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松尾造船、川南工業、三菱造船 -長崎香焼島に於ける造船業の変遷-
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 松尾造船、川南工業、三菱造船 -長崎香焼島に於ける造船業の変遷- Author(s) 前川, 忠良 Citation 経営と経済, 49(1), pp.33-75; 1969 Issue Date 1969-04-30 URL http://hdl.handle.net/10069/27776 Right This document is downloaded at: 2017-03-31T05:09:43Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 松尾造船、川南工業、三菱造船 は し が き −長崎香焼島に於ける造船業の変遷− 一、松尾造船の盛衰 二、戦時下に於ける川南工業 三、戦後に於ける川南工業 前 川 忠 長崎港外に桟たわる僅か三・五粁平方の島、香焼島の歴史は、明治維新以来百年、日本資本主義の発展段階を象徴 的に反映し、将にその縮図としてとらえることが出来る。数ヶ年の歳月と、数十億の巨費を投じて建設せられて来た 長崎外港建設計画による臨海工業地措埋立工事によって、香焼畠は長崎市郊外の深掘町と陸続きとなり、その島とし ての歴史を閉ぢた。 良 経営と経済 一、松尾造船 盛衰 本としての川南工業と、国家独占資本としての三菱造船である。 て現われたことを知ることが出来る。すなわち、ブルジョワジ!の先兵としての松尾造船と、天皇制依存の軍事的資 われわれは日本資本主義の縮図、香焼島の歴史のなかに、日本造船業の三つの典型が、三つの段階という形をとっ を閉ぢた。 ないであろう。かつての英雄川南豊作は、独占資本三菱造船の打ち振りハンマーの轟音を弔鐘とき﹀つ﹀、その生涯 い洋風木造建築物が明治時代の名残りをと Yめているが、それも十万屯ドックの残骸とともにその姿を消す日も遠く 関係工場であるとか、いろいろ憶測が行われている。大正初期に築造された石造りの松尾造船のドックの横には、古 がこ﹀に何を建設するのかということは、外部には未発表であるが、あるいは五十万屯ドックであるとか、原子力船 いたが、三菱重工による買収によって、今日ハンマーが捻をあげてそのコンクリート柱を破壊しつ﹀ある。三菱重工 かつて東洋一を誇った川南工業のビルディング・ドックは、その衰退とともに多年にわたって醜い残骸をさらして 四 幕府が長崎に於て海運の伝習を初めてから、長崎港を訪れる外国船の出入も一段と増加し、それによってまた艦船 のための長崎伝習所が開設されたが、その教授科目の一つとして﹁造船学﹂が設置されていた。 ﹁ ス l ムビング号﹂の贈呈を受け、幕府は乙れを﹁観光号﹂と改称し、海軍技術伝習のための練習船とした。またそ 要を感じ、海軍の創設にふみきることとなった。幕府はオランダに軍艦購入の申入れを行ひ、オランダ国王から汽船 勢は或る程度知ることが出来た。従って、諸外国の日本に対する開港の要求が強くなるに従い、国防上兵制改革の必 長崎は鎖国時代に於ても唯一の開港場として、外国船の出入港も多く、従って徳川幕府は、長崎を通じて海外の情 の 修理事業も必然的に増加した。 嘉永六年九月に大船建造解禁令が施行されてから、諸藩の建艦、造船が活発化し、藩営軍事マニユフアクチュアが 発生し初め、幕府及び各藩の艦船建造のための船大工は多く長崎から求められた。 幕府は更に、安政二年七月大船製造掛をおき、稲佐飽ノ浦に長崎溶鉄所の、建設にとりか﹀り、五ヶ年の歳月を賀 して、万延元年その完成を見た。幕府はオランダから、ハ l デ ル ス 技 師 長 他 、 技 師 、 職 工 を 招 き 、 必 要 な 諸 機 械 を 輸 入した。その施設は、原動力二五馬力を備え、木工、旋盤、錬鉄、鋳鉄の諸工場からなり、おおよそ五十馬力の舶用 機関の製造と、普通艦船の小修理を本来の業務とした。 本稿の香焼島は長崎港口に位し、佐賀鍋島藩の飛地深堀藩に属していた。鍋島は幕府より長崎港警備の任務を受 け、要港に恵まれた香焼島に佐賀団結の兵所をおいていた。佐賀藩では、安政三年車船製造方を設け、三重津製造所 を建設し、蒸気外車船風丸を完成し、安政四年にはコットル船辰風丸を長崎大波止に於て着工し、翌五年完成した。 幕府も文久三年飽ノ捕にて、蒸気内車船先登丸を完成し、更に立神軍艦打立所を着工した。 明治元年に新政府は、長崎製鉄所を長崎府に所属させ、英人ブラキーを雇傭して工事を監督させた口明治四年四月 工部省はこれを長崎造船所と改称し、グラパ l の 小 管 修 船 場 も 買 収 し た 。 ま た 七 年 六 月 、 六 神 郷 の 修 船 渠 の 再 建 を 計 り、フランス人ワンサンフロランを建築師長として招き、十二年五月乙れを竣工せしめた。十三年にはイギリス人ム ィリアム・ラングを一居入れ、鉄船の建造を開始した。 長崎造船局の経営は、明治九年頃から好調をつ Yけたが、十五年には不況に陥り、設備の改善、増強が必要であっ た口政府は造船業の育成の必要を認めるとともに、十七年長崎造船所と改称し、更に政商三菱会社に払下げ、純然た る民間造船所として再出発した。 松尾造船、川南工業、三菱造船 五 経営と経済 一 一 一 六 明治二十年頃までの明治政府による造船近代化政策の目標は﹁洋式化﹂にあり、五百石以上の大型和船の建造を禁 止し、西洋型船舶を奨励するという方針は、明治政府の基本的態度であった。民間鉄鋼船造船業の未発達のため、内 外の船舶の修理まで、海軍工廠において修理せねばならぬ場合もあり、民間造船企業が次第に拾頭し、木造船は鋼鉄 船にとって代られる必要が生じた。 明治二十年を前後して、日本造船業は一つの転換期を迎え、木造船から鉄鋼船に移ってゆく。明治二十三年には、 三菱長崎造船所に対し、大阪商船会社から鋼船の発注があり、筑後川丸、木曽川丸等が竣工し初めるのである。 松尾孫八の前身は必ずしも明らかではないが、兵庫県佐加藩の士族出身であり、若くしてラプチン経営のボイド機 関製作所に工員として約三ヶ年勤務した後、工部省長崎製作所に五ヶ年間勤務し、更に包向鉄工所に入社し、鉄工、 造船技術を修得した。彼は明治十六年長崎市街の浦上川を狭む対岸稲佐町に機械工場を設立し、数人の工員をもって営 業を初めたが、明治十八年には浦上淵村に松尾鉄工所を設立し、蒸気力を用い、工員は既に五十五名に及んだ。主と して造船機械製造や船舶の修理、内燃機関の修理を行った。明治二十五年には初めて造船が試みられ、内外艦船の修 理以外に、鉱山機械の製作にも従事した。当時、東京府、三重県、神奈川県、兵庫県、大阪府等に造船業の中心が あり、その他静岡県、高知県、長崎県等に幾つかの造船業があった。これらの造船業は三つの系統に分類することが 他の追随を許さぬ大規模な工場が発達することとなっあっ 出来る。即ち、払下げ工場、伝承工場、新興工場である口払下げ工場は長崎県、神奈川県、兵庫県、北海道等にた官 営育成施設の払下げによって、近代化が急速にすすみ た。三菱造船、石川島造船、川崎造船、函館ドック等である。 伝承工場は木船、和船時代の恵まれた条件がそのま﹀存続し、伝統的企業が中枢的地位を占めるもので、三重県や 高知県等に見られるものあり、機械化、近代化がおくれるが、しかもそれなりの基盤が築き上げられる結果となっ た 。 新興工場は大阪地方に多く払下企業は少いが、その他の近代的な民間工場が建設され、造船についても新しい外国 技術に接する機会が多く、民間造船企業が併立して存在し、自力で近代化へ進もうとするもので、それは伝承産業か らの転身の場合もあれば、他の機械工業等から移行したものもあった。 明治十七年の長崎県統計書によれば、長崎造船所以外には口ノ津製造所が島原半島南端にあり、三菱長崎造船所が 払下工場として、口ノ津製造所が伝承産業として、松尾造船は機械工場から転身した数少い新興工場として理解する ことができる。 明治二+九年一月十四日、政府は第九回帝国議会に、わが国の海運、造船界を保護助成する目的をもって、航海、 造船両奨励法を提出した。そして両法案の相互密接な関係は次の数でも明らかであった。明治二+七年未統計によれ 一三九、=二 O屯、平均屯数一九 ば、在籍船舶一四六五隻、二一回、八二六屯の中、外国建造によるものが非常に多く、最近五ヶ年の登録船舶を見る と、内国製造、 一一五隻、二七、九七三屯、平均屯数三四三屯、外国製造七一隻、 六二屯であり、従って国内船は小型船で、外国船は大型船であった。従って一千屯以上の船は、二七年まで、国内で は十二隻を建造したにすぎない状態であった。 わが国の造船業が他国と比較して未発達であり、かつわが国が必要とした船舶の保有量も少く、かっそれが外国貿 易に利用出来る船舶は殆んど外国からの購入であった。また日清戦争に際して、二十三万屯の商船と軍用に供せねば 七 ﹁造船奨励金を受くべき船舶は鉄製又は銅製にして総屯数五O O屯以上一千屯 ならなかったし、それらの船舶の修理能力が問題となった。それら当面する諸事情の解決のためには、政府奨励によ る造船事業の発達は急務であった。 造船奨励法案は全文八条からなり、 松尾造船、川南工業、三菱造船 経営と経済 一千屯以上のものは二十円、機関については一実馬力に付五円を支給することにした。 000屯以上の船舶の建造実績のある造船所は、長崎の立神の三菱造船一ケ所にすぎなかっ 未満は、 一屯に付金十五円、 しかし、当時日本で一、 ﹁航海奨励法﹂と相倹って、日本の富国強兵政策による帝国主義 松尾鉄工所は明治二十七、八年の日清戦争により好影響をうけ、事業はますます繁忙を極め、明治三十三年には従 船所、備後船渠等であった。 