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日 本 文 化 と 道 教 - Publications

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日 本 文 化 と 道 教 - Publications
日 本 文 化
千
と 道 教
田
稔
国 際 日本 文 化 研 究 セ ンタ ー
伊 勢 神 宮 の太 一
1997年 か ら奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 に よ って 実 施 され て きた奈 良 県 明 日香 村 の飛 鳥 池 で 富 本
銭 が 多 数発 見 され話 題 を よ ん だ。 正 確 な年 代 は明 らかで はな いが 、7世 紀 の 天武 朝 の もの と推
定 され て い る。
こ こで は貨 幣 史 にお け る富 本 銭 の問 題 にっ い て論 じる意 図 は な いが 、 日本 に お け る鋳 造 銅 貨
が7世 紀 に遡 る こ とが 確認 され た意 義 は 大 きい。
富 本 銭 が 出 土 した際 に奈 良 国立 文 化 財 研究 所 は 「富 本 」 と い う銭 文 にっ いて 解釈 した結 果 に
っ いて も明 らか に した。 そ れ に よ る と 『続 日本 紀 』 霊 亀 元 年(715)の
元 正 天 皇 の 詔 「国 家 の
隆 泰 は要 は民 を富 ます にあ り。 民 を富 ま す の本 は、 務 め て貨 食 に従 ふ 」 と い う文言 に 「富 本 」
の意 味 が あ る と い う。 同 じ文 言 は、 漢 を 再 興 した光 武 帝 に、 馬 援 が 前 漢 の 五 銖 銭 の再 鋳 造 を上
申 した故 事 に もみ られ 、 唐代 勅 撰 の 『芸 文 類 聚』 に や は り 「民 を富 ます 本 は、 食貨 に在 り」 と
い う馬 援 の上 申 の文 言 を引 いて い る。 そ して 奈 良 国立 文 化 財 研 究 所 は 「富 本 」 の文 字 は、 五 銖
銭 復 興 に至 っ た故 事 を参 考 に銭 文 に採 用 され た可 能 性 が高 い と推 定 す る に至 った 。
こ の推 定 は七 世 紀 後 半 天 武 朝 を考 え る上 で 示 唆 す る点 が大 で あ る。 上 にみ た 富本 銭 の鋳 造 が
漢 王 朝 を意 識 して い る こと に注 目 した い 。 『日本 書 紀 」 天 武天 皇 元 年(672)7月
い くさ
条 に 「其 の
いくさ
衆 の近 江 の 師 と別 け難 き こと を恐 れ て 、 赤色 を以 て衣 の上 に着 く」 と あ り、 大 海 人皇 子 の軍
勢 が赤 い旗 を用 い た こ とは 『古 事 記 』 序 文 、 「万葉 集 」 の柿 本 人 麻 呂 の歌(巻1-199)か
らも
知 られ る。 旗 幟 に 赤 を 用 い た こ と は 『漢 書 』 高 帝 記 に もあ り、 天 武 天 皇 は 自 らを 漢 の 高 祖
(BC.247-196)に
擬 した こ とを示 す も の と され て き た。 も しこ の指 摘 が 正 しけれ ば富 本 銭 の
問題 と と もに、 天 武 朝 の漢 に対 す る憧 憬 を よ み と る こ とが で き る。 そ れ は1っ の仮 説 とい うに
ふ さ わ しい。
今 に 至 るま で 充分 解 明 で きな か っ た問 題 に伊 勢 神 宮 と太一 の 関係 が あ る。 皇 太 神 宮 伊雑 宮 御
さしは
田植 神 事 に青 年 た ち に よ って争 奪 の対 象 とな る大 翳 に 「太 一 」 と書 か れ て い る。 また 式年 遷
