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ナチス期北西ドイツにおける農村生活の 一-断面
資料 紹介 石 井 一農 村 教 師 の記 し た ﹁ 学 校 日誌﹂ (一九 三 ニ ー 三 四 年 ) か ら 一 ナ チ ス期 北 西 ド イ ツ に お け る 農 村 生 活 の 一 ・ 断面 1 ま え が き 素 介 こ こ に紹 介 す る資 料 は、 ド イ ツ北 西 部 の 一農 村 小 学 校 に 保 管 さ れ て い る 一八七 〇 年 代 から の学 校 日誌 ω。げ巳。冨。巳パ い る、 言 わば 変 則 的 な い わく 付 き の 一冊 の全 文 の翻 訳 であ る。 本 文 およ び そ のあ と に他 の教 師 に よ ってあ と で書 き加 中 の 一冊 で、 一九 三 二年 七 月 か ら書 き 起 され 、 一九 三 四年 八月 末 の学 期 始 め ま で続 い て、 そ こ で中 断 し た形 で終 って え ら れ た補 遺 から もう か が え る よ う に、 本 文 を執 筆 し た教 師 マイ ヤ ー氏 は、 こ の村 に在 任 中 著 る し く ナ チ ズ ムに傾 斜 し た行 動 を と る よ う に な り、 他 方 、 校 舎 ・教 員住 宅 の改 築 を め ぐ って、 村 長 ・父 兄会 ・教 会 な ど と の間 でこ とこ と に 対 立 関 係 を ひ き起 し た あげ く、 突然 他 の地 区 へ転 任 さ せ ら れ た。 二年 余 にわ た って彼 が書 いて来 た学 校 日誌 は、 担 当 の視 学 官 の判 断 に よ って、 余 白 を 残 し て廃 止 処分 に付 さ れ、 日誌 の続 き は新 し い 冊子 に後 任者 に よ ってう け つが れ る こと にな った 。 こ こ で、 何 故 こ の村 の学 校 日 誌、 し か も そ の中 で特 定 の 一冊 を 取 上 げ る こと にな った のか 、 そ の経 過 に つ いて簡 単 に説 明 し て お こう 。 ユ こ の村 は 現 在 の西 ド イ ツ北 西部 、 ケ ル ン﹁・アー ヘン平担 地 域 の純 農 村 ワイ デ ス ハイ ム村 であ る。 こ の村 に おけ る第 二次 大 戦 後 の社 会 構 造 の変 化 に つい ては 、先 に本 誌 で取 上 げ た こと が あ る 。 筆 者 は 一九 七 六 年 秋 、 こ の村 を 再 訪 す る 機 会 を 得 た の で、 村 の前 史 を 知 る ため の手 がか り を 得 ら れ る の では な いか と 、 村 の小 学 校 教 師 フー ベ ルト .ラ イ ピ。ゴ, 7 ユ 一 冨﹁出口げo諄 い①同氏 を 訪 ね た 。最 近 村 の学 校 が隣 町 ク ⋮ ヘン ハイ ム の小 学 校 に統 合 ざ れ、 同 氏 も 村 の・子 供 た ち も ぞ ぢ ら へ村 か ら 通 って いる と い う 。 そ し て 町 の学 校 か ら こ の 村 の旧学 校 日誌 を持 って来 て見 せ て く れ た ので あ る 。 村 の代 々 の教 師 が 記載 し た 十数 冊 に 及 ぶ 大版 の学 校 日誌 は、 お お む ね美 し い字 で丁寧 に書 か れ て い る が、 と ても そ の全部 を 短 期 間 に読 め るも ので は な い 。 そ こ でラ イ 氏 と も相 談 の結 果 、 こ の 村 の比較 的 新 し い時 代 の歴 史 、 と く に 村 の学 校 の歴 い わ ゆ る ナ チ ス の政権 掌握 ζ 8ゴ8﹃σq同 ①罵琶 o q(一九 三 三年 一月 三十 日)前 後 の時 期 の 一冊 を 取 上 げ る こ と に し た 。 そ し 史 の上 で忘 れ る こと ので き な い重 要 な時 期 で あ る と 同時 に、 ド イ ツ社 会 全 体 に と って も重 大 な 歴史 的転 機 と な った 、 て午 後 の数時 間、 ラ イ 氏 の好 意 で 一冊分 の全 文 を朗 読 し て 呉 れ た上 、要 所要 所 に注 釈 を加 え、 ま た 当時 、 この 地方 の 他 村 の小 学 校 長 の息 子 と し て学 校 付 属 の教 員住 宅 で少 年時 代 を 過 し てい た頃 の ライ氏 自身 の想 い 出 を も 語 って く れ た の であ る 。幸 い に し て、想 い出 の後 半 の 一部 を除 い て 、 そ の話 のす べて を カ セ ット テ⋮ プ に 録 音 し て持 ち 帰 る こと が でき た。 こ こ に 訳出 し たも の は、 こ の テ ープ か ち 起 し たも のを 底本 と し て い る 。 8 ( 3 ) ゐ こ の種 の学 校 日 誌 の史 料 価値 如 何 と い う点 に つい て、 本 来 史 学 に疎 い筆 者 は 云 々す る資 格 を 持 た な い の であ る が 、 シ ユ ル 1 ほプ ロ ト 少 な く と も こ の 日 誌 が単 な る私 的 な 個 人 的 日 誌 では な く、 公式 の学 校 日誌 であ り 、 当時 のや り 方 と し て定期 的 に 視学 官 の検 閲 署名 を受 け る 公的 記録 で あ った こ と が、 史 料 と し てプ ラ スにも マイ ナ スにも 作 用 し てい る と い う点 に注 意 す る 必要 が あ ろ う 。 し か し本 文 の内容 に 見 ら れ る よ う に 、 こ の学 校 日誌 は単 に無 味 乾燥 な 行 事 の記 録 に と ど ま ら ず 、 当 時 の農 村生 活 を め ぐ る 内外 の状 況 を 巧 ま ず し て よ く描 き 出 し てい る 点 が あ り 、 わ れ わ れ の興味 を そ そ る 。 ( 2 ) 近 年、 ナ チ ス の時 代 に対 す る 現代 的 関 心 が ま す ま す高 ま り、 各 分 野 に お け る 研 究 文 献 は 膨 大 な量 に のぼ る と 言 わ れ る。 日本 でも 、 ブ ラ ッ ハー の代 表 作 を は じ め と す る著 名 な 研 究 文献 や ド キ ュメ ント が 続 々と 翻 訳紹 介 さ れ 、 ま た 思 想 研 究 を志 す筆 者 の立場 か ら す る な ら 、 な お 不 満 の点 が な い では な い。 そ れ は 末端 の町 や 村 に お い て、 地 域 住 民 がど の 史 ・政 治 史 ・経 済 史 等 の分 野 では 日本 独 自 の立場 か ら の研 究 も 進 め ら れ, て いる よう であ る 。 し か し 、 現 代 農 村 の地 域 よ う に ナ チ ズ ムに 対 応 し 、結 局 そ の波 に 呑 込 ま れ て行 った のか 、 ま た そ の苦 い体 験 が戦 後 の発 展 と 構 造 変 化 の中 に ど ( 4 ) のよ う に 反 映 し てい る のか と いう 問 題 に 応 え てく れ る よ う な 具 体 的 な 地 域 研 究 が、 必 ら ず し も 多 く は な い よう に見 え る か ら であ る 。 そ れ ら の中 で、 ア メリ カ の現 代 史 家 と いう 立 場 か ら 一ド イ ツ小 都 市 の 一九 三〇 1 三 五年 の実 態 を 徹 底 (5 ) 的 に追 究 し たW ・S ・ア レン の モ ノグ ラ フ ィー に、 筆 者 は 特 別 の関 心 を 抱 いた 。 こ のよ う な 方 法 に よ って、 幾 つか の 事 例 農 村 の研 究 が積 み 重 ね ら れ て行 け ば 、 ドイ ツ農 村 の地 域 研 究 に新 し い局 面 が 開 か れ る こと にな るだ ろう と 思 った の であ る。 も ち ろ ん 筆者 自 身 でそ のよ う な 徹底 し た 現地 調査 を遂 行す る こと は、 ほ と ん ど 不 可 能 に近 い。 む し ろ同 様 な 問 題 関 心 を持 つ同学 の士 に今 後 を期 待 す る ほ か な い で あ ろ う。 し か し そ のた め に も、 自 分 に でき る 範 囲 で、 た と え 全 く の準 備 作 業 にす ぎ な いと し ても 、 ま ず は史 料 の発 掘 のひ と つ の試 み と い う意 味 で、 こ の資 料 を紹 介 す る こ と に し た の であ る。 本 文 の紹 介 に移 る 前 に、 こ の学 校 日誌 の舞 台 であ る ワ イ デ ス ハイ ム村 の状 況 に つい て、 多 少 の説 明 をし て お 乙う 。 過 去 の統 計 によ れ ば 、 こ の村 の人 口 は 一九 世 紀 の前 半 以 来 一九 三〇 年 代 ま で、 三〇 〇 人 から 三 五〇 人 の間 を 前 後 し て 停 滞 を 続 け 、 一九 三 三年 六 月 一六 日 の国 勢 調 査 では 三 三 五人 ( 内 男 子 一七 八人 ) であ った。 職 人 や近 傍 の 町 で働 く 労 の で、 村 の中 心 にあ る 教 会 堂 の裏 に付 属す る司 祭 館 のも う 一つう 七 う に、 それ と 垣 根 を 接 し て学 校 兼 教 師 住 宅 の 二階 働 者 は 少 な く な か ったと し ても 、 当 時 は ま だ純 然 た る農 業 的 な 小 村 落 であ ったと 見 てよ いだ ろう 。 学 校 も 小 規 模 な も 家 があ った 。 現 在 は 内 部 が多 少 改 造 さ れ て、 全 部 が 教 師 住 宅 と し て使 用 さ れ て おり 、 こ こ で ラ イ先 生 の朗 読 を 録 音 し た わ け であ る が、 外 観 や 庭 は 四 五年 前 の当 時 と ほと んど 変 って いな いと いう 。 こ の村 の小 学 校 の場 合 、 こ こ に住 込 む 教 師 夫 妻 が 校 長 の役 か ら 授 業 や 校 務 一切 を 処 理 す る と いう 、 ま る で寺 小 屋 か 村 塾 のよ う な 状 態 が、 最 近 の学 校 統 合 に 到 る ま でず っと 続 い て いた よ う であ る 。 新 入 生 を 迎 え る 時 期 や 夏 季 ・秋 季 休 暇 の長 短 な ど に つい ては 、 現 在 と か な り 違 って いる よ う であ る が 、 当 時 の学 校 制 度 の詳細 に つい ては審 ら か に し な か った 。 