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Page 1 数えられるのか? 山陰の覇者・出雲尼子一族が居城とした月山

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Page 1 数えられるのか? 山陰の覇者・出雲尼子一族が居城とした月山
るのか ?
山陰の覇者・出雲尼子 一族が居城 とした月山富田城は、
廃城か ら400年 経 った今なお、
の
い
で
研究者 間 名城 として讃えられて る。
月山富田城 の魅力 とは一体何か ?
・
一
の
戦国史DF究 第 人者 小和田哲男氏が専 Fl家 の視点か ら徹底解説する。
三 日月 に祈 る 山 中 鹿 介 像
月山富田城内の「太鼓壇」に建つ。「願
わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と、
三日月に主家尼子家再興を祈つたという
逸話がモデルになっている。
戦国の城と近世の城が共存する
全国でも稀有な城郭
再興に自ら の 一生を棒げたそ の生き
け の山中鹿介 の本を読 ん で、尼子家
典型的な山城 であ る。
私自身、子ども のころ、子ども向
いる 一つは、尼 子 氏時 代 の戦 国 の城
私 が 、月 山 富 田城 の魅 力 と考 え て
いの舞 台 と な った のも こ の城 だ った 。
氏 と の戦 い、 さら に、毛 利 氏 と の戦
から の高 さが約 160メート ルで、
戦国史を研究す る者 にと って、月
方 に共鳴し、学生時代 から月山富 田
と 、 そ の後 の近 世 の城 と が共存 し て
1 カ国 にお よんだ と いヽ
で、実 に 1
つ。
そ の後 、 やはり大 勢 力 を誇 った 大内
山富 日城 は聖地と い ってよ い。それ
は、 こ の月山富 田城を舞台とし て西
城 には何度も足を運ん できた。研究
戦国の城を再利用しながら
近世城郭 へと改修される
日本 の戦国時代がはじま ったから で
いる点 であ る。尼 子氏 が滅 び たあ と 、
視点 で、調査 に何度か訪れ て いる。
伊勢宗瑞︶と
名第 一号 の北条 早雲 ︵
の対比 から、尼子経久 の居城と いう
16
移行 は、堀尾忠氏 が慶長 5年 ︵
し て いるが、本格的な近世城郭 への
戦国 の城を少 しず つ近世 の城 に改修
人、辞蛇毘疑が入り、
利祀川﹂の一
月 山富 田城 の全 景 ト
月山富 田城は標高 197 mの月山山頂に
主郭部を設け、尾根上に大小多数 の出輪
を配した複郭式山城である。現在、城郭
跡は国の史跡に指定されている。
尼子氏が毛利に破れ、
同城も毛利領に
)
者 にな ってから は、東 日本 の戦国大
下剋上によ って守護京極政経を逐 っ
はじめ のころは、今 のよう に整備 さ
00︶ の関 ケ原 の戦 いの論功行賞 で
第二次月山富田城の戦い(尼 子vs毛 利
永禄 9年 (1560
あ る。
て戦国大名 に のし上が った文明 配年
れ て いな いので、革 ぼう ぼう の中、
永禄 8年 (15651
)
毛
一時 、 毛 利 氏 の支 配 下 に 入 り 、 ﹁
1486︶ が西 日本 におけ る戦国
︵
蛇を心配しながら本丸ま で上が った
堀尾忠氏 は父吉晴とともに月山富
・毛呑
!連 合軍
第一次月山富田城の戦い(尼 子vs大 内
出雲 の守護代だ った尼子経久 が、
時代 の幕開けとされ、そ の経久 の居
遠江 の浜松から移 ってから であ る。
田城を近世城郭 に造り替え て いるが、
う 、 こ のような場合、古 い戦国 の城
は破壊 されたり、埋められたりす る
に選定
ことを覚え て いる。
城 は室町時代 、出雲 の守護とし て
ケー スが多 いが、月山富 田城 の場合 、
国の史跡に指定される
城が月山富 田城だ った。
近江 の京極氏が入り、そ の京極氏 の
久と、城を大きくす るとともに勢力
本丸 。二 の九 ・三 の丸 の出城部分 に
堀尾忠晴が松江城に移り廃城
城は、現在、島根県安来市広瀬町
に位置し、国指定史跡とし て整備 が
