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神の子の最初のしるし - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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神の子の最初のしるし - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
神の子の最初のしるし
ヨハネによる福音 7
神の子の最初のしるし
2:1-11
ガリラヤのカナの婚礼での奇跡です。結びの 11 節の意図は、この日のぶど
う酒のことを皮切りに、イエスは数え切れないしるしを、十字架に行かれる
まで行われたが、それは神がまさにそこにおられる証拠の輝きとして、人の
目に映ったのです。その昔荒野で主の幕屋に満ちたという“シェヒナー”
hn"ykiv.
の輝きを思い起こさせる、神の力の現れを、イエスに会った人はいや
でも見た……ということです。
ここに「しるし」という言葉―が出てきます。英語で言うと
“sign”に当たりますが、サインというのは何かを暗示する記号です。たと
えばイエスのお言葉で水が上質のワインになったという、その出来事自体で
はなく、その出来事がシンボルとして指し示している、もっとショッキング
な事実―この方は結局何を与えようとしておられるか、この方の本質はい
ったいどなたか―ということを指し示している出来事。そういう意味での
サイン……しるしです。そして、少なくとも公には、この日のぶどう酒がそ
の最初の「サイン」でした。
昔から、この「しるし」“sign”という言葉は、言葉のもつ意味の性質上、
読む人の文学的連想や空想を、必要以上に刺激した嫌いもあります。例えば、
カナの婚礼で、ぶどう酒が切れて窮地に立った新郎を、たまたま招かれてい
たイエスが、驚くべき力を発揮して助けてやりなさったという出来事自体よ
りも、それがもっと深い何かを暗示するとすれば……ということで、読む人
の性格や想像力によっては、色々違った意味を読み取る結果になりました。
私の若い頃、30 年余り前でしたが、箕面の教会で、「水のように味気ない
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人生を、キリストは豊かな味わい深い人生に変えてくださる」という説教を
聞いたことがあります。「成る程!」とは思いましたが、それが果たして、
ヨハネ自身が感動して伝えようとしている事柄なのか、ということになると、
ちょっと問題も感じました。
同じころ感動して読んだ書物には、「途中で酒が尽きてしまう位の貧しい
夫婦を、恥ずかしい思いから救い出してやりなさった。これはキリストの愛
の奇跡である」という点を強調していました。「キリストは結婚の神聖を認
めるためにこの式に列席なさったとは、式辞の中でよく言われることだが、
これはむしろ“貧の神聖”をお認めになったのである」という著書の主張に
は文句なしに感動したのですが、冷静になって考えると、それは著者自身の
経験と実感であっても、果たしてヨハネの伝える福音の中心か……というこ
とになると、かなり問題があると思いました。
と申しましても、そういう生活に密着した主観的な感動が、全く無意味だ
とは私も思いません。私の説教の中にもそれに類したものはありまして、6
年前に学院のチャペルで発表したスピーチの題は、「カナのぶどう酒に関す
る、やや客観的な分析と、大体妥当な判断と、そしてかなり主観的な感想」
という長いものでした。でも今日は、そういう個人的な感動や主観的な部分
はできるだけ抑えて、この時の主の御意図は本当は何だったのだろう……ヨ
ハネは一体何を受け止めて欲しいのだろう……という角度から、記事自体に
迫ってみたいと思います。
1.イエスが“しるし”を行われた直前の状況。 :1-5.
1.三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2.イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3.ぶどう酒が足りなくなった
ので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4.イエスは
母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの
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時はまだ来ていません。」 5.しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か
言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
この言葉から見ると、母親はイエスがどんな力をお持ちの、どんな方か、
さすがに誰よりも鋭く見通して、そのお力を信じているのです。そして、そ
の力を台所の僕たちにも期待して待ってほしい。これは、マリアにとっては、
わが子誕生の時の霊的体験からも、知っていて当然なのですけれど、それで
いて、この家の窮状をそっと息子に伝えて、すぐに応じてくれることを期待
するところなどは、やはり人間として、女としての弱さが生で出ています。
「親が乳離れしていない」などと、今日よく申しますが、マリアもその傾向
があったのでしょうか?