宮 に従 事 す る人 々 の 法 被 や桧 笠 に は 「大 一 」 と書 か れ て いた。 太 一(大
乙)と は万 物 の根 源 で
星名 と もな り北極 星 にあ て る。 道 教 で は太 一 を万 神 の宗 主 、 つ ま り最 高 神 と した。 この 太一 を
祀 る こ とに 傾 倒 す るの が前 漢 の第7代 皇 帝 武 帝 で あ る。 伊 勢 神 宮 で 「大一 」(太 一)と
い う文
字 が い つ 頃 か ら使 用 され た か は不 明 で あ る。
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しか し、 今 日の よ うな式 年 遷 宮 が 社 伝 に よれ ば天 武 朝 に制定 され た とす れ ば伊 勢 神 宮 の 「大
一 」(太 一)信 仰 の起 源 もそ の頃 で あ る可 能 性 が高 い。 一 方 、 中 国 で は太 一 の信 仰 は後 漢 以 後
す た れ て しま う。 と こ ろが北 極 星 を神 格 化 した神 、 天 皇 大 帝 も紀元 前 三 世 紀 か ら紀 元 六 世 紀 後
半 の終 わ り ごろ まで 宇宙 の最 高 神 と して の 位 置 を 占め る。 わ が 国 に お け る天 皇 とい う称 号 は こ
の 天皇 大 帝 に 由来 す る とい うの が通 説 で あ る。 そ して そ の 称 号 が 用 い られ るの は、 や は り7世
紀 後半 の天 武 朝 で あ る こ とが、 これ も又 飛 鳥 池 遺 跡 出 土 の木 簡 か ら推 定 さ れ るに至 った。
この よ うに天 皇 大 帝 か ら天 皇 とい う称 号 を え た 天 武 天 皇 は太 一 を 信 仰 す る とい う状 況 は、 天
武 天皇 が い だ い た個 人 的 な歴 史認 識 か、 あ る い はそ の 時 代 の 日本 とい う国 が東 ア ジア の 中 で い
だ いた歴 史 認 識 と して 理 解 して よい で あ ろ う。
漢 に お け る太 一 信 仰 の具 体 例 につ い て み てお き た い。 『資 治通 鑑 』(巻 十 八)漢 紀(一 〇)に
び ゅ うき
は、 元 光 二 年(BC.133)謬
忌 は太 一 こそ 天 神 の な か の 貴 神 で あ る と上言 した の で、 武帝 は太
一壇 を長 安 の東 南 郊 に作 り、 八通 の 鬼道 を開 き太 宰(豚
あ る。 元 鼎五 年(BC.112)に
は甘泉(陜
西 省 淳 化 県)に
・牛 ・羊 の犠 牲)を 用 い て まっ った と
も太 一 壇 が 立 て られ た 。 金 子修 一 氏
に よれ ば 武帝 朝 ま で の郊 祀 は儒 家思 想 と は関 係 が うす く、 方 術 的 ・呪 術 的 な もの で あ った とい
う。
八 通 の 鬼道 を 開 く とは、 お そ ら く八 角形 の壇 で あ った と推 定 で き る。 わ が 国 にお け る八 角形
墳 が 出 現 す るの は7世 紀 代 の後 期古 墳 で あ って地 方 に もな い こ とは な いが 、 主 流 は天 皇 と皇 子
の墳 墓 で あ った。 天 皇 陵 で 八 角 形 の 形状 を して い る最 古 の もの は舒 明 陵 で あ る と推 定 で き るの
で その 頃 か ら八 角形 墳 が作 られ た とみ て よ い。 八 角 形 墳 を安 易 に漢 代 の太 一 壇 と結 びっ けて 解
釈 す るつ も り はな い が、 中 で も天 武 ・持統 合 葬 陵 の桧 隈大 内 陵 は藤 原 京 中 軸 線(朱 雀 大 路)の
