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Page 1 Page 2 銃と十字架と核 ポリネシアの海ー 竹内 佐利子 は じ め

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Page 1 Page 2 銃と十字架と核 ポリネシアの海ー 竹内 佐利子 は じ め
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Title
Author(s)
Citation
<論文>銃と十字架と核 : ポリネシアの海
竹内, 佑利子; Takeuchi, Yuriko
国際経営論集, 10: 187-209
Date
1996-02-28
Type
Departmental Bulletin Paper
Rights
publisher
KANAGAWA University Repository
銃 と十 字 架 と核
ポ リネ シ ア の 海 一 一
竹内
は
じ
め
1995年5月
佑利 子
に
に シ ラ ク氏 が フ ラ ンス(以 下 ,仏
シラ ク大 統 領 は6月13日,南
と省 略)の
大 統 領 に就 任 した。
太 平 洋 の仏 領 ポ リネ シ ア に お い て核 実 験 を再 開
す る 旨発 表 した 。 以 来 本 大 学 の 「オ セ ア ニ ア事 情 」 受講 生 と共 に新 聞 の切 抜
き を元 に仏 核 実 験 再 開 の 報道 を追 う こ とに な っ た。(以 下 ,小 文 の 括 弧 内 の数
字 は,朝
日新 聞 に報 道 され た 月 日で あ る。例:10・1は
,1995年10月1日
。
括 弧 内 で は1995年 は省 略 す る。)事 実 関係 を確認 し議 論 を交 わ して い る
。8月
17日 の 中 国 ・新 彊 ウイ グル 自治 区 に お け る核 実 験 を挟 ん だ ,7月14日
月26日 まで約6週
か ら8
間 の オ セ ア ニ ア諸 国 の 動 きを 中心 と した各 地 の抗 議 行 動 と
その意 味 に つ い て は,「オ セ ア ニ ア の冬1
.ム
核 実験 醐
い た。 当初 の仏 の発 表 で は,実 験 は7,8回
行 われ る予 定 で あ った
回 の実 験 が 行 わ れ た時 点 で は,後4回,つ
(10・25)。そ の後10月27日
に3回
ま り合 計6回
目,11月21日
礁 で実 施 され た 。現 時 点(12月6日)で
の報 道 を辿 る1}Yy書
に4回
は,後2回
。 既 に2
と予 定 回 数 が減 った
目 の核 実 験 が ム ル ロ ア環
の核 爆 発 が ポ リネ シア の
海 を汚 す こ とに な る。
南 太 平 洋 に お け る仏 核 実 験 は現 在 進 行 中 の 出 来 事 で あ る。 仏 領 ポ リネ シ ア
187
の首 都 パ ペ ー テ(タ
ヒチ 島)在 住 の仏 領 土代 表 で あ り 「
核 兵器が第二次世界
大 戦 を終 了 させ,日 本 帝 国 主 義 の 拡 張 を防 いだ(10・6)」
ガ ス トン ・フ ロ ス氏 は,パ
と議 会 で演 説 した
リで シ ラ ク大 統 領 と会 談 後,1996年3月
に実験 を
終 了 し,ム ル ロア環 礁 核 実 験 セ ン ター を閉鎖 す る と述 べ た(9・20)。
世界 の
反 核 の 声 に呼 応 して予 定 が早 め られ た 。 諸 事1青の劇 的 な転 換 に よっ て,以 後
2回 の核 実験 が 中 止 に な るか も しれ な い。 現 実 的 で はな い にせ よ,そ の願 望
を持 ち続 け なが ら,小 文 で は,(1)少 数 民 族 の海 にお け る仏核 実験 再 開,②
仏
核 実験 場 で あ る ポ リネ シ ア,(3)タ ヒチ 島 を中 心 とした 仏 領 ポ リネ シア の歴 史
につ いて 考 察 した い。
(1)少
数民 族 の 海 に お け る仏 核 実験 再 開
「オ セ ア ニ ア の 冬 」で は,ム
ル ロ ア 環 礁 周 辺 に乗 り出 し た 国 際 環 境 保 護 団 体
グ リー ン ピ ー ス の 抗 議 船 や オ ー ス トラ リア(以
(以 下,NZ)か
下,豪)や
ニ ュー ジー ラ ン ド
らの 抗 議 行 動 の 報 道 を お も に 辿 っ た 。 日本 に お け る動 き も ま
と め て あ る 。95年 の2)nと
仏 の 核:y.関
止 論 の 有 効 性 非 有 効 性,環
境 問 題,国
連 の 言謝
際 政 治,広
ま,核 軍 縮 該
廃絶該
抑
島 ・長 崎 へ の 原 爆 投 下 に 始
ま っ た 核 兵 器 が 関 わ る 歴 史 的 な経 緯 等 に視 点 が 据 え られ て い る。 しか し東 は
イ ー ス タ ー 島,南
はNZ,北
はハ ワ イ とい う,欧 州 大 陸 の3倍
は あ る巨大 な三
角 形 を な す 地 球 上 最 大 の 文 化 圏 へ の 侵 害 とい う視 点 に立 っ て 書 か れ た 記 事 や
議 論 は少 な い 。 ア メ リ カ(以
ウ ェ トク環 礁(と
マ ー シ ャ ル 諸 島 ・ビ キ ニ 環 礁,エ
も に ミク ロ ネ シ ア 人 の 地)で,英
リ ジ ニ ー ズ の 地)で,米
で,そ
下,米)は
は 豪 の 砂 漠(先
ニ
住民 アボ
英 と もが キ リバ ス ・ク リス マ ス 島 や ジ ョ ン ス トン 島
し て 仏 が 仏 領 ポ リネ シ ア の ム ル ロ ア 環 礁 や フ ァ ンガ タ ウ フ ァ環 礁(と
も に ポ リネ シ ア 人 の 地)で,核
爆 発 を行 っ て きた 。 括 弧 内 の 民 族 名 が 示 し て
い る よ う に 少 数 民 族 の 土 地(海
域)が
選 ば れ 使 用 され て い る。 中 国 や ロ シ ア
に し て も同 様 の 状 況 で は な い だ ろ う か 。 ム ル ロ ア 環 礁 で 第 一 回 の 核 実 験(T
l88国
際経営論集No.101996
NT火
薬 換 算 で約20キ ロ トン,9・30)が
爆 弾(9・6)」
強 行 され た9月5日
とタ ヒチ 島 の住 民 は怒 り,フ ァア ア 国際 空 港 で は デモ 隊 が 投
石 や 放 火 等 の挙 に出 て激 し く抗 議 した(9・7 ,8)。
核 運 動 を 「ヒス テ リー(9・
ス カ0・
に フ ァ ンガ タ ウ フ ァ環 礁 で第 二 回 の核 実験
薬 換 算 で約110キ ロ トン,10・2)を
第 一 回実 験 後,フ
しか しジ ュペ 仏 首 相 は反
わ 」 とい な し,シ ラ ク大 統 領 は飽 くまで計 画 を
遂 行 す る予 定 を変 えず,10月2日
(TNT火
,「 血 塗 られ た
実施 した 。
ァア ア市 長 で あ りポ リネ シア民 族 解 放 戦 線 党 首 で あ る オ
テ マ ル氏 は,今 後 は暴 動 等 ポ リネ シ ア人 が エ ネ ル ギ ._......を
失 う抗 議 行
動 は抑 え,領 土 議 会 の 選 挙 キ ャ ンペ ー ン に集 中 して い く と述 べ て い る(10.