な お 、 こ の学 校 日誌 を 紹 介 ・朗 読 し てく れ た ライ 氏 は 、 一九 二 七 年 回 郡 内 グ ロス ・フ ェル ニヒ村 の生 れ で、 こ の村 に は 、 一九 五 四 年 以来 勤 務 か つ定 住 す る 老練 の教 師 で、 現 在 は 村 の教会 の世 話 役代 表 をも 兼 ね て お り、 村 内 の事 情 に も 詳 し い。 同 氏 は ま だ 若 い新 卒 教 師 であ った 頃 、 こ の日 誌 の執 筆者 マイ ヤ ー 氏 と 郡 内 ロン メ ルズ ム町 の小学 校 で同 僚 と し て勤 務 し た こと が あ り 、 個 人 的 に も 良 く 知 ってい た そ う であ る が、 同 氏 の人柄 等 に つい て は言 明 を 避 け た 。 ま た マイ ヤ i 氏 の年 令 に つい て は 聞 き 洩 ら し た が 、 恐 ら く 一九 三 ニー 三 四年 の 当時 は ま だ若 い教 師 だ った ので あ ろ う 。 マ イ ヤ i 氏 が ど の よ う な 人 で あ っ允 のか に つい て は、 す べて 日誌 の記 述 そ のも の か らう か が い知 る ほ か は な い。 な お本 9 ユ 一 文 中 の ︹ ︺ 内 は、 紹 介 者 の補 足 し たも の であ る。 ワ イ デ ス ハイ ム村 小 学 校 ・学 校 日 誌 ライ ヒ スタ﹁ 死 (6 ) 七 月 三 一日 の帝 国 議 会 選 挙 の結 果 、 投 票 率 は 良 か った が、 ヒ ト ラ ー派 が減 少 し 、 ド イ ツ国 家 人 民党 が増 大 し た。 天 一九 三 二年 候 が良 か った の で、 今 年 の収 穫 は 非 常 に豊 作 だ った。 これ は 、 ほか は 悪 い こと ばか り の今 年 の出 来 事 の中 では 、 い く ら か 明 る い話 題 であ った 。 高 学 年 の子 供 連 の見 聞 を 広 め る ため に、 好 天 の八月 二 二 日と 二 四 日 の午 後 、 教 師 が自 転 車 に乗 れ る子 供 達 を 連 れ て 一〇 月 一日 は フ ォ ン ・ヒ ン デ ン ブ ル ク 大 統 領 の 八 五 才 の 誕 生 日 に 当 り 、 休 校 と な った 。 こ の 日 は も と も と 休 日 に 当 キ ルス ペ ニヒ城 、 ハ ルトブ ルク、 ト ー ンベ ルク城 趾 へ遠 足 を 実 施 し た 。 る の で 、 そ の 代 ゆ に 前 日 を 休 校 に す べ き で あ った が 、 休 み に は し な か った 。 ク ライ ス 全 国 少 年 体 育 競 技 の 本 年 度 地 区 大 会 が 、 九 月 二 〇 日 に ク ー ヘ ン ハイ ム の 競 技 場 で 開 催 さ れ た 。 (7 ), こ の 一〇 月 一日 を も っ て 凸 わ が ラ イ ン バ ッ ハ郡 は 廃 止 と な り 、 ボ ン 郡 と オ イ スキ ル ヘ ン 郡 の 両 者 に 半 分 つ つ分 属 さ せ ら れ る こと にな った 。 わ れ わ れ は 後 者 に入 った。 以 前 所 属 し て いた オ ル ハイ ム連 合 役 場 が解 消 され た の で、 当 村 は 隣 村 の ドー ム ・エ ッシ ュ ・シ ュト ラー スフ ェ ルトと 共 に ク ー ヘン ハイ ム連 合 役 場 に所 属 す る こと と な った 。 一 一月 初 旬 、 じ め じ め と 寒 い天 気 のた め か 、 こ こ では 狸 紅 熱 と ジ フ テリ ア が流 行 し 、 学 童 の 三分 の 一が欠 席 し た。 = 月 ⊥八日 の帝 国 議 会 選 挙 は 選 挙 疲 れ の低 調 さ ( 棄 権 率 三 一% ) のも と で行 な わ れ た 。 今 年 の マ ルチ ン祭 の提 灯 行 列 のた め の準 備 は 大 変 熱 心 に行 な わ れ 、 寄 付 集 め も 順 調 に進 んだ 。 子 供 たち は マルチ ン 祭 提 灯 用 の木 の棒 を 集 め 、各 自 提 灯 製 作 を 競 争 で行 な った。 一 一月 八 日 ( 火 曜 日) に は学 校 で提 灯 の展示 会 が開 催 さ れ 、 最 優 秀 作 四 点 に 父 兄 会 か ら ご ほう び が贈 ら れ た。 一〇 日 の夕 方 に は み ご と な提 灯行 列 が 行 な わ れ 、 そ れ に つづ い 1 ワコ 0 クラ ンツ 月九日には 郡部 オ イ ス キ ル ヘ ン 市 で 会 議 が あ っ た 。 ア ド ヴ ェ ン ト の第 一週 の 日 に 、 子 供 達 は 教 室 に ア ド ヴ ェ ク ライ スシ ユタ ツト つき の福 引き が行 な わ れ た 。 て子 供だ ち は ひと り ひと り 聖 マ ルチ ン像 の ついた お菓 子 入 り の紙 筒 を 貰 った 。 ま た鷲 鳥 の焼肉 そ の他 す ば ら し い景 品 、= ン ト節 理 を 飾 り つけ た。 ア ド ヴ ェ ント の日曜 日 ご と に 一本 の ロウ ソク を そ の上 に立 て、 四 本 目 ま で毎 週 お 祝 いを す る の であ る 。 一二月 二 二 日 ( 木 曜 日) の夕 方 、 学 校 では講 堂 に父 兄 を招 い て ク リ ス マス の祭 り の会 を 行 な った 。 子 供 達 は 影 絵 に ヘ マ ヘ へ む ヘ ヤ で ヘ ヘ へ 合 せ な が ら ク リ ス マ ス の詩 の朗 読 を 行 な い、 ま た 数 人 の男 の子 が ヴ ァイオ リ ン、 ラ ウ テ、 ツ ィタ ⋮な ど の伴 奏 で ク リ ヘ ス マ スの歌 を 合 唱 し た。 子 供連 が 作 った キ リ ス ト誕 生 の模 型 は 会 衆 の好 評 を 博 し た 。 ぬ ダ ー ラ イ ンを 示 す ︺ 一見 末 にか け て、 わ が小 村 に も 流 行 風 邪 が襲 ってき た。 数 日間 、 学 童 の三分 の 一が 欠席 し た が 、 ー 1 一月 一八 日、 帝 国建 国 記 念 の短 い祝 祭 が あ った 、 一 . 月 三〇 日、 ア ド ル フ ・ヒ ト ラ ー政 権 誕 生 。 ︹ 傍 点 は 原文 の ア ン 一九 三 三年 ﹁斑 気 は割 合 と 早 く 通 り 過 ぎ た の で、 休 校 せず に済 ま す こと が でき た。 リ ヒ ァ ル ト ・ワグ ナ i没 後 五〇 日日 の記 念 日 で あ る 二月 = 二日 には 、 ザ ー ル地域 の ノイ ンキ ル ヘン でガ ス爆 発 の惨 事 が 起 り ㌻ 不 幸 にも 六 三 人 の死 者 が出 た。 ゲ マイ ンデ ラド ト 二 月 一九 日、 ほと んど 全 員 参 加 のも と で父 兄会 が開 か れ、 健 康 上 か ら見 た教 室 の欠陥 や破 損 の状 況 に つ い て、 活 発 . な 討 議 が な され た。 す な わ ち 、 数 室 の両 側 か ら 光 を 入 れ る こ と、 暖房 の不 備 、 腰掛 け の老 朽 化 、 運 動場 が 狭 す ぎ る こ リ ヒト メ スタ ク と な ど であ る。 こう し た 現状 の改 善 に つい て新 し い 村参 事 会 に要 望 す る こと に な った 。 ニ月 二 日 の マリ ア御 潔 あ 祭 日 に は、 ク リ ス マス季 節 の終 り に当 って学 童 に よ る キ リ スト生 誕 劇 が学 校 の講 堂 で行 な わ れ た 。ま た そ の舞 台 を とり か こん で低 学 年 の子供 連 の遊 戯 も行 な わ れ た 。 こ のよ う な 形 で の上 演 は は じ め て の こと だ った の で、 満 員 の父 兄 か ら大 喝 采 を受 け た。 三 月 五 日 に挙 行 さ れ た帝 国 議会 選挙 の結 果、 国 家 社 会 主義 労働 者 党 ZωU>℃が 全 国 で圧 倒 的 多 数 を 制 し た 。 偉 大 な 指 導者 ヒ ト ラ ーは 、 総 力 を あ げ て民 族 の難 局 を 乗 り 切 る た あ に、 広 汎 な 国 民 大 衆 の中 か ら 独 自 の力 に よ って躍 り 出 し てき た ので あ る 。わ れ わ れ と 大き な内 的結 合 関 係 のも と にあ る 兄弟 民 族 オ ー スト リ アと ド イ ツ の首 相 と し て、 ヒ ト ラ ーは みず か ら提 起 し た 四 カ年 計 画 に お い て、 ︹ 第 一次 ︺ 大 戦後 の 一四 年 間 に わ が 民族 が蒙 った損 害 を 回復 し よ う と し て い る の であ る。 こ の こ と に つい て の私 の 願望 を言 う な ら、 そ れ は ﹁ハイ ル ・ヒト ラー﹂ であ る 。 三月 一二 日 の自 治 体 選 挙 に お い ても 、 多 く の 町村 で著 るし い右 翼 化 傾 向 が現 われ た。 ヒト ラー の党 と 黒 白 赤 旗 の ド (8 ) - . (9 ) イ ツ国 家 人 民 党 が、 こ の村 でも 多 数 を 占 め た。 黒 白 赤 の色 と ハー ケ ンク ロイ ツ ( 鉤 十 字 ) が再 び わ れ わ れ の色 と な つ た 。 体 制 の交 替 に当 って は、 必 ず 多 く の暴 動 や 謀 略 が起 る も の だ が 、 ︹二月 二七 日夜 ︺ 共 産 主 義 者 の謀 略 に よ って帝 キルへ 国 議 会 の議 事 堂 が炎 上 し た。 も う , 一度 静 か さ と 秩 序 を と り も どす た め には 、 わ れわ れ の厳 格 さ に頼 る 以外 に な い。 そ のた あ の力 は す で に用意 さ れ て い る のだ 。 三月 二・ 一日は 、 ポ ツダ ム のガ ル ニゾ ン ス教 会 で国 家 行 事 と し て挙 行 され た帝 国 議 会 開 設 の記 念 行 事 に当 り 休 校 と な った 。 一二 時 一五 分 前 か ら す べ て の学校 で、 統 一ド イ ツ の再 生 を 祝 福 す る 記 念 講 演 が 校 長 によ って行 な わ れ た。 正 一 二時 か ら は ヒ ンデ ンブ ル ク大 統 領 お よ び ヒ ト ラー 首 相 の演 説 の ラジ オ放 送 が あ った 。 残 念 な が ら 、 こ の演 説 は 学 校 の ラジ オ の故障 で聞 こえ な か った 。 ま た学 校 に は 鉤 十字 旗 も 黒白 赤 の旗 も な か った の で、 正 規 の国 旗 掲 揚 が でき な か っ 、 (10 ) た。 