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科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 Author(s) 坂口, 幹生 Citation 経営と経済, 38(2), pp.1-24; 1958 Issue Date 1958-10-31 URL http://hdl.handle.net/10069/27541 Right This document is downloaded at: 2017-03-29T22:50:54Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp 坂 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 . 口 幹 生 現代におけるアメリカ経営学の発達はまことにすばらしいものがあり、それはその出発点をなした科学的管理法の 研究者の生前全く夢想だにしなかった領域、性格のものにまで発展しっつあることは衆知のごとくである。現代にお ける了メリカ経営学のこの驚異的な発展に幻惑されるものは、了メリカ経営学の研究に志しながら、いきなりこの現 代的諸問題に突入せんとするものがないではないが、しかし了メリカ経営学の研究はやはりその源流に測り科学的管 理法の忠恕、精神の理解から初めなければならないであろう。尤も了メリカ経営学の研究を正しく科学的管理法の研 究から出発せしめたとしても、ただその古典的なシ竺テムだけを表面的にとらえ、この古典からいきなり現代アメリ カ経営学の諸問題に突入してもそれは何等意味をなさないことは勿論である。科学管理法の奥底に胚柾的ではあるが 基本的に芽ばえた忠恕、精神がその後理論的にいか正伸展せしめられ、いかに批判され、また現実的に了メリオ産業 経営の現代的発展に呼応して拡大され、今日のアメリカ経営学の全貌を成熟せしめるに至ったか、そのたえざる発展 の過程を学説史的にか、発展論理的にか辿ることなくしては充分なる理解をうることはできないものと云わねばなら ない。しかるに科学的管理法以後現代に至るまでのアメリカ経営学の発展過程は、自明のごとくして意外に等閑に付 せられている嫌がないでもない㍉ 本論はこうした問題領域に対して発展論理的にその概観をとらえようとするもので ある。 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 経営と経済 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展を考察せんとする場合、 わ れ わ れ は そ こ に 三 つ の 大 き な 傾 向 の あ る こ と をみのがしてはならない。すなわちその一つは科学的管理法において工場と云う云わば限られた生産部門の管理研 究に踊跨していたものが、その後販売部門、財務部門、労務部門の研究へと棋に発展していった方向であり、そのこ つは工場管理と云う云わば経営末端の作業管理の研究より経営全休の、綜合的な管理研究、全体的経営管理の研究へ と云わば縦に上昇的に発展していった傾向である。そして第三には実践的な経営管理技術論として出発し、また発展 しつづけてきたアメリカ経営学の一方において﹂取近これらの諸論を基礎理論的に考察し、学問的により深化しようと する傾向のあらわれてきたことである。順序としてわれわれはまず第一の発展傾向から考察していくこととしよう。 科学的管理法の研究領域が、 ひ と え に 工 場 と 云 う 経 営 全 体 よ り み れ ば 限 ら れ た 生 産 部 門 に あ っ た こ と は 衆 知 の ご と くである。この場合経営管理上はじめて企画部と云う部門を導入したテーラーの創始的な功績はまことに偉大であっ たとしても、それは所詮は工場と云う限られた領域内での企画部門にすぎなかったことは云うまでもない。科学的管 理法の研究者たちは、﹁経済人としての技師﹂たることに劃期的な常風を与えられたとしても、所詮彼等の視野は工 場の障壁以外に出ることができなかったことは、すでにソムプソ Yの指摘するところである。否かくのごとき所究者 の技師としての性向よりも、当時なお比較的単純であった産業社会においては、 生 産 と 云 う 執 行 的 な 作 業 領 域 の 合 理 化のみを重視していれば、爾余の経営領域の合理化は、ほとんど顧みる必要がなかったのかも知れない。 しかるにその後、アメリカ近代産業社会の複雑化にともない、経営各部門の諸活動も次第にその重要度と珂度とを 加えるに至った。かくて一九二0 年 代 頃 よ り テ ー ラ ー 協 会 を 中 心 と し て 、 ア メ リ カ 経 営 学 は 漸 く 科 学 的 管 理 法 の 精 神、原理を工場部門以外の他の経営部門にも適用せんとする研究を初めたのであるが、われわれはここでは便宜上ま ず販売部門の科学化について考察してみよう。 一、販売部門 すでに別の箇所において述べたるがごとくアメリカにおいては特に西漸運動︿当。丘4 3三宮。5BSC を契機とし ο すなわち、売買上の既引きとか採算、広告、宣伝、包装な て次第に広大な国内市場が成立し商業活動の活液化にともなって、商業学的な売買論の研究はいわゆるマ 1 ケッチシ グあるいは配給論の研究として早くより試みられていた どによる需要の喚起、創造、販指網の確立と町給経路の合理化による販売賓の節約など、いずれも今世期初頭までに 可成りの研究成果をあげてきたのである。 し か し な が ら こ れ ら の 諸 研 究 は 、 す べ て の 商 業 学 の 理 論 が し か る が ご と く、漠然たる社会的立場から流通現象またはその技術論を研究してきたにすぎないものであって、決して企業経営者 的観点からする販有管理論と称すべきものではなかった。 しかるに第一次世界大戦を契機としてアメリカの産業はますます大規模化し、巨大なる資本の固定化と大量生産、 マl ケッチシグの問題を 迅速生産の技術的進歩は、この経営内部的な過大生産をいかに市場に売捌くか。また市場が漸次完全競争の段階より 少数者独占競争の段階に進むにつれて消費者の欲求をいかに生産部面にとり入れていくか。 単に商業論としてではなく、主体的な経営管理論としてとりあげ、 しかもこれを科学化することの必要が、 とりわけ 製造工業の製品販売問題について痛切に感じられるようになった。占んも、 生産と販売と消費とを経営管理的に統合す ることは、純然たる経営内部の問題ではなく、経営外的な市場情況と、主観的な消費者を前提とする問題であって、 経 営 の 管 理 能 力 は 従 来 の ご と き 方 法 を 以 て す れ ば 直 ち に そ の 限 界 に 達 す る 問 題 で あ る が 、 アメリカ産業経営において まず経営内的な販売分析 ω ( 巳 gmHS-3Z) f﹂ ν H t、 過去における販売実績数値を R3 、ずに、 1v斗イ、 期 一度確立せられた科学的精神は、 よくこの限界を破ってこの領域の科学化に成功したのである。 