1)。 仏領 ポ リネ シア領 土 議 会 の定 数 は41議 席 だ が
(党)は5議
,ポ リネ シ ア民 族 解放 戦 線
席 しか獲 得 して い な い。 この 数字 を過 半 数 の21議 席 に伸 ば す の が
テ マ ル党 首 と支 持者 達 の 目標 とな っ た 。 ポ リネ シア海 域 で行 わ れ て きた,そ
して今 な お続 行 中 の核 実 験 は,テ マ ル 党 首 の い う よ うに 「植 民 地 主義 の暴 力
(9・23)」 に他 な らな い。 ポ リネ シア民 族 解 放 戦 線 の 目的 は
,経 済 援 助 に頼 る
少 数 民 族 社 会 の現 状 を見 直 し自立 へ の道 を歩 み だ そ う とい う と ころ に あ る と
思 わ れ る。1985年 に調 印 され翌 年発 効 とな った 南 太 平 洋 非 核 地 帯 条約(ラ
トンガ 条約)も
ロ
まさ に そ の視 点 に立 った もの で あ る し,中 南 米 非核 地 帯 条 約
(ト ラ テ ロル コ条 約)や ア フ リカ非 核 地 帯 条約(ペ
リン ダバ 条 約)そ
して 目下
議 論 され て い る東 南 ア ジア非 核 地 帯 条約 も,基 盤 とな る哲 学 は同 じで あ ろ う
。
つ ま り各 地 域 の 条 約 は,決 め られ た非 核 地 帯 へ の核 攻 撃
,核 実 験,放 射 性 物
質 の廃 棄 を禁 止 す るだ けで な く,現
・元 植 民 地 の先 住 民 ,或
は宗 主 国 の二 流
市 民 と して で な く,自 分 達 が踏 み しめ て い る土 地 或 は海 の主 体 者 と して生 き
て い こ う とい う意 思 の 現 れ で あ る。
ポ リネ シア に焦 点 を絞 れ ば,大 航 海 民族 で あ るポ リネ シ ア人 の一 団 が タ ヒ
チ 島 や 周 辺 の島 々 に カ ヌ ー を漕 い で渡 来 し住 み 着 い た の は1400年 位 前 で あ る
と推 定 され て い る(後 述)。 それ 以 後 彼 等 が 何 十 世 代 に も渡 っ て 占有 して きた
南 太 平 洋 の珊 瑚 礁 と島 々 は大 戦 後 こ こ30年 の間 に ,仏 核 実験 場 と して 世界 に
銃と十字架と核189
知 られ る よ うに な った 。 しか し英 を含 む欧 州 諸 国 は30年 よ り遙 か に長 き に渡
っ て,南 太 平 洋 の 島 々 を 「
発 見 」 し領 有 を宣 言 した とい う 「
権 利 意識 」 の下
に,島 々 や海 や住 民 を様 々 に利 用 し利 益 を得 て きた。欧 州 人 渡 来 以 後,「 南 海
の 楽 園 」 に いた 「高 貴 な野 蛮 人 」 達 は,プ
ロテ ス タ ン トとカ トリ ックの 争 い
に巻 き込 まれ銃 に よ って殺 され伝 染 病 に 冒 され,地
域 に よっ て は宗 主 国 の経
済 発 展 に貢献 させ られ 或 は太 平 洋 戦 争 の犠 牲 者 に列 せ られ た。 そ して20世 紀
の後 半 に な る と,初 め は大 気 圏 で以 後 は地 下 で核 爆 発 を起 こす 実験 場 と して
利 用 され る に至 った 。 仏 に よ る核 実験 は,現 在 まで ムル ロ ア環 礁 とフ ァ ンガ
タ ウ フ ァ環 礁 で計208回 行 わ れ て い る。そ の間 地 元 は核 実 験 に関 わ る決 定権 を
持 たず,実
験 の情 報 は一 切 提 供 され な か った 。 実験 場 に駆 り出 され る労働 者
の健 康 調 査 は僅 か2年
前 に始 ま っ た ば か りで あ る。 莫 大 な経 済 援 助 は あ る
(9・23)。 仏 領 ポ リネ シア の み な らず,マ ー シ ャル諸 島他 で も実施 され て きた
動 物 園理 論(ズ
ー ・セ オ リー)と
か 囲 い込 み といわ れ る,ふ
んだ ん に お金 を
与 えて 自立 意 欲 を失 わ せ る戦 略 に基 づ いた 援 助 で あ る。 援 助 に よ って潤 う地
元 の 人 々 も無論 お り,そ れ が テ マ ル氏 の ポ リネ シ ア民 族 解 放 戦 線 が議 会 で5
議 席 に留 ま って い る一
一つ の大 き な要 因 と考 え られ る。
太 平 洋 の 少 数 民族 も現 代 文 明 の凶 器 に対 抗 す べ く力 を集 め て い ない わ けで
は な い。 半 世 紀 前 に米 軍 が 「
全 人 類 の平 和 の た め」と称 してマ ー シ ャル諸 島 ・
ビキ ニ環 礁 の住 民 を移 住 させ た とき,住 民 は米 軍 の 言葉 を鵜 呑 み に して 「全
ヨラ
人 類 の た め な ら… … い ち じ島 を は な れ ます 」 と応 じ た 。 し か し今 で は 「全 人
類 の 平 和 の た め 」 の 核 実 験 を信 じ て い る太 平 洋 人 は い な い 。 仏 核 実 験 再 開 後,
キ リバ ス,ナ
F,フ
ウ ル は対 仏 外 交 を 凍 結 し(9・7),南
太 平 洋 諸 国 会 議(SP
ィ ジ ー ・タ バ イ 事 務 局 長 〉 は 仏 を 「域 外 対 話 国 」 か ら は ず す こ と を決
め,SPFの
議 長 国 で あ るパ プ ア ・ニ ュ0ギ
で 仏 を厳 し く批 判 し た(10・4)。
後,同
ニ ア の チ ャ ン首 相 兼 外 相 は 国 連
そ の 効 果 も な く第 三 回 目 の 実 験 が 行 わ れ た
首 相 は 仏 へ の 追 加 制 裁 を検 討 す る よ う 事 務 局 に 指 示 を 出 し た(t1・
3)。 仏 の ほ う は来 春(南
190国
半 球 の 秋)に
際経営論集No・101996
核 実 験 を終 了 す れ ば対 話 国 の資 格 も回
復 す るで あ ろ う と・ つ ま りこの よ うな亀 裂 は短 期 の もの で あ ろ う と高 を く く
って い る(10・5)。
確 か に独 立 して まだ1年
うに 「反核 に疲 れ(1・ ・6)」 て し まっ 姻
しか経 た な いパ ラオ共 和 国
もあ る
.ク ニ わ
は 骸 実験 は欧 州 でや っ て ほ しい」 と述 べ るが
不瀞
繍
援 助 依 存 体 質 が・SPFの
のよ
ナ カム ラ大 統 領
,自 由連 合 とい う形 態 轟
こよ る
強 し・
意 思 も練
も
,テ マ ル氏 らの 理 想
を支 え る基盤 も崩 す 恐 れ は今 後 十 分 に あ るだ ろ う
。
SPFを
とNZで
支 え小 国 の た め に国 際世 論 に向 か っ て発 言 し続 けて い るの は
,豪
あ る。 豪 で は不 買 運 動 が続 き
,運 輸 労 働 組 合 は実験 が 強 行 され るっ
どエ ール フラ ンス機 へ の就 労 や給 油 を拒 む とし・っ た よ うに
手 だ て を用 い て仏 に櫨
は・ 仏 がCTBTに
して い る.ニ
,あ
らゆ る可能 な
ュー ・サ ウス ・ウ ェー ル ズ 州 党大 会 で
調 印 す る まで ウ ラ 噺
規 売 却 契 約 を結 ば な い とい う動 議
を可 決 した。 理 由 は 「核 実験 は南 太 平 洋 諸 国 先 住 民 に破 壊 的 な影 響 を与 え て
い る」とい う もの で あ り,「 豪 政 府 が現 在 の ウ ラ ン契 約 が 仏 核 実 験 と無 関 係 で
あ る こ と を明 らか にす る よ う求 め」,最 終 的 に は 「
全 て の核 実験 に反対 」す る
と決 め た(10・1)・
第 三 回 目の核 実 験 後
リー ン ピー ス の メ ンバ0が
,大 國 ヒ端 の ダ ー ウ ィ ン港 で は,グ
錨 の 鎖 に 自 らを縛 り付 け て ウ ラ ン輸 出船(行
き先
は不 明)の 入 港 と荷 役 作 業 を阻 止 し
,港 湾 組 合 も呼応 して 荷 役 作 業 をボ イ コ
ッ トした(11・1)。 因 み に豪 州 は2001年 迄 年 間300ト ンの ウ ラ ン輸 出 契約 を仏
と結 ん で お り,豪 世 論 は この ウラ ンが 南 太 平 洋 にお け る核 実験 に使 用 され て
い な い こ とを は っ き りさせ る よ う政 府 幹
ご要 求 して い る の で あ る
.キ_テ
ィン
グ豪 首 相 は・ 第 三 回核 実験 後 ・ 「仏 は 自 ら国 際社 会 で の評 価 を落 とす」と厳 し
く語 った(1Q・29)。
南 太 平 洋 非 核 地 帯 条約(ラ
法 裁 判 所(ハ
ー グ)に
・ トンガ条 約)の
推儲
で あ るNZは
,国 際 司
「仏 核 実 験 差 し止 め の訴 え」 を 出 した
.理 由 は,ム ル
ロ ア環 礁 の岩 盤 が弱 って 地 崩 れ や 放 射 能 漏 れ の危 険 が あ る とい う もの で あ る
。
しか し国 鯛
法 裁 は・2:3で
これ を去ロ
下 した(9・23)
.NZの
相 は・ 「仏 へ の圧 力 は加 え続 け る」意 思 を明 らか に し(臥
ボ ル ジ ャ_首
国連5・周 年 言己念 総
銃と十字架と核i91
会 で は 「中仏 が な お核 懇
た い.必
を続 けて い る こ とは・ 不 可解 で あ りi受 け入 れ が
