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精神薄弱児教育の諸問題(3)
精 神 薄 弱 児 教 育 の諸 問題 ― (3) キ 精 神 薄 弱 児 教 育 の 先 駆 者 ― 石 大 1 純 悟 精神 薄 弱児教 育 の黎 明期 今 日まで,精 神薄弱児 の教育 の歴史 を論ず る場合 , しば しばギ リシ ャ・ ローマ時代 の文献,,聖 書 , コー ラ ン,そ の他 な どか ら引用 され るのが通 例 のよ うで あ る。例 えば ,ギ リシ ャ 。ローマ時代 に は,ス パル タで見 られ るよ うに Lycurgus法 制 の も とで ,精 神薄 弱児 は他 の虚弱児 と同様 に戸 外 に 遣棄 され た り,川 に投 げ こまれ た りした とか,古 代 ローマ法 で は,不 具 ,虚 弱児 を殺す こ とが認 め られ たが,精 神薄 弱児 は人 を喜 ばす慰み もの として 価値 あ るときは助命 され て い た とか。 また コー ラ ンの第 四章 第 四節 に,マ ホメ ッ トが「 理 性 な きもの」 (thOSC Without rcason)を 引 き 取 って養 い,優 しい言葉 をか けてや る ことを教 えて い る し,東 洋 で は孔子 が論語 ▲ の 中 で, 知能 の優秀 な もの と,特 に劣 って い るものは,教 育 によ って 変え る こ とはで きな い。平均以下 の 知 能 の 持 主 に は,よ く気 をつ け て親切 に指導す るよ う弟子 に教 えて い る, こ とな どが あげ られて い る。 しか し , 以上 の 引用か ら見 ると,す で に古 代 か ら精神薄弱児 の存在 が知 られ て い た こ とは理解 され るが, こ うい う人 た ち の収容所 や保護 ,訓 棟 のために,何 ら特別 の尽 力や組織 的な努力 が払われ た とい う証 明がな い。 ただ,彼 等 に対 して思 いや りの あ る言 葉 をか けて い るだ けで,実 際 に保 護 され 教育 され るまで にはいた って いなか った と思 われ る。 とは いえ,早 期 の資料 は甚だ し く不足 してい るた め―一 ほ とん ど無 い と言 って よい一― 精神薄弱 児 の教育 に関 す る事情 が,研 究者 た ちに よ って過大評価 されて い る傾 向がな いで もな い。例 えば Saint Niclldas Thaumaturgosは ,マ イ ラ▲ 司教 (四 世紀 に生 存 )で あ り,彼 は精神薄 , (Myra)の 弱者 の保護者 として述 べ られ て い る▲ム。 しか し彼 は,す べ て の子 供 た ちか ら船 乗 りたち,質 屋 さん に至 るまで の守 護神 で ある。後世 彼 が Santa Cl豊 usの 原型 と して奉仕す るよ うにな った事 実 か ら見 ▲ 論語・ 薙也篇 :子 日,中 人以上 ,可 以語上也,中 人以下不可以語上也 同上・ 陽貨篇 :子 日,唯 上知与下愚不移 アジア南部 ,Lyciaの 古都 ▲ Myraは 河ヽ , , 工 鶴 ::醐 ′ 警 ∵ 軽 健 称 舌 湾 曹 諄 乾 ぎ 絶粂 腱 鉢 雪 * ,Ⅱ ち 幣法 牝 墓 毬ぜ 招き 象 箸恋tそ ま liSt° ry Of the care and study of the mentally retarded,1964. : 76 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 俗 ) て ,精 神薄 弱教育 の歴史上 の人 物 として あげ る価値 があ るとい え るだ ろ うか。 同 じよ うな伝説 は Euphrasiaと か Eupraxiaの よ うに,種 々な名前 で記録 されて い る 博 愛 主義 の 貴婦人 の場合 に も作 りあげ られ て い る。彼女 の夫君 Antigonus(コ ンス が ンチ ノープル の元 院老 議員 で,ロ ー マ 帝 国最後 の皇 帝 TheOdosiusの 姻戚 )の 死後 ,彼 女 は エ ジプ トの領 地 に移 り,そ こ で 厳格 な修道女 の生 活 に入 り,若 子 の精神薄 弱者 を合む家 な きものや障害 の あ るものを保護 した と い われて い るが, これ も確 た る根拠 がな い。 このよ うな ことは,大 よそ古 い年代史 の どの文献 にもよ く見 られ る例 で あ る。 上述 の ご と く,古 代 の精 神薄 弱者 に対す る保護。教育 につ いて は,か な り伝説 的な色彩 もあ ると 思 われ るが,当 時 の人 た ちが精神薄 弱 と呼 ばれ た ものたちに払 った注意 は,保 護 とか教育 に関す る こ とよ りも,精 神薄 弱 とい う用語 に多 くの関心 が払われ ていた よ うで あ る。 そ の代表 的な人 た ちは 辞書編集者 たち (Lexicographers)で あ る。 司教 ISidOrus Hispalcnds(ca・ 56o∼ 636)は , 精神薄弱 とい う用語 “Fatuus"(こ こで は adi. fatuoutt n.fatuity)と ぃ う形 容詞 を 当て,そ の理 由 として二つ の根 拠を あげて い る。一 つ は,動 詞 ``fari''(tO Speak話 す こと)の 分詞 に関係 が あ る。 したが って,“ fatuuぎ 'は 「 自分 が話す ことも , 他人 が話 す こ ともわ か らな い人 」を指 して い るとい う こと。 第二 の根拠 は, ローマ神話 の林 野 の神 “Faun''の 妻 で,予 言者 で あ る ``Fatua"の 名前 か ら出て い るとす る説 で あ る。彼女 の予言力 で 麻 酔 状 態 (Stupefaction)│こ され た人 が ``fatui''(ボ ー ッとな った人 )と いわれ た。 そ こで, この て fFatui''と ぃ コ バ ぅ ト が 「 意識な き」 (WithOut a mind)す べ て の人 に転移 されて “Fatuul"と な った とい う根拠 で あ る。 同様 な結 果 と考 え られ る「 愛 して い る」 とい う状 態 も `=infatuation"( 夢 中 に させ る こと)と い う コ トバ が 当て られ て い るが,こ れ も '`fatua''に そ の起 源 が あ るといえ る。 ローマ人 が ``amantcs"(愛 人 ,熱 愛 す る こと)を “amcntes"(低 能 )と , 語 ろ合 わせ に作 っ た こ とも不思 議 でな い。 もう一つ の ラテ ン語 辞典 の著者 Acgidius Forcellinusは ,“ fatuus"と )を ``stultus''(愚 か もの 区別 して,`Fstultus''は 鈍感 な感 覚 で あ り,``fatuns"は 感覚 のな い もの, と記 載 して い る。 また , 全 くの愚鈍 (mindlCSSncss)に 相 当す る特性 は ``amCns''と 同意語 で あ る。 司教 ISidOrusは ,彼 の 辞書で,“ amCns"は 全然意識をもたないが,“ dCmcns''は 自分の意識の一部 を持 っていること有 明 らか に しよ うと して い る。 また “idiOt''(白 痴 )の 用語 が現在 の意 味 に使用 され ば じめた時代 を正確 に定 め る ことは困難 で あ るが,ギ リシ ャ語 の “idi5t5s'',す なわ ち “priVatc person''か ら出て い る ことは間違 いな い。従 って,idiotは r`the cOmmom man''(普 通人 )を 意味す るもので あ った。 と ころが, この mon man"が ,専 門的 な知 識 のな い ``COm― “単純 な素人 "(thC unsOphisticatcd layman)と ぃ ぅ 意 味 に 解 され,そ れがつ ぎの段 階 で,idiotは ``無 知 で知 識 のない人 "(an ignOrant,ill― informё d indivi‐ dual)を 指す よ うにな った, と理解 され る。 Liond,S,Penroscは ,社 会人 と して の役割 に参加 で き 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 な い個人 のことで,idiOmゃ idiOSァ ncraSy(医 学では特異体質)も 同じ語原 のものである。 もともと この用語は,未 熟,未 教育,素 人などの意味に使われ,17世 紀 まで この意味をもっていた,と のベ て い る。 lmbccilc(痴 愚)の 用語 は,時 代 の推 移 と共 に,同 様 な語 義上 の変化 を うけ た もので あ る。 当初 , ラテ ン語 の “imbccills"(低 能 )は ``baCillus"(棒 )か ら出た もので, “弱 さ"“ 薄弱 "(Weak)を 意 味 した り,身 体機能上 の ``弱 さ"``衰 弱 "(dCbility,の 状態 の場合 に使用 され たよ うで あ る。 結 局 ,imbecileは idiOtよ りも重 くな い精神 の薄 弱 (WCaknCSS Of hc mind)1こ 限定 され る ことにな った よ うで あ る。 要す るに,語 原 は実 に不思 議 な細 道 を進 んでい くもので ある。 Fatlnの 妻 の 霊 験 か ら fatuity へ ,a pr ate personの 地位 か ら idiOCyへ ,一 般 的な意味 の frailty(も ろ さ,薄 弱性 )か ら im_ bccility(低 能 ,痴 愚)へ と辿 って い る。 もっと奇 妙 な ことは,医 学書 で は決 して 使用 され な いが,精 神薄弱 の 同義語 と して, しば しば使 (Duncc''は ス コ ラ学派 の神学者 で, 1303年 に死去 用 され る ``Duncc"と い う用語 の起 源 で あ る。・ した 」Ohn Duns Scotus(1274∼ 1303)か らきた もの といわれ る。 