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会報 筑紫 第121号
筑紫古代 文化研 究会 6-4(〒 81143) 東 和苑 4_23260 躇奥 綱野 (093)293-4244 TEL 1987年 7月 1日 発行 福岡 県遠 賀郡 遠 賀町浅 木 発行先 第 i21号 男 正 古代文化研究会会報 121号 第 紫 筑 (1) ︶ 七月 例会案 内 ︵ 貸 切 バ ス︶ 日 時 七 月 十 九 日 ︵日曜 日︶ 見学 地 山 口市 o防 府 市 の遺 跡 民俗 資 料 館 ︱ 恰 土 城 址 ︶ 見学地 一 別原 町 の遺 跡 駅 で解 散 、徒 歩 八 キ ロ、 軽 装 、 弁 か ら新 装 開館 の予 定 です 。 前 原 町 立 歴 史 民俗 資 料 館 は 七 月 当 持参 。 帰路 は高 祖 よリ バ ス利 用 、 周船 寺 o時 現肥線 周 船寺 駅前 午 前 l 集合地 ︵ ∧見 学 コー ス∨ 飯 石 神 社 ︱ 飯 氏 1 号 墳 ︱ 子捨 塚 古 墳 ︱ 飯 氏 石 塔 立 石 群 ︱ 千 里石 伝 承 地︱ 恰 土 城 望 楼 ︱ 三社 神 社 支 石 墓 ︱ 茶 臼 塚 古 墳 ︱ 端 ∧見学 コー ス∨ 博 多 駅 筑紫 日午 前 八時 出 発 ︱小 倉 駅 0分出発 ︶︱下関 ︵0 北口 ︵ 9時 3 1時 ︶ 山 口 ・防 府 平 野 の 古 墳 山 口盆 地 で、 四世 紀 代 にさ か のぼ 高 さ 二 ・八 メ ート ル、前 方 部 幅 約 一 大 内 氷 上 古 墳 は 、全 長 二 八 メ ート ル、後 円 部 直 径 約 一五 メ ート ル、同 男 る定 型 化 し た前 期 古 墳 は 、 ま だ 発 見 四 メ ート ル、 同高 さ 二 ・三 メ ート ル で、後 円部 の南 側 が削 ら れ 、残 存 す 正 さ れ て いな い。 る堅 穴 式 石 室 の北 側 が小 桐 に使 わ れ 野 た だ 、弥 生 時 代 か ら の多 数 の箱 式 奥 石 棺 墓 や土 壌 墓 が発 掘 さ れ た朝 田墳 て いる 。氷 上 古 墳 は 、山 口盆 地 内 に 残 る唯 一の前 方 後 円墳 と し て、 県 の 山 口盆 地 山 古 墳 ︱ 築 山 古 墳 ︱ 前 原 町立 歴 史 ︱ 小 郡 I ・C ︵1時 ︶︱ 天 神 山 古 墳 1 1 0 2 時 分 ︵1 ︶ ︱ 光 寺 ︵ 昼 食 瑠 璃 3 1時 o 2時 4 0分 ︶ l分︶︱県埋文 セ ンター ︵1 3時 l o分 ︶︱ ︱市立歴史民 資料館 ︵1 俗 0分 ︶︱ 大 日古 墳 県 立 博 物 館 ︵3 1時 3 ︵4時 o分 ︶︱車塚古墳 ︵4時 5分 ︶ ︲ l 1 2 4 0 ︱ 国分 寺 ︵1 時 分 防 ︶ ︱ 周 国 衛 址 5 5 o 5時 ︵︲ 時 分 ︶ ︱ 鋳 銭 司 郷 土 館 ︵1 l 0分 ︶︱ 小 郡 I 。C ︵1 6時 ︶︱ 下 関 5 7時 ︶︱ 小 倉 ︵1 7時 3 0分 ︶︱ 博 多 ︵︲ 着9 1時 集 合 地 博 多 駅 筑紫 日午 前 八時 墓 群 のな か に は 、古 墳 時 代 前 期 に入 るも のが何 基 か あ る と 考 えら れ る 。 わ た る あ ら ゆる墳 墓 形 式 が全 部 あ る そ の他 弁 当 持 参 ・申 し 込 みは 、直 接 ま た は電 話 ︵〇 九 二︱ 二九 二 ︱四 壌 一を も って いた 。伴 出 し た須 恵 器 に よ って、 五 世 紀 中 ご ろ のも のと 考 ト ル、後 円部 直 径 一六 メ ート ルで、 後 円 部 に堅 穴 式 石 室 一、前 方 部 に土 明 であ る が、 そ の埋 葬 施 設 の舟 形 石 の破 損 、削 平 が はげ し く 、 旧状 は 不 滅 し た。 市 内 赤 妻 にあ る赤 妻 古 墳 は 、墳 丘 の 一部 の ほか は道 路 工事 です べ て消 えら れ て いる 。 る 。 な お 、弥生 時 代 か ら古 墳 時 代 に 年 代 は五 世 紀 中 葉 ︱後 半 代 と みら れ 史 跡 にな って いる 。遺 物 は な いが 、 前 方 後 円墳 は 、 こ の朝 田墳 墓 群 Ⅱ 3号 墳 と 、市 内 大 字 大 内 御 堀 字 地区 1 山 根 の山 林 で 一九 八 三年 に発 見 さ れ た大 内 氷 上 古 墳 の二基 があ る 。 と いわ れ た朝 田墳 墓 群 は 、 第 I地 区 0分 小 倉 駅 北 日午 前 9時 3 経 費 七 、 五 〇 〇 円 ︵入 場 料 ・資 二 四 四奥 野方 ︶ の上 、 現 金 封 筒 か振 朝田の前方後円墳 は、全長 二四 メー 料 代含 む ︶ 替 ︵福 岡 四︱ 二三 二六 〇 ︶ で御 送 金 下 さ い。 