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讃岐の石5(アヤメ石・馬蹄石)PDF
七 、 アヤ メ石 如 し 、 中 に は 花 を つけ た る も あ り 。 今 は い と 石斉 の書 いた讃 岐 廻 遊記− これ に は与 田 山 附 も っと 古 い と こ ろ で は 、 寛 政 年 間 、 進藤蘭 稀なり⋮とあって、菖蒲石と書いている。 の カ タ ビ ラ 一枚 、 そ れ に 縄 の 帯 、 腰 に は 鎌 を 髪 はく し けず ら ず 、 夏も 冬 も 、汚 れ た ま ま 奇 人 が 住 み つ いた 。 ぶ ら さ げ 、 木 の 実 、 草 の 根 を 食 い、 修 法 す る 近 か ら 出 る 、 こ の 石 を矢張り菖蒲石としてい さ て、 燕子 花 石 は確 か にカ キ ツバ タ イ シ と 漢 字 が 使 用 され て いる。 こ れ ら の文 献 で は 燕 子 化石 、 菖 蒲 石 と いう る。 と いう 、 い わ ば 木 食 上 人 だ っ た 。 こ の 奇 人 − 無 偏 仙 人 の 修 法 し た 岩− 笠 崎 の 岩 と い う − そ の 岩 下 に ﹁草 葉 石 ﹂ が 出 る ⋮⋮︰ と三 代 物 語 の著 者 増 田休 意 は 記 し て いる から こ の ﹁草︰ 葉 石 ﹂ − そ れ は ア ヤ メ 石 の古 い呼 称 シと も 読 む であ ろう 。 し か し、 これ は ア ヤ メ 読 む べ き だ が 、 菖 蒲 石 は う っ か り シ ョ ウ ブイ イ シ と読むべきもので、昔はアヤメを菖蒲と 石 面 に 太 く 描 か れ た 一畳 絵 の よ うな草の葉の と考 え ても よ い であ ろう 。 書いた。西讃府志も讃岐廻遊記も、アヤメ石 であ る。 と 呼 ぶ と ころ を漢 字 で菖蒲 石 と 書 いて いる 筈 紋 様 − か ら する と、 確 か に ﹁ 草 葉 石 ﹂ は 当 を 得 こ れ が 後 に は 、 愛 石家達が、燕子花石︵カ た 呼 び名 でも あ る。 キ ツバ タイ シ ︶ 菖 蒲 石 ︵ シ ョ ウ ブ イ シ ・ ア ヤ い う の は 菖 蒲 石 の 読 み 方 の違いから生じたと 讃岐の名石として古くから知られたものに も いえ る。 し か し、 紋様 から は同 じイ チ ハ ツ し て見 ると ア ヤ メ石 の こと を シ ョウプ 石 と ように な っ て い る 。 太 い 筆 に 墨 − を つ け て は ね メイ シ ︶ とか 、 オ モト 石 な ど の名 で呼 ば れ る た様 な 紋 様 な の で 、 カ キ ツ バ タ 、 ア ヤ メ 、 シ しか し 、与 田 山 の産 地 で は 、巨 勢金 岡 ︵コ る。 考 え て い た 。、 雲根 志 にも 化 石 の部 に入 れ て い の 人も アヤ メが 石 に な っ た − つ ま り 化 石 と と こ ろ で こ の 菖 蒲 石 ︵ ア ヤ メ イ シ ︶ は 、昔 と 呼 ん で も 決 し て 悪 く は あ る ま い。 科 の 植 物 に 見 え る の で 菖蒲石を、ショウブ石 川 石 の 如 く 、 薄 墨 色 の菖蒲の紋あり、彫るが 蒲 石 とし て、新 目 村 百 々川 か ら出 る、 石 質 は 同 じ頃 丸亀 藩 で編 集 した 西 讃府 志 には 、菖 出 る大 内 郡 の土 産 品 と記 載 し て いる。 燕 子花 石 と し 、大 内 郡与 田山 の タ ライ 谷 か ら 讃 岐 名 勝 図 絵 ︵安 政 四 年 梶 原 藍 水 著 ︶ に は 、 ョ ウ ブ 、 オ モ ト の 類 に見 え る の も 当 然 で あ る。 