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フランスにおけ
富 田 仁 フ ラ ン スに お け る 日本 仏 学 史 交 献 ・資 料 一九 七 四年 七 月 二 一日 か ら 九 月 六 日 ま で 、 ふた た び 訪 れ た フ ラ ソ ス の地 で、 メ ル メ ・ド ・カ シ ョソを 中 心 に日 本 仏 学 史 研 究 に必 要 な フ ラ ソ スの文 献 ・資 料 を 採 訪 す る 機 会 に めぐ まれ た 。 以 下 は そ の採 (這 ◎ 。 パ リ 第 五 区 バ ック 通 り 一二 八 番 地 カ⊆o α⊆ bdp 。ρ 勹霞 凶 ω) の海 外 布 教 団 ζ 凶ω゜。δ昌ω で ジ ャ ソ ・ゲ ノ オ 匂o塁 国實 穹 伽q驚 Φω 島① ℃母 団ω Ω口⑦コ鋤二 神 父 か ら み せ ても ら った カ シ ョ ソの 経 歴 に関 し て の小 さな 一葉 の 記 録 力 ー ド に よ 二 八 年 九 月 十 一日 ジ ュ る と 、 カ シ ョ ソ は 一八 ー い①ω ︼ Wo広oげo纛 聖 堂 ラ 山 中 の レ ・ブ ー シ ユ 区 に 生 ま れ 、 サ ン ・ク ロー ド の神 学 校 か ら 一八 五 二年 七 月 十 一日 パ リ 海 外 布 教 団 に入 り 、 副 助 祭 、 助 祭 、 司 祭 と 順 調 に昇 進 し、 一八 五 四年 八 月 二 五日 パ リ を 一22一 訪 記 録 の概 要 であ る 。 調 査 ・蒐 集 し た文 献 ・資 料 は 三大 別 でき る 。 一、幕 末 の外 交 史上 、 レオ ソ ・ロ ヅ シ ュの 通訳 と し て活 躍 し た宣 教 師 カ シ ョソの来 日 以前 の経 歴 二、 日 本 に最 初 に来 た フラ ソ ス人 で 長崎 で殉 教 し た ギ ヨー ム ・ク ー ル テ の生 地 と そ の伝 記 ・研 究 に関 す る 文 献 ・資 料 三、 パリ の モ ソパ ルナ ス墓 地 にあ る 入江 文 郎 ほか明 治 の日本 人 の 墓 な お、 日本 人 と し て最 初 に フ ラ ソ スを 訪 れ た 支 倉 常 長 に関 す る カ ル パ ソト ラ の ア ソギ ャ ソベ ル テ ィー ヌ図 書 館 所 蔵 文 書 も 閲 覧 し た 。 以 下 、 便宜 上 別 々に調 査 過程 を記 す が 、 実 際 に は平 行 的 に採 訪 が メ ル メ ・ド ・カ シ ョ ソ 竃 奠 ヨ Oけ α¢ O鋤Oげ8 進 め ら れ て い た こと を断 って おき た い。 ω ・ブ ー シ ュ ー カ シ ョン の 生 地,レ 出 発 し 、 日 本 に 向 っ た 。 さ ら に 、 カ シ ョ ソ の そ の後 の 経 歴 、 活 動 が ﹃パ リ 海 外 布 教 団 協 会 報 ﹄ 竃 傷ヨ oユ 巴 カ ード に記 載 さ れ て いる 。 私 は これ を ノ ⋮ ト し た あと 、 ゲ ノ オ神 父 か ら ア ドリ ァ ソ ・ロネ ー著 諺曾 幽 Φ昌 い鋤離昌①零 の カ シ ョンの項 の記 事 を 見 せ られ た。 大 要 は前 記 山o 蜜 ωoo竃 ま 鳥Φω ] ≦ 圃の毘 o旨ω 眄窪 p。昌αq驚 ①ω ︾母 ↓ o目 o 圍 ド曽 9 力 i ド と 同 じ だ が 、 カ シ ョソの著 作 と カ シ ョソに関 す る文 献 書 誌 が ω ﹁ア イ ヌ 、 起 原 、 言 語 、 風 俗 、 宗 教 ﹂. ] ≦ 8 ∬誘 堕 園 ①嵩ぴq圃o昌 ー ・原 著 α9 ω①け9 舘 U箆 o戸 α① 触ロo 同帥ooび"勹90江P HO ◎①①゜ぎ ー◎◎ 娼歹 く国- 吟幽◎° 以 上 の三 冊 であ る 。 