また日清戦争を中心として拾頭した民間造船所は、浦賀、函館両船渠、松尾、小野両鉄工所、横浜ドック、中村造 って、造船奨励法にせよ、海軍艦艇建造にせよ三菱、川崎、大阪鉄工所(目立)三社は独走的態勢をとっていたといえる。 至るまで、民間造船所による艦艇建造は、三菱長崎八隻、川崎造船十一隻、大阪鉄工二隻、石川島一隻であった。従 の艦艇建造が第二次大戦の敗戦まで民間造船業育成のため重大な役割を果したのである。明治十八年から四十四年に 防樹立の目的かち、民間造船に対して海軍及び海軍工廠が果した効果は重大であった。それは明治以来一貫して海軍 わが国の造船業が近代化し、その基礎が確立してゆくためには、絶大な国家の援助を必要とした。特に、海軍の国 あった。 十隻、川崎造船七、七万屯、二九隻、石川島二千五百屯、二隻、浦賀船渠千二百屯一隻、小野鉄工所七九二屯一隻で 明治三十年から四十四年に至る問、造船奨励法による鋼船建造は、三菱造船の二十万屯四九隻、大阪鉄工三万屯三 うか。 的発展の基礎を確立するものであった。奨励二法は明治二十九年十月より施行されたがその結果はどうであったろ り、海只の教育に関する﹁商船学校拡張建議案﹂、 従って、造船奨励法の成立は、明治初年以来の﹁海運主義﹂に対する﹁造船主義﹂の確立、 乃至両者の妥協であ た 。 J ¥ 、 業員も百二十名に拡大していた。松尾は機械製造業より造船業に転換を計ったが、明治三十五年、長崎港外香焼島の 束岸に進出し、三、二六五坪の海面を埋立て、約八千坪の土地を拓き、造船工場と乾式船渠設備の工場を起し、三十 七年に竣工した。乙のドックは長さ二八O フィート、巾六五フィートで、三千屯級の船舶を収容出来るものであり、 現在もなお、利用可能な状況にある石造りのドックであった。他方明治四十四年には旧来の造機工場をを淵村から旭 町に移し、整備拡張し、旭町工場と香焼島の聞は、自社船をもって連絡し、資材や工員の輸送を行った。 当時長崎市街の浦上川を狭む対岸飽の泊地区には三菱造船所があり、四辺を山で取り固まれている長崎では、新規 造船のための充分な土地は比較的少なかった。昭和の現代長崎港周辺には中小造船所が幾っか描居しているが、松尾 造船に匹敵しうるものは大洋造船以外は存在しないといってよい。松尾孫八の偉大な構想は香焼島にしか実現の可能 性がなかったのかも知れない。また溶鉄工場を併設したことは、香焼島産の高粘結炭からコークスを獲得する必要が あったからかも知れないし、(当時日本有数の山下コークスあり)また彼が信仰する香焼島円禄寺参詣のため、乙の 明治四十年発行長崎県紀要によれば明治三十八年事務員二十五人、技師五人、常傭職工五百人、人夫三十人、当初 地の地理に明るかったからとも云われている。 よりの新造船二十一隻、六五O 屯だが、修理船二、八O O隻は大型船を取扱っていたようである。 しかし、立地上いかに有利な自然条件を備えていようとも、同一地域に隣接した二つの造船所が同時に発展するこ とは比較的困難である。石川島造船と浦賀ドックの両会社の併立、競争のため、湾奥に立地し、安全性に秀れた浦賀 が石川島の施設買収で結末した事実があったが、(﹁現代日本産業発達史﹂﹁造船﹂)松尾の前途にもかくの如き問題を 含んでいたという乙とが出来るが、そこに松尾造船には新興ブルジョジ!の大胆な姿を見ることが出来る。 しかし、明治末から大正初期にかけて、経済界は深刻な不況、日出滞の状態をつ Yけ、乙れを反映した海運界の不振 状態は造船業を長いこと窮地におとし入れた。造船奨励法による新造船は、四十三年には全国を通じてわづかに四隻 三九 に激減した。乙れに対し、三菱、川崎、大阪鉄工所等は軍需によってその打撃をかわすことが出来た。すなわち、三 松尾造船、川南工業、三菱造船 経営と経済 菱は二等巡洋艦矢矧、巡洋戦艦霧島、戦斗艦日向、二等駆逐艦﹁柏﹂ ﹁松﹂、川崎造船も、二等巡洋艦﹁平戸﹂、 d ﹁楠﹂、大阪鉄工所は、二等駆逐艦﹁杉﹂を受註した。こ 一般商船の数倍に相等したのでその恩恵は極めて大であった。また造船奨励法の保護下に建 巡洋戦艦﹁榛名﹂、戦斗艦﹁伊勢﹂、二等駆逐艦﹁梅﹂、 四 に活気を口玉し初め、造船産業に注文が殺到した。 そのためわが国の造船施設の急増が展開され、大正二年末、 000屯以上の鉄船の建造設備を有する造船所 一七四隻であり、小規模の造船所を含めると造船所数は である。従って、松尾造船も、大正六年二隻、合計屯数三O 一八屯大正七年三隻五四四六屯を建造し、屯数に於て全 の最盛期には従業員は干名を越え、大正十一年にその倒産を見るまで、建造隻数は六十数隻に及ぶまでに発展したの 屯型て五千屯型一を擁し、更に大正五年馬手ケ浦に一万屯ドックの建造を計画し、海面の埋立工事に着手した。そ 松尾造船もその例外ではなく、この気運に乗じ、大正三年に一八OO屯収容の第二ドックを建設し、造船台は三千 し、進水船舶六万五千総屯から四十五万総屯(百屯以上のみ)に飛躍し、米英に次ぐ世界第三位の造船国に発展した。 三五ケ所と百ケ所以上の増加をもたらした。大正二年と比較すると、職工数二万六千余人は、九万七千余人に増加 に於ける千屯以上の鉄鋼船を建造したものは、四三工場、 すぎなかったが、大正七年末には造船所数五+七ケ所(十二ケ所は木造船所)船台五七ケ所に及んだ。大正七年度中 は、わずかに三菱長崎、及び神戸、川崎造船所、大阪鉄工所、浦賀ドック、栃木造船所等六ケ所、船台数十七ケ所に 一、 しかしながら、大正三年第一次世界大戦の突発によって事態は一変した。交戦圏外にあったわが国の海道界は急激 全くお手あげという状態となった。 これら政治権力との結びつきを持たず、従ってまた、有力な船主との関係も殆んどない松尾造船の如き中造船所は 造する郵船、商船、その他の定期船の建造もこれら三社が圧倒的に優位であった。 れら海軍艦艇の船価は、 O 国第十九位を占めた。 松尼造船の工場配置略図によってその規模を知ることが出来るが当時乾式ドックを所有し、或る程度の主要機関ま で製作し得た造船所数は少なかったのである。 かくの如き造船業の発展は政府の予忽しないところであって、外国からの船舶の輸入を防ぎ、内国建造を奨励する ために制定されたされた造船奨励法はその存在理由を哀失した。戦前十ヶ年の間における奨励法による造船高は、年 平均総屯数三万五千屯程度であったのが、大正五年には、十四万屯、六年には二三万屯に達した。そのため政府は大 正六年七月造船奨励金下付停止に関する法律を公布し、施行した。政府の政策よりも戦争が遥かに効果があったし、 造船奨励金の停止という政府の処置もまた極めて虫の良いものであった。 ﹁戦時船舶管理令﹂を制定し、それ相応の補 同時に第一次世界大戦の発生にともない、船舶事情がきわめて急迫し、大正六年わが国は海運、造船界を政府の統 制下におく乙ととした。すなわち、同年九月二八日緊急勅令をもって、 償金を支払うことによって、船舶、造船所、または、造船材料、機械、器具を収用または使用出来る権限を政府にあ たえたのである。 わが国の造船界は極めて短期間のうちに、目前、日露両戦役を通じて、生産技術水準は一応の発展を見せ、国際競 争に対抗する能力を持ち初めていた。 一般に造船業は作業が比較的単純であり、基本設計図さえあれば、高度の熟練 労働者を必ずしも必要としない面もあったからであろう。 松尾は呑焼島に進出した後、第一次大戦の好況に見舞われ、香焼島は船成金景気に湧き立った。また急激な船舶需 要の地加のため、松尾は見込生産による思惑建造に着手した。 しかし、松尾の如き偉才も、所詮地方下士出身の地方造船所にすぎなかったし、日本の場合、産業資本の自由な競 松 M 尾造船、川南工業、三菱造船 四 3 草 加 ベJt i 草地E ( 第 1図) にコロ仁回 1 / 日 ロ) / 1 ( 2 3 )製 缶 場 i f ザ ( 2 4 ) 機械場及び仕上場 3 0 0 0屯級滑り船台 日5 0 0 0屯級滑り船台 日 仕切海上クレーン船 側野外作業場 川小型木造滑り船台 ( 2 ) 11 0 0 0屯級ドック 2 ) 同付属工場 。 ( 2 5 )木 工 場 (26)汽缶易問ボイラ一室 側鍛治工場スチームハン ) マー(大 1小 2 四)溶鋼炉 (30)鋳物工場 間建造用クレーン 大正 1 2年松尾鉄工場工場案内写真より複製した見取図 X ( 1 )製 材 所 ( 9 )船 倉 ( 2 )木 材 置 場 ( 10 )事 務 所 ( 3 ) 滑り船台(小型木造船) 1 . 1 1 )3 0 0 0屯級ドック ( 4 ) 船台付属工場 ( 12 ) ドック付属設備(ボイ ( 5 )社 倉 ラ・スチ一一ムエンヂ ンによる排水ポンプ) ( 13 ) 犠装中の船3 0 0 0屯 (1品ダグボート及び運搬船 ( 6 )食 堂 ( 7 )麟 装 工 場 ( 8 )ク ラ ブ f f i l l ( 31 ) 現 図 田 場 ( 3 2 )焼 鉄 工 場 ( 3 3 )銅材置場野外作業場 ( 3 4)正門 5 )工場長宅 。 争の助は当初から存在することなく、絶対主義下の官僚閥、政商による独占資本の確立の道をたどったのである口松 尾は日本資本主義梨明期の代表的ブルジョワジ!として、早くも没落する運命にあった。 このような好況に恵まれつ﹀あるとき、大正六年七月戦時中唯一の造船材料供給国であった米国が、突如鋼材の輸 出禁止措白を行ったため、わが国の造船業は非常な困難に直面した。わが国の製鉄能力では造船用材料の供給を充分 まなうことは不可能であり、大正七年度の造船計画は大部分材料難のため中止せざるを得なくった。