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武官 と文官一 高麗王朝における均衡 状態の模索
【コ メ ン ト】
エ ド ワ ー ドJ.シ
ュ ル ツ 氏 の 報 告 に よせ て
高橋 昌明
神戸大学
シ ュル ツ氏 の報 告 に対 し、 以 下 三 っ 点 につ い て意 見 を述 べ た い。
第 一 点 は 、高 麗 科 挙 制 の役 割 と評 価 、 につ い て で あ る。 シ ュル ツ氏 は、 高 麗 の文 官 支 配 に お
い て 、 科 挙 制 や 儒 教 の果 た した 役 割 を高 く評 価 して い る。
コル プ ムジ ェ
高 麗 王 朝 の創 始 期 、 新 羅 末 の 内 乱 で 、 血 統 に よる特 権 的 身 分 制 で あ る骨 品制 が くず れ 、 そ れ
ま で 政 界 上 層 へ の進 出が 阻 ま れ て い た 王 京 の一 般 貴族 や 地 方 豪 族 が、 新 しい 支 配 層 と して 登 場
クワ ンジ ョン
して きた 。 第 四代 国王 ・光 宗 は 、 建 国 の 功 臣 を含 め王 権 に従 わ ない 中央 の特 権 貴 族 た ち を容 赦
な く粛 清 す るか た わ ら、 官 僚 に幅 広 く人 材 を 登 用 しよ う と して 、958年 科 挙 制 を施 行 した 。 し
か し、 こ の時 期 の科 挙 制 は、 な お 限 定 され た 役 割 に と どま る。 蔭 叙 の制 に よ り、 高 官 の 子 弟 に
は 、 科 挙 を経 ず に官 職 を授 与 され る特 権 が 認 め られ てい た か らで あ る。 以 後 、 高 麗 支 配 層 の 中
心 に な っ た の は、 光 宗 改 革 に 抵 抗 し、 新 羅 的 貴 賤 秩 序 の復 活 ・再 生 産 に努 めた 門 閥 貴 族 層 だ っ
た。
ム ンバ ン
ム バ ン
高麗 王 朝初 期 、政 治 と軍事 は一 体 で 、 ま だ 支 配層 の文 班 と武 班 へ の分 化 は見 られ な か っ た が 、
ソン ジ ョン
ヤ ンバ ン
10世 紀 末 の 成 宗 朝 以 降 両 班 制 度 が確 立 す る。 有 力 家 門 は 両 班 の いず れ か に所 属 し、 世 襲 の 権
利 と義 務 を有 した の で 、 文 班 が 文 官職 を 、 武 班 は武 官 職 を世 襲 した 。 そ して全 官 吏 は 文武 班 を
問 わず 九 品 か ら一 品 に至 る共 通 の 品秩(位
と俸 禄)編 制 に統 合 され 、官 階 上 の 上 下 は あ った が 、
た て ま え と して は 班 の 差 別 は 存在 しな か っ た 。
とこ ろ が 、 現 実 は 武 臣 は 文 臣 よ りも政 治 的 に下 位 に置 か れ た。 この 両者 を 隔 て る壁 や 厳 存 す
る差 別 は 、 それ ぞ れ の班 に所 属す る家 門 の社 会 的身 分 の 上 下 に も とつ く。 つ ま り、文 班 は家 門 ・
門 閥 面 で 上 位 に あ る貴族 出 身者 が な り、武 班 は 「門地 賤 微 」 「
系 本 寒 微 」 な ど とい われ る よ う
に 、一 般 民 衆 や そ れ 以 下 の 身 分 の 出 身者 か ら起 用 され た。 そ こで は 、 中 国 の よ うに文 と武 に 対
す る評 価 の 差 が 政 治 ・社 会 上 の優 劣 を 生 み だ して い るの で は な く、 逆 にす で に あ る身 分 の懸 隔
が 、文 武 の優 劣 を創 り出 して い た の で あ る1。
文 の上 位 を説 明 す る儒 教 的教 養 は 、 中 国 の 権 威 を背 景 に 、 門 閥 貴族 層 の特 権 と武 班 を構 成 す
る家 門 へ の差 別 を、 合 理 化 す る役 割 を果 た した こ とに な る。 科 挙 も そ の た め 手 段 と な っ た2。