オ ックス フ ォー ド大 学 で は,彼 の 問下生 た ちが支配 的な一 派をな して い た し,彼 の著書 で あ る宗 教学 ,哲 学 ,論 理学 に関す るもの は,大 学 に おけ る教 科書 で あ った。 と ころが 16世 紀 にな ると,彼 の学 派 はまず人 文 主 義者 た ちに , つ いで宗 教改革者 た ちによ って,非 難 嘲笑 され た。 この学派 の人 たちを Dunsiansと か Dunscsと Dunsと か Dunccの 名前 は 理窟屋 )と いわれ て い た ものが,す で に ``学 習 に鈍 感 い うのは,新 しい学問 (new lCarning)に 対 して罵 倒 した もので, す で に “SOphist''と か ``hair splitter"c/1ヽ な ,鈍 い頑 固 もの (du11,ObStinatc pcrson impervious to learning), , また “学 習 で きな い馬鹿 も の "(b10Ckhead incapaЫ c of learning)の 意 味 に移 り変 って い った と見 られ る。 古 い文 献 か ら,さ らにわれわれ は,時 に精神薄弱者 が唯一 の役割 を果 して い る ことを知 った。 そ れ は ローマ において,家 族 や お客 たちの慰 み のた め,ば か者 (fO01)や 道化 師 (jestCr)を 抱 えた こ とは,章 時 の富裕者 に とっては不思 議 な こ とでなか った。む しろ,あ るばか者 (fO01)は 非 常 に評判 が よい もの もあ った。 例 えば,ロ ー マ の詩人 Marialis▲ は,Augustu号 工 皇 帝 のお 抱 えのばか者 (fool)Gabbaは 非 常 に評判 が高 か った とのべ て い る。 また,暴 君 ネ ロの先生 で あ り,ス トア学 派 の哲学者 セ ネカ (Lucius Annacus Scncca,B.C。 4-A.D.65P)の 書 簡 に 一― 私 の妻 の愚者 Hcrpastcは 先代 の遺産 で あ るが,な は このバ ケ物 が嫌 いで ある。 従 って, 妻 は盲 目で あ るが,家 の 中は暗 い と称 して妻を外 へ 連 れ 出 して い る一一 とい う,fO。 1の 忠実 な下 僕 の様 子 を のべ てい る。 後世 , これ らバ カ者 たち (fOOIS)は , フ ランス におけ る ``fOus“ または “bOuffOns''(道 化者), ドイツにお け る ``HOfllarrcn"(宮 廷 道化 師)の よ うに,王 侯や宮廷 の ``慰 み もの "(plaything,と ▲ Martialis,Marcus Valerius(A.D. ▲▲ Augustus皇 帝 は ロー マ最初 の皇帝 40-102?)は スペイン生れのローマの風刺詩人 (B.C.27∼ A.D.1つ 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 78 (3) な った。 (fOuと fO01の コ トバ は ラテ ン語 fOllisが 語原 で,fOllisは 一 対 の フイ ゴ a pair Of bellows で,fOuは 片方 の フイ ゴを意味 して い る。複数 の fOllCsは プ ップ ッと息を吹 く両類 を意 味す る)こ の ばか者 の道 化者 は,不 恰好 な身体 を した人 とか精神 薄 弱者 か ら召 し抱 え られ た。 MOreauは ,道 化者 (thC bOuffons)の 大 部分 が imbcCilC(痴 愚 )で あ った し,ま た, この コ トバ を認 めた 科学 的 医学 的な意味で は,精 神 の弱 さ Fffaibles d′ espriど 'の あ った ことを強調 して い る。 このよ うに,精 神薄弱者 の道化者 の 中 には,名 声 を博 した もの もお り,伝 記作 家 か ら賞讃 を得 た もの もい る。 フ ラ ンス 国工 の Francis一 世 (1494-1547)の 宮庭 内で の ``Triboulet''ゃ et''の 名前 ,そ れ に `【 Brusqu‐ SOXOny王 国 の知 者 フ レ ドリック公 (Duke Frcdrick,1463-1525)の 側近 の 人 た ちを楽 しませ た Klaus Narrの 名前 は,今 な お百 科辞典 ▲ に記 載 され てい る。 フ ラ ンス のチ ャエ ル ス五 世 (Charles v.1337-1380)の 時代 に は, フ ランス北東部 の Champagnc地 方 は,宮 廷 に バ カ者 (fO01)を 供給す る独 占権を授与 され た といわれ る。 偉大 な天文学 者 TyChO Brahc(1546-1601)は , 新 しい友 と して痴 愚者 の ``さ さや き"も 神 の 啓示 と して耳 を傾 けた とい う伝説 が あ る。 彼 が ユ ダ ヤの律法典 Talmudた の一 節 に (Baba Bathra 12.a)``聖 殿 の破壊 の時 よ り,予 言者 の術 はそ の価値 を失 ない,愚 者 に授 け られ た" と,の べ て い る こ とを知 って いた とは思 われないが, この一 節 は,愚 者 は予言 者 で あ る, とい う こ とにな るで あろ う。 勿論 ,保 護 され たばか 者 は,精 神薄弱者や ハ ンデ キ ャップ者 の 中 で,例 外 的な地位 を 占めた もの で あ る。 しか し,大 多数 の idiOtsゃ imbCCilesた ちは, 必 ず しもそ うで あ った といえな い。 多 く の未 開地域 において,彼 等 は迷信 的 に祝福 され た ``よ き神 の子 "(Lcs enfants du bOn Dicu)と し て見 られ た り, また苦 しめ られ る ことはなか ったが , 放 浪 す るが ままにすてて おかれ た よ うで あ る。 精 神薄弱者 た ちが最悪 の状 態 にあ ったのは,16世 紀 か ら18世 紀 におけ る宗教改革 や啓 蒙期 時代 の 期間 中 であ った といえ る。 精神薄弱者 の多 くは,当 時 の魔 神信仰 (dCmOniSm)の 犠牲者 とな った 。 マル チ ン・ ル ッタ と (Maron Luthcr1483-1546)は , 神 の加護 な き もの として精 神薄 弱者 を のべ て い る。彼 の食卓談話 (TablC Talks)の 中 に,そ の報 告 が あ る。 “8年 前 ,Dessau(東 ドイ ツの都市 )に 一 人 の精神薄弱児 が い た。彼 は 12歳 で眼 もそ の他 の感覚 も異 状 はなか った。 しか し彼 は,農 夫や脱 穀者 の 4人 分 をガ ツガ ツ食 べ る以 外 は 何 も しなか っ た。彼 は物 を食 べ,脱 糞 し,よ だれ を流 し,も し誰れか が捕え よ うとす ると金 切声 を立 て た。 物 事 が うま くいかな い と泣 いた。 そ こで 私 は Anhalt王 に言 った。 “も し私 が君主 で あれ ば, この 子 供 を M。 ldau(Dessauの 近 くを流れ る川)サ ││に 連 れ てい って, 溺 死 させ る"と い った。 しか し工 は私 の忠告 に従 わなか った。 そ こで私 は“ キ リス ト教徒 は,教 会 で主 の祈 りを 捧げ,主 が悪 ▲ BrOCkhaus Konversation― 一Lexicon, v. s. Hafnarr, 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 魔 を払 い去 る こ とを祈 るべ きで あ る"と い った。 この祈 りが Dcssauで 毎 日行 なわれ た。 この馬 鹿 な子供 は翌年死 んだ。 ル ッタ ーは, 彼 がな ぜ その よ うな忠告 を したか を尋 ね られ ると, 彼 は 断固 として, このよ うな馬鹿 な子供は,精 神 のない,単 な る肉の塊 ,す なわ ち a maSSa carnis で あ るとい う考 え で あ ると答 えた。 なぜ な ら,肉 の塊 は,理 性 や精神 を もつ 人 た ちを堕 落 さす悪 魔 の力 で ある。 そ の悪魔 は,馬 鹿 な子供 の精神 に宿 って い るか らだ。 このよ うに, ヨー ロ ッパ 中世 期 には,他 方 では精神 薄 弱者 た ちは宗 教改革 者 たちによ って無 残 な 処遇を受 けていた こと も知 られ る。 と ころが医学 は, この問題 につ いて長 い間全 く沈黙 を守 って い た。 18世 紀 の終 りま で,医 学 的文献 と称 す るものに,精 神薄弱 に関す る資料 は殆 ん ど見 られ な い。 Weygandt,W.が ,白 痴 や痴愚 に関す る古典 の論文 を紹 介 して い る中 に,古 の学者 は特別 な精神病 の状態 を生 き生 きと正確 に記述 して い る一一 例 えば テ ンカ ンの Hippocratesゃ 躁欝病 の Arctacus のよ うに一一 と ころが,白 痴 は ご く最近 ま で稀 れ に しか の べ られ ていなか った,と のべ て い る。精 神 医学 ,神 経学 ,そ れ に心理 学 の領域 で発表 された文献 を探す のに, HCinrich Lachrの 1459年 か ら1799年 まで の編集 に誰 れ もが注意を払 ってい る もので あ る。 しか し この立 派 な収 集 も,中 世 時代 の怒 りの方 で Cretinismに 時 々関 心 が払 われて い る以外 は,精 神薄 弱 につ いてわ ずか に間接 的引喩 が あるだ けで あ る。 Ⅱ 精 神 薄 弱 児 教 育 の先 駆 者 た ち 精神薄弱 に対 す る関心 は, フ ラ ンス,ス イスか ら ヨー ロ ッパ の文 明地域 や アメ リカに拡大 し,19 世紀 の前半 にパ ッと燃 え上 った と見 られ るであろ う。 この 時期 にな ぅて,そ の当時 まで不 当な圧迫 を加 え られ た り,軽 視 されて い た ものたちの立 場 を,強 く支 持 す る代 弁者 たちが現 われ た時代 とな った ともい え る。 