八月 例 会 案 内 日 時 八月 十 六 日 ︵日曜 日 ︶ 市歴史民俗 資料館 糸米墳墓群 赤妻古墳 馬塚 占墳 1 亀 山遺跡 5 鴻 ノ峰古墳群 6 白石 占墳群 7 白石茶 自山墳幕群 9 荻 峠遺跡 10 楠木 町遺跡 11 朝倉河 内古墳群 13 下 東遺跡 14 天神 L古 墳群 15 朝 Ш墳墓群 16 工 rの 森 墳墓群 17 中郷遺跡 堂 山古墳群 19 広沢寺 古墳 20 吉 田遺跡 21 大 内氷 上古墳 18 22 8 12 IJ国 県立埋蔵 文化財 セ ンター 4 3 県立 山 口博物館 2 1 図 ヽ ぷ :詳 F 11‐ ゛ lt:)'つ 1逃 (2) 紫 筑 121号 第 : /11 棺 と 箱 式 石 棺 が 、 現在 、 県 立 山 口博 物 館 の庭 に移 さ れ て いる 。出 土 遺 物 は 、位 至 三公 鏡 一、妨 製 鏡 三 な ど 鏡 四面 のほか、甲冑 、巴形銅器、鉄鏃 、 鉄 刀 、鉄 剣 、 鉄 矛 、 鉄 斧 、 勾 玉 、 ガ 二五〇 ︶、櫛などがある 。 ラス小玉 ︵ ま た 、墳 丘 か ら人 物 埴 輪 ︵男 女 の 頭 部 ︶ が出 t し て いる 。年 代 は 五 世 紀 前 半 ご ろと み ら れ る 。 天 神 山 古 墳 群 は 、 丘 陵 上 に七 基 の 円 墳 が知 ら れ て いる 。 こ のう ち 、堅 穴式石室をも つ1号墳 ︵ 径約 一五 メー ト ル︶ 、 8号墳 ︵径 は削 平 のため 不 明 ︶ が 、山 口盆 地 で最 初 に出 現 し た 墳 丘 をも つ古 墳 と し て、 五世 紀 前 半 の年 代 が考 え ら れ て いる 。群 内 の2 号 墳 ︵径 八 メ ー ト ル︶は 、単 室 の横 穴式 石 室 ︵ 全 長 二 ・七 、石 室 長 一・ 七 、 幅 〇 。九 メ ート ル︶を も つ。山 口盆 地 内 では 、朝 田墳 墓 群 第 一地 区 内 の堅 穴 系 横 日式 石 室 な ど と とも に 六 世 紀 初 頭 に、横 穴 式 石 室 が あ ら わ れ た 三 基 が いず れも 復 元 さ れ 、古 墳 一基 あ る 。天 神 山 古 墳 群 は 、 調 査 さ を た 四基 が いず れも 復 元 さ れ 、古 墳 図 2︶。 公園とし て保存 され ている ︵ 出土遺物 は1号 墳 の石室外側 から 、 県内唯 一の短甲 一領 のほか鉄鏃 四三、 鉄 刀 、鉄 剣 片 、 ミ ニチ ュアの鉄 製 工 具類 ︵ 斧 一〇 、鎌 三 、鍬 先 三 ︶ 、鉄 11 車 塚古墳 一 氷 上 古 墳 の東 にあ る馬 塚 ︵ 削 平 のた め 墳 形 不 明 ︶ が 、衡 ・鎖 ・鞍 金 具 な ど 馬 具類 や銅 製 玉 、古 式 須 恵 器 な ど の出 土 で知 ら れ る 。 ` 場 \ 斧 一、 カ スガ イ状 鉄 片 な ど が出 上 し ている。短甲は細片 にな っていたが、 復 元 さ れ 、市 立 資 料 館 に展 示 さ れ て ま た盆 地 北 側 の山 麓 には 、鴻 ノ峰 古墳群、茶臼山古墳群 、糸米古墳群 、 木 戸神 社 裏 古 墳 群 、 さ ら に湯 田 ・吉 塔 ノ尾古 墳 井上 山遺跡 塚原 占墳群 右 田 。一丁 田遺跡 片 山古墳群 水津邸 古墳 大 日古墳 高井山寄 占墳群 奥正権寺遺跡 20 いる。長方板革綴式 で、 これ に頸鎧 、 一 肩鎧が つく、古 い形式 の武具 であ る。 このほか昭和 三十八年 の石室開 口時 、 山 口市 立 鴻 南 中 学 校 郷 土 研 究 部 に よ 塚 古 墳 群 、 土 師 宮 古 墳 群 、泉 山 古 墳 群 、す でに ふ れ た朝 田墳 墓 群 、 天 神 る全長五八 メート ルの前方後円墳 で、 国 の指 定 史 跡 にな って いる 。 車 塚 古 墳 は 、防 府 の市 街 地 内 にあ 近 い。年 代 は六 世 紀 後 半 こ ろと考 え られる。この家形石棺 は県内唯 一で、 る 。 蓋石 に六 個 の縄 掛 の突 起 を付 け てお り 、同 タイプ の石 棺 と し ては兵 庫 県 宝 塚 市 中 山 寺 白 鳥 塚 古 墳 の例 が 約 一九 メ ート ル、南 に開 口す る横 穴 式 石 室 内 に凝 灰 岩 製 の家 形 石 棺 が あ 山 麓 にあ る 。後 期 の前 方 後 円 墳 であ る 。全 長約 四五 メ ート ル、 後 円 部 径 二六 二号 線 で防 府 平 野 に出 た高 井 の 大 日古 墳 は 、佐 波 川 の右 岸 、 国 道 期 の古 墳 は 発 見 さ れ て い な い ︵図 3︶ 。 