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離島の後進性と日本資本主義 -対馬島・五島列島の実態調査を中心として-

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離島の後進性と日本資本主義 -対馬島・五島列島の実態調査を中心として-
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
離島の後進性と日本資本主義 -対馬島・五島列島の実態調査を中心
として-
Author(s)
河地, 貫一
Citation
経営と経済, 40(4), pp.69-100; 1961
Issue Date
1961-01-30
URL
http://hdl.handle.net/10069/27597
Right
This document is downloaded at: 2017-03-30T14:56:36Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
目 次
河
地
−対馬島・五島列島の実態調査を中心として−
離島の後進性と日本資本主義
はしがき
1 離島の隔離性
2 雄鳥社会の孤立的関係
3 離島の後進性
4 日本資本主義と離島
は し が き
じがに
貫
一
﹁離島﹂という用語は、特に第2次的な関係で、地方 ︵或は本土︶ に結びついている島について用いることがあ
六九
る。例えば、五島列島の福江島の西方にある嵯峨ノ島が、福江島との従属関係が第一次的であるから、九州本島に対
離島の後進性と日本資本主義
経営と経済
して、嵯峨ノ島は離島であると考えるのである。
一般には﹁島﹂と﹁離島﹂とは殆んど同意義に用いられている。乙﹀でも、 乙の立場を取っているから、
尚乙の報告は、昭和三四、三五両年度の文部省科学研究費による実態調査の結果の一部をまとめたものである。長
乙のテ l マも、単に﹁島の後進性と日本資本主義﹂としてもよいわけである。
しかし、
O
七
隔離性
崎県の五島列島と対馬島とが主な調査の対象であった。調査に当って御援助下さった関係各位に深い謝意を表する。
離島
の
る
。
じ色にほん
2
建築の充填した長崎の炭鉱島等があり、島興の普遍的性格を、最大公約数的に表現する乙とは極めて困難のようであ
内の一部の島の如くに、商業農業の島あり、近代工業の発達した広島県の因ノ島や、軍鑑島とよばれるような、近代
た、五島列島のように進んだ島に対して、対馬のようにおくれた島もある。極端な自給農を営む対馬に対して、瀬戸
の高い島がある。また佐渡の島のように統一的な平野をもった島や、海岸の小浦しか低地をもたないものもある。ま
日本の島だけでも、二千数百に及び、そこには、面積の大小に多くの差があり、無人島から壱岐のように人口密度
1
しかし一応、島の自然的性格として、 次の3点をあげることが出来ると思う。
(た
土也で
方あ
面積が相対的に狭小であること。
水圏によって、主島または大陸 (これは島の社会から﹁地万﹂または﹁本土﹂とよばれている) から分離し、
或陸
は地
)る
よ、乙
り、と
日本の島の地形的な特色として、 貌志の倭人伝があげている﹁倭人在帯万東南大海之中依山崎為国﹂ の﹁山島
隔
本、絶
土、し
1
)
(
3
) (
2
)
﹂をあげることが出来る。
QU
﹁山島﹂という言葉は、環太平洋造山帯の洗降地塁である日本列島の地形的特色を一
(対馬の自然と文化 3
1頁)
による。
言にして見事に表現している。長崎県に属する五島列島にして
も、対馬島にしても、この山島的なものの例外で
白
。
佐 藤 久:対馬の地形
間島の後進性と日本資本主義
七
のも存在する。これらの火山島は、耕地皮も高く(第一表)、 乙、でいう山島的概念に入らない。
らみれば大平野である。或は対応には全くみられないが、壱岐や五島列島の火山島のように統一的な大低地をもつも
“
ヮ孤立した小さな浦か
しかし平野の大小といっても相対的なもので、関東平野も小低地であり、福江島の山内盆地は
地に人家が密集して、耕地皮が低く﹁耕して天に至る﹂耕作景は、まさに山島的島興のシンボ川である。
本の主島にも五島、対馬の場合にも同様である。このために、人口の調密な日本列島にあって、海岸に点存する小低
離島は溺れ谷の多い山島的地形によって、各小さな浦が孤立して点在し、統一的な大平野をもたない。これは、日
はない。
対馬の低地
第 1図
経営と経済
島
島
1
1
9
1
7
4%
4
五島列島
肢
島
島
ヨ
覧
要
勢
村
町
市
県
崎
長
一般的に
同一の交通機関で相互の陸地を結ぶことが出来ないことを意味する
えば、航空機を除くと、船によって本土と結ばれなければならず、
本土から水圏によって隔離されているということは、人文的にい
から考えられている。
により後進的であることを意味しているから、 やはり本土との関係
充分考究されなければならないが)、 これも本土と比較して相対的
考えられているように、 その人文的性格と仮定するならば(との点
の関係から考えられている。もし、離島の﹁後進性﹂が、
ら隔離しているという点である。そして離島の性格は、常に本土と
結局、離島の自然的な基本的性格は、水圏にかこまれて、本土か
の大小無数の島々を考えた場合極めてあいまいな概念である。
されるところである。更に面積の相対的狭小性といっても、地球上
は限らない。インドネシアの諸島やハワイ群島などを考えれば了解
島的地位にある陸地)が、必ずしも常に相対的に大面積を占めると
第2 の本土より相対的に面積が小さい点であるが、本土(或は主
七
小きざみ輸送が出来ない。そして、本土と離島とを結ぷ航路の数と量を決定するのは、主として離島の経済的ポリウ
とが、経済的に極めて不利になってくるわけである。島外へは、本土におけるように小型の輸送機関で行うような、
ものである。従って、離島では、人あるいは物資(特に物資)が、ある程度の数量に達しないと、島外へ輸送するこ
~
熔達一福宮古宇一肌勝芦石一何
岩シ一江江操誼久一唱本辺国一関
U一 ノ 一 年
前一わ一市町町町町一町町町村一ぉ
新魚目町
有川町
発品一度
奈尚町
上五島町
8%
1
3
1
5
奈良尾町
岐宿町
8%
山
県
玉ノ浦町
的
山
4% 上 県 町
3 上対馬町
6
4
41% 文
す 厳原町
美津島町
3
1
馬
豊玉村
4
0
峰 村
4
3
でゴ"'
五島列島、壱岐島、対馬島の耕地度
第 1表
(観光資源をもふくめて)である。離島の経済的ポリウムは、必ずしも島の面積の大小によるものではないむ他の
路島の後進性と日本資本主義
U
七
