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真実の証の書

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真実の証の書
真実の証の書
ヨハネによる福音 1
真実の証の書
20:30-31(21:24-25)
ヨハネの福音書を読み始めるのに、どうして「初めに言があった」から始
めないで終りの所から読むのか……? これだけでもちょっと変でしょうが、
それも一番終りの 21 章ではなく、終りから二つ目の 20 章の末尾というのは、
ますます変かも知れません。でもこの文章は一応まとまってキマっている…
…と言いますか、全巻の締め括りとして、この福音書を書いた人の趣旨と目
的をよく表していると思います。
31.これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアで
あると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためで
ある。
ヨハネの福音書はここで終わっていてもおかしくないようです。現代の研
究家のほとんど全部は、ここで一応著者はペンを措いて全巻の終りにしたか
ったのではないか、と言っています。ところが、著者はある必要が生じて、
次の 21 章のエピソード、つまりガリラヤ湖畔でのイエスとシモン・ペトロの
対話を、付録のように書き足したらしいのです。もっとも、この 21 章を欠く
写本というのは一つも見つかっていませんから、著者はこの付録も付けて完
成するまでは、この作品を外に出さなかったのでしょう。その意味では、い
ま引用した 31 節の後にもう 2 頁を合わせないと、ヨハネの福音書は全部では
ないのです。
でも、一回結びの言葉を書いて締めくくったのに、その後に別のエピソー
ドを書き加えたら、何か締まらなくなりはしないか……我々なら心配します。
今でしたらワープロで簡単に処理できますけれど、何せシャープも富士通も
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なかった時代のことです。著者は最初の結びをそのまま残して、もう一回締
めくくるのです。2 頁あとの 21 章 24 節と 25 節です。
24.これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。
わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 25.イエスのなさ
ったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一
つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
最後の文章はもちろん文学的修辞で、誇張法と考えて宜しいでしょう。た
だ、私たちにとって有り難いのは、こうして著者が、再度の締め括りの言葉
を書いてくれたお陰で、作者自身の影がここに浮き出して見えてくることで
す。これらのことを「書いたのはこの弟子である」と言うのですが、「この
弟子」というのは、物語の流れから考えるなら、十数行前の 20 節に出てくる
「弟子」であることは確かです。
1.「イエスが愛しておられた弟子」?
20.ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見
えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、
「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
とすると、この人は十二人のひとりで、その「夕食の時」の出来事も 13
章に記されています。しかも、「最後の晩餐」の時にペトロと一緒に主を挟
んで主の右側にいた程の弟子でありながら、著者はその人の名前には全く触
れないのです。そのあと 19 章では、主の母マリアの世話を見るように命じら
れる場面で、また 21 章では、復活の墓場へシモン・ペトロと一緒に駆けつけ
る場面で出てきますが、やはり「イエスが愛しておられた弟子」とあるだけ
で、名前は出しません。
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では、「ヨハネ」という名は出てくるかというと、面白いことにこの本に
は、一度も出てこないのです。ただ 21 章のガリラヤ湖の場面で七人の漁師が
出てくる導入部に、「ゼベダイの子たち」と書いてあります。「ヤコブとヨ
ハネ」と並べて言うのも避けているように見えます。
もちろん、これだけで使徒ヨハネがその「イエスが愛しておられた弟子」
の正体だとは、断言できません。しかし、古代の多くの人の証言とか、また、
いつの頃からかこの巻物の冒頭に付けられた“ヨハネによる”という見出し
《》が示しているように、「この弟子」というのは、主の十
二人の直弟子の一人ヨハネであったことは、だいたい間違いなさそうです。
とするとこの福音書の内容は、最も確実な、信頼できる人の見たイエス像と
いうことになります。
2.その人にあの文章は書けたか?
