Comments
Description
Transcript
大和国吉野郡竜門圧の 「大頭入衆日謝)」 はすでに早くか ら学界に紹介
は め に 大 頭 入 衆 日 記 考 じ (1 ) 大 和 国 吉 野 郡 竜 門 庄 の ﹁大 頭 入衆 日記 ﹂ は す で に 早 く か ら学 界 に紹介 さ れ て い るも の で、 明 治 三 十 三 年 に発 行 が は 朝 倉 弘 ち 公 事 家 衆 であ ろ う か﹂ と さ れ、 入衆 に つい て は ﹁童 名 が (4 ) 大 人名 に変 は る ので あ り、 こ れ は大 夫 成 に類 す るも の﹂ と し て 、﹁大 宮 社 の宮座 ﹂の基 本 的 性 格 を明 ら か にし て いら れ る。 観 房 が興 福 寺 の衆 徒 と し て領 主 の地 位 にあ った。 これ が南 っ いで 、二年 後 の ﹁中 世 の民 衆﹂ で は、﹁竜 門 郷 で は牧 定 郡 竜 門 の項 に ﹁大 頭 入 衆 日 記 は春 日 講 の頭 を なす 順 帳 ﹂ と 朝 に参 じ て吉 野 皇 居 の護 衛 に つと め た こと は 太平 記 な ど に じ め ら れ た吉 田 東伍 氏 の ﹃大 日 本 地 名 辞 書 ﹄ 第 一巻 の吉 野 あ るが 、 こ の春 日講 に つ い て は後 述 し た い。 のな か で とり あげ ら れ て いる 。﹁公 事 家 考 ﹂で は ﹁大 頭 入衆 っい で、 永 島 福 太郎 氏 の ﹁公 事 家 考 ﹂ と ﹁中 世 の民 衆 ﹂ て い る。 前 記 の公 事 家 衆 が 名 主 層 で あ る こ と 云う ま でも な り ﹂ と 南 北 朝 時 代 ま で の竜 門 郷 の動 向 を基 本 的 に把 握 さ れ も 見 え て い るが 、 郷 内 自 治 が 名 主 層 に よ って推 進 さ れ て お (3 ) 日 記 と いう の は、 竜 門 郷 惣鎮 守 大 宮 社 (吉 野 山 口神 社 ) の いが 、 氏 は さ ら に ﹁公事 家 考 ﹂ では座 衆 の大 部 分 は ﹁百姓 ﹂ (2 ) 宮 座 の入 衆 及 び 大 頭 勤 仕 者 の年 次 歴 名 ﹂ であ ると さ れ る。 室 町 時 代 以 後 に つ い ては 、﹁牧 氏 も没 落 し た の で、他 郷 の で あ る と さ れ る。 な く 郷 座 と も 称 す べき も の﹂、 ﹁即 ち各 村 のオ ト ナ 達 の特 定 興 福 寺 の代 官 に年 貢 を 送 附 す る だ け で、 ほ とん ど そ の代官 ま た 、﹁大 宮 社 の宮 座 は 、そ の社 の性 格 か ら 単 一の村 座 で は の も の の寄 合 座 であ る ﹂ と し 、 結 衆 に つ いて は ﹁座 衆 が 即 一24一 剥 奪 し た結 果 で あ る と 考 え ら れ る。 こ の村 落 連 合 は、 いわ ら れ、 地 侍 的名 主 を 庄 屋 層 農 民 に編 成 す る し、 そ の特 権 を を こ こ に 及 ぼ し た こと が 、 こ の宮 座 を消 滅 さ せ たも のと み ﹁豊 臣 秀 吉 の弟 で あ る 秀 長 が 大 和 に 入国 し て そ の 領 主権 力 二年 で終 って いる点 に つ い て は、 天 正 十 三年 (一五 八 五)に の 支 配 は 受 け な か った﹂ と し、 ﹁大 頭 入衆 日記 ﹂ が 天 正 十 い﹂ と 結 論 づ け 、 そ れ は ﹁山 間 の生産 の不充 分 さ より 来 る 行 わ れ 、 これ が 庄 の政 治 的 経 済 的 活 動 の主体 に な った ら し か で ﹁大 頭 な る宮 座 に よ る惣 結 合 が 鎌 倉 以来 室 町 を 通 じ て 書 等 を も って紹 介 し た も の で、 宮 座 に つ い ては、 後 記 の な 活 躍 を、 吉 野 郡 川 上 村 運 川寺 に所 蔵 され て いる 大 般若 経奥 の研 究 は在 地 の牧 尭 観 と 津風 呂 光 季 の南 朝 方 武 士 と し て の の変 遷 、 庄 民 に つ いて の研究 で あ る。 最 後 の庄 民 に つ い て そ の後、 十 七 年 に し て ﹃吉 野 町史 ﹄ が編 纂 さ れ た。 秋 永 (7 ) ば 武 士 の党 的 連 合 を模 し た 感 が あり 、 村 落 内 部 は お そ ら く 強 力 な 者 が 出 現 し え ﹂ な か った こ と に よ る と さ れ る 。 ら し い。 し か し、 上 層 農 民 が す で に権 力 か ら解 放 さ れ た こ 政 孝 氏 は ﹁竜 門 寺 庄 と 庄 民 ﹂ のな か で ﹁南 北 朝 時 代 の竜 門 (8 ) 同 族 支 配 で あ り、 村 落 自 治 はさ ほど 発 達 し たも の で は な い と は認 め ら れ る﹂ と さ れ 、 羽 柴 秀 長 の大 和 入 国 に より 、 宮 庄﹂ と し て 正 平 三 年 (= 二四 八)の、 両 朝 か ら の収 取 に対 す 以 前 竜 門 郷 上 層 農 民 は、 他 郷 の代 官 支 配 (年 貢 収 取 ) のも し て の 活 躍、 ﹁室 町 期 の竜 門 庄 ﹂ と し て、 永 享 十 二年 (一四 る竜 門 庄 大小 百 姓 の愁 状 、 牧 尭 観 と 津 風呂 光 季 の南 朝 方 と (5 ) 座 は消 滅 し、 上 層 農 民 も そ の権 力 に服 した 。 し か し、 そ れ と で宮 座 に よ って自 治 を 進 め て いた が 、 郷 内 各 村 落 で の自 り あげ ら れ て いる。 座 に つ いて は ﹁宮 座 の大 部 は公 事 家 で 四 〇)の 竜 門 山 合 戦 、 永 正 三年 (一五 〇 六)の 沢 蔵 軒 の 竜 門 以 上 は、 永 島 氏 の前 記両 研 究 か ら 、 氏 の中 世 後 期 の竜 門 (中 略 )、 オ ト ナ 衆 が 寄 合 座 を構 成 し、 う ち 一繭 ・二繭 ら に 治 は さ ほ ど発 達 し た も の では な か った ろう と 推 測 さ れ て い 郷 に つい て の 理解 を私 な り に 把 握 し て の紹 介 で あ るが 、 氏 よ って宮 本 が構 成 さ れ る。 上 に 領 主 層 の牧 氏 が あり 、 こ れ 庄 への放 火 、 大 永 二年 (一五 二 二)の多 武 峯 寺 の発 向 等 を と の理 解 に つい て は私 も お よ そ 同 意 し て いる と こ ろ で あ る。 を た す け る 執 事 津 風 呂 氏 な ど の地侍 が あり 、 そ の下 の村 々 る。 永 島 氏 の ﹁公事 家 考﹂ と ほ ぼ同 時 に秋 山 日 出 雄 氏 の ﹁竜 の 公事 家 が集 り、 座 を 構 成 し、 有 力 な 一繭 ・二繭 が宮 本 と (6 ) 門 庄 の概 観 ﹂ が 発 表 さ れ た 。 これ は 、 竜 門 庄 の成 立 、 支 配 一25-一 座 の基礎的事 項 ﹁大 頭 入 衆 日 記﹂ 応永 七年 (一四 〇 〇 )の項 に ﹁座 衆 百 姓 (9 ) し て次 第 に自 治 的 な郷 中 支 配 が 行 な わ れ た の であ る。 これ べて いら れ る。 そ の ほ か に、 池 田源 太 氏 の ﹁古 代 竜 門 文 化 評 定 云﹂ と し て議 題 に つ いて記 し て いる が、 まず 、 座 衆 百 ら は 一般 階 層 で い えば 名 主 層 に属 す る も ので あ ろ う﹂ と 述 の性 格 ﹂、 堀 池 春 蜂 氏 の ﹁竜 門 寺 に つ いて の 一考 察 ﹂、 木 村 姓 と あ る 点 から みる と、 百 姓 の座 と考 え ら れ て い た こ とが 名 主 (公 事 家 ) が 座 衆 と考 え ら れ て いた点 と関 連 し よう 。 (12 ) 博 一氏 の ﹁近 世 竜 門 の 村 落 生 活 ﹂、 堀 井 甚 一郎 氏 の 地 理 学 う か が え る。 こ の点 、 前 記永 島 氏 の研 究 でも 百 姓 と し て の 以 上 の諸 研 究 に よ る と 、竜 門 庄 ( 竜 門 郷 )の中 世 史 や ﹁大 ま た 、殿 称 の記 載 の あ る時 期 も あり 、﹁百 姓 ﹂に つい て は な (10 ) か ら の ﹁竜 門 地 域 ﹂ 等 が あ る 。 頭 入 衆 日 記 ﹂ 等 の様 相 は 残 る 所 な く 究 明 さ れ て い る も の と つぎ に、 議 題 の な か に ﹁天 満宮 ﹂ と ﹁大 汝 宮 ﹂ の祭 礼 に お 後 述 し た い。 の動 向 を中 心 に考察 し て みた い。 そ れ は、 鎌 倉 時 代 末 期 か 関 す る記 事 が あ る。 天 満 宮 は 現 在 の吉 野 町大 字 山 口 の吉 野 み な しう る が、 本 稿 で は、 比 較 的 手 う す と考 え ら れ る座 衆 ら 織 豊 期 に いた る 間 の、 座 衆 の座 に対 す る意 欲 の変 遷 、 さ な お、 一般 に ﹁大 頭 入 衆 日記 ﹂ 等 は大 宮 社 の宮 座 文 書 と た と い わ れ て いる。 祭 神 の変 わ った 理 由等 は 明 ら か で な い あ ったが 中 世 に 入 る と菅 原 道 真 にか わ り天 満宮 と称 せ ら れ 山 口神 社 な いし は同 社 の社 地 に並存 す る高 鉾 神 社 の祭 神 に 云 わ れ て い る。 ま た、 神 仏 習 合 の関 係 も あ り 、 近 世 以 後 宮 が 、 竜 門 地 域 で は今 日 でも 、 竜 門 は菅 公出 生 地 で あり 、 両 ら に は、 で き れ ば 、 そ れ を通 じ て座 の存 在 意 義 に つ いて 考 座 と 称 さ れ る よ う に な る等 の こ と も あ り 、 宮 座 文 書 と いう 親 の墓 も あ る と いう伝 承 が お こ なわ れ て いる 。前 記 に よ る 比 定 さ れ る よ う で あ る。 山 口 神社 の祭 神 は も と大 山 祇 命 で こと で よ い と考 え て いる が、 中 世 の時 期 、 披 見 の及 ぶ限 り と、 こ の座 は 大字 山 口 の大 宮 社 (吉 野 山 口神 社 ) の宮 座 と え て み よ う と す るも の で あ る。 では 宮 座 と は記 さ れず 、﹁座﹂と な って お り 、本 稿 で は ﹁座 ﹂ いわ れ て いる 点 と関 連 す る。 (11 ) と し て扱 う こ と に す る。 大汝 宮 は 吉 野 町 大 字 河原 屋字 妹 山 の大 名 持 神 社 に比 定 さ 一 一26-一 門 郷 の郷 社 で あ った 。 以 上 の山 口神 社 ・高 鉾 神 社 ・大 名 持 れ て い る。 祭 神 は 大名 持 命 ・須 勢 理 比 曄 命 ・少 彦 名 命 。 竜 と、 竜 門寺 浬 契 会 は 随 分 古 い時 代 に は じ ま ったと み てよ い 世 紀 の 前 半 に 竜 門 寺 は 創 立 さ れ た と みな さ れ る。 と す る 年 (七 二八 )十月 廿 日 に没 し て いる か ら、 以 上 の限 り では 八 桑 会) 名 辞 書 ﹂ に よ る と、 こ の春 日 講 頭 衆 子 息 のな か か ら 大頭 入 講 頭 衆 が 記 さ れ て いる 。 表 1 の と おり で あ る。 ﹁大 日本 地 ﹁春 日 講 頭 集 会 衆 人 数 覚 ﹂ が あ り 、 竜 門 庄内 の村 方 か ら の と みな し え よ う 。 当 面 史 料 と し て、 文 禄 三 年 (一五 九 四 )の 日講 の頭 を な す 順 帳 ﹂ と考 え れ ば 、 春 日講 の座 でも あ った つぎ に、﹁大 塔 入 衆 日 記 ﹂を 、冒 頭 で紹 介 し たと お り 、﹁春 (14 ) 神 社 は いず れ も 延 喜 式 内 社 と 考 え ら れ て いる。 こ の限 り で も のか。 (13 ) は 、 十 世 紀 には す で に竜 門 郷 内 に村 落 が形 成 さ れ て いた も のと 考 え ら れ る 。 (浬 竜 門 寺 子 ハ ン エ立 用 五月廿八日、 右 の両 社 の祭 礼 の ほ か に、 康 正 元 年 (一四 五 五 )に始 ま る ﹁造 宮 方 仕 日 記 ﹂ に は、 一石 二斗 六 升 五合 と あ る。 これ によ ると 竜 門 寺 の浬 築 会 と も関 係 す る 座 で あ 野原激 購野 { 2 0σ ﹂ 4 8 PO 呂 屋 nδ 5 3 ラ 12 14 4 8 8 地 風 原 野 寺 ・賀 谷 尾 口 東 FO ρ0 7・ 8 9 10 11 12 13 14 15 16 柳 大田佃栗 色 野 津 河 立 峯 サ 志 西 平 山 香 -占 で あ ろう が 、 同 講 は竜 門 庄 領 主 興 福 寺 の同 庄 支 配 の 一環 と し て庄 民 の間 に設 け ら れ たも の と考 え る なら ば 、 そ のは じ ま り は相 当 に古 い時 代 と考 え ら れ よう 。 以 上 に よ る と、 竜 門 庄 の座 の大 頭 は竜 門 寺 浬 契 会、 春 日 講 、 天 満 宮 ・大 汝 宮 の祭 礼 を お こ なう 責 任 者 であ った と み な し え よ う。 し か し、 そ れ だ け で は な く、 修 正 会 ・修 二会 等 の、 いわ ゆ る 年 中 行 事 も お こ な った も の で あ ろう 。 前 27 った と みな さ れ る。 同 日記 に は、 右 の ほ か、 ﹁浬 築 会 田 ﹂ 講 頭 衆 合 計(人)1103人 衆 が 出 たも の の よ う で あ る。 史 料 は文 禄 三年 のも の で座 が 4 ﹁浬 葉 会 ノ雑 事 ノ代 ﹂ 等 の記 録 も み え、 ま た、 竜 門 寺 子 院 8 解 散 し て以 後 のも の で あ る。 同 年 は太 閤 検 地 のお こな わ れ 2 方 方方劫方 方 方 方 方 方 方 方 方 方 方 方 方 5 5 と 考 え ら れ る ﹁仏 師 院 ﹂﹁大 門 坊 ﹂﹁大 坊 ﹂等 も う か が え る 。 名 方 1村 9人 た前 年 で あり 、 旧 来 の体 制 が 、 いち おう 存 続 し て いた も の 講頭衆 竜 門 寺 の創 立 に つ い て は義 淵 草 創 説 が あ る 。 同 僧 は 神 亀 五 表1 す で に指 摘 さ れ て いる と お り郷 座 と も考 え ら れ るも の であ 在 所 (所 属 の村 落 を 示 す 意味 で あ ろ う) が 記 さ れ て いる 。 な お 、 大 頭 は正 頭 と も 頭 人 と も いわ れ て い るが 、 後 述 の る 。各 村 落 の様 相 は 不 明 と いう ほ か な いが 、 座 外 - 非 結 衆 掲 の ﹁造 宮 方 仕 日記 ﹂ に ﹁八 十 五 文 天 満 ノ修 正 牛 玉 紙 ノ代 と お り 、は じ め ( 正 中 二 年 、 = 二二 五)の頃 大 頭 は 一人 で あ の農 民 が いた も ので あ ろ う。 