防 府 平 野 では 、 現 在 ま で前 期 。中 防府 平 野 山 古墳 群 な ど が あ り 、 ほと んど が横 穴 式 石 室 をも つ後 期 古 墳 であ る 。 敷 の山 麓 にも 朝 倉 河内 古 墳 群 、千 人 る 調査 で ﹁馬 具 ﹂ が出 土 し たと いう が 、 現存 し な い。 8号墳 は 、墳 丘 が削 平 さ れ て いた が盗 堀 を う け てお ら ず 、 堅 穴 式 石 室 のなかに、人骨 の細片 、鉄刀 、鉄鎌 、 鉄斧 、鉄 ミ、鈍 各 一、 釣針 五 、錯 ノ も り ︶ 三 、管 玉 四 、銅 環 ︵ ︵ 指輪 ︶ 一な ど が出 土 し て いる 。 六 世 紀 代 の横 穴 式 石 室墳 は 、 大 内 ′ ′ 天神 山 2号 墳 の 石室 図2 12 13 14 15 16 17 18 19 121号 第 紫 筑 (3) にな り 、 以 後 、律 令 時 代 の周防 国 の 政 治 ・文 化 の中 心 にな った 。 く 国分 寺 が あ り 、 国 分 尼 寺 は そ の西 ― 田 尻 塩 田 (古 浜 。中浜・ 鶴浜 。大浜 。江 泊浜 。西 ノ浦浜 ) 防府市江泊・新田・浜方 。西浦 (5万 分 の 1地 形 図 .防 府 %) 周濠 の痕 が 一部 の こ って いる 。後 円 周防 国 府 址 は 、防 府 市 内 の多 々良 山 と 三 田 尻 湾 の間 にあ り 、 一九 六 一 年 か ら 調 査 が お こな わ れ る な か で、 部 径 三 一・五 メ ート ル、前 方 部 幅 四 八 メ ート ルで、後 円 部 と 前 方 部 に複 市 内 桑 山 の東 側 中 腹 にあ る塔 ノ尾 室 式 の横 穴 式 石 室 を も つ ︵図 4 ︶ 。 側 に接 し て いる ら し い こと が古 瓦 の の境 域 が 明 ら か にさ れ た 。 鍍 金 し た鈴 、飾 履 、 馬 具 類 が出 土 し た 。前 方 後 円 墳 で横 穴 式 石 室 が あ っ 出 土 な ど か ら推 定 さ れ て いる 。 ︶ 菩 提 寺 であ る 妙喜 寺 が あ り 、 そ の庭 園 は 、教 弘 の子 ・政 弘 が雪舟 に命 じ 栄 寺 の地 、宮 野 には大 内 教 弘 夫 人 の る 室 町時 代 の典 型 的 な枯 山 水 庭 。常 常 栄 寺 庭 園 は 、 雪舟 作 と伝 えら れ 盛 期 のす ぐ れ た 建 造 物 で あ る ︵国 宝︶。 在 に至 って いる 。朝 鮮 と の交 易 を も と に強 大 は 経 済 力 をも った大 内 氏全 ︵現山 口市 ︶ の瑠 璃 光 寺 を 移 し て現 萩 に移 し 、 そ の跡 に旧吉 敷 郡 仁 保 村 元 が慶 長 九 年 ︵一六 〇 四 ︶ に同 寺 を 香 積 寺 に建 立 し た 。 そ の後 、毛 利 輝 一 曇口 年 ︵一四四二︶にそ の書 提寺 。 一一 弟 の大 内 盛 見 が 兄 の冥 福 を 祈 願 し 、 内 義 弘 が 応永 の乱 で戦 死 し た のち 、 瑠 璃光 寺 五重 塔 は 、室 町時 代 、大 見学 メ モ 国 府 址 の北 西 には 、 現在 ま で つづ た よう であ る 。 図 4 古 墳 時 代 後 期 にな る と 、防 府 平 野 は 、県 内 でも っとも 古 墳 の多 い地 域 ︵ 文 政 五 年 = 一七 八 五 ︶ に よる と 、 方 八町 の東 の境 界 に築 地 の土 壇 が あ る こと 、中 央 部 にあ る方 二町 の国 衛 前方部石 室 古 墳 は 、 江 戸 時 代 に壊 さ れ た古 墳 で あるが、当時 の記録 ﹃桑山古墳私考 ﹄ (4) 紫 筑 121号 第 121号 て作 ら せ た と いわ れ る 。雪舟 は教 弘 に招 か れ て山 口 に来 て、 七 尾 山 麓 に 住 んだ 。文 正 元年 ︵一四六 六 ︶ 、大 内 政 弘 の派 遣 し た遣 明 船 で明 に渡 っ た 雪舟 は 、 三年 後 帰 国 し てか らも 山 口 に住 み、 最高 の傑 作 と し て著 名 な 水 の呪法 緩 子 シ の呼び 名 が 行 わ れ て いる が 、名 か ら は い っこう に実 体 を 浮 かば せ てく れ そう にも な い これ ら の石 たち も 、 昆 吾 、昆 吾 石 を 思 う と 、少 し わ け が わ か る よ う な 気 がす る 。 ま た 、 以 上 の よう な 重 松 さ ん の説 が的 を 射 て いる と す れば 、 コウゴ 石 井 さ れ る こと が多 か った よう であ る 。 