アヤ メ 石が あ る 。 最 も 古 い文 献 と 思 わ れ る 三 代 物 繕 ︵明 和 五 年 ・ 一七 六 八 ︶ に は ﹁草葉 石﹂の名がつけられ 白 鳥 町 の 与 田 山 − そ こ に盥谷︵タライダニ て いる。 と いう 所 が あ る 。 虎 丸 山 の 東 南 に 当 る 峡 谷 で 、 大盥、小盥と 呼 ぶ 大 小 の瀧 壷 が あ る 。 こ の界 隈 は今 も アヤ メ 石 の多 産地 であ る が 慶 長 元 和 の 昔 、 こ の 峡谷に無偏仙人という、 なったのである。 古 代 ア マモ の化 石 と し て世 に知 ら れ るよ う に る が 主 要な岩石は、この和泉砂岩から出来て った 頁 岩 ︵ ケ ツ ガ ン ︶ や 礫 岩 な ど も 含 ん で い それ でわ れわ れ が 日常 見 る、 讃 岐 の川 の礫 いる。 セ ノ カオ カ ︶ が岩 壁 に絵 を え が いた 、と いう い宿 根 草 − つま り 多 年 草 で あ る 。 ア マ モは浅 海 に自 生 す るも の で、葉 は細 長 伝 説 が あ った 。 讃 岐 廻 遊 記 に、 ﹁⋮ ・巨 勢 金 岡 、 石 上 に 絵 を 書 き し よ り 、 か く 長 く 出 し て 大 き く 開 花 しないということで、 しか も︰ 葉身 に並行 し、 アヤ メ のよう に花茎 を なのである。したがって、アヤメ石の岩塊そ た だ 、 そ の紋様 の珍 ら しさ を 愛石 家 は め で 讃 山脈 か ら流 れ て来 た 。 この和 泉 砂岩 の石 礫 の 人 の 俗 説 を 聞 い て 書 いた も の で あ ろ う が 、 の も の は 、 川 原 の 石 も 同 然 で 飾 り になるよう や 、 田 畑 の下 か ら 出 る 石 こ ろ の 大 部 分 は 、 阿 巨勢 金 岡 が 、 こ の与 田山 の地 に釆 て、住 ん で 時 に、 ア ヤ メの花 に見 え るも のは、 葉 が 折れ な美しさや雅致はない。 そ の先 祖 の古 代 ア マ モ の 花 は 念 珠 状 に 生 じ 、 い た と い う 、 金 岡 屋 敷 跡 ま で が残っている。 て 何 重 に も か さなったりした部分や軟マンガ の如 く あ ら わ る となり⋮﹂とあるのも、土地 と も か く 与 田 山 の ア ヤ メ 石 に ま つわ る 、 伝 説 も いえ るが 、今 ま で採取 され た こと の知ら れ 何 分化 石 と い っても 、他 の顕微 鏡 的 をも の ン の附着 を ど に よる 結果 であ る 。 と 違 っ て 、 ア ヤ メ 石 は 大 柄 の 長 い葉 − そ れ が そ れ は と も か く 、 後 、 明 治 の 世 になると、古 と いえ よ う 。 墨 絵 の よ う に 石 面 に 広 く あ ら わ れ る の で 、大 て い る 所 は 引 田 町 の 川 股 附 近 ︵旧 相 生 村 ︶ 白 なりあった部分−それが珍らしくも、はいっ に 、 ア ヤ メ の花 と いわ れ た 部 分 、 模 様 の か さ た孫 が 何も 知 らず に拾 った小 片 の石 ころ の中 そ の時 、細 い支流 の谷 間 に おり 、犬 連 れ て い に、一度私は遊山に出かけたことがあった。 や そ の 奥 の 入 野 山 ︵ ニウ ノ ヤ マ︶ 部 落 あ た り 白 鳥 町 の湊 川 −−そ こ を さ か 上 って 、 与 田 山 川 の谷口から、すべて発見されている。 