求めたこと、それを可能ならしめたのは、島内の具った地域の社会相互の、或は異った島と島との孤立的な関係なの
しかし、 これらキリシタンの移民が禁教下にあって、 よくその信仰を維持したのは、自ら他の社会との孤立状態を
の孤立性を結論するのはむしろ逆である。
円
i
めた。キリシタン信徒の移住もその一つなのである。従って、禁教時代にあってこれら信徒の多い分布をもって離島
である。極めて開放的であった五島の社会は後にもふれるが、近世に入ってからも、漁業者や、農民を多数移住せし
ロU
外来者に対して極めて閉鎖的性格の強かった対馬には、一人の信徒の移住もなかったことからでも了解されるところ
只
の分布がみられる(第二図)。五島列島に特に多いのは、彼等を受け入れる社会的条件が提供されたからである。
信徒が、必らずしも五島列島や生月、平戸などの離島にのみ多く分布しているのではなく、西彼杵半島などにも、そ
か﹀る傾向もまた相対的なものであって、本土の山村にも、隠田集落は多く、また禁教時代から長崎のキリシタン
都合な自然条件を提供する。
うな離島にあって、自ら求めて孤立社会を形成しようとする場合には、本土における交通の不利な山村よりも一層好
本土から水圏によって隔離されているということが、必らずしも離島の孤立性を意味するものではないが、そのよ
本土の交通不利な山村よりも一回孤立的性格を強くする。
を強くすることは否定出来ない。経済的ボリウムの小さい孤島は、その故に、本土から﹁忘れられた小島﹂として、
従って本土との聞に介在する水圏が大きいほど、また経済的ボリウムが小さい離島ほど、本土に対して孤立的傾向
自然的な危険性にのみよるものではない。
A唖
決定要因に、介在する水圏の大小がある。博多から対馬への定期航路がしばしば欠航するのは、必ずしもこの航路の
ム
組 犯 人j 組 組
色
b
平田
第二図
a
長崎県におけるカトリック信徒の分布
大浦天主堂資料 1
9
6
0年による。従って所属教会に工る分布を示している口
またとの分布は、 H かくれキリシタン H をふくまなし、。田北耕也の「昭和時代の潜伏キリシタン」によると、現
4,
0
0
0人、西彼杵に約4,
0
0
0入、五島には約 1
0,
0
0
0人のかくれキリシタンの分布をみると述ベ℃
在生月、平戸に約 1
いる O カトリツグ社会の孤立性と固定性を考えると、乙の分布は明治初期と大差ないと思われる Q
一見極めて自明のこ
である。従って問題は、島における社会相互間の孤立性なのであって、離島そのものの孤立性の問題ではない。
筆者がこ﹀で、離島の﹁完全環水性﹂或は﹁本土よりの隠離性﹂という自然的性格に関して、
とを強調した理由は、本土からの隔離的位置←孤立性←後進性といった直線的理論構造を立て、離島の人文的性格と
して後進性を結論づける誤りが、あまりにもしばしば行われているからである。
離島は多くの場合たしかにおくれている。しかしそれを、離島の隔離的位置から説明しようとするのは、東南アヅ
アの後進性を、 そ れ ら の 国 々 の う け て き た 植 民 地 支 配 の 結 果 で あ る こ と を 無 視 し て 、 そ の 風 土 と 相 対 的 人 口 過 剰 か ら
宿命論的に説明しようとする誤りと挨を一にするものである。
更に、島の後進性を、島内交通の未発達に帰するに至っては、 こ れ は 逆 立 ち し た 説 明 で あ る 。 交 通 の 未 開 発 は 、 島
の後進性の基本的な内容であって、 そ の 要 因 で な い こ と は も ち ろ ん で あ る 。
次に、島内における社会相互の関係、或は島と島相互における社会の関係について論及しなければならない。
註 川 山階芳正、五島の人文地理こ九五二) l五島列島l九十九島1平戸島学術調査書iに、離島の環境特性として、 ﹁完全環
水性﹂と﹁相対的狭小性﹂とをあげている。
五島列島は構造的にもと九州の京支那海に突出せる一大半島であったものが、沈降、断層、傾動の地盤運動によって、今日
の溺れ谷や瀬戸の多い、平坦地の少い山島的な島峨群となった。沈降運動と前後して、火山活動が盛んとなり、北の宇久、
小値賀その他の火山島や、南の福江島の三つの半島、嵯峨、黄、赤兵口島の侭平な玄武岩台地が形成された。また福江島では
岐宿熔岩流の噴出によって、旧山内の墨堰湖が形成されて、わが国の離島にはめずらしい山内盆地の水田地帯を成立せしめ
た。(佐藤久、五島列島の地形並に地質l五島列島1九十九島l平戸島学術調査書)
対馬島は、隆起と枕降をくりかえした地塁である。分水嶺が著るしく京に偏しているので、西側河川は長大で、谷底地も大
離島の後進性と日本資本主義
七
五
(
2
)
(
3
)
経蛍と経済
)D
埋
河川の曲流部
D
七六
を取っている口単に農具或は漁具のみでなく、家
財道具をも納占うている石井助教授撮影)
きい。しかし島全体が下刻状態にあり水害が頻発する(第三図
積谷は河口附近の三角州的小平野以外には殆んどない
においてさえ、側蝕平野にも乏しく、乙の大きい離島にあって、内陸
盆地は、花嗣岩の発達する内山盈地以外にない。
海岸は沈降に基づくリアス海岸玄武し、急崖、急斜面が海に迫り、
乙れを横断して大小の溺れ谷が入りこみ、砂浜の発達が貧弱である。
(佐藤久、対馬の地形│
岬湾の出入や起伏の大小等は、海岸につづく陸上の山地形と同様で、
地質、地盤運動、河の侵蝕によってきまる。
対馬の自然と文化(一九五三))
博多ーを岐l対馬の定期航路は、しばしば'欠航するが、これは玄海灘
や対馬海峡の自然的条件よりは、経蛍上の理由の方がむしろ大きいと
いわれている。
o
7
Jc害をさけて、対馬の納屋はすべてこの高床形式
(五島列島綜合学術調査報告書)によれば﹁大きくいえば、五島自体が隔絶し
対馬 の 納屋
離島社会の孤立的関係
いる。直接山が背後にせまって孤立し、小浦にある海浜の小部落は、時には相互の陸上の交通路をもたないほど交通
山島的な地形上の性格から、島には小さな浦が、海岸に点在し、これらの小浦が、島の重要な生活の舞台となって
2
た僻遠の地として逃避行の潜伏者の楽天地の現象を生じた﹂とするのは誤解である。
菱谷武平の﹁カソリツグ部落の伝統と現状﹂
同附対馬の封鎖性、豆島の開放性については、後にくわしく述べる
m
(
4
)
上の制約をうけている場合が多い。南対馬の西海岸や北対馬の東海
岸には、海上の小述絡船以外には、陸上の相互の交通手段をもたな
い。これでは五島列島の如く小さな島々に分裂しているのと変りが
ない。南対局の東海岸では旧軍事道路が比較的建設の容易である山
腹の中肢に閃かれ、各小浦に点在する部落は、 この道路に連絡する
ためには吋数十メートルの急傾斜を上下しなければならない。この