藤 大 分 県 出 身 で、 長 い間 広 大 の先生 も のは と も かく 、少 く とも 山 あ る い い て﹂ の論 文 が あ る※ 。 最 近 読 み返 し てみ て、得 る こと 大 き か った 。 ま た由 縁 あ る こと で、 三世 紀 卑 弥 呼 ここで ﹁ 鬼 道 系 ﹂と いう こと が 、 紀 卑 弥 呼 の ころ にす で に根 差 す 、 と り で、 し かも そ の歴 史 た る や、 三世 神 聖 視 さ れ た歴 史 を持 つと ころば か 遺 構 を持 つ山 や丘 は 、石 の遺 構 そ の を し てお ら れ た 歴 史 学 者 重 松 明 久 さ 石 の みな らず 昆 吾 丘 と いう のも 有 っ て、 それ は鬼 道 系 道教 では神 聖 な祭 は丘 と し て、 そ の地 域 の民 に特 別 に ま ず名 称 だ が 、神 籠 石 は なぜ 神 籠 が ﹁ 鬼 道 に仕 え た ﹂と ﹃ 魏 志 ﹄ に書 ん に、 ﹁ 神 離 石 列 石 遺 構 の性 格 に つ 場 の名 と さ れ た 。 石 ︱ ︱ こうご いし と 言 う か 。 これ は 三世 紀 頃 盛 んだ った鬼 道 が 、倭 に及 瀬 戸 内 地 方 は律 令 時 代 か ら 近 世 ま で、各 地 で製 塩 が お こな わ れ た 。周 防 府 の製 塩 て いる 。 中 国 の神 話 的 な名 石 の ﹁昆 吾 石 ﹂ か らき て いる の では な いか 、 と いう の 結 局 、 そ の鬼 道 が 母体 と な って、道 石 は ど う やら 始 め か ら石 が剥 き 出 し にな っていたわけ ではなく、本来 は 、 は 、 軍事 的 山 城 と し て構 築 さ れ た と いう説 も 有 力 な わ け であ る 。 コウゴ いう こと にな り そう であ る 。 一方 、石 の遺 構 そ のも のに つい て が 、重 松 さ ん の意 見 であ る 。中 国 古 んだ も の であ った ら し い。中 国 では ﹁周防 国 大 嶋 郡 美 敢 郷 田部 小 足 調 美 金 、名 月 の産 地 と し て名 を 知 ら れ 塩 二斗 天 平十 □年 □ □ ﹂ ま た ﹃周防 国 正 税 帳 ﹄ に製 塩 用 の か ってき て いる 。 が 、 そう わ か っても な お 、 重 松 さ な ど 調 塩 付 札 が 四枚 あ る 。 こ と が 、 唐 代 の ﹃芸 文 類 衆 ﹄ 巻 六 鬼 道 が あ る 。 と いう具 合 ら し い。 し てみ る と 、卑 弥 呼 の段 階 です でに鬼 の用 途 を 持 つも のだ った らし いと わ 鉄 釜 ︵径 五 尺 九 寸 ︶ の記 載 も あ る 。 中 世 か ら 近 世初 期 の製 塩 は 、防 府 十 所引 の ﹁ 列 子 ﹂ な ど に見 え る由 。 ん が言 わ れ る よ う に、 た し か に 一種 前 面 に柱 を 持 つ土 塁 の、 根 石 と し て 市 大 字 ・仁 井 令 。伊 佐 江 ・晒 地 区 の 又 、鉄 や剣 にち な む昆 吾 石 に ついて 道 を 栄 え さ せ て いた倭 な らば 、 そ の る 。 つま り 、 のち中 国 で道 教 が あ れ だ け盛 ん にな る 、 そ の水 源 を探 って 小字 に塩 円関係 の地名 が残 っている 。 の記 述 は 、 ﹃山 海 経 ﹄ や 、 他 に 道 教 行くと、も っとも水量多 い源とし て、 近 世 後 期 は 埋 立 てがす す み 、埋 立 地 系 の いく つも の文 献 に見 ら れ る よう 発 達 し た道 教 も 、 ルートと し て受 容 しやす い状 況だ ったと考 えられ、従 っ て、 昆 吾 や昆 吾 石 の概 念 も 入 って来 た ろう 、 と いう こと にな る 。 今 日、神 籠 石 、皮 籠 石 、 皇 后 石 、 そも これ ら コウゴ石 遺 構 のあ る山 や す る の であ る 。 さ ら に言 えば 、 そも 石 でも いいが、 そ の土塁 の廻り方 が、 山 城 と す れば 防 備 上 大 変 雑 だ ったり 邪 悪 なも のを 撃 退 す る名 刀 を それ か 香 合 石 な ど の字 のも と に、 コウゴ イ 道 教 系 、 と言 った が 、 昆 吾 石 は 、 ら得 る霊 石 と し て、殊 に道教 で云 々 いと 思 え る のは 、上 塁 の根 石 な ら根 霊 域 を 示 す 日 的 でも 構 築 さ れ た ら し の地 先 に入 浜 塩 田 が つく ら れ た ︵図 だ。 