新 体 制 に合 せ て学 校 が 画 一統 制 の 下 に 置 か れ る こと に な った た め 評 す べ て の学校 で復 活 祭 休 暇 が 四 月 三〇 日ま で . 生 徒 が 一人転 出 し た。 四 月 二〇 日 の ヒト ラ !首 相 の誕生 日 に は、 学 校 で国 旗掲 揚 が 行 な わ れ た 。新 し い生 徒 四 人 が 延 長 さ れ る こ と に な った。 五 月 一日 は ド イ ツ労働 記念 日 と し て祝 祭 日 と な り、 朝国 旗 を掲 揚 し た 。朝 の礼 拝 の後 生 従 は学 校 に 集 合 し た 。 こ の 入学 し た 。 祭 日 の意 味 と 重要 性 に つい て、 と り わ け 労働 者 が健 全 な国 家 の基 礎 と し て果 し て い る 重要 な 役 割 に つ い て の校 長 の訓 話 が あ って後 、 学 童 た ち は教 師 の先 導 のも と に国 歌 を 唱 い な が ら 村 舟 の行進 を行 な った 。今 年 の学 童 数 は 四 四 人 と な った 。 一九 二 三年 の 五 月 二 七 日 は、 フラ ン ス軍 の ︹ルー ル地帯 占 領 に よ る︺ 抑 圧 か ら ド イ ツ の 自 由 を と り 戻 す 闘 争 の中 で、 シ ュラ ー ゲ ッタ ー が デ ュ ッセ ルド ル フ郊 外 のゴ ルト ハイ マi 原 野 で射 殺 さ れ た 日 であ る 。 彼 の没後 一〇 年 目 に 当 2 一 る こ の 日、 ド イ ツ民 族 は深 い悲 し みを も って こ の殺 害 され た英 雄 を 偲 び 、 彼 の やり 残 し た仕 事 を 古 来 の ド イ ツ的 忠 実 さ を も って継 承 し 成 就 す る こと を 誓 う も の であ る。 シ ュラー ゲ ッタ ー記 念 日 の設 定 は こ の こと の証 し であ る 。 当 地 の 学 校 でも 、 ド イ ツ民 族 の再 興 を 象 徴 的 に示 す 復 活 祭 行 事 を 行 う べき であ った のだ が 。 (11 ) 六 月 一七 日 に実 施 され た国 勢 調 査 は 、 経 済 と 人 口 の状 況 を 把 握 す る も の で、 現 在 のわ が国 が如 何 に困 難 な 経 済 状 態 に 置 か れ て いる か を 正 確 に掴 も う と す るも の であ った 。 こ のた め 学 校 は 休 み にな った 。 古 い習 慣 が蘇 え り 、 ド イ ツ文 化 の振 興 が図 ら れ て いる 。 古 ゲ ル マン の夏 至 の祭 も そ の ひと つであ る 。 こ のよ う にゲ ル マン共 同 の祭 祀 を 復 活 さ せ て、 これ と は 別 に行 な わ れ て い る数 会 信 仰 上 の祭 祀 に橋 渡 し を す る こと が︾ ド イ ツ国 民 の祝 福 と な る の であ る。 連 合 役 場 管 内 の村 々で、 こ こ数 日来 スポ ー ツ大 会 が開 か れ た。 ワ イ デ ス ハイ ム で は男 子 五人 が優 勝 冠を 獲 得 し、 女 子 は コ遍歴 ﹂ の メ ロデ ィ; に よ る輪 舞 で好 評 を 博 し たゆ 今 年 の初 夏 は低 温 で雨 が多 か った が、 作 柄 は良 さ そう に見 え る。 わ が国 は再 軍 備 す る こと に な る そ う だ。 在 郷 軍 人 会 に よ る今 年 の戦 没者 慰 霊 祭 に集 った 人 々 の大 部 分 は、 も う そ の つも り に な って い る。 若 者 たち にも こう し た考 え を 滲 透 さ せ ね ば な ら な い。 そ こ でわ が 小学 校 でも 記念 行事 に参 加 じ、 慰 霊 碑 の前 . で の式 典 では 、 ﹁四 人 の衛 兵 ﹂ の詩 の 朗 読 と ﹁オ ラ ンダ の感 謝 の祈 り ﹂ の合 唱 を 行 な った。 こ の村 の生 徒 の 一部 は ヒト ラ i ・ユ⋮ゲ ント ( 青年団) をいち 早 く 組 織 し 、 記 念 行 列 に お け る そ の態 度 と 秩序 に よ って、 今 日 す べ て の 国 民 が持 た ね ば な ら な い新 し い精 神 を示 し た。 (12 ) ワイ デ ス ハイ ム小 学 校 の夏 祭 は、 七 月 三 〇 日 の日 曜 日 に挙 行 さ れ た。 ま ず最 初 に、 祭 の飾 り つけ を し た 村 の中 を、 ヒ ト ラ ー ・ユング フ ォ ルク (少年 団) を先 頭 と す る緊 張 し た 記念 行 列 が ね り歩 いた 。 そ れ か ら、 シ ュテ ー ヒ家 の草 刈 ヶ 場 を 会場 にし て、 麻 袋 は き と び 競 争 ・目 か く し鬼 ・棒 のぼり ・ スプ ー ン卵 競 争 な ど の運 動 会 が賑 や か に行 な わ れ た。 多 勢 の見 物 人 が 周 り を と り か こん で子 供連 の遊 戯 に声 援 を送 った 。競 技 の合 間 に は、 女 の子達 が 民謡 の メ ロデ ィ ト ・ウ ェ ッセ ルの歌 ﹂ と ﹁ハイ ル ゼヒト ラー ﹂ の挨 拶 が あ って閉 会 し た。 ー に合 せ て見 事 な 輪 舞 を 踊 った 。 競 技 の勝 者 に は、 そ の労 を ね ぎ ら って 沢山 の賞 品 が渡 さ れ た 。 最 後 には 、 ﹁ホ ル ス 23 1 今 年 の夏 は 大 旱 ば つ であ った 。 九 月 一日 以 降、 こ の村 のす べ て の男 子 学 童 は ヒト ラi ・ユング フ ォ ルク に所 属 す る こ と に な った 。 これ は 一致 団結 のし る し で あ る。 九 月 一三 日、 ボ ン の役 所 か ら 上級 建築 係 官 が来 校 し、 学 校 と教 員 住宅 の建 物 の状 態 に つい て視察 を 行 な った 。 彼 の 判 断 の結 果 は 以 下 の如 く で あ る 。教 室 の風 通 し が非 健 康 的 な こと、 児 童 の半 数 が 右 か ら の採 光 に頼 って い る こと 、 階 段 の幅 が狭 く 、 ま た曲 り角 の段 が小 刻 み す ぎ て危 険 な こ と、 住 宅 は 湿 気 が多 く小 さ 過 ぎ る こと 、新 校 舎 の建 設 、 あ る い はむ し ろ こ れま で の狭 す ぎ る 敷地 を や め て、 新 し い学 校 用地 に新 築 す る のが最 善 の策 であ る と い う こと であ った 。 特 に係 官 が驚 い た の は壁 の痛 み か た で、 木 の棒 で突 く と ど こも か し こも 崩 れ るく ら い、 壁 は や わ ら か く、 な って し ま っ (13 ) て い る の であ る。 木 造 屋 根 は虫 喰 い だ ら け で、 ス レー ト の葺 き 石 は全 く乗 って い な い。 永 い間 に次 か ら 次 へと 落 ち て し ま っ た の で あ る 。 そ こ へ呼 び 寄 せ ら れ た 村 長 の シ ュテ ー ヒ 氏 も 、 湿 気 の 除 去 が 必 要 で あ る こ と を 認 め た 。 し か し 、 教 室 や教 員 住 宅 の修 復 に つい て は、 村 長 と し ては 、 と ても 村 の負 担 で着 手 す る の は無 理 で あ ろ う と の考 え であ り、 も し ど う し ても と いう こと であ れ ば 彼 は 村 長 を 辞 職 せざ るを 得 な いと 述 べた。 クじ ア ハウ ス 九 月 一四 日 、 隣 村 の ク ラ イ ン ビ ュ レ ス ハ イ ム 校 と 一. 緒 に、 バ スで ラ ー ハー湖 への遠 足 が行 な わ れ た。 こ のす ば ら し ロ ル の 谷 に 入 った が 、 そ こ で 車 が パ ン ダ し た 。 全 員 下 車 し て 車 を 押 し 、 よ う や く 動 き 始 め 、 ブ ル ッ ホ プ ロ ルを 経 て ラ い 旅 行 で 、 わ れ わ れ は ま ず バ ー ト ・ノ イ エ ン ア ー ル で 公 営 温 泉 保 養 会 館 と そ の 庭 園 を 見 学 し 、 そ れ か ら 山 を 越 え て プ ー ハー湖 に着 いた 。僧 院 を 見学 し た 後 、 わ れ わ れ は 僧 院 の晩 課 の儀 式 に陪 席 し た 。 そ れ か ら リ ュデ ィ ア塔 に上 り 、 ア イ フ ェ ル の 旧 火 山 群 か ら モ ー ゼ ル 河 谷 、 ヴ ェ ス タ 1 ワ ル ト 、 そ し て タ ウ ヌ ス と ジ ー ベ ン ゲ ビ ルゲ 山 地 の 一角 を 見 渡 す ン の 岸 辺 ま で 散 歩 し た 。 こ の寄 り 道 で は 、 新 し い 発 見 や 教 わ る べ き こ と が 沢 山 あ った 。 そ れ か ら バ ス は ラ イ ン 沿 い に 素 晴 し い 眺 望 を 楽 し ん だ 。 さ ら に バ ス は テ ー ニ ヒ ハイ ム を 経 て ラ イ ン に 沿 っ て 下 り 、 ジ ン チ ヒ に 到 っ て 、 そ こ で ラ イ 走 って 、 エ ア ペ ル崖 、 ロ ー ラ ン ド 岬 、 七 ヅ 山 、 ゴ : デ スブ ル ク な ど を 通 り 過 ぎ 、 ボ ン に 到 り 、 そ こ か ら ラ イ ン 川 を 離 九 月 一二 日 に は 、 ウ ィ ー ン市 が ト ル コ軍 か ら 解 放 さ れ て 二 五 〇 年 に 当 る の で、 学 校 で 式 典 が 行 な わ れ た 。 新 し い れ て ワ イ デ ス ハイ ム へ の帰 途 に つ い た 。 シ ユタ ツラ ト 枢 密 院 の開 会 式 に当 り 、 そ の重 要 性 に鑑 み、 全 国 で こ れを 祝 う こと にな った の で、 学 校 でも 式 典 を行 い、 そ のあ と休 4 ー ' 校 に な った。 ま た 九月 一五 日も 休 校 した ℃ 今 年 度 の村 財 政 で 一四〇 〇 ラ イ ビ ス マルク の余 剰 が出 た の で、営 業 税 、土 地 税 と も に 大 幅 に軽 減 さ れ た 。同時 に 、村 シ ユ ル フオ アシ ユ タント ジ ツツ ング 参 事 会 では こ れ に関 連 し て、 学 校 と教 員 住宅 の重 大 な欠 陥 に つい て の議 論 が 行 な わ れ た。 