道路が南対応における唯一の南北縦断道路なのである(第四図)。
大村が、島と品、同一島内での部落相互の関係を﹁絶対的孤立﹂
とよんでいる吋たしかにこの傾向が強い。伊勢湾の入口にある答
志向の二つの部落、桃取と答志との相互の交渉はなく、島内の交通
路さ加え持たずに、別々に直接土本の鳥羽に結ぼれていた(昭和二十
;じげ位
六年、筆者の調査当時)。また山崎、きにもふれた五島におけるキリシ
一部の指導者層を除くと、住民の生活
山の中腹を走っている道路が南北縦貫道
路(旧軍用道路)である。乙の道以外に
厳原と豆酸とを結ぶ道路は全くない。
離島の後進性と日本資本主義
μ
'
の各島問の乗客は、福江、有川および奈良尾の三地点に集中する傾向
七
七
な関係を示すものではない。山階によると五
強い。長崎、佐世保からの五島航路の数百トンの船舶が、列品の各島を結ぶからといって、必らずしも島相互の密接
島と島との関係でも、嵯峨ノ島と福江島とのように、主島 l属品関係にある場合は別として、やはり孤立的関係が
圏は極くせまく、村境を超えるのは、牛の市等の特殊な場合に限られている。
こうした居付、地下の部落問ばかりでなく、 五島の各村落についてみても、
タン信徒の庇付部落と地下部落との孤立関係など、その例は多い。
南対馬の旧軍用路
4図
第
経営と経済
n
a
﹁請浦﹂制によって、
外来者の入漁を許したが、村方との交渉は許さなかった。かっ外来漁民の移住には極めて封鎖的であったから、今日
磯の専有権を認め、海藻魚介類の採取を許した。彼らの共同作業に支障のない限りにおいて、
ヴ
d
対馬藩の場合は、 公役人(百姓のこと) に対する公領地の﹁
地分ケ﹂には田畑はもちろん木庭がふくまれ、更に村
。
円
農業部落と漁業部落との地域的分化が進んでいる。
地万および浜方に分類したことや、古くから専業漁民の移住を多く受け入れて、比較的早く農漁分離の傾向を取り、
EU
落はすべて農業を行っている。溺れ谷の発達した岐宿の海岸集落も殆んど農業部落である。五島藩では、百姓を官、
自体農業島で、漁村の多いのは三井楽である。富江は、小島と黒瀬に漁家が八一必集中し(第2表)、他の海浜の部
ろ﹁海に背をむけた﹂農業部落が多い。福江島東方の小火山島黄島や黒島、三井楽沖の姫島は農業島である。福江島
4
島の生活は、 四面海にかこまれているが、必らずしも海の資源に依存する漁業生活を意味する'ものではなく、むし
も道路の未開発は、孤立関係の理由ではなく、孤立社会であることのために生じた結果と考えるべきである。
帰せしめる。交通上の自然的制約にたしかに一端の責があることを、敢えて否定するものではないが、 しかし少くと
きて、 こうした島相互、同一島内の社会相互の孤立的関係の理由を、 しばしば山島的地形からくる交通上の制的に
られた最初のものである。
法の成立は、たしかに劃期的なことであったといってよい。中央集権の強い日本に、離島の問題が、中央で取り上げ
そのために、離島の開発を要請する大きい力に成長し得なかった。この意味で、 たとえ時限法であっても、離島振興
こうした島相互、或は島内社会相互における孤立的関係が、離島の共通の利害に立つ統一的な連繋を弱めてきた。
対馬との関係の密接さを結論することは出来ない。
叶川馬航路が、博多 l壱岐 l対馬と結んでいることから、壱岐と
にあり、他の地域相互の人の交流は極めて稀である 0 4
G
J
¥
、
一
一
│Illi--lili--
がりつつくね
(註)本戸の農業以外の職業はすべて兼業である。
6
本
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明一名一島田石子瀬下山亀保一
岸寸│寸
範一部一黒太琴丸黒山坪崎女天一
河一落一一
3表
第
6
九
成している例に久田の白子部落、三根の大久保部落などがある。
離島の後進性と日本資本主義
七
は、すべて地域的に﹁棲み分け﹂ているが対馬の封鎖的な本戸制度によって排除された分家寄留と合して、部落を形
が六戸あった。これは分家寄留によって専業漁家の造成される過渡的な姿であろう(第三表)。移住寄留のみの部落
けば刊すべて藩政末期以降である oJ
敗原郊外の純農村久田の本部落をみると、本一戸の二、三男で漁業に従事するもの
叫
でも海岸の小浦に位置する集落は、多く農漁未分化のものが多いベ寄留の専業漁民は厳原の曲と豆敵浜、久根浜を除
第 2表
経営と経済
J
¥
、
商人、問屋資本の支配をうけている。本一戸総有であった漁場権は、漁協によって、大資本に、ぷり定置網経営などに
の漁業資本は育たなかったし、漁民の階層分化も殆んどなく、大資本の漁業基地もない。零細な漁業企業は、外部の
な底焼、喝さにも薪炭を購入しなければならない。対馬は外来資本に対して、極めて封鎖的であったために、大きい地場
対馬の漁業は、 いかの一本釣が中心であるから、土地をもたない寄留の専業漁家は、 いかの乾燥や、漁船の定期的
O
に貸与され、その借料に寄生するものが多い。漁協は、多く生産の組合というよりは、共有権の管理組合的な性格を
i
(竹内助教授の調査資料に工る)
もっている。このような漁業社会において地域を異にした社会相互の関係が、孤立的であることは当然であって、乙
の点五島列島の漁業社会と全く趣を異にするものである。
5図
第
奈良尾に集ます出稼者
0"
恒悶
,
E
日
畏
奈良尾には、多くの漁民
上五島は、日本における近代漁業の.一中心であり、列島内
相互の人の交流も多い (第四表)。
五島の婦女子の職場である
(第五
南五島では、玉ノ捕に近代資本の漁業基地があり、三
奈良尾の健詰業は、
の季節的出稼者の出身地が、上五島を中心にして全列島に及
図
)
。
1 1 山町旬~I 叫
8
3I 4
8
井楽の沖には、地場資本のぷり定置網が大きい。少くとも五
(竹内助教授調査資料)
島では漁業社会相互の孤立性を指摘する乙とは出来ない。島
の漁業社会は、少くとも大村のいうような、機能の重複によ
岐宿町
る﹁絶対的孤立性﹂ではなく、島の漁業の近代化いかんによ
一般的にいって、本土より一層自給的であ
るものと思われる。
離島の農業は、
る。上五島でも、対馬でもそうである。下五島の福江島は、
換金作物として甘藷を栽培しているが、高率の小作料を枚奪
した寄生地主の支配した社会では、農民は、商品作物の生産
者とはいえなかった。五島は、多くの農民の移住者を受入れ
上五島町
新魚目町
x1
2
411
21
1
5
612
9
3
14
4
211
0
3
9
91x 15
21
2
8
311
2
2
12
2
217
5
5
914 一 一 -11
211
2 3
有川町 1
91
4
911
61
- 1113i1
5
奈良尾町
41 4
4