面白いことに、この福音書は最後まで、マリアという名を使いません。こ
れはイエスの母を引き取ることになったヨハネが、この人を自分の母のよう
に見て、ちょうどヤコブと自分の名を出さなかったのと同じように、マリア
の名も抑えているのだ……と見る人たちもいます。
それはともかく、イエスのお言葉は不思議な重みときびしさを持っていま
す。「女よ」という呼び掛けは、私情や肉のつながりを極度に抑えて、マリ
アを単に一人の女性として、一人の肉の人間として、弱い者として、呼び掛
けているのです。もちろん普通ならギリシャ語でもアラム語でも、ミーテル
とかインマー aM'ai(お母さん)と言ったものです。「女よ」
という呼び掛けは、すでに人の救主として立っておられたこの方が、自分の
母を、救いを必要とする一人の女性として見ておられたことを示します。今
や、人の生き死にに関すること、神の御意志に関することでは、主の母とい
えども口をさしはさむことはできない。すべてが天の父の意志によって行わ
れることで、父が定めた時間まではことは起こらない。イエスの決断と行動
は、(イエスの行動と見えながら)実は「生ける神」の決断と行動であるこ
とを印象づけます。マリアの関心は、このピンチにわが子が力を示して、ア
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ッと目を見張らせることでしたが、イエス自身の関心は、全てにおいて父の
意志に服することでした。
「わたしの“時”はまだ来ていません」は直接には、ぶどう酒の欠乏に対
処してどうやって助けておやりになるか、それはいつか……というその“時”
のことです。しかし、後にもう一度触れますように、この“時”は更に重大
な、重い意味をも持っています。
ところで、このままイエスが、この家の厨房のことにお関わりにならなか
ったのでしたら、この話は無いわけですけれど、なぜか故あって父の意志は、
ここでイエスを動かします。一つの意味ではその“時”はイエスの舌の根の
乾かぬうちに来たのです。でも、次の場面の切り出しのところ……水瓶の紹
介が、何かものものしいように思えませんか。
2.イエスが“しるし”を行われた時の描写。 :6-9a.
6.そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。い
ずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7.イエスが、「水がめに水
をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を
満たした。 8.イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っ
て行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9.世話役はぶど
う酒に変わった水の味見をした。
福音書は、確かに水であったものが上質のぶどう酒に変わったことを、宴
会長(宴会差配の奴隷がしら)が知って驚いた、という形で
記しています。宴会を仕切っていた経験者の証言で、示している訳です。こ
の時どんな順序で、どんな化学反応が起こったか……というような、奇跡の
プロセスには福音史家は全く触れません。ただ事実と、事実を見た人の驚き
だけを記します。そして、そのショックをそのまま読者に投げ掛けるのです。
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ぶどう畑で、植物の生命体の中で着実にあの奇跡を生む方が、そこにおられ
たことを、あなたは信じるか……。それとも、そんな方はそこにはいなかっ
たか……。栄光のシェヒナーが幕屋に満ちておったか。それとも、幕屋はた
だのテントであったか。
奇跡の内容については、いろんな想像ができるでしょう。かめの水か全部
ぶどう酒に変わってしまったのではなく、汲んで持って来る水差しの水だけ
が、運ぶ間に次々に変えられたと想像することもできます。この見方は、ル
カ伝に出て来る十人のらい病人が道を行く途中で清められたという所からヒ
ントを得ています。それに、合計して少なくとも 500 リットルものぶどう酒
をお作りになる必要があったか……という、常識からの疑問もあります。不
必要に余分な奇跡をなさる方ではなかったと。―これはまあ、一応筋が通
っています。ただ、水がめの容量と数をなぜ書いたのか? 普通は事実だけを
淡々と記すのが、福音書の流儀です。「石の水がめが六つ置いてあった。い
ずれも二ないし三メトレテス入りのものである」は、単なる状況描写として
は少し詳細、饒舌です。
そういう点を考えると、イエスがお与えになったものの豊かさ、汲み尽く
せない程の豊かさが、この人の貧しさと困窮をカバーして、何倍も何十倍も
余りがあったことを強烈に示すためであろう、と見る方が、尤もらしい節約
説などよりは、私には説得的に聞こえます。
とにかくイエスの意志で、水は水でなくなり、うまい上等のワインに変わ
った。これには、台所にいた奴隷たちもたまげたし、後から弟子たちもショ
ックを受けた。ヨハネは 60 年以上経って、まだそのショックを覚えています。
その時のことを思い起こすと、彼の胸が震えるのです。そして、神の栄光に
触れたショックは、十字架のショックまで、一繋がりになって続いているの
です。
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3.イエスがしるしを行われた後の驚きと結果。 :9-11.