いず れ も パ リ 国 立 図書 館 に 所 蔵 さ れ て い る (請 求 図 書 番 号 ω 。。。O。℃ω゜ ② ω 勺α鰹 ①゜ ㈲ × 卜。。。O嵩 ) 。 た だ し 、 ﹃養 蠶 秘 録 ﹂は カ シ ョ ソ の 仏 訳 本 を イ タ リ ア 訳 に 重 訳 し た 、 . じΦ 同、 晦儀郎$ 二〇昌 鉱oω <霞 の 餅 ゜・9 Φ 窪 冨 ooジ Oq<蠢 α qo も の を さ ら に 別 の フ ラ ソ ス人 に よ っ て フ ラ ソ ス 語 に 訳 さ れ た も の 、 す なわち 霞 鋤α⊆諄 α二 け⑦×8 }90℃o降鉱ω 畠o O⊆①脚9匹 上≦ o謡吋○に昆 ︾ b鋤﹃H ≦OコB Φ叶 負OOgOげoρ ℃話 ヨ δ円同口8"富 8 画O蚕 示 σq碧 凶O⇒ ◎O 閃﹃騨昌O①餌賃 旨僧℃O⇒ 嚇⑦層﹁Oα忌 け O旨 騨巴 δけ ω¢同 冨 く①円oDδ 昌 h目95ゆ巴ω① づ9鴇 囲ω賦 ○憎O U O二、 団 ヨ bユヨ o霞 よ 自淳o母 HO 。①①. . が パ リ の国 立 図 書 館 に あ り 、 カ シ ョ ソ 仏 訳 本 の 所 在 は い ま のと こ ろ 確 認 さ れ て い (図ω曾 o)" い く9舮q8 P O憎O・ : 气 ①鉱巳 け自Φ 一、 詳舘 圃 O訂 鳴9﹃ いIZ ° ℃伽OO=一 ゜ ω9冒 什←≦ ⇔同OO一嵩謬 な い 。 上 垣 守 国 の原書 ℃国二 ρ ( 一八 〇 三 年 ) ︺ o 鳥巴 ① 坤 効昌O①ω① <O犀 9 山Φ餐 o触○ いo§ び9臆象 9 勹p冨 oづ9i 嘱 鋤§ 9ーヨ 動固 O 自ΦM 且 o ぎ ωユ 9 8 a ︺①b9昌鉱 ω o昌 o⑳﹃? ブ ー シ ュ ー へ の タ ク シ ー を 手 配 し て も ら った が 、 ど こ も 出 払 って 夕 郵 便 局 前 の レ ス ト ラ ソ兼 ホ テ ル に 旅 装 を 解 き 、 マ ダ ム に 頼 み 、 レ ・ ら ず 、 十 分 ほど 歩 いて 中 心 街 に出 て、 ま ず こ の夜 の宿 を 探 し た 。 分 に 到 着 し た 。 ス イ ス 国 境 に 近 い ジ ュ ラ 山 中 の 駅 前 に は 車 一台 見 当 で 鈍 行 列 車 に 換 え 、 ナ ソ ・ク ロ ー ド ω巴 口竿 Ω 磐 αo 駅 に 十 四 時 二 六 私 は パ リ の リ ヨ ソ駅 か ら 急 行 列 車 に 乗 込 み 、 ム シ ャ ー ル ζ o仁oず母 傷 さ て 、 殉 シ ョ ソ の 生 地 が 判 明 し た の で 、八 月 十 八 日 朝 八 時 十 四 分 、 一切 省 か れ て い る 。 接 訳 出 し て い る こ と が 認 め ら れ る 。 ベ ク ー ル訳 は 原 書 の 抄 訳 で 絵 は 重 訳 の フ ラ ソ ス訳 を 比 較 検 討 し た 結 果 、 両 者 は そ れ ぞ れ 原 書 か ら 直 な フ ラ ソ ス 訳 を 出 版 し て い る 。 ボ ナ フ ー 訳 と カ シ ョ ソ訳 ・ベ ク ー ル で 集 大 成 し た も の で 、 一八 四 八 年 に マ チ ュー ・ボ ナ フ ー も ほ ぼ 完 全 ﹃養 蠶 秘 録 ﹄ は 日 本 各 地 の養 蚕 技 術 を 絵 入 り O 冨 ℃ ℃o昌① ob⑦触鋤 幽巴 α⑦ 09 一① 衛o bd⇔び覧 oづρ ] ≦ ①ω昌o計 添 え ら れ て い た こと は 有 益 で あ っ た 。 