た 界隈− −などで、阿讃の山麓にあたり、各河 美合、仲南町の新目、財田町などを中心とし さ て 、 そ の産 地 は 和 泉 砂 岩 層 の 阿 讃 の 山 と 石 とは い い な が ら 、 な か な か に こ の ア ヤ メ の 生物 学 者 ども が 色 々 と研 究 した も のだが 、 化 塊 の も の でなければ、研究や観賞用には向か 鳥 町 の 与 田 山 ︵旧 福 栄 村 ︶ 塩 江 村 、 琴 南 町 の る の であ る。 実 体 は わ か らなかった。ともかく、昔の人が ない。 砂 岩 であ る。 が、古 代 ア マモの化 石 を 包含 す る 岩石 は 和泉 鉱 石 で はないから母岩といってはおかしい こ の 鎌 田 の 大 き い ア ヤ メ 石 だ った。 私 が 最 初 に古 代 ア マ モ の 化 石 に 接 し た の は 石 が置 か れ て いる 。 坂 出 の鎌 田 博 物 館 に は 立 派な大塊のアヤメ 考 え た アヤ メ のよう な 植 物 で は な い こ と は わ か っ て も 、 さ て 何 か となると矢張り解明出来 なかった。ただ﹁おそらく藻類の一種であろ の ︶ と いう 意 味 の 名 を つ け た が 、 こ の フ コイ う ﹂ と 一応 、 学 名 を フ コ イ ド ︵ 藻 類 に 似 た も ド の 学 名 が そ の後 長 く 続 いた 。 と こ ろ が 、 実 は こ れ が ﹁古 代 ア マ モ ﹂ と 呼 ぶ 、 海 の藻 類 であ り 、 ア マモの先 祖 系 の植物 であ 紀 の海 底 で堆積 さ れた 海成 層 か ら出 来 て いて 讃 岐 の 南 方 に 連 らなる、阿讃山脈は、白亜 これ を和 泉 砂 岩層 群 と 呼 ばれ 、粘 土 質 の固ま る こと を 明 か にした のは 京都 大 学 の郡 場寛 教 岐 の名 石 、 アヤ メ石 も これ でそ の謎 が 解 かれ 、 授 で 、 教 授 の 詳 細 を 研 究 の 結 果 で あ った 。 讃 て いた。 ﹁綜 合 郷 土 研 究 ﹂ に 、 与 田 山 の盥谷︵アヤメ石を出す︶の和泉砂 岩層 中 にカ キ の化 石が あ る 。そ れ が馬 蹄 に似 このあ た り の 川原 に ころが る 石 には 黒 いア ヤ メ の 紋 様 の 一部 が つ い て い る も の が 多 く 見 とあ る 。 し て見 る と こ の、馬 蹄 石 は、 カ キ て い る の で 馬 蹄 石 と い う ⋮ ⋮⋮ ⋮ こ と を 物 語 っ て い る よ う だ った 。 か け ら れ た 。流石にアヤメ石の多産地である の 化 石 と いう こ と になって、馬蹄ガキといわ れ て いる。 西 讃 府 志 に 新 目村 の 百 々 川 と あ る が 、 こ れ は 財 田 川 の上 流 で 新 目 で は 白 石 川 と い う が 、 讃 岐 廻 遊 記 に 、秡川︵土器川の上流︶の名 そ れ か ら 来 て い る ら し い。 石 と し て 、 ﹁四 条 村 、 金 毘羅街道なり、馬茎 の外名 石 多 し⋮ ﹂ と あ る。 石 と て名 石 あ り、 近年 拾 い尽 し て稀 な り 、そ ここ では 馬茎 石 と 書 いて名 石 とし て いるが 馬茎 とは 馬 の陽 物 の こと で あ る。 これ は勿 論 、馬 蹄 石 の こと であ る。 る 。 そ れ で 思 い出 さ れ る の は 、讃岐の陰陽石 斉は馬蹄石といわずに、馬茎石と名づけてい 讃 岐 廻 遊 記 は 進藤蘭石斉の著である。蘭石 翫 賞 になっている⋮とあるが、この屋島の名 は 、 ﹁ 陰 陽 石 の 産 地 は 駿 河 、讃岐、近江、大 雲 根 志 の 著 者 近 江 の 山 田 石 亭 ︵木 内 小 繁 ︶ のこ と であ る。 て 溝 を 生 ず る ﹁緑 と り 石 ﹂ と いう 一種 の 奇 石 土 器 川 の上 流 、 琴 南 町 、 美 合 の 鞠 ケ 渕− そ る。 