た。 〇 万 石 、防 長 の製 塩 の中 心 地 と な っ 5︶ 。最 盛 期 の三 田 尻塩 田 は年 産 三 て いた 。 そ こ に 産 す る の が 昆 吾 石 で、 こ の石 か ら鉄 を 取 り 剣 を つく る か れ た そ れ は 、中 国 長 江中 下 流 域 で 木 簡 のな か に 防 国 も そ の 一つで、平 城 宮 跡出 土 の 代︱ ︱ 夏 、 周 の時 代 に、今 の新 彊 省 ハミのあたり に昆吾 と いう国があり 、 教 が発 達 す る こと にな った よう で あ ﹁山 水 長 巻 ﹂ ︵ 防 府市 毛利 博物 館 所 蔵 。国宝︶などを山 日の地 で描 いた 。 こ の庭 園 は 、水 と石 を 中 心 にし てお り 、借 景 の山 を ふく め て史 跡 にな っ 第 紫 筑 (5) 丘 が 、往 々 にし てあ ま り高 く な く 、 土 取 り にと も な う破 壊 が こ の遺 構 に あり ︵ 形跡 、と言 わねば なら ぬほど、 二重 に入 念 に設 け ら れ て いた形 跡 が 祭 礼 も お ろ そ か にな る ことも 覚 悟 じ ば 、神 への信 頼 も 薄 れ 、人 は 恨 ん で いる のに、雨 を 降 ら せ てく れ な け れ と ころ で これ は わ たし の幻想 に属 書 か れ て いる こと であ る 。 ︲ 一 す る が、 水 ﹂ の呪 法 に熟 練 し て い た と えば 福 岡 嘉 穂 郡 の鹿 毛 馬 な ど 沼 君 ﹂ のイ メ ージ が 浮 か ん でき てな 地 勢 的 厳 し さ に欠 け る こと も あ る 。 ら な い。 的 に コウゴ石 遺構 は 、 ど ち ら か と い や丘 が道 教 的 霊 場 だ った と し て、 そ こ では ど のよう な祭 杷 、 な いし 呪 法 儀 式 が行 わ れ た か を 示 唆 す るも のに 感 を深 く す る 。 実 際 、具 体 的 に そ こ でど のよう な た集 団 と いう こと で、 ち かご ろ ﹁ 水 ※ ﹃古 代 国 家 と 道教 ﹄ 吉 川 弘 文 館 えば 里 人 の生 活 の匂 い の濃 い地 、 い が行 わ れ たと考 え ら れ る か 。 そ こ で に大 き な 意 味 を 持 ってき そ 香 川 県 坂出 市 の城 山 の場 合 があ る 。 ︱︱ 以上 は 、 だ いた い重 松 さ ん が 出 雲 の旅 雲 を 舞 台 と し ており な が ら 、話 題 と お り 、 ﹁記 紀 ﹂神 話 の三分 の 一が出 出 雲 地 方 は神 話 の国 と し て知 ら れ て は、今ま でになく大変感動的だ った 。 学者 が数多く の見解を の べて いるが、 それ ら を 読 んだ だ け では 、 混乱 状 態 ポジ ウ ムも 開 か れ 、文 献 学 者 や考 古 す る レポ ートは 数 多 く 書 か れ 、 シ ン ら な いと実 感 し た 。荒 神 谷 遺 跡 に関 を勉 強 す る には 現地 を 見 な いと わ か 温 泉 か らす ぐ 近 く の荒神 谷 遺 跡 に バ スで近 づ いた時 には 、本 当 に古 代 史 彦 な る よう な 縄 文 、弥 生 の遺跡 は少 な し 、関 係 のあ る出 雲 地 方 の遺 跡 を 見 光 く 、古 墳 も 小 規 模 で、謎 の多 い地 方 と考 え ら れ て いた 。 と ころ が昭 和 五 学 し てま わ り 、 再度 数 々 の資 料 を 読 川 十 九 年 荒 神 谷 遺 跡 か ら 二 五 八本 と い う 多 量 の銅 剣 が出 土 し 、翌 年 夏 には み返 し てみる と 、 それ なり の理解 が こ の度 の出 雲 地 方 の現地 見 学 旅 行 す ぐ わき か ら 銅 鐸 六 個 と 銅 矛十 六 本 深 ま り 、私 な り に次 のよう な 見解 を ま と め る こと が出 来 た 。 は深 ま るば か り で、今 回 現 地 を 見 学 が 見 つか り 、 ま す ま す そ の謎 は深 ま ︶ 現 地 見 学 第 二 日日 、宿 泊 地 湯 の川 るば か り だ った 。 古 昭和 六 十 年 。重 松 明 久 さ んは 現 在 が竿 を十 メ ート ルさ し ても ま だ 奥 に 多 く 、時 代 を さ か のば れば さ か のぼ 進 み つ つあ る のが 無 念 ︶ 、土 地 の人 と ど か な か った よう なも のな ど があ ︿ υ。 