明示した如くl iこ
寺
aF
ル﹄&口ト
こに乙そ、自然(社会)の弁証法、﹁弁証的なるもの ιは在ると称すべきであるが故に!(社会?:::)﹁お国は都四条
AR
の河原に歌舞伎の種を蒔き、以来花は今、江戸から諸国一円に咲き乱れ、阿国歌舞伎は持たなかった蛇皮線賑やかに、時世の
好みに応じて花の色香も変えて行くかに見える。:::﹂
ひとつぶただひとあみ
﹃一一位の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの呆を結ぷベし。﹄(ヨハネ伝)
有機体説と弁証法
七
経営と経済
弁証法を失ったことに由る。)
ある。単なる所作事、単なる見世物としての終始、剰え、その誇示
・
ζ 乙にその理由は
﹁血みどろ給金﹂、小説
A
A
- 一つに、
化は、歌舞伎にしてヂこ、いわば
現代、昭和四五年二月号:::現代の本邦歌舞伎、歌舞伎役者に対する私の不信、不満の
122
走る。 そのどきどきとするような危険の美乙そが歌舞伎芝居本然の姿ではないのか。﹂(榎本滋民、
傾き110 民衆の満されない怨念、自由と真実への希求がどろどろに煮えたぎり、権力の規制を押しのけて溶岩のように突っ
かぶ
なく、流転がなく、律動がなく、摩擦がなく、激突がなく、爆発がない。﹃収まっちよるのう。こげなことでええ筈はない。﹄
つは美しいが、それを繋いでいく太い力が欠けている。余りにも画然と整理され、余りにも小椅麗に統一されていて、凝縮が
﹁これまで徹密なものと感服していた江戸の芝居の舞台が、俄かに索漠と見えて来た。千両役者の台詞廻しゃ所作の一つ一
わっているところの原理である。﹂
関と必然性が学問の内容のうちへ来り、並びにそのうちに一般に有限なるものを越えての真実なる・外面的ならぬ高揚が横た
るということである。弁証的なるものは従って学問的行程の運動する魂を形造り、そして、それによってひとり内在的なる聯
それが在るところのものとして、即ちそれの否定として自らを表現する。一切の有限なるものはこのもの、自己自身を止揚す
又は矛盾の媒介による自己止揚への衝動﹂:::﹁弁証法とはとの内在的な移渡、そこでは悟性の諸規定の一面性と制限性は、
言わずもがな、それらの動力は内に乙そ在る。﹃身の内には火が燃えちょうけん気をつけろ。﹄﹃傾くなや。﹄Il--:: ﹁否定
七
,
lゲルの弁証法は、 そ の 観 念 論 的 前 提 の た め に ( と い う よ り 、 む し ろ
三木清(或はマルクス)にあっては、
・
ヘ
有機体説的限界のために) ﹁弁証的なるもの﹂が制約され、 そのため、自己自身の基礎たる(筈の) ﹁弁証的なるも
の﹂と矛盾するに至り、唯物弁証法へと転化するもの、として捉えられた。三木清の云う、﹁観念弁証法は、恰もそ
れが観念論の基礎の上に立つが故に、弁証法における﹃弁証的なるもの﹄と矛盾するに到り、斯くて、 その反対のも
のに、唯物弁証法にまで転化した。私は:::この転化の必然性を闇明するであろう。しかもその場合私はまさに有機
体説を媒介とすることによって私の課題を解決するであろう。:::私は云おうと思う、弁証法はへ!ゲルにあって著
しく有機説への傾向を含んでいる。:::へ lゲルを解放して真にへ lゲルたらしめたのは却って唯物論者マルクスで
﹁私の弁証法的方法は、 その根本に於て、 へlゲルの方法と異っているのみならず、 その
あった。﹂(﹁有機体説と弁証法﹂、﹃社会科学の予備概念﹄、昭和四年、所収)
他方、'マルクスは云う、
イデー
正反対である。へ lゲルにとっては、思惟過程が現実なるものの造物主であって、現実的なるものは思惟過程の外的
現象を成すに外ならないのである。しかも、彼は、思悦過程を理愈という名称の下に独立の主体に転化するのであ
る。私に於ては、逆に、 理念的なるものは人間の頭脳に転移し、翻訳された、物質的なるものに外ならない。:::弁
証法は彼に於て頭で立っている。神秘的な殻に包まれている合理的な中核を見出すためには、 これを顛倒しなければ
ならない。﹂(﹃資本論﹄、第二版後書)
では、 マルクスの唯物弁証法乃至彼の体系に一貫せる ﹁弁証法的方法﹂は、三木清の強調せる如く、有機体説へ
の 完 全 な ア ン チ な の で あ ろ う か ? 否 ! むしろその逆、しかも徹底したその逆こそ真である、というのが、固有の
実は、 マルクス自身、彼の﹃資本論﹄第二版
o)
一七三
﹁﹃資本論﹄ の方法を取扱っている一論文﹂(ぺ lテルスブルク﹁ヨーロッパ報知﹂
立場における私の回答である。(それが実に又、本篇の主題でもある
後者一日に於て採り上けた一論文、
有機体説と弁証法
経営と経済
一七四
八七二年五月号)において、既に、その言及がある口同論文に日く、﹃:::要するに、経済生活は、我々にとって、生
物学の他の諸領域における発展史に類似した現象を呈示する。:::旧い経済学者達が、経済的諸法則の性質を物理学
や化学の諸法則になぞらえた時、彼等は、これを誤り解したのであった。:::現象のより深い分析は、社会的有機体
相互が、植物有機体や動物有機体と同様に、根本的に異っているということを証明した。:::否! 一つの同じ現象
が全く異った諸法則の支配に服するのであるが、それは、かの有機体の全構造の異れる結果であり、又その個々の器
官が相異り、更にそれらの諸器官の機能する諸条件が異れる乙とその他の結果なのである。マルクスは、例えば、あ
らゆる時代、あらゆる所において、人口法則が同一であることを否定する。反対に、彼はあらゆる発展段階が、その
固有の人口法則をもっていることを確言する。:::生産力発展の程度の異ると共に、諸関係は変化し、これを規制す
る諸法則も変化する。 マルクスは、 この観点から、資本主義的経済秩序を探究し、説明しようという目標を立てて、
経済生活のあらゆる正確な研究をもたなければならぬ目標を専ら精密に、科学的に定式づけている。:::このような
探究の科学的価値は、一つの与えられた社会的有機体の成立・存続・発展・死滅及びこの有機体の他のより高いそれ
11
生産関係﹂の位置に、そのまま﹁有機体﹂を充当し得る可能性については、拙稿
による代置等を規制する特別の法則が明瞭にされる所にある。そして、事実、 マルクスのこの書は斯かる価値をも
っている。﹂(註、マルクスの所謂﹁生産力
Ills一
九
O 三):::彼によれば、絶えず活動してい
・ A ・ウイットフォ lゲルの場合││﹂、東南アジア研究年報、一九六八年
﹁アジア的社会に対する科学的分析の方法論││カ lル
第十集、参)
ユ巴 uo吾
g己司ユ包円山岳 ωの﹃問問2 0 (一八三一
σ
﹁シェフレと
る対象を把握するには‘固定した抽象的概念では役に立たない。それには動的な生命的な表現をもってする思惟によ
らなけ、ればならない。社会も生活行動の組織だから、固定化された概念によって怯把握出来ない。それがためには生