真 南 の 延 長線 上 に あ る こと は、 か ね て よ り注 目さ れ て きた。 これ を武 帝 の太 一 壇 を 意 識 した も
の と断 定 す る根 拠 は な い。 しか し天 武 天皇 が崩 じて か ら八 年 後 の御 斉 会 に持 統 天 皇 が よん だ 歌
と の関 係 か ら新 しい理 解 が可 能 とな るか らで あ る。
きよ み は ら
明 日香 の
清 御 原 の宮 に
天 の下
み
わが大君
神風の
高 照 らす
伊勢 の国は
かを
うま
香 れ る国 に
味 こり
知 ら しめ し し
やすみ しし
こ
日の皇 子
沖つ藻 も
いか さま に
思 ほ しめ せ か
なび
しほ け
靡 き し波 に
潮気 の み
あ や に と も しき
高 照 らす
日 の皇 子
(巻2-162)
夢 の中 で よま れ た歌 と して か ね て よ り解 釈 の む ず か しい歌 と され て きた が、 近 年 わ れ われ の研
究 で は、 と くに福 永 光 司氏 の次 の よ う な指 摘 に従 って き た。
天 皇 は崩 じる と南 に位 置 す る よ みが え り のた め の 宮 殿 朱 宮(朱 火宮)に 行 き、 そ こで神 仙 と
な る訓練 を う け東 方 の東 海 青 童 君 の治 め る東華 宮 に遊 ぶ(『 真誥 』)と い う こ とか ら、 藤 原 京 の
南 方 の 八 角墳 は朱 宮 に あ た り、 伊 勢 神 宮 が 東 華宮 に相 当 す る とみ な す こ とが で き る。
以 上 の よ うな解 釈 に さ らに新 しい解 釈 を っ け加 え る こ と を試 み た い。先 に述 べ た よ うに伊 勢
神 宮 にお け る太 一 信 仰 が天 武 朝 に さ か の ぼ る とす れ ば 、 天 武 ・持 統 合 葬 陵(桧 隈 大 内陵)は 漢
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日本文化と道教
武 帝 の 太 一 壇 を 意 識 して作 られ た と考 え られ は しな い だ ろ うか。
六 朝 期 の 偽 作 と され る 『漢 武 帝 内伝 』 に よ る と、 武 帝 は七 月 七 日 に宮 殿 の 中 を 清 め て 待 って
い る と西 王 母 が 現 れ た とあ る。 これ は七 夕 に お け る武 帝 と西 王 母 の会 合 とい うモ チ ー フを示 し
て い るが 、 と りあ え ず わ れ わ れ は武 帝 の西 王 母 信 仰 の伝 承 を よみ と って お い て十 分 で あ ろ う。
西 王 母 はそ の 図像 学 的研 究 か ら知 られ て い る よ うに頭 に華 勝 と よば れ る織 機 の糸 巻 きを載 せ て
い る。 この こ とか ら西 王 母 は機 織 りの機 能 を もっ もの で あ り宇 宙 の秩 序 を織 り出 す もの と して
の位 置 を 占 あ た とい う。 ここで はや は り伊 勢 神 宮 の問 題 が 比 較 の対 象 とな る。
伊 勢 神宮 の ア マ テ ラス が西 王 母 と関 係 して成 立 した ので は な いか とい う点 で あ る。 これ にっ
い みは た や
い て は す で に上 田正 昭氏 が論 じて い る。 記 紀 神 話 に お け る ア マ テ ラ スは忌 服 屋(斎 服 殿)に 坐
して、 神 に さ さ げ る神 御 衣 を織 る。 この 神 話 に注 目 した上 田氏 は神 御 衣 を織 る主 体 が ア マ テ ラ
ス で あ る と伝 え る背 景 に は機 を織 る道教 の西 王 母 信 仰 が 重 層 して い た ので は な いか と い う。 中