れ を 讃 岐 の 陰 陽 石 と し て 知 ら れ て いた の で あ を 思 わ す も の も 少 くない。それで早くからこ く 飾 石 となっているこの馬蹄石は、陰陽の形 今 日 、 そ の 形 も 面 白 く 、 讃 岐 で は 唯 一の 磨 けた も の であ ろ う。 る馬 蹄 石− そ れ を 陽石 と し て、 馬 茎 石 と名 づ 廻遊 記 の蘭 石 斉 が、 土 器 川 の上 流 から 産 す 陰 陽 石 の 一種 と い っ て い る 。 南 方 で 陽 石 が 得 ら れ る ⋮﹂ と 述 べ 、 馬 蹄 石 も 和 の 諸 国 で 、讃岐では、北方で陰石を拾うと ここ で いう馬 蹄 石 は 、先年 、石 ブ ー ム の頃 、 が あ る 。 そ れ を 指 し て い る の か も 知 れない。 屋 島 の 北 海 岸 に は 岩 片 の 緑 ︵ フ チ ︶ に沿 っ 産 、 馬 蹄 石 − そ れ は ま だ 見 て いない。 面 が 馬蹄 の形 を 印す る ので馬 蹄 石 と し て世 の 屋 島 の 名 産 、 檀 之 浦 の北 部 に 多 く あ り 、 石 ﹁讃 岐 名 勝 図 会 ﹂ に 、 以 上 の外 に 、 財 田 町 の 猪 鼻 や 、 大 野 原 町 の そ の白 石 川 か ら出 て いる。 昔 、 日 本 一の 石 の 蒐 集 家 近 江 の 山 田 石 亭 − 五郷 辺 か らも 見 つか って いる と書 い て いる。 雲 根 志 の著 者 は 、讃岐のアヤメ石を塗箱の台 と し て 来 訪 者 の 閲 覧 に 供 し て いた 。 に載 せ諸国 の奇 石 の中 でも 特 に代 表 的 をも の そ の銘 に は ︰讃州産、燕子花石と誌していた。 一般 に 賞 翫 さ れ る よ う になったもので、細末 美 し い石 肌 になるものである。 の 粘 土 質 の 固 結 し た頁石で、磨けば艶が出る、 て いる 。そ れ を 見 る と、 台 の下 の方 から 、 墨 東海道名所図絵に、それを模写した絵が載っ 絵 の よ うな葉が数ケ所から出て、その中一つ こ の 頁 岩 は 灰 色 や 薄 褐 色 か ら 黒 色 の部 分 が は 、 一も と の お も と の よ う に 伸 び て い る 。 お そ ら く与 田 山 のも の であ ろう 。 アヤ メ石 が讃 岐 の和 泉 砂 岩 のあ る渓 谷 か ら な馬蹄石が並列している。駒が渕という名も この和 泉 砂 岩中 に包 含 され て駒 の足 形 の よう た 部 分 が あ り 、 飾 石 と し て賞美されている。 皮 を 被 った よ うな層序となった。色彩の異っ 見 つか って いる よう に、 馬蹄 石 も和 泉 砂 岩中 八、馬 蹄石 に 包 含 さ れ 頁 岩 ︵ ケ ツ ガ ン ︶ 中 か ら 出 て く る。 る 。 家 は 土 器 の 大 政 所 ︵大 庄 屋 ︶ で 、 そ の 先 陰 物 の 形 、 そ の も の に似 て い る の で 、 早 速 陰 吉 光 川 で 、 偶 然 馬 蹄 石 を 拾 った が 、 そ れ が 、 中 山 城 山 は 、 自 分 の 郷 土 に 近 い香東川の上流 ない。然し、王越村木沢では今、猶、沢山あ 海 浜 に あ った と い う が 、 今 日 は 殆 ん ど 見 ら れ ﹁随︰ 筆 さ ぬ き ﹂−小田徳三著に原文を載せて 磨 い て 、 し つ と り し た 艶 の出 る 、 こ こ で いう こ れ ら は 、 火 成 岩 類 の 石 質 の も の で 、 今日、 いうも のと同 様 、も し、 そ う いう物 が出 ても と 、 記 し て い る が 、 こ れ は屋島の馬蹄石と いる 。 漢 文 で 、 石 に 添 え た 短 文 で あ る 。 