ラ る ほど 、 それ は多 か った ろう こと が は 、全 く 低 い丘 で、 そ の丘 を 列 石 は ︱︱ これ ら水 門 の存 在 か ら は 、 コ う な のが 、 コウゴ 石 遺 構 にた い て い わ たし は 見 た こと が な いが 、 こ こ で 中津女子短大学長 。 時 に 田圃 に降 り たり し な が ら 、形 式 わば 里 人 が朝 夕 眺め 、 必要 と あ れば ウゴ石 と いう設 備 が 、 聖 な る水 にま つわ る儀 式 の場 所 と し て︱︱ 霊 水 を 汲 み取 ってす る祭 杷 、祈 願 、呪 法 を 見 ら れ る水 門 であ る 。 これ ら水 門 の は標高 四六 二 メ ート ルの高 原 状 の山 と いう 。 こ こ には城 山神 社 と いう お 思 われ る 。 て貰 いた い﹂ と 、神 を 脅 かす よう な こと を 書 い て いる が 、 ″ 水 ″ にま つ わ る 儀 式 には 、 こう いう類 のも のも い つでも そ こ へ行 け る よ う な と ころ にあ る ことも 、気 にな る 。 旧国 府 に 近 か った り 、 交 通 の 要 所 に あ った ■つ場所とし て設けられた のであり 、 ″ 中 には 、山 口県熊 毛 郡 の石 城 山 のよ 頂部 を 、東 西 約 ニ キ ロ、南 北 約 ニ キ 構 築 の第 一目 的 は決 し て軍事 的 な こ 山 姥 の穴 ﹂ と 呼ば れ 、今 で う に、 ﹁ ロにわ た って塁 壁 が取 り 巻 い て いる と ころ で、 コウゴ 石 遺構 のあ る山 。 め ツ ・ も 仙 女 な いし竜 宮 の乙 姫 が住 む と し 宮 が有 る 。と ころ で こ こ讃 岐 には菅 と では な か った の では な いか 、 と の て蟷 燭 が あげ ら れ て いる よ う な と こ ろも あ れば 、福 岡 行 橋 市 の御 所 力谷 原 道真 が 讃 岐 守 と し て在 任 し た こと る 。 それ に よ る と 、 道 具 は折 か ら の 干 ば つのた め に、雨 を 願 って祭 り を が あり 、 そ の時 城 山 神 社 で祭 り を す る のに祭 文 を 書 いたも のが残 って い いるも の、福 岡山 門郡女山 のよう に、 行 って いる 。 ﹁民 が苦 し ん で困 って ︶ 四 つも の水 門 が 、 と ころ に よ っては で待 ち構 え て汲 み取 る 設 備 にな って 特 別 に水 を 誘 導 し て出 す も のを 、下 備 では な いこと が 歴 然 と し 、 上 か ら のよう に、自 然 の水 は け のため の設 紫 筑 121号 第 121号 ︵ 仏 経 山 ︶祭 杷 の神 宝 と みる説 、貿 のと す る 地 鎮 説 や隠 匿 説 、 神 奈 備 二 五 八本 の銅 剣 は 、地 神 を 祭 るも 墳 時 代 後 期 の六 世 紀 後 半 と いう結 果 依 頼 し て磁 気 測 定 を し たと ころ 、古 強 大 な勢 力 が こ の地 方 に存 在 し た と 銅 鐸 な ど が ま と め て埋 納 さ れ て いた こと は 、 それ だ け の物 を保 有 し得 た で年 代 決 定 は 大 変 困 難 かも し れ な い が、大多数 の意見は弥生時代中期 か 、 よ ほど大 き な ﹁地 域 国 家 ﹂ を 想 定 し 郡健部郷と いう小 さな範 囲を越 え て、 想 定出 来 る 。ま た銅 剣 出 土 地 の出 雲 が出 て いる 。伴 出 上 器 な ど が な い の あ る いは分 与 す る為 に理納 さ れ て い 若 干 の後 と み ても 弥 生 時 代 後 期 と さ 易品とみて地中 に格納 し たと いう説 、 たと す る説 等 々、 混 乱 を ま すば かり ても 良 い の では な いか と 思 わ れ る 。 だ が 、 荒神 谷 追 跡 のあ る神 庭 西 谷 に 伊川沿 いの南 側 に、﹁ 出 雲 国 風土 記 ﹂ ヤ マタ ノオ ロチ伝 説 で知 ら れ る斐 の直 接 の圧 迫 、② 南 方 の山 越 え で追 の こと と し て語 る よ う な ヤ マト勢 力 氏 の考 え では 、① ﹁記 紀 ﹂ が崇 神 朝 谷 遺 跡 に埋 納 し な け れ ば な ら な い ﹁異 常 事 態 ﹂ の原 因 だ が 、 問脇 禎 二 れ る 。