前 掲 の ﹁造 宮 方 仕 日 記 ﹂ には そ れ は 基 本 的 に は表 1 に同 じ で竜 門 庄 内 の村 落 に相 当 し 、 った 。 そ の 後 、 正 平 八 年 (= 二五 三 )以 降 二十 余 年 間 二人 年 間 を 通 じ て数 多 く の、 目 的 不 明 の集 会 が みら れ る 。 た と 丁丑、 十 二月 日 ﹂ 等 と わず か な が ら み ら れ る 。 (両 頭 ) と な る が、 南 北 朝 末 期 には ま た 、 一人 に復 し て天 えば 、コ 斗 八 升 、極 月 十 五 日 集 会 飯料 、五 百 五 十 五文 同 日 (16 ) 正 十 二年 (一五 八 四 )に いた った も のと 考 え ら れ る。 任 期 は 清 酒希 代 ﹂ な ど であ る。 こ れ ら集 会 は祭 礼 ・法 会 ・年中 行 鷺 のニ 一年 間 で あ って 、座 衆 の集 会 に よ って 、持 ち 廻 り に も せよ 、 事 のほ か、 庄 内 行政 - 山 野 ・用 水 の共 同 利 用 等 にか か わ る (肴 力) 座 衆 のう ち か ら選 ば れ た も の と み て違 いな か ろう 。 も ので あ った ろ う か。 と す る と、 名 主 層 の自 治 であ った か で あ った と も み な し え よ う。 し か し、 そ れ だ け で も な さ そ ﹁大 頭 入 衆 日記 ﹂ は正 中 二年 に始 ま って い るが 、 実 際 に 述 す る と こ ろ で あ る。 座 に は、 お そ ら く は、 記 録 が な い時 う で あ る。 いず れ に し ても 、 座 は領 主 支 配 のも と で の こと も知 れ な いが、 非 結 衆 か ら み れば 彼 等 に対 す る 抑 圧 の 一環 期 が あり 、 そう し た な か で、 記 録 が お こな わ れ るよ う に な で あ る。 つぎ に、 座 が そ の うち に所 在 す る 竜 門 ( 寺)庄 に 座 はそ れ以 前 か ら存 在 し て いた も のと 考 え ら れ る こ と は後 った も の で あ ろう 。 そ の契 機 は 不 明 と いう ほ か な いが 、 大 つ いて 考察 し てみ る。 (15 ) る が 、 大 頭 勤 仕 に つい て も 記 す と ころ が あ る 。 名 前 は童 名 の 知 行 下 に あ った も の で、 ﹃大 乗 院 寺社 雑 事 記 ﹄ 長 禄 二年 竜 門 庄 は、 記 録 の上 で は興 福 寺 別 当 領 であ り、 同 寺 寺 務 竜門 ( 寺 )庄 に つ い て 頭 が 座 衆 の集 会 に よ って差 定 さ れ る よ う にな った こと に あ る の で は な い か と、 い ち お う推 測 さ れ る 。 が 多 く 、 入 座 は大 夫 成 に類 す る と いわ れ て いる が 、 実 質 そ (一四 五 八 )五月 二 十 二 日条 に は、 興 福 寺 別 当 の雑 掌 で あ っ ﹁大 頭 入 衆 日 記 ﹂ は表 記 の と お り 年 毎 の入 衆 の記 録 で あ れ は 結 衆 の世 帯 の交 替 で あ った ろ う 。 ま た、 入 衆 には そ の 一28一 り 、 さ ら に矢 立峠 を へて千 股 に出 る道 が 公 卿 等 に利 用 さ れ 安 時 代 に は多 武 峯 を へて竜 在 峠 を越 え 竜 門 郷 の滝畑 に いた 右 、 大 和 国 竜 門 寺 庄 者 為 二別 当 領 一 代 々寺 務 知 行 、 干 レ る こと が 多 か った と いわ れ て い る。 いま 一つ多 武峯 か ら 八 た重 芸 の文 言 と し て竜 門 ( 寺 )庄 に つい て、 今 無一 一 相 違 一外 、 更 被 レ成 コ下 三度 之 長 者 宣 一厳 重 規 模 領 井 内 ・鹿 路 を へて細 峠 越 え に竜 門 郷 の西 谷 ・平 尾 に出 て、 か。 と し ても 竜 門 寺 領 の形 成 の時 期 は 不 明 で あ る が 、 竜 門 質 、 も と 竜 門 寺 領 と し て 形 成 さ れ たも の で な か った ろう 領 竜 門 寺 庄 は 竜 門 寺 別 当 領 で あ った と も 考 え ら れ る。 実 よ って興 福 寺 別 当 が 兼 帯 し た も の で、 この 限 り 興 福 寺 別 当 と み え る 。 こ れ に よ る と、 竜 門 寺 別 当 は ﹁三 度 長 者 宣 ﹂ に か ら み ても 、 竜 門 庄 の開 発 も 村 落 の形 成 も 前 記 のと お り 九 は国 中 か ら吉 野 に いた る径 路 に当 って い たも の で、 こ の点 の国 道 一六 九号 を使 用 し たも の で は な い。 つま り、 竜 門 郷 和 国 中 (くん なか)か ら吉 野 に い た った通 路 で、 当時 は今 日 竜 門 滝 を み て 芳 野 へ出 た よ う で あ る。 以 上 は 近 世 以前 大 東 西 路 の伊 勢 街 道 に達 す る道 も あ った 。 芭 蕉 は細 峠 越 え に レ 地 也、 郷 内 に 延喜 式 内 社 に比 定 さ れ て い る神 社 が前 記 のと お り 三 世 紀 頃 で は な か った か と推 測 さ れ る。 も っとも 、 南 北 朝 時 代 に な る と竜 門 庄 が 南 朝 膝 下 に所在 (19 ) (18 ) 社 も存 在 す る こ と か ら み る と、 少 く と も 九 世 紀 末 に は、 す で に 竜 門 郷 内 村 落 が 、 お そ ら く竜 門 寺 領 開 発 と の関 係 で形 宮 行 幸 以来 と な るが 、 吉 野 への通 路 は、 現 在 の明 日 香 村 の 宮 や 金峯 山 寺 等 へは、﹃日本 書 紀 ﹄に よ る と 応 神 天 皇 の吉 野 金 峯 山 寺 等 が あ る。 いず れ も今 日吉 野 町内 で あ る が 、 吉 野 南 ) は 吉 野 宮 跡 に比 定 さ れ て いる。 ま た、 吉 野 川 南 部 に は 竜 門 郷 に隣 接 し て吉 野 川沿 いに宮 滝 が あ る が 、 同 所 (河 敗 北 は決 定 的 と な った。 そ の後 、正 平 三 年 ( 貞 和 四年 、= 二 三 四 三 ) 関 城 ・大 宝 城 を失 って、 そ れ 以 後 南 朝 の軍 事 力 の 武 士 の結 集 を は か った北 畠 親 房 も 康 永 二年 (興 国 四 年、 一 三 三九 )に は 後 醍 醐 天 皇 が 吉 野 で病 死、 常 陸 に お いて 関 東 け て新 田 義 貞 ・北 畠 顕 家 が敗 北 し、暦 応 二年 ( 延 元 四年 、一 が 、 し か し、 建 武 四年 ( 延 元 二年 、 = 二一 二七)か ら 翌 年 に か し て い た関 係 で南 朝 方 の支 配 下 に入 ったも のと 考 え ら れ る 岡 か ら稲 淵 ・栢 森 を へて芋 ヶ峠 越 え に竜 門 郷 の 千 股 に いた 四 八 )高 師 直 の 吉 野 攻 略 によ り 吉 野 行 宮 の蔵 王堂 が 焼 き払 成 さ れ てき て い た も の と み て よ い ので は な か ろう か。 り 、 上 市 か ら吉 野 川 沿 い に宮 滝 に い た った よ う で あ る 。 平 一29-一 ・公 事 等 の要 求 が あり 、 こ の両 方 か ら の催 促 に対 し竜 門 庄 た よ う で あ る。 し か し、 南 朝 方 か ら も これ ま でど お り 年 貢 る な か で、 興 福 寺 寺 務 (北 朝 方 ) は竜 門 庄 の支 配 を復 活 し 壊 も 決定 的 な も のと な った 。 以 上 の南 朝 方 支 配 力 の崩 壊 す わ れ、 後 村 上 天 皇 が 金 峯 山 寺 か ら 紀 州 に移 る と南 朝 方 の崩 表 面 化 し、 翌 同 五年 ( 観 応 元 年 、 = 二五 〇)には 観 応 の擾 乱 な り、 前 記 愁 状 が出 さ れ た正 平 三年 の翌 同 四 年 には そ れ が 崩 壊 が す す む な か で、 足 利 尊 氏 ・直 義 兄 弟 の対 立 が 激 し く 支 配 下 に 移 った も の と考 え ら れ る。 そ れ は、 南 朝 方勢 力 の に あ った と み てよ か ろ う。 し か し、 いず れま た 、 南 朝 方 の 況 か ら み る と、 竜 門 庄 の支 配 は北 朝 方 の興 福 寺 寺 務 のも と (20 ) 庄 民 ﹁両 庄 大 小 百 姓 ﹂ は 訴 え る と ころ が あ った。 つぎ の と と な り、 同 年 十 二月 足 利 直 義 は南 朝 に帰 降 す る事 態 と な っ (21 ) お り で あ る。 た。翌同六年 ( 観 応 二年 )尊 氏 ・直 義 は 一時 講 和 し た が 、 再 度 不 和 と な るな か で、 今 度 は尊 氏 が直 義 に対 抗 す るた め 南 竜門御庄大小百姓等謹言 上 被 仰 下 候 当 御 庄 御 知 行 御 事 、 南 山 ヨリ 他 所 へ 朝 に降 った 。 こう し た尊 氏 ・直 義 兄 弟 の争 い は南 朝 軍 事 体 臨幸 ナ ラ セ 給 候 之 後 ハ 殊 更 本 所 南 都 ヨリ 可有 御 知 行 ヨシ 無 レ 制 の復 活 を も たら し た ろ う。 のみ な らず 、 正 平 六年 六月 以 衆 徒 が 合 戦 に及 ぶと いう 事 態 も あ り、 興福 寺 寺 務 と し ても の 来 興 福 寺 で は 一乗 院 (南 朝方 ) と大 乗 院 ( 北朝方)両方 の 隙 催 促 ノ 御 使 被 レ下 候 之 間 、 本 所 御 請 申 候 ト コ ロ今 又 御 所 方 如 レ此 被 二仰 下 一 候 、両 方 へ御 請 之 上 者 公事 百 姓 等 難 レ叶 候 、 恐 々言 上 如 件 、 こ の愁 状 は竜 門 庄 の領 主 興 福 寺 別 当 ( 北 朝 方 ) 宛 て のも の 牧 氏 は南 朝 方 で あ った 関 係 も あ り 、 竜 門 庄 は南 朝 方 支 配 下 福 寺 寺 務 に代 って竜 門 庄 を 代官 支 配 し て いた と考 え ら れ る 竜 門 庄 支 配 を確 保 す る 余 裕 は な か った ろ う。 そ の う え、 興 と考 え ら れ る が、 愁 状 の主 体 で あ る ﹁両 庄 大小 百姓 ﹂ は竜 に復 し た も のと考 え ら れ る。 以 後 、 南 北 朝時 代 の終 る明 徳 両庄大小百姓 門 庄 内 の座 衆 を 中 心 と し た 全 百 姓 で あ ろ う。 座 は 領 主支 配 三年 ( 元 中 九年 、 一三 九 二)こ ろ ま で竜 門 庄 は南 朝 方 支 配 下 日 下 に あ った と は いえ 、 南 北 両 朝 か ら の収 取 に 対 し て は、 座 にあ り 、 明 徳 四 年 以後 興 福 寺 寺 務 の 支 配 下 に 復 し た も の 正 平 三年 九 月 衆 は 団結 し て自 疹 の要 求 を訴 え た も のと 考 え ら れ る 。 こ の と 、 いち おう 考 え て おく。 (23 ) 愁 状 の結 果 は 不 明 であ るが 、 前 記 の南 朝 支 配 勢 力 の崩 壊 状 一一30一 と ころ で、 南 北 両 朝 が 支 配 を競 合 し た竜 門 庄 の そ れ は、 同 庄 が いず れ の側 に あ った と し て も、 そ の収 取 の 年 貢 ・公 事 は 比 較 的 軽 いも の で は な か った か と推 測 さ れ る 。 相 手 方 座衆 について 座 衆 は 大 頭 勤 仕 の責 任 を 負 って いた が、 反面 か ら み る と 前 記 し た と ころ で あ るが 、 そ の実 体 に つ いて諸 史 料 にも と そ の権 利 を 有 し て いた 。 こ の座 衆 は ﹁百 姓 ﹂ で あ った点 は 室 町時 代 に入 って か ら の興 福 寺 寺 務 の竜 門 庄 支 配 は 同 庄 つ いて 考 え て み る に、 結 論 と し て 座 衆 は ﹁ク シ ヤ﹂ (公事 の支 配 を 排 除 す る た め の 一手 段 と し て で あ る。 の 東 に隣 接 し て い た小 川 郷 ( 東 吉 野 村 内、 旧 小 川 村 ) の小 屋 ) で あ り 、 名 主 で あ ったと みな さ れ る こと、 前 記永 島 説 も っと も 、 ﹁大 頭 入 衆 日 記 ﹂ に みら れ る ク シヤ は 表 2 の (おむ ら) の丹 生 川 上 神 社 中 社 神 主 家 で あ り 、ま た 、興 福 寺 し て い たも の と考 え ら れ る 。 南 朝 方 の牧 氏 ら は 室 町 時 代 以 と おり で、 両 帳 を 通 じ て わつ か に十 件 が みら れ るだ け で、 等 のと おり であ る。 後 ど う な った も の か 不 明 。 し か し、 小 川 氏 は 年 貢 ・公 事 そ のう ち 六件 は西 谷、 三 件 は峯 寺 、 一件 は平 尾 であ る 。 こ 大 乗 院 方 衆 徒 でも あ った在 地 武 士小 川 氏 が 代官 と し て支 配 (代 官 請 料 ) を 無沙 汰 し た た め 代 官 職 を追 放 さ れ、 代 って の 三村 は相 互 に隣 接 し てお り、 天 満 宮 ・竜 門 寺 の所 在 す る を経 て細 峠 な いし は 竜 在 峠 を 越 え て 竜門 庄 に 入 る道 筋 に当 竜 門 庄 の北 に 隣 接 し て い た 多 武 峯 寺 が、 康 正 二年 (一四 五 去 十 八 日 竜 門 庄 年 貢 事 、 百 五 十貫 文 多 武 峯 請定 了 、 り、 そ のう え 、 多 武 峯 寺 が 竜 門 庄 を代 官 支 配 し て いた点 か 山 口 とも 隣 り 合 って い る。 し か も、 前 記 の と おり 、 近 世 ま と み え る 。 こう し た状 況 の な か で、 小 川弘 光 が ﹁三種 ノ神 ら み る と 、 右 三村 地 域 は竜 門 庄 の交 通 ・行 政 ・経 済 上 の要 六)に小 川 氏 に代 った。 ﹃大 乗 院 寺 社 雑 事 記 ﹄ 同 年 五月 二十 祇 之 内 神 璽 ﹂ を南 朝 方 か ら奪 い取 った 功 と し て、 先 祖 以 来 地 で あ った と 考 え ら れ 、﹁シヤ ウ チ﹂( 庄 司 か)・﹁シ ヤ ウ ヤ﹂ で の と ころ、 大 和国 中 から 吉 野 に いた る 通路 の う ち多 武 峯 の 竜 門 庄 代 官 職 を要 求 す る 一幕 も あ った 。 も っと も 、 興 福 (庄 屋 か) と い ラ た上 層 農 民 の肩 書 をも った 者 も この 地域 二 日条 には 、 寺 は これ を 拒 否 し、 改 め て多 武 峯 寺 の代 官 請 負 いを 存 続 さ に集 中 し て い た (表 3 )。 (24 ) せ て い る。 