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量の人形 内最大の井戸と中から出てきた大

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量の人形 内最大の井戸と中から出てきた大
奈 良市 埋 蔵 文 化 財 調 査 セ ンター 速 報 展 示 資料
No.
6
ひ とが た
京 内 最 大 の井 戸 と 中か ら出 て き た 大 量 の 人 形
平 城 京左 京 一 条 三 坊十 三 坪
調査の 概要
奈 良市 法 華 寺 町
調査 地 は平 城京 条 坊 復原 で は左 京 一 条
三坊 十 三 坪 にあた ります 。 これ まで の周 辺 の調 査 によ っ
て十 三 坪 と北 の十 四坪 とは 一 括 して一 つ の 宅 地 と して利
用 され て いた と推測 され て お り、 この坪 に はか な り位 の
高 い貴族 が住 ん で いた可能 性 が考 え られ て い ま した。今 y
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は っ た て は し らた て t)
の
はつ
回 の 調 査 で 見 つか っ た遺 構 には、 掘立 桂 建 物 跡 5棟 、掘
た てば し らぺ い
立柱 塀 跡 6条 、井戸 1
基 、石 敷 が あ ります が 、 これ らの発
見 は調 査 前 の予想 をは るか に上 回 る成果 とな りま した。
m、 東西 24m以
掘立 柱 建 物 の う ち最大 の もの は南 北 6
上 の建 物 で 、一 般宅 地 には あ ま り見 られ な い大 き さで す。
そ して今 回発見 され た 井戸 は、枠 を
す
据 え る 穴 の 直 径 が 6m以 上 も あ り、
-
2m四 方 の 非常 に大 型
井戸 枠 は 約 2.
の もので した。 この大 き さは平 城京
で宮 内 の もの を除 けば 最 大 で あ り、
ん-
6m と い う遺 存 状態 と併 せ て
深 さ 4.
見 れ ばそ の規 模 は過 去 最 大 と言 え る
せいろよこいた<
で し ょ う 。井 戸 枠 は 井 穂 横 板 組み と
呼 ばれ る組 み方 で 、横 板 は全部 で 64
枚残 って い ま したが 、一枚 の長 さが
2.
5m、幅 30m 、厚 さ 15皿 も あ りま
ち上うたつ
す。 これ だ け の材木 を 調 達 す るた め
には相 当 な権 力が必 要 だ った と考 え
られ ます . また井戸 の周 囲 には人 頭
大 の河原 石 を用 いた石 敷 が広 が って
い ま した 。大 半 は壊 され て い ま した
が 、 一 辺 約 7m の 正 方 形 に 敷 か れ て
いた と推 定 さ れ ま す。 この 井戸 は9
世紀 初 め 頃造 られ 、 廃棄 後 は ゴ ミ捨
世紀初め頃 に
て穴 に利 用 され て 、10
埋 ま って しまい ます 。 都 が 平城 京 か
ら平安 京 に移 った後 に 、誰 が この よ
うな大 型 の井戸 を造 る こ とが で きた
のか 、大 変興 味深 い問題 です 。
井戸 の 平 面 及 び 断 面 図
1/80
井 戸 に捨 て られ た 人 形
今 回見 つ か った 井 戸 の 中か らは実 に様 々 な 遺 物 が 出土 しま した 。 土
の しや くし げ た ぞ う り て つ ぞ < て つ ぷ ぜ に
器 や 瓦 は もち ろん 、 人形 ・曲物 ・杓子 ・下駄 ・草履 ・鉄 鉱 ・鉄 斧 ・銭等 の ほか 、馬や 鹿 の骨 もあ
りJ
:<ゆ う と うき
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'う せ い じ
りま した 。土 器 の 中 には墨 で文 字 の書 か れ た も の も多 く、 また 緑粕 陶器 や 輸入 青磁 もあ りま す .
ひ とが た
まげも
これ らの うち特 に注 目され る のが 人形 で 、 出土枚 数 は94枚 以 上 にお よび ます。 人形 とは 、薄 い板
くぴ
を人 の形 に似 せ て切 り、墨 な どで顔 を描 いて い る もの です。今 回 出土 した もの は全 て 頚 ・腰 ・足
の表 現 を施 し、腕 は省 略 され た形 態 の もので、胴 部 には人名 が記 され て い ま す 。井 戸 の 中か らこ
れ だ け大 量 に人 形 が 出土 した例 は初 め て で 、 しか もそ の 出土 状態 は非常 に珍 しい もので した 。
たば
ひも き <ぎ
まと
100枚 近 い人 形 の うち約 半 分 は 、7・8枚 ず つ 束 に され紐 や 木 釘 で纏 め られ て い ま した 。全 部 で 8
束見 つか りま したが 、完 全 に一 束 とな って いた もの は2組 だ けで 、他 は束 が ほ どけて数 枚 ず つ抜
い せの た け か わ
けて い るよ うです 。 この束 ね られ た 人形 には全 て 「
伊 勢竹 河 」 とい う人 名 が書 か れ てお り、顔 に
つば
bみ
ヒゲ が あ る こ とか ら男性 と判 断 で き ます O残 り半分 は緑 粕 壷 の 中 に桃 の種 や 籾 と一緒 に入 れ られ
て い ま した 。前 者 よ りも全体 的 に小 さ く、顔 の表 現 は女 性 と思 われ ます 。胴 部 に書 かれ た人 名 は
い せの む ね こ
はた の な こ ま た の な あ わ ひ
ともの ひ ろ とみ
「
伊 勢宗子 」、 「
秦 奈 良子 又名 菓 日」、 「
伴贋 冨 」 の 3
種 類 が あ ります 。 そ れぞ れ 6枚 、17
枚 、13枚
b
にそ の名前 が確 認 で き ま した 。 この よ うに同 じ人名 が書 か れ た人形 が何 枚 もま とまって見 つ か っ
た例 も初 め てです 。
この人形 は 同 じ祭 紀 に使 わ れ た後 、一 括 して 捨 て られ た もの と考 え られ 、 人名 に見 られ る4人
しば
は 同 じ屋 敷 で暮 ら して いた家 族 で あ った可能性 が 高 い と思 わ れ ます 。今 回 の人形 は、縛 った り木
のろ
釘 を打 った りと、一見 す れ ば まるで 呪 い の人形 の よ うに見 え ます が 、 これ は あ くまで束 ね るた め
けが
はら
ち ゆ
か た しろ
の行 為 で あ って 、本 来 人形 は穣 れ を破 った り、病 気 の治 癒 を祈 って 自分 自身 の 形 代 と して作 られ
か し上う
る場合 が多 いよ うです 。 人形 が捨 て られ た時期 は 、 「
嘉 祥元 年 」 (84 8年 ) と書 か れ た 石 よ り上 で
ちまた てんねんとう
出土 した ので ,9世紀 の 中 頃か ら後 半 と推 測 され ます が 、 この 時 期 は巷 に天 然 痘 な どの 病 気 が 流
へ いゆ
行 して い た頃で 、 この人形 もそ う した病 気 平癒 のため に使 用 され た ものか も しれ ませ ん。
ヒT
小
「伴庚 冨」
⊂
=
=
=
=
=
ヨ
木 製人形
「秦奈良子 又名栗 日」
「伊勢 宗子」
「伊勢 竹河」
束 ね られた人形
5
c
m
1/2
発行
奈 良市 教 育委 員 会
平 成 12
年 11
月
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