しか し, フランスにおけ る白痴 訓練 の最 初 の先駆者 が,聾 唖者 の施 設 でその研 究 を進 めた り,ア メ リカにおけ る白痴 の最初 の “実験学校 "が ,盲 人 の施設 に設 け られた ことな どを 考 え ると,精 神薄 弱児教育 に対 す る関心 は,盲 聾教育 に 関連 して起 った もの と思 われ る。従 って , 早期 の精神薄 弱児教育 の後援者 たちは,」 aCOb Rodrigucs Pereireゃ 彼 の聾 唖 者教育 の業績 か ら , 多 くの感化 を うけた こ とは有意 義 な ことで ある。 精神薄弱児 に対 す る最 初 の探索 的研究 は,当 時 の定 評 あ る権 威者 か らも奨 励 されなか った とは い ぇ,20歳 半 ばの熱心 な青年 た ちによ って着手 され た。勿論 ,教 育 に対 して懐 疑的 で あ った こ とは事 実 として も,友 情 や良 き指導者 に支 え られて ,イ タ ール (Itard,」・M・ G)は ピネル (Hnel,P。 ) の優 れ た判 断 によ って進 めた し,ま た セ ガ ン (SCguin,E.O.)は エス キ ロール (Esquirol,」 .E。 ) の温情 に感 激 した。 ltardは ァ ベ ェロンの野生児 (lC SauVagC d′ AveyrOn)を , 初 め普通 の生 活 に 導入 しよ うと試 み た し, グ ッゲ ンビュール (Guggenbuhl,、丁 ・ 」acOb)は , ク レチ ン患者 (Crctin) を “治療 す る"こ とか ら出発 した。 いずれ も失 敗 に終 ったが, しか もな お,他 の人 たちによ って ま もな く西方文 明を と り入 れ た方法や施設 が開設 し発 展 して い っ姥。 , 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 ● ) これ ら全て の運 動 は,精 神 薄弱児 とともに,教 育 的社会事業 的 な仕 事 を は じめた人 び との,パ ー ソナ リテ ィや個人 の努力 の報 告 な しで は,十 分 に評価す る こ とはで きな いで あろ う。従 って,以 下 精神薄弱児教育 に熱 情 を傾 けた先 駆者 た ちの人 と業 績 につ いて考察 した い と恩 う。 (1) Pcretireは JaCob Rodrigues Pereire(1715-1780) ,ス ペ イ ンの Estremanduraに あ る小 さな 町 BCrlangaで 1715年 4月 H日 に 生 ま れ た。父 の死後 ,母 は異 教 に改 宗 したため,そ の責 めか ら逃れ るため に子 供 た ち とともに, フ ラ ンス の BOrdcauに 住 みつ いた。 Pereircは 解 剖学 と生 理学 を学 び,積 極 的 に先 天性 の聾唖者 の教育 に興 味を もつ よ うにな った。従 って,彼 を精神 薄弱児教育 の先 駆者 にあげ る こ とに問題 はあ るが,彼 の 聾 唖教育 へ の熱情 が精神薄 弱児教育 の研 究者 に多大 の激励 と感化 を及 ば した点 で見逃 す こ とので き ない人 物 で ある。 彼 は 1747年 1月 19日 Bellcs Lettre烏 )に 月 H日 ,彼 は , カー ンの工立 純文学 ア カデ ミー (Academie Royalc de ,聾 唖教育 の方法 を提 出 し,彼 の努力 に対 して身 に余 る称 讃 を受 けた。 1749年 6 リーの科学 学士院 で ,BuffOnAを 初 め,並 み居 る名士 の面前 で彼 の研究結 果 を実験 'ヾ した。聾 唖 者 が本 を読み, ものを言 う前例 のな い実験 を観察 した皇 帝 ル イ 15世 は, PCreircゃ 彼 の 弟子 に下問 され るほ ど感動 され た。 Pereireに 敬 意 の しる しとして年金 800フ ランが下 賜 され た。 その他 PCrcireが ,多 くの尊敬 と名声 を高 めた のは,大 きな帆船 で風 の作用 を最 も効果 的 に利用 す る方法を考察 した こともあ るが,何 よ りも彼 の聾 唖教育 に おけ る大 きな功 績 の一つ は,簡 単 に し た記号言語 (Sign languagc)を 教 えた こ とであ る。 これが Percireの 指 話 法 (dacty1010gia)で あ る。 また,計 算 す る方 法 を教 え るため,算 数機械 を発 明 した こ とな どで あ る。 彼 の忍耐 ,努 力 ,そ れ に勇気 は,他 の人 に対 す る模範 ,特 に盲人 や精神 薄弱者 に対 す る教育 的可 能性 に関連 す る手 本 とな った。 PerCireは , 知 的 に欠陥 の あ る人 と直接 , 接触 す る こ とはなか った が ,彼 の聾 唖者 に対 す る研 究 は Itardや SCguinに 多 くの刺 激を与 えた。 Seguinは , 機 会 あ る ご とに,PCrcircに 負 うところの あ る こ とを述 べ て い るし, また彼 の論文 に も多 く述 べ られて い る。 Barr,M.L.は ,無 条件 に ``PCreirc,Itardな しで は不可能 で あ った。 "と 聯言 して い る。 Pcreircは ,173o年 9月 15日 パ リーで亡 くな った。彼 の遺体 は モ ンマル トル (MOntmartre)の 墓 地 に葬 られ た。 (2) Itardは Jean Marc Gaspard ltard (1774-1838) フ ラ ンス南東 部 の Provcnccの Oraisonに 生 まれ た。「 ア ベ ェ ロ ンの 野 生 児 」教育 の ための彼 の努力 によ って,精 神薄 弱児教育 の傑 出 した先駆者 の一 人 と して あげ る ことがで き る。 Itardは ,実 業的 な職 業 に入 る こ とにな っていたが, 彼 が安定 した職業 に就 く年 令 に達 した当 時 ▲ BuffOn:George L9uis L漠 縫 rc Boffon,(1707-1780,伯 爵 で ,博 物 学 者 。 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 10巻 第 1号 は,フ ラ ンス革命 の さ中で ,ま さに興 奮 の増蝸 の 中 にあ った。彼 の生 まれた地方 は戦 乱 の 中 にあ っ たため,徴 兵 を避 け るため に も彼 は,陸 軍病 暁 の補 助外 科医 として の資格 を得 た。彼 は 自分 の仕事 に没頭 す るとともに,熱 心 に 医学 の研究 を続 け,間 もな く医師 として の名 を揚 げ た。彼 が パ リーの 聾 唖者施設 の医局 員 として勤務 して いた 頃,彼 の最初 の主要 な任務 が入所 者 の訓練 で あ った。従 っ て彼 の興 味 は,聴 覚や言語 器官 の科学 的研究 へ 向け られ た。耳 の疾病 に関す る彼 の論文 は,1821年 に発 表 され,現 代 耳科学 の基礎 を築 いた もの として,歴 史的 出来 事 と見 な されて い る。 Itardが 25歳 で,そ の職 につ いて 間 もな く,お およそ 11, 2歳 の少年 が,Avcyronの 中央学校 の 博物学 の教授 Abbる Sicard BOnnatcrrcに よ って施設 に連れて こ られ た。 この少年 は ViCtOrと か 」uVCniS AvcriOnensisと 言 われて い るもので,章 時 の哲 学者 た ち の空 想 を刺激 した。 この少年 のと い立 ちや生 捕 りの方法 な どにつ いて は種 々異説 が あ る。 P・ 」,Vireyの 辞 典 に報 告 され て い ると こ ろに よ ると, この裸 の子供 は人 間 を見 て 逃 げ出 し,食 物 のため に木 の根や木 の実 (acOrnド ング リ )を 探 して ,Tarn県 の コー ス (Caunes)の 森 を さまよ っていた と思 われ る。彼 は一 度 は捕 え られ たが,す ぐに逃 げ出 した。 1798年 ,少 年 は 3人 の猟 師 に再 び捕 え られ ,コ ーヌヘ 連 れ て こ られ た が ,ま た逃 げ出 し,厳 冬 の寒 さに曝 されて 6ヶ 月間 ,放 浪者 の よ うな生活 を した。 あ る冬 の 日,少 年は St,Semin市 の郊外 にあ る染 物屋 の家 に入 って きた。 半年前 に着 せ られ て い た名 ご りしかな い シ ャツを着 て い た。 その家 の人 は,じ ゃが い もを与 えたが,あ たか も栗や ドング リの 実 の よ う に,生 で食 べ た。他 の どんな食 べ もの も彼 は食 べ なか った。彼 は一 語 も言語 を話 さなか ったが ,言 葉 にな らな い音 を発音 した。彼 は 自然 の呼 び声 で答 え,ま た慎 しみ の観念 は全 くなか った, とのべ て い る。 この少年は,初 め St.Attiquc収 容所に入れられたが,そ の後,博 物学者 BOnnaterrcに 引き渡 され, ついで Itardの もとに連れてこられたものである。 少年 については, 種 々な見解があっ た 。あ る観 察者 た ちは,こ の少年 を食 わせ もの (SWindlCr)で あ るとい ってい る。 当時有名 な精神 科 医 PhJippc Pinelは ,少 年 の検 査後 , この少年 の野 性 はまやか しもの (fake)で あ る し,ま た , “家畜 に劣 る不 治 の 白痴 "(an inCurablc idiotぅ inferior to domestic)で ぁ ると判定 した。 な お他 の 人 たちは,Rousscauの い う “自然 のまま のすがた ''(natural existcnce自 然人 , 自然 的存在 )の 見本 の代表 で あ るか ど うか疑間を もって いた。少年 の外観 はかな り論 争 の焦 点 とな ったが,原 野や 森 の 中で 野性 的な生 活を した後 で発見 され て い るので,そ の当時 ま で に報 告 され て い る野生 児 た ち と比較 された りした。 それ ら野生 児 たちには動物 に よ って育 て られ た もの も多か った。