一31-一 表2 年 公 次 事 文 安5年 ニ シ タニ ヲニ シ 寛 正5年 ミ子 寺 サ エ モ ン三 郎 子 同6年 ヒラ ヲナ カ ノ クシ ヤ 天 文16年 西谷 ヲニシ 同21年 峯 寺 カ トノ ク シヤ 永禄7年 比 公 事 屋 … …… 同10年 西 谷 北 公 事 屋 地 下 ヰ トナ ミナ リ 元 亀3年 西 谷 下 口公 事 屋 …… … 天 正4年 西 谷 大西 ク シ ヤ …… … 同10年 ミ子 寺 中 トノ クシヤ 兵 衛 四 郎 トノ ・子 息 鬼若丸 六郎 三 郎 梅千代 西 谷 カヘ ヤ 五郎 サ エ モ ン 所 在1公 事 コナ方 ヒバ ノ クチ公 事 ヤ マ キ方 カ イ トクシ ヤ 同 ホ リコ タニ クシ ヤ 同 コタ ニ ク シヤ 屋 ﹁大 頭 入 衆 日 記﹂ で は両 帳 を通 じ て公 事 屋 と 肩書 き さ れ 表4 た座 衆 は右 の地域 以外 に は みら れ な い。 こ の点、 庄 司 .庄 天 正5 屋 に つ いて も同 じ で あ る。 し か し、 同 日 記 以 外 にも わず か 大 ノ ・シ ヤ ウヤ なが ら み ら れ る。 そ れ と し て、 天 正 五 年 (一五 七 七)の ﹁惣 文 禄3 郷 納 帳 ﹂ に は 表 4 の と おり 公 事 屋 が う かが え る。 これ ら は 弘 治2・ 文 禄3 河原屋方庄屋 地 名 化 し た も のか ど う か明 ら か で な いが 、 地 名 化 し た も の 天 文17・ 天 正5 山 ロバ ハ 庄屋 と し て も、 そ れ は 公事 屋 が 存 在 し て いた こと によ る も の で 文 安2・ 文正 元 ・ 弘 治3 あ ろう 。 そ の ほ か、 前 掲 正 平 三年 の竜 門 庄 の大小 百 姓 の愁 ミカ ノ ヲ(西谷) シ ヤ ウヤ 状 に は、 南 北両 朝 か ら の 収 取 に 対 し て ﹁公 事 百 姓 等難 叶 候 ﹂ と あ る点 か ら み る と、 竜 門 庄 の名 主 は公 事 百 姓、 つま ヒ ラ ヲシ ヤ ウ チ ア トツ キ 此 公 事屋 去年 ヰ トナ ムベ キ トコ ロ… … … 次 年 タ ウ ノモ トク シ ヤ ミ子 寺 カ トノ ク シヤ 衛門五郎 表3 庄 司 ・庄 副 屋 一 一 32 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 名 号 名名 名 名 名 名 名 名 名 名名 名 名 名 名 名 タ へん の モ ヨ 国 次 安 宗力 丸 丸 サ 真 つち ん道 琢 正 トキ リ る いも ネ ネ 宗 花 寿 正 岩徳 得 平 ノ則 く せ 天末 尭 守 カ ム る と、 座 衆 は 名 主 であ り 、 公 事 屋 で あ った と み る こと が で き よ う。 そ こ で、 つぎ に名 に つ い て の記 録 を み る と、 初 見 は後 掲 応 永 三 十年 の畠 地 作 主 職 売 券 に みら れ る ﹁竜 門 庄 山 口郷 宗 国 名 ﹂ で あ る が、 そ の後 の分 に つ い て は表 5 の と おり で あ る。 こ れ ら も、 も ち ろ ん 竜 門 庄 の百 姓 名 と み て違 い な か ろ う 。 こ れ ら百 姓 名 は、 南北 朝 時 代 を通 じ て本 名 の分 解 によ って形成 さ れ た新 名 と み てよ い も ので あ ろ う か。 興 福 寺 領 庄 園 の本 名 の分 解 は本 名 の半 名 と か 四 分 一名 と い った 形態 の場 合 とそ う でな い 場 合 と が 考 え ら れ る が、 表 5 の名 が 新 名 と す る と後 者 の場 合 と な ろ う。 座 の始 源 に つい て 正 中 二年 (一三 二 五)に は じ ま る と いう ﹁大 頭 入 衆 日 記 ﹂ のは じ め の部分 、 正 中 二年 か ら 延 元 三 年 (一三 三 八)ま で を掲 げ る と つぎ の と 正 中 二年 乙丑 源 内 エノモト 延 元 三戊コ 勤 仕 了 延 元 二丁 丑勤 仕畢 お り であ る。 嘉 暦 元 年 丙寅 熊 サ コ 延元四己卯 勤仕了 興国元庚辰 勤仕了 興国三壬午料頭十 二貫文 弁進了 興国 二辛巳 料頭七石弁進了 嘉 暦 三年 戊辰 孫 三郎 、 ・ 、 子テラ 興 国 二辛巳 勤 仕 了 嘉 暦三 年 丁卯 脈郎 ミ子テラ 鬼若カ ヒヤ 〔註〕 応 永30年は畠地作主職売券 康正元年 は造宮方仕 日記 天 文24年は処分帳 永禄3年 は造宮方諸支配引付 天 正5年 は惣郷納帳 元 徳 元 年 己巳 移武 コイワミ 小牛 ヲニシ 一33一 0 正元年1天文24年}永禄3年i天 正5年 応永33鞭 号 名 り 、 公事 屋 と 称 さ れ て いた も のと 考 え ら れ、 こ の点 か ら み 表5 元 弘 三 年 癸酉 千 与 熊 ハ、 元 弘 二年 壬申 辰 卜郎 ノコへ ヲウタ ニ 元 弘 元 年辛未 観 圓 三 ノモト 元 徳 二年庚午 弥 六 ヲニシ 興 国 四癸未 勤 仕 了 興国 二辛巳 料頭 七石弁進畢 興国 二辛巳 料頭 七石弁進了 不勤 仕 而 他 界 畢 興 国 三 壬午 勤 仕 了 興国 五甲申 勤仕了 建 武 元 年 申戌 満 収王 太丸 郎 エノ モト スキ モト 興国 六乙酉 勤仕了 る。 以 上 の限 り では、 同 じ年 に 入座 す る者 が 多 けれ ば 、 そ れ だ け 大 頭 を 勤 め る ま で の年 次 が長 び いてく る。 そう い った 関 係 も あ ってか、 元徳 元 年 (= 三 一九 )に入 座 し た多 武 と小 牛 の 二人 は と も に ﹁料 頭﹂(後 述 )を勤 め、 小 牛 は 興 国 二年 (= 二四 一)に 七 石 を、 多 武 は そ の 翌 興 国 三年 に 十 二貫 文 不勤仕而 脱畢 興国 七丙戌 勤仕了 翌 興 国 三 年 は 元 徳 二年 に 入座 し た弥 六が 、 そ れぞ れ に勤 仕 れ る 。 大 頭 は 興 国 二年 に は嘉 暦 三年 に入 座 し た孫 三郎 が 、 を、 そ れ ぞ れ 座 に弁 進 し て大 頭 勤 仕 に代 え たも のと 考 えら 正 平 二年 丁亥 勤 仕 了 し て い る。 ( 前 掲 史 料 )。 ノ 延 元 元 年丙 子 七 郎 カ ヒヤ 正 平 三年 戊子 勤 仕 了 建武二年乙亥嬬 萄 延 元 二年 丁丑 地 蔵 ミ子テラ め る責 任 が あ った も の と考 え ら れ るが 、 そ れ は 権 利 でも あ 大 頭 を勤 め た と み る のが 穏 当 で あ ろ う。 つぎ の年 嘉 暦 元 年 に 入 座 し、 十 三 年 後 の延 元 二年 (= 二一 二七 )に 一年 間 一人 で まず 、 冒 頭 の源 内 に つ いて いえば 、 正 中 二年 (一三 二 五) 三 三 五)入 座 し た 薬 師 と 正 平 元 年 (一三 四 六)の 十 郎 (掲 載 こ れ は や む を え ぬ こと で あ った ろ う。 ま た、 建 武 二年 (一 音 は、 大 頭 ・料 頭 いず れも 勤 め な いま ま 他 界 し て いる が、 った と いえ る。 し か し、 元 弘 元 年 (= 量 = )に入 座 し た 観 入座 し た 者 は 生 涯 に 一度 は 一人 で大 頭 な い し は料 頭 を 勤 興国三壬午 料頭十 二貫文 弁進畢 正平三戊子 料頭八石弁進了 (= 二二 六)に入 座 し た 熊 も 同 様 十 三年 後 の延 元 三年 に 大 頭 外 ) は とも に大 頭 ・料 頭 いず れ も 勤 め な いま ま ﹁逃 脱﹂ し 延 元 三 年 戊寅 駆 一松 師ヲウタ ニ シリ エ を 一年 間 一人 で勤 め た も のと み な さ れ る。 入座 す る の は 毎 て い る。 これ は竜 門 庄 か ら逃 亡 した も の であ ろ う 。 に、 同 年 か ら 十 二年 後 の延 元 元 年 に いた る間 の大 頭 の記 録 と ころ で、 正 中 二年 か ら 入 衆 の 記 録 が と ら れ て いる の 年 一人 と は限 ら な いわ け で、 嘉 暦 二年 は 六郎 と鬼 若 の 二 人 と な って いる。 こ の記 載 順 に、 六郎 は十 三年 後 、 鬼 若 は 十 四年 後 に、 そ れ ぞ れ 一年 間 一人 で大 頭 を勤 め た と理 解 で き 一34一 ら れ る。 この 十 二人 が 毎 年 一人 ず っ入座 順 に大 頭 を勤 仕 し が 入 座 し た と き、 少 く と も 十 二人 の座 衆 が いた も の と 考 え が み ら れ な い のは ど う いう こ と で あ ろ う か。 正 中 二年 源 内 は 正 中 元 年 以 前 にも 存 在 し て いた も の と み て 違 いな か ろ は 源内 を ふく め て少 く とも 十 三 人 を数 え た はず だ か ら、 座 し た 疑 いが 残 る感 じ を受 け る。 と も か く、 正中 二年 に座 衆 ﹁大 頭 入 衆 日 記 ﹂ の正 中 二年 には じ ま る 記 録 は後 か ら整 理 表 紙 に つ い て いえ ば 、 書 き 損 じ た紙 の裏 右 半 分 を活 用 し たも の と推 測 さ れ る 。 そ し て十 三年 目 に源 内 が大 頭 を勤 仕 ば 、 源 内 が 入 座 し た と き の座 衆 は十 二人 を越 え て いた も の た も の で あ る が、 裏 左 半 分 には 永享 十年 か ら同 十 二年 ま で う。 と み て も よ か ろ う 。 し か し、 こ れ ら大 頭 ・料 頭 勤 仕 者 の、 の 四年 分 の 入 衆 ・大 頭 の記 録 が あ る か ら後 補 と い う こ と は し た わ け で あ る 。場 合 によ って 料 頭 勤 仕 者 も いた と す れ 入 衆 が記 録 さ れ る よ う にな った正 中 二年 以 後 十 二 年 間 分 の 明 ら か と み な し う る 。 右 半 分 に は ﹁大 頭 入衆 日記 正中 二年 たも の か、 同 一人 が 旧 記 録 を み て整 理 し て書 い たも の か、 十 二年 (= 二六 七)に いた る 四 十 三年 間 、 毎 年 同 一人 が 書 い さ そう で あ る。 この限 り、 正 中 二年 (= 三 一五)から 正 平 二 中 心 に考 察 す る な ら ば、 いち お う同 一人 の筆 蹟 と み ても よ の ﹁正 中 二年 ﹂ の ﹁正﹂ と ﹁正 平 廿 二年 ﹂ の ﹁正 ﹂ の字 を つぎ に、 第 二紙 以下 の 筆蹟 に つい て考 え て み る に、 冒 頭 た ろう か。 そ れ は永 享 十 二年 の座 の 諸行 事 が 終 った時 期 の こ と で あ っ る。 右 の と お り、 表 紙 を と り か え た こと は確 か で あ ろう 。 後 者 は後 筆 で あ ろ う が 、 現存 の第 一冊 の枚 数 と 一致 し て い 乙丑始也﹂と あ り 、ま た ﹁表 紙 共 数 弐 拾 枚 有 之 候 ﹂と み え る 。 記 録 は み ら れ な い の で あ る。 ﹁大 頭 入衆 日記 ﹂ は 入 衆 日 記 だ った と し て も、 正 中 二年 以 後 の 入衆 の大 頭 勤 仕 の 記 録 も と ら れ て いる の で あ るか ら 、 正 中 二年 以 後 延 元 元 年 ま で の 大 頭 勤 仕 の記 録 も と ら れ て い て当 然 と考 え ら れ る のに 、﹁大 頭 入 衆 日 記﹂ に は みら れ な い。 ど う い った こと の結 果 な の か不 詳 。 この点 、 奈 良 県 北 葛 城 郡 香 芝 町 大 字 下 田 の 鹿島 神 社 所 蔵 の 法 楽 寺 座 の 建 久 七年 (= 九 六 )に は じ ま る 座 衆 帳 、 そ れ は内 容 か ら み ると 、 頭 役 ・入衆 帳 と い ってよ いも (25 ) の で 、は じ め に頭 役 勤 仕 者 の歴 名 が あり 、そ う し た な か で 、 入 衆 も 記 録 さ れ、 次 第 に入 衆 の記 録 が中 心 と な ってゆ く 。 あ る時 期 に 記 録 が 作 ら れ る よ う に な った と す る と、 右 の法 楽 寺 座 の場 合 のほ う が より 自 然 と み な さ れ る。 こ の限 り 、 一35一 いず れ か を え ら ぶ と す れば 、 いち お う 後 者 と な ろう 。 とす る と、 旧 記 録 が気 に か か る 。 し か し、 以 上 の 疑 問 を さ ら に 追 求 し ても 、 屋 上 屋 を重 ね る結 果 に終 り そ う であ る の で、 これ 以 上 の推 測 は 止 め て、 正 中 元 年 以 前 にも 記 録 が あ った ろう と推 測 し て ゆ く場 合 の 拠 り 所 の 一つと し て、 前 記 法 楽 寺 座 の 記 録 は 建 久 七年 (一 一九 六 ) に は じ ま って い る こと を あげ て お こう。 法 楽 寺 座 の結 衆 も 竜 門 庄 の座 のそ れ と同 じ く名 主 ( 百姓名) と考え ら れ る 。 た だ 違 う の は法 楽 寺 座 の所 在 は大 和国 中 ・平 坦 地 降 南 北 朝 時 代 と 考 え ての こと で あ る。 入衆 の動向 ﹁大 頭 入 衆 日 記﹂ 冒 頭 の 源 内 に つい て 前 項 で み た よう に、 彼 が 大 頭 を勤 仕 し た の は 正中 二年 に 入座 し て 十 三年 目 の 延 元 二年 であ った 。 この 間、 大 頭 に な る順 番 を待 って い た も の であ ろ う 。 この よ う な 立場 の 入衆 を同 日記 で は ﹁未 頭 衆 ﹂ と い って いる 。 源内 が 入座 し た と き は、 少 く とも ほ か に未 頭 衆 は十 一人 いた計 算 に な る。 ﹂4 FO -← -占 政 上 の問 題 も あ って、 とき も の で あ る。 一方 に座 の財 こ の未 頭 衆 の増 加 は、 云 う ま で も な く 入衆 の増 加 に よ る ﹂4 に料 頭 と いう形 で未 頭 衆 の 減 少 を は か った に せ よ (表 分 解 、 新 名 の成 立 は、 鎌 倉 時 代 後 期 と 考 え ら れ るが 、 竜 門 な か った、 年 に入 衆 三 人 ・四人 の年 が存 在 し、 こう し た 人 興 国 年 間 (= 二四 〇 ∼ 四 五)に な る と、 そ れ以 前 に は みら れ 一36-一 域 に 対 し 竜 門 庄 は山 間 地 域 と いう こと で あ ろ う 。 大 和 国中 の 百 姓 名 体 制 .村 落 共 同 体 の成 立 は、 いち お う 平安 時 代 末 期 と 考 え ら れ 、 こ の限 り 法 楽 寺 座 の記 録 が 建 久 七 年 には じ ま って い る の は、 そ ん な に不 自 然 で は な か ろ う 。 つぎ に、以 上 の正 中 元 年 以 前 の こと と は関 係 な く 、﹁大 頭 6)、 正 平 八 年 (= 二五 三) 庄 は山 間 地 域 な の で お く れ た も の と み て、 鎌 倉 時 代 末 期 以 に は未 頭 衆 は 二十 一人 いた と いう 。 