と こ ろ が唯 一の最 終 的 解 決 が 開 か れ た の であ る が 、 教 師 のと ころ に は 何 の招 待 も来 な か っ. た 。 村 長 の シ ュテー ヒ氏 は 、 こ の会 議 の席 で ( 彼 自身 策 であ る教 室 の新 築 に つい ては 、主 と し て富 農 た ち の反対 のた あ 否 決 さ れ た 。 九 月 一五 日 これ と 同時 に学 校 評議 員会 そ う では な い こと を 知 って いた に違 いな いに も か か わ ら ず )教 師 は 評 議 員 会 の メ ン バ ー でな いと 主 張 し た 。 これ に つ い て苦情 を 申 し 入 れ た のに 対 し て、 村 長 は 、 教 師 が 当 日遠 足 で留守 と 思 い 込 ん で誤 って招 待 し な か った のだ と 謝 っ た。 こ の抗 議 に も か か わ ら ず 、 話 は そ のま ま にな ってし ま った よ う だ 。 九 月 二七 日 の水 曜 日、学 校 に 村 参 事 会 員 が 父 兄 会 と 合 祠 で集 り、 校 舎 新 築 に つい て の話 合 い が行 な わ れ た 。 有 力 な 村参 事 会 員 でダ ー ツ ( 農場 ) 所 有 者 でも あ る ク レー ブ ル ヒ の コー ネ ン氏 は 、 校 舎 新 築 の必 要 性 を 頭 か ら 否 定 し た 。 専 門 家 が 児 童 の健 康 上障 害 に な る と 確 認 し た こと が ら を 、彼 は いち いち 否 定 し馬 根 拠 が な いと 宣 言 し た 。 例 え ば 彼 は 両 側 か ら の採 光 と じう 点 に つ い て、 も っと 良 い眼 を も ?て いた ら 何 でも な い、 眼 鏡 を か け る か ど う か は 素 質 か 遺 伝 の問 題 だ と 言 明 し た 。 こ の村 に は 、 シ ュヴ ァル ツ ・ヨー ゼ フや フ ォイ ザ ー ・フ. ー ベ ルト等 のよ う に 、 眼 が悪 い の に眼 鏡 を か け て いな い者 が 多 い こと に つい て、 彼 は 何 も 知 ろう と し な か った 。学 校 の階 段 が危 険 だ と いう 点 に つ い ては 、 彼 は 今 ま で誰 も こ こか ら 転 げ 落 ち た 者 は いな い では な いか と 言 った 。 こ の村 にお け る 彼 の影 響 力 が 大 き い の で、 専 門 知 識 も 何 も な い誤 った 彼 の発 言 が、 間 違 った 方 向 へ議 論 を 導 い て行 った 。 例 え ば 彼 は 、 一方 の窓 を 壁 で塞 ぎ 他 方 の窓 を 多 クと いう と ん でも な い費 用 がか か り 、 財 政 上 と ても 無 理 な 話 であ る 。 教 員 住 宅 の家 賃 を そ の費 用 に あ て ては ど う か と 少 拡 げ ては ど う か と 提 案 し た。 そう す れ ば 光 が前 か ら 来 る よ う に な る と いう の であ る 。 し か し それ には 六 〇 〇 〇 マ ル った。 父 兄 の中 には 、 少 数 な がら 敢 え て そう し た 考 え 方 に 異 議 を 唱 え る 者 も あ った が 、 支 持 が 得 ら れ な か った 。 集 会 いう 私 の提 案 に対 し ては 、 家 賃 の大 部 分 は 村 の財 布 に 入 れ な く ては な ら な い のだ か ら 、 そ れ は 不 可 能 だ と さ れ てし ま ﹁ の結 論 と し て は、エル学ンテ校ダ ンの 改 築 と いう 考 え 方 には あ ま り 賛 成 でき な い と いう こと に 落 着 いた 。 ク フ エス ト 一〇 月 一月 の収 穫 感 謝 祭 の た め の準 備 が村 中 で熱 心 に行 な わ れ て いる 。 村 の農 家 組 合 では 、 祭 の行 列 に、 一〇 〇 年 5 1 ブ レ ツヒ エ シ ユヴ イ ンゲ ヘツ ヒ エル 前 に こ の 村 で行 な わ れ てい た亜 麻 の栽 培 と加 工 の状 況 を 展 示 す ゐ車 老参 加 さ せ る ため 、 こ れを オ イ スキ ル ヘン市 に 注. ク レロガ ロ フ エライ ン ロ 文 し た、 紡 ぎ 車 ・麻 剥 ぎ用 具 ・麻 打 ち へら ・麻 櫛 な ど の道 具 が 当時 使 わ れ て い た そ のま ま の様 子 を 展示 す る こと にな って い る。 こ の村 の年 寄 り 達 が こ の作 業 の こと を ま だ よく 覚 え て い る か ら であ る。 エスア シ ユタ ル ヘル ム 一〇 月 二 日、 わ れら の老 ヒン デ ンブ ルク元 帥 の 八六 才 の誕 生 日を 祝 った。 こ の 日、 当 村 の在 郷 軍 人会. は、 彼 の栄 誉 で祝 盃 を あ げ た。 を 讃 え る ため 、 ヒ ト ラ ー少 年 団 ・突 撃 隊 ・鉄 兜 団 の協 力 のも と に提 灯 行 列 を 行 い、 ひき つづ い て村 の ド レー ゼ ン酒場 秋 休 み 中 の九 月 二 八 日、 馬 鈴 薯 の積 込 作 業 の途 中 に恐 ろし い事 故 が起 った 。 数 人 の子 供 が馬 鈴 薯 を 積 込 ん だ荷 車 の 上 に 坐 り 、 薯 の小 玉 を お 互 いに 投 げ 合 って遊 ん で いた 。 一寸 し た ひ ょう し に薯 の山 が 崩 れ て、 一〇 才 の ペ 喜 多 ー ・ウ ェー バー が 荷 車 か ら 転 落 し た 。 し か も 運 悪 く そ の頭 が 車 輪 のす ぐ 前 に落 ち 、 荷 車 が少 し 動 い て頭 蓋 骨 を 圧 し 潰 し て し ま った の であ る 。 そ れ を 見 て いた 人 々が す ぐ 少 年 を エ ッシ ュの医 者 に運 び 、 そ こか ら さ ら に オ イ スキ ル ヘン市 の病 院 に 運 び 込 ん だ 。 子 供 に 仕 事 の手 伝 い を させ る時 に は 、 よ ほ ど 気 を 付 け な け れ ば いけ な いと いう 警 告 を 前 か ら し てき た が、またし. ても 悲 し む べき事 件 と な った 。 日 曜 日 の午前 = 時 、学 童 ぺ⋮ タ i ・ウ ェー バr は 死 ん だ 。 埋 葬 は 一〇 月 四 日 の水 曜 日 に 行 な わ れ 、多 勢 の人 々が参 列 し た 。 馬鈴 薯 の収穫 は、 穴 を あ け る害 虫 が 発生 し た り、 ま た 薯 が 全 般 的 に小 玉 であ った に も か か わ ら ず、 乾燥 のお か げ で 豊 作 であ った 。今 年 は夏 休 み は 四 週間 、 秋 休 み は 二 週 間 で あ った 。 以前 は こ の関係 が逆 で あ った 。 し か し 現在 の規 定 は 、学 校 に と っても 子供 に と って も、 健 康 上、 授 業 ・ 上 ど ち ら が都 合 が よ い か と い う点 にも と ず い て い る 。 八 月 の暑 い ガウ 一〇 月 の七 日 と 八 日 に は、 ラ イ ン沿岸 の文 化 行事 の 一部 と し て、大 管 区教 員 大会 が開 か れ た。 こ の 大会 は小 学 校 か 時 期 に は授 業 は と ても 無 理 だ か ら であ る。 今 年 の冬 季 慈 善 事 業 ば、 困 窮 状 態 にあ る ド イ ツ人 に衣 類 ・食 品 ﹂暖 房 用 品 を 贈 る事 業 であ る。 こ れ ら は ど こ の村 で ら 大学 ま での教 員 の団 結 を誇 示 す るも の で あ った。 も 活動 的 な協 力 者 達 に よ って集 め ら れ た。 ﹁お金 や生 活 用 品 や 衣類 を ど う ぞ !﹂ 止 いう のは 、 ﹁ , 手 工業 週 間 の ス ロー ガ ン であ り、 一〇 月 の 一五 日 か ら 二〇 日ま で手 工業 者 が こ れ を呼 び かけ て募 集 し た。 こ の週 間 の初 日 の 一五 日 に は、 あ 6 - ら ゆ る 町 や 村 で祝 い の行 事 や行 列 が行 な わ れ る が、 そ の行 列 に は、 様 々な職 種 の手 工 業 の仕 事 ぶり を 展 示 す る た め に 趣向 を. こ ら し た飾 り付 け を乗 せ た車 が参 加 す る の であ る。 今 年 の 祭 に ワ イ デ ス ハイ ム は、 隣 町 の ク ー ヒ ェン ハイ ムと 協 同 で参 加 す る こ と に な った 。 国 際 連 盟 に お け る ド イ ツ の同権 化 は 、紙 の上 だ け の話 だ。 他 の国 は み ん な軍 備 を持 って いる のに、 ド イ ツだ け が武 器 を持 って い な い 。 こ れ では体 面 が 保 て な い 。 そ こ でド イ ツは、 一〇 月 一= 日 国際 連 盟 を 脱 退 し、 い わ ゆ る軍 縮 会 議 フ エロ ン ライ ン 一 一月 九 日 、 ヒ ト ラ i 少 年 団 基 幹 フ ッガ i 隊 員 の 選 抜 試 験 が ベ ル ク ム 村 で 実 施 さ れ 、 わ が 村 の 族 旗 隊 員 た ち も そ こ か ら退 席 し た ので あ る 。 . ヤニ へ行 進 し て 行 った 。 、 ( 14) 一 一月 一二 日 、 あ ら ゆ る 町 村 で 国 民 投 票 と 帝 国 議 会 選 挙 が 行 な わ れ た 。 国 民 投 票 で は 、 九 三 % の 票 が 、 ヒ ト ラ ー の 二四九名、投票姦 二三五名 ( 投票率瑠 %) 、護 票三 七( 九 国際 連 盟 脱 退 お よ び これ ま で の祝 福 を も た ら し 働 き場 所 を 増 や す 政 策 に対 し て、 賛 成 を 表 明 し た。 ナ チ ス党 は そ の選 ・得票数は次 の通り であ・.有権姦 挙 公約 に 対 す る 賛 成 票 を 、 全 体 の九 二% も 集 め た 。 わ れ わ れ は これ によ って、 再 び 統 一ド イ ツと な 矧㌦κの だ。 当村に菊 七 % )、 反対 票 三、 無 効 票 五 。 国 家社 会 主 義党 支 持 票 二〇 八 (八 八 %)、 無 効 票 二七 であ った。 今 年 の マ ルチ ン 祭行 列 は 一 一月 一〇 日 に行 なわ れ た た。 前 日 から 自 作 の提 灯 が学 校 の講 堂 に 展示 さ れ、 各 自 が ほ う び を 貰 った。 