要 なの は,核 兵 器 廃 絶 を実 現 す るた め の戦 略 だ・ そ れ は・ 実 現 不 可
能 な 目標 で はな い(1・ ・26)」 と中仏 を 「
名 指 し」 で 非 難
直 後,同
首相 は 「1・
月 に首 都 ウ ェ リン トンで 離
題 に,献
平 洋 にお け る核 轍
た ・ 第 三 回核 実 験
され る英 連 邦 首 脳 会 議 の演
を取 り上 げ る」 と発 表 した(10・29)・
英仏首
脳 会談 が 。 ン ドンで行 わ れ た ば か りで もあ り・ 目下 対 仏 関係 の蜜 月状 態 を維
持 し よ う と努 め て い る英 の 出 方 が 注 目 され る。
仏 国 内 に も,南 太 平 洋 住 民 の訴 え に耳 を貸 す人 々 はい る・ パ リで は5000人
の反 核 デ モ が行 わ れ た(10・2)。
仏 国 内 の 世論 調 査 に よれ ば67%が
ノ ン」 と表 明 して い る(11・7).そ
騨
して心 強 い の は仏 マ ス コ ミ界 と科 学 者 の
さで あ る.仏 ル モ ン ド紙 は,ム ノ
レ・ ア灘
め戻 した と10月3日
「核 実 験
に は亀 裂 が 入 りセ メ ン トで 埋
に報 道 した。(ミヨ ン仏 国 防相 は グ リー ンピー スが作 成 し
た 図面 で あ り,従 って信 懸性 に疑 問 が あ る旨 の否 定 的 な コメ ン トを出 して い
る。10・3)報
道 に よれ ば,亀 裂 は縦 横 に合 計8本,最
長 の亀 裂 は8・5キ
ロ
メー トル も続 い て い る とい う。 仏 の地 質 学 者 は,亀 裂 か ら放 射 能 が 海 に浸 み
出す 危 険 性 を指 摘 して い る(1・ ・4).・0月
会 公 聴 会 で は,2人
に ブ リュ ッセ ノ
レで 開 か れ た 欧り'1'i議
の 専 門 家 が 「実 験 場 の環 礁 内 にプ ル トニ ウ ム が漏 れ る可
能 性 と,仏 政 府 の 主張 す る安 全 性 へ の疑 問 」 を呈 した 。仏 ク レル モ ン フ ェ フ
ン火 山研 究 セ ン ター の ピエ ー ル ・バ ンサ ン教 授}ま環
で,騰
下 の重 購
礁 下 の火 山 は勾 配 が 急
造 にな って い る脆 弱 な地 質 は度 重 な る実験 に よって地 崩
れ を起 こ しか ね ず 実験 は中 止 され るべ きだ と主 張 した。 ス ウ ェー デ ン ・ラ ン
ド大,エ
リス ・ホ ル ム教 授 は,環 礁 内 の海 水 を測 定 した結 果,プ
の漏 出 の可 能 性 に つ いて 述 べ た(と
ル トニ ウ ム
もに10・23)。 情 報 交 換 や政 府 批 判 が 許 さ
れ な い 国々 と異 な り,仏 に は言 論 の 自由 や人 権 尊 重 の 意識 が しっか り根 づ い
て い る と思 わ せ られ る報 道 に接 す る こ とが で きた。 この事 実 は悲 しみ の壁 に
開 け られ た小 さな窓 の一 つ で あ り,そ れ ゆ え に先 に述 べ た願 望 を抱 き続 け る
こ と もで きるの で あ る。
192国
際経営論集No・101996
献
平 洋 の人 々 を瀦
欧 州 委 員 会(ブ
させ る動 き 緻
々あ る
リュ ッセ ル)は ・ 仏 櫨
.専 門 家 曙
騨
条 約 の安 全 規 定 に違 反 して い な い と
欧州原子力期
,委 員 観
働 こよ る繍
の見 出 しに は 「亀 裂 嫌 う思 惑 が作 用 」 とあ る(10
内の 亀裂 を蜘
あ ま り騨
を提 供 す 礒
を出 した.新
聞
・25)
.欧 州 委 員 会 は,EU
.ユ ー ラ トム
険嫉
馴 の場 合 に は
,欧 州 委 員 会 の助 言 や
た その判 断 の た め に力日盟 国(こ
務 が あ る とされ て い る
定 が あ る・ 仏 は粉
体(ユ ー ラ トム)
礁 の亀 裂 に は 目 を つぶ った の で あ る
条 約 の安 全 規 定 で は・ 「と く脆
承 認 を得 ね ば な らず ぽ
告 に も関 わ らず ,
・加 盟 国 の〒
眠
濃
な情 報 を提 供 しな し・まま実 験 を醐
の場 合 は仏)は
情報
るた め に この 安 全 規
した(10
.23) .仏1ま
「仏 領 の土 地 」で実 験 を行 うの で あ り中 国 が 自国 内 の土 地 で実 験 を行 う
の と変
わ りはな い とす る説 を述 べ て きた ・ そ の議 論 に立 て ば そ して法 の 上 か ら も
,
仏 領 ポ リネ シア人 は仏 市 民 で あ る。 本 来 な ら1ま加 盟 国(仏)の
リネ シア人 の鱒
や安 全 に ・ 欧 州 委 員 会 は親 身 な"_yr4を す べ きで あ った
の海 の仏 市民 が 見 捨 て られ た の は
妙
・ ポ リネ シ ア人 帽
数 民 族 で あ る こ と と・ ポ リネ シ ア醐
関 係 ゆ えで あ ろ う こ とは想 像 に難 くな い
「遠 い献
大纐
住 民 で あ るポ
.南
下 欧 州 の利 害 に無 関{系
力.・
欧 州 か ら遙 か遠 い とい う位 置 的
。
平 洋 の人 々 の 訴 え に耳 を貸 そ う としな い(10 ・3)」 と仏.シ ラ ク
を非 難 す るス ウ ー
少 数 で・ 「EUの
デ ンの か
亀 裂 」は避 け られ た
ル ソ ン首 相 の声 に恥
傾 け る指 導者 は
.だ が セ メ ン トで埋 め戻 され た 「ムル 。
ア環 礁 の亀 裂 」 が再 び裂 けな い とは誰 も保 証 で きな い
.漏 出 した プ ル トニ ウ
ム の被 害 は・ 撒 の 形 で 太 平 洋 の魚 を ・ にす る我 々 と我 々 の 子 孫 に
,欧 州 の
仏 市 民 を含 め地 球 上 で生 を営 峨 々 峨 々 の 子 孫1こ
,影 響 を及 ぼ す だ ろ う。
しか し30年 間 ・ 仏 に よ る核 爆 発 の影 響 や 核 実 験 政 策 の被 割 こ苦 しみ
,今 後 も
その 苦 しみ を背 負 っ て いか な けれ ばな らな いの は
,ポ リネ シア の人 々 を含 む
太 平 洋 諸 島 の少 数 民 族 な の で あ る 。
銃 と十 字 架 と核193
(2)ポ
リ ネ
シ
ア
「ポ リネ シ ア」 とは太 平 洋 中央 部 にあ る 「多 数 の 島 々」を意 味 す る・ 輔
イ_ス
タ_島s西
万 平 方km.広
NZを
南 端NZ,北
端 ハ ワイ を結 ぶ 剥
ネ シア 三 角形 の 広 さ は2800
大 だ が,陸 地 面 積 は29万 平 方kmに
除 い た全 てが 熱 帯 もし くは亜綿
端
す ぎ ない ・温 耀
こ位 置 し4)流
嘱
する
の ペ ル ー海 流 が 流 れ
るマ ル キー ズ諸 島 以 東 以 外 には珊 瑚 礁 が 発 達 して い る。 この三 角 形 に含 まれ
る国,地 域 は以 下 の よ うで あ る。
イ ー ス タ ー 島(チ
州)酒
リ領),NZ(独
サ モ ア ㈱,ト
立 国,以
ンガ王 国(独),ツ
連合臥
ニ ウエ(舳
連 合 国),ア
z領),ウ
ォ リス ・フ トウ ナ(仏 領),ピ
下 独),ハ
ワ イ(米
ヴ ァル(独)・
クッ儲
合衆 国の
島(舳
メ リカ ン ・サ モ ア(米 領)・ トケ ラ ウ(N
リネ シア で あ る.・96・ 年代 以 降,独
トケア ン諸 島(鞭)・
そ れ に仏 領 ポ
立 国 あ るい は 自 由連 合 国 とな った 国 が 多
い.住 民 は,先 住 民 の他 に か つ て植 民 地 時代 に宗 主 国 か ら渡 って きた 人 々 と
の異 人 種 間結 婚 に よ る混 血 と中国 系 か ら成 る・ ポ リネ シア地 域 の総 人 口 は数
字 を単 純 に足 せ ば55・万 弱 とな るが,欧 州 系 や ア ジ ア系 の住 民 数 を差 し弓1いた
ポ リネ シア 先住 民 系 数 は概 算 で110万 か ら120万 人 で あ る。しか し人 口が100万
以 上 のハ ワイ州 や,異 人 種 間 結婚 力瑛 植 民 地 時代 か ら進 んで い て・ しか も ど
の 「血 」 を 自 らの ア イ デ ンテ ィテ ィで あ る と公 にす るか は本 人 の 申告 任 せ と
い うNZの
よ うな 多 民族 社 会 も,ポ
リネ シ ア三 角 形 に は含 まれ て い る。 また
全 て の地 域 の人 種 別 統 計 が あ る とは限 らな い た め・ ポ リネ シア 人 口 は特 定 し
難 い.ハ
る.タ
ワ イ とNZを
別 に した 剥
ヒチ 島等 か な 欄
割 合(後 述)を
ネ シ ア諸 島 人 の人 ・ は お よそ55万 人 で あ
査 が きち ん として し・る島 にお け る ポ リネ シ ア人 口の
当 て はめれ ば,人
・ の約7割
が剥
ネ シア人 の血 を引 く とみ
て よい だ ろ う.ハ ワ イの先 住 民 の血 を弓1く人 々 は2・万 人 強 で あ るが ・ そ のf也
に トンガや サ モ ア等 の 剥
194国
ネ シア諸 島 か ら移 住 して きた ハ ワイ住 民 も15万 人
際経営論集No・101996
近 くい る 。NZの
人 口 は 約350万
人 だ が ,そ の11%強
ア 系 先 住 民 マ オ リ と い う こ とに な っ て い る