家E で、やはり近江出身 の尼子持久
を拡大し て い った。出雲 は全国有数
一部石垣
ついてはそ のまま利用し、
天文 111軍 (15421
1
進 められ て いる。比高、すなわち麓
の鉄 の生産地 であり、そ の鉄 の積出
を積 む程度 で、戦国 の城を残 し てお
尼子義久
以降、
出雲回守護代・尼子靖久が入城。
尼子氏 6代 の居城となる
までの170年 間、
名城
そ の際、尼子氏時代 の戦国 の城も残
し、再利用し て いた のであ る。ふ つ
港美保関を押 さえ、守護代 でありな
いてく れた のである。これは実 に稀
が守護代 にな って月山富 田城を居城
がら、主家 であ る守護京極氏を凌篤
し、 ついに戦国大名化 に成功した の
有な ことと いわなければならな い。
応永 2年 (1399
月山富田城の歴史
撮 影 /上 野 ま さひ ろ
堀尾忠氏が城主に
慶長 5年 Ⅲ600
慶 長 16年 (1611)
昭和 0年 (193つ
とし、そ の子清定、さら にそ の子経
であ る。
尼子経久 の時代、そ の勢力範囲は、 戦国 の城と近世 の城 の両方を同時 に
見 ることができ る城 は滅多 にな い。
東は因幡 ・播磨 、西 は石見 ・備後ま
働平景清が築城か
保元 。
平治頃H朽 6」 朽
ポイント
g
回 費と式 力 月 口
ポイント
名城
晴 にな っており 、月 山富 田城 の役 目
そ のこ ろ、城 主 は 3代 日 の堀尾 忠
いな い。堀尾氏は、どう も積極的 に
富 田城 では破城 の痕跡が見 つか って
古図は、近世城郭 へ と造 り替え
られた月山富田城を描 くが、急
富田月山城之図
勾配を巧みに利用 した縄張 りだ
つた ことが分かる。 図中央 には、
山中御殿か ら山城部分 に上がる
尼子 時代 の遺構、「七 曲 り」 が │
見 え る 。 安 来 市 教 育 委 員会 蔵
る七山 り も 、尼 子氏 時 代 のも のであ
る。本 丸 お よび 二 の丸 から の眺望 も
い い。近く に京 羅 木 山 、 遠く は中 海 、
さら に美 保 関 ま で脇 む こと が でき る。
出中御 殿 は尼 子 氏時 代 も 居館 と し
て使 わ れ て いた と 思 わ れ るが、 堀尾
氏時 代 、 つまり 近 世 城 郭 と し て の月
山富 田城 の中 枢 部 だ った と こ ろ で、
菅 谷 日から 山中御 殿 に入 る虎 日 の石
垣 は みごと であ る。
山中御 殿 の並 び に花 ノ壇 と よば れ
る曲輪 があり 、発掘 調 査 によ って掘
立柱 建 物 跡 3棟 と柵 跡 な ど が見 つか
り 、 こ のう ち 、 2棟 の建 物 が復 元 さ
れ ており 、 そ のあ たり から 眺 め る山
城 部 分 は、 いか にも戦 国 の山城 と い
った趣 があ る。
花 ノ壇 曲輸 の北 に太 鼓 壇 と よば れ
る 一画 があり 、 そ こも 曲 輪 と な って
いて、 そ こ には尼 子 家 再 興 に生涯 を
賭 けた 山中 鹿介 の銅 像 が立 って いる。
ち な みに山中 鹿介 は ﹁
鹿 之 助 ﹂ と書
か れ る こと があ る が、当 時 の文 書 は
鹿 介 であ る。名 乗 り は幸 盛 と い った 。
月 山富 田城 の城 域 で、城 下 に 一番
近 いと ころが千 畳 平 で、 に こも広 水
な 曲輪 であ る。千 畳平 の縁 の部 分 が
発 掘 調 査 さ れ 、 そ こか ら 、堀 尾 氏時
は壊さず 、そ のまま放置 した可能性
山富 田城 は廃 城 と な った 。
代 のも のと は異 な る石 垣 が姿 を あ ら
使 え なく な る よう 壊 す のが ふ つう で、
堀尾 氏 に よ る処置 であ る。廃 城 と な
った城 は、破 城 と い って、城 と し て
二 の丸 の問 の堀切 は尼子氏時代 の遣
堀尾氏 による改修 であ るが、本丸と
の丸 および 二 の丸 の石垣 は吉川氏、
さ れ る。
た 可能性 も あり 、今 後 の整 備 が期 待
と考 えら れ 、蹴瓦 を 載 せ た櫓 があ つ