提 灯 行 列 は楽 隊 つき で村 を ねり 歩 き 、 マ ルチ ンの焚 き 火 のと こ ろ に到 着 し た。 そ こ で前 か ら馬 に乗 って シ ユ ルラ ト 来 てい た 聖 マルチ ン役 のミ シ ェルが、 焚 き 火 に火 を つけ る言 葉 を 唱 え た 。 そ のあ と校 庭 で子 供 た ち への菓 子 入 り 紙 筒 の配布 が 行 な わ れ た た 。 ・ これ に 代 ・て八 月 百 か ら ボ ン の視学 官 に は・ エスタ i 了 ス博 戯 が 就 任 し て いた が ・ = 旦 吾 から、ケ 一 一月 一五 日、 ク ! ヘ ン ハ イ ム で 連 合 役 場 の 会 議 が 開 か れ た 。 こ の 年 七 月 三 一日 に 、 そ れ ま で の 視 学 官 ノ ルヴ ィ ス タ ラ ー ト 氏 が 、 官 吏 職 業 団 体 再 建 法 に よ っ て職 を 辞 し た 。 彼 は ボ イ エ ル市 郊 外 の キ ュー デ ィ ン グ ホ ー フ ェ ン の校 長 に 転 遍 一 一月 二四 日、 当 村 参 事 会 は こ の村 に 農 村 的 な 職業 学 校 を設 置 す る こと を 決 定 し た 。 新 視 学 官 プ ロイ ヒ博 士 が 一 一 ルン の元 教 員 プ ロイ ヒ博 士 と 交 代 す る こと にな った 。 2 7 - 月 二 四 日来 校 し、 一時 間 日 の算 数 の授業 を参 観 し て後 、教 員 住 宅 の老 朽 状 態 を 視 察 し 、 住 居 の狭 さ と 湿 気 に よ る欠 陥 = 一月 四 日 (日曜 日 ) か ら来 年 (一九 三四 ) ま で の予 定 で、 卒 業 生 のた め の補 習 教 育 授 業 が 始 ま り 、 そ の た め、 教 フオ ルト ピ ルドウ ング に つ い て の教 師 の訴 え を 聞 いた 。視 学 官 は 、 こ の不 備 な状 態 を 改 善 す る こと に力 を 尽 く す こと を 約 束 し てく れ た。 室 全 体 の照 明 のほ か に 、 教 師 の頭 上 に も う 一つ照 明 を つけ た 。 隣 村 の エ ッシ ュか ら も 青 年 が登 校 し 、 生 徒 数 は 一 一人 と な った 。教 室 に お いて あ る ア ドヴ ェント節 理 のお か げ で、 生 徒達 は ク リ ス マス の祝 祭 の こと に気 付 き 、 今 年 の冬 も 貧 し・ い 人 々 の こと を考 え て援助 を し な け れ ば な ら な い こと を想 起 し た 。今 年 は 一 一月 の末 頃 か ら 持 続 的 な 結 氷 期 間 に 入 った。 ツ エレ ンライ タ 一二月 二 三 日 か ら ク リ ス マス休 み が始 ま り、 一月 八 日 ま で続 く 。今 年 のク リ ス マス祝 祭 は、 わ れ. わ れ の貧 困 な 同 胞 たち にと っても 、 喜 ばし い 祭 で あ った。 と い う のは、 こ の村 では細 胞指 導 者 と し て の教 師 マイ ヤ i ︹ 本 人 ︺ の指 導 の 一九 三 四 年 も と に、 キ リ スト の子 供 連 から の贈 り 物 が冬 季 援 助 品 と し て困窮 家 庭 に届 け ら れ た か ら であ る 。 一月 八 日、 退 役 軍 人 故 ヒ ラ チ ウ ス ・キ ー ル氏 が 多 勢 の参 列 者 によ って墓 地 に担 がれ て行 った 。 霊 枢 行 列 に は ヒ ト ラ 一 ・ユー ゲ ント が 団 旗 を も って参 加 し た 。 一月 一三 日 、建 設 委 員 会 に よ る 学校 視 察 が あ り 、 地 下 室 か ら 物 置 に到 る 校 舎 全 般 の測 量 が行 な わ れ た 。 ま た冬 季 援 フ ユロラ 一月 一八 日 と 一月 三 〇 日 は 、 鉄 の宰 相 ビ ス マ ル ク に よ る 第 二 帝 国 お よ び 愛 す べ き 総 統 ア ド ル フ ・ヒ ト ラ ー に よ る 第 助 事 業 を 記 念 す る封 絨 切手 が 発行 さ れ た 。 . ラー は こ の家 屋 を 、 内 側 か ら 構 成 し 直 す こと によ って、 三 帝 国 の建 国 日 で あ り 、 わ が 国 民 に と って 二 大 記 念 日 で あ る 。 多 く の 石 こ ろ の 集 ま り に す ぎ な か っだ わ が 国 を 確 固 と し た 家 屋 に 仕 上 げ た の が ビ ス マ ル ク で あ り 、 ア ド ル フ ・ヒ ト 、 つか り と 支 え 護 ろ う と し て い る の で あ る 。 新 し い 政 権 の 一年 間 の成 果 は 、 総 統 の 選 ん だ 道 が 正 し か った こ と を 示 し て い る 。 だ か ら 、 わ れ わ れ は 喜 ん で 彼 に ﹁ハイ ル ・ヒ ト ラ ー ﹂ と 呼 び か け る の で あ る 。 今 日 の 記 念 式 で は 、 子 供 連 に し こ の よ う な 考 え を で き る だ け わ か り 易 く 話 し て き か せ た 。 式 の あ と は 休 校 に な った 。 ﹂今 週 億 雨 樋 、 竪 樋 、 屋 根 板 の つ 廿 更 え が 行 な わ れ た 。 ま た 補 習 授 業 時 間 の暖 房 の た め に 、 = ハラ イ ヒ ス マ ルク を 教 ー2 師 に支 給 す る こと が、 村 参 事 会 で承 認 さ れ た。 、 (19 ) 二月 一〇 日、 か って 一九 一= 年 に こ の村 の教 師 を 退 職 し 、 八 二才 ま で長 生 き さ れ た故 ハム バ ッ ハ先 生 がボ ン市 エ ン デ ニヒ の墓 地 に埋 葬 さ れ た。 同 先 生 は こ の村 に 一生 涯 を 捧 げ た にも か か わ ら ず 、 こ の学 校 には そ の名 を 記 る すも のが 何 も 残 さ れ て いな い。 全 く こ の村 と き て は、 こ の老 先 生 に対 し ても 、一 ま た他 の先 任 者 や後 継 者 に対 し ても 、 道 の上 に 沢 山 のと げ を ば ら ま い て おく よ う な こと を し てき た の だ。 それ は学 校 日誌 を 見 れ ばわ か る。 ワ イ デ ス ハイ ムと いう こ オ ルツグ ル ツベ ン ロオプ マ ン (ク ー ヘ ン ハイ ム) 地 区 集 団 ・隊 長 - 党 員 教 師 マ ン氏 パ ルタ イゲ ノ ツセ ・ (ロ イ ツ ハイ ム村 ) ワ イ デ ス ハイ ム に関 係 す る国 家 社 会 主 義 教 員 連 盟 ( Zωいしd)の各 級 組 織 と そ れ ぞ れ の指 導 者 名 は 次 の通 り であ る 。 の村 に対 し て、 老 先 生 が何 も 物 を 言 わ な か った の は そ の た めだ と い う こと が よく わ か る。 ク ライ ス オブ マ ン (バ イ ロ イ ト ) (ケ ル ン) 党 員 シ ェ ム氏 党 員 教 師 シ ョ ット氏 教 育 官 ・党 員 グ ロ ス博 士 (オ イ スキ ル ヘン市 ) オ イ スキ ル ヘ ン 郡 東 部 ガウ サオ プ マ ン 管区隊長ク ライ スラ イ タロ ミ ニスタぼ 大管区隊長管区指導者担当長官一 フエアアイデ多 ン 死 メヅ セ 二月 二 五 日、 全 ド イ ツ帝 国 に お け る見 お よ び そ の外 廓 団 体 の政 治 指 導 者 の 宣 誓 式 が、 ミ ュン ヘン の副 総統 ル ド ル ら ロ テ ンゾ ンタロ ク ブ ・ ヘ ス の指 揮 の も と に 挙 行 ざ れ 、 ケ ル ン ・ ア L ヘ ン大 管 区 で は 、 ケ ル ン の 見 本 市 ホ ー ル で ミ ュ ン ヘ ンか ら の中 継 放 送 のも と で行 なわ れ た。 な お こ の日 曜 日 は死 者 慰 霊 日 であ った。 今 月 は レー ス の バラ 飾 り と在 外 ド イ ツ人協 会 バ ッジ 二 月 二 六 日 、 補 習 教 育 授 業 が 終 了 し た 。 こ の村 で の 一鍋 食 事 に よ る 節 約 献 金 の 集 ま り 具 合 は 、 月 に よ っ て 全 く ま ち ア イ ントプ ゲリ ヒ ト の販 売 に よ る義 援 金 の募 金 と献 納 が特 に熱 心 に行 なわ れ た た。 フオ ルク スヴ オヨ ル フア ル ト ま ち であ る。 . 一〇 月 億 三 六 ・九 〇 マ ル ク 、 一 月 は 二 一 ・二 山ハマ ル ク 、 一二 月 は 二 六 ・ 一〇 マ ル ク 、 一月 は 一八 ・八 五 マ ル ク 、 二 月 は 二 二 ・六 五 マ ル ク 、 三 月 は 二 四 マ ル ク で あ った 。 さ し あ た り A﹁月 で こ の募 金 は 終 了 す る が 、 こ の募 金 に は ナ チ ス国 民 福祉 のた め の大 運動 が 展開 さ れ、 多 く の寄 金 者 を 獲 得 し た ので あ る。 今 年 度 は 三月 二 八 日 を も って エパ ンゲ リシ ユ (20 ) 三 人 の少 年少 女 が学 校 を去 って行 った。 復 活 祭休 暇 は 三月 二九 日 か ら 四月 二 五 日ま で続 く 。終 業 日 と始 業 日 に は 必 ら ず 国 旗 を掲 揚 す る こと に な った 。男 子 一人、 女 子 一人 の二 児童 が オ イ スキ ル ヘン市 の福音 派小 学 校 へ転 校 し た の で、 当校 の児 童 数 は 三 七 人 と な った 。 29 ー 新 学 年 に当 って、 男 子 二 人、 女 子 二人 の 一年 生 が入 学 し た。 そ の ほか 隣 村 から の転 校 一人 と ノ イ ン キ ル ヘンか ら来 村 し て ク レ ーブ ルヒ の コー ネ ン家 に住 み込 ん だザ ー ルの少 年 が 入校 し た の で、 児 童 数 は 合 計 四 三 人 と な った 。 デ イ ツケ 五 月 一日 は労 働 の 日 な の で、 こ の村 で も本 来 祝 祭行 事 が行 な われ る はず で あ った。 そし て そ の た め の準 備 も 着 々と パウ エル ン 行 な わ れ て い た 。 と こ ろ が こ れ に 同 意 し な い 人 々 が い る た め に 、 大 変 む つ か し い こ と に な った 。 