勿論 ,資 料 の信頼 性 につ いて は疑間 もあ るが ,Can Linnacus(17o7-1778)は ぃ るい ろな人 間 として 10種 類 を あげ,そ れ らは,い ずれ も fCrus(野 生 的),tCtrapus(四 つ 足 で歩 く),mutus(も のを言 わな い),hirsutus(毛 深 い)な 人 間 で あ るとい って い る。 Linnacusの い う10種 類 の人 間 とは i, Juve五 1ぎ Iupinus Hcssё (ヘ nSiS. ッセの狼 少年 ,1544) 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 儒 32 ) JuVCnls ursttnus Lithuanus. il・ (リ i五 スアニ アの熊少年,1661年 ) 。JuveniS OVinus IIibcrnius. (ア イル ラン ドの羊少年,1672年 ) iV 」uVCnis bOvinus Bambergcnis. (バ ンベルグの牛少年,年 代不詳) V・ JuVenis Hannoveranus. (ハ Wild Pctcr"野 生 のピーター,1724年 ) ノーバ ア…の少年,別 名を “ HamClmの 町で発見,1726年 に ロン ドンヘ連れて こ られて評判 となった。国工 Gcor ge一 世は Walseの 当時 の工女 に彼を献上 した。その工女が後 の COrolin 女 王 とな った) vi. Pucri Pyrcnaici (ピ レ ネ ー の 幼児 ,1719年 ) . v Puclla Transisalana (ト ラ ンシ ィサ ラナ の 幼 女 ,1717年 ) viii. Puclla Campanica (カ iX・ ンパ エ アの 幼女 1731年 ) JOhn Of Lお gc (or JOhannes Lcodェ censis) (リ ェー ジ ュの ジ ョン,年 代不詳 ) x, Puclla KarpFcnsis (カ ル フ ェ ンの幼女 ,1767年 ) な どを あげ てい る。 野生 の子 どもた ち, あ るい は野育 ち の子供 たちへ の興 味 は, その後 も薄 らぐ こ とはなか った。 1920年 10月 17日 ,印 度 の Midnaporc附 近 の密林 中 の狼 の洞穴か ら保 護 され た Kam21aと Amala の 話題 は,最 近評判 にな った もので あ る。 “野生 人 "(feralman)1こ っ ぃての大規模 な文献研 究 と し て あげ られ るは,R.M.Zinggの “WOlf childrcn and Fcral Man,New yrok,Harper,1939''が あ る。 さて,Avcyronの 野生 児 ViCtOrが Itardの も とへ 連 れて こ られ た時, この若 い 医師 は,PinCl の診 断 によ る不 可逆性 (irrる VCrsibilitO)の 予見 を認 め る ことはで きなか った。 Itardは , この少 年 は社会 的教育的 に無 視 され たため,精 神 的 に発 達 が停止 を うけ,孤 立 によ って 白痴 とな った もので あ り,一 種 の不使用か らの精神的退化 (atrOphiC mcntale)と な った もの と信 じて いた。 Itardは F`野 , 蛮か ら文 明へ , 自然生 活か ら社会生 活へ "少 年 を移す ことを試 み た。 そ こで Itardは この少年 の 教育 に,五 大 目標 を設 定 した。 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 10巻 第 1号 1,少 年 が最 近 までつ づ けて きた野生 の生 活 によ く似 た ことを させ , 86 この少年 によ り適 した社会 生 活 を させ る こ と。 2.種 々強力な刺激 を与 えて ,少 年 の神経 の感受 性 を興奮 させ た り,観 念 の生 の 印象 を与 え る こ と。 3.新 しい欲求 を起 させ た り,周 囲 の世 界 との関係範 囲を広 げ る こ とによ って,少 年 の観念 を拡 大 す る こと。 4.模 倣 せ ざ るをえな い必要性 をつ くって , コ トバ を使用 す るよ うに仕 向け る こと。 5 成長 に ともな う身体 的欲求 を満足 させ るよ うに適応 させ ,そ れ か ら教育 の 目的 に 自分 の知 能 を適 応 さす よ うに仕 向け る こと。 Itardは 五 年 間努 力 した。 しか し,彼 は 自分 の 目標 を達成 させ る こ とはで きなか った。 この少年 が ,思 春期 の F`野 性 的な情熱 の暴風雨 "を 起 した時 ,Itardは 自分 の使命 を果 し得 な い と感 じて 断 念 す る こ とに した。 ViCtOrは 長年 ,管 理保護 の もとに生 きて い たが,1328年 遂 に 死 亡 した。 しか し,フ ラ ンス科学 アカデ ミーは,Itardの 努力 を賞 讃す るばか りでな く, その少年 が,初 め は もの を言 わず ,四 肢 で 歩 き,地 面 に四つ ん這 い にな って水 を飲 み, 自分 の行動を妨 げ るものにか みつ いた り,引 っ掻 いだ りして い た ものが,著 しい変化 を した とい う事実 を賞讃 した。少年 は物 を 認知 し,ア ル ファベ ッ トの文 字 を見分 けた り,多 くの単語 の意 味を理 解 した り,物 や物 の部分 にそ の 名前 を合 わ せ た り,比 較的 す ば らしい感覚的識別 を した りす る ことを学 習 した り,ま た野生 の 孤 立 した生 活 よ り文 明 の社会生 活 へ なれ させ た。 ア カデ ミーは, Itardが 教育 科学 に積極 的 に貢献 し た ことを認 めた。 すなわ ち,Itardは 重度 の精神薄 弱 で も,適 切な訓練 によれば, あ る程度 まで改 善 させ る こ とが で きる こ とを証 明 した。 アカデ ミーか ら出され た声 明 の一 部 には,ア カデ ミーは,彼 の授業 ,練 習 ,実 験 に, これ以上 の 英知 ,明 敏 ,忍 耐 ,勇 気 を要求 す る ことは で きな い。 また,彼 がす ぐれ た成 果 を おさめ られなか っ た として も,そ れ は不熱心 とか 才能 が足 りなか った ことによ るので はな くて,働 きかけた被験者 の 器 官 の不完全 な状 態 によ るもの と思 われ る。 さ らにア カデ ミーは, Itardが な し得 た限 りで の成 功 につ いて も目を見 張 って い る し,ま た彼 の努力 の真 価 を評価す るため には,そ の子 ども 自身 だ け で 比 較 され るべ きで あ ると思 う。 その少年 が,医 師 Itardの 手 に委 ね られ た時 は ど うで あ った かを 思 い 出 し,現 在 その少 年 は ど うで あるかを見 る必 要 が あ る。 そ して,多 くの新 しい工 夫 に富 んだ教 育 方法 によ って, このギ ャップ は埋 め られ て い った。 Itardの 報 告書 は, す ば らしく明敏 な観 察 に よ る,き わ めて 珍 らしく興 味 の深 い現象 の, 一 連 の解 説 を合 んでい る し, 学問 に新 しい資料 を与 え,少 年 の教育 に従 事す るす べ ての人 々に,き わ めて有用 な知識 を与 え る授業過程 の結 びつ きを提 示 して い る。 とい う内容 の ものを発表 して い る。 大石純悟 :精 神薄弱児教育の諮問題 (3) Johann Jacob Guggenb Guggenbuhlは ,1816年 3月 16日 131 hl (1816-1863) ス イ スの Zurich湖 のほ と り Meilcnで 生 まれ た。 医 学 生 の 時 ,医 師 で あ り哲学者 で あ った Ignaz Paul Vitals Troxlerか ら説 切 され た Crctinism(ク レチ ン病 ) に興 味を ひかれ た。 TrOXlerは ,ク レチ ン病 を一 種 の風 土 病 的な人間 の変性 と論 じ, この病気 に罹 患 してい るものに, 何 らか の方 法 が と られ て もよ い とのべ た。 1836年 ,20歳 の Guggcnbuhlは U , 州 の SCCdOrfの 村 を通 った時,路 傍 の十字架 の前 で ブツブツ言 い な が ら神 に祈 って い る馬鹿 づ らを した,背 の小 さい,び っ この ク レンチを 目の あた りに見 て ,強 く心 を動 か され た。彼 は近 くの 屋 にはび っこの母 親 がいた。 彼 女 は, この子 は幼 少期 に祈 りを教 え 小屋 までその男 に従 った。 珂ヽ られ ,そ れ以来 どんな天候 で も,毎 日同 じ時刻 に きま ってそ の十字架 の前 で祈 りを 捧 げ に行 ってい る ことを話 した。彼女 は極 めて貧 しいため,彼 にそれ以上 の教 育 を うけ させ る こ とはで きなか った し,ま た年 毎 に悪化 す る彼 を見 つ めなが ら,空 しく坐 して い ると付 け加 えた。 この若 い医者 は,一 貫 した徹底 的な訓練 を うけ る機会 が あれ ば, もっとよ くな るので はな いか と考 えた。彼 は 白痴 の子 供 た ちに,ど の よ うな改善 され た努力を払 って も,全 く効果 が あが らな い とい う従来 の考 え方 を し な か った。彼 は, ク レチ ン病 に関す る文献 を入念 に調 べ,症 候学や病 因学 に関す る論文 を多 く発見 した。 と ころが,治 癒 的な試 みの可 能性 につ いては一 言 も発見 で きな か った。 Guggenbuhlは ,彼 の生 涯 を ク レチ ン病 の治療 と予防 に捧 げ る こ とを決 意 した。 当時 ,世 界 中で 精 神 欠陥児 の教育 と医学 治療 のための居 住施 設 (rcsidCntial arrangcment)1ま ど こに もなか った。 二 三 の初歩 的な試 み は,遠 く彼 の理 想 に及 ばな い もので あ った。 