これ が問 題 と なり 、 同 同12年 と の関 係 で い えば 、 そ れ は本 名 の分 解 、 新 名 の成 立 が す す 同8年 年 以 後 大 頭 は 二人 にな った 。これ を両 頭 と い った ( 後 述)。 正 平3年 む な か で の あ ら た な社 会 的 矛 盾 の形 成 が 座 の根 底 にあ った 同3年 こ の両 頭 制 の背 景 と な る 入 衆 の 人数 を表 7 か ら み る に、 興 国2年 も のと み な し え よ う。 も っと も、 大 和 国中 に おけ る本 名 の 入 衆 日 記 ﹂ に み ら れ る竜 門 庄 の座 を名 主 (百 姓 名 ) の動 き 数 次1人 年 頭勤仕者 表6料 数 は 正 平 年 間 (= 二四 六 ∼ 六 九)を へて 南 北 朝 時 代 末 期 弘 和 元 年 (= 二八 一)頃 ま で み ら れ る。 しかし、反面、南北朝 時 代 末 期 以 後 は漸 減 の動 き も 否 定 で き な いよ う で、 年 に入 衆 一人 ・二人 の 年 が 増 す 状 況 で あ る。 表 7 は 文 明 元 年 (一四 六 九 )ま で と し た が 、 同 年 以 後 天 正 十 二 年 (一五 八 四 )ま で の 百 十 有 余 年 間 は、 原 則 と し て入 衆 は 年 に 一人 と な って いる 。 応 人 2 1 2 20 2 1 0 1 1 2 1 1 2 3 2 1 2 2 1 1 2 2 2 1 29 2 30 31 1 2 32 2 33 2 2 2 2 2 2 1 1 1 2 1 1 1 4 2 5 1 2 6 7 1 2 2 8 2 2 9 3 3 10 2 1 11 2 2 12 2 2 2 2 28 2 1 1 27 2 2 26 2 2 3 25 1 2 2 18 2 16 17 3 15 2 13 14 2 12 2 2 5 6 元 和 弘 3 2 ¶⊥ 4 1 4 2 1 11 8 9 3 1 2 2 3 1 3 10 7 4 6 24 2 0 2 1 3 0 1 2 22 23 2 1 2 21 2 1 4 4 34 元 元 長 享 正 永 ﹁⊥ 2 3 2 23 3 3 元 授 天 24 元 徳 建 1 2 2 元 中 文 3 4 2 3 2 3 4 8 3 3 6 7 3 5 4 4 2 3 2 22 2 9 4 元 徳 永 明 応 3 21 2 4 20 1 2 19 1 18 2 17 2 16 1 15 2 14 1 13 2 1 11 12 1 10 2 5 元 2 3 元 2 3 4 5 元 2 3 4 2 3 4 2 元 2 3 4 2 3 4 5 6 元 2 2 元 吉 安 徳 徳 正 禄 正 正 仁 明 嘉 文 宝 享 康 長 寛 文 応 文 19 永 応 9臼 3 元 和 中 弘 元 9 平 正 1 -37一 2人 1人 3人 1人 2 元 2 3 元 2 元 2 3 元 2 元 2 3 4 元 2 3 4 5 6 元 2 3 4 5 6 7 8 中 暦 徳 弘 武 元 国 平 正 嘉 元 元 建 延 興 正 〔 註 〕 年 号 は 「大 頭 入 衆 日記 」 に よ る。 一 は 記載 な し。 年号 入 衆 年 号i入 剰 年 号1入 衆 年 引 入剰 年 号i入 剰 仁 年 間 ま でと は事 情 が 違 う か ら であ る ( 後 述 )。 以 上 の、 入 衆 の増 加 と の関 連 で問 題 と な って いた未 頭 衆 の増 加 の解 決 と し て 表7 の大 頭 二人 (両 頭 ) 制 の実 現 を とり あげ て み よ う。 ま ず 、 とが でき よ う 。記 録 に み え る と おり 、﹁庖 弱 ﹂な座 衆 の場 合 摘 し た よ う に ﹁逃 脱 ﹂ 者 二人 が い た に せよ 、 実 際 には 未 頭 大 頭 一人 で は勤 仕 し が た いの で 二人 の大 頭 に せ よと いう の 以 上 興 国 五 年 ヨリ 正 平 七年 マテ、 未 頭 衆 廿 一人 正 平 八 衆 の大 頭 への意 欲 の強 さと み る こと が でき よ う 。 この大 頭 ﹁大 頭 入衆 日 記﹂ 正 平 八年 の記 録 を掲 げ る と つぎ の と お り 年 癸巳 八月 廿 五 日 烈 参 申 正 頭 勤 仕 之 間 事 、 此 未 頭 衆 等 への強 烈 な意 欲 の拠 り 所 は 記 録 の上 で は 明 ら か で な いが、 は、 そ のよ う な場 合 も あ り え た に し ても 、 ま た、 前 項 で指 内 底 弱 之 者 等 如 二以前 一 勤 仕 之 条 可 二難 レ叶 候 一哉、 自 今 正 中 以 来 の座 的 結 集 の強 さ のう え、 さ ら に、 時 期 的 に は、 で あ る。 以 後 者 錐 下被 レ成 三 一 人 頭 一候 ハ 毎 年 入 衆 等 可 二相 続 一 候之 両 頭 制 と な る数 年 前 の正 平 三 年 に、 前 記 の と おり 、 南 北 両 納 を も実 現 し た こと に よ る も の で は な か ろう か。 合 す る 条 件 のも と で、 お そ ら く 比較 的 軽 い年 貢 ・公 事 の上 朝 か ら の 二重 支 配 の排 除 を実 現 し た う え、 両 朝 が 支 配 を競 間 正 頭 勤 仕 之 条 尽 未 来 際 不 レ可 レ有 二閾 如 一 候哉由申候、 此 上 可 二申 入 旨 返 事 一 也 、 傍 当 年 ヨリ ニ人 頭 勤 仕 之 初 也、魑騨 舞 ラ 而正平 八年癸巳 十月廿 二日座衆百姓評定候哉、 大頭勤 両 頭 制 が 未 頭 衆 の要 求 で座 衆 の集 会 に よ って実 現 し た 様 相 は前 掲 史 料 か ら う か が え る。 両 頭 は九 月 頭 と 十 一月 頭 で 九 月 頭 人 可 レ作 レ之、 あ って、 九月 頭 が ﹁御 供 田 ﹂ の耕 作 に当 り、 そ の収 獲 を も 御供 田当作事 返 饗 事 付 御 供 田当 作 九月 頭 人 可 レ致 二其沙 汰 一云 々、 って法 会 ・祭 礼 の供 物 とな し、 ま た、 そ れ は集 会 の際 の饗 仕專 靖 月 両頭事可レ為天 次簑 則 評定 事 書 在 之 、 頭 衆 を減 ら し た う え で の こと で あ る。 こ の未 頭 衆 の漸 増 を 一人 に対 し て 二倍 に近 い。 こ れ は料 頭 ( 表 2) に よ って未 年 に は、さ ら に料 頭 の 一人 が み ら れ る。 し かし 、同 十 五年 以 で は、 正 平 八年 か ら同 十 四 年 ま では両 頭 が記 さ れ、 同 十 二 も っとも 、 両 頭 は長 続 き はし な か った。 ﹁大 頭 入 衆 日 記﹂ 応 の 一部 に も使 わ れ たも の であ ろ う 。 大 頭 二人 制 の実 現 で解 決 し てゆ こう と す る未 頭 衆 の座 への 後 は入 衆 の記 載 の み に なり 、 両 頭 の記 録 は み え な く な る。 冒 頭 の未 頭 衆 二十 一人 と いう人 数 は、 正中 二年 の未 頭 衆 十 烈 し い要 求 は、 も ち ろ ん 座 衆 と し て の積 極 的 姿 勢 と み る こ 一38一 崩 壊、 殿 称 座 衆 の出 現 、 これ ら の動 向 の背 後 にど の よ う な 以 上 の南 北 朝 時 代 末 期 頃 か ら の、 入 衆 の漸 減 、 両 頭 制 の 称 が お こな わ れ る よう に な る には、 そ こに何 等 か の根 拠 は (二 二八 三)・元 中 元 年 (ニ ニ八 四)とも に 九月 頭 の み が、 い 動 き が あ った も の で あ ろう か。 これ と いう 史料 が あ る わ け こ う し た時 期 が 天 授 元 年 (一一 . 一 七 五 )ま で続 き、 翌同 二 年 は ち お う 記 さ れ 、他 の年 は大 頭 記 録 は み ら れ な い。も っとも 、 では な いが 、 こ れ ら の動 向 に関 連 が あ ると 考 え ら れ る史 料 あ った はず であ ろ う 。 元 中 五 年 以 後 は毎 年 九月 頭 一人 の み が 記 録 さ れ て永 正 十 五 (田 畠 地 作 主 職 等 売 券 ) 数 点 が あ る。 そ のう ち の 一点 は つ 九 月 頭 一人 の みが 記 載 さ れ て い る。 つい で、 以後 弘 和 三 年 年 (一五 一八)ま で続 く が 、 嘉 吉 三年 (一四 四 三)∼ 宝 徳 三 年 売渡 畠 地 作 主職 事 ぎ のと お り で あ る。 (一四 五 一)ま で は 入衆 ・大 頭 勤 仕 に月 日 が み ら れ な い。 つま り 、 二十 一人 の未 頭 衆 の烈 参 に よ って実 現 し た両 頭 制 は、 長 く 続 い た と み て も天 授 元 年 ま で の 二十 三 年 間 で、 合一 所者 四晶 棘雑 囎鹸 目 翌 同 二年 に は前 記 の と お り 九月 頭 一人 と な り 、 あ と 両 頭 は 在 大 和 国 竜 門 庄山 口郷 ノ内 字 湯 尻 ノ元 宗 国 名 ノ内 、 右 件 畠 地 作 主職 者 五郎 四郎 先 祖 相 伝 之 私 領 也、 錐 レ然 記 録 の 上 で は み ら れ な く な った 。 こう し た 両 頭 制 の 崩 壊 は、 前 記 し た 入衆 漸 減 の動 向 と ほ ぼ 一致 し て い る。 却一 事 実 正 明 白 也 、 湯 宗 国 名 へ夏 麦 二口 大 豆 二舛 在 之 、 ( 舛 力) 傍 レ有 二要 用 一 直 銭 壱 貫 文 仁 宛 テ永 代 定口 房 ノ 方 へ令 一 一 沽 も 一致 す る よ う で あ る 。 そ れ は 元 中 五 年 (= 二八 八 )の 入衆 此 外 無 役 ノ 処 也、 五 郎 四郎 先 祖 相 伝 之 上 ハ後 代 不 レ可 レ と と も に、 座 衆 の 一部 に殿 称 の者 が みえ はじ め る時 期 と の親 ﹁左 衛 門 太 郎 殿﹂ には じ ま り、 室 町 時 代 に入 る と次 第 有 二地 発 一処 也、 傍 為 後代 証文 新 券 文 之 状 如 件 、 マキ 応 永光年癸卯 二月十六日 証人孫太郎 ○ えり に多 く な る。 も っと も、 そ れ は 寛 正 四 年 (一四 六 三 )ま で で 以 後 激 減 す る。 と い っても 、 も ち ろん 全 然 み ら れ な く な る こ れ は畠 地 の作 主 職 売 券 と 考 え ら れ る が、 所 在 は竜 門 庄 山 五郎 四郎 す る こ と も み ら れ る 。つま り 、使 用 が厳 正 でな いと いう か、 口字 湯 尻 元 にあ った 宗 国 名 内 で あ る。 名 畠 で あ った か ら、 わ け で は な い。 ま た、 同 一人 でも と き に よ って殿 称 が有 無 そ う い った面 も あ る 。 し か し、 は じ め は み ら れ な か った 殿 一39一 小 作 関 係 の 形成 が背 景 にあ った も の と み て よ か ろ う。 を醸 出 す る作 人 にな った も のと 考 え ら れ、 つま り、 地 主 ・ 売り 主 ( 作 主、 名 主 でも あ る) は売 却 後 は買 い主 に 加 地 子 実 際 には 田畠 の剰 余 生 産 ( 加 地 子 、 作 職 ) の売 券 であ り 、 の条 件 (年 貢 等 完 済 ) のも と で の所 有 権 と 考 え ら れ るが 、 券 文 であ ろう 。 作 主 職 と は、 こ の場 合 田 畠 に対 す る、 一定 いた 五郎 四郎 が応 永 三 十年 に定 口 房 に転 売 し たと き の新 立 町 大 字 牧 ) の 五郎 四郎 の先 代 某 に売 却 し、 そ れ を相 伝 し て お そ ら く、 も と宗 国 名 名 主 某 が 同 畠 の作 主 権 を牧 ( 大宇陀 そ こ に、 本 名 分 解 の 一段落 と あ いま って、 前 記 し た よう に す み、 新 名 の階 層 分化 も 相 当 に進 ん だ の で は な か ろう か。 れ た こ とが 推 測 され る 。 こう し た な か で作 主職 の売 却 が す と、 南 北 両 朝 統 一前 後 から 竜 門 庄 年 貢 ・公事 は相 当 強 化 さ れ て 百 五十 貫 文 と な る。 以 上 の 代 官 請 料 の 変 化 か ら み る って さ ら に軽 く なり 百 二十 貫 文 、 そ の後 大 永 二年 に強 化 さ 二百 貫 文 、 中 頃 より 軽 減 さ れ て百 五十 貫 文、 戦 国時 代 に入 が、 室 町 ・戦 国 両 時 代 を 通 じ て代 官 請 料 の額 で は、 は じ め 当 に 強 化 さ れ た よ う で あ る。 そ れ は 後 述 のと お り で あ る 化 コー スよ り は家 父 長 的 複 合 家 族 経 営 の小 家 族 経 営 への分 新 名 の形 成 が あげ ら れ よ う (後 述 )。そ れ は隷 属 小 農 の自 立 成 のな か で考 え ら れ る こ と と し て 百 姓 名 (本 名 ) の分 解 、 北 朝 時 代 が 相 当 し た も の か。 こう し た 地 主 ・小 作 関 係 の形 庄 に限 らず 前 記 下 田 庄 の法 楽 寺 座 の頭 役 ・入 衆帳 に も み え も 身 分 的 に は地 下 人 と考 えら れ る。 と ころ で、 殿 称 は竜 門 が 寛正 四年 以 後 と な る よう であ る。 も っと も、 こ れ ら 殿称 分 化 の、 さ ら に進 展 す る な か で殿 称 は激 減 し てゆ く 。 そ れ 記 録 さ れ る よ う に な った の で は な か ろう か 。 し か し、 階 層 入 衆 漸 減 の動 向 が 形成 さ れ、 ま た、 階 層 分 化 の上 限 は、 本 解 コー スと み る のが 妥 当 で は な か ろ う か。 こう し た 動 向 の る。 同 帳 は建 久 七年 (一 一九 六)に はじ ま る が、 殿 称 が初 見 大 和 の国 中 ・平 坦 地域 では 右 の よう な地 主 ・小 作 関 係 は 進 展 す る な か で入 衆 が 年 に 三人 ・四 人 にな る こと も あり う す る の は鎌 倉 時 代 中 期 の建 治 四 年 (一二 七 八)で あ る。 し か 名 主 に系 譜 す る有 力名 主 (惣領 家 ) と とも に殿 称 を も って る よ う に な ったも の と考 え ら れ る。 し、 南 北 朝 時 代 末 期 の 康 応 二年 (= 二九 〇 )を 最 後 に 消 滅 鎌 倉 後 期 以 降 形 成 さ れ る が、 吉 野 山 間 の竜 門 庄 の場 合 は南 駄し か し 、 南 北 朝 時 代 末 期 頃 より 南 朝 方 の崩 壊 に よ って実 し 、 室 町 時 代 に入 る と 殿 称 は み ら れ な く な って し ま う。 (26 ) 質 領 主支 配 の競 合 が な く な る と 、 竜 門 庄 の年 貢 ・公 事 は相 一一 一40一 料 が 現 存 す る若 槻 庄 、 下 田庄 に隣 接 し て いる と 考 え ら れ る と 同 じく 大 和 の国 中 ・平 坦 地 域 に あ って、 し か も 適 当 な 史 ・消 滅 に つい て関 連 し た史 料 は 見 当 ら な い。 そ れ で下 田 庄 し 、 下 田 庄 内 法 楽 寺 座 の頭 役 ・入 衆 帳 の場 合 も 殿 称 の出 現 共 通 す る根 拠 が あ った も のと み ても よ さ そ う であ る。 し か 喰 い違 いは あ る に し て も 、 類 似 し た 現 象 であ り 、 そ こ に は 竜 門 庄 の ﹁大 頭 入 衆 日 記 ﹂ と 比 較 し てみ る と 、時 期 的 に し た 背 景 に は同 庄 作 人 ( 後 述 ) を中 心 の弱 体 化 し た惣 結 合 寺 と 一体 化 し て い る。 若 槻 庄 が 室 町時 代 に集 村 化 ・環 濠 化 集 落 は 西 方 (寺 社 の方 ) に延 び てゆ き、 今 日 で は集 落 は社 堂 敷 地﹂、同 二 二坪 に は ﹁四反 堂 宮 ﹂と あ る。 以 後 、 若 槻 庄 る こと も う か が え る。 な お、 三条 一里 一= 坪 に は コ 反 堀 え ら れ る 。 ま た 、 大 堀 の 一部 も み ら れ環 濠 集 落 と な って い 段 が 室 町時 代 に は 七段 に縮 小 す る 形 で集 村 化 し たも のと 考 ので、 鎌 倉 時 代 後 期 に は庄内 に散 在 し て い た屋 敷 地 一町 五 と 在 地 武 士 の指 導 が いち おう 推 測 さ れ る。 そ れ は本 来 鎮 守 当 麻 庄 、 そ れ ぞ れ の百 姓 名 の動 き に つ いて考 察 し て み る 。 若槻庄等 の動向 (27 ) ・宮 寺 を軸 と し た 座 的 結 合 であ った と考 え ら れ る が記 録 と と、 名 主 屋 敷 合 計 一町 五 段 は庄 内 に散 在 し て お り 、 いわ ば 期 徳 治 二年 (= 二〇 七 )の若 槻 庄 土 帳井 同 条 里 坪 付 図 によ る 一地 理 的 条 件 下 に あ る と考 え ら れ る 。 同 庄 は、 鎌 倉時 代 後 園 で、 大 和 国 中 ・平 坦地 域 に所 在 し基 本 的 に は下 田 庄 と 同 解 す る動 き を中 心 と し たも の であ る。表 8 の2 は 二∼ 三 に つぎ のと お り と な る。 表 8 の ー は本 名 が 二∼ 三 の新 名 に分 ー ・2) と 問 田 百 姓 の状 況 (表 8 の3) を 作成 し て み る と 時 代 後 期 の若 槻 庄 の本 名 の分 解 と 新 名 の形 成 状 況 ( 表 8の つぎ に、 前 記 徳 治 二年 土 帳 井 条 里 坪付 図 によ って、 鎌 倉 し ては 今 日 みら れ な い。 散 村 形 態 を な し て い た が、 室 町時 代 文 正 元 年 (一四 六 六)の 分 解 した 本 名 の 一部 分 が 二∼ 三 の他 の旧名 の分 解 し た 一部 若 槻 庄 は大 和 郡 山 市 若 槻 町 に所 在 し た 興福 寺 大乗 院 領 庄 七 分 と 一体 化 し て新 名 を形 成 し た動 き を 示 す も ので あ る。 表 小溝 反 屋敷御米田 8 の ー の本 名 は 二∼ 三 の新 名 に分 解 し た と し ても、 そ れ は 土 帳 で は添 下 郡 三条 一里 三 四 坪 一町分 に ﹁大 堀 敷 地 が 御 米 田 ハ名 田 ) め う ち に設 定 さ れ て い る こ と が う か 経 営 面 で の自 立 で あ って、 そ のう ち の 一名 は本 名 の 惣領 家 二反 御 米 ﹂ と あ り、 こ れ に よ る と 七 段 の屋 が え る 。 同 土 帳 で は右 の ほ か に名 主 の屋 敷 地 は み ら れ な い 一41一 れ か の部 分 が 本 名 主 の 惣 領家 を 継 い で指 導 的 な 役 割 り を果 形 成 し て いる に し て も、 そ の枠 内 で 経 営 的 には 自 立 し、 ど 8 の 2 の場 合 も 相 互 に異 った本 名 の 一部分 が集 って新 名 を を継 い で他 の新 名 と 一体 化 し て いた も のと 考 えら れ る。 表 た の が、 右 の生産 性 の向 上 に よ って小 家 族 経 営 への転化 の 五段 前 後 以 上 の場 合 は家 父 長 制 複 合 家 族 によ るも の であ っ で あ る。 つま り、 鎌 倉 時 代 前 期 以 来 の百 姓 名 の経 営 は 一町 の農 業 経 営 の集 約化 等 に よ る生 産 性 の向 上 にも とつ く 動 き 集 9下 司名 17.000 下 司 名17.00011 10公 文名 17.000 公 文 名17.00012 18 19 20 ・1!・ 17 田 名14.120 14大 垣 内 名17.270 名 16嶋 名18.060 宗名28.1208 え ら れ る。 し か し、 生 産 性 の向 上 によ って庄内 上 層 の新 名 結果、百姓 名 ( 本 名 ) は 二∼ 三 の新 名 に分 解 し た も のと考 15.314 16 13中 (28 ) 名 15 六 名15.270 一42-一 し た も の で あ ろ う。 8集 ・5.3・・<1:300000 14 12清 名15.31410 尻 名 13 段 歩 飼 田名18.000 五 郎 丸 名8.0009 7池 ㎜ ㎜ ㎜ ㎜㎜ ㎜ 11牛 歩 ㌦膿 噺協 辮 綿 糊 粥 鱗 醐 醸 し く 輔 撚 ⋮鰯 ⋮鐡 ㎜ ㎝㎜翻 ・7.・2・ ・5麟 の 若 槻庄 士 帳 に よ る。 徳 治2年 〔註 〕 名) (旧 以 上 の新 名 の 形成 は、 経 済 的 には 鎌 倉時 代 後 期 に入 って (大東 力) 芝 ラ プ 糊 灘 ≡=棄 響響1:0607 1藁東嚢 欄=三 名1:150 3001 2南 垣内名1&090『\=畿 歩 名) 段 難ili 1西 名23.000ミ 名)(新 段 (旧 貞 名55.18821 群 名19.2705.188宗 17平 雑な場合 (2)複 純 な場 合 (1)単 名の分解新名の形成 表8旧 ・111 1,015 3西 蓮 3,090 1,054 4下 司 2,000 2,000 5公 文 1,000 1,000 計 小 23.159 18 a 平 5 八 五 6 4 郎 郎 九 7 8 太 郎 り む バリ 18 00 00 00 a 4 4 4 3 源 18 5 1.000 00 3 む 11 α り 06 0 0 00 a a a 00 L 連 五 燃 郎 30 00 2 L 二 仏 む 09 4 道 日 宗 念 四 法 む 18 α 郎 十 り 18 0⋮ 房 御 計192.…1・5.3・411.…1・ ・&3・4 〔註 〕 徳 治2年 の若 槻庄 士 帳 に よ る。 入 る か ら武 士化 し た侍 分 と み な さ れ よ う。 とす る と、 村 内 に居 住 し て い た と し ても 村 民 で は な く、 名 主 の座 の結 衆 で あ った者 は座 を離 れ たも の と考 え ら れ る。 従 って、 名 主 の座 の 結 衆 と し て の殿 称 の名 主 は披 官 化 し て いな い侍 分 と い った存 在 と考 え ら る 。 そ のう ち 集 名 の仲 二郎 ・徳 石 四 郎 ・浄 念 の三人 は 屋敷 の 問 田 百 姓 二十 人 は 経 営 面積 か ら み る と 八段 代 以 下 で あ が、 石 王 丸 以 下 五 人 の名 主 は問 田 も 経 営 し て いた。 そ の他 つぎ に、 結 衆 外 と みら れ る 問 田 百 姓 の 表 8 の 3 で あ る れ る。 いわ ば 、 地 下 人 のう ち の侍 分 で、 姓 も持 た な い。 姓 二 春 主 家 の惣 領 を継 いだ 新 名 主家 は 殿 称 を も って扱 わ れ る よう 層 惣 領 家 は 武 装 し て 他 侍 化 す る 面 も あ った ろう 。 こ の場 百 源 田 0⊥ 1← つ 2 3⊥ つ 4 5 6⊥ 7⊥ 噌 8 9 0臼 至 ⊥ ⊥ ¶ ⊥ 可 ⊥ 噌 ■ 9 藤 道 0.144 9 成 盛 浄 郎 0.250 三 郎 1!'1 ま た 、 地 主 化 は そ れだ け農 耕 か ら 離 れ るも の で あり 、 上 に な った の で は な か ろ う か。 む 18 4 珊 ㎝ 魍 拗 拗 ㎜ ㎜ 湿拗 拗 珊 幟 ㎜ ㎝ ㎝㎜ ㎜ ㎜ 謝 励 && 乳 α α 5 5 44 4 4 4 a a a 2L L α α り 25 18 5 Z 郎 郎 徳 2 1.180 郎 0.030 二 碑 仲 1 1.324 六 治 0.080 0.180 主 のう ち に は地 主化 す る も のも あ った ろう 。 そ のう ち 本 名 問 0.252 3.087 地 も あり 、 経 済 的 に は自 立 の可 能 性 も 考 え ら れ、 いず れ結 一43一 2.269 計 地 合 合 、 興福 寺 の衆 徒 ・国 民 に披 官 化 す れば 支 配 者 層 のう ち に 85.155 合 計170.270113.24511.0001 1小 1。 心 主 1.159 4,144 2西 1石 2.069 21.090 7,015 ・111 歩 段 歩 段 歩 段 名融 田陳 問田作人 固 段 歩 9,000 王 丸 名 ・若 槻 庄 問 田百 姓 治2年 (3)徳 衆 への余 地 が あ った か も知 れ な い。 他 の問 田 百 姓 は、 いち お う 自 己 の経 営 を持 って いた にし ても 零 細 であ り 、 屋 敷 地 も な く 名 主 の小 屋 住 み等 で あ った も の であ ろ う 。 し か し、 上 層 名 主 の地 主 化 と と も に そ の作 人 と な り、 機 会 を み て同 田畠 の作 主 職 を買 得 す る 可能 性 も あ った ろ う 。 さ ら に は、 そ れ ら 経 営 地 が 土 帳 に 登録 さ れ る 形 で 領 主 にそ の存 在 を認 20.240 9.036 11.000 15.180 12.240 9.144 尉 門 近ネ 殿 郎 郎郎 近 10.000 9.144 徳 治 二年 の時 期 で問 田 百 姓 二 十人 は新 名 主 二十 一人 に匹 敵 中 荘 (大 和 郡 山市 中 城 町) の在 地 武 士 吉 岡 氏 一族、 同 じ く 持 し て いる も のは み ら れ な い。 逆 に周 辺 の興 福 寺 一乗 院 領 ヒ す る 人 数 であ り 、 新 名 主 に よ る 座 の結 合 は 問 田 百 姓 の存 周 辺 の興福 寺 大乗 院 領 番条 庄 ( 同 市 番 条 町 ) の在 地 武 士 で 若 若 在、 台 頭 の動 向 と とも に、 い っそ う 緊張 を 必要 と し た も の 同院 方 衆 徒 であ った 番条 氏 一族 、 そ れ に同 じく 周 辺 の興 福 (29 ) (31 ) 大 乗 院 か ら 補 任 さ れ た も ので あ る が、 そ の根 底 に は、 若 槻 い ても な お 強 い支 配 権 を持 って お り、 年貢 等 未 納 が あ れば 興 福 寺 は大 和 国 内 の同 寺 領 庄 園 に対 し ては 室 町時 代 に お 作 人 に転 落 し、 作 主 職 にも とつ く 得分 ( 作 職 ) を同 職 買 得 時 代 に い た る間 に名 田 畠 の作 主 職 を多 く売 却 し て同 田 畠 の ま り 、 鎌 倉 時 代 後 期 の前 掲新 名 主 な いし そ の子 孫 は、 室 町 庄 名 田 畠 の 作 主職 の 買 得 が あ った も のと 考 え ら れ る。 つ 随時 名 主 を 交 替 さ せ た が、 表 9 によ ると、 室 町時 代 の若 槻 者 に毎 年 納 入 し な け れば なら ぬ立場 にな る 形 で庄 内 に存 在 (32 ) 庄 の名 主 はh 前 掲 鎌 倉 時 代 後 期 のそ れ と は 全 く 変 って し ま し、 座 の結 衆 と し て存 続 し て い たも のと、、基本 的 に は考 え 表 9 のと お り で あ る。 つぎ に、 集 村 化 ・環 濠 化 し た室 町時 代 の若 槻 庄 の名 主 は (30 ) であ った ろう 。 な お、 名 主 ・問 田 百 姓 と い った 二階 層 は、 〔註 〕 『大 乗 院寺 社 雑 事 記 』 寛 正6年5月4日 条。 寺大乗院領稗田庄 ( 同 市 稗 田 町) の金 融 業 者 弥 九 郎 、 以 上 19.180 百 姓 名 設 定 以 来 存 在 し て いた も のと 考 え ら れ、 名 主 の座 の 士口 士口 士口 士口 一 誉 番 ↑番 二番 若 22.288 が 若 槻 庄 名 主 とな って いる。 も ち ろ ん、 彼 等 名 主 は興 福 寺 名 14.144 郎門 郎 7.072 騨雛響同 鮪 主 歩 段 11.000 成 立 は 、 二階 層 の設 定 以 来 と 推 測 さ れ る 。 め ら れ 、 漸 次 台 頭 し て ゆ く余 地 は あ った ろ う 。 若 槻 庄 で は 名 田数 って い る。 庄 内 で は在 地 武 士若 槻 氏 一族 以 外 で名 主 職 を維 一44一 ・若 槻 庄 名主 表9 寛正6年 11.132 35近 元 名 14.346 7.350 晶 包善賜智吉貞 助 今 岩 勝 助 金 安 隆 快 小 成 岩 助 得 安 快 秋 行 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 1 1 1 1 1 1 1 1 1 貞轟 力正犬華 轟 6.120 / 15.102 名 ら れ る。 こ の段 階 で は殿 称 に値 す る地 下 人 は いな か った 28小 殿 人 人 殿 田 田 高 同 同 公 丸 支 7.090 主 ・111 のではなかろうか。 4.090 若 槻 庄 名 主 は興 福 寺 大 乗 院 衆 徒 番条 氏 一族 を 中 心 と し、 16.016 吉 岡 氏 一族 、 若 槻 氏 一族 と い った 武 士 層 によ って占 めら 郎 34包 6.300 (33 ) 名 れ た 。 周 辺 の番 条 ・吉 岡両 氏 一族 は も ち ろ ん 、 若 槻 氏 も 33太 6.310 武 士 化 し て支 配者 層 にな った 以 上 は、 前 記 し た と おり 、 17.000 13.096 村 民 の 立場 を 離 れ 、 名 主 で あ っても 座 の結 衆 で は な か っ 一 2.300 名 1.300 17.123 た ろ う。 