驚きは皮相にとどまったでしょうが、これがきっかけで、イエスへの信頼
が固まった人たちもいた―というのが 11 節の意味でしょう。
9.世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから
来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが世話役は知らなかったの
で、花婿を呼んで 10.言った。「だれでも始めに良いぶどう酒を出し、酔い
がまわったころに劣ったものを出すものですが、……」
まあ、そういうケチな、客を馬鹿にした習慣が一般にあった……と言う人
と、いや、そうじゃなく、これは一種のユーモラスな誇張で、「後から二級
酒を出すという手はよくあるが、あなた様のは特級酒が、最後の仕上げに出
ますわけで」と、これはイエスがお与えになったワインの質に驚嘆した“通”
のユーモアと見てもよいでしょう。時にはそういう「あくどい」ことをする
人もいたから、こんな捻りもできた訳でしょうが、「後で質を落とすのが当
時広く行われた習慣だった」と取る必要はないと思います。ただただ驚いた
のです。余りに旨い上等のワインでしたから……。
「……始めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出
すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 11.
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現され
た。それで、弟子たちはイエスを信じた。
「信じた」―という原文のニュアンスは、日本語の「信じ
た」や英語の“believed”では表現し切れない微妙な意味合いを持っていま
す。“Penguin Books”というペーパーバックに福音書の訳文を出している
Rieu という人は、
“his disciples' faith in him was fixed.”と訳しています。
弟子たちのイエスにかけた信頼はこのとき決定的になったというか、固定し
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たというか、この時から弟子たちの信仰が本気で始まったのだというのがヨ
ハネの趣旨だと思います。
でも、その数は少なかったのです。大方は驚いたり、感心しただけでしょ
う。説明がつかないだけに、色々な想像もしたかも知れません。ただただ気
味悪く、悪魔の魔術を疑った人もあったかも知れません。その中で確かに、
イエスがガリラヤのカナで栄光を現したのを、見た人もいたのです。魂の深
みに何かがあって、神の栄光を見る準備のあった人に違いありません。これ
は今日でも、イエスに触れた人の上に起こります。
《 まとめと勧め 》
最初に、話の途中で皆さんの注意をうながした、二つのポイントに戻って、
もう一度この記事の中心点を眺め直してみたいと思います。
最初にも申しました通り、「しるし」= sign です。できごと自体はシン
ボルであって、イエス・キリストに関する本質的な何かを暗示しているよう
な、ショッキングなできごと。ヨハネによるとそのハシリというか“第一号”
がこれだったと言うのです。でも、symbol ― sign だということは、この
事件自体が“おとぎ話”だと言う意味ではありません。最近の研究家は大体、
こういう話から福音的感動を受けさえすれば、物語自体は作り話でも良い。
脚色でも良い。古い神話の改訂版でも良いのだ……そう言う人が多くなりま
した。「非神話化」と言う名で呼ぶのですが、そこまで割り切れる人は我々
の間でも、ボツボツ出てきました。判断は皆さんに委ねますけれど、私はや
はりヨハネの書き方から見て……少なくとも著者にこの文章を書かせた、こ
の福音書の背後に立つ使徒は、本当に見た出来事のショックを書いていると
思います。それは、イエスの行なわれた行為の中に、神ご自身の行為が確認
されたと言うのです。
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ところで、この記事の中心点に触れたいのですが、この文章自体の中に著
者の視点を見付けて、その意図を汲み取りませんと、「しるし」の解釈は勢