蘭 石 文月は 、 そ の 名 が 示 す よ う に 愛 石 家 で あ 祖 は京 都 、 近衛 家 の長臣 、 進藤 伊 勢 守 の次 男 石記というものを書いた。 っ て 容 易 に 拾 得 出 来 る と いう ﹂ −主殿頭と申す人である。 の 旧家− 名家 で、古 今 の書籍 は勿 論 、 珍宝 、 合がまったく女陰のように見える。天が物を ﹁ 吉 光 川 で 、 た ま た ま 陰 石 を 拾 った 。 形 や 色 生 ず る と い う が 、 こ んな石にまで人体を与え こ と に 珪 質 頁 岩 で あ る 那 智 黒 ︵碁 石 ︶ に 近 い、 砂 岩 層 に 介 在 す る 頁 岩︵粘土質の堆積岩︶中 応 永 年 間 に 讃 岐 に 移 った と いう か ら 、 地 方 も 少 く はなかった。その庭園は、若州の隠士 て いた が 、 こ の 家 に は 実 龍 の右 の 腕 骨 が 、 古 て い る の は 如 何 にも奇異である。 最 近 、 飾 石 に さ れ る 讃 岐 の馬 蹄 石 は 、 和 泉 い わ ゆ る 馬 蹄 石 で はない筈だ。 宗 味 斉 の 作 った 由 緒 の も の 、 龍 枝 館 と 名 づ け く か ら 伝 わ っ て い た と いう 。 も の の、 さ ら ば と い って、 棄 て去 る のは 、 い 奇 体 な 姿 な の で 、 棄 て 去 っ て も よ い よ う な れ て 礫 片 になったものである。 川 原から 発見 され る も の は、 勿論 そ れ ら が流 頭 で私 は 、 こ の露 出 状態 を 見 た こと が あ る。 土 器 川 の上 流 、 天 川 神 社 の南 方 、 川 岸 の岩 て いる。 和 泉 砂 岩 中 に 結 核 状 に 捕 獲 さ れ た 形 で露 出 し 黒 と 灰 、 茶 褐 色 の 交 った 馬 蹄 形 状 の も の で 、 ﹁実 龍 の腕 骨 ﹂ と は 、 お そ ら く 今 日 の ナ ウ マ 志 士 、 日 柳 燕 石 が祓川で拾った陰石を、三木 ま た 、 草 薙 氏 の ﹁讃 岐 風 土 記 ﹂ に は、 幕 末 の. 青 山 の た め に 、 ﹁和 合 石 の 記 ﹂ を 作 った と 書 。うい つけ 、 城 山 先 生 − こ の 石 を 大 切 に 保 存 し た と と いう 意 味 が 書 い てあ っ て 、 そ んな理屈を 宝 物 とす る﹂ そ れ 故 、自分は敢てこの石を大切に保存して、 わ ば天功をわきまえぬということにもなる。 ン 象 か 、 ス テ ゴ ド ン象 の 化 石 で あ ろ う 。 そ の 龍 骨 の 名 と 、 庭 の古 木 を と っ て 龍 枝 館 と 名 づ け て いた ぐ ら いだ か ら 、 奇 石 も あ った に違 い な い 。 高 松 八代 の藩 主松 平 讃 岐 守頼 儀 公 の巡 国 の 際 、 所 蔵 の 飯 野 山 産 の 水 晶 を 献 上 し た 程 の蘭 石斉 でも あ る。 石 亭 の 雲 根 志 − そ の 知 識 も あ った の で 、祓川 い て い る が 、 こ れ も 、 陰 陽 石 で 、祓川辺の馬 讃 岐 で は 北 で 陰 石 、 南 方 に陽 石 ⋮ と いう 、 ︵四 条 辺 の 土 器 川 ︶ の 馬 蹄 石 、 そ れ を 馬 茎 石 ﹁馬蹄 石 は 近 頃ま で香 川郡 下 笠 居村 、 生 島 の 前記 、 ﹁讃 岐 の随 筆﹂ に、 蹄 石 の こと で あ る。 と称 した も の であ ろう 。 とも か く 、馬 蹄 石 は、 馬茎 石 でも あ り、 陰 また 、 そ の頃 讃 岐 の学 者− 全 讃 史 の著 者! 陽石 と 考 え られ て いた。