い わ ゆ る "太 った " 農 家 の人 々 の多 く は、 祭 り の行 列 に つい て村 中 を ねり 歩 く な どと い う の は ば かげ た こ と だ と言 う ので あ る。 か げ で何 か の工 作 が行 な わ れ たら し く 、 突 然 あ ま り 頼 り に なら ぬ地 区集 団 指 導 者 から 理解 に苦 し む よう な命 令 が届 い た 。,ワイ デ ス ハイ ム で の行 事 はす べ て取 り 止 め、 隣 町 ク ー ヘン ハイ ム の行 事 に合 流 せ よと いう の であ る。 こ の村 では ニー 三 人 ム ツター ター ク (21 ) の農 家 の言 う こと が通 ってし ま う の だ。 そし て、 隣 町 の行 事 に参 加 す る な ん て悲 劇 だ と い う声 も聞 か れ た。 母 の 日 の五 月 = 二日 は学 校 が休 みな の で、 前 日 の 一二 日 に母 の 日 の意 義 に つい て解 説 し た。 五 月 五 日に は 管 区 教 員 大 会 が ケ ルン の見 本 市 ホ ー ルで、 ま た六 日 に は ラ イ ン ラ ン ド ・ホ ー ルで開 催 さ れた 。 ,. 前 に 述 べた よ う に 、 教 員 住 宅 の老 朽 化 が著 るし く な ・ つた の で、 村 で は 郡役 所 の建 築 部 に依 頼 し て改 築 計 画 を 仕 上 げ し て貰 った 。 同 建 築 部 で は、 現 在 の教 室 を 住 宅 部 分 に含 め、 現 在 の校 庭 を 校 舎 敷 地 にし て別 に教 室 を 新 設 す ると い う案 五 月 工 八日、 教 員 住 宅 の湿 気 そ の他 の障 害 に関 し て、 村 長 か ら 教 師 あ て の文 書 を 受 取 った。 これ によ れば 、 村 と し を 提 出 し た が 、 こ の案 では 一二、 ○ ○ ○ マ ルクと いう 高 額 の経 費 を 要 す る た め、 村 参 事 会 の同 意 が得 ら れ な か った。 ては そ の家 屋 維 持 義 務 にか んが み、 教 員 住 宅 を 明 渡 し 、 他 の住 居 を 探 す こと を 、 教 師 の裁 量 にま か せ ると いう の であ る 。 教 師 に対 し て何 た る軽 視 であ ろ う か 。 こ の村 は 一九 二四 年 以 来 ただ の 一〇 〇 〇 マ ルクし か 負 債 がな い豊 かな 村 な のだ 。 そ の程 度 の負 債 な ら と つく の昔 に 償 却 でき たは ず だ (これ は地 租 の 一六 〇 % だ が、 郡 内、 平 均 で は 二 八○ % もあ る)。 教 会 や司 祭館 や司 祭庭 園 に出 す 金 は 沢山 過 ぎ る位 持 って いる よ う に 見 え る の に、 学 校 に出 す 金 は何 も な い と い った 壁 の修 理 に約 一、 ○ ○ ○ マ ルク、 司 祭 館 と そ の半 分 し か な い教 師 官 舎 の家 賃 が同 額 で、 司 祭 庭 園 は無 料 な の に教 う のだ 。 二 ・三 の例 を あ げ よ う 。 鐘 の寄 進 に 富 農 か ら 四 、 七 〇 〇 マ ルク、 それ を 吊 るす の に 八○ ○ マ ルク、 教 会 の湿 師 庭 園 の方 は 二五 マ ルク と い った 有 様 な のだ 。 六 丹 一 一日、 バー ゲ ン の加 里 鉱. 山 で起 った 事 故 の被 害 者 の瞑 福 を 祈 る ため 、 す べ て の公 的 機 関 で半 旗 を掲 げ た。 一 03 ユ ○ 日 から 一 一日朝 にか け て の夜 中 に、 村 か ら隣 町 ク ー ヘ ン ハイ ム へ行 く 道 路 で、 オ ー ト バ イ に乗 った若 い男 女 が馬 車 .し て重 傷 を 負 う と いう 事 故 が あ った。 ( 六 月 一八 日付 、 視 学 官 プ ロイ ヒ博 士 の検 閲 署名 ) に衝 突 六 月 一八 日 の午 後 、 上 級 行 政 官 ル ンゲ 氏と 視 学 官 プ ロイ ヒ博 士 が視 察 のた め来 校 、 各 学 年 の授 業 を参 観 し た。 彼 等 は そ の成 果 に つい て概 ね満 足 の意 を表 し た。 そ れ に引 続 い て来 校 し た連 合 役 場 の所 長 ギ アリ ヒ博 士 お よ び村 長 シ ュテ ー ヒ氏 と 共 に、 教 員 住 宅 の視 察 を行 った 。 以前 か ら指 摘 さ れ てい た老 朽 住宅 の修 理 の必要 性 は 認 め ら れ た が、 経 費 負 六 月 二 三 日、 全 国 青 年 体 育 祭 記念 の競 技 会 が ク ー ヘン ハイ ム で開 催 さ れ、 ワイ デ ス ハイ ム の青 年 五 人 が勝 者 と な つ 担 の問 題 があ る の で、 い つ修 理 に着 手 す る か は今 後 さ ら に検 討 す る こと に な った 。 フォル ク スミ ツシ オ ン 、て帝 国 スポ ー ツ指 導 者 の免 状 を 貰 った。 村 の少 女 達 は輪 舞 に参 加 し た。 . 1 七 月 即日、 村 で民衆 伝 道 会 の継 続 会 が 開催 さ れ た が、 そ こ で大変 不愉 快 な序 幕 が あ った 。僧 侶 が 大 変 も った い ぶ っ た無 礼 な や り方 で世 俗 的 な権 力 を 主 張 し よ う と し た の であ る 。 ミ サ の最 中 に 伝 道 司 祭 が 少 年 席 に 行 き 、 一人 の小 さ い ぺ トペ ンケ B 桝 の走 のせ・ お 祈 り の間皆 が ど のよ う に 席 に つ い て いる か を 示 し た 。 説 教 が 始 ま 男 の子 を 座席 か ら 抱 き 上 げ て瓢 ・主任司祭が説教蟹 玉 か ら これ を 静 め ・ 子 供達 の思 う 通 り に 席 を と る よ う に さ せ てし ま ・ る と、 大 き な 女 の子 た ち ま でが た め ら いな が ら も 、 い つも と 違 って祈 疇 台 の上 に 立 ち 上 った 。 そ こ で私 が彼 等 に席 に 着 くよう声をかけ麓 た 。 私 は これ を無 視 す る こと にし た 。 わ れ わ れ の教 会 は こ のよ う な こと にど の よ う に し て、 責 任 を と る の であ ろう か 。 七 月 四 日 、 私 は こ の事 に つい て視学 官 に 報 告 書 を 提 出 し た 。 も う 一つの不 愉 快 な 事 実 は、 教 会 の みな ら ず 農 民 た ち の間 に も 、 学 校 と 教 師 に対 す る 一見 し て明 白 な 敵 意 が生 ま れ てき た こと であ る 。 こ の こと は特 に村 長 や村 参 事 会 の学 校 お よ び 教 師 に対 す る態 度 によ く 表 わ れ て い る。 例 えば 、 今 ま で にも マイ ヤ ー村 長 時 代 に はH ・T 両 教 師 に、 ウ ィン タ ー シ ャ イ ト村 長 時 代 に はT ・G ・M の各 教 師 に対 し て同 様 で あ った し、 そ れ が現 村 長 ベ ルナ ー ド ・シ ュテ ー ヒ氏 と 教 師 マイ ヤ ー- と の間 にも 表 わ れ て いる の であ る 。 今 年 度 、 私 は庭 園 を 借 り る の を や あ、.機 械 技 師 ク ラ イ ンダ ー ルに譲 る こと にし た の で、 彼 は家 か ら 庭 に出 る扉 を閉 鎖 し よう と し 允。 彼 は休 暇 で私 が不 在 の澗 に、 村 から 許 可 を 得 て そ の扉 を 閉 め てし ま った 。 私 は事 前 に彼 か ら そ の こ " , と を 聞 い ては いな か った の で、 村 長 を 通 じ て元 通 り にさ せた 。 と こ ろ が七 月 六 日彼 は 再 び 扉 を 閉 鎖 し 、 こ の度 は シ ュ テー ヒ村 長 も これ を 支 持 し た 。 そ こ で私 は 穴 を 開 け て自 分 の権 利 を 強 行 せ ざ る を え な い こと にな った 。 七 月 六 日、 今 年 の夏 の遠 足 は シ ュタ イ ン バ ッ ハ渓 谷 へ徒 歩 行 を 行 った。 そ こ では 目 下 ダ ム の基 礎 工 事 が行 な わ れ て お り 、 子 供 達 はダ ムの基 底 部 の広 さ が如 何 に巨 大 な も の であ るか に つい て、 強 い印 象 を 得 る こと が でき た。 今 年 は春 から 夏 に かけ てず っと 乾 燥 し た 天気 が続 い てき た が、 七 月 の末 に な って数 回 の雷 雨 が あ った。 乾燥 にも か か わ ら ず 、 今 年 は豊 作 で、 特 に果 物 が良 い。 オ イ スキ ル ヘン市 では、 悪 性 で は な い が パ ラ チ フ スが発 生 し た の で、 夏 ・ 休 み入 り が数 日早 ま った。 し か し こ の 村 に影 響 す る ほ ど に は な ら な か った。 当 村 の夏 休 み は 七月 二七 日 に始 ま り、 八 , 七 月 九 日、 女 生 徒 の ア. ンナ ・シ ュバ ル ツと カ タ リ ナ ・ウ ィー ラ ント の二 人 が、 ナ チ ス国 民 福祉 事 業 に よ って 五 週 間 月 二 二 日ま で続 く 予 定 であ る。 八月 二 日午 前 九 時 頃 、 わ れ わ れ の敬 愛 す る ヒ ンデ ルブ ルク 大統 領 が 老衰 のた め 八 七才 で死 去 し た。 埋 葬 式 は 火 曜 日 の予 定 で東 プ ロイ セ ン へ休 暇 旅 行 に派 遣 さ れ た。 八 月 7九 日、 ア ド ルフ .ヒ ト ラ ー の大 統 領 就 任 に つい・ て の国 民 投 票 が行 なわ れ た が、 こ の村 で は 三 六票 も の 反対 票 に 挙 行 さ れ 、 遺 体 は タ ンネ ン ベ ルク の記 念 墓 地 で静 か な 眠り に つい た。 か ら、 毎 週 罫 罵 餅 ど いう 制 度 が開 始 さ れ る こと に な ・た の で・ 時 間 割 を変 更 す る こと に な ・. 焔・ が 出 た 。 ・れ は あ る 種 の範 囲 の反 対 工 作 に よ るも の で驚 く に当 ら な い が・ ま こ と に悲 し む べき こ と 簗 八月 二 百 . 金 曜 の午 後 を 宿 題 の片 付 け の時 間 と﹁ し て空 け る こと とし 、 ま た水 曜と 金曜 は午 後 一時 ま で授 業 を す る こと と し た。 