しか し,GuggcnbiHは 失望 しな か った。彼 は ク レチ ン病 の状態 ,出 現 ,そ の原 因 につ いて,で きる限 りの観 察 か ら学 ぶ ため,ク レ チ ン病 の影響 を うけて い る地域 へ幾度 も訪 れ た。 さ らに彼 は, 治療 経験 を 徹 底 的 にす るため , Glarusの Kleinthalに 普 通 の開業 医 と して定住 した。 彼 はそ こで, 適 切 な環境 内での居 住治療 は 必要欠 くべ か らざ るもので あ るとい う結論 に到達 した。彼 は また,教 育分野 におけ る経験 を必要 と す る ことを悟 って ,23歳 の時 ,1799年 に設 立 され た HOttylに あ る代 表 的な教育施設 の設立者 Philip Emanuel von Fcllcnbcrgを 訪 れた。 Fcucnbcrgに 激 励 され た Guggcnbuhlは , 患者 たちか ら望 まれな が らも開業 を断念 し, 1839年 施設設立 の仕事 に着手 した。 “神 は私 に, も う一つ の道を選 びた も うた。 私 は神 の声を 聞 かね ばな ° らな い "と して, 多 くの人 に救 い もた らす準 備 に入 って い った。 彼 の理 想 には批判 もあ った。BCrneの 新 聞は特 に辛棘 で あ った し,軽 率 な幻想 と してそ の計画 を ,権 威 あ る支持を うるべ きで あ ると感 じ,“ Christenthum und Hu‐ Crctinismus"と 表題 をつ けた感動 的な請願 を, ス イス 自 然 科 学 学 会 嘲 った。 そ こで Guggecnbuhlは manitat im Blick auf den (SChWCiZCrishc Natur sttnchattlichc OcsellSC4aft)へ 提 出 し た 。 こ の 学 会 は ,つ ぎ の よ う な 審 議 の結論 を下 した といわれ る。 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 “確 か に ク レチ ン病 が固定 しな い幼少期 に, 85 この哀れ な病 気 に治 療 を進 め る ことは非 常 によい こ とで あ る。 GuggcnbuH博 士 の学識 と熱意 は,彼 が計画 す る病 院 の院長 とな るので あれ ば,:こ の 事業 の成 功を保 障す るだ ろ う。 " この計画 は,刑 務所 や救貧 院 を コロニ ー に代用 させ る ことを主 唱 して きた スイ ス の森林学者 で あ るKarl Kashottr(1777-1853)の 注意 を引 いた。彼 は施設生 活 の耕 作 と今 後 の コロニ ー化 (C。 10‐ nizaSon)は ,高 い山岳地域 で 可能 で あ る ことを 明 らか に した。 谷 間 に多 い ク レチ ン病 は,高 地 ほ ど多発 して い る ことが知 られ て いなか った ことを考 えて,頂 上 か ら1000フ ィー ト,海 抜4000フ ィー ト以上 あ るベル ン州 内 の htCrlttken市 の近 く Abcndぃrgに 40ェ ー カーの土 地 を Guggenbuhlに 提 供 した。 まもな く南 の斜面 には住宅 が点在 す るよ うにな り,月 々の奉仕 は Diakonissenす なわ ち 慈 善伝導 修道女 団 (Evangclical Sisters of Mcrcy)に よ ってな され た。 そ こは, 大集会 ホール,遊 戯室 ,入 浴設 備 の あ る中央館 があ る し,そ の他 の建物 は付 添人や教 師 た ち のための 訓練所 と して計 画 され た。 Guggcnbuhlは ,ぁ らゆ る有 益 な手段 で患者 た ちを更生 させ るため全 力 を 傾注 した。 彼 は第一 の 必 要条件 と して,清 らかな山 の空 気 ,そ れ に当時 の 自然美 との治療効果 を,詩 的な コ トバ で激 賞 し た ,文 字通 りの新 ロマ ンチ シズ ム (neo― rOmanticism)を 考 えた。 彼 は,よ い食 事 といわれ るもの は ,山 羊 の ミル ク,白 パ ン,タ マ ゴ,野 菜 ,米 ,そ れ に若千 の 肉で あ るとい う ことに 注 意 を 与 え た 。彼 は入浴 ,マ ッサ ー ジ,そ れ に身体 的訓練 によ る体 の治療 に重 点 を お いた。 また種 々の薬物治 療 ,特 に カル シ ゥム,銅 ,亜 鉛 な どの調 理 を試 みた。 同時 に感 覚的 な知覚 を発展 させ るた め,原 始 的 な興奮 を起 こさせ ,そ こか らよ り洗練 され た,ま たよ り複雑 な刺激 へ 進歩 させ よ うと した。 彼 は , ``不 死 の魂 は 本質 的 に人 と して生 まれ たあ らゆ る創造物 に 同 じよ うにあ るも "と い う確 信 を もっ て 進 めて いた し,ま た規 律的な 日常生 活,記 憶 の訓練 ,そ れ に話 しコ トバ の訓練 な どに慣 れ さす こ とによ って,患 者 の魂 を 目醒 め さそ うと した。 このよ うな仕事 は,大 きな改革 と して,あ らゆ る所 で歓迎 された。 ク レチ ン病 の発生 しな い地域 で さえ,そ の熱意 が高 ま った ことは,一 見 奇妙 な感 があ る。 しか しこの 当時 は,ク レ チ ン 病 と白 痴 ,痴 愚 の類 を 同 じもの と見 て いた し,そ の差別 は, その程度 , 奇形 の有無 に あ った。従 って , Abcndbergの 方法 では,あ らゆ る精神薄 弱児 た ちに も適用 され るもので あ った。 Guggenbuhlの 名声 は,た ちま ち文 明諸 国 に拡 が った。彼 は多方 面 の旅行 で, 自分 の考 えを普及 させ た り,ま た多 くのパ ンフ レ ッ トに Abcndbergを 公表 した りして, 物 質 的 に補 助 され た ことも 事 実 で あ る。彼 は,好 意的な有名人 か らの保証 を うけ る ことには躊躇 しなか った し,ま た彼 の通 信 に は, これ ら有名人 へ の讃辞 を惜 しまなか った。有名 なオ ース トリアの詩人 ,医 師 ,哲 学者 ,そ れ に教育改革者 で あ る Ernest Freiherr vOn FcuChtcぃ lCbenの 通信文 を 引用 した りした。 す なわ ち “つ ぎつ ぎに送 って くるあな たの簡単 な報 告 は, この仕事 につ いての啓 蒙 を必要 とす る一 般大 衆 に有益 な ことで あ るのみな らず ,非 常 に必要 な ことで あ る。報 告 の 内容 は,大 衆 の注 目を 引 い 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 (31 た り支持 を得 た りす るため,心 や考 えを つ か む 関連 の あ る目的 を はたす ため正 しい こ とで あ る。 Abendbcrgは ,確 か に この重要な 問題 に関 して,あ らゆ る努力 と研究 の 中心 と して見 られね ばな らな い。幸 多 く, この仕事 を続 け られん ことを ''' また Guggenbuhlは ,Bonncの 精 神 医学 者 Christian Fricdrich Nassc(1773-1851)か らの , つ ぎの通信 を多 くの 読者 に紹 介 してい る , ``貴 殿 が事業 を は じめて以来 ,私 は うれ しい思 いで, その成 りゆ きをながめて きま した。 …… 私 は,貴 殿 の情深 い施設 の 目的が立派 に成 功 す るだ ろ う こ とを確 信 してい ます。 これ ら病人 を救 けよ うとす る思 いが誰れ に も起 らな い間 に,希 望 もな く生 き続 け てい る多 くの不 幸 な人 た ちに , 決定 的な第一 歩を歩 み 出させ る こ とは,ま こ とに価値 の あ る こ とで あ ります。 " か くて Abcndbergは ,各 国 か らの医師,慈 菩家 , 作家 た ちの参観 地 とな った。彼祭 は帰 国す る と, す ぐさま輝 か しい報 告 を発表 した。 ベ ス トセ ラーの小説 や旅行記 の 著 者 で あ る Ida Hahn― Hahn伯 爵夫人 (1805-1880)に は,精 神病 的 な夫 との離 婚 の年 に生 まれ た 白痴 の娘 が いた。彼女 は Abcndbcrgの こ とを聞 き,そ の地 を訪 れ ,非 常 な感 動 を うけ,相 当な金銭上 の寄付 (7′ 50oス ィ ス・ フ ラン)を 行 な った。 1843年 , 彼 女 はベル リンで一 冊 のパ ンフ レッ トを 出 版 した。 また, Samucl Cridley Howcは , ァメ リカに最 初 の 白痴 の地設 を Massachuscttsに 設立 しよ うと して , Abendbergを 祝察 した。彼 は Abcndbcrgに 圧 倒 され てつ ぎの よ うにの べ てい る。 ('The holy mount it shOuld be callcdl'' (そ れ は聖な る山 と呼ぶ べ きだ !) と。 事実 ,訪 間者 の多 くは,た だ Guggenbunを 称 讃す るだ けでな く, それ ぞれ の国 の政府 や市 民 に,同 様 な施設 の建設 を力 説 した。 Sardiniaの 工 で あ る SavOy家 の Charics Albcrtは ,本 国 におけ るク レチ ン病 の研究 のた め委員 を任命 した。 1848年 に発表 され た報告 によ ると,Abcndbergは モ デル として推せ ん され, Guggc‐ nbuhl lま “不幸 な ク レチ ン病 患者 の最 も尊敬 す る憐憫 の情 に感動 させ られた "人 としての べ られ て い る。 ゼ ノア (Geneva)の 精神病 医 で あ る Louis_Andcr Gossc(1778_1851)は ,同 年 に,同 様 に Guggenbinを ,“ われ われ は,彼 の純粋 な考 えや真実 の主 張 に確 信を もった。 "と 認 めて い る。 GuggenbuHは ,特 に英 国 において相 呼応 す るか の如 き反 響 を知 った。 