国 に お け る西 王 母 信 仰 も 「漢 武 帝 内 伝」 や各 地 の画 像 石 か ら知 られ るよ うに漢 代 に隆 盛 を み る。
ア マ テ ラス も漢 の西 王 母 を モ デ ル に して 伊 勢 神 宮 の女 神 とな った経 緯 は この あ た りに見 出 して
よ い よ うに思 わ れ る。
藤原京と漢長安城
天 武 朝 と漢 と の関 連 性 を想 定 す る上 の 仮説 は、 都城 論 に つ い て も言 及 す る こ とが で き る。 す
で に私 が論 じた よ う に、 藤 原宮 が 「大 和 三 山」 を北 ・東 ・南 に配 して 作 られ た の は、 い わ ゆ る
三 神 山(方 丈 ・蓬 莱 ・瀛 洲)を 見立 て た もの で あ り、 宮 が道 教 思 想 を ふ まえ て作 られ た もの で
あ る。 こ の宮 地 の選 定 は 「日本 書 紀 』 天 武13年(684)3月
条 「天 皇 京 師 を巡 行 して、 宮 室 の
地 を 定 む」 の記 事 に よ って 知 る こ とが で き る。 っ ま り 「大 和 三 山 」 によ って囲 ま れ た藤 原 京 の
位 置 は天 武 に よ って決 定 され た の で あ り、 この こ とか らい うまで もな く天 武 の道 教 へ め深 い関
心 を よ み と る こ とが で き る。 「大 和 三 山 」 とい う孤 立 峯 が た また ま飛鳥 の近 くに あ った とい う
地 理 的 偶 然 性 が 天 武 の企 図 に か な った とい え るが、 これ も漢 の武 帝 が長 安 城 の未 央 宮 の西 に建
設 した 建 章 宮 の太 液池 に作 られ た蓬 莢 ・方 丈 ・瀛 洲 な どの 島 々 に共 通 した思 考 を うかが うこ と
が で き る。
道 教 の問題 か ら離 れ て 藤原 京 と漢 の長 安 城 に も共 通 点 を見 出 す こ とが で き る か も しれ な い。
『三 輔 決 録 』 に 「長安 城 、 面 ごと に三 門 、 四面 十 二 門、 皆 九 逵 を通 達 し、 以 て相 経 緯 す」 と い
う こ と にっ いて宋 の聶 崇 義 の 『三 礼 図 」 に 『周 礼 』 考 工 記 の 「匠 人 の 国 を営 む や、 方 九 里 、 旁
三 門 、 国 中九 経 九 緯 、 経 塗 九 軌 」 は東 ・西 ・南 ・北 の各 城 壁 に、 左 右対 称 に おか れ た3門 ず っ
の城 門 に、各 々3条 の道 を通 した とい う説 を と った伊 藤 清 造 氏 は 「周礼 』 の九 経 九 緯 説 は戦 国
な い し漢代 の城 郭 を モ デ ル に して作 られ た と論 じた。 発 掘 調 査 の報 告 に よ れ ば長 安 城 の 各 門 に
は3個 の 門道 が あ った こ とが し られて い る。 しか し この書 はす で に 漢代 に は存 在 して いた'とい
う説 が あ るの で、 む しろ漢 長 安 城 は 『周 礼 』 考 工 記 に よ った可 能性 が高 い。 同 書 に は また 「
面
朝 後 市 」 とあ り、 そ の注 釈 は前 掲 の 「三 礼 図 」 に お いて 、 宮 を 中央 に配 置 す る図 を 描 いて い る。
い わ ゆ る 「宮 闕 中央 」 とよ ば れ る もので あ る。
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一 方 、近 年 の藤 原 京 の発 掘 調 査 の成 果 に よ る復 原 に よ る と未 だ断 案 を 得 る に至 って'いな いが 、
藤 原 宮 の 区域 が京 の ほ ぼ 中心 部 で あ る と推 定 で き、 この よ うな プ ラ ンは同 時 代 の唐 の長 安 城 な