が 混 血 を含 め た ポ リネ シ
。 但 しNZで
は前 述 の よ うに 自己
申 告 制 で あ る た め,「 マ オ リの 血 」を誇 る人 々 の 数 が 約39万 人 とい う意 味 で あ
る。ハ ワ イ とNZの
と,こ
先 住 民 族 の 数 を 足 し て ポ リネ シ ア 人 口 は100万
こ で は一 応 し て お きた い
を突 破 す る
,
ポ リネ シ ア 語 は オ ー ス トロ ネ シ ア 語 に 属 す る C)ハ ワ イ 先 住 民 の 言 語 とNZ
先 住 民 の 言 語 は赤 道 を 隔 て て は い るカ§驚 くほ ど似 て お り
,同
を 漕 ぎ渡 っ て 広 が っ て い っ た 証 の 一 つ と み な す こ とが で き る
じ民 族 が 太 平 洋
地 名 を例 に と っ て み よ う。ハ ワ イHawaiiや
属 す るハ ヴ ァ イ イHavaii(現
仏 領 ポ リネ シ ア ・ソ シ エ テ 諸 島 に
ラ イ ア テ ア 島)は
して 登 場 す るハ ワ イ キ の 変 形 で あ る 。NZ先
に伝 説 中 で 父 囎
地 をHawaikiと
,ポ
リネ シ ア 人 の 口伝 に共 通
住 民 マ オ リ は,何
な る の で あ る 。Ariki(NZ・
の 意)も
が 多 く,Hawaikiは
首 長 の 意)と
帯 地 方,首
,テ
,北
,渡
来 者(白
,パ
ケハ 双 方 に よ
を 「パ ケ ハ 」 と呼 ぶ 。 この 呼 び名 は 現 在 も普 遍 的 に マ オ リ
外 の ポ リネ シ アの 島 で
,自
オ リ」 と呼 ぶ 先 住 民 に 出 会 っ た 欧 州 人 航 海 者 の 記 録 は数 多 く残
者 がNZマ
オ リ人 の 古 老 か ら聞 い た と こ ろ に よ れ ば ,初
人 間 に 対 して,自
ケ ハ=よ
ら を 「マ オ リ=こ
そ の 土 地 の(者)」
この 土 地 の(者)」
えば
人)
ら を 「マ
って い る。 筆
め て 出会 っ た 未知 の
と紹 介 し
,相
と名 指 す ポ リネ シ ア 古 来 の 儀 式 が あ
元 は ど ち ら も名 詞 で は な く形 容 詞 で あ り,例
島 を海 中
・イ カ ・ア ・マ ウ イ(マ
住 民 は 自 ら を 「マ オ リ」 と呼 び
っ て 使 わ れ て い る 。 大 航 海 時 代 にNZ以
長
話 に 登 場 す る男 マ ウ イ が 釣 り
も ト リ ッ ク ス タ ー ・マ ウ イ は
か ら釣 り上 げ た 青 年 の 名 で あ る。 北 島 の 別 名 は
あ る 。NZ先
熱 帯,熱
。 「マ ウ イ 」 や 「マ オ リ」 は ポ リ
ネ シ ア 全 域 で 使 わ れ て い る。 ハ ワ イ 諸 島 に ,神
ウ イ の 魚)で
は南 下 す るに つ
赤 道 の 北 で はHawaiiに
,Arii(亜
一一例 で あ る。 共 通 の 固 有 名 詞 も あ る
上 げ た マ ウ イ 島 が あ る が,NZで
処 と特 定 せ ず
呼 ぶ ・ 他 に も類 似 の例 を ポ リネ シ ア 中 で
見 る こ とが で き る 。 北 へ 行 くに 従 っ て 子 音 が 抜 け て い る(或
れ て 子 音 が 加 え ら れ て い る)語
。 ハ ワ イ とい う
手 を 「パ
っ た と い う。
「こ の土 地 出 身 の(マ
銃 と十字架 と核195
オ リ
の)」 ラ ンギ とい う名 の者 で す とい う形 式 の 自己 紹 介 に使 用 され た の だ ろ う。
ポ リネ シア人 は地 元 の人 間対 よそ もの とい う区別 を は っ き りつ け るが,島
ら島 へ と緻
す る人 々 に とっ て・ 土 地 の先 住 者 か それ と も今 到L6)た
か
ばか り
か を鮮 明 に し な けれ ば,初 対 面 の儀 式 が 始 ま らなか った か らで あ る。 今 で は
「マ オ リ」はNZ先
住 民 を指 す 固 有 名 詞 だが,ポ
リネ シア海 域 の諸 島民 は,白
人 渡 来 者 に初 め て遭 遇 した とき は 自 らを 「マ オ リ」 と名 乗 っ て いた ので あ る。
ポ リネ シア 人 は髪 の 黒 さ な ど 日本 人 と類 似 点 も多 い が,海
遙 か にが っ ち りして い る し,波
で鍛 えた骨 格 は
と風 に耐 えて きた顔 の 彫 り も深 く,太 陽 に さ
ら され た肌 の色 も深 い。 ポ リネ シ ア人 の起 源 は諸 説 あ る。 現 在 で は 「オ ー ス
トロ ネ シ ア語 を話 す人 々 が 東 南 ア ジア か ら移 動 を開始 し,紀 元前1000年
ころ
に は西 部 ポ リネ シア の トンガ ・サ モ ア地 域 に移 住 し,原 ポ リネ シ ア文 化 を形
成 した 。そ こ に1000年 余 り滞 在 した 後,紀 元 後300年 東 部 ポ リネ シア の マ ル キ
ー ズ諸 島 に移 住 し,そ
年),ソ
こ を起 点 に イー ス ター 島(400年),ハ
シエ テ諸 島(600年)に
島 を へ て,NZに(8。
移 住 した。 さ らに ソ シエ テ諸 島 か ら ク ック諸
。年)灘
し た 了)と さ れ る.筆
トンで 出席 した先 住 民 マ オ リの 集会(マ
が単 純 化 され た 口伝 形 式 で,従
「紀 元 前4,5世
糸
讃
ワ イ諸 島(500
ラエ)で
者 がNZの
は,ポ
首都 ウ ェリン
リネ シア人 の大 航 海
っ て ひ ど くわ か りや す くこ う語 られ て いた 。
私 達 の 先祖 は故 郷 ハ ワ イ キ を出 て,大 海 原 を カ ヌー
で 航 海 し た 。(マ オ リ の 語 りは 優 雅 な 身 振 りや 仕 草 付 き だ 。 こ こ で は ざ ぶ ん ざ
ぶ ん と大 波 が 揺 れ る様 を全 身 で 表 現 す る。)ポ リネ シ ア 三 角 形 の お へ そ に あ た
る島 に 到 着 し そ こ に上 陸 した 。 部 族 は 栄 え 人 々 は 豊 か に 暮 し,や
数 が 増 え過 ぎ た 。 食 べ 物 が 足 りな くな り,い
勇 気 あ る男 達 と女 達 は,カ
が て人 間 の
さ か い が 絶 え な くな る。 そ こで
ヌ ー を漕 ぎ 出 した 。 あ る 者 は北 へ 北 へ と漕 い で い
っ た 。 東 へ 東 へ と漕 い で い っ た 人 々 も い た 。 南 へ 南 へ と漕 い で い っ た あ げ く・
冷 た い 白 い 土 地 に い き あ た り,食
た 人 々 もい る。 マ オ リ は,予
Zの
マ オ リ名,長
196国
言 者 ク ペ の 教 え に 従 っ て この ア オ テ ア ロ ア(N
い 白 い 雲 の 意)に
際経営論集No・101996
べ 物 を見 つ け られ ず に天 へ 昇 っ て 星 と な っ
着 い た 。」
ポ リネ シア三 角形 の くだ りは現 代 に な っ てか ら若 い聞 き手 向 け に付 け足 さ
れ た・ この マ オ 硬
は・ ヴ ィク トリア女 王 時 代 の 白人 来 島以 後 も続 く
.鱈
地帯 で 餓 死 した カ ヌ ー ・グル ー プ もき っ といた だ ろ う
.生 儲 力.・
北 上 して戻
り語 り伝 えた と思 わ れ るが ,そ の経 緯 を知 らせ る 口伝 は な い。 こ う して ポ リ
ネ シ ア人 は広 い海 を 占有 す る に至 った
。NZを
除 い て どの島 も無 人 島 だ った
ら しい・ 古 い 文化 を破 壊 した記憶 は ・伝 に は な い し
,先 儲
の遺 跡 等 もな し、
。
魚 の豊 富 な豊 か な海 が 自然 を愛 す る来訪 者 を沈 黙 の うち に待 ち受 けて い た の
で あ る。NZで
は,マ オ リ来 島 以 前 に 巨鳥 モ ア を狩
或 はモ リオ リとい う人 々 が い た と推 定 され て い る
って い た モ ア ・ハ ンタ ー
.彼 等 が モ ア を絶 滅 させ た
犯 人 とい うわ けで あ る・ マ オ リ側1ま,我 々 は モ ア の綴
に よ って 先 儲
が滅
び た後 の無 人 島 に来 た と主 張 し・ 白人 側 は,マ オ リが モ ア ・ハ ンタ 遊
絶滅
に追 い や った と考 えた が る。 その 意 味 で双 方 と も征 服 民 族 の 原罪 意識 を微 か
にで は あれ 抱 い て い て,そ れ が多 民 族 社 会 の モ デル と もい え る穏 や か なNZ
共 同体 の形 成 に貢 献 して い るの で は な し・
か と思 う
.定 住 して か らの繊
争 はNZで
もハ ワ イ で もタ ヒチ で もどの共 同体 で もあ っ たが
間抗
,使 わ れ る武 器
が 石 器 時 代 の そ れ に限 られ て いた か ら
,被 害 は 目に見 え る程 度 だ った だ ろ う。
白人 が渡 来 す る前 の ポ リネ シア の歴 史 は,ポ
い た め に記 録 され て い な い・ 遺 跡 も数 少 な い.海
海 に生 の 活路 を見 い だす この海 洋 民 蜘 ま,住
い っ た 「不 動 の」 依 り ど ころ に依 らず
羅鑑
を 自在 に往 来 す る知 恵 を得
の 高低 や津 波,特