1.030 30常 時三 分0 8.120 末 半 名 7.045 つぎ に、 いま 一点 、 前 記 北 葛 城 郡 下 田 庄 の西 辺 に所 在 7.036 忠 名 御点定トキノ 32小 石 名 31行 ミソチ田疋 5.315 末 半 名 10.020 ( 鈎) 13.293 6.300 す る興 福 寺 一乗 院 領当 麻 庄 の応 永 十 二年 (一四 〇 五)の近 末 兵衛深郎 殿 馬場殿1 三 郎 半 29安 則三 分 一 26成 27成 14.356 主 13.096 23近 名 名 名 名 名 名 分 名 名 半 名 一 名 名 一名 名 名 13.150 衛 殿 御 所 造 営 段 銭支 配 状 にみ え る新 名 と 新 名 主 は表 10 の 10.010 名 カ カ ヲ人 殿 坊 人殿 人 院 ヲ殿 殿 人 殿人 人 人 人人 殿 井 南 殿才 崎 塚 南 同 岡 瓦同 今 同 塔新 万 岡 同 福同 同 同 同同 名 貞 13.000 と おり で あ る 。新 名 は 本 名 の半 名 ・三分 一名 ・四分 一名 名 貞 22光 10.150 等 と な って い るが 、 新 名 主 は平 田 庄 庄 官 で興 福 寺 一乗 院 名 21末 7.072 一45一 6.050 13.000 36常 時三 分0 13.202 名 国 25安 永 四分 一 24岩 13.096 次 19吉 歩[名 段 段 歩 福塚殿 同 人 同 人 塚上堂フセ 西田井 殿, 同 人 北坊口口 豊井殿 禅識房 川畔殿 中殿ア ト 名 時三 分 一 20常 10.300 方 国 民 の岡 ・万 歳 ・布 施 ・高 田 の諸 氏 、 そ の 一党 の被 官 武 士 の ほか は院 坊 等 で、 いわ ゆ る村 民 と し て の地 下 人 と 見 受 け ら れ るも の は ひ とり も いな い。 お そ ら く 、 地 下 人 と し て の新 名 主 は南 北 朝 時 代 を 通 じ て名 田 畠 の作 主 職 を 多 く売 却 し て作 人 に転 落 し 、 名 主 職 をも 失 って し ま った も の で、 若 槻 庄 に同 じ動 き と考 え ら れ る。 以 上 の若 槻 ・当 麻 両 庄 の動 き か ら み る と、 室 町時 代 に 表10 し て い た も の と み て よ か ろ う 。 いず れ、 戦 国 時 代 に は百 姓 人 ・百 姓 は み ら れず 、 百 姓 名 体 制 は平 坦 地 域 で は実 質 崩 壊 は、 な お 百 姓名 体 制 は 存 続 し て いた に し ても 、 名 主 に地 下 三月 二十 五 日条 に は、 う で あ る。 ま た ﹃大 乗 院 寺 社 雑 事 記 ﹄ 長 享 三 年 (一四 八九 ) 拾 九 石﹂ と み え る。 畠 方 で は麦 ・豆 ・楮 等 が 栽 培 さ れ た よ 柳 村 の同 検 地帳 に は ﹁田 方 参 百 弐 拾 三石 四 斗 弐 升、 畠 方 百 人 が 居 住 す る村 は、 支 配 層 に 被官 化 し た 武 士 が 名 主 と し て い な く な って いた も のと み てよ い の で は な い か。 ま た、 作 さ れ、 こ の よ う な 状 況 のも と で は殿 称 を必 要 とす る村 人 は み ら れ、 そ こ に は、 名 主 職 を 失 った 作 人 が い たも の と み な の両 庄 の動 き か ら 推 測 す るに、 下 田 庄 内 でも 同 様 の動 きが 材 木 ・紙 、 山 野 ・河 川 か ら の各 種 収 獲 も あげ ら れ、 貨 幣 経 る と 、 竜 門 庄 は人 馬 の往来 も多 く、 産 業 面 でも 農 業 の ほ か 山 か せぎ も 農 間 副 業 と し てお こな わ れ た ろ う。 以上 か ら み け て い る こ とが う か が え る。 そ のほ か、 柴 ・炭 ・割 木 等 の と み え、 千 股 の衛 門 太 郎 が 興 福 寺 大 乗院 の材 木 の御 用 を受 吉 野 河 ツ ラチ マタ衛 門 太 郎 参 申 、材 木 事 仰付 之 了、 (35 ) 名 や庄 官 は消 滅 し、 庄官 に代 って庄 屋 が 出 現 し て く る。 右 支 配 し て い た と いう関 係 も あ り 、 以 前 の と おり の座 的 結 合 済 も 比 較 的 発 達 し て いた よ う に考 え ら れ る。 名 主 が 公 事 屋 従 って、 前 記 のと お り、 代 官 請 料 が 二百 貫 文 の時 期 、 百 (36 ) に よ る自 治 が あ った と も考 え が た い。 地 域 の下 田 ・若 槻 ・当 麻 の 三 か 庄 と は 地 理 的 事 情 が 違 う と 二 十 貫 文 か ら 百 五 十貫 文 に強 化 さ れ た時 期 に は、 田 畠 の作 と 称 せ ら れ て いた のも 以上 と関 係 し よ う。 は い え、 当 時 の竜 門 庄 は今 日 の竜 門 と は 相 当 異 って いた ろ 主 職 を 売 却 し て小 作 関 係 に 入 る割 り 合 が 相 当 高 か った の で と こ ろ で、 竜 門 庄 の所 在 は 山 間 地 域 であ り 、 国 中 ・平 坦 う 。 つま り 、 前 記 の と おり 、 大 和国 中 よ り 吉 野 への通 路 に は な いか と 推 測 さ れ る。 表 7 に よ る と、 正 平 二十 三年 (= 二六 八)∼ 建 徳 元 年 の三 大頭勤 仕の変化 あ た り 、 ま た宇 智 郡 か ら の伊 勢 街 道 が 吉 野 川 沿 い に東 西 に 走 ってお り 、 吉 野 川 自 体 にも 面 し て お り、 上 市 ・下 市 が 西 ま た、 山 間 の割 り に は 田 地 が多 く 、 山 口村 文 禄 検 地 帳 に 年間 、 天 授 五 年 (= 二七 九 )・同 六年 、 元 中 三 年 (一三 八 六) 隣 り に あ った。 は ﹁田方 百 六 拾 三 石 八 斗 五升 、畠 方 九 拾 二石 五 斗 ﹂と あ る 。 一46一 理 由 も 不 明 で あ る。 以 上 の ほか で問 題 と な る の は、 永 享 五 年 (一四 三 五)は 年号 と 干支 の み で ほ か に記 載 は な い。 こ の な いが 、 そ の理由 は 不 明 と いう ほか な い。 つい で、 永 享 七 .同 四年 の計 七年 分 は ﹁大 頭 入 衆 日 記 ﹂ では 記 載 さ れ て い め た。 幕 府 軍 は、 お そ ら く 明 日香 村 岡 から の芋 か峠 越 え に 反 旗 を ひ る が え す と、 幕 府 は 一色義 貫 ら を派 遣 し て討 た し 将 軍義 教 の弟 大 覚 寺 義 昭 が 天 河 ( 吉 野 郡天 川 村 ) に お い て し た 。 こ の間 、 同 年 七月 に、 前 年 以来 大 和 に出 奔 し て い た 武 峯 を 攻 め る と後 南 朝 方 の越 智 維 通 ・箸 尾某 は同 峯 を遁 逃 か で竜 門 城 に は 一色 直 信 が 入 ったも の の よう であ る。 と す 竜 門 庄 に 入り 吉 野 に向 か ったも の で あ ろう か。 こう し た な 年 は ﹁頭 ナ シ、 大 旱﹂ と あ る。 こ れ は大 旱 越 の た め に年 中 行 事 は 何 も な く、 入 衆 も 大 頭 勤 仕 も な か ったも の で あ ろ う 。 翌 六年 は 入衆 も 大 頭 勤 仕 も お こ なわ れ て い るが 、 永 享 る と、 竜 門 庄 内 も お そ ら く、 兵 糎 米 等 で こ の合 戦 に巻 き こ ま れ る可 能 性 が 高 く、 前 記 の と おり ﹁大 頭 ト マル﹂ と い っ 七年 は前 記 のと おり で あ る。 つ い で、 同 八 ・九年 は 入衆 も 大 頭 勤 仕 も お こな わ れ て い るが 、 同 十 ・十 一年 の 二年 分 で た状 況 に な ったも の と み な さ れ る。 永 享 十 二年 に な る と、 将 軍 義 教 は 一色 ・土 岐 両 氏 の大 和 ( 巌 力) は ﹁大 頭 ト マル、 御 供 バカ リ マイ ル、ミ子寺口 童 ﹂ ﹁大 頭 ト マル、 先 同 、 ヒラヲ 衛 門 九郎 、 入 頭 さ 衛 門 次 郎 、 斉 六 トノ で の動 き に疑 問 を持 ち 、 後 南 朝 方 に内 通 し た も のと み て 五 月 には 武 田 信 栄 ・細 川 持 常 ら をし て 一色 義 貫 ・土岐 持 頼 を 跡 ﹂ と あり 、 翌 永 享 十 二 年 は 例 年 ど おり と な って い る。 永 享 十 .十 一年 は大 頭 は勤 仕 し た が、 年 中 行 事 は なく 、 神 仏 討 た せ ると 、 両 人 は外 山 ・三 輪 (桜 井 市 ) の陣所 で そ れ ぞ (7 3) への御 供 を お こな った だ け の よ う で あ る。 ﹁大 頭 ト マル﹂ れ 自 決 し た 。 こ のと き 、 竜 門 城 にあ った 一色直 信 は細 川持 享+ ●± 両年 の ﹁大頭ト マル﹂ の根拠を推 測 と は 以 上 の意 味 の よ う で あ る。 そ の理 由 は記 す と こ ろ は な 以圭 元 に 攻 め ら れ、 つ い に 竜 門 寺 峰 堂 に 入 って 自 害 し た と い べ た と こ ろ で あ る。 こ の点 は正 平 八 年 以 後 の大 頭 二人 n両 正 中 二年 以 来 の大 頭 勤 仕 は入 座 順 で あ った こと は 既 に 述 し て みた 。 以 後 数 年 に し て大 頭 勤 仕 が 変 ってゆ く 。 癖 いが 、 永 享 元 年 以 来 、 大 和 永 享 の乱 が お こ って いた 。 同 乱 は 後 南 朝 方 の幕 府 への反 抗 で も あ り、 吉 野 地 域 も 無 関 係 で は な か った。 後 南 朝 方 は多 武 峯 か ら 明 日 香 地 域 に陣 を構 え て いた よう で、 永 享 十 年 五月 幕軍 は 倉 橋 ( 桜 井 市 )・橘 寺 (高 市 郡 明 日 香 村 ) の後 南 朝 方 の両 城 を 陥 れ、 同 年 八 月 多 一47一 次 第 ﹂ と あ る点 か ら み て も、 ま た座 衆 の入 座 年 次 と 大 頭 勤 頭 に な っても 同 じ で あ った。 前 掲 史 料 で は ﹁両 頭 事 可 為 入 る。 しか し、 入 衆 の方 は 差 定 ど お り で、 明 応 四 年 に は次 郎 定 さ れ て い た 山 口 の 助 次 郎 が 二年 早 く ヲリ 頭 を勤 め て い 山 口助 次 郎 殿 勤 仕 サ セ申 者 也 ﹂ と あ るよ う に、 三 年先 に差 兵 衛 の子 息 が 入り 、 次 郎 兵 衛 は 同 五 年 に ヲリ 頭 を勤 仕 、 翌 仕 の そ れ を比 較 し て み て も 明 ら か で あ ろ う 。 し か し、 右 の よ う な座 への入 次 第 (順 番 ) に大 頭 を勤 仕 同 六 年 に助 次 郎 子 息 が 入 衆 と な って いる。 も っとも 、 ヲ リ頭 は第 一冊 の永 正 十 五 年 (一五 一八 )ま で す る様 式 は室 町時 代 も 永 享 年 間 を へて嘉 吉 頃 に な る と大 頭 を勤 仕 し て 二 ∼ 三 年 く ら い でそ の子 息 が 入 座 す る よ う に か ﹁ヰ り 、 後 掲 の天 正 元 年 の 入衆 は 一人 と な って お 多 様 で あ る。 し か し、 み ら れ る年 と、 記 録 は 名 前 の み の年 、 両 者 が 前 の み の年 、﹁入 衆﹂ の り 、﹁勤 仕 ﹂し た 者 の名 ト ナ ミ﹂ を す る年 も あ る O 入 衆 が そ の年 は は っき り し て い るが 、 同 十 六 年 以後 は 九月 七 日付 の 入衆 ワね 記 録 で は、 ヲリ頭 の勤 一48一 わ る。 そ れ は さ ら に変 化 し 、 文 明 年 間 以 後 は原 則 と し て子 ﹃0 香 東 大 西 、 某母 ノチ カ ヰ 一人 の 記 載 のみ と なり 、 同 冊 は 大 永 八年 (享 禄 元 、 一五 二 Qσ ム 西 谷 ヲニ シ、 太 若 姉 チ カヰ 息 が 入座 す る前 年 に父 親 が 大 頭 を勤 仕 す る よう に な って い ヲウ チ ノチ カヰ ■⊥ エ 西 谷 上 コヤ 、三 郎 四郎 タ ウサ ウ 八 )で終 って い る。 こ の間 、 大 頭 は ヲリ 頭 か ど う か 不 明 で リ 下 コヤ ノ斉 六親 父 チ カ ヰ る。 従 って 入 衆 は 毎 年 一人 に限 定 さ れ る。 こ の よ う な大 頭 ハ 西 谷 ミナ ミ、 五郎 三 郎 タ ウサ ウ あ る。 第 二冊 は 大 永 七年 か ら 天 正 十 二年 ま で の 記 録 であ ll 峯 寺 中 西 、 六郎 次郎 タウサ ウ 永 文 禄 大 天同 同 同同 同 永 ワロ ヒラ ヲ シヤ ウ チ、 ア ニ ノ チ カヰ を ﹁ヲリ﹂ ( 降 り か )頭 と い って いる。 つま り 、座 衆 と し て の立場 を 子 息 に譲 って、 親 は座 を降 り る わ け で あ る。 従 っ て子 息 の入 座 す ると き の年 令 は 以前 の よ う に 一定 し な く な る◎ ま た、 ヲリ 頭 の勤 仕 は、 誰 が 何 年 に勤 め る か は 予 め 座 評 定 で差 定 さ れ て い たも の で あ る。 し か し、 本 人 な いし 近 親 者 が 死 去 し た 場 合 は、 臨 機 応 変 の措 置 が と ら れ た。 そ れ と し て明 応 三 年 (一四 九 四 )か ら数 年 が あげ ら れ る。 同 三 年 の ヲリ 頭 は 次 郎 兵 衛 で あ ったが 、﹁ウ ハ﹂の 死去 に よ り勤 仕 で チ カ ヰ(自 害)・ タ ウ サ ウ(逃 走) 次 年 き な く な り 、 翌 同 四 年 に予 定 さ れ て い た右 馬 四郎 も、 お そ ら く 近 親 者 の 死 去 で 勤 仕 不可 能 と な り、 ﹁三年 目 ナ レド モ 表11 で あ る。 ま た 、 こ の 第 二 冊 で 目 立 つ こ と は ﹁チ カ ヰ ﹂ ( 自 仕 と な って いる。 こ の場 合 で戦 わ れ た 九 月 四 日 以来 の ﹁多 武 峯 合 戦 ﹂ に お い て、 さ ら で、 十 市 遠 治 ・箸 尾 為 国 ら が多 武 峯 寺 へ没 落 し て来 た関 係 人 の筒 井 ・箸 尾 ・十 市 ・越 智 の諸 氏 を 破 って南 下 す る な か ﹁ヲ リ コ メ ﹂ を 必 要 と し た も の 害 ) 者 、 ﹁タ ウ サ ウ ﹂ ( 逃 走 ) 人 が目 立 つ こと で、 記 録 さ れ に多 武 峯 寺 衆 徒 ・十市 ・箸 尾衆 が敗 北 し た こ と の余 波 と し (一五 二 二)竜 門 庄 は同 庄 代 官 多 武 峯 寺 の発向 を受 け 、同 寺 た よ う に、 いち おう 推 測 さ れ る。 し か し、 つ いで大 永 二年 て竜 門 庄 も放 火 さ れ た も のの よ う で、 大 し た被 害 は な か っ て い る の は 表 11 の と お り で あ る 。 逃 走 人 に つ い て は、 天 文 四 年 の 場 合 つぎ の と お り みえ る。 入 衆 峯寺中西 六郎 次 郎 走) 衆 徒 に よ り 庄 民 は 住 宅 を焼 か れ 庄内 か ら追 却 さ れ る と いう ( 逃 六 郎 二郎 タ ウ サ ウ ニ ョリ、 子 息 代 官 二 事 件 が起 こ った。 