それ は 、唐 代 科 挙 が 、 新 しい 官僚 層 を 生 み 出 す 一 方 、 貴族 の子 弟 の合 格 に よ っ て 、貴 族 層 の 地
位 のテ コ入 れ に も役 だ っ た事 実 と、 あ い通 ず る もの が あ る3。
そ もそ も高麗 期 の 儒 教 は 、仏 教 と共 存 した儒 教 で あ り、哲 学 を仏 教 に ま かせ 、 主 に詩 文 の 才
を政 治 ・外 交 面 で発 揮 す る もの だ っ た。 だ か ら、 そ の本 格 化 は 、元 を通 じて朱 子 学 が伝 播 し支
配 思 想 と な っ た 、 朝鮮 王 朝期 ま で 降 る の で あ る4。
第 二 の 疑 問 と して 、 シ ュル ツ氏 は 「
文 官 至 上 主 義 を 要求 す る 中 国 を規 範 と した高 麗 は、 長 期
55
高橋
昌明
間 に わ た る安 定 を維 持 し、 そ の 間 、 軍 隊 の 地位 は 着 実 に低 下 した 」 とい う。 これ は事 実 で あ ろ
うか。
チ ョンシ カ
例 え ば 、 田柴 科 は 、官 僚 の生 活 を保 証 す るた め、 科(ラ
集 地)を
ン ク)に 応 じて 田地 と柴 地(燃 料 採
支 給 す る制 度 だ が 、 職 階 を 基 準 に 見 る と 、 武 班 の待 遇 は998年 改 定 の 田柴 科 よ り、
1076年 改 定 の それ の 方 が よ り改 善 され て い る。 た と え ば 、 正 三 品 職 で あ る 文 班 の 六 尚 書 は 、
1076年 の 改 定 で も第 四科 の ま ま変 更 が な か っ た の に た い し、 同 じ く正 三 品職 で あ る 二 軍 六 衛
サ ンチ ャ ング ン
の 上 将 軍 は 、998年 に第 五 科 で あ っ た もの が 、1076年 に は第 三 科 へ と上 昇 し、 対 等 を超 え て武
班 の 方 が優 遇 され る に い た っ た 。 政 治 的 に も1016年 以 降 、 武 臣 の強 い 要 求 で あ っ た武 班 に よ
る文 班 職 兼 帯 が 進 み 、 上 将 軍 が 、 閑職 とはい え正 二 品職 の 尚書 左 右 僕 射 の よ うな高 位 の文 班 職
を兼 帯 す る例 も見 られ る よ うに な っ た`。
これ らは 、 武 臣や 軍 人 へ の 差 別 ・冷 遇 へ の 怒 りか ら起 こ っ た1014年 の ク ー デ タ(第 一 次 武
臣政 権)の 衝 撃 や 、 契 丹 ・女真 な ど北方 異 民族 との絶 え間 な い抗 争 ・緊 張 が彼 らの存 在 意 義 を
高 め た こ と、 お よび 宮 廷 内 権 力 闘争 で 国 王や 文班 貴族 が 武 臣 を利 用 し よ うと した こ と、 な どが
もた ら した 結 果 で あ る。 こ うして 、武 臣 の待 遇 は確 実 に改 善 し、 実力 の 上昇 が 見 られ た 。
ウイ ジ ョン
た しか に 、 シ ュル ツ氏 も指 摘 す る よ うに 、 第 一 八 代 国 王 ・毅 宗 の 時 代 、武 臣 を 文 臣 の護 衛 兵
な み に 扱 っ た り、 年 若 い 文 臣 が老 将 軍 を手 酷 く侮 辱 す る な どの 事 件 が 起 こ り、1170年 の 二 度
目の武 臣反 乱 の 引 き金 に な って い る。 しか し、 これ らは、 武 臣 の 台 頭 に よっ て 、 自 らの 特 権 を
脅 か され る と感 じた文 臣 の反 発 に も とつ く もの 、 と考 え るべ きで あ っ て 、 氏 や 他 の 多 くの 論 者
が考 え る よ うに 、武 臣 の地 位 が 低 下 した 結 果 で は な い 。
第 三 に 高麗 武 臣政 権 と 日本 の 武 家 政 権 の 違 い につ い て。