﹁有機体説﹂、束洋経済新報社刊﹃経済学大辞典﹄、昭和三十年、所収)
﹁この著者
物学的有機体の生存の事態に即して形成された成長、繁殖、同化等々の概念を類推的に用いるほかはない。:::﹂
(酒枝義旗、
しかも、 この援用に継ぐマルクスの次の肯定は、 少くとも私にとっては、 決 定 的 に 重 要 で あ る 。 日 く
は、彼が私の実際の方法であるとするものを、この様に適切に、そしてこの方法の私自らの適用が問題とされる限り
極めて好意的に描いてくれているが、 こ れ は 彼 が 弁 証 法 的 方 法 以 外 の 何 を 描 い た と 言 う の か 。 ﹂ ( 傍 点 筆 者 )
﹁
フ
﹁有機体は、 力学、物理学、 化学を一全体としてそのうちに含むところの高度の統一体である。﹂(エンゲルス、
﹃自然弁証法﹄)
或は、 マルキスト・レ l ニ ン は 、 前 記 論 文 ﹁ カ l ル・マルクス﹂(の﹁哲学的唯物論﹂の項)に於て、言う、
ォイエルパハの唯物論をも合めての﹃旧﹄唯物論の主要欠陥は::・・マルクス及びエンゲルスに従えば次の点にあっ
D
﹂(註、これを、先のマルクスにおける援用中の文言、﹁旧い経済学者達が、経済的諸法則の性質を物理学や化学
た o l - -一、この唯物論は﹃著しく機械論的﹄な唯物論であって、化学及び生物学:::の最近の発展を顧慮しなかっ
たということ
一七五
﹁:::二、旧唯物論は非歴史的・非弁証法的(反弁証法的だという意味で形而上学
の諸法則になぞらえた時、彼等は、これを誤り解したのであった﹂、と比較・対照、その妙味を味わい給え!但し、相応しいセンス
を有するならば、だが。)
レl ニンは更に続けて云う、
有機体説と弁証法
経営と経済
一七六
的)であって、発展の見地を徹底的且つ全面的に貫徹しなかったということ。三、﹃人間の本質﹄を﹃抽象的概念﹄
111
﹃解釈した﹄だけだということ、即ち﹃草命的・実践的な活動﹄の意義を
として理解して、﹃(一定の具体的・歴史的な)社会的諸関係の全体﹄として理解せず、従って又、世界を││?で
れを変化すること﹄が問題であるのに
把握しなかったということ。﹂
弁証法(有機体説)の主要な近代的脳芽(の一つ!ーーと私が考える)││﹁アダム・ミュラ iは、既にその青年期
の 論 文 ﹃ 対 立 の 原 理 巴 o F S円 。 ︿OBComo
ロgHNO--∞宏・﹄に於て、ピラミッド型に構成されたあらゆる学問体系を、
その非運動性・硬直性の故に否定している。ミュラーによれば、常に運動に於て見出される現象に対しては動態的
哲学のみが妥当する。:::彼は最初この対立の原理を専ら認識論的に基礎づけんとしたのであり、 その点尚カント的
な啓蒙思想が認められる。しかし後に彼はこの原理を思惟形式から存在形式に、認識論的なものから形而上学的な木
、ユラ lの有機体思想については、先稿﹁有
﹁独逸経済学﹂、 慶応義塾大学講座、
体論的なものに拡大したのである。:::﹃あらゆる歴史科学、 従って国家学は:::単に認識され、説明さるべきでは
qωgm立件ロロ ω?)﹂'(武村忠雄、
なく、体験さるべきである。﹄(巴058芯 己
それが
昭和十三年、所収) (註、マルクス・レ!ニンとミュラ!との共通・相似を想え!
機体説と弁証法﹂、参)
ここで、 レl ニンの所謂﹁﹃旧﹄唯物論の主要欠陥﹂とされているものについて思いを廻らす時、 我々は、
同 時 に 、 三 木 清 の 所 謂 ﹁ 有 機 体 説 ﹂ 並 び に ヘ iゲ ル 観 念 弁 証 法 の 欠 陥 と さ れ た 諸 箇 条 の い く つ か に ピ ッ タ リ 一 致 す
るのに気付く口とすれば、私のこれまでの主張(或は頭初のザリ!ンの言葉に代えての私のテ!ゼ)は、当然撞着を
来すこととなろう
有機体説に異る二つのタイプのない限り!
D
}Ot
有 機 体 説 殊 に ド イ ツ 浪 漫 派 を 主 流 と す る そ れ ( 三 木 清 の 所 謂 ﹁ シ ェ リ ン グ 的 な る も の ﹂ ) が 、 現実への適用につ
oN
い て 、 重 大 な 限 界 を 有 す る 乙 と に つ い て は 、 例 え ば ハ ン ス ・ フ ラ イ ヤ l(出ωロω句円。旬。ア開EZEロロ間宮門出。 ω
。
目
mF52・阿閉吉男訳)の次の言葉l l頭書のザ lリンのそれと密接して相対照さるべきーーーがある。彼の一一白う、
﹁確かに、ドイツ観念論の社会哲学並びにドイツ・ロマン主義者の社会哲学は、完全に一定の社会的現実に根差して
居り、その社会的現実に対してのみ妥当する。殊に社会有機体の身分的分節に関する学説は、著しく過去に向けられ
D
しかし我々は、先づイギリスとフランスとに開始し直ちにドイ
て い る 。 そ れ は 絶 対 主 義 国 家 の 時 代 か ら 十 九 世 紀 に ま で も 及 ぶ と こ ろ の 、 且 つ 一 八O O年 頃 の 市 民 社 会 の 、 既 に 著 し
く色褐せた背景をなす社会秩序を引合に出している
ツにも開始する新しい社会的運動を、最早社会有機体及び有機的成長という範障を以ってしては考えることは出来な
U動 態 ︺ に は 適 用 し 得 な い
D
D
観
い。これらの概念は、現存する秩序が静かに発展するところにのみ適用し得るが、社会的現実が弁証法的対立の極分
裂すると乙ろには適用し得ず、何物かが変革せられ何物かが実現せられるところ︹
念論的社会哲学は、現出しつつある高度資本主義時代の階級社会とその革命運動とを、理論的に支配出来なかった
系をも根底から変えた。従って、観念論的及びロマン主義的社会哲学は、言葉の含蓄的な意味では、社会学の前史で
g
g'
斯 く て 、 社 会 学 は 、 十 九 世 紀 の 社 会 的 現 実 を 捉 え る 問 題 に 直 面 し た 時 に 、 ロ マ ン 主 義 者 の ﹃ 普 遍 主 義 己 旦 ︿σ
円r
g ﹄と結びつかなかった。社会学はロマン主義の反対者たるヘ lゲルに結びついたが、彼の社会体系及び国家哲学体
一七七
ある。それは、社会学が市民社会の自己法則的運動をその独自の対象とする転回以前のものである。﹂
有機体説と弁証法
経営と経済
一七八
﹁歴史上、高度資本主義時代は、 たっ・た一つじかない。いかなる過去の時代の中にも、 それに共通するものは一つ
(W・ゾムパルト、
﹃近代
も無いのである。:::経済生活の根本的変化:::我々の時代になしとげられた奇蹟:::。:::文化はその根本から改
造され、国々は興り且つ滅び、技術の魔法の世界は築かれ、世界はそ外観を二支した。﹂
資本主義﹄第三巻││高度資本主義時代における経済生活││、序言)
﹁進化主義﹂(としての有機体説)は、むしろその後の問題であった、と。
改めて、私における問題を提起しよう。有機体説としての把握││そこにも、(十九世紀に至る)その前史があっ
たのではないか?