ただ、ここに一つ問題があります。ゼベダイの子ヨハネはガリラヤの普通
の漁師です。決して学者ではありません。その素朴な漁師が、第一頁にある
ような、ギリシャ哲学者でも膝を乗り出すような、あれだけの内容のギリシ
ャ語の文章を書けただろうか……という疑問です。
確かに、ヨハネもギリシャ語は話せた筈です。でなければ、あの時代には、
漁師としての仕事はしにくかったでしょうし、役所との交渉や税金の駆け引
きなどにも困ったでしょう。でも果たして、この福音書のギリシャ語が書け
ただろうか……? 近代の多くの学者は、ここで躓きました。そして、この福
音書は使徒ヨハネとはつながらない、ずっと後代の別の人の信仰告白ではな
いか、と言う人たちも出始めました。
しかし、信仰を持つ正直な学者の中には、もう一度あの「……書いたのは
この弟子である」という文章の重みを見直す人も出ました。そして、「書い
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たのは」という言葉は、当時の表現としては、「書かせた」、「口
述した」、「資料を提供した」という程の広い意味にも使われましたから、
晩年をエフェソで過ごしたという使徒ヨハネが、自分の一番親しい友人か弟
子の中から、だれか一人の筆記者を選んで書かせた可能性も考えられます。
「この弟子」自身はヘブライ語で口述したか、ギリシャ語で資料を提供した
か、分かりませんけれども、かなりギリシャ語の堪能な人に執筆を依頼した
……と考えたら、謎は解けるのではないか。そして、その実際に執筆に当た
った筆者が、少なくともマルコやルカのように、“神の息吹”(霊)を特別
に受けてこれを書いたと考えたらどうでしょう。ちょうどマルコ伝が実質上、
使徒ペトロの福音書であるのと同じ意味で、この福音書には十二人の使徒の
一人、ゼベダイの子ヨハネの実印が押してある……と考えてよいのではない
か。そういう目で、この書の使徒性を再確認する動きが起こりました。21 章
24 節はこうです。
「これらのことについて証しをし、それを書かせた人―著作の資料を提
供して書くよう命じたのは、使徒ヨハネその人である。そして、この資料提
供者の証しが真実であることは、私たち―つまり、実際にこの文章を書い
たこの私だけではなく、エフェソやこの地方一帯の教会が……ヨハネを知る
私たちがみんな知っているのだ。この本は、本当の意味で“ヨハネの福音書”
なのである。」
3.古代教会の学者たちはどう見ていたか?
こういう見方を裏書きしてくれる一つの文書があります。ギリシャ人がイ
リネオスと呼ぶ教父です。日本では古典学者たちの読み方に従
って「エイレナイオス」と表記する習慣です。文書の年代は西暦 200 年前後
と考えてください。このイリネオスが、マタイとマルコとルカについて触れ
た後で、ヨハネついてこう言っているのです。
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《  》―「その後主の弟子のヨ
ハネが」、《》―「あのとき主の
懐に向き直ったというその人が」《》
―「この人もまた福音書を世に問うたのである。」―《
》―「アジアのエフェソに住んでいた間に。」
この、いま「世に問うた」と訳した語は「出した」、「出版し
た」、「刊行した」という意味です(今のギリシャ語でもそうです)。
ところでイリネオスは、他の三人については違った表現をしていまして、
マタイは「書き物をこしらえた」、マルコは「文書の形で残した」、ルカは
「巻物に記録した」と書いているのに、ヨハネは―刊行した、
世に問うた(出した)なのです。以上、私がこのヨハネ伝をどう見ているか
がお解りと思います。著者についての前半をまとめてみます。
マルコの第二福音書が事実上、使徒ペトロの福音書であるのと同じに、ま
たルカの第三福音書が使徒パウロの福音書であるのと似て、この第四福音書
は確かに、使徒ヨハネの息がかかっているのです。そして一つ一つの物語、
一つ一つの文章の背後にその人がいるのです。それは、主の“ふところ側に”
座っていた直弟子の証言です。その意味で、それだけの重みを持った信頼す
るに足る確かなイエスの姿を、至近距離からこの本は描いていると言ってい
いでしょう。
ただこの文章自体は、当時の普通の口語体とは言え、ギリシャ文学として
の文章の面から言っても、また、今読んだ 21 章の“あとがき”の内容から考
えても、ヨハネの直筆と見るよりは、ヨハネに一番近い友人か弟子が文章に
したのだろうと私は受け取っています。もちろん、ヨハネ自身の上に神の奇
跡が起こって、自筆であの文章を残せたと考えても宜しうございます。私の
師匠マルコス・シオーティスの言葉を借りれば、「ルカはパウロの最大の理
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解者で、信仰や神学ではパウロと“瓜ふたつ”のような人だった」と言いま
すし、教父イリネオスによれば、「マルコはペトロの弟子で通訳だった」と
言います。この第四福音書の筆者もそれと同じ位にヨハネの最大の理解者、
ヨハネの信仰の神髄をつかんだ人、ヨハネが自分の語る内容を作文させる上
で全信頼を置けた人、ヨハネの分身のような人だったのです。その人が、マ
ルコやルカと同じ「命の息」を受けて書いたとすれば、またその人にこの話
を全部伝えたというヨハネ自身が、主の左胸に自分の肩を接して座った人だ
とすれば、この福音書の一字一句はどれだけ大事にしても、し過ぎることは
ないのです。
4.この福音書が先の三書と違う点は?