,そ の足 跡 の大 方 は海 中 に没 して い る。
問は
,島
々 に も解 くのが 難 しい 問題 で はな い だ ろ う
定 の魚 の捕 れ る時 期
.波
,台 風 や嵐 等 の海 の 機 嫌,生
き物 の 繁
物 の繁 茂 等 自然 界 の生 命 の サ イ クル s太 陽 の め ぐ り,月 の満 ちか け,
星 の推 移,雲
の 動 き,風 や 気 温 や雨 や川 の 氾濫 や噴 火 活 動 や 地 震 等 に つ い て
年 長 者 か ら学 び 自 ら 槻
,
ま い とか 道 具 とか故郷 の 山河 と
や エ ンジ ンな しの遠 洋 航 海 が ど う して 可能 だ った か とい 擬
国 に住 み農 耕 民 族 で あ っ峨
殖,植
リネ シ ア文 化 が 文 字 を持 た な
察 を怠 らな い人 々1ま渤
物 学 や植 物 学 や気 象 学 を学
問 す る人 々 と同 じ よ うに宇 宙 の法 則 を我 が物 と心 得
,深 い知 識 や 洞 察 力 を蓄
銃と十字架と核197
え航 海 に,あ
る い は農 耕 に利 用 して い た筈 だ。
ポ リネ シア 三 角形 の 広 が りを漂 流 等偶 然 の 結 果 とす る説 は ロ マ ンテ ィ ッ ク
で は あ るが,ポ
証 言 も撚
や,祭
リネ シア の漁 船 に女 性 は乗 らな か った とい う ポ リネ シア 人 の
また,ハ ワ イ ー タ ヒチ間 の36・・kmを 「8世 紀 以 悉 王 族 間 の繍
司 の交換 な ど」 のた め に航 海 が 為 され て きた事 実 が あ る。 ポ リネ シ ア
の航 海 者 達 は ソ シエ テ諸 島 か ら5000km離
れ たNZへ
移 住 して い るが,ハ
ワ
イ=タ
ヒチ 間 を往 復 航 海 す る人 々 に とっ て のNZは,方
角 は反対 だ が 「
距離
は,ハ
ワイ よ りち ょっ と遠 い ぐ らい 」 の感 覚 で あ った ので は な い だ ろ うか・
ポ リネ シ ア の広 が りは先 に示 した よ うに ゆ っ く り と した時 の流 れ の 中 で起 き
て い る。 目指 した 島 に 向 か う定期 航 海 な どの途 中 に,天 候 の異 変 に よっ て漂
流 した ま ま別 の島 を発 見 し住 み着 い た人 々 もい るか も しれ な い。 しか しや は
り蓄 積 され 口頭 で伝 承 され た航 海 の体 験 や知 識 を基 に,人
貧 窮,部
族 間抗 争 とい った 問題 が 生 じ るつ ど,新
る習 わ しで あ っ た と考 え るの が,ポ
口過剰,食
生活 の
しい 島 を見 つ け る航 海 に出
リネ シ ア の広 が り方 の妥 当 な説 明 で あ る。
ポ リネ シア人 の航 海 は,「 テ ラ ・オ ー ス トリス ・イ ン コグ ニ タ」 の ロマ ン と欲
と哲 学 に支 え られ た欧 州 人 の大 航 海 とは異 な った だ ろ う。 ポ リネ シ ア人 に と
って海 は,落 人 や夜 逃 げの人 が 越 える 山道 や 峠 道 ほ ど抵 抗 感 の薄 い道 で あ り,
彼 等 の操 るカ ヌ ー(ア
ウ トリガ ー船 と複 式 船)は,陸
地 の 旅 人 が 履 くわ ら じ
ほ ど体 に馴 染 ん で い た 筈 だ 。 彼 等 に とっ て航 海 が 問題 に対 処 す る伝 統 的 か つ
普 遍 的 な手 だ てで あ っ た とい う前 提 を踏 ま えて そ う考 え るの で あ る。 つ ま り
白人 が機 能 の よい船 で渡 来 す る以 前 の ポ リネ シ ア人 は,大 陸 を知 らず人 口増
加 に対 応 で きる広 さの あ る土 地 の存 在 を知 らな か った 。 土地 は先 祖 代 々住 み
着 くもの で はな くi生 まれ育 った 島 に執着 せ ず 何 十世 代 か 毎 に 島 を捨 て る こ
とが,ポ
リネ シ ア文 化 の基 盤 で あ っ た。 言 い換 えれ ば耕 作 を し ない人 々 が小
さな 島 の土 地 に しが み つ く発 想 を もて ば,人
口過剰 の さ い は島 民 全 員 の死 に
つ な が りか ね なか った 。 土 地 に しが み つ く農 耕 民 族 に は危 険 きわ ま りな い と
見 え る船 出 も,ポ
198国
リネ シア の航 海 者 達 に とって は新 た な明 日の生 存 を確 か に
際 経 営 論 集No.101996
す稀
望 の門 出 で あ った・ ハ ワイ やNZと
しめ た広 燈
か で定 住 可 能 な土 地
を発 見 し初 め て・ ポ リネ シア社 会 も土 地 の 占有 とLaう 齢
ぐっ て・ 王 族 の 争 い(ハ ワ イ ・ タ ヒチ島)や 塊
を得 る
戦 争(NZ)を
体 験 して い く
こ とに もな る・ その後 ・ これ ら小 さな島1こお け る小 さな争 い は
に よ って ・ 部族 間抗 争 とい う レベ ル カ・ら一 気 に
.土 地 をめ
,白 人 の灘
,南 海 の 諸 島 民 が 見 た こ と も
な い欧 州 を含 む国 際 問題 へ と昇 格 して い くの で あ る
。
⑧
仏 領 ポ リネ シ アの歴 史
仏領 剥
ネ シ ア は・ 南 太 平 洋 の真 中 にあ る フ ラ ン...外
領土 であ る
.ポ
ネ シア=多 数 の 島々 の意 味 通 り・仏 領 ポ リネ シ ア も約13・の 島 力・らな る
醸
が4000平 方kmで
洋 国 で あ る・ 鵡
暢
醐
は4・・万 平 方km
,「水 半球 」の 一 敗
も知 られ て い るの は タ ヒチ島 で
km・ 仏 領 ポ リネ シア の陸 地 の約3分
の1を
占める
謎
.陸 地
わ しし、
海
,陸 地 面 積 は1。。。平 方
.全 人 ・約19万 人 の3分
2が タ ヒチ 島 に住 む・ 首 都 パ ペ ー テ もタ ヒチ 島 に あ る
.人 種 の 内訳 は,ポ
ネ シ ア 人7・%・
欧 州 人15%
,混
血8%,中
今 は仏 領 で あ る ポ リネ シア の島 々 撮
の分揃
国 人 が7%で
瀦
の
リ
。
初1こ渡 来 した 白人 は
,当 時 姻
と富
広 げ て いた スペ イ ンの艦 隊 を率 い る メ
ン ダ ーニ ャ
合 戦 を手 荒 に勧
(1542--95)で
リ
・ 彼 は1595年7月
に マ ル キ.___ズ 諸 島 燵
し 島 民 を2。 。名 殺 潔
。
銃 の威 力 を石 器 文 化 の にな い手 達 に知 らせ た この事 件 は
,タ
ヒチ 島他 の近 隣
諸 島 に も伝 わ って い った だ ろ う・ しか し この時 初 め て 白人 の存 在 を知
けで は な い と思 う・ ポ リネ シア人 の航 海 術 の巧 み さ
,航 澱
入 れ れ ば・ 他 の太 平 瀦
き る・ マ ル キー ズ 鵡
っ たわ
の長 さ を考 慮 に
島 か らマ ゼ ラ ン来 航 も伝 わ って いた と容 易 に想 像 で
民 に とっ て実 際 に遭 遇 した 白人 の 銃 は
,タ ニ フ ァ(ポ
リネ シ ア伝 説 の 人 食 い怪 獣)の 魔 法 以 上 に効 率 の よい もの で あ
った.1767年
に欧 州 人 が タ ヒチ 島 を初 め て訪 れ た
.英 海 軍 の ウ ォ リス大 尉 で あ る .彼 は タ
ヒチ を 「キ ング ・ジ ョー ジ3世 島 」 と名 付 けた
。 翌1768年 仏 の軍 人 ブー ゲ ン
銃と十字架と核199
ヴ ィル が来 島 し,さ
らに翌 年 姻
か らク ッ ク艦 長 が 来13)し た・ ブ ー ゲ ンヴ ィ
ル は仏 初 の太 平 洋 探 検 隊 隊 長 に任 命 され世 界 を一 周 した 。
タ ヒチ 島 を 噺 ス テ ラ島 」 と命 名 した ブ ー ゲ ンヴ ィル以 来 汐
の関 わ りは この1995年 で227年 に及 ぶ.1771年
記 』 を 出版 したが,デ
ヒチ と仏 と
にブ ー ゲ ン ヴ ィル は『世 界 周 航
ィ ド・ はrブ ー ゲ ン ヴ ィル鮪
記 補 遺 』 を出 して次 の
よ う に書 い て い る。 「か つ て 自然 人 が存 在 した 。 … …(タ ヒチ人 に)泣 け,ヨ
ー ロ ッパ 人 に 出会 っ た こ との不 幸 を泣 け。 奴 等 はい ず れ短 剣 と十 字架 を持 っ
て侵 略 し に戻 って くる.14)デ ィ ド・ のr警 告 」は 的 中 し・ ポ リネ シア人 の 島 々
は今 「海 外 領 土 」 仏 領 ポ リネ シア に変 わ って い る。 けれ ど も彼 の 警 告 は この
3。年 間 に仏領 ポ リネ シア が 体 験 して きた よ りは遙 か に穏 や か な こ とに対 して
発 せ られ て い た に違 い な い.ブ
ー ゲ ンヴ ィノ
レ来 島 の 翌 年1769年 か ら数 度 に渡
りク ック探 検 隊 が タ ヒチ 島 を訪 れ た.以 来 南 太 平 洋 の 小 島靴
人 に とって い つ で も好 き勝
録 も残 る こ と とな っ た.ポ
的識
珊.1'iは 欧 州
に使 え る別荘 地 とな る・ 様 々 の訪 問 者 に よ る記
リネ シア の海 は美 し 禮
か で ・ 住 民 は温 和 で社 交
艦 バ ウ ンテ ィ号 乗 組 員 の反 乱 の 主 た る原 因 に もな り画 家 ゴ ー ギ ャ ン を