ENC・)口﹂(酒枝、前掲著)
﹁有機体 Om
円
m
E
ω 自己ω の概念が明確な内容と理論的意味を持つ殺になったのは、カント以後であると言われる
(同・の・ロ5rgwoo-ωtmO2忌BBロロ向。ロ念円。o
ケ
︿円
mgdω
﹁しかし、その遥か以前から精神的態度としての有機体思想は存在していた。:::乙の精神的態度とは、国家或
は国民協同体は決して単なる個々人の集合ではなく、固有の生存の意義を持ち、固有の生存法則に従って活動する
歴 史 的 主 体 で あ り 、 従 っ て 協 同 体 と 個 人 と の 聞 に は 独 自 の 意 味 深 い 関 係 が 通 っ て い る と い う 思 想 で あ る 233ァ
巴巳包苫ロ阿古品目。 ω
ONE-omF-8ケ)。﹂(酒枝、前掲著)
済学を古典学派に対立させて、 人類と個人との問に、独自の言語と文字、同有の血統と歴史、独特な風俗と慣習・法
﹁経済学説における有機体思想﹂、経営と経済、第一一六号)の前半において或程度証明された。即ち、﹁彼が、自己の経
カント以後に於ける斯かる﹁精神的態度﹂の典型が我々にあっては F ・リストであったことは、既に先々稿(註、
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律と制度、自己の生存・自立・完成・永続への要求及び自己自身の領土を有する国民を考えること乙そ、その特徴で
(泊枝、前掲著)、彼は、
﹁個人と人類との問にはその特殊の言語と文字と
}芹20ygcroロ
あ る と 言 っ た 時 ( ピω
OEO-5β ・)﹂
? ロωωgtog-oω35日号円切O
まさしく有機体思想に立っていたと言うことが出来るのである。
を、その固有の血統と歴史とを、 その特殊の風俗と習慣・法律と制度とを、その存在・独立・完成及び永続に対する
要求を、又区則された領土を有する国民が介在している口それは、精神と利益との無数の紐帯を通して独立に存在す
る一つの全体に結合し、互いに法律を承認し合い、そして今のところ末だ自然的自由を保持しつつ全体としては同程
の他の諸社会と対立し、従って現在の世界情勢の下では只自らの力と手段とによってのみ独立不碍を主張し得るとこ
ろの一つの社会である。個人は主として国民によって又国民の内において精神的教養・生産力・安全及び幸福を獲得
﹁この﹃国民﹄が激しい同際社会の競争場の中で、 いかに自己の生存を維持し、存続
し得る椋に、 人類の文明は諸国民の文明及び発達を媒介として考えられ又可能なのである。﹂(リスト、 前掲著、第
註
十五章﹁国民体と国民の経済﹂) (
し、発展させていくかということが、リストの主題であった。﹂)
Z己目。
E
﹁
﹁﹃国民は個々の人間の偶然的堆積と解されずして、否!それは独自の概念であり、成長し来った有機的な、即ち
日
58・)民族乃至国民が一箇の有機体と看倣される以上、それを観察するに当っては、当
gro B
具った機能を営む諸部分から成り立った全体である。﹄(冨・吋35Eo止。?ロRωSEFRY000己
NE-2Bcpkp ﹀口町]・・
ω
。
然不断の成長・発展の過程にあるものとして歴史主義的立場をとらなければならぬ。﹂(武村、前掲著)
﹁ミュラ!は一切のものを固定した・それ自ら存するものと見ず、むしろ不断に生成し、迩勤するものと見る。﹂
有機体説と弁証法
七
九
経営と経済
一八O
﹁ミュラi・:・:彼は社会の﹃全体性﹄、 その有機的生成、その現在及び過去との結合性を見て取った。が故に、彼は
歴史学派において力強い影響を及ぼすことが出来た。:::彼は創造力というロマンティックな概念を持っていて、経
済的段階の観念を利用するが故に、彼はリスト及びヒルデプラントの先駆者と見ることが出来る。﹂(ザリ l ン、前
掲著) (註、ミュラ lの﹁創造力﹂とリストの﹁生産力﹂との対比。同様取扱い'については、例えば、ヘットナ lの﹁生成力﹂とウ
イツトフォ lゲルの﹁生産力﹂との対比として、私は先に﹁アジア的社会に対する科学的分析の方法論﹂において該問題に言及し
た。)
カント以前(カントの﹁遥か以前﹂)、有機体説についてその源流を尋ねれば、ギリシャ・ロ l マの昔にまで遡る
D
﹂(フライヤ l、前掲著)
乙とが可能である。﹁ギリシャやロ l マ の 哲 学 に 於 て は 、 社 会 と 国 家 と は 生 物 、 特 に 人 間 と 比 較 さ れ 、 各 種 の 政 治
的・倫理的結論が、乙の比較から導き出される
しかも、有機体説は、斯かる初めから、三木清の所謂﹁有機体説﹂の姿勢を堅持して来たことが特に注目され
る。﹁共同体とは一つの有機体であり、従って夫々の身分及び個人は平和的な協同をなす様に定められて居り、全体
の幸福のうちにのみ自己自身の幸福を見出す、というメ、不ニウス・アグリッパの寓話は、社会哲学の原始的な考えで
ある。﹂(フライヤ i、前掲著)
﹁即ち、子供は誕生・養育等の一切を親に負うのであるからその親に逆らうべきでは
紀元前五世紀末のギリシャの歴史的危機の時代におけるーーーソクラテスの個人と国家との関係についての子供と親
との関係を以ってしての警え、
S品開ハ・
ない。同様に個人も自分の祖国に一切を負うのであるからこれに逆らってはならない D:::国家を超個人的主体と考
。
件
え 、 そ れ と 個 人 と の 聞 の 関 係 は 単 な る 利 害 打 算 で な い 独 自 の 倫 理 的 意 味 を 負 う と い う 思 想 ( の ・ 国 O}ω E
D
彼の仰いだ毒杯は、 その
(註、周知の如く l lそり一一一口行は弟子プラトン
ω
日
ロNwωg忠告EZωOH)Eo--uωω ・)﹂(酒枝、前掲著)の如き、まさにそのよき例である
下
実、皮肉にも、彼自身の斯かる思想の象徴、実践としであったのである。
の対話筒、就中﹃ソクラテスの弁明﹂、﹃クリトン﹂に詳しい。)
﹁:::それは、まさに歴史的危機の時代であった。ペルシャ戦役の輝かしい勝利は、 アテナイ市民の生活すべての
方面、殊に経済的活動の部面において急速に発展させたのであるが、そうした過程は古来からのポリスによる厳格な
規律を次第に崩していった。殊にソフィストの運動はこの傾向に拍車をかけた。即ちこの個人中心の相対的・懐疑的
D
こうした懐疑的・相対的な
思恕は、個人の生を越えてそれを統一する客観的規範を否定し、すべてはただ個人の利害によって結ぼれる契約に外
ならないと主張し、祖国すらも共同的災厄を防ぐための契約の所産に過ぎないと説いた
思想の影響のもとに、個々人の行動は専ら利己的動機によって導かれ、 この様な動機による結合の党派又は階級が、
互いに敵対し合ってポリスの統一を脅かすに至ったのである。﹂(酒枝、前掲著)
﹁あらゆる歴史の初めには、人群、氏族、種族、国家として形づくられた共同体があるl l個々人は共同体の一員
として生存し且つ生活する。あらゆる生物と同じ椋に共同体も又、成熟・結実及び死亡を経験する││共同体の死亡
は即ち個人が解離し、独立することである。しかし歴史は停止しない。かくして、あらゆる個人主義的時代に向って
一つの解決を得
新たな共同体を形成するという宿命としての問題が提起される。古代は幸運にもプラトンの新たな啓示のうちに新共
﹁弟子プラトン﹂ に 至 っ て 一 層 明 確 に な る と 共 に 、
同体の核心を与えられた。﹂(ザリ l ン、前掲著)
ソクラテスにおける︿有機体的﹀思想は、
有機体説と弁証法
J
¥
有機体説と弁証法
(註、例えば対話筋、﹁別立宴﹂、﹁パイドン﹄
﹃ポリテイア﹄:::﹃パルメニデス﹄、﹃芳ィマイオス﹄、﹁ノモイ﹂:::等は謂わ
02E?