な お この 村 の 人 々にと って、 実 際 に 一時 ま で授 業 を延 長 す る のは 不都 合 な点 があ る の で、 こ の両 日 の授 業 は 試 み に短 縮 授 業 で や って み る こと にし た。 (25 ) 旧 日 記 への補 遺 ( 前 略 ) ︹こ こま で の日 誌 の筆 者 であ る︺ 教 師 マイ ヤ ー 氏 は、 住 宅 事 情 の改善 が 進 ま な いた め、 行政 当局 の転 任 命 令 に 従 って、 ケ ルン市郊 外 の フ レ ッ ヘン へ移 った 。 こ の旧学 校 日 誌 は、 そ の内容 に 事 実 に 即 し な い記 述 が あ る た め、 視 2 13 学 官プ ロイ ヒ博 士 に よ って中 途 廃 止 処 分 を受 け、 以後 新 し い学 校 日誌 を採 用す る こ と に な った。 そ の後 、 こ の 旧学 校 田誌 は添 付 文 書 と 共 に、 一九 三六 年 二月 四 日当 校 へ返 送 さ九 て来 た。 こ の補 遺 は余 白 にあ と で私 ︹ 後 々任 の教 師 プ レ 日 に私 が当 校 に赴 任 し てき た当 時 は 、 こ こ に書 か れ て い る こと を 確 か め 、 新 し い報 告 を 挿 し ー ル氏 ︺ が書 き 入 れ たも の であ る。 , 一九 三四 年 一二月 = 鋏 む な どと いう こと はと ても 無 理 であ った。 し か し、 現 在 、 それ から 約 二年 半 こ の学 校 に勤 務 し てき た経 験 に立 って 見 ると 、 それ が実 際 に村 と 学 校 な いし 教 師 と の対 立 の問 題 であ った のか どう か に つい て、 充 分 良 く 理 解 す ると と が で き る よ う に な った。 そ の後 校 舎 が新 築 され 、 教 員 住 宅 が 拡 張 改 築 ざれ たと いう 事 実 こ そ が、 村 の犠 牲 的 精 神 を 示 す 証 拠 であ る 。 そ の上 、 学 校 用 の家 具 設 備 類 も 一新 され た。 も . つと も そ の中 に は私 の個 人的 趣 味 に 合 わ な い も のも 多 い ワイ デ ス ハイ ム に て、 ブ レー ル 一九 三 七 年 六 月 一〇 日 が 、 別 に 不 満 を 言 う つも り は な い の であ る 。 教師 紹 介 者 の 二 ・三 の コ メ ン ト 蛇 足 では あ る が、 本 文 の内 容 に つい て 二 ・三 の コメ ン トを 付 け 加 え てお き た い。 第 一に注 目 す べき 点 と し て、 わ れわ れは こ の 日誌 の断 片 的 記 述 を 通 し て、 第 二次 大 戦 前 に お け る ラ イ ン下 流 地 方 の 一村 落 社 会 の原 型 と も 言 う べき 姿 を 、 お ぼ ろげ な が ら 掴 み 取 る こと が でき る と いう 点 を あ げ な け れ ば な ら な い。 当 時 す で に ナ チ ス体 制 に よ る末 端 支 配 が加 速 度 的 に強 化 さ れ つ つあ る 中 に あ って、 伝 統 的 な カ トリ ック信 仰 に 結 び ついた 様 々な 年 中 行 事 が、 村 人 達 の生 活 の基 本 的 リ ズ ムを な す も のと し て、 な お 根 強 く 生 き 続 け て いる のを 見 る こと が でき る 。 干 ば つや害 虫 な ど に よ る農 作 物 の豊 凶 や秋 の農 繁 期 休 暇 に 子 供 連 に 農 作 業 の手 伝 いを さ. せ る こと の可 否 が 話 題 に な る な ど、 如 何 にも 農 村 ら し い記 事 があ る 一方 では 、 一〇 〇 年 ほ ど 前 に は 盛 ん に 行 な わ れ て いた 亜 麻 加 工 が 、 す でに 組 立職 人と いう 職 名 で呼 ば れ て い る) の存 在 か ら も う か が わ れ る よ う に 、 も は や こ の村 が単 な る 半 自 給 的 な 農 民 集 団 モ ン トウ ア 古 老 の記 憶 に よう やく 残 る程 度 に消 滅 し て いた こと と か 、 庭 園 の借 り 手 と し て登 場 す る 機 械 技 師 ( 正確には誰測器類 133 第. 二 に 注 目 さ れ る のは 、 いう ま でも な く 、'こ の平 和 な 村 への ナ チ ス体 制 の滲 透 のす さ ま じさ であ る。 そ れ は、 も ち よ り な る 村 落 共 同 体 的 な 性 格 の村 では な く な って いた ζと. は 明 ら か であ ろう 。 グラ イ ヒシヤ ル トウ ング ろ ん こ の急 速 に右 傾 化 し た 教 師 のや や 激 情 的 な 記 述 によ って、 多 分 に誇 張 さ れ て いる 点 が あ る と 見 な け れ ば な ら な い。 し か し 、 と り わ け 一九 三 三年 一月 末 の政 権 交 代 を 機 と し て、 い わ ゆ る強 制 的 同質 化 の波 が、 特 に教 育 統 制 と 青少 年 の組 織 化 を 通 じ て、 村 の 人 々 の生 活 を 根 底 から 変 質 化 さ せ て ゆ く 過 程 を 、 わ れ わ れ は 如実 に読 み 取 る こと が でき る。 ヒ ンデ ンブ ルク元 帥 ・楽 聖 ワグ ナ ー ・抵 抗 の英 雄 シ ュラ ーゲ ッタ ー ・古 ゲ ル マ ンの 祭 祀 等 々、 民族 主 義 .国 家 主 ゲ シ ュタポ 義 を 鼓 舞 す る諸 契 機 が動 員 さ れ て、 ヒ ト ラ ー独 裁 への道 が巧 み に粉 飾 さ れ て行 った の であ る。 し か も これ ら は 、 そ の 第 三 に、 そし て これ が最 も 興 味 を そ そ る点 でも あ る の だ が、. こ の 村 の人 々の間 に さ さ や か な が ら 、 ナ チ ズ ム へのあ 後 に訪 れ てく る ユダ ヤ 人迫 害 や秘 密 警 察 な ど の恐 怖 の時 代 の前 奏 曲 に過 ぎ な か った の で あ る 。 て描 かれ て い る。 し か し、 補 遺 の中 で記 さ れ て いる よ う に、 こ の対 立抗 争 の経 緯 τ関 す る 限 り 、 こ の学 校 日 誌 の記 述 1 騒 る種 の抵 抗 が見 ら れ る こと であ る。 も っとも 表 面 上 は む し ろ校 舎 と 教 員 住宅 の 改築 を め ぐ る教 師 と 村 長 と の対 立 と し は、 視 学 官 の判 断 の 如 く "菊 戴 幟朗 ぴ な い "点 を 含 む も のと 見 る べき であ ろ う し 、 ま た そ の こ と は 、 そ の後 村 当 局 に よ って学校 改 築 が 実 施 さ れ た と いう 事 実 によ っても 証 明 さ れ る と 見 てよ い であ ろう 。 し た が って、 事 実 関 係 の具 体 的 な 確 認 は 、 今 と な っては 極 め て困 難 であ るけ れ ど も 、 こ の自 か ら ナ チ スの細 胞 指 導 者 を も って任 ず る教 師 に対 す る 村 長 は じめ 若 干 の "富 農 " た ち の行 動 の中 に、 単 な る個 人 的 ・感 情 的 対 立 を 超 え て、 ナ チ ス体 制 への消 極 的 抵 抗 の姿 勢 を 見 る こと は 、 あ な が ち 不 当 と は 言 え な い の では な か ろ う か 。 それ は 、 上 か ら 押 し つけ ら れ た祝 祭 日 であ る "労 働 の 日" (メー デ ー の ナ チ ス版 ) や "母 の日 " ( 戦 時 下 日本 で の生 め よ 増 や せ. よ 運 動 の ド イ ツ版 ) な ど に 対 す る 、 一部 の て の 一件 が、 唯 一の具 体 的 事 件 であ る が、 これ は それ ま で表 面 には 現 わ れ な い が、 も と も と く す ぶ って い た対 立 が 一 人 々 の非 協 力 と いう 点 にも 表 わ れ て い る。 教 会 と 教 師 と の対 立 に関 し ては 、 一九 三 四 年 七 月 一日 の民 衆 伝 導 会 に際 し 一九 三 四年 八月 一九 日 の ヒト ラ i体 制 への信 任 投 票 に際 し て( こ の 村 で 投 ぜ ら れ た 三 六 票 の反 対 票 であ った の であ 挙 に爆 発 し たも ので あ った の で は な い かと 推 測 さ れ る。 そ し て、 以上 のよ う な こ の 村 の 抵抗 の底 流 の具 体 的表 現 が 、 る 。も ち ろ ん、 こ の村 に お い ても そ れ は少 数 派 であ り、` 歴史 の流 れ を変 え る 力 に はな り 得 な か った 。 し か し 、 少 な く (26 ) や教 育 関 係 者 の 一部 の人 々 の抵 抗 を 支 え る精 神 的 拠 り ど こ ろと な った であ ろう こと は 想 像 に難 く な い。 と も こ の当 時 、 ナ チ スの強 制 的 町 費 化 政 策 に対 し て容 易 には 屈 服 し ょ う と は し な か った教 会 の姿 勢 が、 こ の村 の住 民 以 上 が こ の学 校 日誌 の紹 介 に当 って、 筆 者 が注 目 に値 いす る と 考 え た こと の要 点 であ る。 あ る い は複 雑 な 歴 史 過 程 に つい て の知 識 と 理 解 を 欠 く た め に誤 解 や見 当 違 い に陥 って い る点 が多 々あ るか も し れ な い。 読 者 の教 示 を 侯 つ次 第 であ る。 終 り に、 こ の資 料 の提 供 を 快 く承 諾し 朗 読 の労 を 惜 し ま れな か った 出.い。団 氏 に厚 く 感 謝 し た い。 な お録 音 テ ープ か ら 起 す に当 って協 力 し てく れ た石 井 悦 子 、 なら び に聴 取 り の 困 難 にも とず く底 本 の 不備 を録 音 と 対 照 の上 訂 正 し て ケ ル ン ・アー ヘ ン平 坦 地 域 ワ イ デ ス ハイ ム村 の 調 査 か ら一 ナ チ ズ ム の生 成 ・構 造 ・帰 結 1 ﹄ 1 、 豆岩 波 書 店 、 一九 七 五 ∪一 ζ 韓 霞 一 国9 ω一Φゴ琶 αq" ω耳鼻 ε び ﹁o㎡ ①ロ 山①吻 Z 口。