以上で、ヨハネ福音書の筆者と、その背後にいる「主が愛しておられた弟
子」という本当の著者のことをひとまず終わって、今度はこの本の性質―こ
れは一体どんな作品なのか―に移ろうと思います。その出発点としまして、
今度は 21 章の“あとがき”ではなく、初めに書いた方の“あとがき”に目を
移します。20 章 30,31 節です。
30.このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
それはこの書物に書かれていない。 31.これらのことが書かれたのは、あな
たがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて
イエスの名により命を受けるためである。
「しるし」は、ふつう狭い意味では、悪霊を追い出したり、病人を癒した
り、死人を甦らすような「奇跡の業」を指しますが、ここでは、もうひとつ
広い意味で、イエスのなさった業の一つ一つを「しるし」と見ていると思い
ます。イエスがなさった行為が、この方の本質を「見分ける記号」のように、
読者の前に示されているからです。
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「命」は、死んだ人間をも生かさずにおかない、神のエネルギーです。罪
に死んだ人を、清いものに変えて天につないで生かしてしまう力です。この
本の内容はそんな力を持つ、と著者は断言します。ここに書かれてある内容
と真剣に取り組んで行く人は、イエスが神の子メシアであること、それもど
んな意味で神の子かを「しるし」の中に読み取るのです。その「しるし」の
中に隠された秘密―イエスがメシアであられることの意味と内容に触れる
とき、読者は信仰の目を開かれる。「そんな本として私はこれを書いた。そ
のつもりで読め!」そう言っているのは実に、「主の胸の側に座っていた」
ヨハネその人なのです。
ヨハネ福音書の特色について、A.D.200 年前後に、アレクサンドリアのク
レメンスという教父が残した次の言葉は、この福音
書の性格をよく表していると言えます。
「ヨハネは、具体的な事実がすでに他の福音書に明らかにされていること
を認めたが、友人たちの勧めを容れて、また御霊の霊感を受けて、霊的な福
音書(“命の息”による深い洞察に満ちた福音書)を著した。」
クレメンスの「“息”の吹き込まれた福音書」
とは厳密にどういう意味かは、私どもが日常使う普通の言葉でズバリ言い表
すのは難しいとしても、確かにこのヨハネの福音書の内容は、他の三つの福
音書とはかなり性格を異にすることは、一読して分かるのです。それがより
深く“神学的”ないし“哲学的”だという理解は、当たっているかも知れま
せんが、違うかも知れません。ヨハネ福音書の深さは、素人にも分かる深さ
で、決して学問的専門的な深遠さではないのです。
5.ヨハネの綽名―「神の思いに通じた人」
ここで、もう一つの言葉がヒントになります。これは誰が言ったというこ
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となしに、昔のギリシャのクリスチャンたちが使徒ヨハネを指して
「テオロゴスのヨハネ」と呼んだことです。「テオロ
ゴス」と言うのは、が神、が、この場合は言葉という
よりは、言葉の内容―心の思い……と考えれば、「テオロゴス」は「神の
思いに通じた人」と言い換えられるでしょう。事柄の背後に神のお心の深み
を見て、それを考え合わせながら、イエス・キリストのなさった行為を記録
し、いつもその角度からイエスのお言葉を詳しく伝えた人として、ギリシャ
人の教会は、「テオロゴスのヨハネ」と彼を呼んだのです。
この福音書の最初の頁―1 章 9 節以下を御覧ください。もしルカのスタ
イルでしたら、具体的な例を挙げて次のように表現するでしょう。「お生ま
れになったベツレヘムの宿には部屋もないまま、布にくるんで飼い葉桶に寝
かせられた。後に、お育ちになった町に帰られて、ナザレの会堂でイザヤ書
をお読みになった日も、結局、故郷の人たちには受け入れられず、すんでの
ことに崖から突き落とされるところだった。」それを「神の思いに通じた人」
テオロゴスのヨハネはどう書いているでしょう。
9.その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10.