﹁ギリシャやロ!マの哲学においては、社会と
国家とは生物、特に人間と比較され、各種の政治的・倫理的結論がこの比較から導き出される。科学的社会学はとの
ン、アリストテレスの昔に、 その淵源を辿ることが出来るのである。
いわば、後年、 ドイツを支配した全体主義的社会観(有機体説)は、実にギリシャの時代:::ソクラテス、プラト
えるところの社会学をば﹃普遍主義的﹄と名付けている。﹂(フライヤ l、前掲著)
って社会的全体性を決して夫々の個人から構成されるとは考えず、 む し ろ 個 人 を 社 会 的 全 体 の 肢 体 色 町 己 と し て 捉
0 ・シュパンは、全体が部分に先立つというアリストテレスの命題を根本的且つ徹底的に社会形象に適用し、従
﹁
のみ存立し得るのであり、全体に役立つものとしてのみ存在の意義があるのである。﹂(武村、前掲著)
る統一的有機体と看倣され得るし、個人はその細胞として、諸団体はその諸器官として、全体の有機体の内部に於て
a、全体・社会は独自の実在であり、 b、全体が第一次のものであり、個人は言わばその構成部分として存在
﹃
﹁
w
F
S
ω宮
内
凶
件 "HCNω・)全体・社会は恰も生活力あ
するに過ぎず、従って派生的なものである。﹄(0・ ω目出ロデロ 0門司m
の﹃芯門目。 ω 同色o
E
ω 自己F 呂町・)。﹂(酒枝、前掲著)
国民の中に植えつけられ、統一的な志操と風儀が国家の全生活を貫くことにある﹄、と考えた(戸問問。円 ω?
。
慮、即ち真の人倫共同体の目的に服させなければならない。このことを実現する可能性は、全体者の精神がすべての
ばその証明である。) ﹁即ち、プラトンはその歴史的危機に対処するためには、﹃国民の一切の営為を全体者への配
た
。
;¥
考えを採用した。﹂(フライヤ l、前掲著)
﹁古代には、徹底的な都市を個人のうちに思い浮べるロ l マ人の国家感情のうちに、個人主義的国家をもって協
もっとも、ーーー等しく古代であり乍らもll ロl マ時代は、 個人主義的(原子論的)思想の一般的支配下にあっ
た
。
同体国家に替えるための真の政治的可能性が与えられていた。そしてこの永遠に建てられた帝国、 そして﹃神の否定
一つの新たな国民、即ち一つの新たな国家の担当者が発生した
c
者﹄でさえ、 それが永遠に存続することを信じたと乙ろの帝国でさえ、即ちアウグストゥスの帝国でさえ崩壊した時
に、既にキリスト教徒の信仰と協同体のうちに、
ωω門目。ロ H山
の
}
戸
。 030ωωgωの﹃えZ円。。﹃仲)第二巻に
M
(llゲルマン民族の歴史への登場、これである口︺﹂(ザリ l ン、前掲著)
﹁オット i ・ギ i ルケの如きは、 その大著﹃ドイツ団体法﹄
﹁独逸ゲルマン民族の精神は、 その本質に於て団体主義的である。﹂(武村、前掲著)
(
的なるに対し、後者が団体主義的なる点に求めてい
於て、 ローマ法とゲルマン法の本質的差異を、前者が個人主義ロ
る。﹂
﹁原子論的社会観と有機的社会観とは、社会観の両極をなす。ヨエルは世界観の変遷を解放思想と拘束思想との交
替といういう観点から研究して落大な著作を書いているが、一般的に見て、原子論的社会観は解放的民主的思想に結
びつき、有機的社会観は拘束的強力国家思想に結びつくと言えないであろうか。今日少くとも我国では、有機的社
一
八
一
会観││特にドイツ浪漫派的のそれーーは戦時中の勢力に比し被うべきもない頒勢にある。だが:::将来再び拾頭す
有機体説と弁証法
経営と経済
一八四
50目立に展開された哲人政治論は、まさにこの課題への解答であった。プラ
﹁プラトンの﹃国家論司0
ることがないとは何人も断言し得ないのである。﹂(福井、前掲著)
関話休題。
トンは、利己的動機によって結ぼれた党派が互いに権力を争い、祖国の統一を脅かすのを見た。:::︹アダム・スミ
ス に お け る ﹁個人﹂ よろしく 1 1︺各階級が夫々に自己と国家とを同一視し、 そのように振舞おうとするからに外
ならない。(同m
SE--) このような迷盲から国民の意識を解放するために提起されたのが有機体的国家論であ
円?