5 一 一 一 一 312 一 一 一 × ー 3
お~I~I~I~ 初 l 日 114
言
十
たが、何れも自給農民で、 ことに甘藷の開拓に大きく貢献し
たキ日ノシタン移住者も例外ではない。
Y¥
封鎖性の強かった対馬は、農業移民を受け入れることは殆
離島の後進性と日本資本主義
i
l
I
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1
6
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一 一 611
611
8
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1
1
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012
116
5
1
3
9161x 12i71611
7
813
:1
1 1x I 51215
三井楽町 7
51812
211
71x 1311
7
奈首会町 2
0141-! 1 ー x 11
2
│ 若 松 町 5413414621 ×
富江町
玉ノ漉町
稼
島内出
リ
チ
4表
第
ぴ
経営と経済
んどなかったし、また分家に対しても、耕地の所有を認めなかったので、さきの久田部落の例の如く、明治に入って
y
に
からも、農業は本戸の独占的な産業であり、農業技術も進まなかった。木庭と零細な耕地に、自給用の多種類の作物
所定区域を焼き終ると、次の場所に移動し、住居をも
移す。乙 Lから木炭を自動草道路か、或は船のつきう
る海岸(必らずしも港であることを要しない)にまで
運搬するのは農民の駄馬である。
が栽培される生産性のひくいおくれた農業が営まれている。
漁業をもたない農家は林産物の薪と日雇稼ぎとが唯一の現
金政入源であり、本土の出張所的な中心地である厳原の市街
地に近く、近郊農業圏にあるはづの久田でさえ農家一人当り
の現金生活費は、家族一人当り 一、五0 0円 前 後 に す ぎ な
い。この外時折、薪炭林の売却が貴重な枚入源であるが、炭
焼、きは漂泊的な朝鮮人焼子の移住者によって、専的業に行わ
れ、農民の生産は殆んど行われない(第六図)。
このような前近代的な漁業社会や、自給的な農業社会では
漁業社会相互および農業社会相互、或は漁業社会と農業社会
一層孤立性を示す
問との関係は当然、極めて孤立的なのである。これが離島に
なると、交通上の自然的制約も加わって、
と居住家屋(右側)
はげしい禁教下にあって、自らの信仰を維持するために自給農を開いたのである。従って食糧ことに甘藷の栽培が可
性を求めた場合には、長くその社会の孤立性が維持出来ることになる。五島や平戸島に居付いたキリシタン移住者は
従って先住者よりおくれて移住し、交通その他の条件の不利な地域に居付いて、そこに自給農業を開き、自ら孤立
ことになる。
朝鮮人焼子のかま(左側)
6図
第
仇
山
首
能な地域ならば、他の悪条件を無視して移住した。
このように、自給社会相互の孤立的関係は、離島の場合、その交通上の制約から一層強まるが、離島に限らず本土
の自給的な農山村でも、当然みられる現象である。平家の落人達が開いたと伝えられる隠回集落が長く近村の社会と
﹁絶対的孤立性﹂ではなく、実は島社会の前近代的な自給性によ
孤立してきたことや、長崎県の西彼杵半島のキリシタンの分布は、そのことを示している。
かくして白相互、島内社会相互の孤立的関係は、
るものであり、離島では、交通上の自然的制約が、そのことを一層強くすることによるものであった。
こうした向社会の孤立的関係から、当然考えられる品の後進性の問題と、更には、そのような自給性、孤立性が、
大村車、島の地理二一入瓦)
何故に、長く離品社会に存続してきたかという問題とについて、更に考察が進めらるべきである。
1ム
としての本来の性格から、古い移住者である地下部落に対する卑目的名称への推移、変化についてキリシタンとの関係から述
安谷武平、ヵトリッグ部誌の伝統と信仰(五島列島綜合学術調査報告吉付、昭和三十四年)によると、居付部落の五島開拓者
岳災イツキとい
D
L、地下というも、隊密にいえば、目グソ、鼻グソを笑うの類である。
べ、イツキの名郡が固定化したのは、明治初年の﹁信仰の自由﹂が認められてからであって、移住の当初からのものでないと
している
山陪芳正、五島の人文地理(前掲)
D
二神弘、問品社会の経済桔造(地理学評論三二ノ三)によると、福江島東方の火山岳の赤島が漁業島であるのに対して、責島
が山氏誌を主にした品であることを述べている。
D
沢方百姓はぬ誌を主とし、地方百姓は良誌を、そして屯百姓は、製盟、山林に主として従諒した。
一昨政則には、対日山では山林という呼称はなく、すべて木隆とよばれていた
木一回は冗文検地以佐、一日同入れされて、上々木庭、上木医、中木庭、下木庭の四位一マ紋に分けられ、一民租の対象となっている
M品の佐進性と日本資本主義
Y¥
(
2
)
3
)
(
4
) (
(
6
) (
5
)
経告と経済
上々木庭は上々回の一間面積一町、蒔種料一石に対して、十三町三反三畝十歩、十石である。下木庭は三三町三反三畝十歩、
主十石である。
~I
ぬし
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門の
漁<b
にむ
家増
カ
ミ 力
日
附し
加て
さし、
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D
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計
主
義
4
6・
5
8・
6
長
│良牧その他
その他
3
1
2
4
5
.
0
本
その他磁漁
網漁
I
o
居舟志某家、牧入表
古島敏雄によると、木庭が内地で百姓持高に入れられたのは江戸時代中期(延享、究廷の噴)としている。従って対馬の場
の
で
合、かりに検地帳によって明らかな寛文四年としても、入O 年程平いことになる。
来て
業漁
者業
のを
外蛍
移住禁止政資によって、殆んど外来者の定住がなかった口
D
中世において、平く
いたのに対して、曲では専業漁民としての地位しか与えられなかった。鐙崎漁民の比較的早い定住を除いては、その後の藷の
朝鮮近海に出漁していた豆殴浜、久根浜などの漁民は早く定住して、寛文の検地の時以後公役人となって百姓株を与えられて
の漁莱権が縮少し、曲に定住した時(宝永から手保にかけて)には、その宅地さえも与えられなかった
対馬近海ヘの出漁は古い。しかし、必ずしも対馬に定住したのではなく、漁期をすぎると、鈴崎に帰ったようである。後、そ
的
J
¥
.