ど に も見 られ な い もので 、 『周 礼 」 考 工 記 に よ る理 想型 を実 現 した とす る説 が あ る。 も しそ う
な らば 藤原 京 の プ ラ ンは漢 に範 を 求 あ 「周 礼 』 考 工 記 か ら案 出 され た と想 定 で き るが 、 これ に
つ い て はさ らに検 討 を重 ね る必要 が あ る。
以 上 に み た ことか ら天 武 朝 と漢 、天 武 天 皇 と武 帝 との 関係 が あ る とす れ ば 天 武 朝 、 天 武 天 皇
の道 教 へ の深 い関 係 は漢 と武 帝 へ の憧 憬 か ら解 き明 か す こ とがで き る。 諡 号 「天 武 」 も武 帝 に
由来 す る こと も想 像 しう る。
日本 列 島 の政 治 勢 力 が 中 国 大 陸 と本 格 的 な交 渉 を もつ の は、 わが 国 の 弥 生 時 代 の 頃 で あ り、
漢王 朝 の時 代 で あ っ た。 お そ ら くそ の あ た りか ら日本 列 島 の政 治 的 集 団 は中 国 大 陸 の 漢 こそ が
模範 とす べ き国 家 とみ な した と考 え て よ い。 そ れ 以 来 、 漢 帝 国 が わ が 国古 代 王 権 の 形 成 に 影 を
な げ か け、 皇 帝 の中 で も武帝 が理 想 とす べ き王 者 で あ った。 周 の武 王 は文 王 と と も に王者 の範
とさ れ た こと は よ く知 られ て い るが、 日本 の 天 武 天 皇 が 一 っ の よ りど こ ろ と した道 教 思 想 を根
拠 とす る な らば、 や は り漢 の武 帝 とみ る のが 自然 で あ ろ う。
漢 ・武 帝 に 自 らの あ るべ き姿 を求 め た倭 の 王 は雄 略 天 皇 で あ る と思 わ れ る。 雄 略 は 『宋 書 』
倭 国 伝 に武 と称 して いた と記 され かっ 記 紀 に道 教 に関 わ る記 事 を 雄 略 天皇 に託 して い るか らで
あ ぐら ゐ
あ る。 『古 事 記 』 雄 略 段 の 「呉 床 座 の
を みな
神 の御 手 も ち
弾 く琴 に舞iする女
とこ よ
常 世 に もが も」 と
い う吉 野 で よ まれ た と伝 え る有 名 な歌 か ら、 神 と して の大 君 の存 在 が うか が え るが、 この場 合
は生 き なが ら に して神 で あ る こ とか ら神 仙(仙 人)を 前 提 とす べ き こ と、 ま た吉 野 が常 世 っ ま
り神 仙 境 に擬 せ られ て い た こ とは指 摘 され て きた通 りで あ る。 雄 略 紀 に も吉 野 宮 行 幸 の記 事 が
散 見 され る と と もに、 丹 波 国 与 謝 郡 の浦 島 子 が女 と化 した大 亀 と と もに蓬 莢 山 に到 って仙 人 を
み る と い う話 が 記 さ れ て い る。 こ の よ う に雄 略 天 皇 に道 教 ・神 仙 思 想 が 関 わ る の は生 前 に
「武 」 と称 し、 漢 武 帝 を 意識 して い た か らで は な いか 。
そ して 「武 」 を武 帝 に 由来 す る とみ れ ば 、 『日本 書 紀 」 の 神 武天 皇 が橿 原 の地 に都 を開 い た
おほ
いへ
よ
と き に 「八 紘 を掩 ひ て宇 にせ む こ と、 亦 可 か らず や」 とい った とす る表 現 は 「八 紘 」(八 方 位
を も って世 界 とみ なす)と
い う道 教 思 想 との 関係 で説 明 され る。 と ころ が 『古 事 記 』 の序 文 で
か
は天 武 天 皇 にっ い て 「天 統 を 得 て 八荒 を包 ね た ま ひ き」 とあ る。 「八 荒 」 は 「八 紘 」 と コ ス モ