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11.言
は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12.しかし、言は、
自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13.この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によ
ってでもなく、神によって生まれたのである。
14.言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を
見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
…… 18.いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子で
ある神、この方が神を示されたのである。
これが“ヨハネ流”です。この書き方はルカとも違いますし、マルコとも
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マタイとも異なって、ひと味もふた味も違う、まさにヨハネ福音書のスタイ
ルです。これを御一緒に、約二年がかりの計画で、一週おきに味読したいと
思います。最後に一言……「恵みと真理」は本当は「神の恵みと真実」と訳
すべきで、よく誤解される「万物の真理」のこととは別なのですが、これに
ついては第 4 講で詳しく講解します。
《 結 び 》
それにしても、「イエスが愛しておられた弟子」という言葉は、どう考え
ても、その弟子自身の口から福音史家が聞いたものでしょう。
は「イエスがいつも目をかけて大事にしておられた弟
子」です。しかし、主がヨハネだけを他の弟子以上にかわいがられた……と
いうことは、ちょっと考えられません。でも、もしこれが、そんな比較や自
慢ではなく、偽らぬ正直な実感だったとしたら……。「イエス様はいつもこ
の私に目をかけて大事にして下さった。このことだけは確かだ!」という、
この人自身の確信と正味の実感だったとしたら……。それは、この私やあな
たにも持てる確信だとは思いませんか。多分、ヨハネの福音書は、読む人に
その同じ確信を与える福音書なのです。
(1985/03/10)
《研究者のための注》
1.ヨ ハネ 福音 書の 著者に ついて は、 Tyndale N.T.C.に入っ ている Tasker 注 解の
Introduction が参考になりました。私自身も Tasker の説に同意しています。
2.21 章を書いた著者が 20 章までの著者と同一人であることは、用語と文体から明らか
であるとされます。21 章が追記された理由は、21:22,23 に記されるように、「イエ
スの愛しておられた弟子」に関してイエスの口から出たお言葉が、誤って伝えられ、
恐らく死を前にしたこの弟子が、イエスの御趣旨を明らかにして誤解を解こうとした
ものであろうと推測されます。なお 21 章書き出しの「その後」は、旧約
の「これらのことの後で」hL,aeh'
~yrIb'D>h; rx;a
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と似て、著者が非特定の時間点を指す
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時の決まり文句ですが、実際の時間継起の上でも、20:29 に後続すると考えてよいで
しょう。
3.21 章の 24,25 節については、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、
この弟子である」をイエスの弟子ゼベダイの子ヨハネが口述したと見ても、使徒パウ
ロの挨拶の一部のように本人が自筆で書き足したと見ても宜しいでしょう。もちろん、
ヨハネとは別人の筆者が3人称として確認して書いていると見ることもできます。
「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」の所は、教会による追記
と見ることも可能です。しかし、ペンを執って全巻のギリシャ文を書いた筆者と、そ
の背後にある事実上の著者を別人と考えるなら、この 24b「私たち」は筆者自身をも
含むと見ることが可能で、この場合、1:1 から 21:25 までは全部同一人の文となり
ます。
4.「イエスが愛しておられた弟子」の出る所は 13:33,19:26,20:2,21:7,20 です。
18:15 は(もう一人の弟子)とあるだけで、ヨハネとは別人とすれば、
ヨハネが「大祭司の知り合いだった」と考えなくてもいい訳です。
5.この弟子がイエスの胸元に「寄りかかったまま」13:25 でなく、胸の方に「向き直っ
て」尋ねたと訳すべきことは、本講第 48 講の註 4.に改めて説明します。
6.引用した教父イリネオス(エイレナイオス)の言葉については、原典は散逸していま
すが、エフセヴィオス(エウセビオス)の教会史第 5 巻 8 章 4 に引用されているもの
を使いました。テキストはアテネの版 327 頁を使いました。
Tasker は序の 17 頁以下で、外にポリクラテス、ヒエロニモス、パピアスの証言、お
よびムラトリ断片における引用を指摘して、この福音書が確かに使徒ヨハネの権威に
つながることを断言します。著作時期は A.D.90 年代と見られ、四福音書の中では一番
新しい、最後の作品になります。
7.著者が直接にも間接にも使徒ヨハネではなく全く別の未知の一キリスト者の作と見る
見方は、NTD のジークフリート・シュルツの注解の緒論 2~4 頁を参照。
8.アレクサンドリアのクレメンスが残した「霊的な福音書」に関する証言は、エウセヴ
ィオスの教会史第 6 巻 14 の 7 に引用されているもので次の通りです。《


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》
9.第3区分「古代教会の学者たちはどう見ていたか?」の中で「ギリシャ文学としての
文章の面から言っても」と述べた私の趣旨は決して、ヨハネ福音書が高度の技巧的な
文学表現を採っているということではなく、「共通語」と呼ばれた当時のギリ
シャ語を、この福音書が正確に、しかも自由に操っているという意味です。商用など
の必要からギリシャ語を器用に使った人たちと違い、ギリシャ語で文章を書くことに
慣れた人の手によると見られます。全体としては当時の「共通ギリシャ語」を自由に
操り、短い文を重ね、シンプルな構文を用いながら、簡潔で力強い文章を書いている
という意味です。
10.「メシア」(20:31)の原語はですが、新共同訳では述語(補語)にな
って断定される時には「キリスト」と訳さずに、「メシア」と訳しています。参照ル
カ 9:20,ヨハ 7:26,使 2:36.
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