日本 で 平氏 政 権 が誕 生 、っ い で 鎌 倉幕 府 が 成 立 した 同 じ時 期 、 高 麗 で も武 臣 の 政 権(第 二 次
武 臣 政 権)が 続 い た。 そ の盛 期 は62年 に及 ぶ 崔 氏 四 代 の時 代(1196∼1258年)で
を争 っ た有 力 武 臣 は 、政 治 ・経 済 の 力 を背 景 に、 門客(よ
ある。政権
り 自由 な結 合 関 係 に あ る従 者)・ 家
ト バン
僮(隷 属 的 な従 者)を 集 め、 私兵 集 団 を形 成 した 。 この 私兵 組 織 を都 房 とい う。 最 大 の 都 房 は 、
チ ェチェ ン ホン
ライ バ ル を倒 して独 裁 政 権 を樹 立 した 崔 氏 初 代 崔 忠 献 の それ で 、三 千 人 か らな る私 兵 が 六 番 に
編 成(最
終 的 に は 三 六番)さ れ 、 日替 わ りで 主 人 の私 邸 に宿 直 した6。
チ ュンバ ン
1170年 の武 臣 クー デ タ以 後 、武 臣た ち は重 房7を 国 家 の最 高 機 関 に し、 集 団執 権 の体 制 を とっ
て い た が 、 崔 忠 献 は 、 む しろ そ の弱 体 化 を進 め た。 代 わ っ て行 政 の 中枢 機 関 に な っ た の が 、彼
キ ョジ ョン トガ ム
ピョル ガム
の 私 邸 に設 置 され た 教 定都 監 で あ る。 こ の機 関 の長 で あ る教 定別 監 は 、以 後 武 臣政 権 の終 末 ま
チ ェイ
イ
で 政 権 担 当者 の 地 位 を示 す も の に な っ た8。 崔 氏 二 代 の 崔 怡(璃)の
チ ョンバ ン
ソ バン
代 に 至 り、 政 房9や 書 房10
が 新 設 され 、都 房 の 改 編 と教 定別 監 を側 近 で補 佐 ・警護 す る機 能 を持 つ親 侍 組 織 の強 化 も行 わ
れ 、 これ らを 下部 機 構 とす る教 定 都 監 体 制 が 形 成 され た 。 韓 国 史 学 界 で は 、 こ の機 構 が 「
幕
府11」的 性 格 を持 つ とす る見解 が 有 力 で あ る。
と こ ろで 、 シ ュル ツ氏 は 、武 臣政 権 期 の政 治 を 「同時 期 の 日本 に お け る発 展 と非 常 に類 似 し
て い た 」 とい う。 これ は 日本 の 史 実 に 照 ら して 必 ず しも適 切 な評 価 で は な い。
武 臣政 権 ・教 定 都 監 体 制 と 日本 の武 人政 権 を 比 較 す る と、 つ ぎの よ うな こ とが い え る。 ま ず
武 臣 の 都 房 につ い て は、 平 氏 や頼 朝 の御 家 人組 織 と対 比 で き る。 た だ し、武 臣 た ちは権 力 奪 取
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武官 と文官一 高麗王朝 における均衡状態の模索
時 は ま だ 中央 軍 の兵 卒 た ち に頼 り、 権 力 と 富 を 蓄 え た 上 で 、 は じめ て私 兵 集 団 と名 のつ く も の
を持 ち得 た12。これ に対 し、 日本 の源 平 の 軍 事 貴族 は 以 前 か ら一 定 数 の従 者 を か か えて い た 。
とはい え 、 日本 で も.武家 の権 力 掌 握 以 後 、 家人 組 織 が飛 躍 的 に拡 大 した の だ か ら、そ れ を あま
り強 調 す る の は適 当 で な い。
そ れ か ら、 武 臣 と都 房 の私 兵 の 間 に は 、 御 恩 に あ た る 土地 給 与 の事 実 が 確 認 で き ない 。 日本
で は、 頼 朝 の 挙 兵 以 降 、御 家 人 に 恩 賞 と し て所 領 を 与 え る方 式 が 始 ま る。 主 従 制 と恩 貸 地 制 の