米国の鋼材輸出 ﹁日米船鉄交換契約﹂が締結された。それは、 ﹁米国が船舶を求むるに 禁止は、米国の国内用鋼板確保のためという口実に拘らず、日本海軍及び商船隊の発展による、日本の対外的進出を 事前に阻止する意図も含まれていた。 しかし、日本政府の努力によって幸いに、 急なるをもって、当時竣工せるもの、又は建造中の船舶を供与し、わが国の業者は材料を要すること急なれば、既約 材料を引取ること﹂であった。 従って﹁日米船鉄交換条約﹂の成立によって、わが国造船界は全面的な打撃を避けることが出来たが、同時にこの契 約は日本ω政治権力の産業界に対する介入、及び独占資本の確立のために利用される結果となった。 大正七年四月の第一回契約は、播磨、浦賀、川崎、大阪鉄工の四社十二隻、十万屯であり、第二回は周年五月十造 船所二汽船会社三十隻、二十四万五千屯であり、従って第一次大戦講和条約が成立した大正八年度は、前年度を上廻 ﹁戦時造船管理令﹂は政治権力の民間造船業への介入を生み、かつて無差別であることに る六十一万屯(百屯以上)の進水を実現し、造船量は最高記録を樹立した。 大戦下緊急勅令に基く、 よって広大な発展を結果した﹁造船奨励法﹂も、その廃止は逆に、大手船主に関係の少ない中小造船の破滅の道を早 め、軍事発注の特定企業指定の傾向は、これら独占的巨大造船業の保護、育成の積似的姿勢をあらわにし、国家権力 川松尾造船、川南工業、三菱造船 四 経営と経済 と独占資本とは緊密な応着の程度を増加した。 四四 ﹁日米船鉄交換契約﹂は、松尾等の中小造船は一隻も、従ってまた一社も、その契約にあづかる乙とは出来なかっ た。鋼材不足は中小造船にしわょせされ、かえって独占的大造船所への生産の集中を実現した、 最も隆盛をきわめていた大阪市内の中小造船は、大正八年七六造船所(内鉄船工場三十ケ所)中、作業継続中のも のは十五ケ所、千屯以上の船台を有する鉄船工場で閉鎖したもの十二ケ所に及んだ。 大戦の経結は造船界を再び不況に追い込んだが、政府は、大正八、九年に海軍艦艇を民間造船所に発注した。三菱 造船に対し、戦斗艦土佐、軽巡洋艦一隻、二等巡洋艦二隻、二等駆逐艦二隻、浦賀造船所に対し、軽巡洋艦一隻、二 等駆逐艦三隻、石川島造船所に対し、二等駆逐艦三隻、藤永造船所に対し、二等駆逐艦三隻に及ぶ反面、中造船に対 する艦艇の発注は勿論なく、一般商船の発注も全く杜絶した。 松尾は、大正八年には、甲陽丸三O 一六屯を、大正九年には西山丸三O 一六屯建造したが、大正十年には遂に、木 造船錦浦丸三五屯の建造しか見ることがで出来ない。 当時経済界は造船界とともに深刻な不況であり、大正十年には社会不安も伴い、職工側は自衛上ストライキを強行 し、その暴風は全国的に吹き荒れ、松尾造船もその例外ではあり得なかったのである。 アメリカの造船材量輸出禁止によって、中小造船は殆んど崩壊の運命に追い込められたが、松尾は最後まで頑強に 抵抗した。 一万屯ドッグの建造という当時としては旺盛な企業家精神も遂にそれを実現することが出来なかった。 (大正十年埋立申請取下げ) 大正十年ワシントン軍縮会議によって、日本海軍の八、八艦隊の建造計画は中止され、巨艦土佐は・太平洋の海底に 日出められた。その結果独占的な政府指定の財閥工場さえも大きな打撃をうけ、造船界は大正十一、二年から深刻な不 況に落ち込んでゆく。中小造船はばたばたと倒産し、松尾造船も遂に綻破した。 松尾造船は、かつてロシヤ東洋艦隊及びドイツ艦隊等の修理を行ったが、それに対し、各司令官より、特に技術精 良の信認書を得ていた。従って、比較的優秀な技術と、大型の乾式ドックや船台を持ちながら、財閥工場の如く政府 の保護政策による艦艇の発注もなく、また香焼島に於ても、香焼島在住の代表的ブルジョワジトの、 コークス王山下 幸三の如く村政に直接タッチする(初代香焼村長)乙ともなく、ひたすら産業利潤の追求に終始した意味において、 日本資本主義の産業ブルジョワジ!の戦士という乙とが出来る。 ﹁時恰かも日露戦争に際会し、異常の成功を収め、佐世保鎮守府所属の水魚艇並び それに反して、財閥巨大造船資本は、政治と結びつき、中小造船を犠牲にしながら発展して来た。もちろん松尾と いえども、その初期においては、 に御用船の修理及び雑種船の新造或は陸軍砲弾底螺製造を命ぜられ、明治四十四年には事業は更に繁忙を告げた。﹂ (郷土史)とある如く、軍事的作業に従事したこともあるが、全体としては軍事や政治との結びつきは少なかった口 乙、ふに松尾造船の建造実績を、日本船名簿(昭和五年)から拾い出して作成してみた。従って実際の建造実績とは 異って、成る程度の脱落はあるかも知れない。 v (郷土史) またそのうち、造船奨励法の恩恵を つけたものは、大正七年の近海汽船多摩丸(三O 三O屯)及び第二東洋丸(三 O四一屯)の二隻であり、大正四年から六年までの修繕船数は五九九隻に及んだ。 また大正七年以後の従業員数は次表の通りであるが、他に臨時日傭人夫や(大正九年従業員六八八人、人夫一一 O 人)旭町工場分を含めると尚相等の人数が考えられる。 これらの従業員は香焼島に居住する者も多かったが、社船を運航させて、旭町工場及び市内よりの通勤者も多かっ 松尾造船、川南工業、三菱造船 四 玩 ( 第 l表) 松尾造船建造実績(大正 6年以降) 年 度│職工数 大正 7年 │ 年 9 8 7人 度 l 名[屯数 船 大正 6 年 l 材料 第十長浜丸 3 2屯 第二東洋丸 3 0 1 9屯 三福丸 1 2 0 2屯 H 陽丸 7 2屯 M 4 5 0人 第1 5雲海丸 1 2 0 5屯 M 0 人 多摩丸 3 0 4 1屯 // 八尾丸 9 3屯 銅船 第1 2長浜丸 3 0屯 木船 甲陽丸 3 0 1 0屯 第一博多丸 2 7 2屯 / 1 西山丸 3 0 1 6屯 1/ B年 │ 8 7 0人 9年 │ 6 8 8人‘[ 7i : f 昨 │ IÙ~ 昨 │ 8年 鋼船│ 鋼船│ 3 5屯 木船 共栄丸 2 9屯 木船 i! I 自瀬丸 7 3屯 鋼船 錦 {~ì 丸 1 0 年 ! な し 1 1 年 1 1 2 年 な 1 3 年 第一水島丸 第三 し F 7 5屯 M (本表は、日本船名簿昭和五年版より作成したも のであって、脱落不明分あり) (なお諸資科にあ らわれた計四船には大正 6 年自社用船 1 0 0 0屯一史 3 0 0 0屯一隻大正1 1年 3 0 3 0屯 2隻あり、詳細は不明 である o ) 四六 たのである。大正九年の香焼島総人口二一九一人中、工業に従事した男 子は、四一九人である。 松尾造船が香焼島に進出するに伴い、大部分の工員は長崎からの移住 や通勤によって運営されたがもともと香焼島に居住していた漁民、間以民 の自給自足的な生活様式を破壊し、日清戦争頃から急激に発展し初めた 炭坑業と、 コークス工業とともに、島の近代化を推進した。それは民業 の衰退としてあらわれるとともに、兼業漁業の増加となり、その一部は 9年 木船 経営と経済 ( 第 2表) 松尾造船職工数 松尾造船の日傭人夫となった。その数は常時七、八十名に及んだらしい。(聴取り) ﹁松尾造船所にも戦乱後、工業界の不景気は影響するところとなり、積極的方針は一度消極の止むなきに至った。計 ﹁大正十一年初め 画中の一万屯ドックの着工も見送られ、大正九年には四隻進水し、造船界の衰沈に伴い、大汽船等の建造なきも、そ の他事業は縮少せず、職工、労務者の解雇多少之有しのみにて依然続行しつ﹀あった。﹂しかし、 (香焼村事務報告書、大正十一年、大正十 より一般の不景気につれて、新造並びに修繕船等砂少なり為、職工を解雇し、事業の縮少をなした口乙の時解雇した のは、二O 八人であって、大正十四年操業を中止し、破産して了った。﹂ 四年) 大正十一年に松尾造船は破綻するが、右の記録によれば大正十四年まで経営は維持せられていた。松尾の経営は当 初個人経営であるが、次第に一族を参加させ匿名組合とした。大正八年旧組合員松尾孫八他十四名に対し、新組合員 十名を加えた。匠名組合契約証書によれば、全文十五条からなり、組合の解散及び脱退、持分の譲渡、売渡しは凡て 松尾孫六の承認を必要とし、また組合員の業務分担に関する給与決定、営業方針及方法、使用人の任免、功労者に対 する持分の分配(但し、金三十万円以下)等は凡て松尾孫八の専決とし、契約内容の疑義については松尾孫八の解決 に従うとされている。持分は総額百八十八万円に対し、松尾孫八十万円、妻キン、長男長市他弟妹等約三十万円、孫 八の弟田中熊太郎四万八千円(副社長格で、香焼造船所の責任者)及びその家族他、一族をもって構成されている。 景気の良い時も、景気の惑い時も、政府の保護は常に大企業に厚く、中小企業は常に見殺しにされて来た。 内地製鋼材奨励金交付施設 船舶建造および修繕用物品関税免除施設 政府は大正末期より昭和初期にかけて一述の造船助成策を打ち出した。すなわち次の如きものがある。 ω ω 松尾造船、川南工業、三菱造船 四 七 経営と経済 船舶輸入関税施設 海軍金融施設 ; ¥ 四 であった。 従って、造船界に於ける大企業は、 ある。 るとともに、政府では造船業の国家統制案が検討され初めた。昭和四年の金融恐慌襲来は日本産業界を大きくゆさ わが国の造船業界に於ても、戦後再建の努力が行われ、大企業に於ても多数の労働者の首切りや合理化が強行され なり、七月二十七日株主総会が関かれる予定であったが、銀行の援助を受けることが出来ず成功しなかった。 