すなわちここでは 科学的管理法以後のアメリカ経蛍学の発展 間 経営と経済 証券による資本の調達が中心的な関心問題となり、 アメリカ経営学においては、 いわゆる ﹁企業金融論﹂ た。殊に十九世期末より今世期初頭にかけて大規模な株式会社が続々設立され、証券市場がますます発達してくる またこれを財務部門についてみても、元来アメリカは株式会社制度のいち早く最も典型的に発達してきた国であっ ニ、財務部門 われているのが今日アメリカの現状である。 んとする販売政策を、一度実施してみてその市場効果を実験すると一式う市場実験(冨RW2RZ江田 g乙 さ え も 行 績 売 上 高 を も 調 査 し 、 そ の 中 に お い て 自 ら の 占 め る 市 場 獲 得 本 ( 冨RW2mFRS を 算 定 し た り 、 ま た 自 己 の 実 現 せ ない。市場分析においては単に潜在購買力の調査のみならず、自己の属する産業の全体的な潜在奇上高、ならびに実 勿論、販括管理科学化の問題は単にかくのごとき販売分析、市場分析、販指予算涜制の問題のみにつきるものでは 準として販右活動をコントロールすると云う、きわめて科学的な販売計画を確立するに至ったのである。 を行って、当該製品の潜在購買力を調査し、両者を生産能力との関聯において綜合して販指予算を編成し、これを基 別 、 地 域 別 、 商 品 別 、 販 売 員 別 に 分 析 し て 既 往 の 販 売 傾 向 を 知 り 、 つ い で 経 営 外 的 に 市 場 分 析 ( 冨RW2自己ヨす) 四 る 。 υ ︼ ﹀ しからばこの﹁企業金融論﹂においては一休いかなる問題がとりあげられてきたかと云えば、その多くは、株式 ち商 的本 な金 と面 して 展 開 し て き た の が 常 で あ っす たな 。わし か業 も学資 の融 調論達 の、 みを取扱ってきたのであ 運転資金、配当金、剰余金、企業拡張および企業合同、持株会社、企業整理などを中心としてその実践的な技術論を 会社の設立から解散に至るまでの資金調達に関する財務的諸問題たとえば、企業設立財務、企業評価、株式と社債、 る ど。ロ ( S H M ) w 足。三件。ロハ回出ω ﹀w当 ω WO円(SHgw 口。当日ロぬ(]戸沼 HU などの諸研究が出されたのもこの時代であ ((U 同 ∞ ∞ 吋) a ( ] S H C )・ w ゎgU2283w 宮g 。号。S昨日。ロ出g ロの O﹀なるものが盛んに研究されるに至った。のおg ( と しかるに大規模株式会社の濫立時代を終えて証券市場が平静に帰するとともに、ますます株式の分散が大衆化し、 企業の内部においてはいわゆる﹁資本と経営の分離﹂が明確化されてくると、﹁資本の受託者﹂と云う意識がいよい よ強められ、企業財務論においてもここに一つの新しい傾向が現われてきた。すなわちそれは企業財務論においては 単に対外的な資本調達論のみに終始すべきではなく、同時にかくして調達された資本を企業経営の内部においていか QERS- 片山口自己巳 (ESロ江巳 ggω 問 。BgC 的な研究が重要視されるに至ったと云うことである。 に能率的に運用していくかと云う経営者的観点ないしは経営管理的観点よりする内部財務統制 ハ リ 。 ロ 丹 円 。 、 あるいは財務管理論 だし資本の調達はその運用と不可分の関係にあり、運用を考慮しないような調達はありえないからである。 け 550Z25ロの0・ し か し て い ま か く の ご と き 新 傾 向 は 、 す で に し て 一 九 一 七 年 公 刊 の ラ フ の 経 営 財 務 論 (F 。 ロmY 回 ]戸市出吋)にすでにその先駆をみるので K F3 丘 町 己B 芯包己口内々。同 2 5ロ ωロ ωmOBOE 吉 宮 古 丘otg古omω わ。ロのめ同ロω 司 2 あるが、この観点よりする考察を最も明確にしたのはマッキシゼーであると云うことができるであろう。彼は一九二 O年財務管理論ハ2 5ロ己巳同55mOBOE-KFロ。EZS。ごZ 耳目白の仲間︼目。ωω 呈匂円OEOBω]5MG) なる書物を著わし、 その後一九二三年にはミ 1チとの共著 ﹁経営財務統制論﹂ (ゎ。ロ可。=山口問昨日5 司吉日戸。。。同国ロω ﹀ 一九三五年に 口 山 g は、グラハムとの共著﹁財務管理論﹂を著しているのであるが、これらの芽書を通じて展開せられω ている新傾向は、 資本の調達と同時に、否それにも増して資本の運用と云うことを重視し、しかもそれを経営管理的に統合せんとする 態度である。 日 く ﹁ 過 去 に お い て は 、 財 務 管 理 と し て の 主 要 な 構 成 部 分 は 、 資 本 調 達 の 方 法 に 関 す る も の と 考 え ら れ てきた。 しかしいまや資本の真の運用こそは、 その調達方法と全く同様に重要であると認められなければならない。 むしろ資本は利益の獲得に対して使用されるために調達されるのであり、 し た が っ て そ の 効 果 的 起 用 が な さ れ る の で なければ、 調達の目的は達しられないこととなる﹂。 科学的管理法以後のアメリカ経蛍学の発展 五 経営と経済 しからばかくのごとく資本の調達と同時にその運用をも併せ、 同決定された資本の調達問題、 グラハムはこの点を指摘し これを経営管理的に統合せんとする立場において マッキンゼ l 国それの運用に関する一般的統制の問題の三つと は、財務管理論は一体いかなる問題をいかに取上げんとするのであるか。 、労務部門 度とが次第に諺透、発展していったことは容易に伺い知ることができるであろう。 以上を以てするならば、科学的管理法以後アメリカの経営学においては財務部門についても科学的管理の精神と態 ムが展開されて、 やがて現代アメリカ財務管理論の大勢を形成するに至ったのである。 の経営分析が財務統制の問題としてとりあげられ、財務予算、 ないしは財務計画、あるいはコ γトローラー・ジステ 試験比率などの静態的経営分析とともに、動態的な総資本牧益率、自己資本牧益率、商品回転率、売掛金回牧率など 要視されたのであるが、他面管理会計論の新提唱者たりし彼においては、ここではさらに固定比率、流動比率、酸性 かくて以上三つの主要問題の中マッキ Y ゼ lにおいては、 とりわけ第三の資本運用に関する一一般的統制の問題が重 務管理との関係などが問題とされる。 運用されていくのであるが、ここではさらに、資本支出の統制、 必 要 現 金 の 統 制 、 信 用 の 統 制 、 会 計 お よ び 統 計 と 財 本調達の方法が問題とされねばならない。 