引 き付 けた よ うに,欧 州 人1まタ ヒチ 島 民 に魅 せ られ た ・ 欧州 人 の 第一 印 象 に
貢 献 した の は,歴 史 が ポ リネ シ ア の 内 に育 ん だ素 養 と大 い に関 わ りが あ る。
ポ リネ シア人 は タ ヒチ の 自然 に寄 り添 った 暮 しを営 んで いた が 洞
時 に海
の道 を辿 って 新 しい島 へ 赴 く必 然 性 を 日常 の感 覚 として持 つ進 取 の気 性 に富
む人 々 の子 孫 で もあ った.カ
い な い か も しれ な い し,い
ヌー を出 して 漕 ぎ着 いた 新 しい尉 こは先 住 者 が
るか も しれ な い。 必 要 とあ れ ば異文 化 を背 景 とす
る住 人 と折 り合 って い か な けれ ば な らな い・ そ の輔
ね を基 に し櫃
遇礪
式 も磁
して 魂.ゆ
と して・ 体 験 の積 み重
え に キ ャプ テ ン ・ク ックの0行
を迎 えた タ ヒチ 島 の住 民 も 「異邦 人 が訪 れ た と きに は例 外 」 的 に振 舞 う し,
「社交 的な楽 しみ にははな はだ騰
予)な人 々で あ る と初対 面 の燗
られ た 。 摩 擦 を避 け る知 恵 を 発 揮 す る 「高 貴 な 野 蛮 人 」 は,南
は思 わせ
国 の 楽 園 を訪
れ る 人 々 に と っ て ひ ど く安 心 で 重 宝 な存 在 だ っ た に違 い な い ・ 好 き な 時 に 訪
200国
際経営論集No・101996
れ る こ とが で き泌
要 とあれ ば銃 に物 を言 わ せ る欧 州人 備
の島 々 を「別荘 」
にす る時 代 が 到 来 した ・ しか し・珊 瑚 礁 の 「非 常 に堅 固 な龍
は轍
話 題 に もされ て い なか っ た
」 とい う資 質
・ 核 兵 器 が 出現 す る まで,「 核 爆 発 実 験 場 」
が 必 要 に な る まで・ 何 百 回 もの核 爆 発1こ耐 え得 る固 い地 質 を探 す必 要性
られ る まで詠
いで 魚 を捕 る た め に ポ リネ シ アの珊 瑚 礁 の海 は あ
に迫
っ た。
タ ヒチ 島 が 含 まれ て い る群 島 を・ キ ャ プ テ ン ・ク ック は ソサ エ テ 儲
SocietyIslandsと
島
命 名 した 。 自分 を太 平 洋 に送 りだ した ロイ ヤ ル ・ソサ エ テ
ィか ら とった名 で あ る。 仏 領 に な って か らは ソシエ テ諸 島Ilesd
と記 され る。 ソ シエ テ諸 島 滞在 中 ,キ
elaSociete
ャプ テ ン ・ク ッ ク は タ ヒチ 島 の み な ら
ず周 辺 の 島 々 へ も足 を伸 ば して い る.今 か ら226年 前 の タ ヒチ島 人 とか な り深
く関 わ っ た キ ャプ テ ン ・ク ック は ,そ の 社 会,住
民,集
落,食
糧 等 につ い て
詳 細 な 記録 を遺 して い る・ 但 し当時 は普 通 な が ら今 日で は訂 正 され るべ き表
記 も使 わ れ て い る・ 一 例 に・ イ ン デ ィア ン(先 住 民 の こ と)が あ る
.1769年
6月3日
の金 星 翻
を 目標 に ・ エ ンデ ヴ ァ号 は4月1・ 日 タ ヒチ島 に接 近 した
早 速 に島人 の カ ヌ ー が 出迎 え食 糧 が提 供 され た
ん ぱ ん に櫨
.ク
ック隊 が滞 在 中 に最 もひ
わ れ た の は・ パ ンの実 と魚 と豚 で あ る
.そ
小 枝 を捧 げ る歓 迎 の儀 式 を受 けた ・ 現 在 も同 じ よ う臓
して緑 の 葉 の つ い た
式 が ポ リネ シ儲
方 で行 わ れ て い る・ キ ャ プ テ ン ・ク ック の言己録 は激 変 した 剥
地
ネ シ ア地域 で
今 も尚 その 重 要 性 を失 っ て い な い儀試 が ,200年 以 上 前 もほ ぼ同 じで あ った と
い う証 に な る。
当時 の タ ヒチ共 同 体 は階 級 社 会 で あ った 。 キ ャ プ テ ン ・ク ック は オベ リー
妊
とそ の夫 で あ る「酋 長 オ モ ア」,2人
親 の位 を継 いで 妹 と繍
の子 供 に も会 った.成 人 した 兄 が 父
す る こ とにな って い る と記 され て い17}
.ま た タ ヒチ
社,C,.
18)には賭
と水 先 案 内 を兼 ね た舘
もお り地 位 は世 襲 制 で あ る と書 かれ て
い る。 筆 者 もNZ先
住 民 マ オ リの 口伝 採 訪 中 に
,娘 や 息 子 の結 婚 相 手 の身 分
に拘 る親 の話 ・ 航 欝
部 族 の大 仕 事 を取 り仕 切 る神 官 の話 を聞 い て い る
.定
住 で き る条 件 を備 えた 島 を見 つ けて落 ち着 い た ポ リネ シ ア人 社 会 に階 級 制 度
銃 と十 字 架 と核201
。
が 発 達 して い った こ とが わ か る.但
し実 際 に は跡 継 ぎ は養 子 の場 合 も多 い ・
実子 の 中 に男 子 が い ない場 合 や,い
て も後 継 者 の素 質 を持 た な い と判 断 した
首 長 や 神 官 は麟
の部 族 の子 供 の 中 か 撮
だ し,養 子 にす るの で あ る.情
も優 秀 な子 を長 い 年 月 か けて選 び
に溺 れ る と・ 多 数 の部 族 民 の生 存 が 危 う くな
る か らで あ る。 海 は彼 等 の庭 で あ り峠 道 で あ る とはい え,部 族 成 員 の福 祉 の
た め に,時
に冷酷 に注 意 深 く理性 的 に リー ダ ー は決 め られ て い た とい う こ と
だ ろ う。 キ ャプ テ ン ・ク ッ クが 出会 った子 供 達 が 実子 か ど うか は分 か らない
が,優
れ た 才 能 を持 つ若 者 達 で あ った こ とは確 か で あ る。
異 文 化 遭 遇 に慣 れ て い た とはい え,そ れ は似 た よ うな碍
時代 の 文化 を発
達 させ て いた 島人 達 を相 手 と して 想 定 して の こ とで あ っ た・ 欧 州 人 は帆 船 に
剰,銃
をか ざ し,釘
れ て い た.異
を使 い,ポ
リネ シ ア人 の 定 義 す る歎
化 人 か らか け離
文 化 間 ギ ャ ップ の激 しい衝 撃 は,欧 州 人 側 も受 けた・ 自然 の懐
に抱 か れ て時 間 に も縛 られ ず(キ
ャ プテ ン ・ク ッ クは タ ヒチ人 の静 寂 の 中 で
の食 事 の 長 さ を特 記 して い る)悠 々 と生 と性 を楽 しむ 島民 に欧 州 人 は魅 せ ら
れ た。 本 国 に戻 れ ば最 下 層 の暮 し しか で きな い水 夫 の 中 に は,こ の ま ま タ ヒ
チ に住 み 着 きた い と船 か ら逃 げ る者 もい た.楽
園 に逃 げ込 ん だ(そ
して素 木ト
な歓 迎 を受 けた)彼 等 が タ ヒチ人 に もた ら した の は,銃 や 病 気 や酒 で あ った 。
タ ヒチ の 人 口 は,1769年
に は推 定12万 人,そ
第 一 次 大 戦 後 に は9。・・人 に減 っ喫.現
の3分
の2が
タ ヒ チ 島 に 住 み,人
ポ リネ シ ア 人 口 は9万
て い な い 。 銃 は,石
の 四半 世 紀 後 には1万5000人,
在 の 仏領 ポ リネ シ ア全 人 ・が19万 ・ そ
口 の7割
が ポ リネ シ ア 人 で あ る。 タ ヒ チ の
弱 に な る 。 キ ャ プ テ ン ・ク ッ ク 来 島 時 の 人 口 は 回 復 し
造 りの 棍 棒 バ トゥや 楯 で 闘 わ れ て い た タ ヒ チ の 部 族 間 抗
争 に 新 た な 展 開 を遂 げ させ た 。 戦 艦 バ ウ ン テ ィ号 で 反 乱 を起 こ し タ ヒチ 島 に
残 っ た 船 員 達 の 銃 が,ハ
ヴ ァ イ イ(現
ラ イ ア テ ア 島)で
とす る新 興 宗 教 団 体 ア リオ イ を信 ず る タ ヒチ の 首 長 の1人
発 生 し た,オ
ロ を神
ト ゥの 側 に つ き,
彼 を ポ マ レ 王 の 座 に据 え た の で あ る。 時 は 移 りそ の 数 年 後 世 紀 は 変 わ り 目 を
迎 え て19世 紀 に な る。 そ し て つ ぎ に タ ヒ チ 島 は,十
202国
際経営論集No.1()1996
字 架 の 争 い に翻 弄 さ れ る
こ とに な る。
数 年遡 って1797年 に,宣 教 師 の乗 った ロ ン ドン伝 道 協 会 の船 ダ フ号 が タ ヒ
チ に到 着 した・ ポ マ レ王 は ア リオ イ とし・う宗 教 団 体 の長 の よ うな存 在 で あ
た た め改 宗 せ ず,1803年
に死 去 した 。 ポ マ レ2世
は,英 国 の 流 刑 植 民 地 ニ ュ
0・ サ ウ ス ・ウ ェ ー ル ズ(現 在 は豪 の州)を 相 手 に豚 肉 と火 気
な ど,銃 の時 代 の 波 に乗 せ られ た王 で
っ
の取 引 をす る
,そ の流 れ で1815年 に ク リス チ ャ ン に
改 宗 した。 購 入 し続 けた武 器 の お か げで1818年 に タ ヒチ を統 一 した ポ マ レ2
世 の た め に・翌 年 ・伝 道 協 会 はパ ペ ー テ に大 きな教 会 腱