松尾造船の倒産後たびたびその再建が計画され、昭和二年には、長崎市で呑焼造船所創立総会が開催される迎びに 二、戦時下における川南工業 軽かったといえるし、財閥全体としては、造船業に代って航空機産業の政府育成によっても充分救済されていたので 一般的な景気の低下、海軍界の窮状、中小造船の倒産と比較すると、尚打撃は 年まで十八隻、十九万総屯に及び、その恩恵は、三菱造船所及び横浜ドックの三菱グループと大阪鉄工所の三社のみ また、明治四+二年三月に施行された﹁遠洋航海補助法﹂による命令航路代替船建造は、大正十四年から、昭和六 総屯ーーーに及んだ。 それは大正十一年から昭和五年にかけて、七九隻、十八万九千排水屯l l民間商船工事量に換算すれば、約八五万 の充実を図るために、海軍工廠以外に民間造船所に対する海軍艦艇の発注を行った。 また海軍は八八艦隊建造計画を中止したが、その後の深刻な造船不況を緩和し、かつ民間の造船能力の温存と国防 ( 4 )( 3 ) ぷり、昭和七年には、わが国の総進水量は僅かに五万四千総屯(千屯以上)の最悪状態に達した。 しかし、満州事件の没発、上海事件への波及等により造船業も昭和八年以降漸次立直りに転じ初めた。わが凶は鉄鋼 石をはじめ石油などの重要な資源は国内でまかなうことが出来ず、戦時体制下でまず必要なことは、これら主要物資 一般民開業者に対し、政府が を獲得し、その輸送を円滑にすることであった。そのためには何よりも強力な商船隊の建設が不可欠の要件であった。 そのため臨時船舶管理法が制定され、昭和十二年十月一日から施行された。それは、 必要と認めた命令を出すことの出来る初めての統制法であった。すなわち、船舶の譲渡、貸与を制限し、国内船の建 造を強化し、海運業者に輸送命令を必要に応じて出すことが出来、迩賃や傭船料の値上りを抑制することを目的とす るものであった。 またわが国に於ては久しく海事金融に関する助成の施策なく、従って、海事金融についは海運業者が自らその資金 を普通銀行に仰いで調達していた。従って、政府は海事金融の円滑化を図るために、政府の利子補給により、造船資 金を低利に貸付けることとし、昭和五年五月公布された。更に、昭和十二年に日本興業銀行を中心として、担失補償 制度が加えられた。 これら政策方針はますます強化され、海迩統制令、造船事業法、国家総動員法を発令してゆく。 造船に関するこれら一迫の法律を要約すれば、付造船業は許可制とし、業界は造船組合、造船述人(口会に一本化し統 制を計る。口鉄鋼等の資材は配当制にして一定の枠をはめる。日新造船は急、不急の順位をつけて許可制とし、修繕 船もこれに準ずることとした。またその適用範囲や期限も承認を必要とする等、であり、政府による造船統制は法律 面において完全に一元化が確立された。かくてわが国海迩界の戦時体制が整備されたといえるわけである。 もちろん、造船連合会は造船に関する産業統制団体であったものの、海軍の発言力強く、基本的な問題について自 松尾造船、川南工業、三菱造船 九 四 五 は松尾造船の名が用いられた。 となった二代目松尾孫八より買収した。彼は一族及び富山の同郷人を集め、また松尾造船の技術陣を迎え入れ、当初 し、その他数人の財界人の出資を仰ぎ、資本金五百万円の川南工業香焼島造船所を設立し、大正十年松尾造船所主 の他関係者の再建運動にか﹀わらず、徒らにその残骸をさらしていた。川南豊作は当時三八才、百五十万円を出資 つ﹀あったものと考えられ、また彼の目先のきく積極的事業拡張欲は造船業に着目した。松尾造船は倒産後、島民そ 時の朝鮮、満州、中国等への進出者には巨万の富を蓄積した者が多い。また当時から陸軍とは特殊な関係が出来上り 本の中国に対する軍事的経済的進出は、この時代に川南氏の後日の発展の資金の獲得に役立ったものと思われる。当 なった。昭和九年には独立して川南工業を同地に設立し、缶詰製造に専念した。満州事件、上海事件及びその後の日 叔父川南寿造が朝鮮成鏡南道新甫で缶詰製造業を行っていたのに出資し、トマト・サ lジン製造に従事することと 国後退社して昭和六年朝鮮に渡った。 社、北九州に居を構え、石炭業川元氏の娘を妻に迎えた。東洋製缶副社長高崎辰之助の知遇を受け、渡米したが、帰 川南豊作氏は明治三十五年富山県に生れ、大正八年富山県立水産講習所を卒業後、直ちに東洋製缶株式会社に入 し、十五年世界最大の戦斗艦武蔵が三菱長崎に於て進水した。 らかに戦局の予測として、第二次大戦の避け難いことの決意のあらわれであり、十四年頃から国際関係は益々緊張 決定した。それは昭和十一年の約三十万屯進水実績と比較すると約三倍に相等した。これだけの急激な拡張計画は明 昭和十二年六月に重要産業五ヶ年計画が策定され、造船については、その建造目標を、昭和十六年度八六万総屯と 十四年八月から実施され、十五年二月海運統制令の施行となる。 主的な活動は次第に制限されて来る。すなわち、政府は吏に造船計画承認制度を設け、政府による直接統制が、昭和 経営と経済 O 昭和十二年一万屯建造船台二基を完成し、ソ連船三隻を受注し、建造に着手したが、それは松尾造船の技術的基礎 があったことが理解される。例えば、福田次郎平は、明治四十年三菱工業学校を卒業し、大正五年松尾造船の課長と して就任した。大正十四年松尾倒産後神戸製鋼所の技師となり、川南によって松尾造船所が再開されるや、再び香焼 島造船所設計部長として就任している。 造船工業は極めて手工業的単純作業を主体とし、単に大型であることに特徴はあったとしても、第一次大戦当時に は実用に障害を来さないかぎり、或る程度看過される傾向があった。そのことはかえって川南氏の自信を強め、かつ て缶詰の製造経験から、船は大きな空缶であるという単純な論理に連っていった。それは後日海上トラックの発想の 基となったものである。 一隻を引渡した後、キャンセルされ裁判沙汰となった。結局他の二隻 松尾造船の名に於て川南豊作が受註した最初のソ連船三隻は、経験も浅く、その仕上りは必ずしも良質でなかった と怨像されるが、契約内容上の問題が紛糾し、 は処理されたが、その結果は川南の信用を必ずしも失墜させるものでなかったらしい。財閥系造船所のような﹁老 両 日 おけるブ l ムの如く、建造場所さえ獲保し得れば、多数の企業が急激に進出することが可能であった。その傾向は、 当時もまた現在でも変ることなく、中小型鉄鋼造船業は単なる場所提供業者として現われ、組による下請組織が事実 上の建造者である場合が多い。また下請組織の棒心のもとに一団となって、有利な条件の企業に移動し、 一船の詰負が可能である場合さえある。川南が松尾造船買収直後から、ソ連船の建造が可能であつことは 圭二主 また当時大陸進出のため船舶の需要増大し、かっ軍事的要求としては、船腹の増大に重点があり、その質的な問題 この一面を物語っている。 でもって、 組 の 下 舗﹂は川南式、悪くいえば粗製濫造方式のえげつない商法は受入れることは出来なかったろうが、時代の要求は標準船 松尾造船、川南工業、三菱造船 五 経営と経済 の大量生産方式を求めていたことは皮肉である。 ﹁この標準船は当時の斯界の技術者によって基礎計画がなされ、 (産業発達史﹁造船﹂)とある如ぐ、 もちろん、既成財関を無視してはこの大戦争を乗り切ることは不可能であったが、鉄鋼業、重化学工業、飛行機工 らわれ、満州には満州重工業による鮎川義介の日産コンチェルンが進出した。 は朝鮮窒素による野口遵あり、また森暁の昭和電工、海軍将校による中島飛行機、大河内の理研コンチェルン等があ すぎなかった。日本の軍閥は既成財閥に対する反設と、利権に対する欲望から新興財閥を育成しようとした。朝鮮に れた陸軍中将石原寛繭はそこに新天地を求めたが、そこに打ちたてた五族協和の旗印は日本帝国主義のかくれみのに び起し、軍部を中心とした天皇制フアッシズムをもたラりした。日本帝国主義は先づ満州に進出し、中央権力から追わ 第一次大戦後の日本財閥の隆盛は、政党政治との結びつきを緊密ならしめ、政党政治の腐敗は青年将校の蹴起を呼 尾島問の水道を埋立て、改造工事を開始する。 答申前にこれらの資料を川南が所有していたことは推察出来る。川南は標準船専門大造船所建設のため、本・局と蔭ノ にとっては、技術上その他の諸点においてまことに得がたい資料となった。﹂ った結果、二、三流造船所にもその要請に応じて広くこれを配布しだため、これら造船所または、当時の新興造船所 然造船所ごとに格納し、内外不出の性格のものであった。それがたまたま非常時で、かつ船腹拡充が緊急の問題であ 製図等もまた主要造船所の優秀技術品をわずらわし、詳細な図面、技術等を完備したのであるから、本来ならば、当 に標準船の建造と初めていたのである。もちろん、 造船協会の標準船型選定準備委員会答申書が政府に提出せられたのは昭和十三年三月であり、川南はそれ以前に既 星丸、呉竹丸、第二福栄丸は何れも積載屯三千屯を標準とし、日祐丸、東亜丸は積載屯一万屯を標準としていた。 川南工業は当初からいわゆる標準船の建造を実施し、昭和十二、三年に於ける、第二青山丸、太興丸、若竹丸、七 五 D 業の外に、造船業に新興財閥を育成することは予想されることであり、それが川南であったといっても誤りではなか ろう 川南は香焼造船所に基盤をおいたのち、中国に対する利権獲得に奔定した。昭和十三年サルベージ部を設け、中支 方面の洗船引場解体作業に従事し、十四年には中支嵐山にて雲母採掘業を初め、九江に加工場を設けた。また上海大 昌新油廠を買収し、植物油製造も傘下におさめたが、東条を初めとする陸軍との結びつきの基盤もその過程で行われ たらうし、それらの権益は軍事力を背景としたものであることは想像に難くない。 当時陸軍は統制派と皇道派の派閥争いが激しく、明治の山県有朋の系統をひく統制派が実権を握り、海軍もまたそ れに同調した。