結 合 とい う封 建 制 の重 要 要 件 の 有 無 は 、彼 我 の重 要 な相 違 点 で あ ろ う。
教 定都 監 は 、 旧来 の 国家機 関 に 吸着 し、 それ を通 して人 事 ・行 財 政 な ど を掌 握 す る政 治 機 構
だ った 。鎌 倉 幕 府 は違 う。 頼 朝 は 、 ク ーデ タ に よ っ て朝 廷 を直 接 占拠 した 平 氏 の 失敗 に学 び 、
軍 事警 察 以外 の 朝 廷 の 政務 へ の 不介 入 を 、 政 治 路 線 の基 本 と した 。 ま た幕 府 は 、 南 関東 の反 乱
軍 勢 力 と して 出 発 し、 内 乱 中 の1183年 、東 日本 諸 国 を行 政 的 に 支 配 す る東 国 政権 と して 公 認
され る。 この二 つ の 理 由 か ら、幕 府 は 王朝 政 府 や そ の都 か ら距 離 を置 い た 半 ば独 立 の権 力 とな っ
た。
トダン
旧国 家機構 と の距 離 で い え ば、 高 麗 で は都 堂13・ 重 房 とい った 旧来 の 重 臣会 議 に、 崔 氏 執 権
や そ の代 理 人 が 正 規 メ ンバ ー と して参 加 した。 日本 の 場 合武 家権 力 の 首長 た る鎌 倉 殿 は、 右 大
将 や 右 大 臣 の要 職 に就 い た が 、都 で開 か れ る国 政審 議 の た め の 上級 貴 族 の会 議 に 出席 した 例 は
つ いぞ な い。
教 定 別 監 が 国 王 よ り 「国家 へ の違 法 ・不 法 」 の調 査 糺 明 を命 ぜ られ た史 料 が あ る。 だ が 、 教
定 都 監 は単 な る 軍事 警 察 権 力 で は な く、 そ れ を含 め た 政務 全 般 に及 ん で い た。 だ か ら教 定都 監
の下 部機 構 に は、 シ ュル ツ氏 も指 摘す る よ うに、 多 くの文 官 ス タ ッフ が組 織 され ね ばな らなか っ
た。
一 方 、 幕 府 は もっ ぱ ら国家 の軍 事 警 察 部 門 を担 当す る軍 事 組 織 で あ り、 そ の 機 関 も御 家 人 統
率 の た め の侍 所 、 同 じ く御 家 人 な どの 訴 訟 を所 管 す る問注 所 、 鎌 倉 殿 の 家 政 機 関 で あ り、本 拠
で あ る鎌 倉 の 御 家 人 以 外 の社 会 の 中間 層 お よび 庶 民 の訴 訟 を担 当す る政 所 な どか らな る。 御 家
人 には 、 将 軍 家 の家 政 処 理 や 訴 訟 担 当 の若 干 の文 人 が含 まれ て い るが 、 軍 事 団 体 とい う幕 府 の
本 質 か ら して 、 当然 大 多 数 は 武 士 で あ り、 文 人 の評 価 も決 して 高 くな か っ た14。
崔 氏 の 私 兵 組 織 は、 崔 氏 執 政 の 身辺 護 衛 組 織 の域 を 出 ない 。 だ か ら国 家 の 公 的 軍 事力 は 、形
サ ムビ ョルチ ョ
骸 化 した 二 軍 六 衛 に代 わ る新 た な 中央 軍 組 織 、 す な わ ち三 別 抄15と して別 に再 建 され な けれ ば
な らな か っ た。 それ に対 し、幕 府 の御 家 人 は 、鎌倉 に あ っ て鎌 倉殿 の身 辺 を護 衛 す る と とも に、
京 都 大番 役 の よ うな 王 権 とそ の 王 宮 を輪 番 で 警 衛 す る役 を務 めね ば な らな か っ た。 つ ま り鎌 倉
殿 に 忠誠 を誓 う私 兵 集 団 が 、 そ の ま ま全 体 と して 国 家 の公 的 軍 事組 織 で あ っ た の で あ る。
日本 の 幕府 と崔 氏 政 権 の 類 似性 は重 要 か つ 興 味 深 い 論 点 で あ るが 、 以 上述 べ て き た よ うに 、
双 方 の 問 に は 、 国 制 上 の位 置 と政 治 的役 割 の 面 で 、 か な り大 きな違 い が あ る こ とをIE確 に認 識