四
ワカメ
で!
守Z
、│
いか(スルメ)
その開場の利用は、肥料としての海藻や、食料としてのワカメ、ヒジキ等
業
民と
曲部落は筑前鈍崎の海士の出身で、近海の網漁業を独占していた。鐙崎漁民は宗氏の対馬入島を助けたといわれていて、その
7)
l
五
三
を取ることに始まった。現在でも、乙のワカメ、ヒジキは農民の重要な現
り、
とう
いち
うに
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1
9
8・5
1
0
3・
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.
8
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.
8
3
9
.
7
l
零、l漁業牧人
金牧入源となっている(下表)。
は存
後には、浦々に入るマグロ、イルカ等を立切網で取るようになるが、要
の、
分そ
化の
(
1,
0
0
0円)
「一一一一一一一
と
分
D
書 附25年)
外
ずるに地先漁業であった
はを
良数
漁え
発展に伴う内部構造の階層分化ではない。
れ戸
(
7
)
(
8
)
(
9
)
D
文化年問、宗氏と広島浅野氏との婚姻が成立して、始めて広島漁民の移住が許された口鴨居瀬の赤島は、その移住者部落で、
2,
2
0
9
もちろん漁業を専業にし、陸上には土地をもっていない
4
9
8
3離島の後進性の註則参照のこと。
計
a
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'
1
6
5
久田部落の部落校員一O 名の一致した意見であった。
3
1
削山戸
(
1
9
6
1
.
10)
大正十年頃以降から、木炭市場が朝鮮半島に開かれ、焼子的な朝鮮人の移住をみ
るようになった。薪炭林の伐採と製炭は極端な低賃金労働力を提供するこれらの
移住民の手で行われた。彼等は、薪伏林地に季節的に移動する一種の漂泊労働者
帯
1
5
2
上県町
豊玉村
であった。戦前約四OO人前後、二0 キロ俵一01二
O 万俵を生産した。対馬島
峰 村
上対馬町
3
0
5
3
8
7
2
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0
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7
7
厳原町
内の消費は極めて少く岳民の自給的生産も極めて少なかった。島民の収入は、製
4
6
5
人
1
3
0
戸
6
9
6
7
4
9
美津島町
総人員
世
名
品の駄馬貨のみであった。戦後一時的に、労働力と市場とを失って、生産が激減
f
麦
町
したが、現在では、戦前をしのいで約四六万俵に及んでいる。労働力の中心は、
)D
性
依然として朝鮮人で、﹁外国人登録名'緯﹂によれば、時原在籍朝鮮人二ニO 世帯
中、四O戸が製炭に従事している(下表
の
対馬在住朝鮮人数
、
、
ム
4EE
﹂ド払卜
昨μ
島
)
A
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3
( 田北耕也、昭和時代の潜伏キリシタシ、九頁口
3
し、多くの島興に関する古物が、 このことを強調している。
部品の後進性と日本資本主義
入王
離島では、本土にあって早く消滅したような諸々の社会事象が、多く残存し、民俗学などの好資料を提供している
進
(
1
0
)
。
(
1
3
) 司
経営と経済
八六
これらの古い事象の温存については、大村も既に明かにしているように、孤立性の強さのために、却って消滅する
ものに、伝播の比較的容易な風俗や民芸品の如、きものがある。対応に民謡や民芸品が全く存在しないし、豆股の女子
の特異な服装は、今日全くみられないのは、かえって対応の孤立性を物語るものであろう。古く栄えた対馬焼さえ今
はない。もしこの地が観光地として注目されていたら、例えば大島アンコの服装のように保子に注意がはらわれてい
たであろうし、対馬焼にしても同様である。国立公園五島のチャンココ踊りは、あまりにも有名である。
一般的
古い言語や信仰のような、経済生活と直接のか﹀わりのない事象の温容は別として、本土において既に過去の乙と
であり、或は少くとも生命と社会的意義とを失ってしまっているような古い社会的経済的諸事象が、島では、
にいって、たしかに多く温荏されている。しかも単に形骸的にではなく、今日の社会経済生活と結びついて庄命をも
り-
っている乙とが多い。すなわち、 そのような古い事象に、今日的な意義をもたしめている離島の後進性にこそ、われ
われの問題があるはずである。
対馬の社会は、宮本も強調しているように、たしかにおくれている。その農業、漁業、林業、交通、社会構造等に
わたって、 乙の島の後進性を示す例は枚挙にいとまがない。対馬の農業は、既述したように、完全な自給農業であっ
て、生産の技術も極端におくれており、役牛の利用すら極めて少い。厳原の連坦地域のそきいが、壱岐島や福岡から
送られてきている。それにもか﹀わらず、その近郊地にある旧久田村さえも、完全な自給農業を営んでいる。上五島
ゃ、他の多くの離島にみられる﹁耕して天に至る﹂耕作景は、対局では全く発見出来ず、焼畑耕作的な﹁木庭作り﹂
q
u
が、落政期以降残存して、今日、もっとも普通的な傾斜地の農業的利用景観である(第七図)。既述したように藩政期
には山林は木庭耕地として貢租の対象であり、水田よりも石高が多く、畑地の六二%に対して一七%を占めていた。
Aせ
また、戦後生じた木材パルプブ l ム に よ っ て 、 そ の 伐 採 跡 に 、 や は り 木 庭 作 り が 行 わ れ
て自給作物の栽培が第一義的であった木庭が、薪炭林伐採跡の副次的な土地利用として、
年に旧佐須村で、木庭の耕地が全耕地の八%を占めている(第五表)。木炭市場が開かれ
乙の木庭作りが、第二次大戦前まで、 ひきつ Yき行われてき、今日も残存し昭和三十一
このような山頂、急傾斜にも木庭作が行われ
た。最近の植林熱のもとにあっても、植林資沫の欠如のために、零細な個人所有林や共有
林において、農民の木庭作りはあとをた﹀な。
い
回。
離島の後進性と日本資本主義
耕
丹、
(月川雅夫:佐須の農業一昭和 3
2
年より作成)
4
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9
土
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(昭和 3
1年)
面 積
付
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乍
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第 5表
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(下は石井助教授撮影)
ている口
(於佐謹)
り
作
庭
木
7図
第
木陸作り面積
経蛍と経済
久
、
り立っているものもある口対馬のムラの構成単位は分家や寄留でなく、 乙の共有権をもっ本戸であるといえる。貨幣
る。藩政期のムラの百姓笥が、 そのま﹀本戸数として今日まで持続され、加志部落の如く、今日も、本戸数のみで成
(磯場・山林) の継承を経済的基盤として、今日まで存続してきた。ムラの総代は、その共有財産権の代表者でもあ
対馬の社会的後進性を強く示すものに本戸制跡がある。乙の村落共同体的な社会構造は、落政期からの共有財産権