ロ ジー の表 現 と して 基 本 的 に は同 意 で あ る。 お そ ら く神 武 伝 承 に は天 武 の事 跡 の一 部 が影 を落
と して い る部 分 もあ るが 、 む しろ こ こで注 目 す べ き こ と は、 第一 代 の天 皇 と さ れ た神 武 、 古 代
王権 の画 期 の天 皇 と され る雄 略(武)・
天 武 に道 教 思 想 が見 えか くれ して い る点 で あ る。
つ いで につ け加 え る とす れ ば 、 近代 日本 に お け る軍 国主 義 の 中 で天 皇 は神 と され 、 大 東 亜 共
栄圏 に八 紘 一 宇 と い う言 葉 が 与 え られ た の は、 古 代 王 権 が立 脚 した一 っ の宗 教 思 想 に源 流 が あ
る。
風流 と宮廷文化
以 上 に述 べ た よ うに、 天 武 朝 に最 も顕 著 に道 教 思 想 が前 面 に あ らわ れ て くるが、 そ れ は王 権
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日本文化と道教
の 内 部 で の 、 あ るい は王宮 とそ の周 辺 で の 出来 事 で あ った。 この こと は宮 廷 文 化 の位 置 づ け に
も関 係 す る。
『万 葉 集 』 に用 い られ る 「
風 流 」 と い う言 葉 が そ の こ とを語 るの に ふ さ わ しい。
天 皇(聖 武)に 献 る歌 一 首(大 伴 坂 上 郎 女 、 佐 保 の宅 に あ りて 作 る)
み やぴ
あ しひ きの 山 に しを れ ば風 流 な み わ がす る事 を とが め た まふ な
(巻4-721)
一 般 的 に は、 この歌 の意 は山 に い る ので 宮 廷 風 の こ とが で き ませ ん の で お とが め な さ い ませ ぬ
よ うに、 とい う こと に な るが 、 こ の時代 の 「風 流」 と い う漢語 は中国 の神 仙 思 想 を背 景 に もっ
て い る。 こ こで は小 川 環 樹 氏 に従 って お くと次 の よ う に な る。
風 流 の語 が、 道 徳 的 風 格 の 義 か ら変 化 して道 家 的 自由 を求 あ る特 定 の人 々 の性 格 を あ らわ す
語 とな る。 後 者 にっ いて は、 例 え ば 浮世 ば な れ した 清談 に 日を送 り、 儒 家 の思 想 に対 して 公 然
と反 逆 す る よ うな人 々が 名 士 で あ る。 っ ま りあ らゆ る因襲 か ら脱 しよ うとす る精 神 で あ る。風
流 と い う言 葉 の変 化 と と も に、 雅 な る人 の極 端 な もの が風 流 で あ る とい う。 この よ うに して風
流 ・雅 は俗 と対 立 す る。 さ ら に風 流 とい う言 葉 の意 味 は変 転 して、 岡 崎 義恵 氏 は梁代 に な って
「優 婉 の美 」 を 指 す よ うに な った とみ なす 。 そ して 「そ の 中 に は若 干 の感覚 的魅 力 と性 的 ・情
的 蠱 惑 力 を含 ん で ゐ る場 合 が あ るよ うで あ る」 と述 べ る。
わ が 国 で 宮 廷文 化 を 「雅 」 とよ び 「風 流 」 と も記 して い た の は、 実 は、反 儒 教 的立 場 に立 っ
自由 な、 あ る時 は好 色 的 な表 現 と して理 解 す べ き もの で あ った。 な ぜ な らば天 武 が意 図 した藤
原 宮 に典 型 的 に示 され るよ うに宮 廷 は そ もそ も神 仙 思 想 を具 象 化 した もの で あ った か らで あ る。