東条は永田鉄山のもと統制派の幹部として頭角をあらわし、近衛内閣のもとで陸相となり、対米開戦 二 円l i 型 型 型 型 (ノット) 満載航海速力 O 重量屯数 九、二00 六、八00 四、ニ00 、000 霊 ヰ 茸 iニ l ﹁臨時艦船管理 ﹁戦時海上輸送の完逐を期 船舶、船員、及び造船は戦時中国家に於て之を の確立及び船舶の急速且大量拡充を図る為、 し、本邦全船舶の一元的運航、船員の臨戦体制 計画が打出され、 は、実質的には海軍省管理となり、臨戦的造船 法﹂が施行され、逓信省の管理下にあった造船 また昭和十六年八月には、 置され、軍需会社法が施行された。 ﹁重要産業五ヶ年計画﹂が実施されると同時に、軍需省が設 強硬派の圧力によって近衛内閣が崩壊するや、昭和十六年十月東条内閣の成立となり、内相と陸相をも兼任した。 (第三表)戦時準標船 昭和十二年﹁海迩国策について﹂の大方針が出され、 A 程 B 松尾造船、川南工業、三菱造船 五 C 類. 「一回 D 経営と経済 管理する。﹂こととなった。結局不定期貨物船には、右の四種の船型を決定した(第三表) 四 (﹁戦時戦後の日本経済﹂) ﹁新しい造船所では、もちろん混雑 を除くことが出来、その大部分は専同化していた。それらは初めから計画的に設計されており、より近代的方法をと J、B、 コ!へンは川南工業について説明する。 じめていたし、昭和十七年には海軍軍管理工場の指定を受けることになる。 一万屯船舶を同時に四隻建造可能であり、 F型船月十三隻の実績をあげた)を擁する近代的工場設備を既に建設しは またこの造船所を経営する会社を指定する乙とが必要となってくるが、川南工業は昭和十五年十万屯ポツク (A級 形をもって、産業設備営団にその新設を命じた。 かくて、政府は劃期的な大量生産に適応する近代的大造船所を短日時の間に急速設置する必要を認め、国有民営の らわれている口彼らは危険を犯さなくとも、独占利潤の追求は尚可能だったからであろう。 如き冒険をする程の愛国心もなく、軍閥に対して全面的な協力の姿勢をとらなかったことは、東京裁判の判決にもあ があった。かっ船舶は概ね注文生産であり、大量生産的施設は未だ時機尚早であったし、既存の財閥造船界はかくの い海岸の広い場所は比較的限られていたし、大部分の古い造船所は都市の沿岸ぞいにあって、設備の拡張は自ら限度 設拡充が行われた。しかし、乙れら古い造船所は日本の凸凹のはげしい地型や海岸線のため、造船所に適した水深の深 戦局の拡大に伴い船腹の増強は益々要求せられ、従って造船能力を飛躍的に強化するために、先づ既設造船所の施 呼ばれる程のものであった。更に七月に造船は海軍省の直接の所管となった。 た。昭和十七年一月二十八日には造船統制会が設立され、五月二十五日に招集された第八十臨時議会は、造船議会と また、造船監督行政機構の改組として、海務員を創立し、逓信省の外局とし、長官には現役海軍中将原清をあて 更に、 E、F型の小型二種を加え、更に L型と称する大型定期貨物船、 H型小型不定期貨物船が追加された。 五 り入れていた。そのうちの四つでは、従来の一ケ所の造船台の上で一部分づっ建造してゆくやり方の代りに、レール て 000屯以上の船を伝統的な造船技術から完全に脱却した方法でつくる唯一のもの の上か乾ドックの中に作られた数ケ所のステージで船を建造し、少くともある程度までは。フロック組立式を採用して いた。川南工業香焼島では であった口 一九四O年に始めれたこの改造工事の主要な特色をあげれば、 A型二隻を同時に三つの別々な造船用ステ ージの中で処理出来る位の一大艦底塗装用ドックを建造するにあった。ブロック組立式の採用や、溶接やその他の近 代造船技術について、他の新式造船所と実質的に違うところはなかった。﹂ 戦時中A型船は川南香焼島、三井玉野、三菱神戸で作られ、また戦時応急を目的とした E型船の画期的な大量生産 の 必 要 か ら 、 特 殊 な 簡 易 造 船 所 四 工 場 を 急 拠 設 立 し た 。 す な わ ち 、 年 間 目 標 は 、 東 京 造 船 八O隻、播磨造船一 0 0 隻、三菱若松造船所一 O O隻、川南工業深堀工場一 O O隻であった。これらは川南工業を除いては、海軍施設本部の 手で直接設営されたものである。川南造船深掘工場は香焼島長浦工場の対岸二千米にあり、長崎市郊外に属する。乙 hで 諸 施 設 が 建 造 ド ッ ク を 囲 接 す る 形 で 配 列 さ れ 、 工 程 移 動 は 水 上 浮 説 方 式 を と り 、 進 水 ま で 蟻 装 も 完 了 す る も の で あった。 一般に艦艇建造の増加のため、民間商船建造にも影響を及ぼし、艦艇は横浜、呉、佐世保、舞鶴の海軍工廠で建造 されたが、それは戦時中竣工した艦艇の四一一%にすぎず、残り五九%は民間造船所で建造され、特に川崎泉川は海軍 艦艇専用であつあ。 乙の際、東条等陸海軍権力者と川南豊作との特殊な結びつきが推測されるように、川南工業は短期間に異常な発展 を行った。 五五 軍需会社法によれば、軍需会社指定会社は、資材、資金、労働力等の優先的な割当配分や、補助金及び損失補償金 松尾造船、川南工業、三菱造船 7 0 . 0 0 0屯 1 0 0 . 0 0 0屯 1 2 0 . 0 0 0屯 日 立造船 (神奈川) 7 6 .0 0 0屯 川崎重工業 ( 泉 川) I 5 0 . 0 0 0屯 藤永田造船 ( 宇 部) 7 6 . 0 0 0屯 川南工業 i(香焼島) し な -MHHJ 1 5 0 . 0 0 0屯 (四日市〉 山 日 1 0 0 . 0 0 0屯 浦賀船渠 経営と経済 留 1 5 0 . 0 0 0屯 (安芸津) 三井造船 保 造 船 所 名 能 力 総 屯 │ 変 更 総 屯 五六 を受取ることが出来、軍の支持をうけさえすれば、如何なる工 場拡張も可能であった。またそうでなければ、川南工業の異常な 発展は理解出来ない。特に昭和十九年一月から実施された軍需 会社指定金融制度は軍需品の発注と同時に、軍需発注前渡金制 度が適用され、将に鬼に金棒、親方日の丸の膨張が行われ得た (第四表)それは、 のである。軍と川南の特殊な関係は、昭和十七年の新規造船設 備建設案の処置についても推測出来よう。 全国造船統制会によって業界案が提出されたのに対し、海軍案 として目立造船を外し、その代りに川南工業を入れたことでも 明らかである。 (川南工業関係年 また川南の事業拡張は単に造船のみにとどまらず、豊富な軍 需資金を動員して次々と事業を拡張した。 また幾つかの別会社を作り、新興軍事財閥の形態を整えた。 表 除 1 0 0 .0 0 0屯 l I ( 広 島) 三茶室工業 │海軍省案 造船統制会案 (日本産業発展史「造船 J) 軍事フアッシズムに加担することによって大成功を治めた。天皇制軍閥は彼にとっては金のなる卵であった。国民に 軍閥は天皇をかいらいとし、非常大権を濫用し、行手を拒むものは国家総動員法の大万をふり廻した。川南豊作ぽ よる国民収奪の過程であり、香焼島の住民から香焼鳥を乗取る過程であった。 乙の異常な川南の事業拡張は親方日の丸の軍需資金と国家総動員法によるものあり、従って他面、それは国家権力に (第四表)新規造船設備建設案(昭和 1 7年) は財産と生命を提供させられた血なまぐさい戦争であったが、彼にとっては土地をとりあげ、金もうけをすること 一日約一万屯の船舶が失われる状況となり、年間三百万屯を越す船舶が米国の潜水 が、即愛同心であるという結構な立場であった。 大東亜戦争も末期に近づくと 艦や、空軍の犠牲となって海底に沈んだ。 戦局の拡大、範図の増大に伴い、将来は一五O O万屯程は必要であると計画されて'来たにも拘らず、昭和十t年 九 月 の 船 腹 保 有 量 は 、 開 戦 当 時 の 六O O万 屯 を 保 持 し 得 た に す ぎ な か っ た 。 し か し 次 第 に 日 本 の 造 船 能 力 で は 最 早 哀 失 船舶数をカバーすることも困難となって来た。 わか同の船舶所有も昭和十八年度末には三七O万総屯、十九年度末には一九O万総屯と激減し、終戦時には戦傷船 も含めて一八三万総屯にすぎなかったのである。 かくの如き情勢の変化に応じて、艦船の粗製活造に拍車がか﹀り、川南工業の独断場の傾向を増大した。 川南虫作の思恕と同じく、現実の船舶は事実上大きなエンヂンっき空缶であればよく、目的地にたどりっきさえす D 戦争末期は川南 れば、挫除しても、撃比されてもよかったし、事実最早内地に無事に帰還する乙とは望めない状態となった。造船材 料の鉄鋼は益々節約され、コンクリート船が建造され、サイパン等に将兵や弾薬を載せて出港した 工業は円以早造船業でも缶詰業でもなく、土建屋に近かった。川南造船所の構造は近代的方法を採用したとはいえ、呑 焼 島 、 深 堀 、 補 崎 造 船 所 に せ よ 、 何 れ も 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト を 豊 富 に 代 用 し 、 三 菱 長 崎 造 船 所 の 鋼 鉄 製 ガ ン ト リ l ・ク レーン式構造とは著しく異っている。 川南造船の設立からの造船量は第五表の通りであり、例えば、昭和十七年度の全国主要造船所の竣工量を見れば、 F 第六表の通りであり、既に三菱長崎造船所と比肩する実績をあげている。 松 M 尾造船、川南工業、三菱造船 Z 王 七 2 8 0 0屯以下 I1 0 . 0 0 0屯以下 合 計 i 隻 j重量トン l 隻│重量トン 隻│重量トン l 隻卜重量トン 一一一一一一│一一一一一 昭 1 1I 1 2 7 5 41 昭 1 2 1 昭 1 3 7 1 8 . 