Oω
った。即ち︹フリiドリッヒ・リストにおける﹁国民体﹂の如く││l︺国家の正しい状態においては、国民各自が才
能と性格に最も適する職能階級に属し、各職能階級が夫々独自の機能を逐行しながら全体として調和しなければなら
ない。﹂(酒枝、前掲著)
職能(又は身分)│!?::国民が一つの全体、一つの有機体と解されている以上、恰も有機体の維持・成長は、
その有機体を構成する部分的全体たる諸器官がその職能に応じて夫々異った機能を営むことによって可能なる如く、
国家が国民の維持、発展を実現するがためには、夫々異った機能を営む諸経済的﹃職能団体 ωSEO﹄ を 有 機 的 に 組
織することを必要なりとする Oi--・﹃職能団体を最広義に解すれば、 それは部分的全体を、即ち社会・全体の職能担当
一、全体の表現であり、二、全体の特殊の・一定の表現であり、三、他の
者を意味する口職能団体の本質は全体の一定種類を表わし、且っこの全体の一定種類の部分内容を表示し、実現し、
実行する点にある。従って職能団体は、
職能団体の間にある職能団体たる乙とを意味する。職能団体の概念は、第一に多数の職能団体が存すること(他の職
能団体の同時的存在)を、第二に諸職能団体は部分的全体として総体的全体の内に含まれて居り、即ちそれ等は組織
的関聯に、有機的適合関係に立つことを要求する。﹄(巧・出。百円円。 FUロm
Z∞仲間ロ門言。ωgw-Cω ∞・)﹂(武村、前掲著)
たまものみたまつとめことはたらき
あらわしたまことば
﹃賜物は殊なれども、御霊は同じ口務は殊なれども、主は同じ。活動は殊なれども、凡ての人のうちに凡ての活動
いや
を九したまう神は同じ。御霊の顕現をおのおのに賜いたるは、益を得させんためなり。或人は御霊によりて智慧の言を
ちからわYわきまとちから
賜わり、或人は同じ御霊によりて知識の言、或人は同じ御霊によりて信仰、ある人は一つ御霊によりて病を医す賜
おのおの
物、或人は具能ある業、ある人は予言、ある人は霊を弁え、或人は呉言を言い、或人は異言を釈く能力を賜わる口凡
て此等のことは同じ一つの御霊の活動にして、御室その心に随いて各人に分け与えたまうなり。﹄(コリント前書)
﹁有機体説のもう一つの源流は、原始キリスト教思想の中に見出される﹂)
ともあれ、 そこにある有機体的国家論は、統一への、換言すればへ lゲル弁証法における﹁諸規定のその対立に於
﹁矛盾﹂でなく﹁統こ、
マルクスの﹁市民社会﹂と
﹁居﹂でなく﹁構造﹂としてのl l所謂有機体説(の原型)を、我
11
対照さるべくーーの把握に於けると同松に)著しく観念的なものとならざるを得なかった理由(の一半)をも、我々
一八五
に説明してくれるのである。││即ち、経済乃至経済活動に関するプラトンの取扱いは、 その良き例証である。
有機体説と弁証法
破
け る 統 一 、 そ れ の 解 消 と 推 移 と の う ち に 合 ま れ て い る 肯 定 的 な る も の 司gZ20・︿OBβロご仲間企の文字通りの意味に
﹁課題﹂でなく﹁所与﹂、
於 け る 全 面 的 ・ 一 方 的 肯 定 で あ る 。 三 木 泊 の 所 謂 1 i発展ありとしても﹁連続﹂、
不で
しな
てく
く「
れ保
る・存
と同時に、 この乙とは、プラトンの﹁理想国﹂の概念が(ヘ iゲルの﹁市民社会﹂
々
L-
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1
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に」
経営と経済
J
一
,1、、し一¥/
確かにプラトンは経済について考慮した。事実││﹁プラトンの﹃国家論﹄にとっての最も主大な課題の一つは、
日に日に発展してくる経済的活動を、 いかにして国家活動の全体の中に正しく位置づけるかということであった。彼
の以前にも経済活動に注意を払った人々はあったが、しかし経済の中に、ギリシャ的生活のもつ厳密な節度と形式と
002EE
o
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巴E ・
の oa2 ︿
を脅かし得る様な力が潜んでいるという考えは全んど見られなかった。ところがプラトンはペルシャ戦争後の経済活
動の急速な発展の中に、 このような力の潜んでいるのを鋭く見てとったのであった
円
(
三
三 ω岳山内 ZZFOWZNω ・)。そ乙でこのような傾向を制圧し、経済をしてその本来ω
の使命に相応しくあらしめるとい
うことが、彼の有機体思想の現実的課題だったのである。﹂(酒枝、前掲著)
﹁一個の全体としての国民の維持・発展を最高目的とする全体主義的国家は、 その目的実現の手段として経済を規
制する。経済をば国家の追求する目的のための手段なりと解する故、 その国家観は個人主義的・自由主義的国家観と
対立する。:::全体主義的国家観は全体としての国民の維持・発展のための手段に経済を役立たせんとして、 それに
│ │ l﹃プラトンは、経済的活動に従事する階層を、真に国家のために生活する国民と結びつける紐帯を
干渉し、規制せんことを要求す。﹂(武村、前掲著)
が、しかし
示すことが出来なかった。乙の階層は只本来の国民に必要な生活手段を調達するために奉仕するだけである。既にア
リストテレスが指摘した様に、プラトンの理想国は二つの異なる国に分裂して居り、これら両者は相互に何等の現実
的な結合をも持っていない。:::︹即ち︺国家に仕える生活と、経済活動との聞の対立が過度に強調され、本来の国
民だけが専ら人倫的協同体の種々の課題にあたり、利得活動︹リ経済活動︺を代表する人口要素は、 ほとんど全く現
突の国民協同体から締め出されてしまったのである。﹄(同忠門ω?FEt 酒枝、前掲著より)
むか
換言すれば、﹁プラトンの思忽はまだ本当の意味で有機的であるとは言えない﹂ lliのである。
﹄
(コリント前書)
﹃げに枝は多くあ
(例えばナチスの有機体忠恕にあっては)自明とされる。
﹁
蓋
れ ど 、 体 は 一 つ な り 。 眼 は 手 に 対 い て ﹁ わ れ 汝 を 要 せ ず ﹂ と 云 い 、 頭 は 足 に 対 い て ﹁われ汝を要せず﹂と言うこと
H
ム 425
己じ﹁ノ日102
託、もっとも、有機体の諸器日に価値順位を侃くことは
し、一つの有機体を梢成する諸器官は夫々その白む機能が相逃するために、全体としての有機体の維持・発展に奉仕する価値
﹃指導者原理﹄が絶対に必要とされる。即ち国民
にも夫々相違がある。例えば頭は桁よりも疋嬰であり、頭が他の諸器官を指導することによって全体の維持・発展が可能であ
る。それと同じく国民経済を職能団体的に、有機的に組織するに当っても、
経済の細胞をなす個々の企業内にあっては、企業者は労働者よりもその経営にとってより主要であり、従って企業家はその労
的者の信頼によって全椛が委任され、逆に労働者に対しその全責任を負う所の独裁的﹃指導者﹄となり、労働者はその﹃従
者﹄となる。次いで諸経党体よりなる一つの職能団体内にも一人の指導者が任命され、他は従者としてこれに従い、吏にこの
指導者はよりk位の包括的な職能団体の指導者に従う。:::﹂(武村、前向若)
斯かるプラトンの有機体思想(﹃国家論﹄を支えている)の批判││﹁この欠陥を批判し、経済活動を積極的に国
家活動の中に包摂し、国民協同体の有機的統一性を拡大し、高度化することこそ、まさに︹科学者︺アリストテレス
M
o
g
g﹄の主要な課題であった。﹂(酒枝、前掲若)
の﹃政治学問
それは又後に
一八七
A ・ミュラ l の 形 而 上 学 的 有 機 体 説 に 対 抗 す る 経 済 学 者 リ ス ト の 工 夫 の 根 拠 で も あ っ た l iマル
有機体説と弁証法
経営と経済
クスは(有機体路線に沿って)それを更に深化・発展(合理化)せしめた、と一一一口うべきか!