これ は、 何 等 か の余 波 と考 え る余 地 な い ( 参) こ と で、 竜 門 庄 庄 民 の、 領 主興 福 寺 寺 務 、 代 官 多 武 峯 寺 へ (幣) 御 ヘヰ ヲ マイ ラ スナリ 、 と あ る。 逃 走 人 が 出 た場 合 、 子 息 が な お残 って いれば 、 代 の抵 抗 に対 す る発 向 で あ った。 も っとも 、 飯 貝 本 善 寺 (吉 野 町 ) と越 智 家 栄 の仲 介 に よ って庄 民 は庄 内 への還 住 が 許 官 に御 幣 を 上 納 し た よう で あ る。 代 官 と は領 主代 官 の多 武 峯 寺 の こと で あ ろう 。 御 幣 を上 納 す る の は、 子 息 と し て は さ れ る と いう結 果 に な った。 こ の と き の庄 民 の起 請 文 によ (39 ) 領 主に 反抗 の 意志 が ないことを 表明 するためと みなされ って多 武 峯 寺 の発 向 の経 緯 を具 体 的 にう かが って みよ う 。 文 る。 請 今 般 竜 門 発 向 子 細 者 、 彼 庄 民 、 近 年 寄 事 於 左 右、 恣 貧 起 赤 沢朝 経 (沢 蔵 軒 ) の攻 略 を受 け、 庄 内 に放 火 さ れ る こ と 土 貢 、減 少 運 上 員 数 、令 舞 謀 所 務 官 銭 、加 之 不 用 成 敗 、 実 は竜 門 庄 は 永 正 三 年 (一五 〇 六 )九月 、 細 川 政 元 の部 将 が あ った。 ﹃多 聞 院 日記 ﹄ 同 年 九月 十 日条 に は、 敗之処、殺害使之法師之条、先代未聞、悪行狼狽専 一 対 捏 下 知 、 不 法 以 外 所 行 也 、 剰 去 八 月 廿 六 日 犯 過 人成 と あ る。 これ は、 永 正 三 年 八 月 沢 蔵 軒 が 山 城 か ら大 和 に侵 也 、 依 之 被 進 発 一山 彼 在 所 、 放 火 住 宅、 追 却 其身 畢、 昨 日 九日 竜 門 郷 へ沢 蔵 勢 遣 則 放 火 了 、 入 し、 まず 、 秋 篠 ・宝来 ・郡 山 ・西 京 以 下 を陥 れ、 大 和 国 一49一 (家栄 ) 錐 然 本 善 寺 ・越 智 為 両 所 育 被 宥 免 、 令 還 住 者 也 者 、 天 罰 起請 文 之事 、 庄 民等 謹 言 、自 今 以後 、年 貢 ・所 当 如 旧例 斗 代 令 運 上 、 ロ 不 軽 成 敗 、 不乱 法 度 、 於 大 小 公 事 為 庄 家 不 計 遂 訴 訟 、 任 上 載 、 惣而 成 穏便 之 思、 挿 貞 心 之 儀 、聯 以 不 可 存 自 由 依 情 、 若 此 条 々、 錐 為 一事 存 曲 節 令 違 犯 者 、 梵 天 ・帝 釈 ・四大 天 王 ・十 二大 天 廿 八 宿 天 神 地 祇 、 大 黒 ・弁 才 大 聖、 歓 喜 天 ・廿 八 部 衆 ・鬼 神 ・大 将 ・諸 善 神 王 、 特 者 、 大 講 堂 弥 陀如 来 、 観 音 ・勢 至 大 聖 、 文 殊 ・医 王 善 逝 、 日光 ・月 光 ・十 二神 将、 更 復、 驚 覚 天 照 太 神 ・八幡 大 井 ・春 日大 明神 ・賀 茂 下 上 ・松 尾 ・稲 荷 ・平 野 ・大 原 ・住 吉 ・祇 園 ・天 満 天神 部 類 春 属 、 山 王 七社 、 特 別 者 、 当 山 地 主談 山 大 明神 、 一百余 所 伽 藍 護 法 十 八 善 神 、 惣 者 、 五畿 七 道権 実 諸 神 、 更 復 、 帰命 農 旦 国 中 南 岳 ・天 台 ・章 安 ・妙 楽 諸 大 師 等 、 善 無 畏 ・金 剛 智 ・不 空 ・ 一行 ・恵 和 ・法 全等 三蔵 閣 梨、 吾 山 伝 教 慈 覚 、顕 密 守 護 之 諸 神 等 之 御 罰 罷 蒙 身 上 、至 子 々孫 々 、 現 世 受 自 癩 ・黒 癩 病 、 来 生 咽 阿 鼻 大 城 炎、 沈 八 寒 八 熱 苦者也、傍起請文如件 、 大 永 二年 壬午 九月 晦 口 志賀 九郎 左 衛 門 入 道 ( 花押) 同 源 七郎 (略 押) 同 同 子 ( 略押) 同 次郎左衛門 ( 花押) 同 斎 三郎 ( 花押) 同 太 郎 次 郎 (花 押 ) 同 藤次郎 ( 略押) 同 弥 太 郎 (花 押 ) 辰野 斎 五郎 (略 押 ) 河原屋 与 次 郎 (略 押 ) 同 兵 衛 九 郎 (略 押) 峯寺 六郎 次 郎 (略 押 ) 西谷 衛 門 五郎 (略 押) 山口 兵 衛 四 郎 入 道 浄久 ( 略押) 同 助 三 郎 (略 押) 同 同 子 (略 押 ) 同モリノ 三郎 次 郎 (略 押 ) 一50一 香束 勘解由 ( 略押) 同 六郎 三郎 ( 略押) 同 秦 四 郎 (略 押 ) 柳 斎 三郎 ( 略押) 同 太郎左衛門 ( 略押) 大野 兵 衛 五 郎 入 道 乗 蓮 (略 押 ) 同 同子兵衛太郎 ( 略押) 同 斎 次 郎 (略 押 ) 同 小 三 郎 (略 押 ) 牧 孫 四 郎 (略 押 ) 栗野 鳴 滝 (略 押 ) 田原 弥 五郎 ( 略押) 同庄ヤ 九郎 次 郎 (略 押 ) 伊良宇 太 郎 四郎 ( 略押) 津風呂 弥次郎 ( 略押) 同 衛門次郎 ( 略押) 屋字 五 郎 兵 衛 (略 押 ) 同 左衛 門 太郎 ( 略押) 東方庄ヤ 九郎 次 郎 ( 略押) 西方庄ヤ 馬 五郎 ( 略押) こ れ に よ る と、 竜 門 庄 が代 官 多 武 峯 寺 の発 向 を 受 け た 理 由 は、 庄 民 が 年 貢 等 の抑 留 を お こ な った の に対 し、 多 武 峯 寺 が そ の ﹁犯 人 ﹂ を成 敗 し た と こ ろ、 庄 民 は同 寺 の使 者 を 殺 害 し て対 抗 し た と いう も の で あ る。 庄 家 の 一揆 と 考 え ら れ るが 、 庄 民 側 の敗 北 に終 った も の で、 従 って年 貢 ・公 事 の 完 済 を 誓 って還 住 を許 さ れ たわ け であ る。 そ れ だ け に、 大 (40 ) 永 二年 以 後 、 庄 民 の生 活 は発 向 のあ と 始末 も あ り苦 難 に み ち て いた ろ う 。 竜 門庄 の収 取 に つ い て は、大 永 二年 の ﹁御 寺 務 条 々﹂ に、 請 申 入 興 福 寺 御 寺 務 領 竜 門庄 御 年貢 用途 事 合 百五十貫文者、 ( 限) 右 件 御 庄 年貢 銭 者 、 毎 年 十月 中 二悉 以可 運 上 申 候 、 万 一錐 レ為 一 二 事 ↓ 馳 コ過 退 月 一 令一 一 無沙汰 一 候 者 、 速 被 レ召 コ ( 状 脱 力) 放 給 主 職 ハ 可 レ被 レ仰 割 付 干 余 方 一候 、 其 時 更 不 レ可 レ申 二 惣目代名 判 一言 之 子 細 一 候、侃請文之如件、 大永 二年 壬午卯月廿 六日 一51一 ( 中略) 御奉 行所 と 考 えら れ る。 こ の請 料 増額 は 年貢 ・公事 の増 強 をも た ら 五 十 貫 文 へと増 額 し た のは大 永 二年 で あり 経 尋 に よ るも の 主 経 尋 で、 三月 十 一日 に別 当 に補 任 し た と こ ろ で あり 、 百 (43 ) 心寺殿御当職時者 二百貫文、其後 減少、両門跡之 か ら、 いわ ゆ る神 器 を受 け る形 で南 北 両 朝 が 一体 化 し た の (一三 九 五)で あ る。 北 朝 の後 小 松 天 皇 が南 朝 の後 亀 山 天 皇 の 一回 目 別 当 在 任 期 間 は明 徳 元 年 (= 二九 〇)か ら 応 永 二年 と あ る。 こ れ を綜 合 す る と 、大 乗 院 院 主 孝 尋 ( 後 己 心寺 殿 ) 時 者 、 百 五十 貫 文 、 院 家 之 百 廿 貫 文 、 毎 度 請 申 了 、 と っては 苦 ⋮ 難 の時 期 と い って も よ く、 自 害 者 ・逃 亡 人 が 出 の末 尾 分 (大 永 三 ∼ 八 年) と第 二冊 分 の時 期 は竜 門 庄 民 に ら れ た こと 前 記 のと おり で あ る が 、﹁大 頭 入衆 日 記 ﹂第 一冊 民 は これ に対 抗 し た が敗 北 し、 起 請 文 に よ って還 住 を認 め も のと み て違 いな か ろ う。 そ れ が、 代 官 発 向 を結 果 し、 庄 ﹁年 貢 抑 留 ﹂ 等 を は じ め た のは、 この請 料 の増 強 に あ った す こと は も ち ろん で、 竜 門 庄 庄 民 が代 官 支 配 に 対 抗 し て ( 篠卍 が 明 徳 三 年 で あ る から 、 孝 尋 が 興 福 寺 別 当 に 任 じ た 時 期 た のも 無 理 から ぬも のが あ った と推 測 さ れ る。 し か し、 こ ( 時 者脱 力) は、 竜 門 庄 は実 質 興 福 寺 寺 務 の支 配 下 に あ った も のと み て う し た 動 き は、庄 民 の団 結 、 つまり 座 的 結 合 と ど う い った (41 ) も よ く 、 競 合 す る南 朝 は有 名 無 実 に等 し い存 在 にな って い た か ら 、 竜 門 庄 の代 官 請 料 は重 く な って いた も のと 考 え て 関 係 にあ った も ので あ ろ う か。 自 害 者 や逃 亡 人 の前 掲 人 数 は、 大 頭 勤 仕 の差 定 変 更 と い よ か ろう 。 二百 貫 文 と あ る が、 こ れ が 重 い負 担 で あ った こ と は同 請 料 が そ の後 減 少 し て いる点 か ら も う か が え る。 減 う 形 で 記 さ れ て いる だ け で あ る か ら、 実 際 に はも っと多 か 恵 光 院 、 政 覚 か) の時 は さ ら に百 二 十貫 文 へと 減 額 し て い の問 題 の ほ か、 大 頭 の ﹁イ ト ナ ミ﹂ に つい ても 、 天 正 十 年 そ の後 、 ﹁大 頭 入衆 之 日 記 ﹂ ( 第 二冊 ) で は右 の自 害 者等 暗 い影 を おと した も ので あ ろ う。 った も のと み てよ く、 ま た、 大 頭 勤 仕 の差 定 変 更 も 座 衆 に 少 した 時 期 の別 当 と し て ﹁両 門 跡 ﹂ と あ る が、 これ は 大 乗 院 院 主 経 覚 と同 尋 尊 と み て違 いな か ろ う。 こ の両 門 跡 の時 (42 ) る。 こう し た な か で大 永 二年 で は前 掲 冒 頭 に う か が え る と は 、﹁ミキ ハカリ﹂、 同 十 一年 は ﹁御 ミ キ斗 、此 外 何 モ ナ シ﹂ 期 は代 官 請 料 は百 五十 貫 文 と み え る。 そ の後 の院 家 (後 智 お り 百 五 十 貫 文 へと増 額 し て い る。 同 年 の別 当 は大 乗 院 院 一52一 と あ り 、 同 十 二年 に は イ ト ナ ミ に つ いて何 等 記 す こと さ え 左 ・右 衛 門 、 左 ・右 兵 衛 、 右 馬 、 刑 部、 縫 殿 等 官 途 成 の結 る。 室 町 時 代 にな り 記 載 様 式 が 変 わ る と大 頭勤 仕 者 に は、 衆 が 多 く み え る。 彼 等 は 名 主 百 姓 で あ り、 公事 屋 と 云 わ な いま ま に、 こ の年 ま で で第 二冊 の記 録 は終 って い る。 大 頭 勤 仕 の変 化 と いう こ と で み て き た が、 入 衆 が 大 頭 勤 と 感 じ て いた 印 象 をう け、 こ の変 化 は、 座 的結 合 の崩 壊 化 ヲ リ 頭 の段 階 で は、 座 衆 は権 利 と いう より は、 責 任 ・義 務 勤 仕 は 座 衆 の権 利 と考 え ら れ て いた よ う で あ る。 し か し、 は 、 一般 的 に み て、 庄 内 地 下 人 を 名 主 ・問 田百 姓 の 二階 層 諸 問 題 を 集 会 にお い て評 定 し た も ので あ ろ う。 評 定 の結 論 ほ か 、 必 要 に応 じ て山 野 ・用 水 の共 同 用益 そ の他 の庄 内 の 結 衆 は 、 年 間 を 通 じ て法 会 ・祭 礼 ・修 正会 等 年 中 行 事 の れ 、 庄 内 村 落 に お い て は最 上 層 の地 下 人 で あ った。 の 過 程 と みな され る。 そ れ は、 前 掲 大 永 二年 の興福 寺 代 官 に大 別 す れ ば 、 名 主 層 に有 利 な も ので あ った こ と 云 う ま で 仕 の順 番 を 待 って い る時 代 は、 大 頭 への意 欲 が強 く、 大 頭 多 武 峯 寺 の竜 門 庄 発 向 以 来 同 庄 に対 す る支 配 が、 お そ ら く も な か ろ う 。 そ のた め の座 的 結 合 と も 考 え ら れ る か ら で あ し か し 、 入 衆 は 、 記 録 の上 では 鎌 倉時 代 末期 以来 大 頭 を 越 智 氏 の支 配 も 加 わ る形 で強 化 さ れ て き た こと のう え に年 る も のと みな さ れ よう 。 天 正 十 年 ・同 十 一年 の記 録 は前 掲 勤 仕 した が 、 日 記 に は みら れ な か った け れ ど も、 仮 称 す れ る。 の と お り ﹁御 ミ キ斗 、此 外 何 モナ シ﹂、同 十 二 年 は 年次 の み ば ﹁ヰリ コメ﹂ と も い った料 足 を醸 出 し な け れば な ら な か 貢 ・公 事 も 前 掲 の如 く 重 く の し か か って き て いた こと によ で ほ か に記 す と こ ろ は な い。 竜 門 庄 民 は 重 い年 貢 ・公 事 と った よう で あ る。 こ れ は、 文 明 年 間 以 後 の ﹁ヲリ 頭﹂ の場 こと から 推 測 さ れ る。 大 頭 勤 仕 にか わ る料 頭 は 七 石等 を弁 合 は、 後 掲 の と おり 五石 余 り の ﹁ヲリ コメ﹂ を出 し て いる き び し い領 主 支 配 のも と で為 す術 を失 な った 感 じ が す る。 に 進 し て い た こ と は前 記 の と おり 日 記 にも 記 録 さ れ て いた。 り 大 頭 入 衆 は、 は じ め は童 名 中 心 で あ った か ら あ ま り みら ﹁ヰ リ コメ﹂ に せ よ ﹁ヲ リ コメ﹂ に せ よ、 結 衆 は 生 涯 に 一 わ れ な か ったが 、 そ れ でも 冒 頭 の源内 ・正 平 年 間 の三 人 の⋮藤 度 は酵 出 し な け れば な ら な か ったも の であ ろ う 。南 北 朝 時 お 内 は 、 一定 の蘇 金 のも と に官 途 成 し た 家 筋 の者 と み な さ れ 一53一 れ ば 公 事 屋 の子 息 は 入衆 と なり 、 大 頭勤 仕 を待 って いた 。 勤 仕 を 要 求 し たも の と考 え ら れ る。 ま た、 一定 の年 令 にな 代 は そ れ が 比 較 的 容 易 で あ った か ら、 入衆 は 積 極 的 に大 頭 自 立台 頭 を抑 圧 す る と いう 面 は あ った にし ても、 そ れ だ け の う ち名 主 ・公事 屋 が 結 衆 と な った 座 の自 治 は 問 田 百姓 の も の で あ った。 