ついでかくして調達された資本は、 いよいよ経営の内部において効果的に 資本の調達については、それをどこから調達してくるか資本調達の源泉と、それからいかに調達してくるかと云う資 の 調 達 の 前 に 、 ま ず 必 要 資 本 の 見 積 、 決 定 を 行 う こ と が 当 然 問 題 と さ れ ね ば な ら な い で あ ろ う 。 かくして決定された しているのであるが、この場合資本の運用を重点的に、これを経営管理的にとりあげんとするものにとっては、資本 て H 必要資本日一且決定の問題、 ' - ノ、 さらに労務部門の研究に至っては、科学的管理法以後アメリカ経営学は独特の発展をとげ、今日世界最高の水準を 進みつつあるものと云える。しかしていまこの労務部門研究の発展過程は、必ずしも単純なものではないが、まず第 一には科学的管理法の原理がそのままストレートリーにそれ以後に発展伸張していった領域をあげうるであろう。 般に指摘せられているごとく、科学的管理法における労働者観は、労働者の人間性を軽視し、それを自然力と同一視 し た 労 働 力 の 保 持 者 と 観 、 こ の 労 働 力 を い わ ば 自 然 科 学 的 に 合 理 化 せ ん と し た と こ ろ に 存 す る 。 しかしていまかくの と云う合理化施策となって現われたとき、 それはとりも直さず労働者の適材適所的な選定と配置を意味する ごとき労働者観が科学的管理法の第二原理、ないしはテーラーの常に口にした﹁第一流の労働者﹂(吋宮崎町三のZg V 向m ロ w) ものに外ならなかったが、かかる適材適所主義はやがて第一次世界大戦のさ中、 ア メ リ カ 陸 軍 軍 需 要 員 の 動 員 に 適 用 されて大成果をあげたため、戦後のアメリカ産業はいずれも競ってこの合理化施策を自らの経営内に採用し、科学的 管理法の第二原理は爾来そのままアメリカ産業経営の労働部門の発展に渉透していったのである。 しかしてかかる批判と反省の中に まず発展したもの しかしながら第二に科学的管理法における労働者の人間性軽視には、 その後幾多の批判と反省とが加えられ, その 度毎に止揚的に労働部門の研究はますます発展していった。 め に ・ 向 。 ω ZERon件)の研究と実施であった。 すなわち前者は労働 一九二0年代における一ナイド・メトカルフを中心とする産業心理学ならびにレイチなどによるいわゆる﹁産業民 ω g a - ロ品ロ 耳目白戸 ( 同 ロ 内 山 口 ω可百戸内田OB。の 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 七 しかしていまかくのごとき新しき労務管理方式の展開は、 た し か に ア メ リ カ 労 務 管 理 部 門 に お け る 一 つ の 新 し い 発 労働者の経営上の地位を高め、 以てその生産能率を増大せしめんとしたのである。 雇主によって組織せしめられた労働組合︿の。 BZロ吋ロロ芯ロ﹀ や組合幹部を工場委員会に参加せしめることによって 者の人間として所有する本能、欲求、性能を分析してそれに適合するような労務管理方式をうちたてんとし、後者は 主主義制度﹂ l 立 経蛍と経済 展を意味するものであり、その歴史的な意義はこれを没却することができないものと云わねばならないであろう。 か し な が ら 元 来 産 業 心 理 学 的 な 労 務 管 理 方労式 、心 労理働 のを 持おつ 理っ 、ても、 働は 者の に者 重き く心 と云 江口問)に外ならず、 そこでの労働者の人間性、 人格無視は、 依 然 こ れ を 否 定 す ( 出 口 山 またいわゆる﹁産業民主主義制度﹂も一応形式の上においては労働者の経営における地位を高め sgggm g を、云わば自然科学的に上り精密に分析し、それに則って労働者を管理することであって、それは結局より精煉化さ れた﹁人間工学﹂ べくもなかった。 たものであったが、その実は雇主によって組織せしめられた会社組合、一雇主によって任命された組合幹部、委員を前 提とするものであり、決して真の意味における民主制度ではなかった。 か く て そ れ は ﹁ 民 主 制 度 ﹂ の 美 名 の 下 に 、 結 例のヲグナ 1法の制定にともない アメリカ労働組合は強大な社会的地位と権利を保障さ 局は労働者を懐柔せんとする施策に外ならなかったことが漸く反省されるに至ったのである。 しかるに一九三五年、 一歩も前進することができないと れ 、 政 党 、 資 本 団 体 と 並 ん で 現 代 ア メ リ カ に お け る ﹁ 第 三 の 勢 力 ﹂ と し て 勃 興 す る に 至 っ た 。 アメリカ産業はいまや この第三の勢力と真剣に四つに組み、労使関係を合理的に解決するにあらざれば、 一訳、つ破自に追込まれたのであるが、 かかる歴史的な課題をいかに解決すべきかについて頓に発達したものが、 いわゆ るインダストリアル・リレ 1 ショシズの研究であった。占んもこのイシダストリプル・リレ 1 ションズの研究も、その 当初においては当面する労働組合との交渉関係を、 い か に 合 理 化 す る か と 云 う こ と に の み そ の 重 点 が お か れ た も の で あったが、その結果いたずらにカと感情に走らず、冷静、忠実に事実と資料に基づいて科学的、客観的にその解決の 途を求めんとする、 アメリカ特有の労使関係を成立せしめるに至った。この点は正にテーラー以来の﹁科学的民主主 しかるにイ yグストリプル・リ V 1シ ョ γズの研究も、単にそれが労働組合との交渉関係の問題にのみ終始してい 義﹂の精神が、 現代にその実を結んだものと云うことができるであろう。 し 』 性 能 八 る限りにおいては、 それは経営的生産にとっては、間接的な意味しか持たず、 ま た ﹁ 労 働 組 合 主 義 ﹂ は 常 に カ の 斗 争 による最後的解決を前提としている。勿論すでにのベたるがごとく、アメリカ労使関係における科学的民主主義は、 この力による解決の幅をはるかに狭めたとは云え、逆に云えばそれだけ一日一力の解決に出でざるをえない場合には、 その粛す災害と消耗とは、 まことに甚大なものがあると云わねばならない。 かくて労働組合と云う特殊の機関、 団 体 を 通 じ て 団 体 交 渉 す る 以 外 に 、 現 代 の 労 使 関 係 を 解 決 す る 途 は な い か と 云 う労働組合主義に対する反省が、漸くアメリカ産業界の一部にも接頭するに至ったのであるが、 かかる時代的反省に 対 し て 図 ら ず も こ の 間 題 を 側 面 よ り 解 決 す る 実 証 的 研 究 が 期 せ ず し て 勃 興 す る に 至 っ た 。いわゆる人間関係論的管理 エ ル ト シ ・ メ 1 ヨ ー な ど に よ っ て 行 わ れ た ク エ ス グ l y電 気 会 社 gm苦言。 RF) の研究がすなわちそれである。 日 。 