カ シ ョ y の 著 作 と し て は 、 冖 黛の旨ひ qロρ 巴 竃 く9鴨⑦ 博 び餌〇三 ︹上 垣 伊 兵 衛 守 国 一ト oQQ 幻 仁o 飢二 ω ⑳ρ 9離 ooぎ ド ooD > 貯 oω℃ O臨 σ qぎ ρ 嵩びδ 蹄 ρ ヨ Oqo 巳 ﹁養 蠶 秘 録 ﹂ H◎◎ΦQQ℃ ぎ lQ ◎ bb° トのO° 働 ロ ⑦什P 什O曾 O αq圃PbOOPΦω① ユ{ O βα吋9閃同 ] ≦ 〇二 犀O口鵠同 ℃只 O島O葺 O 導 ¢O<90ヨ ①昌8 凶口 蹄 9口o①ω① 儀鋤 ζ Φ5β Φ什 自① 0 90げoP ℃ o村 oロ靱㊤ 幽⑦牒① ωo息 ①け鋤 鋤ぴ q﹃9ユ 9 臼 凶昌 搾 巴 壁 障O OOp 鋤昌 巴 O伽qげO Oωω奠 く⇔蝕 o⇔幽 飢鋤 図ω筍 o﹃○ bqぴ甥09雷 目 君 oσ q同9h壁 90σ qαq圃 信昌什O ⊆昌 白﹃鋤け冖ρけO目O ωOO=9 00一 二 く9§ O嵩O 幽色 " ー 凶pIO◎。 bb°×<1蔭○◎° 坤 9"℃臥 ωーΦ昌ぴq圃 巴 ω← pb僧コ巴 ω (器 ﹁佛 英 和 辞 典 ﹂ 同 ≦ =9 Ω⇔〇 一◎ ◎①9 げ鋤oo 鳥Φ出効 σq⊆08 ご 什P ③ U圃 o臨 oづコ巴 お ℃母 甑o 09﹃鋤03 村①の 男律 § 貯 O 螽 oD 勹oq触 馘 ①<oo ω鋤 # 9頃ωoユ 噂什団◎昌 o昌 層9﹃鋤o 冨 娼○昌巴 の①゜ i 娼9吋 一Φω のoぎ ω 創o > ° 冨 oδ ﹁oω 6ぼ 昌9 の1冨 ℃o昌巴 ρ ⑦什 山O 目 ゜ ℃poぴq伽ω "o虞﹃ す 〇二δ ℃似Φ5ω)" b鑑三 欲 鋤づoq冨 即ωρ 一23-一 て い な い し 、 片 道 二十 キ ロほ ど の山道 で は歩 い ても 行 け な い。 私 は ク シー は つか ま らな い。 聞 けば 、 レ ・ブ ー シ ュー ま で は バ スも 通 っ い。 言 葉 通 り 、 三十 分 ほど した と き 、 一台 の小 型 乗 用 車 が 姿 を み せ 性 も 乗 込 み 、 車 を 走 ら せた 。 そ こも 不 在 だ ったQ 主 婦 はあ と 二、 三 と り の主 婦 ら し い女 性 と 出 て来 た 。 教 会 の書 記 の家 に行 こう 、と 女 る。 書 記 が ひと り の神 父 と 下 り てき た。 事 情 を 説 明 す る。 書 記 は私 十 分 も す れ ぽ 戻 るか ら 待 つ よう にと 云 う 。 仕 方 な い。 待 つ ほ か な が 神 父 と 話 し て い る聞 に、 教 会 堂 の方 に駈 け 出 し て行 った。 や が て 途 方 に 暮 れ 、 き ょう は ナ ソ ・ク ロー ド見 物 で 時 間 を つぶ し 、明 日 に に詣 でた 。 カ シ ョソも 祈 り を 捧 げ た カ テド ラ ル の荘厳 な 内陣 で 、私 も 手 段 を 講 じ て レ ・ブ ー シ ュー に た ど り つ こう と考 え 、 カ テ ド ラ ル は ふと あ る考 え を 思 い つ いた 。 急 い で外 に 出 て 近 く の僧 房 に 足 を運 き 、 私 は 全 身 に これだ け で 十 分だ と い う よ う な満 足 感 が み なぎ り わ の洗 礼 名 、 父 母 の名 な ど が記 録 さ れ て い る ・ へ: ジを 探 し 出 し た と た る のを 覚 え た 。 実際 、 そ れ 以 上 の こと は な にも 判 ら な か った。 神 分 厚 い書 籍 状 の書 類 綴 を抱 え て戻 ってき た。 洗 礼 記 録 だ 。 カ シ ョ ソ の青 年 が い るだ け で要 領 を え な い。 レ ・ブ ー シ ュー の司 祭 ス ゥー 〃 んだ 。 こ こ で調 べら れ る こと が あ れ ば 調 べ てお こう 。 ひ ょ っと す る Oξ ひ ωo彗 o の名 を 教 え てく れ た にす ぎ な い 。 