一八八
﹁ミュラ l の見た﹃国
家 ﹄ 、 す べ て の ロ マ ン テ ィ ッ ク の 深 い 愛 が 注 が れ て い る ﹃ 国 民 ﹄ は 、 先 づ 第 一 に 理 想 的 実 体 で あ っ て 、 ただ第二次的
にのみ現実的実体である。:::フリ lドリッヒ・リスト:::彼が物質的成果を評価する場合や、厳密なる発展論をと
(ザリ
る場合には、 ロマンティックよりも十九世紀の精神により多く結びついていた。・::・マルクスはその合理主義の故
に、ミュラ!の社会学説を評価出来なかったと同様に、 リストの経済理論を全んど評価出来なかった。:::﹂
﹁アリストテレスにとって、﹃統一は決して絶対的なものでなく相対的なものに過ぎない D即ち統一は機械
ーン、前掲著)
加えて、
的な強制手段によってではなく、教育、哲学、法律、 つまり精神的なものによって基礎づけられなければならない。
-・善と悪、 正義と不正及びそれに類すること:::これるの理念の共同性が家族及び国家を基礎づける。﹄(﹀ユ ω
・
件。芯}
gWEE--) 彼が国家の有機的存在を:::理念の共同性の中に見た点は、有機体思想の歴史において重要な意義
を負う。これにより有機体思想は何等かの自然的な事実からの類推によってでなく、人間共同生活そのものの独自な
一個の魂を具えた身
統一性をその本質に即して把握するものとなるからである。﹂(酒枝、前掲著) (註、アリストテレスより:::カント:::
ドイツ浪漫派、ドイツ歴史学派:::への途は、斯くて聞かれた、と言うべきである。)
﹁斯くて例えば一つの君主国が、もしそれが内面的な国民の法律に従って支配されるならば、
一個の単なる機械(例えば手臼の如き) によって
しかし単に象徴的に表象される。﹂(カント、﹃判断力批判﹄) ﹁我々は現実よりもむしろ理念のう
体によって、又もしそれが単一の絶対的意志に支配されるならば、
二つの場合共に
ちに見出されると乙ろの或種の結合関係に対して:::直接的の自然目的(有機体)との類比によって、光を投ずるこ
とが出来る。例えば、近来企画された或る大きな民族を完全に一つの国家に改造する場合において、市参事会その他や
乃至は全国家形体そのものの仕組に対して、一度々有機的組織という言葉がすこぶる適切に用いられている。何故なら
ば、その各員は事実このような全体のうちにあって、単に手段たるに止まらず同時に目的でもあり、そして全体の可
能性のために協働すると共に逆に全体の理念によってその地位及び機能を規定されるからである。﹂(カント、前掲
若)
﹁人間の完全なる喪失﹂(マルクス)所謂﹁疎外﹂が在る、と云う。﹁マルクスは﹃手臼﹄は封建社会を粛し、
人間が自己目的である乙とを止めた時(乃至止めることを余儀なくされた時)、我々はそこに(有機的)生の喪
失
、
﹃蒸気粉軌車﹄は資本主義社会を粛す、という斯有名な表現で彼の意味せんとするものを説明している。﹂ (J・
A ・シュムペ lタl、 ﹃資本主義・社会主義・民主主義﹄)
ともあれ、プラトンやアリストテレスの見たものーーその近代的表現、斯かるもの乙そ、実に(三木清の指摘せ
﹀ ]]mOBOEO
﹂である。﹁乙のものは、弁証法に於ては:::かの
る如き) ヘlゲ ル の 所 謂 ﹁ 具 体 的 普 遍 含ω 問。ロ宵円2 ・
弁証法の三つの契機のうち特に﹃思弁的なるもの﹄に属する。ところでこの思弁的なるものは単にヘ lゲルにのみ特
]]mOEOロO)として発見された。それ故にへ
iゲル自身もカントを批評
有のものではなく、むしろあらゆるドイツ思弁哲学に、従ってシェリングにも共通のものである。それは既にカント
♀'﹀
によって所謂綜合的普遍28ω 可
ロ§22
して云う、﹃判断力批判は、カントがそこに於てイデ!の表象、否!思想を言い表したという著しいものを持って
一八九
いる。直観的悟性、内的合目的性等の表象は、同時にそのもの自身に於て具体的として考えられた普遍である。従っ
有機体説と弁証法
経営と経済
一九O
o
H
U注芯・)カントが夙に有機体に結
てこれらの表象に於てひとりカントの哲学は思弁的として自らを示す。﹄(何去三-
一切の特殊が一つの完了した・統一ある全体の中で一義的な・必然的な位置を保つ。
びつけたところの具体的普遍的なるもの、 ヘlゲルの謂う思弁的なるものは、まことに有機体説の主なる思想内容で
ある。具体的普遍にあっては、
この時各々の部分は全体を要求し且つ部分部分を互いに要求する。それと共に全体は又部分を要求し且つ各々の部分
をして互いに要求せしめる。如何なる部分も全体によって規定されて、全体の意味を現わさぬものとではない。カン
J
、
‘々、
/11- クラウゼ及びシュライエルマッハl):::彼等はピタゴラス、プラトン
fIl
る。:::この際社会的現実を把捉するこつの主要範陪は、有機体 Om
円 S255 と 歴 史 の
02庄のEo という範隠であ
る。(もっとも、﹁観念論的社会哲学とロマン主義的社会哲学とにおいては、歴史という範陪は有機体という範明と
結びつく。﹂︺社会的現実は﹃有機的﹄形象であるという命題は、第一に、共同体が決して孤立した個人から構成し
得ずそれに属する個人よりも論理的に先であるということを怠味し、第二に、社会生活が志識的且つ人為的に合理的
理論によって形成したり変化したりするを得ず無意識に根差し自然に生長するということをな味し、第三に、夫々の
社会的統一、夫々の民族、夫々の社会集団、夫々の身分、夫々の生活圏が特有の形成法則をもち、独自の価値と権利
とをもっ同有の形象たることを意味する。﹂(フライヤ l、前掲著)
フ
トは斯くの如き構成を有機体に於て見、 ドイツ歴史学派の有機体説はそれを歴史的存在一般のうちに見た。﹂
シェリング、
ノ
レ
﹁カント以後の観念論者達やロマン主義者達(アダム・ミュラ l、 フリードリッヒ・シュレ lゲル、ゲッレス、
ィヒ-ア、
ゲ
及びアリストテレスにその起源を持ち、中世のスコラ的実在論をその頂点とする社会学の真の形式を引継ぐものであ
J¥
国家を、 個別力と個体とに一般に初めて現実性を与え
2 門出。宮中
﹁有機的国家学の領域ではシェリングが指導者となる。彼はその﹃科学方法論諮義︿2kg口問。ロロσ
目
。
門
目
。ωow
包O
B
ω F
50門
のO
ロω苫門出口自己(一八O 三)の中で、
R窓口町B5 として、﹃自由の客観的有機体o
円O
る 生 き た 全 有 機 体 とzortgO円窓口ZB5ι2 句
E
O
ζ として表
巴Z与え
1 1 有機体の範悼を、とりわけ身分的に分節した社会全体。。 ω
zmgs に適用する。身
g巳浜口5こ
わ し て い る 。 後 期 ロ マ ン 主 義 者 は │ │ 例 え ば ア ダ ム ・ ミ ュ ラ ー は そ の ﹃ 国 家 学 要 綱 巴OB85 含円ω
(一八O九)の中で
分は肢体のロ包であり、身分の特別な権利と生活形式とは、身分が行う特別な機能のうちに基づいて居り、極めて
一貫している。﹂(フライヤ
有機的に社会体の全体を形づくっている。そのほか、歴史的世界の真の有機的な統一は民族︿o日 で あ る と い う 思 想