巴ω昨 方式(国ロES 円 元来この研究は一九二四年より二七年にかけて ホ1 ソ1 γ 工 場 の 照 明 実 験 の 失 敗 に 端 を 発 し ‘ 意 外 な る 成 果 を 発 展 せ し め 、 ア メ リ カ 労 務 管 理 の 第 三 段 階 を 劃 す る に 至 ったものであるリすなわちこの実験においてはご定の限界内においては労働者の生産能率は、 労働時間、休憩時間 の大小、 照 明 度 、 賃 金 支 払 形 態 の い か ん に よ っ て 左 右 さ れ る も の で あ る ﹂ と 云 う 伝 統 的 な 原 理 を 前 提 と し 、 こ の 中 い かなる照明度の場合、 生 産 能 率 が 最 大 に な る か と 云 う こ と を 実 験 数 値 的 に 測 定 せ ん と し て 企 て ら れ た も の で あ る 。 かるに実験実施の結果は予期に反し、 照 明 度 を 低 下 せ し め て も 労 働 者 の 生 産 能 率 は 低 下 せ ず 、 従 来 の 原 理 を 前 提 と す る限り、 実 験 は あ き ら か に 失 敗 に 帰 し た の で あ る 。 し か る に こ の 実 験 の 失 敗 す な わ ち 照 明 度 の 低 下 に も か か わ ら ず 、 労働者の生産能率が低下せざりし原因は一体どこにあったのであるか。当時従来の個人心理学の研究より漸く集団心 し 実 理学の研究へその興味を、つつしつつあったエルトシ・メ 1 ヨ lは種々研究の結果、 そ の 原 因 を 、 被 実 験 者 の 人 間 的 な 態度、すなわち彼等が実験的に行わせられている仕事に対する感じ方、同じ被実験者としての友達に対する気持、 科学的管理法以後のアメリカ経色学の発展 九 経色と経済 動作研究や時間研究のごとく、 直接作業労働を合理化した (七二l 三頁﹀の中で、次のごとく述べている。 ず、今日では経営管理者相互間における人間関係論の研究にまで上昇発展するに至っている。 かつてテーラーは、 その者﹁科学的管理法の諸原理﹂ はそれ以下に落ちてしまうと云うことである﹂と. か く て テ ー ラ ー は 労 働 者 を 単 な る ホ モ ・ エ コ ノ ミ カ と 考 え 、 彼 等 である。それは労働者は、集団の中の一人となれば、個人的能率はその集団の中の最も悪い労働者の水準か、あるい 的に研究する必要のあることを示している。 われわれの注意深く分析した結果からは、 次の事実が明らかにされたの ことになるであろう。このことは実に労働者の日々の仕事に影郷一目するような、 そ れ ぞ れ の 動 機 に つ い て 、 こ れ を 科 学 それぞれ別々の個人として取扱わないで、これを集団の中に編入してしまうならば、彼等は野心と進取的気性を失う ﹁労働者は き人間関係論的管理方式が確立されるや、それは僚原の火のごとくアメリカ各種産業の労務部門に発展したのみなら とを根本基盤として、 労働意欲を誘発せしめると云う方式が確立されるに至ったのである。 しかして一度かくのごと の不満足をできるだけ緩和することを通じて労働者の職場社会における人間関係を均衡安定せしめ、この均衡と安定 在に着目し、経営目的に反せざる限り、その人間的な感情、欲求を満足せしめ、あるいは止むをえざる場合には、・そ り、能率給によづてそれを刺戟したりするような方式をとらず、それとは次元を異にした労働者の人間としての現存 あるが、ここでは労働者の生産能率を高めるためには、 かくてこの新原理を労務管理部門に適用したところに、 いわゆる人間関係論的管理方式が展開されるに至ったので い原理を発見するに至ったのである るよりも、もっとその労働者の他のものに対する感情、態度、人間関係によって左右されるものである﹂と云う新し あることを突止め、やがて﹁労働者の生産能率は労働時間、休憩時間、照明度、賃金などの労働諸条件のいかんによ 験者から協力を求められたことに対する自尊と自重、被実験者たる地位と実験目的の自覚など、種々なる人間関係に O を一人一人パラパラにし謀業と賃金を以て刺戟することによって、 その最大能率を発揮せしめんとする、一広わば﹁能 率個人主義﹂を採用したのであるが、 人 間 関 係 論 的 管 理 方 式 は 、 彼 が 忌 避 し て 顧 み な か っ た こ の 集 団 関 係 に こ そ 、 む しろより深い新しい科学的究明のメスを加え、労働者をむしろ集団中の一員としてまともに受取り、この集団関係、 人間関係を均衡安定せしめることによって最大能率をあげしめると云う﹁能率集団主義﹂に新しく発展するに至った のである。 の研究にまで発展したと云うことである。 まことにテーラーを中心とする科学的管理法の研究は 科学的管理法以後のアメリカ経首学の発展 なくなった。 しかも第二にかかる経営労務の増大は、彼等をいかに経営機能的に部門化し、 それぞれにいかなる権限 の経営活動に従事するものの数が次第に増加し、最早工場労働者の生産のみに研究を踊跨せしめていることが許され すなわちまず第一にその後アメリカ産業は一般的に次第に大規模化し、 工 場 労 働 者 以 外 に 、 販 売 、 財 務 、 労 務 な ど 経営学の研究領域も次第に全体的、綜合的な管理問題の研究へと上昇発展するに至ったのである。 しかるに科学的管理法以後アメリカ産業界には、幾多の重要なる発展変化があらわれ、それに呼応して、 アメリカ より高い観点から綜合的に内同盟すると云う研究にまでは進んでいなか?た。 った。 しかしながらそこでの管理研究は、 工場における作業労働者の能率管理のみにとどまり、いまだ経営全体を、 極的にとりあげ、 労 働 者 の 生 産 能 率 を 格 段 に 高 め た と 云 う 意 味 に お い て は 、 き わ め て 重 要 な る 意 義 を 有 す る も の で あ アメリカ経営学の発達史上、初めて管理機能を自覚的、積 去わば経営末端、あるいは下位部門の管理研究から上昇して、経営最高の観点よりする、全体的、綜合的な経営管理 科学的州日現法以後におけるアメリカ経営学の発展について第二に指摘しなければならないのは、それが工場と云う 四 経営と経済 と責任とを委譲、し けだし機能と権限と責任の分割移譲を基とする部門化は、 そこに当然これらを経営全体として統制する調整機能 いかに経営活動を円満かつ能率的に遂行せしめていくかと云う、経営全体としての組織の問題を の研究を必要とせざるをえない。 かくのごとき経営機能の部門化は、 研究せざるをえない事情を生ぜしめた。 しかるに第三に、 (ゎ。。円弘山口ω昨日。ロ) 命、A ーシ また外部的な経営関係が単純である場合には、 P ルをあげることができるであろう。彼はすでにして一九二一年、﹁経営管理論﹂ 執行活動は重視される マ 口m (回ロω山 w m ω ω 品自由同比例件包昨日。