以 上 の よう に考 えれ ば 、 庄 内 地 下 人 二階 層 考 え ら れ、 こ れ ら お こ な い は庄 内 地 下 人 全 体 に還 元 さ れ る (45 ) そ れ が 、 文 明 年 間 以 後 ﹁ヲ リ 頭﹂ に変 り、 入 衆 も 年 に 一 のも の で は な か った よう に考 え ら れ る 。 し か し、戦 国時 代 末 期 に な る と 、永 禄 五 年 (一五 六 二)は 、 人 と なり 、 積 極 性 が 失 な わ れ る のは ﹁ヲリ コ メ﹂ の準 備 が ま ま に なら な く な って き た か ら で あ ろ う 。 な か には 、 頼 母 入 衆 の記 載 が なく ﹁香 束 シ モ ヲオ タ 一 こ の ﹁地 下 惣 イ ト ナ の限 り 、大 頭 ・ヲリ 頭 の勤 仕 は、私 財 を醸 出 し て の こ と で、 北 公 事 屋 を中 心 に同 地 域 の公 事 屋 全 員 が ヲリ コメ を醸 出 し こ れ ら を綜 合 し て み る に、 永 禄 十 年 の地 下 ヰ ト ナ ミ は 西 谷 御 供 マテ ニテ ツト メ ラ ル ・、 天 正 弐 年 甲戌 九月 七 日 入衆 瓦屋 弥 三郎 、ヲリ コメ ナ シ、 ナ リ、 ヲリ コ メ五石 二斗 八升 下 口 、 ( 行 力) 天 正 元 年 癸酉 九 月 入衆 西 谷上 カ ウ ヤ、 甚 四 郎 ヰト ナ ム は つぎ のと お り で あ る。 ﹁地 下 ヰ ト ナ ミ ナリ﹂ と み え る。 つ いで天 正 元 ・同 二年 分 ミ﹂ と あ る 。 同 十 年 に は 入 衆 は ﹁西 谷 北 公事 屋﹂ と し て 支 講 の形 式 で、 酒 ・米 な ど を先 借 り し て ﹁ヲリ 頭 ﹂ を 勤 め (44 ) る者 も いた 。 し か し、 逃 走 す る場 合 、 自 害 す る場 合 も あ っ た も の であ る。 こう な る と結 衆 と な る こ と も大 へん な こと で あ った ろ う 。 と ころ で、 竜 門 庄 地 下 人 の自 治 組 織 とも み ら れ る座 に 必 要 な 年 間 の財 源 は 惣 郷 田 畠 か ら の収 入 を出 納 す る と 考 え ら れ る ﹁造 宮 方 ﹂ に あ った よう で あ るが 、 ﹁ヰリ コメ﹂ ﹁ヲリ いわば 有 徳 行 為 と も 考 え ら れ、 庄 内 地 下 人 全 体 に対 す る徳 あ ったも の で あ ろう か。 ま た 、永 禄 五 年 の ﹁地下 惣 ヰ ト ナ コメ﹂ 五 石 余 も 座 の財 源 の 一環 で あ った と考 え ら れ る 。 こ の 配 分 行 為 とも みな し え よう 。 文 書 所 有 者 の 上 田 龍 司 氏 たも の で あ ろ う か。 とす ると 、 これ は 公事 屋 の座 の崩 壊 化 ミ﹂ は香 束 シ モヲ ウ タ ニ地 下 人 全 員 が ヲリ コメ を出 し あ っ ま た、 大 頭 ・ヲリ 頭 勤 仕 の な か で の祭 礼 ・修 正 会 等 は 五 を意 味 す るも ので あ ろう 。 天 正 元 年 は ヲリ コメ を甚 四郎 が は 、大 頭 勤 仕 は庄 内 への ﹁お ごり ﹂奉 仕 と い って いら れ る。 穀 豊 饒 への祈 り、 そ の感 謝 で あり 、 法 会 は先 祖 への供 養 と 一一一54一 弁 進 し て例 年 のよ う にお こな いえ た よ う で あ るが 、 翌 二年 は 入 衆 の瓦 屋 の弥 三郎 は ヲリ コメ を出 さ な いま ま 神 仏 への 御 供 ま で を勤 め た よ う で、 いわ ゆ る振 舞 い は な か った よう で あ る。 こ れ も座 の崩 壊化 を 意 味 し よ う 。 結 衆 は、 名 主 と は い い なが ら 、 多 く 田 畠 の作 主職 を売 却 し て いた と す る 限 り 、 実 質 は 小 作 人 化 し て い た も の で あ 大永 七年 から 天正十 二年までの 入衆と 頭役 の年 次 歴名である が、 そのほか、延元三年 の下人鬼石丸譲状、正平 三年 の竜門庄 大小百姓愁状、康正元年 の造宮方仕日記、天文 十九年以来の大 頭助成之日記、永禄 三年 の造宮方諸支配引付、天正 五年惣郷納 帳、同 七年 の集議掟書案、文禄三年 の春日講頭衆人数覚、同 四 年山 口村検地帳、 田畠作主 職等売券数点等があ る。 ﹃奈良県綜 ﹃史 学 雑 誌 ﹄ 六 一 二の 三、 昭和 二九 年 。 ﹃中 世 の民 衆 と文 化 ﹄ 所 収、 創元 歴 史 選 書、 昭 和 三 一年 。 以 上 の引 用文 は前 掲 誌 三 三 ∼ 三 五頁 。 以 上 の引 用文 は前 掲 書 二四∼ 二 六頁 。 ﹃奈 良 県 綜 合文 化 調 査 報 告書 ﹄ 二、 昭和 二九 年 。 と も に 、 同右 書、 二九 二頁。 上 巻 、 昭 和 四 七 年。 いず れも 註 6に 同 じ。 同 右 書 、 一七 七 頁。 奈 良 県 北 葛城 郡 香 芝 町 鹿島 神 社 所 蔵 の ﹁頭役 ・入 衆 帳 ( 仮 (12) 応 永 七年 効〃・ へ九 月 四 日座 衆 百 姓 評定 云 、 天 満 宮 神主 殿 、 も と寺 座 であ った か も知 れ な い。 後 述 の と おり 竜 門 寺 浬 藥会 とも 関 係 が あ ったも のと考 えら れ 、 ら れ な い。 従 って 厳 密 に い えば寺 座 と な ろう 。 竜 門 の場 合 も 、 て い えば 、 中 世 で は ﹁法 楽 寺 座﹂と あ り、 ﹁宮 座 ﹂な る用 語 は み の祭 礼 をも 勤 仕 し て おり 、 宮 座 で よ い の であ る が、 史 料 に 即 し 称 )﹂に みら れ る 座 も 、 一般 に 宮 座 と考 えら れ て いる。 鹿 島 神社 )))))))))) 合文化調査報告書﹄ 二の古文書学の部 に近世分もあわ せて紹介 されている。 た こと も 考 え ら れ 、 地 下 人 二階 層 も 崩 壊 し て き て いた も の る。 反 面 、 隷 属 的 で あ った問 田 百 姓 も 自 立化 を す す め て い で あ ろ う 。 こう し た社 会 状 況 で あ った とす れば 、 そ う し た (46 ) (1) 奈 良 県 吉 野 郡 吉 野 町大 字 山 口、 上 田龍 司家 所 蔵 。 同 日 記 は ︿註 ﹀ 良 県史 ﹄ 11 巻 に史 料 と し て掲 載 の予 定 で あ る。 が後 日 を 期 し た い。 ま た 、﹁大 頭 入衆 日記 ﹂ 等 は ﹃奈 竜 門 庄 の座 の動 向 に つい て は、 な お残 し た問 題 が あ る (後 記 ) の座 が復 活 し て近 世 の座 に な った も の で あ ろ う か。 (47 ) 人 の検 地 は、 徳 政 的 意 味 をも 一面 で持 ち 、 崩 壊 化 し た中 世 な か で お こな わ れ た 豊 臣 秀 吉 の、 地 主 を否 定 す る 一地 一作 n 二冊 から 成 る。 第 一冊 は 正中 二年 か ら 大永 八年 ま で、 第 二冊 は 一55一 ノ へ 111098765432 経 書 写 を正 平 十 四年 か ら 同 二十年 に及 ん で竜 門 庄 内 の津 風呂 亭 ( 2 3) 吉 野 郡 川 上村 運川 寺 所 蔵 の大 般 若 経 奥 書 に よ ると 雲祥 は同 等 、志賀 長 波 左 間 ・清 五郎 室 、山 口 之藤 内 室 、牧 城 之 中 務室 等 で 大 汝 宮 神 主 殿 両 人座 敷 事 自 今 以 後 七 日 ・十 日両 度 被 レ仕 レ可 レ為 ご お こな って いる。 そ のう ち 正平 十五 年 七月 四日 の奥 書 に は﹁( 前 御 宝 前 ﹁ 口 役事 名 代 子 々孫 々可 レ被 レ免 置 一者 也 、 錐 然 座 敷膳 事 悉 不 レ可 レ 有 二退転 一 可 二宛 申 一 由定 レ 之 、 傍 為 後 代 之 状 、 如 件、 建久十年 建久九年 見丁 時貞 護介 重久 建久 八年 一番 行 西 貞常 ( 安力) 口部 為 文 建 久 七年 ( ﹃香 芝 町史 ﹄ 史 料 編 ) 。 ( 25 ) 座 衆 帳 のは じ め の部 分 を 紹 介 す る と つぎ のと おり で あ る 日条。 (24) ﹃大 乗院 寺 社 雑事 記 ﹄ 長 禄 二 年 四月 九 日条 、 同 五月 二十 二 上 巻 、 秋山 日出 雄 前 掲論 文 )。 る大 和 源 氏 の 庶流 であ ろ う と 推 測す る 説 も あ る ( ﹃ 吉野町史﹄ 測 さ れ る 。 牧氏 に つ いて は、 宇 智 郡 牧 野 (五条 市 ) を本 貫 と す 地 か ら 台 頭 し た豪 族 で は な く、 他 所 か ら移 り 住 ん だ 有力 者 と 推 妻 は、 そ れ ぞ れ藤 原 氏 女 ・清 原 氏 女 と あ り、 いず れ も、 も と在 下 にあ った も の と推 測 さ れ る。 な お、 牧 尭観 房 ・津 風 呂筑 後 の る と、 少 く と も 正平 十 四 年 以後 竜 門 庄 の支 配 は牧 氏 の代官 支 配 よ る南 朝 方 勝 利 を祈 念 す る記 事も みら れ る 。 こう し た点 か ら み った、 南 朝 方 に 立 って の当 時 の両朝 合 戦 の動 き や写 経 の功徳 に 写 経 之功 力 、 凶 徒 退散 ・宝 祥 延 長 耳、﹂ ( ﹃吉 野 川上 村 史 ﹄) と い 宇 陀 郡 官軍 等 、 発 向 子 河州 古 市 之 ・武 家 方 城 ・之最 中 也 、 傍 酩 略 ) 官 軍楠 木 、 牧 尭 観 房故 定 観 房 息、 筑 後 入 道 覚 仏房 、 惣 者 、 (13) ﹃ 吉 野 町 史 ﹄、 ﹃奈 良 県 史﹄ 五 巻 ( 神 社 )、 ﹃奈 良 県 の地 名 ﹄ 等 参 照。 ( 14 ) 前 掲 堀 池 論 文 参 照。 (15) 萩 原 龍 夫 ﹁中世 宮 座 の基 本 性 格 (二)﹂ 、﹃ 中 世 祭 祀 組 織 の研 究 ﹄ 所 収 、 一二 五 頁以 下 参 照 。 一は 興 福寺 別 当 補 任 、一は 諸 供 の別 当補 任 、一は 竜 門 ・竜 蓋 (16) 記 録 と し て延 元 三年 の ﹁下 人 鬼 石 丸﹂ の譲 状 が あ る 。 (17) 両 寺 の別 当補 任 を宣 す るも の、 こ の 形式 は天 禄 元 年 ( 九 七 〇) か ら 長 保 二年 (一〇 〇〇 ) の間 に でき て いた よ う で あ る ( ﹃権 記 ﹄)。 ま た、 少 く と も 天禄 元 年 に は竜 門 寺 は興 福 寺末 寺 に な っ て い たも の と 考 えら れ る ( 同年 の太 政 官 牒 )。 以 上 は 前 掲 堀 池 論 文 に よ る。 二七 三 ∼ 四 頁。 (18) ﹃吉 野 町 史 ﹄ 下 巻、 南 北 交 通 道 路 、 一二九 頁 以下 参 照 。 (19) ﹃吾 妻 鏡 ﹄文 治 五年 の義 経 の ﹁腰 越 状 ﹂に み え る ﹁大 和 国 宇 多 郡 竜 門 牧 ﹂ は、 現 在 の宇 陀 郡 大 宇 陀 町 大字 牧 を中 心 と し た 牧 場 であ った も ので、 竜 門 郷 全 域 と は 考 え が たく 、 竜 門 牧 と 竜 門 郷 は並 存 し たも の と推 測 す る。 いず れ 鎌 倉時 代 に開 発 さ れ て 竜 門 庄 のう ち に加 えら れ たも のと 考 え て お く。 三 十 日条 に は ﹁吉 野 帝 御 遷 座 子 阿 旦河 入道 城 云 々、﹂ と み え る 。 (20) ﹁醍 醐寺 地 蔵 院 日 記 ﹂ 上 ( ﹃大 日本 史 料 ﹄ 六 の = ) の 正月 ( 2 1) 竜 門庄 は東 西 両 庄 に分 か れ て い た。 後 掲 大 永 二年 の起 誓 文 参照。 ︿22 ) ﹁ 東 金 堂 細 々要 記 ﹂。 一56一 ( 中略) 承元 五年 安介 三郎主 徳 王入令申 ( 内力) 清 二郎 伴口 行口 有常 護追輔使 乙 石 五介ノ 七郎殿 小法[ 一郎 建暦元年 ( 中略) 金 剛 蜘"一 フノ 建 治 三 年 丁丑正 月 十 六 日 入衆 砒 沙 三郎殿 建 治 四 年 戊コ正 月 十 六 日 入衆 ( 下略) 承 元 五 年 に ﹁入令 申 ﹂ と し て入 衆 が み え るが 、 そ の他 は 頭 役 10巻 ) 、 八 六頁 以 下 。 昭 和 四 九年 ) 参 照 。 (30) 黒 田俊 雄 ﹁中 世 の村 落 と座 ﹂ ( ﹃日 本中 世 封 建制 論 ﹄ 所 収 、 (31) ﹃ 奈 良 県 史 ﹄ 10巻 、 二六 四頁 以 下。 (32) 拙 稿 ﹁室 町 期 百 姓 名 の動 向 ﹂、 同 右書 、 一 一五 頁 以下 。 (33) 若 槻 氏 は若 槻 庄 下 司 、大 乗 院 衆 徒番 条 氏 の披 官 に なら な い っとも 同 年 の平 尾 村 検地 帳 は みら れ な い。 (46) 文 禄 四 年 の山 口村 検 地 帳 と 同 年 の平 尾 村 名 寄帳 が あ る。 も 究 ﹄ 三 二 五号 ) 参 照 。 薗 部 寿 樹 ﹁中 世 村落 に おけ る宮 座 頭 役 と 身分 ﹂ ( ﹃日 本 史 研 天 文 十 九 年 ﹁大 頭 助 成之 日 記 ﹂。 註 (41)に同 じ 。 ﹃大 乗 院 寺 社 雑 事 記 ﹄長 禄 三 年 六月 十 七日 条 。 ﹁興 福 寺 別 当 次 第 ﹂ 、﹃ 続 々群 書 類従 ﹄ 二。 内 閣 文 庫 蔵 、 ﹃大 日 本史 料 ﹄ 九 の 一五。 ﹃談 山 神 社 文 書 ﹄ ﹃竜 門 嶽 落 城 記 ﹄ 以上 ﹃看 聞 日 記 ﹄等 に よ る。 前 掲 木 村 博 一論 文 。 ﹃ 大 乗 院 寺 社 雑 事 記 ﹄、 ﹃ 多 聞 院 日 記﹄ 等 。 天 理図 書 館 保 井 文 庫 蔵。 わ け に は いか な か ったと 推 測 さ れ る。 ( 47) 永 島 前 掲 誌 、 三 六 頁 。 一57一 勤 仕 者 。 入衆 が 本 格 的 に 記 録 さ れ る の は建 治 三年 以 後 であ る 。 入衆 は百 姓 名 名 主 の子 息 で 竜 門 庄 の場 合 と同 じ であ る 。 な お、 法楽 寺 座 の所 在 の下 田 は 、下 田村 とも 下 田 庄 と も 記 録 さ れ て おり 、 摂関 家 領 平 田 庄内 に ふ く ま れ て いる ( ﹃香 芝 町 史 ﹄ 八 六 一∼ 二頁 )。 (26) 豊 田武 ﹁武 士 の村 落 支 配 ﹂ ( ﹃武 士 団 と村 落 ﹄ 所 収 、 昭 和 三 八 年 )、 七 七頁 以 下 。 水 上 一久 ﹁本 名 体 制 と 惣 領制 ﹂ 上 ・下 ( ﹃日 本 歴 史 ﹄ = 五 ・ = 六 号、 昭 和 三三 年 )。 (27 ) 渡 辺 澄夫 ﹁環 濠 集 落 の形 成 と 郷村 制 と の関 係 ﹂ ( ﹃畿 内 庄園 の 基 礎 構造 ﹄ 下 巻 所 収 )。 (28 ) 拙 稿 ﹁百 姓 名 の分 解 ﹂ ( ﹃奈 良 県 史 ﹄ 10 巻 所 収 、 昭和 五 九 年) 、 一〇 五頁 以 下 。 (29 ) 拙 稿 ﹁進 官 庄 の名 の再 編 成 ( 百 姓 名 の設 定 ﹂ ( ﹃奈 良 県史 ﹄ )))))))) )))) n 4140393837363534 45444342