nwu
そして、次に述べる本一戸制度によって、現在の社会構造に中世的なニュアンスを残してきた。
。
世的社会構造を、中世から支配者の変ることのなかった宗藩においては、藩政期にも解体されずに持続されてきた。
国境的な位置にあった対馬では、国土の防衛のために、耕作を行う下級武士の各村落に配置された兵農未分化の中
と、林産物搬出のための林道未開発に問題があることはもちろんである。
対馬において、馬の背交通の利用が、今日依然として残存しているのは、散在した耕地をもっ農漁林未分化の社会
)のみであった。
﹃
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地方在住は認めなかった。島内で問屋の経営を許されたのは、厳原の町人と、六十人士(少弐氏の旧家臣といわれる
密貿易の取締りから、資本の移入に対しても極めて封鎖的であり、問屋と島内漁民との直接交渉は許さず、問屋の
なかった。今日対馬漁業の中心をなす一本釣は文化年間以降の長州・芸州からの移民のもたらしたものであった。
EU
手で操業されたが、羽差、双海船乗りは、五島その他から迎えられたが、移住はもちろん、島民との交渉すら許され
たし、大敷網や建網漁業も、単に﹁語浦﹂して操業したのみであった。鯨網の技術が伝えられて、厳原の商業資本の
封鎖的政策にあるようである。例えば早くから鰯網漁業が、泉州佐野の漁民によって行われたが、定住は許さなかっ
なしている。対馬の漁業社会の後進性は、前節でも若干ふれたが、その最大の原因は、古くから取られて来た宗藩の
対馬は藩政期のみならず、明治以降も極めて外部に対して封鎖的であった。これは後述する五島と著るしい対販を
外
、
守
であるが、
吋み
かくれキリシタン
P
﹁これら信徒に対する詮議もさほどきびしくなかった。﹂
五島の、例えば赤尾の大家族制の遺制や、 さきの
離島の後進性と日本資本主義
かくれキリシタン
P
d
の古い信仰型式の残存をもって、 この島の
入九
チャンココ踊りや鯨突踊りの残在は、 さきにも述べたように、むしろ、この島の開放的性格からくるものであるし、
後進性の例証とすることは妥当でない。むしろそれは、特定の地域社会の孤立的関係からくるものである。また古い
d
ン信徒は、交通の不便な直領地郷有地や更に私有地等を開き、私有地を聞いたものが、今日の
﹁旅人を巡すること極めて寛大であった﹂五島では、農業の開発にも多くの移住者を迎え、乙とに寛政のキリシタ
業の停滞後、鮪網が南五島に起ったが、浜ノ浦の伊藤民や岐宿の西村氏などいづれも他郷からの移住者であった。
島内外に及んだ。鯨組は更に南五島に及ぷ。奈良尾・若松の鰯網組も外来の移住者で開かれている。享保以降の捕鯨
ω
況を呈した。これらは何れも外来の移住者であり、小田氏の如、きは捕鯨頭数三O に及んだ。これら鯨組の労働力は五
鯨業に始まった。上五島には、山田(宇久平)、小田(小値価島)、江口(有川)、深沢(魚目)各氏の捕鯨業が活
中世における漁業移民は、泉州・紀州から多く迎えられたことは、対馬の場合と大差ないが、漁業の近世化は、捕
政に大きく貢献した。新田を開発し、同時に寄生地主化していった。
の移住者達であった。これらの資本に対して、部は極めて開放的であり、資本家は藩勢力と結んで政商となり、藩財
五島は、漁業を主軸として近世化が始められた。そして、その主導権をにぎったものは、外来の資本であり、外来
Jep-V
、
%
、
.
。
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ナ
はあり得ないにしても、本一戸群を中心とする伝統的な共同体関係が、今日尚生活の基調となっていることは否定出来
うな社会構造を漸次内部的に崩壊せしめてきている。現実のムラの生活が、 このような分家、寄留の存在を無視して
経済にのみ依存しなければならない分家や寄留の戸数の増加は、本戸の漁業収入の依在度の増加と相まって、 乙のよ
"
経蛍と経済
九O
或は福江島の主として火山灰耕地にみられる古いマルハタ(円畑)の残容は、島の後進性とか﹀わりがない。
以上のように、同じ長崎県に属する五島と対馬と比較しても、その開発に大きい差がある。
離島の人文的性格として、 その後進性を一般的に指摘出来ても、 そ れ が 離 島 の 宿 命 的 な 性 格 で な い こ と は 明 ら か で
D
主人たる給人のあらゆる勤役をし、百姓の貢納を差配したようである。
)D
寛文検地
小作人に被官、百姓および領主からうけた奴稗をもっていた。被官は、給人の側近の家来であって、給人領を小作すると共に
家中待の地方知行地はまた中世的な性格を急速に失って行くが、給人領は、完全に地行地の百姓を支回し、自らも耕作し、
後地方知行地は急速に波少したが、給人領はむしろ増加している口
的な兵農未分化の状態が強く残存した。家中待の知行地は地頭村とよばれた(美津島町の加志は地頭村であった
家中符の地方知行地が、若干残され(左表)、且つ、給人(地方の郷土)の地方知行地が広い範囲に残され、苦政期に、中世
寛文検地直後に、地方知行が大部分公領(濯の直領)に攻められ、減米知行に変ったが、向、その国境的な位置と結びついて
宮本常一、対馬の漁業展開│対馬の漁業展開l対馬の自然と文化所牧l
結果になる
植林資本の不足はもちろんであるが、所有する山林の多くに植林を行うことは、今後の薪炭材を売却する現金収入の途を失う
木庭作りの技術的説明は月川雅夫、佐須の農業(昭和三十二年)にくわしい。
文化所牧)による比率。木庭の比率の低かったのは、佐須と豆院であった。
文他十年(一入一三年)の対州郷村帳抜書の地目別高表(有賀喜左エ門、永島福太郎、対馬封建制度の諸問題l対馬の自然と
宮本常一、日本の離島
大村壁、前掲書(一一三頁)
ある。離島の﹁完全環水性﹂から、 その後進性を結論ゃつけることは、全く誤りであることもちろんである。
(
3
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百姓地
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2
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郡
2
) 万要覚書
1)入郷新間高目録
(中村正夫、対馬村落の社会組織に
倍、地頭領は、延宝年間に復活してくる ζとを、中
村は述べている。
関する一二三の問題)
D
D
その権利が﹁百姓株﹂であり、その主体
要するに対馬のム一フは、山林、田畑および磁場の共有権を媒介として、村落共同体的な社会桔浩一歩﹂維持して今日に及んだの
居住地そ具にした。さきの久田の例や次表にあげた鴨居阪の例(次頁の表)は土くこれを示してくれている。
木戸﹂に対して外来者や分家は﹁寄出﹂﹁ブシケ﹂と工ばれた。乙の木戸制から排除された分家、寄凶は、多く木戸と職業や
笛数が固定していたので、外来移住者や、分家には百姓株の特権が与えられず、分割も許さなかったので、百姓株をもっ﹁
権が、明治以降変ることなく木戸にひきつがれ、本戸制度を維持する経済的基盤となった口
この笛数が一定され、村落桔成の大きさが決定し、その伝統が、明治の木戸制の確立となった。乙の百姓株に附与された特
が﹁百姓屯﹂である口﹁地分ケ﹂には田畑はもちろん木庭(山林のこと)がふくまれ、更に村磁の専有躍を認めたロ
宗一昨は公領地を﹁地分ケ﹂して、百姓に、その用技権を与えて、均分に詰持たせた
宮の階層分化は全くみられなかったりこの一戸の旧士肢も古くからの有力な郷土であった