『懐 風 藻 』 に収 め る長 屋 王 の 詩 も宮 廷 を 神仙 思 想 の 関係 を表 して い る。
せ ん ぎょ
う
にっ しょ く じょう しゅん
げん ぼ
すで
ふ
し てい
あ らた
りう
年 光仙 簍 に泛 か び、 日 色 上 春 に 照 らふ。 玄 圃 梅 已 に故 り、 紫 庭 桃 新 な らむ とす 。 柳
し
らんか う ぶ き ん
ここ
ぼ ううん
じん
絲 歌 曲 に入 り、 蘭 香 舞 布 に染 む 。 焉 に三 元 の節 、 共 に悦 ぶ 望 雲 の仁 。
この 詩 は元 日の宴 に作 られ た もので あ る。 仙 簍 と は仙 人 の 住 む か こい。 玄 圃 と は崑 崙 山 に あ
る とい う仙 人 の住 居 の こと を い うが 、 こ こで は天 皇 の宮 殿 を た とえ て い る。 こ の よ う に宮 殿 の
表 現 を 中 国文 学 か らの模 倣 とす る一 説 もあ るが 、 上 述 した観 点 に よ って、 もはや そ の よ う な説
は否 定 して よ い で あ ろ う。
『万 葉 集 』 か らさ らに 引用 して み た い。
石 川 女 郎 、 大 伴 宿 禰 田 主 に贈 る歌一 首(即
ち佐 保 大 納言 大 伴 卿 の第 二 子 、 母 を 巨勢 朝 臣 と
い ふ)
み や びを
や
ど
かへ
み や び を
遊 士 とわれ は聞 け るを 屋 戸 貸 さず わ れ を還 せ りお そ の風 流 士
(巻2-126)
歌 意 を 説 明 す る まで もな く、 こ こに用 い られ た 「遊 士 」 「風 流 士 」 に は、 自由奔 放 な好 色 男 の
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意 味 あ い が強 い。 「遊 士 」 を 「み や び を」 と訓 む の も、 中国 晋 代 の竹 林 の 賢人 の 遊 び に象 徴 さ
れ るよ うに天 地 大 自然 の中 に己 れ を解 放 し、 と らわ れ た生 き方 に反 対 す る思想 行 為 を ふ ま え て
理解 しな け れ ば な らな い。 平安 時代 以 降 「み や び」(都)が
「俗 」(田 舎)と 対 立 す る過 程 に は、
上 に み た よ うに儒 教 的 しば りか らの解 放 が 、 宮 廷 の 中 か ら外 に向 か って 展 開 して い く状 況 を見
落 す こ とは で き な い。
参 考 文 献
奈 良 国立 文 化 財 研 究 所
金 子修 一
「中 国 一
飛 鳥 藤 原 宮跡 発 掘 調 査 部 「
飛 鳥 池 遺 跡 出土 の富 本 銭 」(発 表 資 料1999年1月)
郊 祀 と宗 廟 と明堂 及 び封 禅 」(井 上 光 貞他 編
『東 ア ジア に お け る儀 礼 と国 家 』 学
生 社1982年)
福 永光 司 ・千 田稔 ・高 橋 徹
古 賀登
伊 藤清 造
劉庚柱
『日本 の 道教 遺 跡 』 朝 日新 聞社1987
『
漢 長 安 城 と阡 陌 ・県 郷 亭 里 制度 』 雄 山 閣1980年
「
漢 長 安 城 攷(一)」(『 考古 学 雑 誌 』23-7、1933年)
「
漢 長 安 城 考 古 友 現 及 相 夫 問 題研 究 一
記 念 漢 長 安 城 考 古 工 作 四十 年 」(『考 古 』1996-10)
小 川 環樹
「
風 流 の語 義 の変 化 」(『国 語 国文 』20-111951年)
岡 崎 義恵
『
風 流 の思 想
福永光司
『中 国 の哲 学 ・宗 教 ・芸 術 』人 文書 院1988年
8
上 』 岩 波 書 店1947年
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