し た吉 川広 家 時代 の石 垣 ではな いか
わ し 、天 正 い年 ︵
1 5 9 1︶ に入城
山上 の、本丸 ・二 の丸 ・三 の丸 の
石垣を 崩 し たり 、堀 を 埋 めた りす る
梢 で、山中御 殿から出城部分 に上が
こ こ で注 目 さ れ る のは、廃 城時 の
のが 一般 的 であ る。と こ ろが、月 山
そ のまま残 って いる。もち ろん、三
戦国城郭 の部分 は、虎 口などを含 め、
は終 わ った 。 た だ 、 そ の段 階 では支
地を構 えた。
が高 い。そ のため、現在 、廃城時 の、
つまり、城と して使 われなくなり、
隆、毛利元就が同城を
城 と し て残 さ れ たも のと 思 わ れ るが 、
攻める際にこの山に陣
支 城 主 の名 前 は伝 わ って いな い。結
そびえる京羅木山。尼
放置 されたまま の状態を目 にす るこ
子氏 と敵対 した大 内義
161
局 、 そ の4年 後 の元和 元年 ︵
京羅木 山を臨 む
とが でき ると いう わけ であ る。
月山富田城の向かいに
5︶ に ﹁一国 一城 令 ﹂ が出 さ れ 、月
と であ る。
な った 。慶 長 6
1 6 1 1︶ のこ
1年 ︵
城 を築 き 、 そ こに移 って いく こと に
、
4
2万 石 の大名 と し て 城 下 町を 造 る
には狭 いこと な ど から 、新 しく 松 江
通 が不便 な こと 、 ま た 、出 雲 ・隠 岐
り はじ めた が 、城 の位 置 が内 陸 で交
山富 回城 を 居 城 と し 、近 世城 郭 を 造
堀尾 吉 晴 。忠 氏 父子 は、
一度 、月
いる点 であ る。
廃 城 時 の道 補 が ほぼ そ のま ま残 って
月 山富 田城 の魅 力 のもう 一つは、
奇跡的に﹁
破城﹂
を逃れ、
尼子時代の遺構が残る
廃城時の遺構が現存し、
往時の面影を伝える
2
域郭エ リア
匡
曲輪 館跡
=コ
跡
敷
屋
介
鹿
中
︲
山
・伝
刻を 告げ 、合 図を送 る
太 鼓が 置 かれ た場 。
鹿介を偲び、本丸跡に
建立された記念碑。
一部が
従者 の詰所跡。
復元 ・建設されている。
出雲国風土記にも記載
がある同城 の守護神社。
月山富 田
l
i
S
0 一
の丸 石垣
山中御殿から山頂へ と上がる軍用道。
険 しく狭い尾根筋が主郭部を守る。
石垣は吉川氏や堀尾氏による改修。二
の丸は水や食糧を蓄えていたという。
0山中御殿
マ ップ/ジ ェオ
一
の丸虎 口
空一
写真提供 /安 来市観光協会
0 一
の丸と本丸 の間 の堀
攻撃兵の進撃を防ぐために設けられた
曲輪の間を切る堀 (堀 切)。
兵 らが「勢揃い」する広場。巨大な石
垣は城下町からも見ることができる。
曲輪の出入り口である「虎口」は、尼
子時代からの遺構がそのまま残る。
堀尾吉晴が壮大な居館を造営 した場所。
菅谷 回側の虎口に残る石垣は必見。
つわ も の
尼 子経 久 と 山 中 鹿 介
内 の戦 い、尼 子 対 毛 利 と の戦 いと い
つ日 にあ げ る のは 、城 が 、尼 子対 大
月 山富 田城 の魅 力 と し て、私 が 三
将 と な って山 口を 出 陣 した 。 そ の数
ぃ
1万 5 0 0 0と いう 。まず 、巌 晟 に
1年 正月 1日、大内 義 隆 は自 ら 大
文1
1
そう した 動 きを 好機 と見 て、 翌 天
大内 義 隆 にし てみれば 、陶隆 房 は
かし いと み て、持 久 戦 を 主 張 し た 。
要害 で、力 攻 め では落 と す のがむず
が地 形 を 巧 みに使 い、 し かも 天岐 の
進 論 であ つた 。元就 は、月 山富 田城
対 立 があ つた のであ る。
一つが グ ル
った 、 わ が国 を代 表 す る戦 国大名 の
渡 り 、 そ こ で戦 勝祈 願 を し 、 4月 に
周 防 の守 護 代 で譜 代家 E でも あ る。
の勢 力 の境 界 にあ た る安 芸 ・備後 お
合 戦 の舞 台 にな つて いた点 であ る。
出 雲 に攻 め こん で いる。と こ ろが 、
そ れ に対 し 、元就 は、 尼 子方 から 寝