特に優位に立っているような家が、分家や寄尚になかったし、また旧士族の家においても同様で、旧士族の一戸を除いては、
例えばム一フの諸設につく家が大体旧士践の家柄である。政原郊外の久田に乙の例は顕著でらった。なお久田の場合、経済的に
仰公領
雌島の後進性と日本資本主義
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経蛍と経済
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菱谷武平、ヵトリッグ部落の伝統と現状付l特に潜伏、露見の居付信徒の調査を中心にして(昭和三十三年度五島列島総合学
山階芳正、五島の人文地理(前掲学術調査書所牧)
(宮本常一、前掲論文)
などから参加している口有川組は最大の捕鯨組で、各地から集まったもの四OO人を超え、納屋稼のものもふくめて一、 00
羽差には宇久の海士の外に、紀州、筑前、呼子、士宮岐等からあつまり、双海船の加子には備後靭、田島、肥前大村、周防上関
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inHu 宮本常一、五島列島の産業と社会の歴史的展開(五島列島1 九十九島i平戸島学術調査書一九五二年所牧)
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O人に達した。
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術調査報告書付所牧)
日本資本主義と離島
一般的にい﹀得たであろうか。明治に入って確立した対馬の本戸制度は、何を物語るものであろ
一小漁村にすぎなかったのに反して、対岸の大島は表日本の重要な
日本の離島において取られた事実はないだろうか。
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明治に入って、封建的な本戸制が確立し、要塞地帯となって、その不
早くから漁業資本の発展によって、明らかに本土より先進地域であった。
離島の後進性と日本資本主義
九三
開発主義が取られて、 乙の品は、近世的な停滞をつ Yける結果となった。多くのキリシタン信徒をうけ入れた五島は
化によって、急、躍に停滞的傾向を取ってきた
地であって、むしろ先進地域であった。それが、諸政末期以降、内地の各地に諸港が聞かれてきたのと、船舶の大型
対馬が部政期以前から、外国貿易の門戸として重要な地位にあり、朝鮮貿易については、江戸時代でも、唯一の基
なし、歓楽街丸山を同様にもつ川内港も諸政初期の繁栄は全くみられない。
長崎の平一戸島をみても、風待、湖待港として栄えた田助港に、昔日の面影がなく、また横瀬浦、長崎などの先駆を
位置を変えて来た日本海の大きい離島についてもいえる。
して一寒村となった。同様のことが、西廻海運の栄えた時期に繁栄していたが、近代に入って袋小路の奥地に相対的
港として栄えていた。帆船時代が終ると、陸上交通の発達によって、大島の繁栄は終って、今日相対的に串本と比較
大村によると、南紀州の串本は、諸政期には、
詣で刀
うか。東南アジアや、 その他今日後進地域と目されている、 かつて植民地支配をうけてきた国々のように、不開発主
進的であることが、
然らば、離島の後進性はいかにして打ち出されたのであろうか。藩政期には、果して島が本土と比較して、 より後
4
がってくる。
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︼
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かくして、離島の停滞性と後進性(本土の農山村一般をふくめて)の問題は、 日本資本主義の構造そのものにつな
た
。
都市近郊の兼業形態を取った農村や、若干の商業農業を営んだ地域では、必らずしも明確な後進性を打ち出さなかっ
た工業都市から、遠隔、或は交通上不利な位置にある自給農山村一般に共通して指摘出来ることではないだろうか。
にみられるように、必ずしも離島だけの問題ではなく、明治以降、資本主義の発達によって、相対的に近代化してき
によって、相対的後進性を打ち出してきたものと考えられるのである。そして、 乙の事実は、広島県の奥地山村の例
以上の如く考えて来ると、離島は、明治以降の資本主義の確立の過程を通して、落政期からの停滞をつ Yけること
ようやく、近代性を打ち出してきた
の侵透によって、木炭の外に、パルプブ l ムと、更にその寒冷な自然条件を利用する自然の抑制そさい栽培を行って
給的山村となった。その問、諸政期よりも、むしろ後進的な停滞性を特質づけた。戦後、奥地に対するトラック交通
ために、た﹀らが消滅し、それに伴った他の産業をもあわせ失って、都市の木炭消費が進むまでは、殆んど完全な自
が藩政期には、た﹀らが盛行し、その製鉄用の木炭と駄賃馬かせぎで、人口は明治以前より多かった。近代製鉄業の
中国脊梁山地の頂上にある広島県旧八幡村は、高度八0 0メートル前後の交通の隔絶した陸の孤島であった。これ
のと考えられるのである。
次大戦以降、トラック交通の発達によって、本土の農山村が先進地域に、 より密接することによって打ち出されたも
れていない。本土の農山村に比較して、離島の社会が、 より後進的であるとするならば、 それは、明治以降特に第二
少くとも、本土の農山村地域と比較して、離島の社会が、落政期においてより後進的であった事実は、殆んど知ら
経蛍と経済
四:
九
資本主義を育てた明治政府は、 日本の工業化のために障害となる多くの封建的な体制を、打破するのに極めて積極
的であった。しかしその資本の蓄積は、多く農民の負担において行われ、農村から収奪された租税は、軍備や官営工
場を育て¥殆んど農村に還元されなかった。資本主義の発展に伴って工業地域は形成されてきたが、農業の地域的
分佑は殆んど起らず、小規模な商業農業(近郊農業と果樹農業が主である)地域を除くと、殆んど自給農業に止まっ
た。農家の余剰生産物が、地主の手に集められて始めて流通機構に入るような、寄生地主の支配する社会では、農民
は商品作物の生産者とはいえないであろう。
産業革命の社会的背景である社会革命は、 日本ことに日本の農村社会では殆んど起らなかった。対馬の本戸制の成
立は、むしろその逆の現象でさえあった。そして生活水準のひくい封建的な社会が、資本主義社会のなかに長く存続
一般農山村は、資本主義の発展の外にあって、封建的停滞をつ Yけてきた。日本の
してきた。加工業を失ってきたそのような後進的な農村から造成される過剰人口が、資本の求める低賃金の社会的基
盤であった。
かくて離山はもちろんのこと、
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後進的な離山や農山村は、まさに崎形的な日本資本主義の生んだ鬼子である。中世から近世初頭にかけて、世界の先
進地域であったサラセンの鉛図が、近世に入って西ヨーロッパの植民地支配と搾取とによって、前近代的な停滞をつ
Yけ、今日の後進性を打ち出したのと投を一にする。いうならば、離島や農山村は、小さい日本資本主義のせまい植
民地なのである。くりかえし述べるが、対応の後進性は、波荒き玄海灘、対応海峡によって、本土から隔離している
ことに起因するものではない。
か﹀る国内の不開発主義は、資木の国内市坊を極めて狭いものにしなければならなかった。敗戦後、資本は、海外
の柏民地や経済的従属地域を失ったので、国内市場の開拓のために、離島や良山村の経済的開発を要請してきた。離