い恣意的に流れて、空想や主観のとりこになりかねません。もちろん、私の
捕らえ方も完全に正確だとは断言できません。聖書の取り次ぎというものは、
特にこういう箇所では、原文を自分なりに味読した上で、何人もの専門家や
先輩たちがどう見ているかを調べて、能力の範囲内で可能な判断を下すだけ
です。私の見る限りでは、これを書かせた人の指さす「しるし」を暗示する
ヒントは、二つあります。
(1)一つは、この時イエスが母に言われた言葉の後半です。「わたしの
時はまだ来ていません」と言われたところ、4 節の後半です。先程も言いま
したように、「私がぶどう酒を与える大事な瞬間はまだ来ていない。私はあ
なた(母上)の指示に従って人間的に行動するのではない。私の行動のすべ
てとその“時期”は天の父が決定なさる!」という意味になります。でも、
もしそれだけの意味で言われたとすれば、その“時期”は数分後か数十秒後
にすぐ来たことになります。マリアに反省と自制を命じるだけで良かった。
「わたしの時」―“My hour”は、次の瞬間にももう来た(!)ことにな
ります。ただこのあと、「彼の時」“His hour”とか、「その時」“the hour”
という言葉が、12 章や 13 章や 17 章でどんな風に使ってあるかを見ますと、
例えば……。
「人の子が栄光を受ける時“the hour”が来た。……一粒の麦は、地に落
ちて死ななければ、一粒のままである。」(12:23,24) そのあと、こうも
言われます。「『父よ、わたしをこの時から“from this hour”救ってくだ
さい』と言おうか。だが、わたしはまさにこの時“this hour”のために来た
のだ。」(12:27) 17 章の祈りの切り出しはこうです。「父よ、時が“the
hour”来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に
栄光を与えてください。」(17:1)イエスのお心の中では“the hour”とい
うのは、自分の命を与えて、それで神の栄光を示して、天の父の所へ帰る時
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のことでした。人の目にはそれはユダヤ人とローマ人の手による虐待と、悲
惨な「死の時」と映ったことでしょうが……。
ヨハネは 13 章の初めでこう言っています。「さて、過越祭の前のことであ
る。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時“His hour”が来たこ
とを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)
……これが、ヨハネ伝を流れる“His hour”,“the hour”を考えると、“My
hour”はまだ来ていません」と言われたとき、今ここで栄光を(ぶどう酒の
奇跡により)現す時と一緒に、もっと大きな決定的な栄光を現す時を二重写
しにして見ておられたと思われます。とすると、この物語の「しるし」とし
ての視点はどこにあるか……?
この話は「貧しい夫婦の婚礼を祝福なさった話」として感激するのも良い
し、愛の奇跡として見るのも自由ですけれど、中心はイエスが死なれる瞬間
とつながって初めて、イエスが地上から天の栄光へお帰りになるその時とつ
ながって、初めて意味があります。「カナで栄光を現された」というのは、
そんな方が今ここにおられる。人の罪を清めて人を天につなぐ方がそこにお
られた。それをこのとき見た人もいた。その事実をこの記録の中に確認しな
ければなりません。
(2) 第二のヒントは、先程 6 節の場面転換が「少し物々しくはないか」
と言ったところです。「そこには、ユダヤ人の清めに用いる石の水がめが六
つおいてあった。いずれも八十リットルないし百二十リットル入りのもので
ある。」これはフランシスコ会の訳文です。
「ユダヤ人の水がめ」がなぜここで注意を引かれるのでしょう。たまたま
そこに六個も大がめがあった事情の説明でしょうか―熱心なユダヤ教徒の
家であった? マルコ 7 章にもありますが、ファリサイ派など熱心派のユダヤ
人は、知らず知らずに汚れと接触して来ていることを恐れて、手の清めを徹