ロ) 研 究 に 上 昇 発 展 し て い っ た の で あ る が 、 か か る 問 題 意 識 を 最 も 早 く 昂 揚 し た 学 者 の 一 人 と し て iわ れ わ れ は L ・c- さて以上のごとき諸種の事情に基づき、科学的管理法以後のアメリカ経営学は、次第に全体的、綜合的な経営管理の 揮統制する全体的な管理機能を強化せざるをえない。 存立を完うするため、ますます経営それ自体として主体性意識をたかめ、経営目的、意志、計画を明確にかかげて指 外部的に仕入先、得意先、金融先、労働組合、政府、一般社会との関係が、複雑化し激化してくると、経営は自らの が、管理的な主体性機能はさほど昂揚されない。しかるに経営内部的に多数の労務者が複雑なる機能を担当し、経営 , 刀 、 内部的な経営規模がいまだ簡単であり ものであれ、専門経営者を主体とするものであれ、もともと一定目的を達成するための、いわゆる目的構成体である め、最高経営者の管理機能の重要性を増大せしめたことをあげねばならない。経営はそれが所有経営者を主体とする 第四にはアメリカ近代産業の内外にわたる大規模、複雑、高度化は、ますますその管理的な主体性意識を強化せし である@ 局は全体的な経営活動過程の一環にすぎないものであり、 か か る 全 体 的 な 観 点 よ り す る 調 整 は 、 是 非 必 要 と な る か ら くその部門のみのセクショナリズムに陥りがちであるが、部門活動はそれがいかに熱心に遂行せられるとしても、結 と か なる書物を編集し、その当時までにアメリカ経営学として蓄積されきたった諸研究を、立地管理、学務管理、販売管 理、財務管理、生産管理、危険負担論、企業形態論など、それぞれを機能別研究的に整理した上、次のごとく論じて いる。 経営管理とは結局、 経営者の機 ﹁われわれは今や、経営管理とは一体何を意味するかと云う一般的な問題を提起するにふさわしい段階に到達してい この問題に対して最終的な解容をあたえるには問題はあまりに新しすぎるが、 むしろそれに基づいた﹁行動の準則﹂ 組織を実際に巡行すること υ ( z g 。片足立。ロ)が探求さるべきである。 組織を計画編成し、管理制度を確立し、 かっそれらのものを実地に設置すること。 ω しかしてわれわれ この目的、目標に到達するための方途を選定すること。この場合、政策の決定はこの方途を明確ならしめる 明確に最高目的、 目標を決定すること。 を以てするならば、この経営者の行動の準則には次のごとき四つのものがあげられうる。 きではなく、 能 、 活 動 、 行 為 で あ り 、 従 っ て そ こ で は 原 理 と か 法 則 な ど と 云 う が ご と き も の が 、 それ自体としてさがし求めらるべ る 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 ω ω k r aロ岡山口町昨日立。ロSNHhMlω) 山 門ω E = "国ロ丘ロ2 ( 岡 、 . ハ UW富 よ り 経 営 管 理 的 な 性 格 の も の へ 発 展 せ し め た 最 初 の 功 績 者 の 一 人 で あ る と 云 う 学 史 的 な 意 味 に お い て は 、 まことに重 分析上の不徹底、素朴さを否定することはできないが、科学的管理以後のアメリカ経営学を、工場管理的性格のもの いまマーシャルのこの主張は、今日の発達せるアメリカの経営学の段階よりふりかえってみるならば、いまだなお せしめていくのは職長の任務とするところである﹂と 画編成、管理制度の確立は、総支配人、部長の関係するところであり、組織を実際に動かして、経営執行活動を進捗 右の中最高目的、目標の決定と方途、 政 策 の 選 定 は 、 株 主 、 取 締 役 、 社 長 な ど の 担 当 す る と こ ろ で あ り 、 組 織 の 計 ! ¥ ) ( ロ ) げ) 与) ( 経営と経済 要な意義を有するものと云わねばならないであろう。 一休この全体的な経営管 すでに意識さ ﹂の点をさらに理論的に明確にしたの いまこのことは前述のマーシャルにおいても しかるに全体的な経営管理が問題にされるとき、そこに当然提起されざるをえないのは、 υ 行為であるとされているのであるが、 理の中心的な主体は何人であるかと云う問題である 経営管理は経営者の機能、 活動、 四 一休いかなる性格と理念を有するものであろうか。 ﹂の点に関しジョージズは云 ﹁専門経営者は資本所有の故にではなく、経営管理の手腕、力量、知識、経験の故にこそ経営者の地位に就いた は、資本牧益をいかに増大するかと一広うことではなく、それ以前に純粋なる経営管理をいかに科学的に合理化するか れらの利益を調整していく枢軸的な性格を有するものである。かかる性格において彼が最も関心を持っところのもの ものであり、それだけに資本の利益のみに執着せず、同時に労働者の利益、社会公共の利治をも併せて、自主的にこ λノ。 しからばかかる専門経営者は、 位を後退せしめ、経営管理の機能を、 ますます資本の所有者にあらざる専門経営者の手に移しつつあるからである。 業経営の最高支問者は、いわゆる所有経営者(企業者)であるが、アメリカ産業経営の発達は次第に所有経営者の地 の四つに区分し、 現 代 は 正 に こ の 最 後 の 専 門 的 経 営 者 時 代 な り と し た 。 け だ し 資 本 主 義 木 来 の 原 則 よ り す れ ば 、 産 専門的経営者時代 産業将帥的経営者時代 発明家的経営者時代 開拓者的経営者時代 なる書物を著わし、産業経営方法の進歩発展と云う見地から、過去におけるアメリカ産業経営の発展段階を は 、 E ・D ・ジョージズであろう。彼は一九二五年に﹁産業経営論﹂(吋宮﹀品目宮町同gz。ロえ宮内山口えユ巴開ロ仲買宮町。) れ ロ ) L イ ) ヤ 市 ( 同 と云うことそのこと 0mgg え RC に興味を持ち、かつ 換言すれば科学化された管理技術そのものの美しさ(巴 職業的な誇りを感ずるものである。けだし彼にあってはかかる科学化された管理技術を、手段方法としてのみ初めて 資本の利益、 労 働 の 利 益 、 社 会 公 共 の 利 益 を 同 時 に 満 足 せ し め る こ と が で き る も の と 考 え て お り 、 ま た か か る 科 学 的 υ ω( ハE ZH) 開・ロ・向。ロgLEPU 専門経営者の持っかかる方法や理念は、従来の伝統や姑息に捉われたアメリカ産業経営においては、かつてみ な 方 法 を 通 じ て 広 い 意 味 に お け る ソ 1 シアル・サIヴイスを実現していくことが常に彼等の理念とされてーいるからで ある ざるところであり、正に経営管理上における新理念と新万法と称すべきものである﹂と かくてジヨ 1ズ な ど に よ っ て 逸 早 く 近 代 経 営 の 管 理 主 体 と し て の 専 門 経 営 者 の 性 格 が 明 確 に さ れ た の で あ る が 、 こ のことはとりも直さずアメリカ経営学が、かかる専門経営者の観点よりする全体的経営管理研究の方向に一歩進んだ ことを意味するものであり、後述するごとくやがて経営者経営学としてのアメリカ経営学の特質をなしていったもの である。 