せ ね ば な らな い の で あ る。
57
高橋
昌明
注
1高
麗 王朝 の 文 斑 と武 班 に つ い て は 、 辺 太 燮 「
高 麗 朝 の文 班 と武 班 」『高 麗 政 治 制 度 史 研 究 』 一 潮 閣(ソ
ウル)、1971年 を参 照 。
2高
麗 期 に科 挙 や 儒 教 的 教 養 の 果 た した 役 割 に つ い て は、 北 村 明美 氏 の教 示 に よ る。
3中
国 の科 挙 に つ い て は、 村 上 哲 見 『科 挙 の 話一 試 験制 度 と文 人 官 僚 』講 談社 、1980年 や 平 田 茂 樹 『科
挙 と官 僚制 』 山川 出版 社 、1997年 な ど を参 照 。
4姜
在 彦 『朝鮮 儒 教 の 二〇 〇〇 年 』 朝 日新 聞 社 、2001年 。
5注(1)辺
6金
7高
論文
鐘国 「
高麗 武 臣政 権 の特 質 に 関す る一 考 察 」『朝鮮 学 報』21・22号 、1961年 。
麗 中央 の 正 規 軍(二 軍 六 衛)を 京 軍 とい うが 、 そ の 上 将 軍 ・大 将 軍(正 ・副 指 揮 官)は
、 重 房 と呼
ば れ る合 議 機 関 を持 っ て い た 。 しか し、 そ の 権 力 は 文 臣 で 構 成 され る都 堂 に は る か に及 ば な か っ た 。 高
麗 の 軍 制 に つ い て は 、 李基 白 『高麗 兵 制 史 研 究 』 一 潮 閣(ソ ウル)、1968年 を 参 照。
8教
定 都 監 の 体 制 につ い て は 、 曹 圭 泰 「
崔 氏 武 人 政 権 と教 定 都 監 」 洪 承 基 編 『高麗 武 人 政権 研 究 』 西 江
大 学 校 出 版 部(ソ ウル)、1995年 に よ っ た 。
9政
房 とは、 文 武 の官 僚 人 事 の執 行 に あ た る機 関 で 、 科 挙 出 身 の 文 人 た ち に よ っ て構 成 され て い た 。 彼
らは 二 省 ・六 部 の 尚書 、 中枢 院(軍 政 ・軍 令 機 関)の 承 宣 、 内侍 院(内 廷 組 織)の
内 侍 等 の 職 を兼 ね 、
そ れ を通 して 王 朝 の 主 要機 構 を 掌握 した 。
10書
房 は、 崔 氏 の文 客 中の 名 儒 で 構 成 され 、 政治 上 の諮 問 に応 え た り、 崔 氏 執 政 に 書 ・礼 を教 え た り し
た 。 文 人 組 織 で あ りな が ら崔 氏 の護 衛 に も あ た る点 が 興 味 深 い 。
11日
本 で は武 家 政 権 の別 称 で あ る けれ ど、 中 国 で は 、天 子 を 輔佐 す る者 や 天 子 の 委 任 を受 けた 者 が 、長
官 と して府 を 開 き部 下 を置 く。 野戦 軍 司令 官 の場 合 は府 を帷 幕 で 設 営 す る の で 、 これ を 幕 府 とい っ た。
そ こか ら転 じて一 般 官 署 の 意 味 に も用 い られ た。
12注(6)金
論文。
13中
書 門下 省(宰 府)と
中枢 院(枢 府)を
あ わ せ て 両府 と呼 び 、 国 家 の 重 大 事 を決 定 す る際 に は 、 両府
高 官 が合 議 して決 議 した 。 これ を都 堂(宰 枢 会 議)と い う。
14高
橋 昌明 『武 士 の 成 立 武 士 像 の 創 出 』 第 一 章 、 東 京 大 学 出版 会 、1999年
15は
じ め 国 内 の盗 賊 を取 り締 ま る 目的 で夜 別 抄(ヤ ビ ョル チ ョ)と い う部 隊 が 設 け られ 、 そ れ が 対 モ ン ゴ
ル 戦 の た め勢 力 を拡 大 し、 三別 抄(左 右 夜 別 抄 ・神 義 軍(シ ン ウイ グ ン))へ
創 設 され た。
58
と発 展 した 。 崔 怡 に よ っ て
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