二〇冨 ﹃oN一 匹剛 ω§ロω一 り 野 ﹀ 偉自` H㊤鵡 ﹃駿台 史 学 ﹄ 第 ( 以 下の注記 のう ち ﹁ ﹂内 は、原本 を朗読 してくれたライ先生 が途中. で挟 んだ解説 の言葉 、﹃ ﹄ は引用書誌名 を示す。 く れ た Uμ≦ の国9 厚臼 の両 氏 にも 、 心 か ら の謝意 を表 し た い 。 (一九 七 七 年 九 月 二 五 日) 注 ( 1 ∀ 石 井 素 介 、 現 代 西 ド イ ツ農 村 の構 造 変 化i 囚 .∪'中 o島 q "U 一 ① U ①三 助o冨 三 十 八 号 、 一九 七 六 年 三 月 、 一〇 〇 ∼ = 二九 頁 。 (2 ) 閑oぎ1 切。 鳥目 ( 邦 訳 )山 口 定 ・高 橋 進 訳 ﹃ド イ ツ の独 裁 ー 年。 一つ の準備 的考 察 1 ﹃商 学 論 集 ﹄ 四 五 巻 一号 ﹁二。穿 一 。ゴー 国﹃①二 (一九 七 六 年 ) 三 、 京都 大学 ﹃経 済 論 叢 ﹄ 一〇 五 巻 (一九 七 〇 年 ) ( 3 ) 嬉 野 満 洲雄 ・赤 羽 龍 夫 編 ﹃ナ チ ス﹄ ド キ ュメ ント現 代 史 三 、平 凡社 、 一九 七 三 年 。 大 野 英 二 "ド イ ツ ・フ ァ シズ ム の社 会 的 基 盤 - ( 4 ) 最 近 の秀 れ た 研 究 と し て、 次 のも のが あ げ ら れ る 。 一五 四 ∼ 一八 二 頁 。 Ωa ①ωげ臼 α q お 課 "卜。ωO ω. 幻夢 ﹁σqΦげ一 ①件 H8 0∼ H㊤ωωのωo年 肇 Φ母 Φ浮 。 αΦ。。 閃田 切。ゴ琶 σq。。ぎ ω二酔g ω 傷賃 谷 口 信 和 "ワ イ マー ル ・ナ チ ス 期 に お け る ド イ ツ 農 民 層 分 解 の 特 質 、 福 島 大 学 八∼九三頁。 乏 ・bd窪 爵 ①"9 ω Z ω∪ ﹀℃ ぎ 一 ωユhε づσQ讐じdF HOρ しdo昌昌一しd巴 ヨ 13 ≦ ω.≧ 。日 日冨 蜜 N剛ω①巨 器 。{ ℃。壽 ﹁﹄ ( 邦 訳. ) 西 義 之 訳 ﹃ヒ ト ラ ー が町 に や ってき た ー (5 ) ( 3 ) 十 三頁 の表 参 照 。 国巻 Φ目雪 8 。ご ω冨 奮 ol ω㎝・ 9 冨 σq。 HΦ①切・ ﹄ 番 町 書 房 、 一九 六 八 年 。 げ Ω・§ Φロ ↓。≦ ナ チ ス革 命 に捲 込 ま れ た 市 民 の体 験 一 富 ( 6 ) 全 国 的 に は、 こ の よ う な ナ チ ス票 の 一時 的 減 少 が現 わ れ た の は、 一九 三 二年 十 一月 六 日 の総 選 挙 に際 し て であ った 。 前 掲 巳 。<。吋 。・冨ゴ2 と村 参 事 会 O。B①剛 巳 舞舞 が 治 め て いた が 、 個 有 の 役 場 は持 た ず、 幾 つか の町 村 が集 って中 心 町 に連 合 役 場 ( 7 ) 当 時 の こ の地 方 で の行 政 組 織 は、 こ の村 のよ う な ゲ マイ ンデ が自 治 の最 低 単 位 を なし 、 村 民 か ら選 挙 され た村 長 ○ΦB。一 ・ カギ bd貯 αq臼 ヨ。聾 臼9 を も って い た。 第 二次 大 戦 後 は ア ム ト ﹀目仲と 呼 ば れ るよ う にな つ元が 機 能 は ほ ぼ同 じ であ る 。 ( 8 ) それ ま で の ワイ マー ル共 和 国 の黒 赤 金 の国 旗 を 廃 棄 し 、 国 民 革 命 の黒 白 赤 旗 と ナ チ ス の党 旗 であ る鉤 十 字 旗 が これ にと っ て かわ った こと を 意 味 す る。 前 掲 ( 2 )邦 訳 、 1 、 三 五 六 頁 参 照 。 ( 9 ) 当 時 ナ チ スは こ のよ う に宣 伝 し 、 緊 急令 によ る 弾 圧 政 策 を 開 始 し た。 前 掲 ( 3 )、 一六 八 ∼ 一八 三 頁 参 照 。 ( 10 ) ライ氏 の 子供 の.頃 、 ﹁両 親 の いた学 校 でも 、 旗 日 に は中 央 に鉤 十 字 旗 、 一方 の入 口 に黒 白 赤 の帝 国 旗 、 他 方 に は黒 白 のプ ロイ セ ン邦 旗 を掲 げ る よ う に な った 。 し か し 一九 三 三 年 以 後 は じ め 七 ば ら く の間 は 、 鉤 十 字 旗 が ま だ な い から と 言 う こと に ・ レ て、 わ ざ とプ ロイ セ ン旗 だ け を掲 げ た も のだ﹂ と いう 。 . 匿 、 ﹁ ﹁当時 こ のよ う な 小村 では 、 小学 校 の教 師 が 国勢 調 査 の調 査 員 を担 当 さ せ ら れ て い た の で、学 校 を 休 み にし た のだ ﹂ と い ( 11 Y ユング フオルク ﹁ヒト ラi 青 年 団 が本 来 の包 括 的組 織 であ る が 、 年少 の学 童 は そ の下 部組 織 と し て ヒト ラー少 年 団 に組 織 さ れ た 。﹂ ユ ゲ ント ( 12 ) ﹁村 の中 農 の 一人 で、 一八 九 六 年 生 れ 、 当 時 三 七才 の 若 い村 長 であ った が 、 戦 後 も 永 く 村 長 を 勤 め 、 後 には 郡 参事 会 員 等 う。 ( 13 ) の要 職 にも 就 いた 。 一九 六 七 年 子息 に 農 業 経 営 を譲 って 後 も 、 長 老 と し て村 人 か ら 尊 敬 さ れ て いた 。 一九 七 四 年 没 。﹂' なお前掲 ( ユ) の ︹ 第 二表 ︺ の二 番 の農 家 が これ に当 る 。息 子 の経 営 は ︹ 第 三表 ︺ のA 農 家 であ る 。 ︿ 14 ) ブ ラ ッ ハー によ れ ば 、 こ の時 の国 民 投 票 にお け る 賛 成 票 の割 合 は 全 国 で八 七 ・八 % であ った 。前 掲 ( 2 )、 四 四 三 頁 参 照 。 ( 15 ) ライ 氏 は.﹁こ の反 対 の三 票 を 誰 が 投 じ た か に つ い ては 、 大体 想 像 が つけ ら れ る ﹂ と いう 。 ( 16 ) ラ イ氏 に よれ ば 、 ﹁こ の視 学官 から 校 長 への転 任 は 明 ら か に左 遷 で、 そ れ は 多 分 彼 がナ チ ス の やり 方 に賛 成 し な か ったせ ﹁こ の 人 は有 名 な 教 育 学 者 で、戦 後 ボ ン の教 育 大 学 の学 長 に な . つた 。 も ち ろ ん こ の人 も 国 家 社 会 主 義 者 では な か った。﹂ いだ ろう ﹂ と いう 。 ( 17 ) 6 ヨ 1 ライタド モ プ ロツク オ ルツグ ルツペ クライ ス ガ ウ オ ルツグ ルツペ ンライ タ ﹁細 胞 と い う の は ナ チ ス党 組 織 の最 低 の単 位 で 、 そ の上 に区 、地 区集 団 、管 区 、大 管 区 と いう 順 序 に地 域 組 織 が重 な って お り 、 そ れ ぞ れ に政 治 指導 者 が いて実 権 を握 って い た 。 わ れ わ れ の世 代 の者 に と って は 、 と り わ け地 区 集 団指 導 者 と い う言 ( 18 ) 葉 を 聞 く と 、あ の 恐 ろ し い ナ チ ス時 代 を想 い出 し て今 で も寒 気 が す る 位 だ 。 そ れ に比 べれ ば 、細 胞指 導 者 な ど はあ ま り大 し ﹁こ の先 生 は よ ほ ど 厳格 な 教 師 だ った ら し く 、 こ の村 の年 輩 の 人 々と話 を し て いる と 、 よ く子 供 の時 い た ず ら を し て ハ ム た 力 は持 って いな か った 。﹂ ( 19 ) バ ッ ハ先 生 にお 尻 を ぶた れ た と いう 話 が 出 てく る 。今 でも ハムバ ッ ハ先生 の 話 が 出 る と 、 必 ら ず と 言 って も いい位 、如 何 に ﹁こ の村 は 元 来 カ ト リ ック の村 な の で、外 来 の福 音 派 の子 供 は ほ ん の少 数 し か い な い。 両 親 の希 望 で町 の学 校 へ転 校 し た 先 生 が 厳 し い人 だ った か と いう話 が く り か え さ れ る﹂ そ う であ る。 ( 20 ) ﹁母 の日 と いう言 葉 を 聞 く と 、今 でも ナ チ スの こ と を想 い出 す。 私 の家 庭 で は母 の 日 の お祝 い を拒 否 し た 。両 親 が反 ナ チ の であ ろ う 。﹂ ムツタじク ロイツ ・ スの考 え を も って いる こと を 私 が初 め て 知 った のも 、 この こ と が き っか けだ った の だ 。当 時 、 た し か 三 人 の子 供 を生 ん だ 母 ( 21 ) り ﹁当 時 、教 会 の 日曜 礼 拝 の際 に は 、前 の方 の左 右 の席 に男 児 と 女 児 が別 々 に坐 り 、 そ の すぐ う し ろ に教 師 が席 を と って子 親 に は ブ ロ ンズ 、 五 人 の母 に は銀 、 そ し て 七 人 の母 に は金 の母 十 字 章 が贈 ら れ た 。﹂ (22) ﹁こ の時 の反 対 票 に は 、 恐 ら く司 祭 と そ の家 族 、 シ ュテー ヒ村 長 、 そ の他 の人 々 の投 じ た票 が含 ま れ て い る に違 い な いと な い こと で あ った 。﹂ 供 達 を監 督 す る 習慣 に な って い た 。 し か し司 祭 のす る こと に対 し て教 師 が敢 え て 口 を出 す よ う な こと は 、決 し てし て は な ら (23) ﹁当 時 、毎 週 土 曜 日 、 ヒ ト ラ i ・ユーゲ ント の軍 事 教 練 が 行 わ れ るよ う に な った。﹂ 思う。 ﹂ (24) の校 舎 の 創設 の 歴史 と そ の後 の村 内 で の移 転 の経 過 な ら び に教 会 のオ ルガ ン設 置 の経 過 が細 々と 記 載 され て い る が、 本 文 の (25) こ の補 遺 は 、 日誌 中 断 か ら約 三年 の後 に な って、 後 任 教 師 が書 き 加 え た も の であ る。 そ の前 半 には 、 こ の村 の教 会 と 学 校 グライヒシヤルトウング 内 容 と あ まり 関 係 が な い の で省 略 す る こと にし た。 以 下 に述 べら れ て い る。 (26) ナ チ スの強 制 的 同 質 化 の強 行 に対 し て、 こ の時 期 の教 会 組 織 が 行 な った 抵 抗 に 関 し ては 、前 掲 ( 2 )邦 訳 、 皿 、 六 八 七 頁 1 りむ 7