アメリカ経営学は経営者的観点よりする全体管理論として発展したとしても、いま しかるにその後アメリカ産業経営はさらに大規模、複雑、高度的に発展し、 全体管理として幾多の新しい問題を提 起した。すなわちまず第一には、 やこの経営者と云うのは、単独の個人ではなく、きわめて多数の人々が縦と横との介業において機能的に担当するに あらざれば到底全体的経営管理は充分にこれを遂行することができなくなった。換言するならば近代的な大規模経営 これら多数の経営管理関係者の機能、 権限、 責任をいかに規定する においては、経営者とは今や単独の個人ではなく﹁経営者集団﹂がこれにとって啓ることとなった。従ってかかる実 態においては経営管理目的を完遂するために、 か、作業労働者の組織ではなく、 経 営 管 理 者 そ の も の の 組 織 が 全 体 管 理 上 問 題 と な ら ざ る を え な い 。 一 五 第二にこれをダイナミックな観点よりするならば、 経営管理とは、所詮管理活動、管理行為であり、 大規模経営に 科学的管理法以後のアメリカ経色学の発展 経営と経治 一六 おいては、この管理行為の具体的内容が、 全体的な経営意志や目的の決定、組織の編成、 政策の決定、計画の樹立、 命令、 調整、 成 果 の 判 定 評 価 な ど 種 々 な る 部 分 、 行 為 に 分 化 し て い く 傾 向 に あ る 。 従 っ て こ れ ら 一 つ 一 つ の 部 介 行 為 をそれぞれにおいていかに実施し、また全体としていかに実行していくか、その遂行過程の研先が当然問題とならざ るをえない。 勿論この二つは相互に官接に関連している問題であって、経営管理組織は結局ダイナミックな経営管理活動、行為 を支えているスグチックな基礎構造であり、かかる構造あるがゆえに経営管理活動はその持続的秩序的な遂行が確保 されてくるものと云えるであろう。 ま た 乙 れ を 逆 に み る な ら ば 管 理 活 動 管 理 行 為 は 秩 序 的 な 機 能 と 権 限 と 責 任 に お い て行われるのであり、 か か る 機 能 、 権 限 、 責 任 を 前 提 と せ ず し て は 管 理 組 織 も そ の 意 味 を な し え な い と 云 わ ね ば な ら ピ 1 グ セ Vお 円mg-sz。 ωm2HHOE]Sm︼﹀であろう。 (回ロ丘ロomω 。 ロ ωロ品宮g ω しかしていまこの諸要素と (ppgmOB86 と執行(。35Z。ロ)の三つである。 しかるに他面からみると、 企 業 経 営 は 一 般 に 多 数 の 人 々 の 集 り と 活 動 、 行 為 と か ら な っ て い る も の と み る こ と が で して共通にあげられうるものは、所有(。君。gE巴 と 管 理 り、かっこの結合にあたって働く諸要素についても、また共通するところのものがある しかし土地、労働、資本を結合して財貨、用役ないしは利益を獲得することを目的としている点においては同一であ 章において彼等は次のごとく論じている。﹁経営はそれが遂行する業務の種類によってそれぞれ異るものであるが、 両氏の研究内容については、すでに古川栄一博士によって逸早く紹介されてきたところであるが、この共著の第一 よびプロ l マシ両氏の﹁経営組織および管理論﹂ えつつあるのであるが、 い ま か か る 問 題 領 域 に 対 し て 最 も 明 快 な る 理 論 的 分 析 を 試 み て い る も の こ そ 、 かくて現代アメリカ経営は、 以上のごとき諸問題を中心として、 ま す ま す 全 体 的 、 綜 合 的 な 経 営 管 理 学 の 休 系 を 整 ぬ きるから、この観点を前記三要素にあてはめて考えてみると、 企業経営は株主、取締役、最高経営者、部長、課長、 係長、 主任、監督、職長、 労 働 者 と 云 う 人 々 の 集 り が あ り 、 こ れ ら の も の が そ れ ぞ れ に 応 じ て 、 出 資 、 管 理 、 執 行 の ( o u o s z s ここに述営的管理の領域主は、機能活動的には、経営最高の意志、目的、組織、政 一つは巡営的管理(﹀含ユ巳 ω可巳20 宮ωgmOBOE) の領域であり、二つは実行的管理 活動を遂行しているのであるじしかしていまこれを経営管理の領域のみについて考察するならば、この領域はさらに 二つに分れうる。 宮内富山高OBOロ件)の領械である。 策、計画を決定し、 か っ こ れ を 命 令 す る 領 域 で あ り 、 組 織 的 に は 株 主 、 総 会 、 取 締 役 会 、 最 高 経 営 者 か ら 構 成 せ ら れ ているじまた実行的管理の領域とは、辺営的管理からの命令をうけて、これが業務的な執行を管理し、その結果を上 ο 部に報告していくことを機能活動としている領域であり、組織的には部長、課長、係長、主任、監督、職長などから 構成せられている 勿論全体的な管理領域にこの明確な区劃線を引くことは困難であり、経営管理者たる以上すべてめ人々は何等かの 意味において、経営政策や経営計画の決定に参加しており、時としては経営管理者にあらざる労働者さえもが執行的 管理と同様、 経営政策の決定にまで何等かの影響力をあたえることがある。 しかしながらきわめて概括的な意味にお いてこの二つの領域を分つことは意義あることであり全休的な経営管理の領域を考察するに当って、 まず必要なる概 念である﹂と。 かくてピ 1 グセ γおよびプロ l マ Vは 、 命 令 と 服 従 を 以 て 貫 く 経 営 管 理 の 基 本 的 原 理 と し て 権 限 、 責 任 、 報 告 義 務 の三原理に言及し、 さらに﹁組織の階層理論﹂を展開したる後、 スタチックな組織とグイナミツク機能活動と云う 重観点から、 経営管理者層の分析を行い、それぞれの機能活動と権限、責任を詳細に検討している。 次にピ 1 グセシおよびプロ 1 マシの理論的な研究に対し、最高経営者層の領域のみを、きわめて実証的な見地より 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 七 経営と経済 (図。Eop 同 ヨωFωBXV¥吋何回℃・岩ωg問。g g 110おきぽ何回昨日。ロ gang片岡。︼ H U S ) をあげねばならな 考察し、 アメリカ経営学の全体的管理研究に多大の貢献をなしたものとして、われわれはホ 1 ルヂシの﹁最高経営者 層の組織と統制﹂ いであろう。この研究は、すでにして一九四一年、 スグジフォード大学においてホ 1 ルヂyが中心となり、 アメリカ の大会社三十一社につき、 そ の 最 高 経 管 層 の 実 態 を 実 在 的 に 榊 究 し た も の で あ る 。 