7 1 1 昭 1 4 昭 1 5 昭 1 6 1 4 6 4 昭 1 7 3 1 2 1 6 昭 1 8 昭 1 9 昭 2 0 昭 2 1 7 5 4 I 2 .8 5 1 2 8 5 1 4EEL- oonuoO 2 2 .5 6 7 9 8 2 9 2 8 . 5 4 1 9 3 8 9 3 1 .9 5 7 2 8 . 5 0 4 2 2 . 7 9 B 1 0 2 8 . 5 0 4 1 O臼 OVU4, ム 門﹄ 1 6 . 4 6 2 4 8 .9 4 8 1 5 1 7 0 .2 1 3 41ム 2 5 . 7 9 4 9 5 0 1 1 0 3 2 . 7 6 1 、 nU t 円 nuηt 2 0 .0 4 8 1 9 1 3 2 . 3 2 2 2 9 7 .9 1 0 3 4 3 1 4 . 3 7 2 1 3 3 .6 0 5 1 2 1 3 3 . 6 0 5 5 2 7 1 2 3 11 4 0 5 2 i 8 . 1 6 7 1 nHU AHU - t 円 n u u qu 4BEa- nHU 90 門 7 AhU ・ ・ vhd vhd • n x u 1 9u i 叶 1 I6 白h U 1 5 0 1 4 .8 3 5 噌 6 7 6 合計 一 一 5 . 2 7 1 1 1 . 8 2 3 2 4 1 5 .8 8 0 1 1 . 8 2 8 2 7 .3 3 9 5 6 4 9 1 3 .9 6 7 経営と経済 1 0 0 0屯以下 年度トーァーー← 昭和十八年、十九年度、二十年度の実績を見れば、川南香焼島は飛躍的に増大してゆく。 (第五表) 川 南 工 業 造 船 実 績 (第六表) 五 ) ¥ 、 (第六表) 昭和 1 7年度主要造船所竣工量 松尾造船、川南工業、三菱造船 1M 。 寸 .I 造船所│器屯京│主嬰竣工船出(j目 三 麦 長 崎 I5 3 . 5 0 0 I客船 :TM級タンカー 艦船JiJ t1また は修担状( ) G 空 母6 0 9 6 川南香焼島 I5 1 .7 8 0 IA級貨物船 鋼管鶴見 I3 1 .7 5 0 IK級砿石船、 C級貨物船 三英横浜 I2 8 . 2 1 0 C級貨物船、 TM級タンカー 播磨造船 I2 6 . 6 5 0 貨物船 三 麦 神 戸 I2 5 . 9 0 0 K級砿石船 治水艦 4 0% 続行船 小艦艇 2 0% 客 船 30% 石川島 I2 4 . 9 9 0 三 井 玉 野 I2 4 . 3 0 0 H 小艦艇 3 0% H 目立桜島 I 1 8 . 3 5 0 TM級タンカー 海防船4 0% ) 1 1崎 船 舶 I 1 5 . 2 0 0 B、 C級貨物船 空 母7 0% 浦賀船渠 1 1 4 . 5 2 0 B級貨物船 駆逐艦 6 0% 1 0 . 4 4 0 K級鉱石船 C級貨物船 小艦艇1 0% 日立因島 1 九州造船 I9 . 2 5 0 B級貨物船 川南浦崎 1 7 . 6 8 0 D級貨物船 三井香港 I l (. 8 6 0 s . 5 0 5 イギリス型貨物船 C級貨物船 浪速船渠 1 名古屋造船 I5 . 5 0 0 大阪造船 I5 . 2 5 0I 小艦艇 4 0% 1 1 (戦時造船史) (以下略) 五 九 (第七表) 主 要 造 船 所 別 竣 工 量 三莱長崎 型 1 2 1 .3 7 0I1 5 0 .0 0 0 州 南 香 焼 ー 三井玉野 出} 。 1 9 .0 0 0i1A.2A 9 3 .1 2 0I1 6 5 .0 0 0 部磨造船 I 7 1 ・ 7 0 0I1 1 2 .0 0 0 1 3,2 0 0I2A 艦艇を含む 17.10012A.2TL3TA 1 1 三菱横浜 6 7 .6 0 0 ! 4 0 .0 0 0 2TL 11 三菱神戸 5 1 . 6 0 0i 9 2 . 4 0 0 2A 11 川崎船舶 5 0 . 0 0 01 6 0 . 0 0 0 1TL 11 鋼管鶴見 4 7 . 7 0 0 2 3 . 0 0 0 7 . 6 0 0 2A 日立因島 4 2 . 9 0 0 3 3 . 6 0 0 9 . 0 0 0 M 播磨松島 4 1 .7 6 0 1 0 0 .0 0 0 目立桜島 4 0 . 0 0 0 4 5 . 6 0 0 i2ET i2TM i t i ム 力 え I ゴ 3 9 .0 6 0 3 ' 7 . 1 4 0 '2TM 三菱若松 3 7 . 4 1 0 7 2 . 2 5 0 } I I 島 3 2 .3 7 0 5 9 . 4 0 0 2A 川南深堀 3 1 .3 2 0 9 5 . 0 0 0 6 . 9 6 0 2E 東京造船! 2 1 . 6 0 0 5 7 . 4 2 0 2E 石 I 経営と経済 造船所名 1 昭18年度昭194~ I ~鰐号 ノ/ 艦艇を含む ノ' 1 (以下略) 六O (第八表) 川南工業主要船名簿(重量屯) (戦時中) 松尾造船、川南工業、三菱造船 年れ名│船 貨物 新甫丸 H 船 名 7 東海運丸 3 7 7 昭1 3 7 7 他船同 6型 笠 船主│山屯数 貨 2 8 6 7 r 2 8 2 5 8 8 6 7 ノ 第 一 山丸 青木洋鉄 1/ 2 8 5 1 辰南丸 /1 9 7 1 9 昭1 3 天領丸 ソ 聯 1/ 3 0 1 8 建和丸 H 9 3 1 2 3 0 0 9 宇洋丸 1/ 9 5 8 1 3 0 0 9 陽和丸 1/ 1 0 4 6 3 5 0 3 昭1 2 地領丸 H 民領丸 ノ 太興丸 荒田商会 r 2 9 6 6 相川丸 〆 ノ 束京丸 i u 船 l 槽 1 1 0 7 旭川丸 1/ 5 0 2 日裕丸 日産汽船 貨物 9 8 2 9 第二日進丸 曳船 2 1 1 若竹丸 自社船 / 1 2 8 5 0 貨 2 8 6 6 七星丸 山下汽船 1/ 2 8 5 0 昭1 4 束亜丸 大阪商船 M 9 3 8 9 呉竹丸 近海汽船 ノ ノ 2 8 4 0 他船同 T型 隻 昭1 5 塔路丸 1/ が " 2 8 3 1 2 8 2 3 0 8 6 1 1 . ノ 9 5 0 1 第神宮 二丸 M 4 6 1 朝山丸 " 昭1 6大井川丸│ 他船同 T型 隻 │ 1/ 昭1 8日鶴丸 λ γ 2 8 4 9 2 8 2 2 6 8 6 3 ノ ア 1 0 4 6 3 1 0 1 4 1 6 3│ │ . 0 0 0 1 0 5 6 7 1 0 1 5 1 67 H . 1 0 0 油槽 1 1 0 5 6 1/ 他 船 同 9型 笠 9大 武 丸 2 7 2 9 1 8 5 5 昭1 M 他船同 9型 隻 /¥ 主トれ船数 他 船 1 同 6型 受 第二勇山丸 他 船 同 9型 隻 1/ ノ ノ 1/ 1 1 1 5 8 1 0 1 9 1 94 . 1 5 8 ( 第 9表) 川南工業造船部門従業員数(昭和 1 9年 9 月) │全在籍者│内 学 徒 動 員 香焼島 川南 深 堀 1 0 7 0 3 4 2 0 8 4 0 奇 不 明 A 1 、 5UH 、 J I 1 I 1 4 1 7 0 経営と経済 造船所別 ( 第1 0表) 八大造船所労働力構成 日本人徴用工 4 5% 正規従業員 2 0労 徒 1 0% 徴用 朝鮮人 8 0タ 6 学 人 4% 虜 3% 徴用 中 国人 1夕 6 妬i 捕 ( 第1 1表)川南工業労働力編成(昭和 2 0年) (長崎市史) 傭 j ' f ; 囚 用 徴 朝 魚 手 ユ 二 5 0 0 -1.0 0 0人 人 1 .5 0 0 4 . 0 0 0人 工 5 0 0 2 . 0 0 0人 人 3 0 0人 徒 学 1 .2 2 7人 /¥ 勤労奉仕隊 停 虜 1 .0 1 0人 0 0 3 . 0 0 0人程度) (イギリス、オランダ、アメリカの倖虜1.0 二、戦後における川南工業 第二次大戦の戦禍は世界各国に多大の人的'物的損害を与えたが、特に敗戦国のわが国民の生活は、住むべき家を 空襲で焼かれ、身につけたものはボロボロの褐色の軍服の類であり、多くの人々が職場を失って餓飢に迫られた。長 0. しかし、敗戦と同時に操業は殆んど作止し、 崎は原爆に焼かれ、十万に近い善良な市民がその生命をおとした。しかし幸いに、香焼島は戦禍をまぬがれ、川南造 船の施設は無傷のま﹀残存し、その巨大な生産力を誇ることが出来た 捕虜の送還、朝鮮人の解放に伴い、辛うじて治安が維持されるにと Yまった。 敗戦から二十一、二年に及んだ急激なインフレ!ンヨンは国民大衆を苦しめ、同時に資本家はインフレによる生産 サボによって、当面の危機を乗り切ろうとし、全国の工業生産施設の多くが、原料の不足等の理由で操業率は極端に 低下し、国民の生活は益々窮之化した。 予期された敗戦は川南にとっては打撃であったが、結果は彼の偽装の愛国心が消滅し、他方膨大な土地、建物、財 一挙に四千人弱に減少した。 (第九、十、十一表) 産が残された。動員学徒、徴用工、奴隷的朝鮮人労務者、捕虜は敗戦と同時に工場を離れでゆき、三万に及んだ従業 員は、 アメリカ軍による日本占領は、憲法の改正、財閥解体、独占禁止、農地解放、労働三法等としてあらわれ、勝者の 論理としての平和と民主化運動が展開されたが、他方それは日本の経済力を永久にアメリカの従属下におこうとする 支配体制確立の過程であった。 ポツダム宣言の精神は占領軍権力によって無視され、ポ l レl使節による苛酷な賠償が決定されるとともに、経済 力集中排除法が実施され、制限会社指定、国際貿易の占領軍による管理等によって、日本の産業は完全に息の根をとめ 松尾造船、川南工業、三菱造船 ノ¥ 経営と経済 られた。 