出 雲 国 の国名 の発 詳 地 、出 雲 と ま って いた の では な いか と 考 え ら た と 同 じ よう に ﹁ 首 長 ﹂ のも と にま る ﹁山 陰 地方 連 合 体 ﹂ が 、 邪 馬 台 国 が多 数 の国 の連 合 体 で成 り 立 って い 小 地 域 を ま と め 、広 い地 域 の連 合 体 に神 奈 備 山 と し て記 述 さ れ た仏 経 山 る キ ビ勢 力 の進出 、③ 意 宇 平 野 に中 そ こ で弥 生 時 代 中 期 ︱後 期 、荒 神 れ て いる よ う であ る 。 ︵ 標 高 三六 六 メ ート ル︶ か ら 、東 の 郷 出 雲 郡 ば か り でな く 、意 宇 郡 、神 川 の沖 積 平 野 を のぞ ん で いる 。 こ の 山 な み の奥 ま った小 さ な 尾 根 の南 斜 ころ か ら み る と 、何 か の里︵ 常事 態 に たも の で、整 然 と 並 べら れ て いる と る が 、 三五 八本 は 一時 的 に鋳 造 さ れ 考 古 学 の諸 史 、資 料 か ら考 え ら れ る 新興勢力と の勢力交替 などが、文献 、 地 に進出 し た ヤ マト勢 力 を結 合 し た 小 さ な 尾 根 の続 く 中 で、神 庭 西谷 は こ の山 な みを南 に背 負 って北 に斐 伊 面 の中 ほど に遺 構 地 が あ った 。 現 場 と し て いる 。 弥 生 時 代 に ヤ マト朝 廷 は ま だ成 立 直 面 し て埋 め ら れ 、再 び そ の後 取 り 出 す こと が な か った こと を 意 味 し て こと が出 来 る 。 し か し0 と み る に は はす でに埋 め も ど さ れ てあ った が 、 ま た作 業 のしづ ら い斜 面 の中 段 に 東 部 の意 宇 に本 拠 をも つ王 が 、出 雲 し て いな いと す ると 、② と③ と み る 理 納 さ れ てあ る のも 、 そし て平 野 か 西部 も お さ え て地 域 内 統 一王 国 を 形 いる 。 が遺 構 上 に展 小説 明 さ れ てお り 、 発 ら 見 て峰 の陰 にな った場 所 に 、 さも 埋 納 状 態 に関 し ては 発 見当 時 の写真 掘 状 態 が生 々し く 感 じ と ら れ た 。 埋納場所 や状態 を観察 し てみると、 半 以降 の こと で、結 局② の南 方 の山 成 し た のは 古 墳 時 代 中 期 の五世 紀 後 再 発 見 しづ ら い所 を 選 ん で埋 納 さ れ て いる のが感 じ と ら れ 、 何 か の異常 越 え で迫 った キ ビ勢 力 の進 出 を 前 に し て の こと であ った と みる 門脇 禎 二 氏 の見 解 が 理解 出 来 る 。 と ころ で、 これ だ け大 量 の銅 剣 や 九 州 の古 代 文 化 十 二 講 小 田富士 雄 著 肩 のこらな い九州 の古代史 、 、四〇〇円 文栄出版 一一 考占学 の講演集 一 魃 繰 り 返 し 堀 り出 さ れ た 形 跡 も な く 、 土 は 一度 し か さ わ ら れ て いな い こと が明 ら か と な って いる 。 そし て、馬 と ころ で埋 納 さ れ た時 期 だ が 、荒 事態 に直 面 し て急 い で隠 匿 し たも の 神谷 遺 跡 の表 土 を 島 根 大 学 理学 部 に と考 え ら れ る 。 成 果 によ り 、 華 北 産 の鉛 を 用 い て鋳 淵 久 夫 氏 ら に よ る鉛 同 位 体 比 の研 究 造 され た 可能 性 が高 いと 云 わ れ て い を 形 成 し たと いう山 本 清 氏 の想 定 す 大 黒 山 に連 な る低 い山 な みが あ り 、 心 を お く 統 一勢 力 に よ る圧 迫 、④ 現 が出 てし ま った 。 近 づ き 、 ﹁こ ん な 所 に ﹂ と 驚 き の声 第 紫 筑 (7) 騎 馬 民 族 の来 た 道 測 古 式 馬 具 出 現 の歴 史 的 意 義 渡 来 集 団 の足 跡 河 内 王 権 の成 立 騎 馬 文 化 と 大 陸 系 墓 制 の源 流 騎 馬 民 族 の来 た 道 五 世 紀 初 頭 ︱ 前 半 代 の考 古 資 料 に よ り 、朝 鮮 半 島 南 部 ︱ 九 州 北 部 ︱ 河 内 と いう 騎 馬 文 化 の流 れ を 跡 づ け た 労 作 。 四六判 並製/ 二四〇 頁/ 一〓一 〇〇円 河 内 王 権 成 立 の謎 ︱目次より 関 連 分 野 か ら み た 騎 馬 民 族 説 の謎 河 内 の王 権 と 渡 来 氏 族 の謎 河 内 の古 墳 と騎 馬 文 化 の謎 騎 馬 文 化 東 漸 の謎 騎 馬 民 族 日本 渡 来 の謎 初 期 騎 馬 文 化 九 州 ﹁伝 播 ﹂ の謎 朝 鮮 半 島 で の騎 馬 民 族 南 下 の謎 騎 馬 遊 牧 民 の南 下 と 騎 馬 文 化 ﹁伝 播 ﹂の謎 考 古 学 と 日本 古 代 史 の述 作 と言 ってよ い。 