オー ト ・ス ト ップ で ス (勺①憎 o <巳=o﹃ ︼ βON り9 勹Φω ω9 ◎ Q⑩ω﹃O 目Φω bdo信Oげo億×° ま た は 父 は 別 れ に 際 し て 私 のカ メ ラ に書 記と 並 ん で収 ま ってく れ 、 ア ド レ と な にか 収 穫 が あ るか も しれ な い。 だ が 、 あ い にく 若 い神 学 生 ふう レ ・ブ ー シ ュー に行 け ぽ よ いと いう 無 責 任 な こと を 口にす る男 だ っ 神 父 の話 では 、 メ ルメ 姓 は レ ・ブ ー シ ューや 近 く の ・ ヘッス 勹Φωω Φ ω図¢① α① 冨 ω09甲勺鬥 禽 02ロ﹃① ωONOO ω巴昌7Ω 9償山o) を記 し てく た 。 い さ さ か腹 が た ったが 、 礼 を述 べ て外 に出 たと こ ろ、 幸 運 にも に は少 な く な いが 、 カ シ ョソ の縁 者 か 現 存 す る か ど う か は いま は 判 一台 の小 型 タ ク シー が空 車 で走 ってく る。 レ ・ブ ー シ ュー に行 って ず れ る と す ぐ さ ま 細 ま って い く 山道 を幾 度 も カ ーブ し な が ら上 って ら な いと いう 。 カ シ ョソ の両 親 の名 は判 明 し た が 、 職 業 な ど 詳 し い れた。 行 く 。 霧 が 濃 く か か り 始 め る。 数 メ ー ト 〃先 し か視 界 がき かな く な こと は調 べら れ な か った 。 歿 年 に し ても 、 一八 七 一年 頃 と いう 程 度 く れ る かと 訝 ね ると 、運 転 手 は黙 って う なつ く 。 タ ク シー は町 を は り 、 いさ さ か 不 安 に な って く る。 や が て小 さ い聚 落 に 入 った。 レ ・ (月 ) 私 は 今 回 の 旅 行 の 一 つ の 目 的 で あ る ギ ヨ ー ム ・ ギ ヨ ー ム ・ク ー ル テ Ω巳 囲 冨 離B① 60ξ 8 け の こ と 八月 二 五 日 ② い こと が な にか わ か る こと だ ろう Q しか あ き ら か で はな い。 多 分 、 歿 し た土 地 ニー ス でも 調 べれ ば 新 し ブ ー シ ュー の道 標 が み え た 。 ど こを 訪 ね た ら よ い か。 教 会 堂 が見 え る 。 会 堂 前 の広 場 に小 さ い像 が 建 って い る 。 カ シ ョソの像 ?違 う。 大 戦 で戦 死 した 兵 士 のた め の像 だ 。 車 か ら 下 り て 、教 会 堂 の 入 口に 近 づ く 。 扉 を 開 け よ う と す る 。 が 、 固 く 閉 ま って い る 。 べ つな 入 口 を 探 し て み よう と 教 会 堂 を 回 り か け る と 、 い つし か数 人 の子 ど も が ク ー ル テ の 生 地 セ リ ニ ャ ソ ω驚 闘 oq蠧 口 訪 問 に 先 だ っ て 、 途 中 南 フ ラ 集 ま ってき て いた 。 司 祭 は スイ スに 行 ってい な い よ 、と ひと り が 云 う 。 折 角 こ んな 山 中 ま で に来 た の に、 司 祭 が 不 在 と は 。落 胆 し た私 ソ ス の ア ヴ ィ ニ ョ ソ 諺丘 σ q昌8 に 一泊 し 、 ほ ど 近 い カ ル パ ン ト ラ を 見 て、 タ ク シ ー の運 転 手 は 一軒 の家 に入 って行 き 、 間 も な く 、 ひ 一24一 O鋤巷 Φ暮 蕁 ω の ア ソギ ャ ソベ ル テ ィー ヌ図 書 館 UU同 びぎ 9 αρ二Φ 百α q〒 の 曽 α① ωヴ日δり℃自 畠= b器芻晦0 9 一 、 p∋ 冨 ωω 巴 ①霞 ユo 冒 Oo⇒ 冨 ﹃ 冨 =Φ億 飢① ω9日﹁ Ob℃㊦却 舜。