時品の後進性と日本資本主義
九
五
経営と経済
九六
一般的にいって、 その開発を要請しなかったとい
島振興法や、新農山村建設計画は、 か﹀る資本の要請に答えたものであった。戦後世界が、市場の拡大を求めて、後
進国開発計画を進めているのと相似する。
離島の不開発主義とは更にいうと、 日本資本主義の経済機構が、
うことである。従って、 五島列島の如く漁業基地として、炭鉱島のように石炭資源の開発が、或は因ノ島(広島)、
彦島(下関市) の如く近代工業地として、或は近年特に進められた観光資源の開発の如く、資本の要請によって開発
された小数の離島は、明らかに近代的先進性を示すわけである。
従来資本主義機構の外側に取り残され、農漁未分化、或は自給農業の自給的社会を続けてきた対馬に、近年資本の
側から開発の手が延ばされてきた。これは後進対馬の社会に取って特筆すべきことである。すなわち、近年のパルプ
ブームによって、 その面積の九六%を占める林野の資源が注目され山林開発に大きい資本が流入してきた(第六表)。
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それは山林のいわばプランテ l シヨン的開発であって、資本比技術とを独占資本が、土地と労働力とを地元が提供す
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(現在進行中で、 今日まで、 南北対馬を縦貫する自動車道路は、
全く存在しなかっ
る大面積の山林資源の伐採と、 それに伴う植林の進捗である(第八図)。更に、とれと平行する道路の整備乙とに、
南北縦貫道路の開通事業である
た)。こうした対馬に対する資本の流入は、軍事上の施設を除くと、大正末期の T鉱山のそれにつぐものである。
一方、山林地主の小資本による個人有林、或は農民の零細な資本によるその共有林(本一戸総有或は数人共有)に、
植林が進んできている。何れの場合も、自給農民の余剰労働力に依存している。しかし、必ずしもその労働力の確保
が容易でなく、 そ乙に自給農に投下される労働力の評価に対する反省がある。また植林が進捗すると漁業をもたない
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自給農民の唯一の牧入洞円である薪炭林収入の途をふさぐことになり、自給農そのものに対する疑問を生ぜしめる。更
に複雑な山林の所有形態に対する植林上の不便さが指摘されている。
厳原町の造林地域
第 8図
離島の後進性と白木資本主義
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これらは対馬の後進性の重要な内容をなす自給農そのものに対する反省であり、また山林共有権を経済的基盤とす
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大村壁、島の地理(七四l 七六頁)によると、少くとも明治初期までの串本は一小漁村にすぎなかった。そして対岸の大島は
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その十倍に及んでいる。
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現在漁船の数も大島の三十余隻に対して、串本は約
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訳本)国際食糧農業協会、飢えの地理学(一一一一一
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例えば、インドの繁栄について同-PEBH の
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六l 二三七頁)によると、一入世紀にイギリスの植民者がはじめて入ってきた時のインドは、比較的繁栄している人口一億の
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グア 1ト神父の歴史書によれば、インドは当時中世時代を脱皮しつ Lあり、その繁栄は端初的
良民と職人の固であった。当時すでにインドは純良業国ではなく、ヨーロッパ、アラビア、エジプト、中国に向けて精巧な製
品を輸出する工業国であった
工業資本主義へむかう過渡期経済の所産であったと書いている。農村の職人は都市の工場に吸収され、それが工業発展の基礎
となって、国民所得と、生活水準は上昇の一途をたどった。インド経済の草命を無残に圧倒し、その国を中世的経済と恒常的
飢餓のなかへ押しもどしたものは、イギリスのどんらん極まる商人どもの干渉であった口
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対馬の賃労働力の不足
会社(現在十条製糸のみ)造林も略同様の分牧契約がなされている。公
官行造林の外に、林業公社が設立され、主として共有林十町歩以上の分牧造林を進めている。造林、管理に要する費用は公社
が負担し、伐採に際してその所得は地主と折半する
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社造林の最も進んでいるのはほ原町と上県町である口
自主造林には百木代の半額が補助される
現在の南北縦覧道路のうち南対馬のものは、旧軍事施設を活用したものである口
(長崎県林業指導所長談)
漁業に現金牧入源をもっている磁場の農漁民は山林労務のみならず、他の日一居稼ぎは殆んど行わない
の大きい原因として指摘されている。
しかし、必要な時期に必要な人数の労働力を確保するための制度的な組織の確立していない乙とがより大きい原因と考えら
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離島の後進性と日本資本主義
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経告と経済
細漁民に取っても、必ずじも魅力あるものではない。
対馬は、寄生地主の発達も長崎県で最もひくいが、犬山林所有の発注もひくい
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他はほど個人有であるが、一二三
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厳原町の民有林のうち四七%五、六OO町歩が共有林である。殆んどが木戸総有である
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一準々々の細分された個人有林や、一二三人の共有の零細な山林に大きい資本は入らないし、共有林の場合には、木戸総有
人共有の零細な山林がある(左表
の共有山については、名儀上は共有であつも、実質的には個人的に持ち分に応じて個人分割が進んでいるものが多く、大資本
に対する分枚程の設定に多くの問題を減している。また分割されて宰純化した山林に共通して分牧林を設定した場合には、自
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所有形態の複雑さが、対馬の造林の阻害要因としてあげられるが、また山林から¢現金牧入以外に途のない多くの自給農民
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