ヘルダーからフィヒテや E ・M ・アルントを経て歴史学派の思想家に至るまで、
彼の形而上学によって支持している。﹂(フライヤ l、前掲著)
有機体説と弁証法
し
ブ
るという考えを極めて詳細に説明し、 この考えを、自然のあらゆる領域においても同様な発展公式が行われるという
学との結合肢をなしている。:::ハ l パlト・スペンサ lは、社会の構造と発展とが有機体の構造と発展とに一致す
と表哀一体の実証的有機体説というべきもの、これである。﹁コントにあっては、有機体の概念が生物学と実証社会
他方、イギリス及びフランスに於ける有機体思訟は、ドイツに於けるとは、又具った性格の発展を逐げた。生物学
ー、前掲著)
カi
σ
0門門出。
経営と経済
﹃この有機体説は、 コント及び後のスペンサ!派の経
﹁経済学説における有機体思想﹂)の前半に於て私の試みたりストの生物学的解釈はドイツ的なも
丘
三ω
ω
g
ω
ωON-
な5 ・のめ仏 msfoロ
(FEOD
﹁自然主義的な仕方で、有機体説的
p ・フォン・リリエンフェルト
口付ロロコ・日∞吋ω・)の如きは一種英仏流に、
の ﹃ 山 内 仲 己O 円 N
本観察から発展している。﹂(フライヤ l、前掲著)
いわば彼にあっては、私の試みに遥か勝る生物学的適用が可能とされている。
(私の試みにおけるが如き)普遍的一致、生理的分業及び環境への順応(従ってコントとスペンサ!とが既
﹃資本形成﹄を例にとれば、社会的﹃細胞問実体
EHOR巴EEs
保存とは、生物有機体における貯蔵、緊張力及び遺伝的特質の堆積に対応する。同様に、社会体の混乱と腐敗現象と
円
ωロσωgロN﹄の集積、即ち、 人 々 の 聞 の 社 会 関 係 に 先 づ 恒 常 性 と 確 固 た る 形 式 と を 与 え る 物 質 的 ・ 精 神 的 財 の 生 産 と
を正当なりとし、否!そのことを強いるのである。
に試みた諸相)という一般的諸事実のみならず、更により特殊的な類比は、社会学の対象を有機体として把握すること
よれば、
P ・フォン・リリエンフェルトに
﹁
社会学を樹立している。彼にあっては、社会は全く厳密に一つの有機体であり、社会に関するすべての認識はこの根
位
ことが出来よう。事実ドイツに於ける場合にも、例えば、
のを、 イギリス・フランス風なものーーーというより自然科学ーーによって裏打ちせんとした、文字通りの試みという
従って、先稿(註、
つ﹄、と言う。﹂(福井孝治、前掲著)
験的・生物学的有機体説と根本的に異るものであって、その中心を民族精神とその有機的な働きの理念においても
を意味するに過ぎない乙とがある。トレエルチュによれば、
ない。それらは、単に、多様における統一、均斉、諸部分の美しい調和、整然たる組織、部分に対する全体の優位等
﹁浪漫派及び歴史学派における﹃有機的﹄という表現は、厳密な生物学的意味において、使用されているわけでは
し
ゴ
ロ ωEomHEoE片山口口m江戸HE・﹄﹂(フライヤl 、 前 掲 著 )
ロO門田口O
ρ
の全体系は、自然的有機体の病態及び変態に対応する。:・:::﹃先に自然のうちに存しなかったものは、社会のうち
。
件
昨日。己百 ω
の
伊
豆ω
にあることはない。 ZFF
O
三
門H
註、リリエンフェルトの所謂﹁資本形成﹂における場合、それは K ・E ・ボウルディング(回O
E
m
- 吋yoωE-zohF0
20ロOB-ωTHUg- 桜井欣一郎・美智子訳)における(有機体の)﹁恒常性保持機能 F0500己2 2﹂に関するものの応用
が一部一致している。﹁恒常性保持とは、変化しつつある環境にも拘らず組織が与えられた構造をそのまま維持する能力であ
るOi---多数のこの極の機構は、その物理的状態と化学的状態││温度・圧力及び血液の配合││の不変性を維持している生
きている有機体に存在している。恒常性保持理論は又経済組織に適用される。実際、経済組織のあり得べき最も単純な理論
は、物的貸借対照表或は状況報告書の恒常性保持理論である。種々の程類の資産と負債││即ち物的貸借対照表ーーの一定量
が存在すると想定する。会社はこれらの数量を維持したいと思う。即ち、温度が低すぎる時、自動調温装置が暖房炉を動き出さ
せるのと丁度同じく、もし会社の貸借対照表の何かの品目が撹乱されたり、変えられたりすると、この撹乱を訂正し貸借対照
表を以前にあったところに戻すために、成る種の処置又は行動がなされるだろう。最も単純な変化は売買に含まれる変化であ
る。従って、会社が一 OOブッシェルの小麦を二0 0ドルで売ると想像しよう。との取引は会社の貨幣ストックを二0 0ドル
以前の状汎に回復するためには、会社は今や或る方法で一 OOブッシェルの小麦を獲得し、二0 0ドルまでの貨幣を除かな
だけ増し、そして小麦のストックを一 OOブッシェルだけ減少させ、このように・して以前の貸借対照表を撹乱する乙とになる。
くてはならない。このことは再び小麦を買うことによってか、或は生産要素を購入しそれらを小麦に変形して小麦を生産する
ということによってなすことが出来よう。﹂(ボウルディング、前掲著)
一九三
﹁生命のある最小の細胞から最大の社会組織に至るまで、すべての組織は、共通な或るものを持っている。﹂(前掲著)
有機体説と弁証法
経営と経済
25
一九四
Foσg 門目。ωωONES 問。吋H
:::A・シェフレ 305E0 ・ 出
﹁
U
O円?日∞討lH∞吋∞・):::彼も又﹃社会体の
日
門
構造と生活﹄がすべての本質的な点で自然的生物に対応し、従って二有機体聞の類比を求めることが社会学にとって
実証的価値を持つと信じている。シェフレは、 スペンサ!やリリエンフェルトと同様に類比を行う白彼は社会的勢力
の機能を反対線条を持つ随意筋と対比し、社会の精神生活を動物の神経組織と対比し、警察や要塞や道路や交通手段
﹁特に、生物学が十九世
を生物学的発展の夫々の地点と類比し、 このような類比が充分な価値を持ち社会的事態を説明出来ると考えるのであ
る。﹂(フライヤ!、前掲著)
斯様にして、社会体は有機体の類比・類推に於て、かなりの程度まで説明が可能である。
紀に細胞を発見し、有機体をいわば細胞から成る社会として説明して以来、類比は構成的な類似となったようであ
る。﹂(フライヤ l、前掲著)
しかし、社会体の斯かる生物学的類比(類推)は、我々がリストについての試みにおいて既に承知せる如く、程度
の問題である。かなりの説明を可能にしたシェフレに於て、その自党がある。﹁シェフレは、社会体が、自然的有機
一断片である、 と 言
gezoロ﹄である、と強調する。そして社会体に於て初めて、政治によって意識的な影
体に比して﹃程度のものの
響と形成とが可能になけ、社会学は、常に社会形象の過去及び未来に注目しない場合には、
う。﹂(フライヤ i、前掲著)
﹃社会的有機体の成立・存続・発展・死滅及びこの有機体の他のより高いそ
我々がリストについて裏付けを試みた如く││政治を説明すべく、果して、 シェフレには﹁恒常性保持機能﹂の知
識 が な か っ た の で あ ろ う か ? 或は又、
否?