信 oo旨 費目①ヨ①再 山、 oo冖 o寓 ① H ①旨 切 ソ字 で埋 めら れ て いる 。 一九 四 〇 年 七 月 、 中 村 拓 氏 が ζ 。疂 ヨ①三9 請 求 記 号 と 標 題 で保 管 さ れ て い る 。 六 ・ へー ジ の羊 皮紙 に ぎ っち り ・ ヘ 博 目げ奠 冖 団 50 ( に bdO巨 ①悉 a ≧ 三p U轟 § 鼻 H Q 。卜 9 6 ①三 轟 ω ) に支 倉 常 長 に関 す る文 書 を 閲 覧 す る こと にし た 。 朝 八 時 に アヴ ィ ニ ョソ Z6bo巳。9 に内 容 の紹 介 を さ れ て い る こと を 知 って い た ので 、ぜ ひ から バ スに乗 り 、 カ ル パ ント ラ に着 い た の は九 時 少 々前 だ った 。 図 書 館 はま だ 門 が 閉 ざ さ れ て いた 。 門 前 の掲 示 では 、 月 曜 日 は 午 後 二 と も こ の眼 で 見 て お き た か った のだ 。 ニ ョソ に引 き 返 し 、わ ず か に 四 分 間 ほ ど の乗 換 時 間 に 、 駈 け足でホー 私 は 文 書 の コピ ー をと り 、 カ メ ラ に も 収 め た あと 、 バ スで ア ヴ ィ 時 か ら 開 か れ る こと にな って い る。 私 は午 後 に は セリ ニャ ソ に発 つ た 。 三十 分 後 、 掃 除 が す む 頃 に来 る よう にと 特 別 の処 置 を と って く ム に到 着 中 の列 車 に飛 び 乗 り 、 ニー ム 2戸 ヨΦω に向 った 。 ニー ムで 予 定 だ った の で、 掃 除 中 の係 員 に事 情 を 話 し て、 文 書 の閲 覧 を 願 っ れた。 円o℃ΦN に 二 、 三 日 間 滞 在 し た 支 倉 の た め に 南 仏 ナ ソ ・ト ロ ベ ωけ ↓o ペデ ィ エ駅前 か ら タ ク シー をと ば す こと に し た。 片 道 二 ニ フ ラ ンで バ ス の便 が あ った が 、 一時 聞半 あ ま り待 た な く て は な ら な い の で 、 乗 り 、 ペデ ィ エ b づ傷臥窪 U躄 α9 の生 家 の写 真 を大 急 ぎ でと った。 そ し て、 ふ た たび 列 車 に は 、 前 回 の渡 仏 のと き撮 り洩 ら し た ア ルフ ォ ン ス・ド ー デ ≧ 9 0づω① 常 長 に関 す る 文 書 が こ の 図 書 館 に ソギ ャソ ペ ル テ ィー ヌ図書 館 に は 之四五)にも翻訳されている。ア ま では σq曾 卑 巴 α①ω﹂ ≦ 9昌⊆ω? (第 十 二 編 の は 一九 四 〇 年 の頃 の こと で 、 い エ スト ゥー ルネ 司祭 だ と 紹 介 し てく れ た 。まず 、司祭 は教 会 堂 の内 部 を 待 ち受 け て い た か の よ う に ひと り の老 人 が扉 を開 け た。 運 転 手 は ルテ の像 が鎮 座す る教 会 堂 前 の広 場 に タ ク シー が到 着 す ると 、そ れ だ と 教 え て く れ る 。 日本 に最 初 に来 た フ ラ ン ス人 、 ギ ヨー ム ・ク ー を あ げ て走 った 。遠 く教 会 堂 の塔 が み え てく る。 あ れ が セ リ ニ ャ ソ 行 って く れ ると い う タ ク シー の運 転 手 の車 は 地中 海 方 向 ヘ スピ : ド へ赴 い た 。 