Abendbcrgは ,1842年 9月 4日 ,William Twiningの 訪 間を うけた。 TWiningは ,帰 国 して発表 した論 文 の 中で , ``人 間 の尽 力 によって, 心 は,明 らか に感覚 な き ものた ちを 目醒 め しめ る し,ま た教育 も,教 え る望 みな き もの と考 え られ た り,仲 間 た ち と交 わ る こ とが で きない と考 え られて いた ものた ち に拡大 され るだ ろ う。 これか ら一 世紀 の間 に,全 ヨー ロ ッバ か らク レチ ン病 を根絶 す る こ とにな った と記録 され るな ら,ス イスの歴史上 ,輝 か しい光栄 あ るペ ー ジ とな るで あ ろ う。 " と賞 讃 を お くってい る。 上述 の知名人 の讃辞 か らもうかがえ るよ うに,Guggenbuhlは , この時代 におけ る国際的 な有 名 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 人 とな って いた。彼 の 国際的地位 は,SWiSSの 自然科学会 ,Zurichの 外科 医学会 , ViCnnaの 王立 医 師会 ,Turinの 医学会 , St,Petersburgの ロシ ヤ医学会 , BOnneの ライ ン自然 科学 と医学会 , Erlangcnの 医学会 ,Badcnの 国立医学会 , Marscillcsの 国立 医学会 , Strassburgの 医学会 , な どの名誉会 員や客 員 とな って い る こ とに よ って も うかがえ る。 したが って,Abondbcgの イメー ジ を 型 ど り,ま た Abendbergで 訓練 され た人 た ちを職員 と した施設 が, ドイツ, オ ース トリア,イ ギ リス,ネ ザ ー ラ ン ド,ス カ ンデ ィナ ビア諸 国,ア メ リカ,そ の他 の 国 で設立 され た。 Guggenbuhl は,諸 処 へ 講 演を した り,相 談を うけ るため に 出か けて,尊 敬 と崇拝 の祝辞 を受 け, これ ま で顧 み られなか った一部 の人 た ちに,新 しい生 活 の福音 を もた らした人 と して知 られ るよ うにな った。 しか し,Guggcnbuhlに 対 して は,最 初 か ら批判 の声 もあ ったが,長 い間 の各 方面か らの讃辞 に よ って溺れ させ られ ていた。Auzouy,M。 は,当 時 の こ とにつ いてつ ぎの よ うに の べ て い る。 “幾人 か の非 難 す る人 があ って も, これ らの人 たちは,輝 か しい彼 の栄光 の前 には, とるに足 りな い もの ばか りで あ った。 " (``Stl Cut quclqucs d′ ctracteurs, ccux― ci nc Furent quc dc lё gё rcs touchcs dans lc solcil, brilhant alors tout son 6clat") 国王 ,有 名 な作家 ,医 者 ,宗 教改革者 ,そ れ に知 名 の士 は競 って彼 の栄誉を たたえた。 しか し , あ る人 た ちは,Guggenbuhと が ぁま りに も多 くの ことを 約束 し過 ぎ ると感 じた。彼 はほ とん ど, 自 分 の意志 を神 の意志 と同一 視 し,誇 張 した感動的態度 の興奮 が あ った。従 って,彼 が医学研 究誌 に 発 表 した論 文 に,“ ス イ ス は,祝 福 され た理 想実現 において , 他 の国 よ り先 きに異彩 を放 つ よ う神 の 国 によって選 ばれ た。 ''と い うよ うな ことを導入 してい る し,ま た,神 の慈悲深 い奇蹟 の一 つ と して Abcndbcrgが 与 え られ, 自身奇蹟 を行 な う選 ばれ た人 と してのべ てい る。 結 局 ,白 痴 の子供 た ちは彼 ののべ てい るよ うな方 法 で は治癒 す る ことはなか った。人 び との不 満 は,見 る間 に CuggenbuhIに 対 す る憎悪 に転化 した。 彼 は擁護者 たちが ます ます少 くな って い く の を知 った。 1853年 の初 め彼 は,自 分 の星 が天 空 に しっか りと座 位 を 占め る ことので きなか った こ とを知 りは じめた。 彼 の決定 的な挫折感 とな った最 大 の力 は, か って英 国 の大 臣 だ った Gordon が,首 府 BCrncに きた ときで あ る。 Abcndbcrgに は, Gordcnが 彼等 を訪 ね たのは 1858年 4月 13日 2, 3人 の英 国 の患 者 が収 容 され て い た。 の こ とで あ る。 COrdonは ,無 視 され た よ うな 最 悪 の状 態 にあ る子供 た ちや ,胸 の悪 くな るよ うな悪 い設 備 の全施 設 を見 た。彼 が一 人 の子 供 に寝室 を見 た い とい った時 ,そ の子 供 は ``部 屋 に入 るカギ を置 き忘れ た"と 答 えた。 Guggenbuhlは そ の 時 ,前 年 (1357年 )の ■月 か ら長期 の旅行 に出て い たので留守で あ った。GordOnは ,ベ ル ン州 の 当局 に 自 分 の 印象 を報 告 した。 管 理不行届 の噂 は, しば ら くの間 に広 ま って い った。以前 か らの崇拝 者 の多 くは,彼 の保証 を撤 回 した。GordOnの 申 し立 て には,特 に不 愉快 な 出来事 が あ った。一人 の 患者 が 崖 か ら落 ちたが,患 者 の失踪 は農 夫が暫 くた ってか ら,そ の死体 を発見す るま で気 づ かず にいた こ と。 ま た一人 の子供 が死亡 した とき,棺 を作 るため に呼 び寄 せ られ た大工が,腐 敗 した状 態 の死体 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 131 を見 た と報 告 した こ とな どであ った。従 って GordOnが 慣 りを表 明 した 時,州 当局 は,直 ちにVOgt と VCrdatの 2人 の 医師 に公 的な調査 (Apri1 20,1858)を 命 じた こ とは 当然 で あ る。 rDcs Abcn― dberg wic cr ist''の パ ンフ レ ッ トに, これ らの公 的 に,作 成 され た真 相 がの べ られ てい る。 1.Guggcnbuhlは , 自国や他 国 で,彼 の施設 を ク レチ ン療養 施設 (Kretincn― Hcilanstalt)と 呼 んで ,多 くの人 を欺 いて ぃ た。 ク レチ ン患者 は収 容者 中,精 々 きで あ った。彼 は ク レチ ン患者 を癒せ るもの と してい るが,そ れ は密 か に普通児を入所 させ てい るか らだ, とまでパ ンフ レ ッ トは非難 して い る。 2,普 通児 た ちは,Abcndbcrgに 収 容 されて,公 立 学校 に登 校 させ なか った。 3.た だ一人 の ク レチ ン患者 も,Abendbcrgで は治療 した こ とがなか った。 4.Guggcnbuhlは ,は じめ幼児 の ク レチ ン患者 を収 容す るよ うに のべ ていたが,23歳 まで の人 を収容 して い た し,ま た 5歳 以下 の幼児 は一 人 もいなか った。 5,医 学 的な監 督 が行 なわれ てい な か った。所長 は毎年 5ヶ 月 か ら 6ヶ 月 間留守 で あ った し,ま た代 理 者 を置 いて いなか った。 6.最 初 Guggcnbuhlは ,十 分 訓練 された指導員 を採用 した し, 彼等 の 中 には, 他 の新 しい施 設 に移 って立 派 に仕 事 につ いて い るが, Abendbergは , 数年 間一 人 の教 師 もいないままであ った。調査 の時 には,所 内 に無 知 な農 婦 が 2人 しか いなか った。 7.暖 房設 備 ,栄 養 ,水 の補給 ,寄 宿舎 内 の換気 ,そ れ に衣服 は不適 当であ った。 3.所 長 は,施 設 に寄付 され た書物 もな く,誰 れか ら受 けたか の 明細 な説 明 もで きなか った。 9・ 患者 の治療 進行状 況 に関す る記録 は保 管 されて いな か った。 このパ ンフ レ ッ トは,Guggcnbuhlが 純粋 な利 他的愛情 の計画 か ら始 めた もので あ る こを と認 め てい るが,ク レチ ン病 と,神 聖な原 因 による誤 った殉教 者気取 り,治 療結果 の潤色 ,そ れ に宗 教 的 情操 の利 已的利用 とを結 びつ けよ うとす る虚栄心 によ って,間 もな く不純 な もの にな った ことを 遺 憾 と して い る。 調査 の結 果 ,ス イ ス 自然科学学会 は, その後援 と支 持 を撒 回 した。 Abcndbcrgは その後 , ヨー ロ ッパ や アメ リカの各地 に施設 が設立 され始 めた 頃 に,一 時 閉鎖 され た。 Guggenbulは MOntreauに 引 き こもって,未 婚 のま まただ一人 暮 らした。 その末 路 は不遇 で あ った。彼 の末 期 は,ウ ィー ンの医学研究誌 (1860)ゃ ベル リンの 医学研究誌 (1862)に か い論 文 編 を発 表 した に とどま った。 1863年 2月 2日 GuggenbuHは 年 令47歳 を もって示 寂 した。Abendbcrg は,1867年 に売 られ,避 暑地 の ホテル に姿 をか えた。 そ の後 ,19世 紀 にお け る Encyclopcdiaに は , その地 に酪農 場 の設 立 され た こ とを記 載 して い る。 Guggcnbunの Abendbcrg経 営 は,失 敗 に終 った こ とは事実 で あ るが,彼 の著作 を熟 読す る と, 疑 い もな くク レチ ンの 治療 の可能性 に,真 心 こめた信念 を書 きつ づ って い る。 しか し彼 の信念 は保 証 されなか った。 彼 の旅行 は,必 要 な管理的責 任感 をそ らせ る こ とにな ったので あ ろ う。