時の弊原内閣は、天皇制権力機構維持のため、国体の総持という空念仏を唱えるところの、 りれば、無能な内閣であり、恐るべきインフレの来襲は一千万人の餓死の危機に追込まれた。 六四 マ ツ カlサ !の一一一一口を借 一ストの占領軍の弾圧のもとに不発に終った。共産党は占領軍を解放軍として迎える人の良い国民性であ 一億総ざんげという支配者層の虫の良いスローガンは虚脱した国民の敗者の心理に浸透し、わき上る国民大衆の不 つ満 しかし、長崎県労働委員会は会社側の労働法違反に怒り、これを告訴した D この戦後著名な労働争議は、会社幹部 中でありながらこれに介入し、組合幹部を懐柔し、百数十名の退職者を出してストライキの円満解決を実現した。 招かれた元海軍航空参謀源田実は、旧軍人を主体とする警務課、情報課、文化部等を動員した。また川南笠作は追放 の南方に於ける特務機関員宮崎某一派の暴力団を導入し、暴力をもって組合弾圧をはかった口香焼品炭鉱所長として 川南は大東亜戦争下の意識を払拭する乙となく、戦時中関係の浅かった海軍職業軍人を雇傭していたし、また海軍 経営陣は弱体化していた。 南豊作は、二十二年占領軍によって追放され、会社の支配権をめぐって、小者の重役陣の勢力争いが展開され初め、 や、二十二年九月ストライキに突入した。(香焼島一六九七名、深堀八六九名、浦崎九九一名)川南工業の独裁者川 川南造船所では、二十一年三月組合を結成し、労働協約の締結を会社側に要求するとともに、それが拒否される 有様であった。 より安全な利潤確保の方法としてあらわれ、労働者階級は生産管理の実力に訴える他に、生活を守る手段を哀失する 独占資本はその保身に究々とし、国民大衆を急襲するインフレーションは、彼らの自衛の手段であり、生産サボが 7 こは 聞の支配権の争いを激化し、川南工業の信用を完全に失墜する結果となった。 もともと、海軍や東条等政治権力との結びつきが最大の信用の源泉であり、 (戦時中川南は束条内閣の参与であ c従って、合理的経営や技術に対する信用の薄かった川南が、社会の信用を一 り、束条の自宅を提供し、京条処刑後はその妻子を東京の自宅に引取って世話したりしている。)戦時下の軍事予算 と総動員法が利潤源泉の凡てであった 挙に喪失したことはとりかえしのつかない深傷となった。川南の船舶はボロ船の代表として宣伝され、そのみにくい 船体を各港湾にさらけ出していた。ボロ船は凡て川南の船舶の代名詞となり、シヤ i ・リフが評価した、東洋に於け る最大の近代的な造船設備は忘れられ、十万屯ビルディング・ドッグはあたら雨風に曝された。 戦後企画された計画造船が総花式といわれるように、日本資本主義社会の崩壊の危機を何らかの形で防ごうという 段階では、未だ川南の息づく余地はあった。 (ストライク報告による新造船推定能力、川南香焼島二O i三O万屯、深堀五i 終戦時に於ける川南工業の戦災は殆んどなかったといってよかったし、従って造船能力に於ては、三菱、川崎、三 井と比肩する実力を持っていたし、 O万屯、補崎二i 五万屯) (能力五万屯以上の造船所で戦災を受けなかったものは、三井玉野、鋼管鶴見、川南香 一 焼、同深堀、浦賀、目立因島である。)財閥解体の打撃を受けず、更に賠償指定の対象外にさえなっていた。 しかし、計画造船が第三次より船主指定方式に切換えられるに従い、川南は最早一隻の受註も不可能となった。チ ヤlチルの鉄のカーテンの演説以来、米ソ冷戦体制は表面化した口第二次大戦に於けるフアッシズム対、反フアッシ ズム民主々義戦線は、実は既成米ソ二大国及び欧州帝国主義諸国の、新興国家ドイツ、日本、イヲリーに対する、持てる 六五 ものと持たざるものとの斗いであったが、第二次大戦の結果は、持てるものは米ソ二大国としてあらわれた。それは 松尾造船、川南工業、三菱造船 経営と経済 ム ハ ム ハ 同時に、資本主義大国対社会主義大国の対立を初めから内包していたものであり、 ルーズベルトとスターリンのヤル タの密約は、 二国聞の世界分割平和共存の前提であった。戦後の冷戦は、米ソ二国間の勢力圏確立のためのかけひき にすぎず、資本主義諸国は米国の軍事援助を迎ぎ、米国独占軍事資本の旧式武器や新規の需要者の役割を果すととも に、米国の指導下に於ける資本主義世界体制が確立されていった。 日本は国際法的慣例に反し、六ヶ年の長期占領を受け、二十年を経た今日でさえ沖縄は米国の占領下にある。戦後 日本の民主化に伴い、労働者階級や国民の自覚は、昭和二十四年の総選挙の結果にあらわれ、国内の政治勢力の争い は国内矛盾の激化を来し、保守政権に対して共産党議員の三十五名に及ぶ大量進出となって現われた。アメリカは冷 戦体制下、日本を極東の軍事的、政治的防衛拠点とし、軍事基地化の必要から、民主勢力の弾圧、独占資本の復活に よる或る程度の産業の発展を認める結果となった。 造船界に於ては、諸外国がその過大設備に着目し、呉造船には直接アメリカ資本が侵入し、低賃金、低船価による 外国船の注文が続出した。 わが造船界に対して、二十一年末より、ソ連より、第一、第二、第三次に及ぷ木造船の引合あり、二十二年秋から r ルウェ l のタンカー、 大型鋼船の引合が初まり、二十三年六月より、 ノl ルウェ!の捕鯨船八隻、二十四年にはノ 一、八万屯を初め、デンマーク、ヒリッピン、 フランス、パナマ等から大型船十三隻の注文に成功した。 また見返り資金制度による外国船の建造も初まり、ギリシャ船主と組んで十万屯タンカー五隻の建造が行われた。 川南工業は二十二年の計画造船により六隻、二十四年第五次計画造船により二隻の受註があったが、後者は破産の ため建造に至らず、専ら小型漁船の建造や、戦時標準船の改装工事に従事した。またトロール漁業に従事するための 自社船を建造し、社運は衰退の道をたどった。 かくて、川南豊作不在の幹部門に於ける内紛は、二十五年表面化した。富山出身を主とする反川南派は富士銀行に 援助を仰ごうとしたが、富士銀行の背景には三菱系会社があったといわれる。 それに対して、閏閥を中心とする一派はそれに抵抗し過去の栄光を夢み、獄中の川南豊作の指示に従ったが、二十 五年度上半期の損失は二億円に及び、工場閉鎖に追い込まれた。 川南は造船事業の不振をカバーするために、炭鉱採掘、サルベージ、漁業等事業を拡大し、昭和二十四年の従業員 の配置は、香焼島造船及び炭鉱一八O O人、社外工一 000人、水産部六O O人、サルベージ四OO人、浦崎向山炭 鉱一 000人、鹿ノ尾川木材業八O 人となっている。 しかし、乙れらの事業はあくまでも副業にすぎなかったし、川南の屋台骨を支えることは出来なかった。また残さ れた経営陣も弱体であったし、獄中からの川南の指令も事態を支え得なかった。 旧財閥系独占資本は川南をアウト・サイダーとして無視し、安田銀行は川南から手をひいた。そのため経営は行詰 り、土地、建物、設備の売食いも効を奏さず、昭和二十六年一月遂に工場を閉鎖し、全従業員四八O 七名は、解雇さ れた。 また川南争議における旧軍人や右翼暴力団の介入は、川南工業の一つの特色をなしており、戦時中総動員法をもっ て川南工業から収奪された、旧島民所有の土地に対する、革新坂井町長を中心とする住民の土地返還、農地開放斗争 に対しても、暴力的な弾圧が展開される。 松尾造船から買収した当時の工場用地約一万坪に対し、約七万坪の埋立を含め、僅か数年にして、住民の宅地、耕 地の買収の結果は、川南が約二十万坪を確保するに至ったのである口 六七 工場内には、青雲同志会、桜葉会、菊旗同窓会等旧軍人及至右翼の反組合組織があり、川南親衛隊が組織され、土 松尾造船、川南工業、三菱造船 種 昭 2 1 第一香焼丸 自社船 トローノレ 他同型船 6 隻 〆/ 1 1 {也同型船1 5隻 昭 2 2 石狩川丸 第 2 3 揮 捉 丸 j 底 日本郵船 , f ]j 洋 洞 北 曳 1 1 東洋汽船 丸 日本郵船 第三海洋丸 4 5 8 6 営 魚 1 1 丸 H 1 0 7 2 光 宝 他同型船 5 隻 1 1 1 1 、 2 9 5 9 杉 ¥1 1 1 若 束洋汽船 ﹂ メ L 丸 ︺/ノ 5 6 4 9 洋 略 2 2 4 貨 H s2 4 文 下 1 1 4 5 8 3 他同型船 2 隻 以 2 8 3 0 が 丸 8 2 1 1 8 2 8 貨 他同型船 1 受 1 5 3 1 1 1 1 メ L 光 事 官 延 第一豊洋丸 昭 ノ ノ ノ ノ 他同型船 3 隻 受 曳 底 9 8愛 幸 丸 一 1 4 9 1 4 9 貨 東洋海運 8 3愛 幸 丸 │他 4 1 0 1 1 8 2 8 他 同 型 船2 1隻 第 総屯数 1 1 曳 底 第一雲仙丸 l 経営と経済 地斗争にも動員された。これらは、川南豊作を破防法によって獄につなぐ結果となった三無事件の基盤の芽を育成し たものであった。 二十六年川南豊作は追放解除となり、再び川南工業社長として乗込み、その再建を計ったが、その時既におそしの 感を免れなかった。 ( 第1 2表) 川南工業主要船名簿(重量屯) (戦後) 二十七年の増資目論見書によれば、資本金三億円を三倍増資の九倍とし、その使用目的は自家発電のための電源開 発資金四位、製鋼設備一億、造船設備三千万円となっており、事業計闘は、鉄鋼、水力発電、セメント等を掲げてい る。当時の規校は従業員二三七九名、所有せるドりクは、香焼島は十万屯級一、六千屯級四、二千屯一、深堀に六千 屯級一、及び油怖に三千屯級船台一、二千屯級船台三となっている。 かつて、愛函心という看板は利潤追求の方便として必要であったが、今度はかつての敵国であり、不倶載天の勝者 アメリカの手先となることであった。