が1821年 に死 去 した頃 ・ キ リス 激(プ
民 の心 を撒
い った 醇
てた
.ポ マ レ2世
・ テ ス タ ン ト)は す で にタ ヒチ の住
て いた ・ 欧 州文 明1こ見 せ っ け られ た銃 等 の物 質 や死 後 の救 済 と
に魅 せ られ 翻 弄 され
,デ
ィ ド・の い う 「
人 為 的 燗20)が
だ 自分 自身 を持 て余 した挙 げ句 の ,ポ
入 り込 ん
リネ シア人 の 改宗 で あ る。Oリ
固 有 の 生 命 の創 造 神 タ ネ か ら18世 紀 の新 興 宗教 の オ ロ
,そ
ネ シア
して キ リス トへ と
精 神 的 大 変 革 を体 験 した ポ リネ シ ア人 の心 に ,運 命 は もっ と揺 さぶ りをか け
て や ろ う と決 め た ら しい。1836年 に仏 か らカ トリ ック の宣 教 師 が来 島 した
。
銃 は既 にDリ ネ シ ア に存 在 して いた 。 植 民 地 拡 大 を狙 う仏 か らや っ て きた
の は 「古 い ほ うの」+字
架 だ った ・ そ の 時 ポマ レ王 家 を率 い て い た の は
,幼
い ポ マ レ3世 の跡 を継 いだ これ また若 い ポ マ レ4世 女 王 だ
った。 プ ロ テス タ
ン ト系 ク リス チ ャ ンで あ る島 民 は
,当 然 の選 択 と して カ トリック の神 父 達 を
島 か ら追 い 出 した・ 仏 政 府 は この チ ャ ンス に食 い つ い た
.カ
トリ ックの神 父
を追 い出 した の は・ タ ヒチ島 民 に よ る 「フ ラ ン ス市民 に対 す る鱒11)で
と撮
ある
して きた・ この侮 辱 を償 え と,ポ マ レ女 王 に賠 償 金 要 求 を突 き っ けた
の で あ る。 宗 教 家 が布 教 に情 熱 を注 ぐ こ と自体 は当 然 だ が
海 に お け る国家 拡 大 の拠 点 獲 得 の た め ウ
ご利 用 した
.も
,仏 は,そ れ を南
っ と も これ も当 時 は強
大 な 国 々 な ら何 処 で もが 取 っ て い た政 策 で はあ る
。 と もか く仏 の狙 い は タ ヒ
チ島 を麟
させ 支 配 下 に置 く こ とに あ った
.こ れ まで の関 わ りか らタ ヒチ は,
英 国 に解 決 の助 け を求 めた 。 しか し英 国 はタ ヒチ を守 るの を断 っ た
。世界 中
銃 と十 字 架 と核203
に幾 つ も植 民 地 を持 つ英 国 は,丁 度 この 時 ヴ ィ ク トリア 女 王 とNZの
ネ シア 系 先住 民首 長 達 との 間 に主 権 譲 渡 条 約(ワ
結 ぼ う として い た と ころだ った.植
イ タ ンギ条 約,1840年)を
民地 の維 持 に は膨 大 な費 用 も人 手 もか か
る。 タ ヒチ よ り将 来 性 が あ りタ ヒチ島 よ り大 きなNZの
地 に選 び,タ
東ポリ
ヒチ を見 捨 て た の で あ る.1995年
・姻
島 々 の ほ う を英 植 民
も含 む欧 州 連 合(EU)
を核 の傘 の下 に入 れ て あ げ ま し ょう,だ か らポ リネ シア の海 で の核 実 験 を認
め な さい と仏 は主 張 して い る。そ う主張 で き る支 え は,160年 前 に遡 っ て仏 が
タ ヒチ を 自領 と した 事 実 で あ る。
省 み れ ば ご り押 しに よ る タ ヒチ の 仏領 化 が 始 まっ た。 か つ て 日本 を含 めた
国 々 も採 っ て いた 手 法 を,仏
は今 で も同 じ よ う に使 う・ そ して仏 の 実験 強行
を許 す先 進 国 の対 応 の ほ う も全 く変 わ って い な い。1843年,(そ
事 にNZの
主権 を得 た)英
の3年 前 に無
国 の外 相 は英 仏 関係 を損 ね な い よ う に醜
仏 の保 護 領 条 約 を認 めた 。1995年,日
して・
本 の首 相 は 日仏 関 係 を損 ね な い よ うに,
「遺 憾 の意 」を表 明 す るだ け で 国連 総 会 で名 指 しの抗 議 もで きな い で い る。 ポ
マ レ女 王 は 日本 の首 相 よ りは怒 りを行 動 に移 し踏 ん張 った 。1844年 か ら47年
まで,女
王 は抗 議 のた め ラ イ ア テ ア島 に引 き籠 って タ ヒチ に帰 らなか った 。
島人 に よ る小 競 り合 い も繰 り返 され た 。 しか し英 国 が 関 心 を失 い,タ
の有 力者が仲介す るに及 んで妊
も折 れ契.そ の後 は仏植 民緻
ヒチ島
府 の思 うが
ま まの タ ヒチ支 配 が始 ま り,今 日迄150年 以 上 続 い て きた。
仏 は近 脚
島 々 を次 々 と仏 領 に し現
在 の仏 領 ポ リネ シア に は・23)チ
を
含 む ソ シエ テ諸 島 や核 実験 場 で あ るム ル ロ ア環 礁 等 を含 む ツ ア モ ツ諸 島 も含
まれ て い る。1860年 代 の ツ ア モ ツ諸 島 の海 は まだ汚 染 され て い な い が,そ
れ
を楽 しむ住 民 の数 が極 端 に少 な か った 。 ペ ル ー の 奴 隷 船 が 島人 を南 米 に さ ら
っ てい った か らで あ る。 それ は タ ヒチ で も同 じだ った。 か つ て12万 人 はい た
臥
の数 も今 や1万 人以下 だ った・仏擁}ま 綿膿
鞍
興 そ うと計 画 し・労
働 者 を ク ッ ク諸 島 や香 港 か ら連 れ て きた り買 っ た りした。 ペ ル ー を非 難 で き
な い 「非 人 道 的 労 働 管 理 」 で あ る。 北 大 路 弘信,北
204国
際 経 営 論 集No・101996
大 路 百 合 子 著 『オ セ ア ニ
ア現 代 史 』 に記 され て い る,当 時 の仏 総 督 の 行状 や 国 際 視 察 団 の お ざ な りの
視 察 は,現 代 も世 界 各 地 で 問題 に な っ て い る こ と とレベ ル が 全 く変 わ らず い
い加 減 な もの で あ る。
ポ マ レ女王 は トップ に立 つ 者 の使 命 を 自覚 して い た が
1877年,無
,孤 立 無 援 だ っ た。
念 な人 生 を終 えた 。 息子 の ポマ レ5世 は1880年 に退 位 し(買 収 さ
れ た との説 もあ る)・ ポ マ レ王 家 は途 絶 えた
け で は な く・ ハ ワイ王 国 もま磁
ライ ア テア 島,マ
.消 え去 った の は タ ヒチ の王 国 だ
亡 して い る
.ポ マ レ妊
ル キー ズ 諸 島 ,ツ ア モ ツ諸 島,オ
ー ス トラル 諸 島 等 ,現 在
の仏領 ポ リネ シア に属 す る島 々 が仏 領 に な り
,1900年
地 が誕 生 した。 人 口激減,言
の死 と相 前 後 して,
に仏 領 オ セ ア ニ ア植 民
語 を初 め とす る文 化 の フ ラ ンス化 等
ア人 の島 は大 変 貌 を遂 げた・「原 始 に は
,ポ
リネ シ
,文 明 に汚 され な い明 るい光 が あ る25)
と期 待 した ゴー ギ ャ ンは裏 切 られ 『ノ ア ・ノ ア』 に
,「 パ ペ ー テ の生 活 は ・..…
私 が 逃 れ て きた と信 じて い る欧州 その ま ま一 ・
私 の 愛 して い た の は昔 の タ ヒ
チ だ・
2fi)れ はす っか り滅 び て し ま った な ど と思 い あ き らめ る こ とは で き
なか っ た」 と裏 切 られ た気 持 ち を綴 っ て い る。
こ うい った 変 貌 に加 え て20世 紀 とい う時 代 は
,こ の 海 ばか りの地 域 に まで
世 界 大 戦 の津 波 をか ぶ せ よ う とす るの だが ,大 津 波 を見 て証 言 す る こ とに な
る ポ リネ シ ア人 は余 りに少 な か った 。 その うえ まさ に この 「
人 間 が 少 な い」
現 況 を好 条 件 と して,二
つ の 大戦 が 終 了 した直 後 に南 半 球 が核 実験 場 に選 ば
れ た の で あ る。核 保 有 国 な りの大 義 名 分 は あ るが
シア に(或
,そ
もそ も 「なぜ 」 ポ リネ
は ミク ロネ シ ア に)住 民 が 少 な い の か とい う疑 問 が省 み られ る こ
とは まず な い。
お
わ
り
に
第一 次 大 戦 前,太
平 洋 諸 島 は独 英 に分 割 され ,各 植 民 地 は鉱 物 等 を大 地 か
ら収 奪 す る先 進 文 明 型 経 済 に貢 献 させ られ て い った
。 パ ペ0テ
は第 一 次 大 戦
銃と十字架と核205
で独 の砲 艦 に攻 撃 され た 。 日本 は南 洋 群 島 と呼 ば れ た ミクロ ネ シア統 治 の受
任 国 とな っ た。 そ して第 二 次 大 戦 で は反 ヴ ィシー政 府 派 が 多 数 に な った タ ヒ
チ等 の 島 々 か ら仏 領 オ セ アニ ア志 願 兵 が 出征 した ・「太 平 洋 の フラ ンス領 植 民
地が 躰
にFr:1/1され る とい う噂27)カ§
流 れ た せ い もあ る とい う・ 躰
軍 は それ
どこ ろか ミク ロネ シア を含 む太 平 洋各 地 で 敗 北 し,戦 後 マ ー シ ャル諸 島 は米