彼 の不 在 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 99 中 は継 父 に委 ね られて いたが ,長 期 にわ た る不在 の間 に,そ の地位 を失墜 す る こ とにな った と思 わ れ る。 しか し,Guggcnbumは , 精神薄弱児 のための施 設保護 の考 え と実践 の先駆者 と して認 めねばな らな い。今 日存在 す る数百 の施設 は Abcndbcrgか ら派生 した もので あ る。 以上 の 点 か ら Guggcnbuhlに 対 す る態度 は, 二つ の段階 を経 て き て い る。 その第 1段 階 は , 1840年 か ら1850年 の 中頃ま でで,そ の時代 の優 れた医学 者 やそ の他 の科学 者 たちによ って与 え られ た崇拝 に近 い賞讃 に値 す る人物 で あ った 時期 ,第 2段 階 は,約 20年 間続 いた ``欺 嚇 でなか つた''い ,詐 欺 師,ヤ ブ医者 ,山 師,横 領者 ,偏 屈者 な ど と創設者 の人 格 を傷 つ け るよ うな記事 で満 た された時期。第 3段 階 は,憎 悪 が 冷 め,歴 史上 の彼 の わ ゆる ク レチ ン療養所 (Krctincn‐ Hcitanstalt)と 地位 が,最 初 の偶像視 でな く,ま た衰 え る ことのない非 難 でな く,き び し く評価 され る ことのな く な った時期 で あ る。 この よ うな態度 は,つ ぎ の二つ の 引用 によ って 最 もよ く例証 され るで あろ う。 すなわ ち,HCinrich Mathias Scngelmann師 約 の後 で (1821-1899)は ,Guggenbuhlの 事 業 の 簡単 な要 , “その人間 につ いて判 断を下 す べ きでな い。弦 の糸 がその強 さ以上 に張 られた。 多 くの ことが 約束 され過 ぎた。 ・……彼 の穏 健 な判 断を弱 くしたのは,追 従 のお世 辞 で あ った。 これ に加 え る に,彼 が Abcndbergか らのたび重な る不在 の間 に悪 弊 が生 じていた こ とで あ る。後 にな って , ひとたび疑惑 が生 じると,初 め寛大 な態度 で黙許 されていた彼 の宗 教的意 図 も, これ らの悪弊 の 源泉 として見 られ るよ うにな り,彼 は不 当に偽善者 と して 印象 づ け られた ''。 また,1904年 ,Martin,W.Bttrrは るため最 善 を つ くした。 Bttrrは ,先 導者 と して の GuggcnbuHの 意義 に, 尊敬 を回復 す , “彼 の方法を吟味 して見 ると, 概 して近代経験 の要求 に合 って い る し,ま た近代経験 によって 是認 され てい るので ,わ れわれ は ク レチ ン病 その ものの献 身 的な研 究 において , この人 によ って 得 られた深 い識見 は認 めな いわ けには いか な い。 ただそ の識見 は詳 細 で あ るばか りで な く,広 範 囲な ものでな ければな らな い。彼 は比較 的狭 い範囲 で 苦 心努 力 した し,ま た今 日の大規 模 な施設 で あ る コロニ ー計画 を予想 した ことは,賞 讃 されねばな らな い。歴 史 は,Guggenbuhlが 一っ の 仕事 に彼 の生 涯 の最良 の歳月 を捧 げた こ とで ,先 駆 者 たちの中に彼 の名前 を位 置 づ け るための仕 事 を,遅 まきなが ら果 たすだ けで あ る。 " (4) コdo■ ard onesi】nus Seguin (1812-1880) Scguinは ,1812年 二月 20日 に フ ラ ンスの Clamcyで 生 まれ た。 彼 は Auxcrrcの 高等 中学校 とパ リーの St・ Louis高 等学 校 を卒業 し,つ いで Itardの もとで 医学 や外 科 医術 を研 究 した。 Itardは 彼 に,白 痴 の研 究 と治療 に献 身す る ことを勧 めた。彼 は Itardに 十分 な恩 義 を感 じたが,個 人 的な 人間 関係 を越 えて研究 を進 めた。 当時 は,た しか に彼 を勇気 づ けた良 き指 導者 や 白痴教育 を支 え る 大石純悟 :精 神薄弱児教育 の諸問題 俗 ) 原 理 の必要性 を感 じた。精神病 医 の指導 か らそれ を期待 す る ことはで きなか った。彼 が 指導 を求 め た偉 大 な る精神病 医 JCan Etiennc Esquirolは ,“ 最短 期 間 で も, 不幸 な 白痴 に理 性 や知性 が授 け られ る方法 がな いため,教 育 的努力 は無駄 で あ ると"宣 言 された。 この よ うな悲観論 に も意気 を阻喪 させ なか った SCguinは ,25歳 の 1887年 に,一 人 の 白痴少年 の 教育 に とりかか った。彼 はその 白痴少年 が “ 自分 の感覚器 官 を うま く使用す る こ とがで き,記 憶す る ことや話 す こ と,比 較 す る こ と,算 え る こ とな どがで きるよ うにな る"ま で の 18ヶ 月間 ,着 実 に たゆまず 努力 した。 Esquirolは , 3月 18日 この 冒険 的 な試み の成 功 を証 言 す る第一人 者 で あ った。 1339年 ,彼 は (Esquirol)そ の 白痴少年 を “白痴 のよ うに思 われ る子供 "(un enttnt… semblablc a un idiOt)と の べ る こ とによ って,微 妙 に 自己の立場 を弁護 しなが ら,SCguinの 功績 を認 めた声 明を 出 した。 も しわれわれが,白 痴 に何 も指導 す る ことがで きない と決 めた場合 で も,白 痴 の状態 が改 善 され たな らば,そ れ は “白痴 らしい もの"(a scCming idiOt)で ぁ った と い う こ とによ っ て,顔 を立 て る こ とがで きる。 そ うで な けれ ば Esquirolは ,“ 望 ま しい教育体 系 を立案 す る こ との で きる"人 と して,Seguinを 是認 す る声 明文 を結 んだで あろ う。 Scguinは ,廃 疾者救護所 (L′ Hospicc dcs incurablcs)ゃ を治療 し始 めた。 1842年 10月 2日 告 す るよ うに命 じた委員 会 で Bi∝ treの 収容所 で,多 くの子供 た ち ,パ リーの病 院管理協 議会 の開会 で, SCguinの 努 力 の結 果 を報 , (1)SCguinが 廃疾者救 護所 で,非 常 に効果的 に適 用 され てい る教育方法 を 続 け る こ とを求 め るべ きで あ る こと (2)救 護所 長や精神病 医 は,SCguinに よ って使用 され る方法 の 進 展や結 果 に従 うべ き こ と な どを決定 した。 1843年 12月 H日 ,Serrcs,F10urens,Parisctな どか らな る委員会 は,Seguinの 業 蹟 の詳 細 な検 査 報 告 をつ ぎのよ うにの べ てい る。 ``M.,Scguinは ,新 しい慈善 の道 を開 いた。彼 は,後 に続 く価値 あ る範例 を,衛 生学 ,医 学 倫 理 学 に与 えた。従 って,わ れわれ は この協議会 に提 出 された報 告 によ って, , M.,SCguinに 感 謝状 を書 いた り,彼 の慈善的な事業 を激励す る こ とは光栄 であ る。 " 1844年 ,パ リー科学 アカデ ミィーの委 員会 は,10人 の 白痴児 を試 みよ うとす る Seguinの 要 望を 認 め,彼 はあ き らか に,白 痴教育 の 問題 を解決 した と言 明 した。 SCguinは ,彼 の 後期 の著 作 で , 自痴教育 の基礎 がため とす るため,す べ ての施設 の一 対 の上 台 と して, 1842▲ 年 と 1343▲ ▲ 年 の研 究 報 告 を参照 させ た。 1846年 ,Seguinは 規範教本 を発表 した。 それ はア カデ ミーか ら栄誉 を授 け ら れ た し,ま た 彼 が,1人 間性 に報 いた奉仕精神 に感 謝 して,法 王 Pius IXか ら著者 に親書 が もた らされ た。 この著 ▲ ▲A Th`Orie et pratique de l′ ёducation de idiots.「 Fwo parts. Paris, Bailliere. 1841 and 1842. Hygiene et ёducation des idiOts, Paris, Bailliё re, 1843. 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 10巻 第 1号 書 で,Seguinは , 白痴教育 に生理学 的教育 と道徳教育 とを結 びつ けた彼 の教育方 法 を ,詳 細 に説 明 した。彼 の教育方法 は , ,人 間や人類 におけ る機能 と して,道 徳 的,知 的, それ に身体 的能 力 を調 和 的, 効果 的 に発展 させ る手段 の総体 で あ る。生理学 的で あ るため には,教 育 はまず,生 命 その もので あ る ``教 育 は 動 き と静止 の偉大 な る自然 の法則 に従 わ ね ばな らな い。 全 ての訓練 に この法則 を 当て はめ る と , 各機能 は順 々に活動 と休息 につ かせ られ る。 す なわ ち,一 方 の機能 の活動 は他 の機能 の静上 を好 都合 にす る。一 方 の機能 の改善 はす べ て他 の機 能 の改善 に反応 す る。弛緩 の方 法 ばか りで な く , 理解 力 の方 法 もまた対照的で ある。 一 般 的 な訓練 には,と んな 瞬間 で も活用 されや す い筋 肉的 , 模倣 的,神 経 的,反 射的,機 能 を合ん で い る。 " と論 じてい る。 Seguinの 名声 は遠 く広 く広 が った し,各 国 の精神病 医たちは SCguinに よ ってな され た 仕 事 を 参観 す るためパ リーヘ 群 れ集 ま った。 しか し,丁 度 その時 ,1848年 の革命 とな り,Seguinは 新 制 度 に ついて疑惑 を もって いたため,荷 物 を ま とめて アメ リカヘ 移住 した。