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底的にやってからでないと、パンに手を触れなかったと言います。また、杯
や食器等の口に触れるものは、清め用の水で注意深く洗うのが彼らの習慣で
した。汚れに汚染してはならない。もし汚染したならば、そのために宗教も
儀式もある。この水は、人間の本質的な汚さと死体の汚れへの恐怖、それと
その対策です。
ほかの普通の飲み水でも良かった筈です……ぶどう酒の原料は。いや、空
の杯でも水差しでも良かったのに、わざわざその儀式用の清めの水を持って
来させてぶどう酒になさった! まさにそのことの中に“しるし”を見よとヨ
ハネは言うのか?「それは思い過ごしだ」と言う人もいていいでしょう。で
も、Tasker や Morris はそこに“しるし”の鍵を見ています。もしこの見方
がヨハネの意図から遠くなければ……。
その汚れだけは、どんな清めも取り除けない。全く新しい命の力だけが、
人間の本当の清めをする。その贖いのシンボルをこのぶどう酒の中に見るの
は、果たして信仰者の目か、それとも連想過剰か……。ここは人によって違
うところです。でも、清めの水を全く別のものに変えてしまわれたのは、古
い宗教儀式の効力、罪の清めごっこの反復への“No!”であったとは考えら
れませんか……? パウロの言い方で言うなら、「人の義」の成果ではなく、
「神の義」の力だけが、人の汚れを清める……と。
先程、カナで栄光を見た人は、魂の深みに準備のあった人だと申しました。
自分の罪の姿と悲しさ、死の汚染とそこからの脱出の悲願を持つ人なら、今
日でもこの話の中に、きっと同じ“栄光”を見るでしょう。福音書の記者は
こう言います。「イエスはこれを“しるし”sign のハシリとして、ガリラヤ
のカナで行い、彼の“栄光”を現された。そして彼の弟子たちのイエスへの
信頼はこの日、決定的になった。」
(1985/06/02)
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《研究者のための注》
1.「三日目に」(:1)の数え方については二三の違った見方があります。Tasker と
Morris は、1章の 19-28 節をヨハネの活動の第一日、29 節以下を第二日、35 節以下
を第三日、39 節は「泊まった」という意味にを解釈して 41 節が第四日、43
節からナタナエルまでが第五日と見ています。「三日目」というのは、ナタナエルと
イエスの対話で終わる日から足掛け三日目と見て、カナの婚礼はヨハネ活動開始から
通算第七日、第六日は記事なし……という風に日付を全部文字どおりに取っています。
これに対し Schulz は「三日目」は、イエスのベタニア出発後三日目とします。ただ、
Schulz は「三日」という数字は福音書記者が編集上、時間の経過を作り出す接続句と
見なしているようです。
2.6節のかめの容量は、原文「2 ないし 3 メトレテ入りのもの 6 個」です。1 メトレテス
を何リットルとするかによる誤差もありますが、36~39 リットルと見て、全体で 432
リットルから 702 リットル。Schulz は 480~700 リットルとします。大体 500 ないし
700 リットルという所でしょうか。
3.「さあ、それを汲んで」(8)を私は、「かめの中から汲み出して」と理解しましたが、
少し変わった読み方として、Westcott はを「井戸から汲む」意味に取り、
六つのかめを満たした後で、更に井戸から汲み上げて運んだ分がぶどう酒に変えられ
たとします。
4.この婚礼でワインを作ってお与えになったイエスの姿や、ルカ 7:33「人の子が来て、
飲み食いすると」から推測されるアルコール性飲料に対するイエスの自由で囚われな
い態度と、その後米国のピュリタニズムが生んだ禁酒主義とはどう結びつくのか、現
代社会の中で自ら判断して選んだ禁酒の立場と、律法主義との違いはどこにあるのか
……これらの問題については、著者の「エフェソ書の福音」第 14 講「時を買う賢者」
(録音版)の後半で扱いました。この講解から 22 年後の教友社版「ローマ書の福音」
46 講「キリストはその兄弟のために死んだ」でも改めて、この問題に触れています。
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