ー プ は陶 隆 房 ︵
のち の晴 賢 ︶ら の急
城 を 攻 め る側 か らす れ ば攻 城 戦 、守
途 中 の尼 子 方 の城 を落 とす のに思 い
よび 石見 の国 衆 たち の間 に顕 著 であ
る側 から す れ ば籠 城 戦 の、 二度 にわ
のほか時 間 が か かり 、尼 子晴 久 の本
進 論 で、もう 一つは毛 利 元 就 ら の湖
た る戦 いが月 山富 田城 でく り ひ ろげ
城 であ る月 山富 田城 の近く 三 刀屋 に
った 。
られ て いた 。
義 隆 が月 山富 田城 の向 か いの京 羅 木
2
山 に本 陣 を置 いた のは何 と 翌天 文 1
年 ︵
15 4 3︶ 1月 のこと であ った 。
0月 のこと であ った 。
到 達 し た のは 1
難攻 不落 の堅 城 で、大内 軍 は城 の中
子氏 に ついて いた部 将 たち の中 から
ってき た のが大 内義 隆 であ つた 。尼
ち ょう ど そ のこ ろ、次 第 に力 を も
理由 はもう 一つあり 、 そ のころ、 大
た め、 すぐ に は戦 いにな らな か つた 。
ら の調 略 に時 間 が か か つてしま つた
が はじ ま ると ころ であ るが、尼 子 方
み
の三 刀屋 興閑 ・三溺 勅巌 ・村球 協避
部将 たち が 一斉 に月 山富 田城 に入 っ
三 沢為 清 。本 城常 光 と い つた出雲 の
大内 方 の陣 営 にあ った 三 刀屋久 扶 ・
尼子 方 から 大内 方 に寝 返 ってき て、
れ て いた最 中 の4月晦 日、 そ れま で
に攻 め込 めな い状 況 が続 いた 。
し、 元就 が い つて いた よう に、城 は
の北 西菅 谷 口 で戦 いと な った 。 し か
はじ めた 。 そ の前 に子 の政久 が死 ん
ふ つう なら ば 、 そ こ ですぐ 城 攻 め
大内 氏 に属す 動 き が見 ら れ はじ めた
内方 で、城 攻 め の方法 を めぐ る意 見
こう し た 一進 一退 がく り ひ ろげら
のであ る。特 に、尼 子 氏と 大内 氏 と
代 と な って いた 。
でおり 、経久 の孫 にあ た る晴 久 の時
尼 子 氏 は、稀 代 の英 傑 と い ってよ
0年 ︵
い経久 が天文 1
15 4 1︶ m月
に没 し た こと で、 や や かげ り が見え
返 ってき た いわ ば外 様 家 臣 な ので、
、
隆 房 の意見 を採 用 し 、 3月 4
1日 大
内 軍 によ る総攻 撃 が は じ めら れ、城
尼子対大内、
対毛利による
中国全土をかけた2度の激戦
躍した
の主要な舞台
0人 の勇士 ﹁
山中鹿介ら尼子復興に努めた1
尼子十勇士﹂
は、晴久 の代で活躍するが、本図では、経久と十勇士が
描かれる。﹁
尼子十勇士絵巻 ︵
部分と 城安寺所蔵
永禄 8年 ︵
15 65︶ 4月 、 月山 富 田城 の三方か ら
攻 め上が ってき た毛 利 軍を 義 久率 いる尼 子勢が 撃 退 。
′広
瀬 金 華 山洞 光寺 所 蔵 、尼 子
て 減 亡 す る 。 尼 子 経 久像
経 久 の次
天文 2
︲5 43︶ 3月、晴 久 ・新 官 党 ︵
1 ︵
男 国久が 率 いる精 鋭部 隊 ︶ら 尼 子軍は 、月山富 田城
9月、 再び 同城を包 囲した 毛利 軍 は兵糧 政 めを続 け 、
疲弊 した 尼 子勢 は 翌年 =月 に降 伏 、 開城 した 。
山 口 県立 山 口博 物 館 所 蔵
晴久像
の 一員 と し てこ の出 雲遠 征 に従軍 し
お こ つた 。 これ に、備後 から 大 内 軍
てし まう と いう 思 いがけ な い事 態 が
り 、次第 に表え はじ めた 尼 子義 久 と
大内 氏 ・陶 氏 に代 わ って大勢 力 と な
賢 を厳 島 の戦 いで破 った毛 利 元就 が
き た のであ る。 出雲 遠征 を はじ め て
入 り 込 ん で いる こと が危 険 にな って
方 にな った わ け で、 出雲 の奥 深く に
り 組 の本 拠 地 に残 さ れた兵 たち が敵