彼 は普 通 の 開 業 医 と し Clevclandに 定住 し,つ いで OhiO州 の POrtmouthへ 移 った。 1860年 , 短期間 で あ ったが ,ペ ン York州 の MOunt Vernonに 移 った。 1861年 には,New York市 の大学 の 医学部 が彼 に医学博士 の学位 を授与 した時,彼 はそ の都 て シル バ エ アの 白痴養護学校長 とな り, 故 国 訪 問後 には,New 市 に居住 す る こ とに決 意 した。 そ こで彼 の生 涯 の後 の20年 が過 ご され た。 彼 が アメ リカに きて以 来 ,彼 は精神薄弱児 た ち の新 しい居住 治療施設 の建設 や,既 存 の ものの改 善 な どに,相 談 役 と して主要 な役割 を演 じた。 SCguinは Samucl GFidley Howcを 1852年 の初 め 2ヶ 月間訪 れ て交 際 した。 1873年 ,彼 は ViCnnCで の万 国博覧会 のアメ リカの教育 委員 と して ヨー ロ ッパ ヘ行 った。 そ して子 供 の養育 ,学 校教育 ,そ れ にハ ンデ ィキ ャップ児 の保護 な どにつ いて , 現 代的観念 の 印象 につ いて,説 得力 のあ る報 告 を発表 した。 1876年 ,6人 で 白痴 と精神薄弱児 施設 医師協会 を設立す る相談 を ま とめ, Seguinは 初代 の会 長 と して選 ばれ た。 彼 の生涯 の最 後 の事業 は,ニ ュー ヨー ク市 の精神薄弱児 ,身 体虚 弱児 の生理 学的治療 学校 の設 置 で あ った。 専 門外 の興味 と して,SCguinは 医学 的検 温 に夢 中 にな って,広 く使用 され る検 温 器 を 考 案 し て,検 温についての本を発表している。その一つは,「 お母さんのための検温手引」 (1875年 ) は,一 般大衆 向 きと して書 かた ものれ で あ る。 Seguinは , 188働千10月 28日 イ こ没 した。 (5)SamuCI Gridley Howe(1801-1876) 19世 紀 以前 には,ア メ リカに精神薄弱児 を保護 す る施設 はなか った。 わず小 の試 み は,1818年 , 大石純悟 :精 神薄弱児教育の諸問題 愕 ) コ ネチ カ ッ ト (COnnecticut)州 のハ ー トフォ ド (HartFord)に ,聾 唖者 のための保護所 が, ご く限 られ た人 たち を収容 して い るにす ぎなか った。 HOWCは ,1801年 に生 まれ ,Harvardの 医学校 を1324年 に卒業 した。早 くか ら盲聾唖児 に熱烈 な 関心 を も って いた彼 は,盲 人 のため に ニ ューイ ング ラ ン ド保護 所 を設 立す るため イ ング ラ ンヘ 旅行 した。一 時 ポ ー ラ ン ド革命軍 に参加 し, プ ロシ ャ軍 に捕 え られ , ベル リンで投獄 され た。 1882年 4月 に釈 放 され た彼 は, 帰 国後 2,3人 の盲児 を父 の家 に収容 した。 陸軍 大佐 ThOmas Perkins は ,彼 の 熱意 に感 明 して,盲 人 のための恒久的 な施設 と して ,ボ ス トンのパ ール 街 にあ る自分 の家 を庭 園 を提供 した。 この施設 は,HOWeが 1876年 に没す るまで管現 した。 HOWCは ここで, 目の見 え ない ものや聾唖者 た ちの教育 に, 新 しい方法を 発 展 させ た。 しか も, 彼 の生徒 の一 人 で あ る Laura Bridgman(聞 くこ とも見 る こと もで きない)に 対 す る教育 の驚 くべ き成 功 は, 彼 に 国際的 名 声 を博 さ しめ た。 彼 は精神 に異状 の あるものの研 究 を して い る Dorothca Lyndc Dixゃ 改革 のために戦 って い る Charlcs Sumnerゃ 障害児 に対 す る lま , ,教 育 HOracc Mannと 交 際 した。 HOWeの 深 い 関心 は,精 神薄 弱児 に も及 んで いた。彼 の娘 Laura,E.Richards “盲人 や精神異常者 のため に彼 の 労力 や研究 を進 めて い る うち に,父 は 白痴 や精神 薄弱児 な ど 同類 の ものの苦 しみや欲求 に胸 を うたれ た。 もっとは っき り言 え ば″ 父 は 白痴 で あ り盲 で あ る 3人 の 子供 に,か な り成功 した経 験か ら,精 神薄弱児 や 白痴 に実 際的 な教育 の第 一 歩 を 進 め た ので あ る。父 は,``盲 で あ る白痴 に これだ け の ことがで きるな らば, 盲 で ない白痴 にはそれ以上 の こ とが で きる''と 推定 した ので ある。 HOWCに よ って心 動 か され た当時 の下 院議員 の 」udgc HOratio Boyintonは ,1846年 1月 22日 , 自痴 の状 態 を 調査 した り,そ の数 を確 か めた り,ま たその救 済方法 な どを,次 の州議会 で報告す る ため,委 員会 の任 用手続 きを提案 した。上程案 は通過 し,即 日公 布 され た。 そ こで委員会 は委 員 の 任 命 を行 ない, Judge,H.Boyinton;Howc;91man,Kimballの 3名 が選 ばれ た。 2年 後 , こ れ ら 3人 は州 の各地域 にあ る町 の事務 官 や その他責任 あ る人 に 回状 を送 り,63ヶ 町を訪 ね ,白 痴 と 宣 告 を うけた り,理 性 の欠 けた獣性 の ままに されて い る人 な ど,574人 の状態 を調査 した。 1348年 2月 26日 , 委員 たちの第一報 が提 出 され た。 そ の 中 で 興 味 あ る 2,3を 抜粋す ると,「 Massachusctts州 で は,す べ て人 が教育 の恩恵 を うけ る権 利 を認 めて い る。 …… 盲や聾 があれ ば,州 は高価 な特 殊教育 を 彼等 に与 えて い る。 しか し州 は,最 も哀 れな 白痴 を無 視 しな いで あろ うか。 州 」 は,彼 らのため に努力 しな いで,彼 等 を恐 ろ しい運命 の ままに して おか な いだ ろ うか ?… … 。 「 人道 的,科 学 的な原理か ら,こ うい う人 たちのため,学 校 を建 て る こ とによ って,彼 等 が受 け る恩恵 は非 常 に大 きい もので あ る。 そ の学校 に入 れ られ るす べ て の 白痴 は,身 体 的,精 神 的条件 を 改善 され るばか りでな く,そ の国や地方 の他 のす べ て の人 た ちが,間 接的 に利 益 を うけ る こ とで あ ろ う。 も しそ の学校 が,技 術 や能力 を もった人 によ って指導 され るな ら,そ の他 の学校 のモデル と な るで あろ う。 白痴 は力 によ って監禁 され た り,拘 束 され る必 要 のない ことが例証 され るで あろ う 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第10巻 第 1号 し,若 い者 は産 業 ,秩 序 , 自尊心 を訓練 され る こ ともで きる し,醜 悪 で不 潔 な習慣 か ら彼等 は救 い 出 され る し,エ ネル ギ ー と技 能 の指導 によ って,忍 耐 と親切 で獣性 を な くす るな どの例証 とな るで あろ う。」 2, 3の 非難す る人 もあ ったが, この報 告 は深 い感銘を与 えた。州 議会 は,10人 の 白痴児 たちの 学 習指導 や訓練 のため, 3年 間, 一 年 につ き 2/500ド ル を支 給す る ことに 同意 した。 1848年 10月 1日 , “実験学校 "と して利用す るため, パ ーキ ンス施設 (PCrkins institutiOn)が 開設 され た。 有能 な教 師,す なわ ち後 にな って,ペ ンシルバ ニ アで先 駆 的な仕事 を な した 」amCS,B・ Richardが 迎 え られた。 3年 間 の然 り頃にな って, その場所 を訪 れ た, 公立慈善施 設連合委員会 (the」 。int committcc oF Public Charitable lnstitution)は ,“ 実験 は全 く成功 した と思 われ る"と 報告 し, また学校 は恒 久 的な基礎 づ けをせ られ るべ きで あ ると提示 した。施設 は,マ サ チ ュセ ッ ト白痴精神薄 弱児 学校 の 名前 の もとに統合 され た。快 適 な用地 が 1855年 ,南 ボ ス トンに選 定 され た。子 供 たちは PCrkins施 設 か ら ここへ 移 され た。 HOWeは 毎 日巡 視 した り,入 学 の ための志 願 者 を検 査 した り,職 員を雇 用 した り,食 事 ,摂 生 ,規 則や規定 , しつ けや訓練 を定 めた。 1887年 , この学校 は Walthamに 置か れ た。最 も功 績 の あ った校長 の功 労を認 めて,現 在 は WaltCr E.Fcrnald州 立学校 と して知 られ て ↓`る。 HOWさ は彼 の多忙 な生 涯 の末 期 まで,盲 人 ,聾 人,精 神異 常者 ,精 神薄弱者 な どに対 す る保 護教 育 だけでな い。 障害児 教育 の ための海外視察か ら,圧 迫 に悩む国民 に対 す る関心 も強 く,ギ リシ ャ 独 立戦 争 に従 軍 した り,ポ ー ラン ド革命 に参加 した り,避 難民 の物資救援 ,収 容所 の準 備 な ど,多 方 面 にわ た る積極 的活動 の 中 での生 涯 で あ った。 しか も,精 神薄 弱者 の訓練 や教育 は,国 民 の責 任 で あると同時代 の人 々に 自覚 させ た点 で,彼 は精 神薄弱者教育 の先 駆者 の一 人 で あろ う。 用 (1)Aegidius Forcellinus:TOtus I`atiniatis Lexicon, Prati,1865, s, v. amenS. 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