も 疑 間 の余 地 が な いほ ど 克 明 に解 明 し た 実 在 を 全 関 係 遺 跡 遺 物 に即 し て 誰 に ● 江上渡 夫 氏 推薦 ︱ 本 書 は、 騎 馬 民 族 の 騎馬 民 族 と 日本古 代 の謎 121号 第 毎 日 新 聞 社 方 のま と ま り 、 一種 の文 化 圏 を 思 わ では な いか と 思 わ れ る 。 こ の山陰 地 幡 国 、石 見 国 も 含 め て考 え て良 い の 門郡 等 、出 雲 国 、 遠 く は伯 者 国 、 因 出 雲 の語 り部 た ち が オ オ ナ ムチ の建 ﹁ 記紀 ﹂神話 が編 さんされる時期 に、 さ れ て いた と は考 え ら れな い。 丁度 生 時 代 の出 雲 の実 態 が そ のま ま 反 映 熊毛半島 の古墳 や石城山神籠石も行 っ てみた いと ころ でし たが 、 日帰 り で 市と防府市 の史跡見学 になりました。 ○ ⋮七 月 例 会 は 、貸 切 バ スで山 口 古 代 研 通 信 せ るも のと し て、出 雲 を 中 心 に分 布 は 両方 は 無 理 な の で、次 の機 会 に回 いた ﹁ 山 陰 地 方 連 合 体 ﹂ が 一時 的 な の ﹃騎 馬 民 族 の来 た 道 ﹄ ︵毎 日新 聞 が六 月 上 旬 、 刊行 さ れ ま し た 。前 著 古代 の謎 ﹄ ︵ 三二〇〇 円 ︶ 大和書 房、 ○ ⋮奥 野 の新 著 ﹃騎 馬 民 族 と 日本 す こと にし ま し た 。 混 乱 に よリ キ ビ勢 力 に圧 迫 を受 け 、 を 隠 匿 し た と 考 え て良 いの では な い だ ろう か 。 予 定 し て いま す 。 五 〇 〇 基 発 掘 中 ︶ の見 学 を 石甕棺 ︵ ○ ⋮九 月 例 会 は 、新 装 の中 間 市 立 歴史 民 俗 資 料 館 か佐 賀 県中 原 町 の船 神 のガ ーデ ンパ レ スで出 版 記 念 会 を 予 定 し て いま す 。 し た 。御 購 読 を お願 いし ま す 。 七 月 二十 五 日午 後 五 時 、福 岡 市 天 馬 文 化 の総 合 的 な解 明 な ど を 試 みま 国家 の消 長 、 日本 で の五世 紀 代 の騎 文 化 の受 容 、東 北 アジ ア の騎 馬 民 族 州北部 の考古資料をとりあげ ました 。 こんど の本 の内 容 は 、中 国 で の騎 馬 対 し て、 同時 期 の朝 鮮 半 島 南 部 や九 社 ︶ は 、 江上 説 批 判 で中 心 的 に提出 さ れ た ″四世 紀 末 の日本 に馬 具 が な い″ と いう 問 題 や、 五 世 紀 前 半 代 の 渡 来 文 化 を消 極 的 に否 定 す る見 解 に 急 い で祭 器化 し た銅 剣 、銅 矛 、銅 鐸 奈 備 への信 仰 を中 心 と し て結 合 し て 邪 馬 台 国 の女 王 卑 弥 呼 の時 代 、神 国 神 話 を 形成 し 、 ヤ マト朝 廷 にと り 上 げ ら れ ﹁記 紀 ﹂ に結 実 し た と考 え ら れ る の であ る 。 す る ﹁四隅 突出 型方 墳 ﹂ が あ る 。 ま たこれらには 一部西谷丘陵 のように、 キ ビ地 方 独 特 の祭 杷 用上 器 であ る特 の首 長 と 密 接 な 交 渉 が あ った こと を 殊 器台 や壺 がも た ら さ れ 、 キ ビ地 方 出 雲国 風土 ま た ﹁記 紀 ﹂ お よび ﹁ うか がわ せる 。 記 ﹂ に み え る オ オ ナ ムチ神 ︵大 国 主 神 ︶ の原 型 が こ こ斐 伊 川 の 上 流 に ある。オオナ ムチが国作 りを行な い、 そ の 一族 が 栄 え 、 そし て こ の出 雲 神 族 とも いう べき 一族 が 日本 の国土 を 天 孫 に奉 献 す る ﹁国 譲 り ﹂ の伝 承 は は 、出 雲 郡 に吉 備 勢 力 が 一時 進出 し た が、 そ の後 五 世 紀 末 か ら 六 世 紀 初 め にか け て吉 備 の勢 力 が打 倒 さ れ 、 それにかわ って意宇 の勢力 が進出 し 、 出 雲 地 方 を お さめ 、文 字 通 り出 雲 一 円 の祭 司 王 と な り 、 そ の後 ヤ マト勢 力 に 屈 腹 し 、 ﹁国 譲 り ﹂ を 余 儀 な く さ れ た結 果 であ った と みる こと が出 来 る。 ﹁記 紀 ﹂神 話 の三分 の 一を占 め る 出 雲 神 話 は 、中 央 貴 族 が出 雲 を 特 別 視 し たと み ら れ る が 、 縄 文 時 代 や弥 ︶