ギ ヨー ム ・ク ー ルテ の生 地 へは あ る こ と が 知 ら れ る よ う に な った O碧 巴 oσ q器 を 案 内 し て く れ 、 ク ー ルテ殉 教 の絵 姿 の掲 げ られ て い る片 隅 に連 れ ﹃大 日 本 史 料 ﹄ 匡 冖゜D 傷①ω げ一 σ二〇匪 9 霧 ω冒自げ嵩ρ器 ω 閃螽 g ρ 09 母 8 ヨ o巨 のー 9 ャ ソ教 会 刊 行 のパ ソフ レ ット ﹁長 崎 の殉 教者 た ち﹂ω鉱導 ω 罎 母 亳屋 て 行 って く れ た 。殉 教 者 の絵 、各 種 拷 問 の説 明 な ども あ る。 セリ ニ 住① Z凋 pωρ匹 は ク ー ルテ の生 涯 を簡 潔 に記 し た手 ご ろな 解 説 書 だ 。 ↓ 08 0×××く"09ε Φ葺 蠶 のb輿 ] ≦ ≦° 目 (勹櫛ユ9 = σ蕁 三 〇 コ o昌 一◎◎㊤O) エ スト ゥー 〃ネ 司祭 の責 任 編 集 であ る。 Uβゴ9。ヨ 〇一 9 い冨 σ器 # 09 ↓o旨 o に ょ る と 、 閃Oド 謡 bo°肉色9ユO昌 αロ 一25一 一六 一五年 十 月 初 旬 、 イ スパ ニア か ら ロ ー マに 向 う 途 中 、 悪 天候 支 倉 常 長 記 録 文 書(カ ル パ ン トラ) ㎜ ㈱ < ° 勺。 O 信博目p⊆ヨ ① Oo葺 冨 計 卷 聴 一9 ヨ o冨 ︹括 弧 内 の 記 号 は パ リ 国 立 図 要 な 文 献 は 集 め ら れ た よう だ 。 つぎ に 、 主要 な文 献 名 を . パリ 国 立 図 書 館 請 求 記 号 を つけ て 記 し てお こう 。 司 祭 は 今夜 僧房 に泊 δ 家 ・ 旨三 ①ω 一、 oωb齧 づ9 9 ω ぎ 9 ω" 9 U°O巳 =p信ヨ ① Ooξ 8 計 # と 三 け 号 ①耄 畠 ひ 昌o⊆くo昌①ヨ o暮 書 館 請 求 記 号 であ る。 ︺ (一) 菊o冨 謡§ る よう にとす す めて く ィ エの円 形 競 技 場 で催 1 αqδ ユ①磊 ① αρ 即 れ 、 夜 にな って 、 ペデ され る ホ リ デ ー ・オ ソ ω霞 ↓ o巳 cβωρ 国αoロ餌a 勺ユ く鉾 . 一〇 〇〇◎①゜ ピ①ω 蜜 爰 け鬟 ω ユq 一 )δ oαω① α、≧ σP b彎 跨 く蒔 き づ﹂ ∋ O° 畠o O ﹁oω 坤 曾 ①ω μ○。OG。° ︹い ⇒、 。 N蔭Q。G。ご 冖Φω ω蝕 簿 ω 帥 (パ リ 国 立 図 書 館 蔵 版 は 一八 九 二 年 再 版 本 で 、 ク ー 同琶 崗 一ヨ o霞 ゜・ αoω 閃碧 巳 鼠 ω 099 0=ρ器 の ℃鬟 凄 9・需 鉱 ω ∋ 彎 蔓 臨ωひ 蝉⊆ ㎏巷 o昌 鋤⊆ <同o 餓① Ω゜↓髯 巳 ρg 梓i 冒 Oo口 (吉 田 小 五 郎 訳 ・岩 波 文 "田 ω8 幽δ 山。 冨 力亀 舮q凶 o昌 oぎ 鑑 ①目 Φ 窪 モ ソ バ ル ナ ス墓 地 に眠 る日 本 人 パリ の モ ソ. ハルナ ス墓 地 に埋 葬 さ れ た こと は 記 録 にも 残 さ れ て い る あ った 入 江 文 郎 は 一八 七 八 年 一月 、 パ リ の客 舎 で病 死 し た。 従 来 、 入江 文 郎 。 明 治 初 期 の仏 学 者 で オ ー ギ ュスト ・コ ソト の 理解 者 で ㈲ 住①勹巳 ω 旨 ⑩゜。 甘 ωρ鑑、 呼 同○。﹃O な ど が あ る 。 庫 ) い仙○昌 黒 嚥雰 レ オ ソ ・. ハ ジ ェ ス の ﹃日 本 切 支 丹 宗 門 史 ﹄ ク ー ル テ に部 分 的 に言 及 して いる 文 献 な 少 な く は な い 。 たと え ぽ 住① ζ 嵩Φ'μQ。⑩い ︹cQo 冖、 づ鵠刈躯O吋α旨︺ ピ、 ﹀ σま ぐひ昌仙蕁 玄 ① Ω巳 =p蝿目 ① Ooロ嵩 ①r 菊2お 同①賃× Uoヨ 剛 巳8 ぎ ( 腿) ピo 肩 ⑦日 同奠 ル テ に 関 す る 記 述 は 第 二 巻 二 一〇 ∼ 二 二 三 ペ ー ジ に み ら れ る 。 ) ︹GOO ] [づー〇一α⑩︺ H・諺 σσひ 国 ゜ ω巴 餌げΦ答 巳 1 ( ○。) O o霞 け①酢゜ 1 ( 卜。) Z o鉱 8 ↓ 9 0ω①L ヨ づ゜畠o ℃ ﹂ ).両 ω8 団゜ 嵩 自 ゜ ︹] [⇔爵嘱 切O虧O︺ ・ア イ スにも 招 い てく れ た。 夏 の夜 空 の下 に 繰 り ひろ げ ら れ た 氷 上 の祭 典 を 私 は ア ノ ラ ッ ク 着 用 と いう 姿 で 見 物 し た。 月 光 に美 し く 映 え る 氷と 色 彩 豊 か な 衣 裳 は私 の旅 の疲 れ を い や し てく れ た。 夏 の夜 風 は 涼 しす ぎ た が、 快 通 って調 べ、 複 写 した 。 ク ー ル テ伝 を 日 本 仏 学 史 の観 点 で書 く に 必 パリ に戻 ってか ら 、 そ のと き に知 り え た 文 献 を パ リ 国 立 図書 館 に な ぜ か 拘 泥 す る も のが 私 の心 に 生 ま れ て い た のだ った。 司 祭 の 研 究 ・著 作 に 必要 な文 献 ・資 料 を そ のま ま コピ ーす る こと に メ モし 、 わ ず か な 個所 を ノ ー ト し ただ け で、 司 祭 に別 れ を 告 げ た 。 寛 大 に資 料 を提 供 し てく れ たが 、 私 は司 祭 の教 え てく れ た 文 献 名 を 必要 な 資 料 は ノ ー ト し ても よ い、 カ メ ラ に撮 し ても よ い、 と 司 祭 は い まそ れ ら を整 理 し て 一巻 の書 にま と め る予 定 だ と 話 し てく れ た 。 翌 日、 司 祭 はク ー ル テ に関 す る文 献 ・資 料 を み せ てく れ 、 ご 自 身 か った 。 地 ・セ リ ニ ャ ン) ギ ョ ー ム ・ク ー ル テ 像(生 } 一 26 が、 そ の墓 ・ の所 在 は 不明 と さ れ て い た。 入 江 家 でも そ れ を 知 ら な い ` そ の 結 果 、 萩 原 正 倫 は 朔 太 郎 と は 関 係 の な い 貿 易 商 で 、 一九 〇 二 所 に 赴 き 、 死 亡 証 明 の 請 求 手 続 を と った 。 年 一月 十 日 に 若 冠 三 三 才 で パ リ に 死 ん だ こ と が 判 明 し た 。 死 亡 届 は よう で あ った の で、 今 回 の . バリ滞 在 中 にぜ ひと も 在 処 を つきと め て 伍ひOαω み た いと 考 え て い た。 た ま た ま同 じ く パリ 滞 在 中 の高 橋 邦 太 郎 共 立 山① 林 忠 正 か ら 出 さ れ て い た 。 以 下 は 入 江 の証 明 書 。 諺08 女 子 大 学 教 授 が 墓 地 管 理 事 務 所 で調 べら れ 、 あ る 日 曜 日 、 私 を 誘 わ る こと を教 え てく れ 、 鮫 島 尚 信 と 萩 原 正 倫 の墓 に案 内 し てく れ た 。 O霧 陣導 搾 ∪①冨 乱σQぎ 嘆 o﹁ oωωo霞 口o ℃ぼ δ のo℃霞 Φ"匹ひoひαひ Φ口 ω○昌 創08 凶 o躍o 位 ℃9ユ ω﹃qΦ 畠岱 ヨ 鍛 ぎ ゜8 ε 息⑦ ま a ω 住⇔蕁 ①暮 8 口ω畠 鼠 亀Φ 凋ρヨ δ H勾田 ∪⊆ 勹誘 ヨ 凶 興 隷 くユ窪 ヨ 昌 ず信同δo①三 ωo団 ×鋤馨 ①ー象 ×1げ二坤け9 /a × げ⑦仁お oo た ま た ま 日本 入 旅 行 者 夫 妻 も 墓 地 見 学 に みえ 、 写 真 を 撮 ろうと し て 9 墓 地 の監 視 人 の ひと り が 入 江 の ほか にも 二人 の日 本 人 の墓 所 が あ れ て入 江 文 郎 の墓 に詣 でた 。 