!彼 に は 、 有 機 体 そ の も の に 即
れによる代置等を規制する特別の法則﹄には、彼は無縁であったのであるか
したものではなかったとはいえ、かなり応用と発展の工夫があったものの如くである。
﹁社会的諸事実の自己法則的
性質に関する:::明白な洞察は、無論シェフレが有機的類比を固執する乙とを妨げるものではない。:::彼は﹃意志
H歴 史 的 内 容 に よ っ て 充 た し て い る 。 ﹂ ( フ ラ イ ヤ l 、 前 掲 著 )
mguB5﹄ と し て の 社 会 の 概 念 に ま で 進 み ( 社 会 生 活 の 精 神 的 諸 要 素 の 作 用 を 追 求 し 、 社 会 的 発 展
-38 円
有機体巧己
及び社会的没落の概念を具体的
﹁精神的有機体﹂の概念を主張するのが、 p ・バルトの場合であ
﹁ 自 然 主 義 的 思 惟 に あ ま り 捉 わ れ ず に 、 社 会 現 象 の 歴 史 的 性 質 と 精 神 的 内 容 と を 、 よ り 一 層 重 視 す る の が 、 A ・シ
﹁意志有機体﹂を超えて、
ェフレである。﹂(フライヤ l 、 前 掲 著 )
註、同様理由により、むしろ、
る
。 ﹁生物学的有機体と社会的構成体との問の根本的相違:::前者の構成要素は細胞であるに反し、後者の要素は人間であ
る。しかも単なる肉体としての人間でなくて意欲する人間である。人間は彼の肉体をもってでなく意志をもって社会に入り込
む。このことは人聞は同時に異なった社会に属することが出来るが、彼の肉体は只一つの社会においてのみ存在し得るという
oロωO門間ω
巴 ωBロωと
事実を見ても明らかである。それ故にハシェフレにおける如く││心社会的構成体を意志的有機体巧ロ -
れに従うという事実も充分に表現されるであろう。しかし、乙の表現ではまだ不充分である。意志はその極めて最初の段階に
呼んでもよかろう。斯く呼ぷ乙とによって、すべての人聞社会が機械的生理学的因果から遠ざかり、他の因果性即ち意志のそ
おいては物的契機に依存するが、後の段階に至るに従って益々純精神的な契機に、即ち表象及び精神活動によって個々の表象
から穫得される思想に、依存するようになり、直接の生活のために役立つ社会の上に精神的目的に捧げられた新しい社会が笠
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ぇ、或は旧い目的が精神的発展によって益々広大な包括的な・高貴なものとなる。社会生活がこのように益々厳密に精神によ
一九五
って支配されるに至る傾向をもっ ζとを表すためには﹃精神的有機体﹄という術語による方が適当である(回25・口町℃﹃
有機体説と弁証法
経営と経済
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ロoωOH)EO 2Domの﹃円。zo巳ωωONZZ岡山σ ) │バルトは以上のように述べて、社会的構成体を精神的有機体と規定して
いるのである。﹂ハ福井、山川掲著)
我々は、ここで有機体と社会体とが決して同じものでない││(少くとも、我々の現時点に於て)社会体は有機体
によってすべて説明され得るものではないーーという自明の理を改めて確認しておく必要があろう。社会学は生物学
ではない││﹁社会的現実は、有機体に比すれば全く独自の対象である。﹂
事実、有機体説そのものに、 シェフレのみならず、斯かる自己批判の一般的底流があることを我々は確認し得る。
﹁フランスに於ては、他の者と並んで、ルネ・ウォルムスが社会学の生物学的傾向を代表し、先づ極端に、次に除々
に有機体説的類比に訂正を加え、且つ鋭い批判を加えている。事実、生物学的社会学を批判的に観察することによっ
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(そしてこのことは今日一般に確認されているところである
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このことは、単に社会形象のより多
て、我々は、社会学の方法的原理と言われていた社会﹃有機体﹄説が本質的な認識価値を有しないことを確認しなけ
ればならない
くの複雑さの故を以つてのみならず(更に、社会が生物より﹃一層複雑﹄であるか否かは当然疑問となり得る)、又
社会的現実がそのすべての本質的特質に於て有機的生命に対して独自の、従って社会学的な概念によって把握さるべ
き特有の世界を表わすが所以である。﹂(フライヤ i、前掲著)
﹁有機体的類比に対する疑念は、 その実行が完全に試みられるに従って、 より一層明瞭となる。暖昧な比較は現実
的な構造上の類似に置き換えられる。社会的世界の連関についての新しい洞察は全んど得られない。:::それは特に
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社会学的な方法及び概念形成によってのみ得られるのである。﹂(フライヤ i、前掲著)
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同様、例えばシュムペ!タ!(ω♀
﹁経済学上の一種のモン?l主義を如何程力説するも尚過ぎることはない口:::生
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ロO B F H C O∞・木村健康・安井琢磨訳)も(但し、彼の場合認識論の問題として)生物学的類比に対する彼の立
場を、次のように強調している。
物学的類比:::ここで問題になっているのは単に比較︿R吃巴各であって内容的真理の導入ではない。ところで、
この比較の意義を明らかにせんとするならば、その動機は何であったか、それのなすべき乙とは何か、という問を提
起せねばならぬ。マーシャルに於てはこの点は明瞭に表れている。彼をして生物学的類比に力学的のそれに対する優
位を与えしめた動機は、発展なる契機を我々の科学中に導き入れんとする努力であった。力学的方程式組織は一つの
静止の状態を与えるが、進展その他の諸現象に対する類比を供するものではない。乙の点は正しい。だが惜しむらく
は、マーシャルはこのことを言わずして、経済学は一つの﹃生の科学﹄なりという主旨を示したに過ぎない。この
﹁生物学的類比は、疑念の余地多き有機体的国家観その他のものと豪も関係なきものである。﹂
主旨は余りに一般的にして真に有用たり得ず、 明 瞭 な 把 握 の 妨 げ と な る に 過 ぎ ぬ が 如 き 一 般 的 合 言 葉 の 範 時 に 属 す
る。﹂
と云って、純粋経済学者シュムペ lタ il--その彼に於てさえ、経済学の成果が生物学と無縁であるのでは、勿論
な い 。 否 ! むしろその反対でさえある。彼は云う、﹁確かに生物学と我々の領域との関係は多数に認められる。例
えば経済的行為の本質や人間動機の本質の基礎づけ、これらは我々のなし得ざるところであるが、それを生物学は果
すのである。それ故科学的世界像に於ける生物学の成果は恐らく我々の成果と余り隔っていないであろう。﹂
だがそれ故にこそ│││﹁だがそれ故にこそl │この点は素人のみならず専問家にも充分明らかになっていないこと
有機体説と弁証法
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経営と経済
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が屡々ある1 │我々の科学は認識論的には依然として生物学と隔絶することが出来、 それから刺激を受けることも、
それに刺激を与えることも出来ないのである。:::一切の行為は生物学的に説明せられる筈であり、従って経済学は
或意味では結局内容的に生物学に還元さるべき運命をもっているという認識でさえ、経済現象を、その内奥の本質に
立入ることなく、それ自身として取扱うことが経済の本質探究よりも多くのものを与え得る限り、即ち凡そ経済学な
それは学聞を増大するのではなく、 不具にするものである。﹂(カント、
﹃純
る独立的学科が存立する限り経済学は他に依存するものでなく自己充足的である、との事実を一生も変更するものでは
ない。﹂(傍点筆者)
﹁諸学の限界が混治されるならば、
粋理性批判﹄、第二版序二一日)
││我々は、再び、社会科学としての(社会学乃至経済学としての)有機体説の場合に、立戻ろう! 即ち、
物学的有機体説を経た)より高次の次元において!
︹未完︺
生
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