それは何も川南に限ったことではなく、日本の資本があげてその転身をとげつ ﹀あったのである。それはまた単に資本にとどまらず、戦後アメリカ進駐と同時に、かつて数百万に及ぶ国民を死に 迫い落した職業軍人幹部も、先を争って占領軍の軍門に下ったものも多かった。東条一派は責任を回避し、石原寛次 D それはイデオロギ 一派は地下に潜入し、 一 部 は ア メ リ カ 占 領 軍 の 手 先 と な り 、 自 衛 隊 は ア メ リ カ 語 で 号 令 を か け た 。 愛 国 心 が 立 身 出 世、金もうけの便法であったように、 アメリカ軍の占領下では止むを得なかったのかも知れない !の悔悟のためか、食うためであるのか、反共のためであるのか、それぞれの論理が準備されたろうが、根底には虚 脱とニヒルが流れていたことも同情されよう。 しかし、川南に低流したものは、地下潜入的色彩の皇統派右翼であった。川南の商魂も最早神通力をなくし、生産 力そのものも最早破壊されつくしていたし、そのプライドを捨て﹀食うために米軍の前に娼婦の如く身を投げ出した としても最早体力を消耗し尽していた。再出発のための糧として二十七年の三倍増資は失敗しアメリカ軍から得た朝 鮮事件に必要なカマボコ兵舎六000偵の特需注文は、結局一 O 二煉を納入しただけでキャンセルのうき目にあった。 川南豊作は一方では、終戦後戦勝国から賠償取立て回避のために、せっせと財産の分割を行った。昭和二十一年六 ﹂ノ斗ノ -¥YU 月準制限会社、 八月特別経理会社、二十三年集中排除法の指定をそれぞれうけ、同年十二月解除された。 松尾造船、川南工業、三菱造船 七 戦後川南工業を舞台にくりひろげられた幾つかの著名な事件をとりあげてみれば、腐敗し、暴力化した資本の実態 るかげもない残骸が残されたにすぎない。しかも残された土地は、もともと香焼島住民のものであった。 焼島の施設は喰い荒せるだけ喰い逃げをしたといえる。かつての束洋一の造船所は幽霊屋敷の舞台に利用される。見 川市の倒産、再建の過程は外見苦斗のように見えたかも知れないが最早それは詐取の手段であったようであり、香 する。独占資本は最早川南を見殺しするととに方針を決め、度重なる倒産に救いの手を出そうとしなかった。 を計ったり、最早川南は産業資本の名をかたる投機資本にすぎなくなっていた。その意味では倒産も計画的な臭いが ありもしないパナマの会社パンテラとの契約(三万一千屯油槽船一隻)を増資目論見書記載し、銀行資金の借入れ 従って川南株はおもわくの対象として投機株化し、チョウチン組がその傾向をあふった。 の方法は虚偽の契約の情報を流し、証券会社と結託して株価を吊り上げ、増資払込を完了するという方法であった。 川南の破産は二十六年、二十九年、三十六年と繰返す。そして倒産整理の後、増資によって資金を獲得するが、 そ れている。 ったためかも知れない。しかし、戦後の川南のたどった道は、かつての英雄の末路としては余りにも薄ぎたなくよど 履行による詐取である。それは同情的にみれば、実力哀失者のあせりがすることなすことすべて意に反した結果にな 川南の実力の低下とともに、その商法は次第に悪質化し、知脳犯化する。株式操作による増資金の詐取と、契約不 に、日本水産、志浦水産に吸収され、深堀造船所は林兼造船に売却された。 川南は二十四年阿保炭鉱を第二会社香焼鉱業株式会社とし、川南漁業部は第二会社馬手ケ浦水産株式会社とし、更 げされていた香焼島民の土地に対する攻撃を'つけていたにと Yまった。 戦時中川南が収奪した財産は、外地財産を除いては温存され、た Y農地開放令に伴い、総動員法によって強制買上 経営と経済 O 図長崎市街 . 外 港 月l 取 松尾造船、川南工業、三菱造船 をかいまみることが出来る。 著名なものとしては、昭和二十二年の労働協約締結にからむ九十二 日間ストであり、詐欺に類するものはパナてペンペラ社の他に数多 い。日南産業という幽霊会社を作り、関係会社の漁船や川南の株券を 利用して、不渡手形を発行し、取込詐欺を行い、第二会社才川水産も その舞台となって破産し、第六豊洋丸事件は、中共との密貿易や更 に 、 G H Qのキャノン機関とからみ、今もって秘密のベ l ルに包まれ ている。またメキシコの実業界のモノレ氏との漁船二百隻の契約、イ ギリス・アロ l社 と の 大 型 タ ン カ ー の 契 約 事 件 、 タ イ 国 に 於 け る 金 塊 引揚事件等舞台は国際的なものまで及び、実態は必ずしも明確ではな い。それらは或る程度、川南工業の経営経過概要を見れば推測するこ とが出来よう。それは最早経済学の対象ではなく、小説の対象にふさ わしいだろう。 昭和三十六年川南豊作はその本性を発揮し、持尾の一振をはなっ た。三無事件であり、右翼フアッシズムによる革命の計画が露見し、 叛乱罪として破防法ρ適 用 を 受 け て 獄 に 下 っ た 。 し か し 、 時 代 の 流 れ 七 には天皇制軍国主義の空しい乙だまにすぎなかった。三無事件に証拠として提出された武器は、修理のために来島し から見れば、最早ドンキ・ホ lテにすぎなかった。英雄の末路はわれわれ国民にとって戦探すべき三無事件も、歴史的 ( 第 2図)長崎港略図 ・ 4 ' ι 旬、 経営と経済 川南工業関係年表 A 刈 l f u 4↓ 召H 日 L¥下 円 Er--/P笠 斗j 川南工業を同地に建設(姐缶詰、組メ粕製造) 平戸工業所 浦崎硝子、ソーダ工場 松尾造船香焼島造船所を買収 サルベージ部設立中文方面洗船引揚解体 佐賀県山代町字浦崎村井鉱業所買収(石炭) 中文嵐山にて雲母採堀九江に加工場設立上海大日新仙廠買収(植物油) 中国華北省宛平県門頭溝鉱業所設立(石炭) 一二年 一四年 一三年 昭和一一年 明鮮新市港トマト・サージン工場設立 昭和四十三年末川南豊作はその生涯をとぢた。彼はむの事態を如何に見たであろうか。 ・Lv ー'﹀ 0 D かくて香焼島は、近代的な独占資本の本格的な進出を見、島民は新たな侵入者に対し、市民生活の防備準備をして 本性を秘密のベ l ルにかくしたま﹀操業の準備のための建設に忙がしい。 請企業用地三万坪という割合で四十四年払下が内定し、原子力船建造のためか、五十万屯ドック建造のためか、その 坪の用地が造成された。またその用地は製鋼会社十万坪、八幡製鉄系シヤリング工場四万坪酸素会社三万坪その他下 に落ちた。そこは新たに臨海工業地帯として、巨額の国費をつぎ込み、香焼島と長崎深堀との海狭を埋立て、二十万 昭和四十三年、明治百年の年、多くの中小債権者に押えられていた担保物件の工場敷地は十数億円で三菱造船の手 た米艦の廃棄した武器のくづ鉄にすぎなかったと証言する住民も居り、彼を陥れる策謀とさえいわれる 七 二一年 九八七 年年年年 平戸.上業所田助及び五島缶詰に譲渡 油陥硝子、曹達工場閉鎖柿崎造船所設立 伊万旦製材所買収 海軍省管理工場指定呑焼品安保鉱業所買収(石炭、コークス 深堀造船所設立鹿児島県川内分工場設立(機関製造) 鹿ノ地川(深堀町)製材工場買収 佐賀県大川町、大川木材工場設立呑焼コークス工場設 準制限会社指定 水産部設立、トロール船、手持船で操業 集中排除法指定(一二月解除) 特別経理会社指定 長的窯業所買収 土木建築業開始資本金五四万円を二億円に増資第二会社川南鉱業を分離設立(安保炭鉱) 主役会内紛表面化給料遅配第一回目 工場閉鎖 川南豊作追放解除、取締役会長就任 工場再開 給料巡配第二回白 八月再評価組入れ資本金三億円 パナマ・パンテラ汽船タりんカ l三万一千屯受注発表、着工せず 京日米軍より組立兵舎六000棟 二 八 億 受 託 一 O 二棟納入、契約解除さる 資本金三億円を九億円に増資失敗 ポンツ l ン浮続柄四O笠契約発表(後契約不履行のため解約さる) 松口出造船、川市工業、一二菱造船 七 F 一九八二八 六五 年年 O 六-五四三 年年年年 八 七 J ¥: / . : . 月月 月月月月月 二ハ -0 月月)]刀 H 日 干1 二九年九月 東洋汽船に貸与(管財人) 地方裁判所より破産宣告届出債権四八億円承認債権二五億 破産申告(植田金属) 経営と経済 三O年 九 月 富士銀行等の同意なく貸与解除 強制和議 二一月 一一二年八月 三二年 メキシコ漁船四隻受注完成輸出不許可給料遅配第三回目 工場再開 高崎達之助氏に一任川南豊作日本産業開発株式会社設立川南工業の実権を掠る 二月 三三年一 O月 三四年・ 増資失敗破産 資本金六億を一八億円に増資 給料遅配第四回目 漁船密輸三無事件により川南笠作逮捕 昭和重工に社名変史 増資二一億円 資本金三O億円 一一五名解雇休業状態となる ペルシヤ船修理に際し、取込み詐欺有罪 ペルーより小型漁船二O O隻受注発表建造せず 川南豊作死亡 F 七 三六年六月 一O月 三六年一一月 一二月 月月月 月月 九八二 O 二 三七年 四 三 三、九 年 年 四 川体 , 己 虫介・ ' ' L γ ' 長崎三菱造船所 宮永進 て 、 勺 己 ﹁日本商船隊の崩壊﹂ ﹁現代日本産業発達史﹂ ﹁明治工業史﹂(造船) ﹁創業百年の長崎造船所﹂ ﹁向辺町(国史﹂ ﹁ぃ品川国造船保必政策論﹂ ﹁戦時戦後の日本経済﹂ ﹁戦刀造船﹂ ﹁日本戦時海辺論﹂ ﹁日本船名簿﹂ (総論、造船) ﹁長崎市史﹂﹁長崎県史﹂﹁長崎県紀委﹂ 香焼村郷土史その他香焼島関係資料 経営と経済第一一三号河地良一﹁限界炭坑品の資本主義的展開序説﹂ 十 l へン 出一事公報社 1 B ・ ・コ ・ 斯波孝四郎 hMF 五 I14A 雌川洋 刀日 日 日 E三 会 1 1 長崎県労働部労政課川南公判 五 立 : AJ 松厄造船、川南工業、三菱造船 七 ー 1 ; 1 ' , 参