そ の 副 題 の 示 す ご と く 、 こ の 研 究 も、最高経営層を、 そのスタチックな組織面からと、 ダイナミックな統制面とから分析しているものであるが、 oロ﹀ 総括経営層(のSOB-zgωmOBOE2 ﹀岳民旦丘BtSFEz 。 た一般に経営財産の保護とその効果的な運営にあたる。この分野は取締役会の専ら担当するところである。 株主の利溢を代表、保護、促進し、 企業経営の基木政策および進路を決定し、 経営の総合成果を評価し、 ま 受託層(司同g z o ω ﹃苦P ロの昨日。ロ﹀ 本層を次のごとく明かにしている。 本書で云う最高経営者とは、取締会、総括経営者、,部門経骨者の三つを一云うと規定して、この組織における三つの基 ま 取締役会の定めた基本政策、および取締役会の委譲した権限の範囲内において、企業経営全体を計画化し、 ・0M25言。) 最高経営責任者(わEえ 守 レ 凶岡山口問 σgE え 丘R22ろ が こ れ を 社長および部門経営責任者、 g M 業務執行取締会(冨 件Zら 吊 八 命令し、調整し、統制する。換言すればこの層は目標、業務政策、および成果を確定するものである。この 広汎な調整機能は、 勤総括経営責任者(のgos--R25守 め ) 担当する。 ( ロ ) 経営の重要部門の管理を含み、総括経営者に対して責任を負う。この層は正しく云えば経営全体ではなく、 部門経営層(ロ名ω2Egg- 冨gmmOBg件 司52Eロ) L ニ ) 第一層 第二層 第三層 L イ ) 常に次の諸要素を必ず含んでいるものであ オ ミ 特定部門の業務に従事している最高の責任者である。 最高経営層そのものに関する基本的な組織構成は以上のごとく三つであるが、 なおこれに関聯するものとして、 ールヂシは業務部門、 スグック部門の組織ならびに委員会制度にも言及している。 しからば次にホ 1 ルヂシは最高経営層のダイナミックな側面すなわち統制と云う問題をいかに分析しているか。こ またその取扱う主題がいかなるものであろうと、 ﹁統制の基本過程﹂において彼は次のごとく述べている。統制は経営の基本過程であり、統制がいかなる こで彼が云う統制とは最も広義に解釈せられ、 経営管理と云うことと同義に用いられているのであるが、本書の第三 部第一章、 型のものであろうと、 統制の目標 計画:::何時、 いかにしてやるのか 統制の手続 (a) 椋準:::よい業績とは何を目安にして云うのか (b﹀組織:::誰が責任をとるか (c) 結果の評価 科学的管理法以後のアメリカ紅白学の発辰 九 の手続の準備は、 さらにつ一段階に分たれる。第一は決定せられた目標をより詳細具体的ならしめるためにそれを計画 税 制 の 第 二 の 過 私 は か く し て 決 定 せ ら れ た 目 標 を 実 現 す る た め の 手 続 を 注 煮 深 ︿ 準 備 す る ζとであろ。しかしてこ たる目標を決定し明確にすることである。この目標は経営政策によって表現せられるとき、 より具体的になりうる。 す な わ ち 統 制 の 出 発 点 と な る べ き ま ず 第 一 の 過 程 は 、 こ の 統 制 は 一 体 何 を 統 制 せ ん と す る も の で あ る か 、 その対象 る 。 ( 二 ) { ー ) ( 主 ) 経営と経済 二O 化すること。第二はかかる目標を実現するためには、組織の変更を必要とするであろうし、統制機関として活動する J スタッフのグループあるいは委員会の増設など組織の準備をし、誰が責任を持っかについて明確にしておかなければ ならない。第三は標準の設定である。すなわち好ましい業績とは何を目安として云うのか、その本質を判定の方法を 示すことである。統制の基本過程の第三、最終過程はその統制が予期通りに作用し、期待通りの成果をもたらしたか どうかを判定し確めることである。・::::成果を追求し、 必要な場合には修正と改善とを行うことに工って、監督の 効果はより一層大となる。 これを要するにホ l ルデyの統制の基本過程とは実施に先立って目標を確立し、その実現のための有効な手続を準 備し、 実 施 の 結 果 に つ い て 判 定 評 価 を 行 う こ と を 意 味 す る も の で あ る が 、 最 高 経 営 層 の ダ イ ナ ミ ッ ク な 活 動 と し て か (同・﹀・の O円品。 P ゴ lvyの﹁大会社 戸市 h P] w品 切 一 ) 口o 回 口ω山 mωFOω 品。同ω宮山円︼山口昨日H m w F ω円 mon。円句。ロw片山。 トップ・マ、不 lジメシトの実証的研究において、 ホールヂシと並んでその双墜をなすものは、 かる過程をあげていることは、やがて全体的な経営管理の綜合過程を指摘しているものとみることができるであろ h 。 つ におけるピジ、不ス・リーダーシップ﹂ あると云えるであろう。 ゴ 1ドシにおいてはピシ、不ス・リーダーシップとは、 経 営 を 組 織 し 、 指 導 し 、 調 整 し 、 経 営 諸活動の進路を規定する機能であり、それは経営管理機能と同一義に解釈されているのであるが、今日の大会社にお いては、かかる機能は決して単一の経営者によって独自的に果されているのではなく、きわめて複雑なる経営情況の 下に、多数者によって分担して遂行されていると云うことを数百にわたるアメリカ大会社の実態について実証せんと したのがこの研究である。 すなわちこの研究において、彼はまず、今日アメリカの大会社においては、資本の所有者がいかなる意味で、 また で いかなる方法においてピジ、ネス・リーダーシップを掌握し、 ま た 所 有 と 経 営 の 分 離 の 進 展 に よ っ て 所 有 者 に あ ら ざ る 専門的経営者がいかにピジ、ネス・リーダーシップをとるに至っているかを実証したる後、第三章﹁ピジ、不ス・リー ﹁比較的小規模な伺人企業にあっては、 明らかにその所有者がポジチずな指導者である。 し か る に わ れ わ れ が そ ダーシップの実際﹂において﹁大会社における権限と意志決定の分散﹂と云う重要な節を設けて次のごとく論じてい る 。 の一般概念を、近代的な大会にあてはめて考えるとき、われわれは重大なる混乱に遭遇し、 明 確 に み え た 概 念 が 暖 昧 とならざるをえない。今日の大会社においては、 リ ー ダ ー シ ッ プ の 権 限 と 責 任 と は 種 々 な る 人 に 、 垂 直 的 あ る い は 水 株 主 彼等は名目的には取締役選任について責任を負うているが、 しかし実際には取締役の選任にも、 の他経営上の重大な決定にも、何等影響力を持たない場合がある。 完全に受動的な場合、 経営控当者の選任はするが、他の点については何等決定を行わず、 かつ何等 の実質的拒否権を発動しない場合、 ないしは重大なる決定を行う場合には、 規 則 的 に 経 営 者 と 分 担 して行うことがしばしばある。 