しき事 態 であ った。 三 刀屋 氏ら寝 返
全 に崩 れ てしま った 。
これ は、大内義 隆 にと っては由 々
大内 軍 によ る月 山宙 田城包 囲網 は完
し て いる。 山中 鹿介 と 品 川大膳 が壮
守 日 ・塩 谷 日 の三方 か ら攻撃 な 開始
万 5 0 0 0 の大 軍 で、背 谷 口 ・御 子
1 56 5︶ 4月 、 元 就 は 2
翌 8年 ︵
囲 にか かり 、城 を孤 立 さ せ 、 ついに
とす と 、翌 7年 には月 山富 田城 の包
尼 子 方 の重 要 拠 点 だ った白 距 城 を 落
臣 たち の城 を各 個 撃 破 し 、同 6年 に
1 56 2︶ から 、元就
永 禄 5年 ︵
戦 いをく り ひ ろげ て いる。
1年 以上 が経過 し ており 、兵 た ち も
てき て いた 山内 隆 通 も 同調 した た め、
相 当 疲 れ て いた 。義 隆 はそ れ 以上 の
絶 な 一騎 打 ち を 演 じ たと いう のは こ
も ど つた が、養 刷子 の大内 晴 持 は、
へ逃 げ も ど って いる。義 隆 は無 事 に
の本 陣 を 撤 し 、 石見 路 をと って山 口
あ り 、 5月 7日 、大内 軍 は京 羅 木 山
こ の場 合 、 撤 退 はイ コー ル敗 北 で
な って城 を抜 け出 し たり す るよう に
れ た籠 城 兵 が数 十 人ず つグ ループ に
め にきり かえ た た め 、飢 餓 に悩 ま さ
易 に落 ちず 、 とう とう永 禄 9年 にも
ち こさ れ てしま つた 。 元就 は兵糧 攻
範 城 兵 も頑 強 に抵 抗 を 続 け 、城 は容
の年 9月 の戦 いのと き であ る。
し かし、義 久 を はじ め 、尼 子方 の
は ﹁
尼 子 十旗 ﹂ と よば れ る尼 子方 重
城 攻 めを あ き ら め、撤 退を 命 じ て い
つ。
フ
敗 走 途 中 、乗 って いた船 が転覆 し、
なり 、士気 は阻喪 し て い った。
1月 ︲日、義 久 は元
結 局 、 そ の年 1
2
死 ん でしま った 。 こ のあ と 、義 隆 は
衰 退 の要 因 とな った のであ る。 こ の
就 に降伏 を 申 し出 、 さ しも の月 山富
全 く や る気 を なく し、 それ が大内 氏
戦 いを第 一次 月 山富 田城 の戦 いと よ
田城 は開城 と な った 。 こ の戦 いによ
って、戦 国 大名 と し て の尼 子 氏 は滅
ん で いる。大内 氏表 退 の要 因 を作 っ
った そ の威 勢 は、 そ っく り そ のま ま
亡 し た 。 か つて、中 国 一の大 守 であ
毛 利 氏 のも のと な った のであ る。 二
た のが月 山富 田城 だ った こと は注 目
そ し て、 こ の城 を舞 台 にもう 一度
度 の戦 いの外 台 と な った月 山富 田城
し てよ い。
れ が第 二次 月 山富 田城 の戦 いであ る。
ってよ い。
が そ のま ま残 って いる のは奇 跡 と い
大き な 戦 いがく り ひ ろげら れた 。 そ
陶 隆房 の下剋 上 で大 内義 隆 が殺 さ
れ、隆 房 から晴 賢 と名 を 改 めた陶 晴
尼 子 経 久 銅 像 /◎ ア マ ナ イ メ ー ジ ス
月山富 田城
経久 の時代 に戦国大名 と して独立 した尼子氏
は一大勢力を築 くが、晴久の時代 に大内氏が
台頭。義久が毛利 に降 り、勝久の 自害 によつ
尼子年
人内年
―
ド!占
J紳
並
「
Pコ に
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頭下才十尼子年
し
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田
誓
戦
胃
面
城
`
の菅谷 口で大内 ・毛 利連 合 軍を 迎撃 。翌 4月、 三刀
屋ら 元尼 子武将が 再び 尼 子 に つき 、義 隆 は敗走 。
尼子氏略系図
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