い たと こ ろ を監 視 人 に注 意 さ れ て困 って いた 。 そ れ を み て、高 橋 先 9霧 噛 5舞 賦 9 9 篝 ⑦゜・ α= の〇一 び 餅 一、 節o q⑦ Hωヨ ○ 山 巷 o昌I l O踏 ぎ ①富 貯ρ 造 ω 9 込 oω 鋤磊 " 冨 鼠 9 霞 鋤ほoロ 貯 津o 内 O偉口≦ 鋤Pユ O O誌 凶偉閃ρ。 ひ葺 & き 酔 o" 臼 ○律 ゆα qひ 9 ω磐 ω 四暮 器 の 器 磊 oお 澪 ヨ o暮 oD ω爰 ω①齢 o - 飢ΩB ①鐸騰9昌け 餅 ℃帥ユ ω ﹃=O 似Oω 男 O⊆雛冨 罠 ヨ ①ω ①ド 9 ①謬 ℃ ︼ )国 の叔 口ひ 僧"識 ω 節 α Q① 戯Φ 讒 o耳 ︿ 一Φ ﹀ 幻 菊 O Z U Hωω国同 ≦両裳↓ い国 ] ≦諺図 閃南 諺∪}O鬥Z国 剛O ¢菊 OO勹同国 OOZ 両O菊回 ≦国 護 諺 H園 国 U d ρ巳 囚 =ヨ 9 。ω巴 瓜 簿 富 oげひ 位 一.帥ヨ 9 のの巴 ⑦ 山ロ 冨 boP ℃ " 生 が チ ップ をわ たす よう にす す めた 。 す る と 、 た ち ま ち 案 内 を 申 し Φけ 血Φ⋮ ⋮ ﹃ 9盖 昌けぼ 奠 曽 ωΦ冥 出 、 私 たち に同 行 し た の であ る 。 フ ラ ン ス人 気 質 の 一端 が み ら れ て b爰 & 面 白 か った 。 鮫 島 は 日本 全 権 公 使 であ り 、 外 交 史 上 の 一入 物 で あ る が 、萩 原 の 亀⑦B o霞 鋤旨 方 は無 名 であ り 、 最 初 日 本 の詩 人 の いど こだ と いう話 で あ った 。 朔 太 郎 の縁 戚 か も しれ な いと 考 え る と 、 こ の人 物 の身 許 を 調 べ て み た 一 Φ9 q﹃0 9<①O Z O億ω 帥 ℃①ユ ω 薗くo昌鋸o 冒 総 ◎ぽ 昌o 誤 く な った。 墓 地 の管 理 事 務 所 に行 き 、 埋 葬 記 録 の閲 覧 を 求 め た 。 受 ℃諺 菊鬥ω 1 ぎ 巳 ○( & 碧 の)ぎ ゴ 導ひ δ 一 Φ 目ま乱 震 H 。 。N 。 。°<胴含 ○司国h OH 図肉 U国 い鳩 国日﹀↓ーOH く同 い 録 を 叙 勲 局 で調 べた が 、 記 録 は な か った 。中 江 兆 民 の パ リ で の 足 ど 、 パ リ 滞 在 中 、 私 は 村 上 英 俊 の レジ ョソ ・ド ヌー ル叙 勲 に 関す る 記 ℃跨力}ω℃τ 熱っトo 卜Od ↓ ドON虧 付 の マド モ ァゼ ルが 親 切 にも メ モし てく れ た こと は つぎ のよ う で あ 図 激 る 。 ︹ ︺内 は墓 地 整 理 記 号 。 ◎ Hco﹃ c ◎︺ =餌αq旨≦"鑓 竃 p。ω母oヨ9 ぎ びロヨひ富 に 冨昌幺奠 富 8 °<牌α鳳 ①①9鞋8 畠 ωo昜 冨 凡 器 α ︹ (W 9℃°Zo H ㊤α ◎ り を パ リ 警 視 庁 に 探 そ うと し た が 、 や は り 記 録 な しと い う こと だ 。 O①霞 3 昌畠 の o臣 5 昌Qお ︹○粤 ゜Z。 劇ー1 お Ob。︺ ◎ 百 年 と いう 歳 月 は あ ま り に も 長 い 日 々で あ った よ う だ 。 ω㊤ヨ①ω窪ヨ9 28 poσoq ( ω① ,曽口ω)噂言げqヨひ 冨 ﹃濠 8 ヨびお つぎ に 、私 は 埋葬 願 い の 出 さ れ た第 六 、第 九 、第 十 六区 の各 区 役 田 Q。9 <胆ユロ ド①Φ霞 ﹃ § 畠 ωo⊆。・δ づ。H8 0 ︹( り 9ρづ゜NN 蔭HI 一〇〇coO︺ 一27-.