の戦 略 信託 統 治 領 とな った 。 広 島 ・長 崎 に原爆 が投 下 され て戦 争 は終 わ った 。
仏 領 植 民 地 の 日本 譲 渡 とい う懸 念 も消 え,太 平 洋 に平 和 の波 が 打 ち寄 せ て く
るか に思 わ れ た 。
戦 後,日
本 や独 が 武 力 で世 界 の 各 地 を侵 略 した こ とは現 在 で も批 判 され 国
際 的 な緊 張 の 要 因 とな っ て い る。 歴 史 か ら学 ぶ の は人 間 と して の責 務 だ が,
この責 務 は太 平 洋 諸 国諸 地 域 に対 して も果 た され るべ きで あ った 。 しか し戦
勝 国 は そ う しなか った ので あ る。 米 英 仏 は太 平 洋 の 島 々 を分 けあ った。 日独
の統 治 と激 戦 の果 て に荒 廃 した 島 々 が復 興 し自立 で き るよ うに,米 英 仏 は援
助 をす る筈 で あ った 。 しか し太 平 洋 に お け る戦 闘 の激 し さが生 々 し く記 憶 に
残 る時 期 で あ った せ い もあ ろ うが,戦
勝 国 に は戦 略 的拠 点 と して の太 平 洋諸
島利 用 しか念 頭 にな か った 。 太平 洋 戦 争 が 終 わ っ て1年
月1日,米
も経 た な い1946年7
国 はマ ー シ ャル 諸 島 の ビキ ニ 島民 を強 制 的 に ロ ンゲ リ ック島 に移
した の ち,ビ
キ ニ環 礁 で 原爆 の 実験 を行 った 。 これ が 太 平 洋 で 繰 り返 され る
こ とにな る何 百 回 もの核 実 験 の初 回 で あ っ た。2年
も核 実 験 が 始 ま り,1952年
後 にエ ニ ウ ェタ ク環 礁 で
に は世 界 で初 めて 水爆 の 実験(「 マ イ ク」)が 行 わ
れ た。 ビ キニ環 礁 にお け る1954年 の水 爆 実 験(「 ブ ラ ボー ・シ ョ ッ ト」)強 行
の 際 に は漁 船 も被 爆 した。
仏 の核 実 験 は1996年 初 頭 に終 了 し,包 括 的核 実 」験
禁 止 条 約(CTBT)は
同 年 中 に調 印 され るだ ろ う と世 界 は期 待 して い る。 そ の 時 に は,米
キニ 環 礁 で の第 一 回実 験 か ら丁 度50年 間 に渡 って,太
によるビ
平 洋 の人 と大 気 と海 は
核 汚 染 を蒙 り続 けた こ とに な る。 米 が 手 に入 れ た新 しい兵 器 を他 国 も手 に入
れ よ う と して激 しい競 争 が始 ま り,更 に旧 ソ連,英,仏,中
206国
際 経 営 論 集No.101996
が 核保 有 国 とな
っ た・ 太 平 洋 の場 合 渓
未 発 達 児 ・ そ して囎
醐
に使 わ れ た地 域 で起 きて い る変死
放 射 能 の問 題
或 は第 五 福 敵
で 被爆 した人 々 の死 亡 や体 の変 調 は澗
の乗 纐
査 は され た が責 任 は取 られ ず じ
で あ る・1954年 の水 爆 実験 で 死 の灰 を浴 び た ・ ンゲ ラ
環礁 にあ礁
人 島 へ 移 住 した 島 民 の話 が あ る
.こ
まし、
ップ島 か らク ェ ゼ リン
.「 船 で 故 郷 の 島 を 出航 した と
き・ だれ もふ りむ か な か った … … 発 育 の と まっ た子 を もつ
り とい った・ わ た しは この島 が 好 きだ
,異 常 出 産,
の よう晦 上
,あ
る父親 は ぽ つ
こに は放 射 能 が な いか ら.28J)
全 島 民325名 が 去 った 。 被爆 後30年 の1985年 で あ る
。
ポ リネ シア人 の移 住 を厭 わ な い民 族 性}こつ い て は既 に書 いた
い うよ りは航 海
移 住 に よっ て活 路 を開 い て い
プ島 を7/」aC'J向
か な か った の は
.厭 わ な い と
った 歴 史 を持 つ.。
ンゲ ラ ッ
・核 へ の怒 りカ・らで は な い か も しれ な い
.生 を
約 して くれ る島 が 眼 前 に広 が る海 の彼 方 にあ る筈 だ と目 を凝 ら して い た の カ
,
も しれ な い・ 太 平 洋 の海 は・ 何+世
代 に も渡 っ て,ポ
ネ シア人 を・ メ ラネ シ ア人 を生 か して くれ た
学 校 で あ り識
場 で あ っ た・ 海 はC科
.海
リネ シア人 を,ミ
ク。
は揺 り籠 で あ り,家 で あ り,
書で あ り
,冷 蔵庫 で あ っ た.墓 場 で
もあ っ た。
だ が この 半世 紀 間 に核 実 験 場 と して使 わ れ た海 域 は
,ビ キ ニ環 礁 や エ ニ ウ
ェ タ ク環 礁 や ム ル ・ア購 や フ ァ ンガ タ ウ フ ァ環 礁 の海 は
,も はや墓 場 以 外
の利 用 価 値 は な い・ だか らや は り・ ンゲ ラ ッ プ島 の住 民 の 背 は
,怒 りと纏
を語 っ て い た の か もしれ な い・ 核 保 有 国 や核 の 傘 に入 り 「騰 」 の確 か さ に
安 堵 して い る我 々 全 て は・ 世 界 の 少 数 民 族 の土 地 で海 で どの よ うな歴 史 が繰
り広 げ られ て きた か を知 礒
追 記:1995年12月27日
ル ロ ア 環 礁 で,さ
務 があ る
・ 仏 は5回
。(1995年12月6日
目(通
ら に96年1月27日
ンガ タ ウ フ ァ環 礁 で 強 行 した
算2・9回)の
,6回
記)
核 実 験 を仏領 ポ リネ シア
目(通 算210回)の
.ム
核実験 をフ ァ
。
銃 と十 字 架 と核207
、)「 オ セ アニ ア の冬 一
一
号,日
2)中
豪NZ教
仏核 実験醐
師 連 盟編,リ
国 は95年5月
の幸艮道 を辿 る」JANTA2・
ー ブ ル 出版,1995年12月
の 核 不 拡 散 条 約(NPT)礁
周年記 舗
集
。
期 限 延 長 決 定 直 後 及 び8月
中旬
に地 下 核 実 験 を実 施 した 。(11・2)
3)『
太 平 洋諸 国 』 塊 一一男 著,岩
4)rオ
崎 書 店,1991年,69頁
セ ア ニ ア を知 る事 典 』石 川 栄 吉,越
r偉 大 な る航 瀦
年,106頁
6)参
雄 ・小 林 泉 酒
た ち 』P・H・
バ ッ ク著 ・鈴 木 糊
論 集,No1,神
訳 ・社 会 思 想 社 ・1980
奈 川 大 学,1990年
の鰍
」竹 内佑 利 子・ 国 灘
オ リ人 は姻
人 の蘇
の比 較 を取 り入 れた.異
。
後速 や か に,伝 統 的 な語 りの 中 に キ リス ト教 文 化 と
文 化 の吸 収 の早 さ,勘 の 良 さ はSirGe・rgeGreyの
め に マ オ リ神 話 を英 語 で 書 き下 した マ オ リ首 長Kahekeの
P。lynesianMyth・1・gylこ1854年
祭働
場 で し ば し ば 体 験 し た.参
著,あ
か ね 書 房,1984年
に ま と め た)か
照rキ
原 稿(グ
ら もわ か る・ 鞘
ー ウ ィ と 羊 と 南+字
た
レ イ卿 が
もマ オ リの
星』百々佑利 子
。
偉 大 な る航 海 者 た ち』97頁 。
、。)rオ
245頁
セ アニ ア現 代 史 』 北 大 路 弘 信,北
大 路 百 合 子 著 ・ 山 川 出 版 社 ・1987年 ・
。
11)
『太 平 洋 諸 島 入 門 』 太 平 洋 学 会 編
12)
同 上,253頁
13)
『オ セ ア ニ ア を 知 る 事 典 』249頁
14)
『太 平 洋 の 迷 宮 』 港 千 尋 著,リ
15)
参照
16}
r太 平 洋 航 海 記 』 キ ャ プ テ ン ・ク ッ 曙,荒
三 省 堂,1990年,127頁
。
。
。
ブ ロ ポ ー ト,1988年,22頁
。
「生 存 の 条 件 」
32頁,33頁
。
17)同
上,29頁
。
18)同
上,34頁
。
208国
営
オ セ ア ニ ア を知 る事 典 』267頁 。
8)マ
9)『
修・平
。
照 「生 存 の 条件 一 一 伝 承 に見 る異 文 イヒ翻
7)『
々佑 利 鑑
。
)
5
凡 社,1990年,266頁
髄
。
際 経 営 論 集No・101996
正 人 訳 ・ 社 会 思 想 社 ・1980年
・
19)
『オ セ ア ニ ア を 知 る 事 典 』162頁
20}
『
太 平 洋 の 迷 宮 』22頁
21}
『オ セ ア ニ ア 現 代 史 』275頁
22)
同 上,278頁
23)
ツ ア モ ツTuam・tuは
。
。
。
。
英 語 や 欧 州 語 に準 じ て現 在 は ト
ァ モ ト ゥ と表 記 さ れ
る・ い まで は ポ リネ シア系 先 銀
も傭 や 英 語 を母 語 とす る者 が 多 く
習
,そ れ に
っ て発 音 す る・しか しポ リネ シ ア語 の 発 音 は む しろ 日本 語 の
。一 マ字 訥
こ
似 て,ツ アモ ツ,に 近 い。
24)
『オ セ ア ニ ア 現 代 史 』313頁
25)
『太 平 洋 諸 国 』110頁
26)
同 上,116頁
2?)
『オ セ ア ニ ア 現 代 史 』388頁
28)
『太 平 洋 諸 国 』68頁
。
。
。
。
。
銃 と十 字 架 と核209
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