彼等はより重要な諸決定の形成、部下の選任、適切なる組織の創造および維持について、音 彼等は高級経営担当者によって決定せられた広汎な政策を管理し、 しかしてかかる管理の一 科学的管理法以後のアメリカ経包学の発展 されている。 かくしてピダ、ネス・リーダーシップの機能は、 わ れ わ れ が 委 任 と 呼 ぶ と こ ろ の 垂 直 的 分 化 の 過 程 を 通 じ て 広 く 分 割 部分として最高経営者より委任された、 より狭い範囲の決定を行う。 下紋経営祖当者 任を負う。 高絞経営担当者 取締役会 そ 平的分化を通じて分散されているからである。 ま ず こ れ を 垂 直 的 な 分 化 、 分 散 に つ い て 考 察 す る な ら ば { ー ) ( 二 ) ( 三 ) ( 四 ) 経首と経済 しかるにこの分化の過程は、さらに水平的分化がこれに加わることによって、 一一層複雑となる。同一段階の権限に おいては、意志決定が、集団的資格にせよ、個人的資格にせよ、二人以上の人間によって分担せられる場合がある。 たとえば取締役会において、いかなる決定が行われる場合でも、それは取締役全体として行わないで、二人以上の人 々によって行われるとみていい。さらにたといある経営担当者が、形式的には最高業務担当者であっても、主たる政 策ば彼とその会社において傑出じた他の一、二の経営担当者によって協力的に担当せられる場合がある。同様にして Vペルにおいて政策決定が 現在多くの大会社における経営政策は、単なる個人によって決定されるのではなく、 む し ろ 多 人 数 を 以 て 組 撤 し だ 委 員会によって決定されることが多い。なお以上のごとき水平的分化は、ある所与の権限の 専門化せられる場合にも起るであろ、っ。かくて社長自らが、重要な業務上の決定を行うこともあろうし、取締役会の 委員会が、主要なる財務上の決定を統括することもある。取締役会が財務上の決定を生産ないし販帯上の決定上りも 重大視することはあるにしても、 いずれか一方を他方の従属物として考えることはできない。さらに上り低い権限の リーダーシップの権限と責任とは水平的、垂直的に各種に分化、分散 レペルに生産からパブリック・リレ 1 ショジズ担当の副社長がいる場合さえある。 以上のごとく今日大会社の実状においては しきわめて複雑なる様相を示しているのであるが、さらにこの事情を一層複雑ならしめるものとして、ゴ 1ドシは、 金融先、仕入先、得意先、労働組合、政府官庁など、経営外部のいわゆる﹁利害者集団﹂をあげている。法律上の形 式はともあれ、これらの利害者集団は、何等かの意味においてピジ、ネス・リーダーシップに支配を及ぼしてくるから である。 かくてゴ 1ドシは法律や定款に定められた形式上の権限よりも、実質上の権限を貫視し、これをポジチヴ、 リーグ ーシップと呼んで、今日の大会社においては、このポジチヴ、 リ ー ダ ー シ ッ プ は 形 式 的 な 法 律 上 の 座 に あ る よ り も 事実上経営業務、経営管理の日常を担当している者に次第に移行しつつあることを主張している。 彼の考察は、 全 体 管 理 と し て の ア メ リ カ 経 営 学 の 発 展 に 深 く 根 ざ し な が ら 、 そ の 中 枢 を な す ト ッ プ ・ ア ネ 1ジメシ トが時代の進展とともにいかに発展していくか、 そ の 先 端 に 重 点 を お く こ と に よ っ て 今 後 の 進 展 を 暗 示 す る も の で あ り、かかる意味においては最も興味ある研究であると云えるであろう。 五 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展を考察するに当って、最後に指摘しなければならないのは、最近におけ 独乙経営経済学の誕生のごとく、 象牙の塔の中にある大学教授によって論理的 t二回回作品目 q J ふ﹄'同司' るアメリカ経営学が理論的にその深さを増してきたと云うことである。衆知のごとくアメリカ経営学の出発点をなし た科学的管理法の研究は、 に、その方法論から吟味して初められたものではなかった。それは工場管理の実践的担当者たる技師たちによって、 彼等が日々当面する個々の現実的、 具 体 的 諸 問 題 の 解 決 策 と し て 併 究 せ ら れ た の で あ っ た 。 爾 来 学 問 に 対 す る ア メ リ カの国民性も加わってアメリカ経営学は、きわめて実践的な管理の科学、科学化された管理技術学として発展してき たのである。 しかるに最近におけるアメリカ経営学の文献をみると、伝統的な実践科学、管理技術学の域を脱して、理論的に深 くその基礎づけを探求しようとする研究が次第に増加しつつあることを、みのがすことはできない。たとえばヂイヴ ﹁哲学とは現象を解明し、それに関連する諸問題を合理的に解決するための概念や原理の論理的 イスは一九五一年公刊の﹁吋宮町ロロ含ggSFえ叶毛・宮ωSmOBOE﹂ の 中 に 、 経 営 哲 学 の 重 要 性 を 指 摘 し て 次 の ご とく言明している。 な 関 連 を 基 礎 づ け て い る 思 考 の 体 系 で あ る 。 かくて経営哲学とは、基本的な経営諸問題を解明し、 そ の 賢 明 な る 解 決 科学的管理法以後のアメリカ経営学の発展 経営と経済 λ ラ 二四 1 の ﹁制度的経営学﹂ にも伺えるところで Ml 斗 ﹀ ( 志 向ι・℃A に基礎を与える思考の体系と云うことができる。しこうして経営哲学とは明かにピジ、ネスの哲学であるから、科学的 すでにウイッ 管理法はその基礎づけに、経営哲学を持たなければならない。﹂と。 かくのごとき思想はひとりヂイヴイスのみならず、 ・回ω 口百円門戸、 HHHO司ロロの立。ロ ω。同己回。 (ハU 同 z g SHZmw 回ゆ﹃目当日。ア]匂mm) に最も (出・﹀・巴目。P ﹀品目 あり、 やがてそれとの関、連において発展したパ 1 ナムの﹁経営者の諸機能﹂ 205ω ∞)やその高弟サイモ yズの﹁経営活動論﹂ 門誌のE 一つは﹁組織学﹂として人 顕著に伺い知ることができるであろう。守バーナードやサイモシズの研究が直ちに以て﹁産業経管学﹂,の内容たりうる か否かについては、 なお多くの議論の存するところであろう。 しかしこれらの諸研究が、 ﹁活動論﹂としてヂシジヲシ、 メ イ キ シ グ の 問 題 を 理 論 的 に 深 く 分 析 し そ の 客 観 的 な 基 礎 づ け を 与 え て い る と 間協同の体系まで深く掘り下げ、豊かな哲学的基礎より組織一校の構成と持続とを分析し、他はグイナミヅクな﹁行 為論﹂ 云う意味において、 正に伝統的なアメリカ経営学へ深い理論的な新風を吹き込むものであり、 や が て ア メ リ カ 経 営 学 今後の発展に一つの方向づけを与えいくものとみることができるであろう。